レミー・ボンヤスキー

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レミー・ボンヤスキー(Remy Bonjasky、1976年1月10日 - )は、スリナム共和国パラマリボ出身のオランダキックボクサー。バックボーンはムエタイ。チームボンヤスキー所属。元ABNアムロ銀行勤務の銀行員という異色の経歴を持つ。

レミー・ボンヤスキー
基本情報
本名 レミー・ボンヤスキー
通称 ザ・フライ・ハイ
フライング・ジェントルマン
階級 スーパーヘビー級K-1
身長 192cm
体重 108kg
国籍 オランダの旗 オランダ
誕生日 (1976-01-10) 1976年1月10日(48歳)
出身地 スリナムの旗 スリナム
スタイル ムエタイ
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恵まれた体格に巧みな防御技術と高い身体能力を生かしたフライング・ニー(跳び膝蹴り)、フライング・ハイ(ハイキック)などの蹴り技が武器。K-1 WORLD GPで3度の優勝を果たしている。

来歴

2001年6月24日、日本で初の試合。K-1参戦後2戦目でレイ・セフォーに4RTKO勝ちし、脚光を浴びる。

2002年2月、エロル・パリスにKO負け。2002年7月、ミルコ・クロコップにKO負け。2002年8月、ステファンレコに判定負け。

2003年8月K-1WORLDGPinラスベガス最終予選、決勝でマイケル・マクドナルドに判定勝ちし優勝。

2003年10月11日、K-1 WORLD GP開幕戦でボブ・サップと対戦。ダウンを奪うが、ボンヤスキーがスリップして倒れた際にサップの反則攻撃を受け試合続行不可能となったため、反則勝ちで決勝トーナメントに駒を進める。

2003年12月6日、WGP決勝トーナメント準々決勝でピーター・グラハムを跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝でシリル・アビディをまたしても膝蹴りで1RKO勝ち。そして決勝武蔵を判定で破り、初優勝を果たした(WGPにおけるムエタイの選手としても初)。

2004年5月30日、一撃キックルールでフランシスコ・フィリォと対戦し、ダウンを奪われて判定負け。フィリォはこの試合の勝利を最後に現役を引退した。

2004年9月25日、K-1 WORLD GP 2004 開幕戦では、前年度王者ということで1回戦をシードされたため、スーパーファイトでと対戦し、ハイキックで3RKO勝ち。

2004年12月4日、アーネスト・ホースト、フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ、武蔵を破り2連覇を果たす。だが、ホースト戦の判定がおかしいと言う意見もあり、この判定については一部の格闘技雑誌でも疑惑の判定として取り上げられた。ボタとそのトレーナーのスティーブ・カラコダはホーストとレミーの試合を控え室で見ていて、レミーが判定で勝った時には驚いていた。 そして、次のボタ戦でも不可解な判定でレミーが勝利している。特にジャッジのうちの一人である御座岡正人の採点が「27.5-25.5でレミーを支持」という、明らかにボタへの採点が低すぎるものであった(通常、ダウンを奪えずに全3ラウンドで優勢だったとしても10-9が3回続いて30-27、そこにダウンを一つ奪ったのを追加しても30-26となり、ボタの採点は最大でも4ポイント減までが限界のはずだが、ダウン以外の場面は全てボタが完封していたにも関わらず、4.5ポイント減となっている)。 さらに、このトーナメントで決勝戦の相手となった武蔵もレミーと同様に疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、ファンや専門家から多くの批判と抗議を浴びた。 優勝後、レミーは「昨年のGPではホーストが欠場していた為優勝出来たのではないかと言われたが、今回はホーストを倒して優勝した事で、真の王者だと証明できて嬉しい。」とコメントした。

2005年1月、レイ・マーサーにハイキックで19秒でKO勝ち。

2005年4月30日、K-1ラスベガス大会でマイティ・モーと対戦。試合は全体を通してレミーが支配していたが、3Rに右フックでダウンを奪われたシーンがあったため微妙な判定で敗れた。 前年に続いて1回戦をシードされて迎えた11月19日の決勝大会の準々決勝ではチェ・ホンマンを判定で下すも、準決勝でセミー・シュルトに膝蹴りに苦しみ、自らしゃがみこんでダウンをするなどし1RKO負け。試合後、「4週間ぐらい前に怪我をしたところを攻められた。精神面じゃなく肉体面が敗因だ」、「王者のプレッシャーから解放された」とコメントした。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてザ・プレデターと対戦、プレデターの圧力に苦戦し劣勢となるも、判定2-1で勝利。 しかし、この試合についてはK-1ファンのみならず、関係者の間でも明らかにプレデターが勝っていたという意見が多く、会場では、不可解な判定に対して会場の観客からブーイングが起こった。 この試合の判定について、格闘技通信やkamiproなどでも露骨なレミー贔屓の判定だったと指摘されている。 K-1競技統括やレフェリーを務めている角田信朗はブログにて「立場上強くは言えないが、あの判定、ブーイングが出ても致し方ない」とこの試合の判定についてコメントした。 さらに、大会直後の記者会見にてK-1プロデューサーの谷川貞治も「プレデターの勝ちでも良かったと思います」とコメントしている。 数カ月後にチェ・ホンマン戦の直後に行われたインタビューにて当事者であるプレデターは「あの試合は俺が勝っていたんじゃないか?何度試合を見直しても俺の方が手数で上回っているし優勢だ。まあ仲間は俺の勝ちだと言ってくれているのでそれで良いが」と判定への不満こそ述べなかったが、自分が勝っていたとの見解を示している。

2006年5月13日、K-1アムステルダム大会のスーパーファイトでジェロム・レ・バンナと対戦。3Rにバンナの蹴りにより試合後には足を引きずるなど、ダメージを受けていたが、2-0の判定勝ちを収めた。しかしその後、バンナ側の抗議により、6月30日付でレミーの0-3の判定負けと記録が変更された[1]。同年7月30日、札幌大会では僅差で敗れたマイティ・モーと再戦を行い、ローキックなどでダメージを与えモーを完封して判定勝ち。リベンジを果たした。開幕戦ではピーター・アーツと対戦予定だったが、アーツが病気で欠場したため、試合の2日前に代役で出場が決まったゲーリー・グッドリッジと対戦し、KOで下し決勝大会への切符を手に入れる。決勝GPではステファン"ブリッツ"レコに2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、カウンターでダウンを奪い判定勝ち。だが金的のダメージが残っていたため、準決勝を棄権した。

2007年4月28日、K-1 WORLD GP 2007 in HAWAIIのスーパーファイトにてグラウベ・フェイトーザと初対戦し、2-0の判定勝ち。

2007年8月、ミルコ・クロコップチーム・クロコップのトレーニングにスパーリング・パートナーとして参加。

2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16にてステファン"ブリッツ"レコと対戦し、右跳び膝蹴りでKO勝ち。ただし、レコはダウンを喫した後、10カウント以内に立ち上がったにも関わらず、レフェリーが試合を止めた為、このKOには疑問の声もあった。

2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝でバダ・ハリに判定勝ちするも、準決勝でピーター・アーツに判定負け。

2008年4月26日、K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAMのスーパーファイトにてメルヴィン・マヌーフにKO勝ち。

2008年7月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEIのスーパーファイトでヴォルク・アターエフと対戦し、3RKO勝ち。

2008年9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16ポール・スロウィンスキーと対戦し、3Rにスロウィンスキーのラッシュで完全に動きが止まり、ラッシュをクリンチで逃れるなど、明らかにダメージを受けた素振りを見せ劣勢となるも、判定勝ち。 しかし、この不可解な判定について試合後、スロウィンスキーは不服を唱えていた。レミーもこの事に関して「彼が不服を唱えたのにもそれなりの理由があるのだろう。」とコメントしている。しかし、数日後に行われたインタビューでレミーはこの発言を撤回している。

2008年12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でジェロム・レ・バンナに3RドクターストップTKO勝利、準決勝でグーカン・サキに2RKO勝利を収め、決勝でバダ・ハリと対戦する。1Rにハリからダウンを奪ったものの、2Rに足を掴まれ倒されたところにハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)により、ダメージ回復のため試合が中断され、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴える。この反則行為によりバダ・ハリは失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。 対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘した。それに対して当のボンヤスキーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったという旨のことを述べている[2]

2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAアリスター・オーフレイムと対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにフラッシュダウン気味のダウンを奪い判定勝ち。しかし、3R以外のダウン以外は終始アリスターが圧倒しており、この試合の解説者全員が1Rと2Rはアリスターが優勢であると発言する程であったにも関わらず、1Rと2Rにアリスターにポイントが入らないと言う不可解な判定があった為、この試合の判定について批判が起こった。K-1プロデューサーの谷川貞治はこの試合について「ほとんどアリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントしている。[3]。試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。

2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16メルヴィン・マヌーフと対戦し、判定勝ち。

2009年12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でエロール・ジマーマンに判定勝ち。準決勝でセミー・シュルトと対戦し、1R開始直後に左フックでフラッシュダウン気味のダウンを奪うも、シュルトのラッシュにより、2度のダウンを奪い返されてKO負けし、連覇ならず。

2010年8月、網膜剥離の手術を受け、成功した[4]。以後は自身が経営するボンヤスキー・アカデミーでダニョ・イルンガら後進の指導をしつつ、欧州のキックボクシング団体であるIT'S SHOWTIMEのリポーターなどを務めながら、あと1試合で現役を引退することを表明し、引退試合をK-1かIT'S SHOWTIMEのどちらかで行うべく、両天秤にかけて契約交渉を行っていたが、IT'S SHOWTIMEのCEOサイモン・ルッツが「誰も彼の要求額は支払えない」と語るほど巨額なファイトマネーを要求したため、結局引退試合を行わないまま一度目の現役引退となった[5]

2012年に入り、IT'S SHOWTIMEを買収したGLORYと契約し、同年10月6日にブリュッセルで開催のGLORY 2にて2年10ヶ月ぶりの現役復帰戦でアンダーソン・ブラドック・シルバと対戦し、延長戦の末に4-1の判定勝ち[6]。なお、試合後の談話にてブラドックは判定に対して不満を述べた[7]

2012年12月31日、DREAM.18 & GLORY 4のGLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012にて、1回戦でフィリップ・ヴェルリンデンに2分3R判定143-142の1ポイント差で判定勝ち。準々決勝でジャマール・ベン・サディックに2分2R判定90-100で判定負け。

2013年3月23日、GLORY 5 LONDONにてタイロン・スポーンに2RKO負け[8]

2013年12月21日、有明コロシアムで行われたGLORY 13 TOKYOにて、日本で最後となる試合を行いアンダーソン・ブラドック・シルバと再戦。蹴りを有効に使いシルバを攻めるが、物議を醸す判定により判定負け、会場では判定が発表されるとざわつきが起こった。レミーは苦笑いをしながらもファンに日本語で感謝の気持ちを伝えた。

2014年3月8日、アレナ・ザグレブで行われたGLORY14 ZAGREBにて、ミルコ・クロコップと再戦。お互いに見せ場を作れず、精彩を欠いた内容となったが、2-0で判定勝ち。

人物・エピソード

  • スリナムパラマリボに生を享け、5歳のときにオランダティルブルフへと移住[9]
  • 少年時代はサッカーに打ち込んでおり、16歳の頃まではオランダを代表する名門クラブ・アヤックスの下部組織でプレーしていた。このときの同期に世界的サッカー選手のクラレンス・セードルフパトリック・クライファートがいる。
  • アレクセイ・イグナショフと並んでK-1きってのインテリファイターとして知られており、格闘雑誌のインタビューで国立大学出身で数学を専攻していたと語っている。
  • 2003年に結婚するが、2005年に離婚。2004年2月に長男が生まれ、モハメド・アリの本名から取って「カシアス」と名付けた。
  • 2004年にアーネスト・ホーストに疑惑の判定で勝利した後、疑惑の判定負けに納得しないホーストに対して『諦めろ』とコメントしている。
  • 2006年にジェロム・レ・バンナに疑惑の判定により勝利した後、バンナ陣営の抗議によって裁定が覆った事について、レミーは『ファイターならば、会場で判定が言い渡された時点で負けを受け入れるべきだ。真のファイターは判定に文句を言わないものだ。』とコメントし、判定に抗議をしたバンナを批判した。しかし、実はレミー自身も2005年のアレクセイ・イグナショフ戦前後のインタビューにて、過去にイグナショフに判定で敗れた事について、判定が正当な物ではなかったとして自分が勝っていたと主張している。また、2006年のステファン・レコ戦前のインタビューでも、過去にレコに判定負けした試合についても、自分が勝っていたと主張している。
  • セミー・シュルトについては『シュルトは王者だったけど、それがファンに伝わっていなかった。ルックスも王者らしくないし、トークもできない。しかもファイトスタイルはつまらない。』と酷評し、2007年の開幕戦後のインタビューでは『セミー・シュルトと戦いたい』、『今ならシュルトに勝てると思う』とコメントしている。しかし、2008年のシュルト不在時に優勝した後には、『GPで十分に自分の強さは示したと思うし、今更セームと戦いたいとは思わない』とコメントしている。この事について、K-1携帯公式サイトにて、『レミーはシュルトから逃げているのではないか?』という質問を受けたK-1プロデューサーの谷川貞治は『僕もレミーはシュルトとの対戦をかなり嫌がっていると思いますよ。』とコメントし、レミーがシュルトから逃げたということを肯定する発言をしている。

評価

  • K-1ファンのみならず選手や関係者の間でも王者としてのレミーの実力を疑問視する声は非常に多く、格闘技ウェブマガジンGBRでも、『かつてのアーツやホーストのような高い評価を得られていないのも事実』と評されている[10]
  • 2度目の優勝を果たした2004年のWGPでは、前年度王者ということで開幕戦を免除され、決勝大会からの出場となり、1回戦をシードされた。(なお、翌2005年も1回戦をシードされており、K-1史上全てのトーナメントにおいて開幕戦を免除された選手は2004年と2005年のレミーのみである。)決勝大会では、前述のように準々決勝のホースト戦、準決勝のボタ戦と疑惑の判定勝利によって決勝に進出し、さらに決勝の対戦相手の武蔵 (格闘家)もレミーと同様に準々決勝と準決勝で疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、大会終了後には、K-1のジャッジに対する批判が相次ぎ、K-1公式サイトで、疑惑の判定の検証が発表されると言った異常事態となった。その為か、その年のオランダ格闘技界の年間MVPはエロル・パリスアジス・カトゥーグーカン・サキ(この時のサキは無名であり下積み時代であった)、ゲーリー・ターナーと言った無名選手にしか勝利していないバダ・ハリとなるなど、優勝は果たしたものの、『レミーは王者になるような実力ではないのではないか』という声がさらに強まる結果となった。
  • 3度目の優勝を果たした2008年のWGPでは開幕戦のポール・スロウィンスキー戦で3Rに追い込まれながらも、またしても疑惑の判定勝ちを収めた事。そして、WGP決勝では準々決勝の対戦相手のバンナが試合前から左腕を負傷していた為、ピーター・アーツエロール・ジマーマンと言った強豪と対戦していたバダ・ハリに比べて、組合せに恵まれていた面もあり、更に決勝のバダ・ハリ戦での勝利が反則による決着であった為、またしてもレミーの実力を疑問視する声が上がった。
  • レミー本人は、こういったレミーの実力を疑問視する声について、2009年のジマーマン戦前のインタビューにて『私が優勝するといつも文句が出る。』とコメントしている[11]

2度にわたる名誉賞の受賞

2007年の7月の終わり頃、アムステルダムの市中で通り魔事件に巻き込まれたボンヤスキーは、その犯人らの逮捕劇にて大立ち回りを演じることとなる。2名のイギリス人らがアムステルダムの街中で車中から通行人に対して無差別にボウガンの矢を放ったという事件で、その被害者の一人(結果として最後の被害者)となったボンヤスキーは、即座に犯人らの車を追跡し、そのまま犯人らを取り押さえたうえで、警官らが到着するまで待機。犯人らはそのまま逮捕された[12]。 著名な格闘家の誉れ高き快挙としてアムステルダム市警はこれを顕彰し、ボンヤスキーは市警から栄誉のメダルを授与された[13]

 
笑顔を見せるボンヤスキー

2009年にはアルメレ市の名誉市民賞を受賞。格闘技における功績を認められてのことであった[14]。 このアルメレ市は、その翌2010年に自身のキックボクシング/ムエタイジム“ボンヤスキー・アカデミー”を開業することになる町でもあり[15]、更には防犯対策の講師として大学で講義を行い、新たに発足したその専門プロジェクトの主任を務めるなど[16]、なにかとゆかりの深い町でもある。

ファッションブランドの顔

2010年にはオランダ発の下着ファッションブランド「Sapph」のモデルに抜擢され、このブランドの男性部門のニューフェイス(イメージキャラクターのようなもの)に就任[17]。 このブランドの女性部門のモデルを務める元水泳選手のインヘ・デブルーインとともにたびたびメディアに登場している[18]

2011年の初めにはオランダの有名テレビ番組「ステレン・ダンセン・オプ・ヘット・アイス」に登場[19]。 イギリスの「ダンシング・オン・アイス」のオランダ版にあたるこのテレビ番組は、著名人同士がカップルを組んでスケートを行うという趣旨のもので、ボンヤスキーはこれの第4回放送に登場し、ともにSapphのモデルを務めるデブルーインの見守るなかで氷上の舞いを披露した[20][21]

戦績

キックボクシング 戦績
95 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
77 40 37 0 0
18
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× アンダーソン・ブラドック・シルバ 3R終了 判定 GLORY 13 TOKYO 2013年12月21日
× タイロン・スポーン 2R 2:02 KO(右ストレート) GLORY 5 LONDON 2013年3月23日
× ジャマール・ベン・サディック 2R終了 判定90-100 DREAM.18 & GLORY 4
【GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012 準々決勝】
2012年12月31日
フィリップ・ヴェルリンデン 3R終了 判定143-142 DREAM.18 & GLORY 4
【GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012 1回戦】
2012年12月31日
アンダーソン・ブラドック・シルバ 3R+延長1R終了 判定4-1 GLORY 2 2012年10月6日
× セミー・シュルト 1R 2:28 KO(2ノックダウン:右ストレート) K-1 WORLD GP 2009 FINAL
【WORLD GP 準決勝】
2009年12月5日
エロール・ジマーマン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2009 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2009年12月5日
メルヴィン・マヌーフ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2009年9月26日
アリスター・オーフレイム 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA 2009年3月28日
バダ・ハリ 2R 0:53 反則失格(倒れた相手への攻撃) K-1 WORLD GP 2008 FINAL
【WORLD GP 決勝】
2008年12月6日
グーカン・サキ 2R 0:53 KO(右フライングミドルキック) K-1 WORLD GP 2008 FINAL
【WORLD GP 準決勝】
2008年12月6日
ジェロム・レ・バンナ 3R 1:46 TKO(ドクターストップ:左上腕負傷) K-1 WORLD GP 2008 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2008年12月6日
ポール・スロウィンスキー 3R終了 判定2-0 K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2008年9月27日
ヴォルク・アターエフ 3R 0:33 KO(右跳び膝蹴り) K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEI
【スーパーファイト】
2008年7月13日
メルヴィン・マヌーフ 3R 2:32 KO(右ハイキック) K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAM
【スーパーファイト】
2008年4月26日
× ピーター・アーツ 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2007 FINAL
【WORLD GP 準決勝】
2007年12月8日
バダ・ハリ 3R終了 判定2-0 K-1 WORLD GP 2007 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2007年12月8日
ステファン"ブリッツ"レコ 1R 2:50 KO(右跳び膝蹴り) K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2007年9月29日
グラウベ・フェイトーザ 3R終了 判定2-0 K-1 WORLD GP 2007 in HAWAII
【スーパーファイト】
2007年4月28日
ステファン"ブリッツ"レコ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2006年12月2日
ゲーリー・グッドリッジ 3R 0:52 KO(左ハイキック) K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦
【WORLD GP 1回戦】
2006年9月30日
マイティ・モー 3R終了 判定3-0 K-1 REVENGE 2006
K-1 WORLD GP 2006 IN SAPPORO
〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜
2006年7月30日
× ジェロム・レ・バンナ 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAM
【スーパーファイト】
2006年5月13日
ザ・プレデター 3R終了 判定2-1 K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! 2005年12月31日
× セミー・シュルト 1R 2:08 KO(2ノックダウン:左膝蹴り) K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦
【WORLD GP 準決勝】
2005年11月19日
チェ・ホンマン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2005年11月19日
アレクセイ・イグナショフ 3R+延長R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦
【スーパーファイト】
2005年9月23日
リカルド・ノードストランド 3R終了 判定3-0 K-1 Fighting Network K-1 SCANDINAVIA 2005 2005年5月21日
× マイティ・モー 3R終了 判定1-2 K-1 WORLD GP 2005 IN LAS VEGAS
【スーパーファイト】
2005年4月30日
レイ"マーシレス"マーサー 1R 0:22 KO(右ハイキック) K-1 WORLD GP 2005 IN SEOUL
【スーパーファイト】
2005年3月19日
武蔵 3R+延長2R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2004 決勝戦
【WORLD GP 決勝】
2004年12月4日
フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2004 決勝戦
【WORLD GP 準決勝】
2004年12月4日
アーネスト・ホースト 3R+延長R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2004 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2004年12月4日
3R 0:33 KO(右ハイキック) K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦
【スーパーファイト】
2004年9月25日
アジス・カトゥー 2R 1:59 TKO(レフェリーストップ:左手首負傷) K-1 WORLD GP 2004 in SEOUL
【スーパーファイト】
2004年7月17日
フランソワ"ザ・ホワイトバッファロー"ボタ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYA 2004年6月6日
× フランシスコ・フィリォ 3R終了 判定0-3 一撃 〜極真 vs K-1 全面対抗戦〜
【一撃キックルール】
2004年5月30日
中迫剛 3R 2:54 KO(3ノックダウン:左ハイキック) K-1 BURNING 2004 〜沖縄初上陸〜 2004年2月15日
武蔵 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2003 決勝戦
【WORLD GP 決勝】
2003年12月6日
シリル・アビディ 1R 1:46 KO(2ノックダウン:左跳び膝蹴り) K-1 WORLD GP 2003 決勝戦
【WORLD GP 準決勝】
2003年12月6日
ピーター・グラハム 1R 2:58 KO(2ノックダウン:右上段膝蹴り) K-1 WORLD GP 2003 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2003年12月6日
ボブ・サップ 2R 1:20 反則失格(倒れた相手への攻撃) K-1 WORLD GP 2003 開幕戦 ALL STARS
【WORLD GP 1回戦】
2003年10月11日
マイケル・マクドナルド 3R+延長R終了 判定2-1 K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス
【世界最終予選 決勝】
2003年8月15日
ジェフ・フォード 1R 1:28 TKO(レフェリーストップ:右肩負傷) K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス
【世界最終予選 準決勝】
2003年8月15日
ヴァーノン"タイガー"ホワイト 1R 1:55 KO(右フライングハイキック) K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス
【世界最終予選 1回戦】
2003年8月15日
× セミー・シュルト 5R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2003 in 福岡 2003年7月13日
ビヨン・ブレギー 3R 1:29 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2003 in さいたま 2003年3月30日
アントニー・ハードンク 5R終了 判定3-0 IT'S SHOWTIME 6 "As Usual" 2002年9月29日
× ステファン・レコ 5R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2002 in ラスベガス
【スーパーファイト】
2002年8月17日
× ミルコ・クロコップ 2R 2:06 TKO(レフェリーストップ:パンチ連打) K-1 WORLD GP 2002 in 福岡 2002年7月14日
ピーター・マエストロビッチ 4R 0:27 KO(右ハイキック) K-1 WORLD GP 2002 in パリ 2002年5月25日
× エロル・パリス 1R 1:20 KO(左ボディフック) K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会
【オランダ地区予選 準決勝】
2002年2月24日
メルヴィン・マヌーフ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会
【オランダ地区予選 1回戦】
2002年2月24日
セルゲイ・アルヒポフ 5R 2:00 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 マルセイユ大会
【スーパーファイト】
2002年1月25日
レイ・セフォー 4R終了時 TKO(タオル投入) K-1 SURVIVAL 2001 〜JAPAN GP 開幕戦〜 2001年6月24日
× ジェレル・ヴェネチアン 3R終了 判定1-2 K-1 WORLD GP 2001 世界地区予選 オランダ大会
【オランダ地区予選 1回戦】
2001年2月4日
ピーター・ヴァルガ 1R 2:57 KO(跳び膝蹴り) IT'S SHOWTIME 4 2000年12月12日
× ジェレル・ヴェネチアン 5R 判定0-3 IT'S SHOWTIME 3 - Exclusive 2000年10月22日
アティラ・カラチ 1R KO Battle of Arnhem II 2000年9月3日
スタニスラブ・バチェバノフ 2R KO Thaiboxing - Thrill of the Year! 2000年5月20日
アイハン・オズチェリカ 2R TKO(レフェリーストップ) IT'S SHOWTIME 1 1999年10月24日
ピーター・フェルスキューレン 1R KO Battle of Arnhem I
【決勝】
1999年9月5日
フランク・オットー 1R TKO(レフェリーストップ) Battle of Arnhem I
【1回戦】
1999年9月5日
ラニ・ベルバーチ 2R KO 不明(オランダ)
【WPKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチ】
1999年6月6日
× アレクセイ・イグナショフ 3R終了 判定0-3 WPKL Muay Thai Fight Night
【WPKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチ】
1998年
× ロイド・ヴァン・ダム 3R終了 判定 KO POWER Tournament
【決勝】
1998年4月14日
ピーター・フェルスキューレン 3R終了 判定 KO POWER Tournament
【1回戦】
1998年4月14日
ヴァレンタイン・オーフレイム 2R TKO(タオル投入) 不明(オランダ) 1995年

獲得タイトル

  • WPKA世界ムエタイ スーパーヘビー級王座
  • K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス 世界最終予選 優勝
  • K-1 WORLD GP 2003 優勝
  • K-1 WORLD GP 2004 優勝
  • K-1 WORLD GP 2008 優勝

出演映画

  • 『拳 アルティメット・ファイター』(2006年)

脚注

  1. ^ 「ジェロム・レ・バンナ選手側からの判定に対する異議申し立てについての回答」 K-1公式ウェブサイト 2006年6月30日
  2. ^ "K-1 WGP 08 Post-Event Interview with Remy Bonjasky & Comments from Sadaharu Tanikawa" 2008年12月7日 SHERDOG (英語)
  3. ^ 谷川貞治EPの総括 スポーツナビ 格闘技速報
  4. ^ 【K-1】10・2バダ・ハリが暴行容疑を晴らすため、ボンヤスキーが網膜はく離のため欠場 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月19日
  5. ^ ルッツ会長インタビュー「我々は『K-1後』を考えていますよ」 - boutreview・2011年1月26日
  6. ^ 【Glory02】復活レミーは苦しみ抜いて、シウバを延長判定で下す MMAPLANET 2012年10月7日
  7. ^ 【Glory02】レミー・ボンヤスキー、グーカン・サキらの試合後の談話 MMAPLANET 2012年10月8日
  8. ^ レミー・ボンヤスキー、世代交代マッチで失神KO負け 3.23グローリーロンドン大会 スポーツナビ 2013年3月25日
  9. ^ "Biography of Remy Bonjasky" SurinamStars (オランダ語)
  10. ^ 【K-1】セミー・シュルトが大活躍のバダ・ハリをKOし、史上最多タイ4度目の優勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月5日
  11. ^ 【K-1】セミー・シュルトが大活躍のバダ・ハリをKOし、史上最多タイ4度目の優勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月5日
  12. ^ "Drugs, Geld en Vuurwapen in huis pijltjesschutters (31-07-2007)" 2007年7月31日 アムステルダム市警 (オランダ語)
  13. ^ "Bonjasky krijgt medaille van politie" 2007年7月31日 Omroep Flevoland (オランダ語)
  14. ^ 「レミー・ボンヤスキーがアルメレ名誉市民賞受賞」 K-1公式ウェブサイト 2009年1月23日
  15. ^ "Twijfels bij Remy Bonjasky" 2010年11月19日 Almere Vandaag (オランダ語)
  16. ^ "Remy Bonjasky opent ‘vandalismeproject’ op Baken Stad College!" 2010年11月26日 De Echo (オランダ語)
  17. ^ "Exclusief! Remy Bonjasky uit de kleren voor Sapph" 2010年10月24日 グラマー (オランダ語)
  18. ^ "K-1 fighter Remy Bonjasky het gezicht van Sapph Men" 2010年10月11日 グラマー (オランダ語)
  19. ^ "De jury van Sterren dansen op het IJs is bekend" 2011年1月13日 テレグラーフ (オランダ語)
  20. ^ "Modellen dansen op het IJs" 2011年2月4日 グラマー (オランダ語)
  21. ^ len dansen op het IJs"] 2011年2月4日 グラマー (オランダ語)

外部リンク