竹之内雅史
竹之内 雅史(たけのうち まさし、1945年3月15日 - )は、神奈川県横須賀市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。現在は羽衣国際大学総監督。
羽衣国際大学 総監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横須賀市 |
生年月日 | 1945年3月15日(79歳) |
身長 体重 |
175 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手、外野手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト3位 |
初出場 | 1968年6月9日 |
最終出場 | 1982年5月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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来歴・人物
鎌倉学園では3年次の1962年に5番・二塁手として春の選抜に出場し、エース・永田善一(大毎)の好投で豊浦高と県岐阜商を連破して準々決勝に進出したが、日大三高の井上治男(早大-日本石油)→豊永邦男両投手の継投に0-1で完封を喫する[1]。同年の夏の甲子園神奈川大会では決勝で慶應高に敗退したが、この試合では1年下の半沢士郎がリリーフで登板。卒業後は1963年に日本通運浦和へ入社し、エース・田中章を擁して1964年の都市対抗に出場。1回戦の電電北陸戦では本塁打を放つなど順調に勝ち進み、決勝でも田中と日本コロムビアの近藤重雄が投げ合うが0-2で快勝、チームは初優勝を飾る[2]。同年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された社会人野球選抜と米国大学選抜との試合にも出場し、その後も1965年・1966年・1967年と都市対抗に4年連続出場。1967年には社会人ベストナインに三塁手部門で選出された。
同年のドラフト3位で西鉄ライオンズに入団。1年目の1968年から一軍に上がり、8月には三塁手の定位置を獲得。同年に38試合に先発出場すると、2年目の1969年には中堅手に回って打線の中軸を任せられる。3年目の1970年には三塁手に戻り、初めて規定打席(25位、打率.231)に到達する。1971年は5番打者に定着するが、6月に故障してシーズン後半を棒に振った。1972年には復活して外野手、一塁手を兼ね、4番打者としても36試合に起用される。1973年と1974年は一塁手に専念するが、1975年に土井正博が一塁手に回ったこともあり、その後は一塁手、三塁手、外野手、指名打者を転々とした。1977年には自己最多でレロン・リー、ボビー・ミッチェルに次ぐリーグ3位の26本塁打を放つ。ライオンズでは「中西太二世」と呼ばれ、土井、基満男、大田卓司、東田正義らと共に低迷期のライオンズの中心打者として活躍した。特に同期の東田とはトンタケ・コンビとして親しまれた[3]。バッティングに関してはとにかく凝り性で、毎試合のようにバッティングフォームを変え、「猫背打法」「マサカリ打法」など独特の打撃フォームを経て、バットを斜めに寝かせ小刻みに揺らす独特の踏み込むバッティングフォーム(通称「竹之内打法」。中西太の指導によるものとされる)を完成させた[4]。そのバッティングフォームは阪神に移籍後、関西のお笑い芸人や阪神ファンの少年[5]によく物まねされた。 腕っぷしの強さで長打もあったが[3]、好球必打で四球は少ない[3]。逆に死球は通算166と極めて多く、1970年5月24日の阪急戦(小倉)での1試合3死球はプロ野球記録である。何度も怪我に泣き年間フル出場は一度もなかった[3]。当時のライオンズの給料があまりにも安かったため、オフシーズンには「竹之内球場」という焼き鳥屋のおやじをやっていた。1979年、田淵幸一・古沢憲司とのトレードで真弓明信・若菜嘉晴・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍し、開幕から4番打者に座る。5月には5番に回るが、オールスター前に17本塁打を放った[3]。同年は主に右翼手として起用され、自己最高の打率.282(20位)・25本塁打の好記録を残す。1980年は4月17日の広島戦(甲子園)で江夏豊からサヨナラ本塁打、5月27日の中日戦(甲子園)で金井正幸からサヨナラ満塁本塁打を放つ。その後は肋骨を折ってしまったが、復帰した7月5日の大洋戦(甲子園)でサヨナラ安打を放つ。しかし、1981年5月10日のヤクルト戦(神宮)で松岡弘から死球を右手に受けに骨折[3]。それが元で低迷し、1982年5月19日のヤクルト戦(甲子園)で試合後に引退を表明。同年引退[6]。
引退後は阪神で二軍打撃コーチ(1983年 - 1984年)を務め、1985年には一軍打撃コーチ補佐に昇格し、21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に貢献。1987年6月6日には監督の吉田義男と衝突してシーズン途中で退団し[7]、退団後の1988年は東海ラジオ・サンテレビ解説者、スポーツニッポン評論家を務めた。1989年にはダイエーの一軍打撃コーチに就任した。1990年は一軍総合打撃コーチを務めて岸川勝也・広永益隆・吉永幸一郎を指導したが、かつてのトレード相手である田淵幸一と対立し、シーズン途中に退団。大洋→横浜では二軍打撃コーチ(1991年・1993年 - 1995年)、一軍打撃コーチ(1992年)、二軍チーフ打撃コーチ(1996年)、二軍監督(1997年 - 1998年)を務めた。大洋入団時には前任のダイエーを自由契約になった畠山準をテスト入団させて、後にレギュラーに定着させた。鈴木尚典・佐伯貴弘・多村仁志も指導し、特に鈴木は恩師と慕い[3]、佐伯は「やはりマウンド上のプロの投手と対戦するとボールのキレがアマとは段違いでした。そんな僕を鍛えてくださったのが当時ヘッド兼打撃コーチだった長池さん、外野守備走塁コーチだった弘田さん、二軍打撃コーチだった竹之内さん、長く現役を続けることができたのも、この3人が僕の基礎をつくってくれたからにほかなりません」と語っている[8]。多村は「二軍打撃コーチだった竹之内雅史さんは『打ち方、構え方は何でもいい』という方針。打席ごとに変えていました。長打力が備わったのは竹之内さんのおかげです。球団からは『右打者の長距離砲がいない。多村、お前がやれ!』といわれて、竹之内さんとボールを真上に打つ練習から始まり、夜間練習もよくやった。そうするうちに急に打球が飛ぶようになった。それが自分の打撃の基礎になりました」と述べている[9]。1998年、一軍のリーグ優勝の2日前に育成部の二軍バッテリーコーチの辻恭彦と共に呼ばれて、球団社長の大堀隆ら「来年は契約せんよ。」と通告され、辻は「もうちょっと待てば優勝味わえるのに意地悪ですよね。もうベテランを大事にしてほしいよな。竹之内とボヤいていました。」[10]と述べている。1999年から2001年までは統一ライオンズ打撃コーチを務め、2000年には代理監督を10試合務めたほか、同年の台湾シリーズ優勝に貢献。2005年からは藤本義一の誘いで羽衣国際大学監督に就任。2007年春季リーグ戦で3部全勝優勝し、2部昇格を果たした。その後は2010年春季リーグ戦で2部最下位に転落、入替戦にも負けて3部降格となり、総監督に退いた。現代社会学部客員教授としては「スポーツライフ」を教えている。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1968 | 西鉄 太平洋 クラウン |
53 | 156 | 142 | 20 | 33 | 7 | 1 | 6 | 60 | 17 | 6 | 1 | 0 | 0 | 9 | 0 | 5 | 27 | 1 | .232 | .301 | .423 | .724 |
1969 | 103 | 342 | 308 | 31 | 63 | 6 | 1 | 10 | 101 | 26 | 6 | 1 | 3 | 0 | 20 | 0 | 11 | 43 | 4 | .205 | .277 | .328 | .605 | |
1970 | 117 | 409 | 373 | 44 | 86 | 14 | 0 | 19 | 157 | 40 | 5 | 4 | 3 | 0 | 18 | 0 | 15 | 56 | 6 | .231 | .293 | .421 | .714 | |
1971 | 54 | 210 | 182 | 22 | 45 | 5 | 0 | 10 | 80 | 24 | 2 | 4 | 1 | 2 | 11 | 1 | 14 | 31 | 5 | .247 | .338 | .440 | .778 | |
1972 | 95 | 336 | 294 | 33 | 70 | 8 | 1 | 15 | 125 | 46 | 4 | 7 | 0 | 2 | 29 | 1 | 11 | 47 | 8 | .238 | .329 | .425 | .755 | |
1973 | 110 | 449 | 402 | 48 | 101 | 16 | 1 | 22 | 185 | 70 | 1 | 2 | 0 | 3 | 28 | 0 | 16 | 31 | 7 | .251 | .325 | .460 | .785 | |
1974 | 119 | 481 | 419 | 59 | 108 | 17 | 1 | 22 | 193 | 73 | 11 | 4 | 1 | 3 | 43 | 3 | 15 | 62 | 12 | .258 | .348 | .461 | .809 | |
1975 | 122 | 440 | 393 | 49 | 105 | 12 | 3 | 19 | 180 | 55 | 6 | 3 | 0 | 3 | 27 | 2 | 17 | 57 | 12 | .267 | .341 | .458 | .799 | |
1976 | 112 | 399 | 356 | 39 | 89 | 10 | 0 | 16 | 147 | 43 | 2 | 4 | 3 | 1 | 28 | 0 | 11 | 50 | 9 | .250 | .324 | .413 | .737 | |
1977 | 119 | 421 | 388 | 58 | 102 | 11 | 0 | 26 | 191 | 51 | 9 | 4 | 1 | 2 | 19 | 3 | 11 | 54 | 12 | .263 | .316 | .492 | .808 | |
1978 | 117 | 406 | 356 | 43 | 95 | 17 | 0 | 14 | 154 | 44 | 5 | 4 | 1 | 4 | 29 | 2 | 16 | 39 | 14 | .267 | .349 | .433 | .782 | |
1979 | 阪神 | 112 | 447 | 401 | 55 | 113 | 18 | 2 | 25 | 210 | 66 | 4 | 2 | 1 | 1 | 32 | 2 | 12 | 58 | 8 | .282 | .353 | .524 | .876 |
1980 | 91 | 303 | 275 | 22 | 64 | 13 | 0 | 12 | 113 | 47 | 2 | 0 | 2 | 2 | 15 | 2 | 9 | 33 | 7 | .233 | .294 | .411 | .705 | |
1981 | 33 | 56 | 52 | 2 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 7 | 1 | .173 | .232 | .212 | .444 | |
1982 | 14 | 18 | 16 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .125 | .176 | .188 | .364 | |
通算:15年 | 1371 | 4873 | 4357 | 525 | 1085 | 157 | 10 | 216 | 1910 | 606 | 63 | 40 | 16 | 24 | 310 | 16 | 166 | 599 | 106 | .249 | .323 | .438 | .761 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブ・ライオンズ)に、1977年にクラウン(クラウンライター・ライオンズ)に、球団名を変更
記録
- 初記録
- 初出場:1968年6月9日、対近鉄バファローズ9回戦(日生球場)、8回表に菊川昭二郎の代打で出場
- 初先発出場:1968年6月30日、対東京オリオンズ14回戦(小倉球場)、6番・右翼手で先発出場(偵察要員、試合開始時に伊藤光四郎と交代)
- 初安打:1968年8月10日、対阪急ブレーブス20回戦(平和台球場)、9回裏に梶本隆夫から
- 初本塁打・初打点:1968年8月13日、対近鉄バファローズ16回戦(平和台球場)、5回裏に佐々木宏一郎から左越同点ソロ
- 節目の記録
- 100本塁打:1974年8月23日、対阪急ブレーブス後期7回戦(阪急西宮球場)、9回表に足立光宏から左越ソロ ※史上80人目
- 150本塁打:1977年6月26日、対近鉄バファローズ前期12回戦(日生球場)、6回表に太田清春からソロ ※史上49人目
- 1000試合出場:1977年9月26日、対阪急ブレーブス後期11回戦(平和台球場)、5番・左翼手で先発出場 ※史上197人目
- 200本塁打:1979年9月2日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤ球場)、7回表に高橋三千丈から2ラン ※史上31人目
- 1000本安打:1979年10月6日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、4回表に池谷公二郎から左翼線二塁打 ※史上115人目
- その他の記録
- 通算166死球 ※歴代2位(2003年4月24日に清原和博に破られるまで日本記録)
- 阪神移籍前にライオンズで記録した通算142死球は現在でもパシフィック・リーグの最多記録(現役15年間のうち7シーズンで最多死球を記録)[11]
背番号
- 29 (1968年)
- 2 (1969年、1979年 - 1982年)
- 27 (1970年 - 1978年)
- 71 (1983年 - 1984年)
- 87 (1985年 - 1987年)
- 82 (1989年 - 1990年)
- 76 (1991年 - 1998年)
- 77 (1999年 - 2001年)
脚注
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ a b c d e f g 『週刊プロ野球データファイル』2011年35号、ベースボール・マガジン社、P13-P14
- ^ 元阪神・竹之内雅史 星野仙一を怒らせた「やる気なし打法」
- ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮社,1990年
- ^ 【5月21日】1982年(昭57) “特攻隊”竹之内雅史、突然引退「ぶつかる闘志なくなった」
- ^ 険悪…吉田VS報道陣が生んだ「トイレ涙」報道 竹之内辞任で会見後
- ^ 週刊ベースボール、2013年5月23日P26
- ^ 【俺の人生第二幕】多村仁志氏「ボロボロで辞められて良かった」 王氏からねぎらいの言葉「君は幸せだね」 (1/2ページ) ZAKZAK
- ^ 週刊ベースボール、2020年11月2日号、短期集中連載、ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ、第28回、今回はちょっとドロドロしています、P78
- ^ 死球の多さからついた別名が「特攻隊」。パ・リーグ時代、南海の捕手兼監督であった野村克也が、竹之内が打席に入るたびに「この特攻隊、また当たりに来たのか」とボヤいたことで球界に広まった。狙って当たりに行ったことも3度あるという。前述の変則打法については死球攻めから逃れるための対策とも逆に死球を狙いにいくためとも言われた。
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)