エドゥアール・モルティエ

これはこのページの過去の版です。ラサール (会話 | 投稿記録) による 2020年3月3日 (火) 01:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎生涯)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

エドゥアール・アドルフ・カシミール・ジョゼフ・モルティエ (Édouard Adolphe Casimir Joseph Mortier, 1768年2月13日 - 1835年7月28日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期の軍人。帝国元帥。7月王政期の1834年から首相を務めた。

エドゥアール・アドルフ・カシミール・ジョゼフ・モルティエ
Adolphe Édouard Casimir Joseph Mortier
エドゥアール・モルティエ
生年月日 (1768-02-13) 1768年2月13日
出生地 フランス王国カトー=カンブレジ
没年月日 (1835-07-28) 1835年7月28日(67歳没)
死没地 フランスの旗 フランス王国パリ
前職 帝国元帥
所属政党 無党派

在任期間 1834年11月18日 - 1835年3月12日
国王 ルイ=フィリップ
テンプレートを表示

生涯

モルティエは1765年2月13日カトー=カンブレジに生まれた。

1791年、23歳の時に軍に入隊した。

フランス革命戦争時の1792年93年にかけて北部方面軍に所属し、オランダ侵攻の一翼を担った。その後、マース川ライン川方面で戦い、マインツ要塞に進軍した。そしてマインツ要塞に籠る敵軍と交渉を行い、見事に降伏させることに成功した。その後、パリに帰還した。

1799年第二次対仏大同盟が結成されると各地を転戦し、旅団長師団長と続けて昇進した。第二次チューリッヒ戦争では、8,000人の軍勢を率いてディーディゴンを発ち、ハノーファーに侵攻、同地を占領した。彼の決定的な活躍により、アルトレンブルク協定が結ばれた。これにより、ハノーファー選帝侯国はフランスに降伏、ハノーファー軍は解体された。

1804年、皇帝親衛隊砲兵部隊、及び海軍の軍団長に任命された。

同年、一連の活躍により第一回元帥名簿に記載され、5月19日ナポレオンから元帥に任命された。

同年6月14日レジオン・ドヌール第2コールト・コマンダン勲位を授与された。

1805年2月2日、レジオン・ドヌール・グラン・テグル勲位、ポルトガルのキリスト騎士団騎士勲位を授与した。同年8月30日、皇帝親衛隊歩兵部隊軍団長に任命された。

同年9月20日から始まったウルム戦役ではグラン・タルメの臨時統制軍である第8軍団を指揮した。ナポレオンは北方に向かって陽動作戦を行ったが、彼の部隊は余りにも進軍しすぎた為に他軍団から孤立してしまった。ロシアのクトゥーゾフ将軍はこれを見逃さず、テオドール・ガザン将軍率いる第2師団を巧みに誘引すると彼らを挟み撃ちにした。モルティエは急いでピエール・デュポン将軍率いる第1師団を派遣し、11月11日、デューレンシュタインの戦いが起こった。両軍は夜通し激しく衝突したが、モルティエとデュポンは何とかガザンの救援に成功した。味方は10,000人中、4,000人近く[1]が死傷したが、敵軍も24,000人中4,000人近くが死傷し、フランス軍の辛勝に終わった。[2]

1806年第四次対仏大同盟が結成されるとモルティエは再び第8軍団の軍団長に任命された。10月16日ルイ・ボナパルト率いるオランダ軍と共にヘッセン選帝侯国に進駐し、同国を占領した。ヘッセンはヴェストファーレン王国に組み込まれた。その後、11月22日ハーメルンに侵攻し、同地を占領した。この際に10,000名ものプロイセン兵を降伏させた。さらに11月29日ニーンブルク/ヴェーザーを占領し、2,911人のプロイセン兵を捕獲した。その後、ハンブルクブレーメンと続けざまに侵攻、占領した。さらにアンクラムフリートラントで戦い、コルベルクを包囲した。

1808年7月2日、一連の活躍により、トレヴィゾ公爵となった。短期間同地に滞在後、半島戦争の為スペイン方面に派遣された。半島戦争では第5軍団を率い、同年11月30日にはソモシエラで戦った。

1809年ランヌ元帥のサラゴサ攻囲戦を支援し、8月8日にはスールト元帥と共にアルゾビスポで戦った。同年11月9日にはオカーニャの戦いに参戦し、同戦の大勝に貢献した。

1810年にはアンダルシアに侵攻し、バダホース及びフエンテ・デ・カントスで戦った。

1811年ヘローナ及びカンポマイオールで戦い、5月にフランスに召還された。そして、新参親衛隊司令官に任命された。

1812年に勃発したロシア遠征では親衛隊を率いて、ボロジノで戦いモスクワ総督となった。撤退時は初日に殿軍を務め、クラスノエ、ベレジナで戦った。

1813年にはリュッツェンバウツェンドレスデンライプツィヒで戦い、12月に古参親衛隊司令官に任命された。

1814年フランス国内戦役では主に後衛部隊を率い、マルモンと共に各地を転戦、顕著な働きを見せた。 ナポレオンが第6次対仏同盟に降伏すると、ブルボン王家の下で6月1日に聖ルイ騎士勲位を授与され、6月4日にはフランス貴族の一員となった。そして、6月21日にはリールの第14軍管区司令官に任命された。

1815年、ナポレオンがセントヘレナから脱出するとブルボン王家を国境まで護送した後に、ナポレオンの下に復帰した。そして、再び古参親衛隊の指揮権を与えられた。しかし、ボーモンで坐骨神経痛を患い、ワーテルローの戦いには参戦出来なかった。

その後、ブルボン王家が帰還すると、同年7月24日に貴族名簿から削除、12月27日には第16軍管区司令官の職も解かれた。

1817年には同職に復帰した。[3]

1819年には貴族議員に任命された。

1825年には聖十字勲章を賜った。

1830年1831年にはサンクトペテルブルクロシア大使を務めた。

1834年陸軍大臣及び首相に任命された。

1835年、モルティエは国王ルイ・フィリップの記念パレードに参加し、国王の護衛を担う国民衛兵の閲兵を行っていた。一行がタンプル通りに差し掛かった時に突然、激しい閃光と轟音が辺りに響き渡り、[4]次々と衛兵が倒れた。その中にはモルティエも含まれていた。[5]モルティエはすぐにその死が確認された。享年67歳であった。温厚篤実な人柄で数多の人間に愛された彼の死は、多くの心からの悲しみを集めた。

人物像

 
エドゥアール・モルティエ

無口で思慮深く、温厚な性格であった。又、人当たりが良い為、多くの同僚、部下に信頼された。

勇気だけでなく、冷静な頭脳も兼ね備えた知勇兼備の将であった。

脚注

外部リンク

  1. ^ 大半がガザン指揮下の兵士
  2. ^ 損害が大きかった為、12月2日に起こったアウステルリッツの戦いには参戦出来なかった。
  3. ^ ブルボン王家に忠誠を誓っており、百日天下においても大した行動を示さなかった為。
  4. ^ 刺客は3階の窓からボレーガンによる射撃を行った。
  5. ^ 18名が死亡し、20名以上が怪我を負った。国王は軽傷を負ったものの一命を取り止めた。