海上保安庁の歴史

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海上保安庁の歴史においては、海上保安庁の活動の歴史と組織の沿革を記す。

前史

大日本帝国時代、日本周辺海域における法秩序の維持については、旧海軍が実働部隊となってきた。しかし1945年(昭和20年)の降伏に伴って日本は非軍事化され、海軍も掃海部隊を除いて解体された。これによって洋上治安維持能力は大きく損なわれ、海賊すら出現する状況に至っていた。これに対し、政府は日本側の手による洋上治安維持組織の創設を模索しており、運輸省に水上監察隊を設置する構想、農林省に海上監視隊を設置する案、大蔵省の税関を強化する案、旧内務省の警察組織を強化する案などが検討されていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)としては、当初は日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採っており、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、いずれも進展しなかった。

しかし1946年(昭和21年)初夏ごろより、朝鮮半島からの輸入感染症としてコレラが九州に上陸し、猛威をふるいはじめた。その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同年6月12日、GHQは日本政府に対し不法入国取り締まりの権限を付与する旨の覚書を通達した。これを受け、7月1日、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として九州海運局不法入国船舶監視部が設置された。しかしこの時点で、保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみ、武装は一切なし、要員も運輸省職員で、取締業務の経験者は一人もいなかった。大久保武雄監視本部長は、第二復員局の掃海艇・要員の応援を求めたが、GHQにより却下された。

創設

この時期、GHQ側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、アメリカ沿岸警備隊よりミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた。ミールス大佐は、アメリカ沿岸警備隊をモデルとした、海上治安の一元的な管理機関の設置を提言した。これを受けて、関係各省の間の所轄争いを経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において海上における救難および治安の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省外局として海上保安庁が設立されることとなった。

しかし創設にあたっては、武装した海上保安機構の創設に対するGHQ民政局コートニー・ホイットニー准将)の反発を受け、下記の6項目が科せられることとなった[1]

  1. 職員総数1万名を超えない
  2. 船艇125隻以下、総トン数5万トン未満
  3. 各船艇1500排水トン未満
  4. 速力15ノット未満
  5. 武装は海上保安官の小火器に限る
  6. 活動範囲は日本沿岸の公海上に限る

海上保安庁の創設にあたり、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。これらの部隊は、引き続き第二次世界大戦中に敷設された機雷に対する掃海・航路啓開作業にあたっていた。しかし1950年昭和25年)に勃発した朝鮮戦争において、洋上戦力で劣る北朝鮮軍機雷戦を展開しており、一方、それに対処すべき国連軍は対機雷戦戦力の不足に悩まされていた。このことから、アメリカ極東海軍から運輸大臣への命令に基づき、海上保安庁より掃海部隊が派遣され、朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施することとなった。

これらの活動はおおむね順調に遂行され、米側より非常に好評であった[2]。しかし元山上陸作戦に伴う同地での掃海活動では、第2掃海隊のMS14号艇が掃海中に触雷・爆沈し、乗組員1人が殉職、18名が重軽傷を負う被害を出した。その後、海保側指揮官が掃海活動の方針変更を具申したのに対し、米軍側指揮官がこれを恫喝的な態度で拒絶し、帰国か作業続行かを要求したことから、第2掃海隊の残り3隻がただちに帰国するという事態になっている[3]

1952年昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁(のちの防衛庁2007年以降は防衛省)創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により、結局は保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま廃止され、それに代わる防衛庁設置法自衛隊法が制定された。そのため、海上保安庁は改組による消滅を免れ、現在に至るまでその状況が存続している。

組織の沿革

7月1日:前身として、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部を設置。
5月1日:運輸省の外局として、海上保安庁設置。
長官官房、保安局、水路局、燈台局の1官房3局の構成。
全国9か所に海上保安本部設置。本部の名称には設置場所の地名を冠称[4]
  • 1948年(昭和23年)
5月12日:旧海軍省庁舎にて業務開始。5月12日は開庁記念日とする。
1月1日:船舶検査業務を運輸省から移管。
6月1日:海上保安庁長官を補佐する職として海上保安庁次長を設置。
内部部局は長官官房、警備救難部、保安部、水路部、燈台部の1官房4部の構成。
海上保安学校設置。所在地は母体の海上保安教習所、水路技術官養成所、燈台官吏養成所がそれぞれあった東京都江東区越中島、神奈川県茅ヶ崎市、横浜市に分散。
6月1日:シーマン系のトップとして、海上保安庁次長の同等職たる警備救難監を設置。
長官官房を総務部、保安部を海事検査部にそれぞれ改称するとともに、船舶技術部を新設し、本庁は6部構成。
全国の海域を第一海上保安管区から第九海上保安管区に分け、海上保安本部の名称を地名から管区名(番号名)に改称。
11月1日:海上保安学校から初任訓練を分離し、広島県呉市に海上保安訓練所を設置。
4月1日:海上保安大学校を東京都江東区越中島に設置。
海上保安学校は京都府舞鶴市に移転統合。
4月26日:本庁に経理補給部を新設し、7部構成。
同日に「海上保安庁法の一部を改正する法律」(昭和27年法律第97号)の公布・即日施行により、海上警備隊を設置。
5月1日:海上保安大学校を広島県呉市に移転。
7月31日:保安庁法(昭和27年法律第265号)が公布、第27条で保安庁海上公安局を置くとされ、海上公安局法(昭和27年法律第267号)も公布される。海上保安庁の海上警備隊職員は保安庁の警備官(後の海上自衛官)になる。
8月1日:海上警備隊を保安庁所管の警備隊として分離。
船舶検査業務は運輸省船舶局に移管し、海事検査部は廃止して6部構成。
7月1日:防衛庁設置法(昭和29年法律第164号)附則第2項により海上公安局法の廃止
4月1日:海上保安訓練所を廃止し、業務を海上保安学校に統合。
4月4日:水路部を除く本庁を旧海軍省庁舎から中央合同庁舎第1号館(現農林水産省)南棟に移転。
1月1日:第七管区から分離して第十管区を新設。
5月15日:沖縄復帰に伴い、第十一管区(旧琉球海上保安庁)を新設。
11月27日:水路部の新庁舎が東京都中央区築地に竣工。
1月22日:水路部を除く本庁は、運輸省が入居する霞が関合同庁舎第3号館の増設階に移転。
7月1日:本庁の経理補給部と船舶技術部を統合し、装備技術部を設置して5部構成。警備救難部の所掌事務のうち、通信設備、航空機に関する業務は装備技術部に移管。
4月1日:海上保安庁創設40周年を記念し、海上保安庁音楽隊が発足。その後2004年3月末までの演奏実績は387回を数える。
9月3日 - 内閣に設置された行政改革会議は、海上保安庁を国家公安委員会に移管する中間報告を決定。
12月3日 - 行政改革会議は最終報告において、海上保安庁の国家公安委員会移管案を撤回。
創設50周年。マスコット「うみまる」を制定。
4月1日:海上保安庁の英語表記を Maritime Safety Agency of Japan から Japan Coast Guard に改称。
1月6日:中央省庁再編により、国土交通省の外局となる。
4月1日:水路部を海洋情報部に改組。マスコット「うみまる」の妹「うーみん」を制定。
4月1日:警備救難部から航行安全業務を分離して燈台部と統合し、交通部に改組。
1月1日:統制通信事務所を廃止。

草創期の職員

新設された海上保安庁への旧日本海軍幹部の入庁は、海軍幹部が公職から追放されていたため、航路啓開(掃海)部門等を除いて基本的になかった。代わって、警察機構を有していた旧内務省出身者、警察官や海事の専門家として東京・神戸の高等商船学校出身者が多く入庁した。特に保安官については、トップの三田一也(元海軍中佐)警備救難監以下、高等商船学校出身者が幹部を占めた。高等商船学校出身者は、海軍予備員として大戦中応召し士官として海軍に属していたが、海軍兵学校出身の現役将校等に比べて、激戦地において過酷な輸送任務を強いられたため多大な戦死者を出していた。そのため高等商船学校出身の海軍予備士官と海軍兵学校出身の兵科現役士官の派閥は、極めて険悪な状態が長らく続いていたといわれていた。なお海軍出身の者は、その殆どが海上警備隊(後の海上自衛隊)の創設と共に海上警備隊に移った。
しかし現在では、高等商船学校出身者も海軍兵学校出身者もすでに定年を迎え、近年の不審船事件テロリズム ソマリア沖海賊尖閣諸島周辺海域における中国船による領海侵入等の問題など、海自・海保ともに共通で対処しなければならない事案が増えてきたため、情報共有や共同訓練が行われ関係は良好となっている。[5]

活動年表

警備任務等

5月1日:海上保安庁発足。
12月12日:旧海軍特務艦「宗谷」(後の南極観測船)が海保に編入される。当時の海上保安庁では最大の船であった。当初は灯台補給船、後に巡視船として活躍し、1978年の退役まで海上保安庁を代表する船として広く親しまれた。
特別掃海隊朝鮮半島へ出動。10月17日に、そのうちの掃海艇「MS14」が元山沖で機雷に接触して沈没した。乗員1名が殉職し、2名が重体、5名が重傷、11名が軽傷を負った。この際死亡した烹炊長中谷坂太郎は日本最後戦死者である。
9月24日明神礁において海底火山の観測を行っていた測量船、「第五海洋丸」が海底火山の噴火に巻き込まれて遭難する。調査員9名、乗員22名が殉職。
8月8日ラズエズノイ号事件発生。北海道猿払村知来別沖において、漁業巡回船に偽装したソビエト連邦工作船「ラズエズノイ」が、日本国内に潜入した工作員を収容するために日本領海を侵犯した現場を、第一管区稚内海上保安署の巡視船「いしかり」「ふじ」が発見。「ふじ」は、停船命令を無視して逃走した「ラズエズノイ」に射撃を行い、船体に命中。「ラズエズノイ」を強制的に停船させ乗組員全員を検挙した。ソ連は正式に陳謝した。
4月21日竹島に接近した巡視船3隻、独島義勇守備隊から攻撃を受け、損傷被害を受ける。
11月8日:巡視船「宗谷」による南極地域観測支援業務を開始。翌年1月に東オングル島昭和基地を建設し日本の南極観測事業の礎を築く。その後1962年までに通算6回の観測支援業務を遂行。
日本赤十字社、列車、船舶などを爆破するために侵入しようとした韓国工作員の上陸を阻止した(新潟日赤センター爆破未遂事件)。
4月17日:巡視船「宗谷」、第6回南極観測事業を終え東京港日の出桟橋に帰投。以後宗谷は南極観測を海上自衛隊の「ふじ」に引き継ぎ日本近海で巡視船として活躍する。
5月17日尖閣諸島魚釣島に仮設ヘリポートを設置するため、第一管区海上保安本部釧路海上保安署所属の巡視船そうや」を派遣。仮設ヘリポートは、後に中華人民共和国の抗議があったため撤去された。
11月7日フランスから日本へプルトニウムを輸送するため、プルトニウム輸送船「あかつき丸」がシェルブール港を出航。横浜海上保安部所属の世界最大の巡視船「しきしま」の護衛をうけ、約60日間かかって無事海上輸送が行われた。「あかつき丸」には特殊警備隊SSTの前身部隊が13名乗り組んでいた。乗り組みの事実は当時、秘密であったが、後に判明する。
5月11日:特殊警備基地の設置及び特殊警備隊 (SST) が創設される。
3月23日能登半島沖の日本領海内に北朝鮮のものとみられる不審船が侵入する事件が発生。巡視船に特殊警備隊の隊員も乗船して追跡を行ったが、船速の違いから追跡を断念、海上自衛隊に追跡任務を引き継ぐ。(能登半島沖不審船事件
8月30日東ティモールインドネシアからの独立を問う住民投票が行われる。住民投票後の暴動に備え、邦人保護の名目で名古屋海上保安部所属の巡視船「みずほ」をディリ沖に派遣。特殊警備隊SSTが上陸し、残留邦人を警護しながら「みずほ」に避難させたとされているが[6]、海上保安庁は本件に関して公式には発表していない[7]
5月1日緊急通報用電話番号118番」運用開始。
12月22日九州南西海域工作船事件発生。威嚇射撃したのち不審船の反撃を受ける。銃撃戦の末、北朝鮮工作船は自爆し沈没した。交戦において、巡視艇が被弾して日本の海上保安官3名が負傷した。北朝鮮側の工作員は20数名が死亡した。後に、東シナ海沖の中国のEEZ経済水域)内に沈没した工作船が引き揚げられた。
2月1日海上保安庁公認、日本財団の助成の下、ボランティア自警団海守が発足。
11月10日漢級原子力潜水艦領海侵犯事件発生。海上自衛隊と共に中国海軍所属の091型原子力潜水艦の追跡を行い、所属航空機が潜水艦の写真撮影に成功したが、対潜水艦ゆえに海上保安庁の能力では必要な対策が出来ず、海上警備行動の発令となった。
5月31日対馬沖の日本の排他的経済水域 (EEZ) を韓国の漁船「502シンプン」が侵犯。第七管区海上保安本部所属の巡視艇2隻が、臨検のため「502シンプン」を停船させたが、当該船は、臨検のために乗り移った保安官2名を乗せたまま韓国側EEZへ逃走。追跡した巡視艇7隻が、韓国蔚山沖で漁船員の引渡しを求めて韓国海洋警察庁の巡視艇6隻と39時間に渉って海上で対峙。結局、漁船のEEZ侵犯を認める代わりに身柄を韓国側に引き渡されるという灰色決着になった。
12月6日:韓国海洋警察庁が海上保安庁に対し、日本領海における捜査権の譲渡を要求したが、海上保安庁は「捜査権の譲渡は主権侵害にあたる」として拒否した。
4月14日:海上保安庁は、竹島周辺の排他的経済水域での海洋調査を、国際水路機関 (IHO) に通報した。これは、韓国政府が竹島周辺海域の海底地名を日本名から韓国名に変える発議を同年6月のIHO総会で行う観測が流れたために、対案を提出するために行うというものであった。海上保安庁では4月18日に測量船「海洋」「明洋」を出航させて境港沖に待機させ、工作船事件の教訓から配備されたPL型「あそ」を後詰めとして派遣した。対する韓国海洋警察庁は、竹島周辺海域警備任務の為に導入した6,350トンの軍艦仕様の大型巡視船「参峰(サンボン)号」を始めとして警備艇20隻を竹島周辺に展開させ、特殊部隊である海洋警察特別攻撃隊を投入して拿捕を行うと宣言した。それに対して日本政府は、政府船舶の拿捕は国際法違法であり、拿捕すれば直ちにIHOに提訴するとした。結局、韓国がIHO総会で地名変更の発議をしない代わりに、日本は海洋調査を行わないということで決着になった。
1月15日:「シーシェパード」が日本の調査捕鯨船の活動を妨害し、酪酸入り瓶を投擲され乗務員が負傷する事件が発生。この事件を受け日本鯨類研究所の調査捕鯨船「第二勇新丸」にエコテロリスト対策として海上保安官が乗船し、警備を担当した。
12月8日尖閣諸島周辺海域における中国船による領海侵入を初確認
3月9日:ソマリア沖に派遣される海上自衛隊の護衛艦に同乗し司法警察職務を行う海上保安官8名からなる派遣捜査隊の任命式が行なわれる。
3月14日:海上保安官が護衛艦2隻に同乗し呉港から出発する。初のソマリア沖海賊の対策部隊派遣
8月8日香川県仲多度郡多度津町佐柳島沖でパトロール及びデモ飛行を行っていた第六管区海上保安本部所属のヘリコプター「あきづる」(ベル412EP型)が墜落し、乗員5名全員が死亡した。(詳細は佐柳島沖海保ヘリ墜落事故を参照
9月7日尖閣諸島周辺の領海内で違法操業していた中国トロール船巡視船みずき」「よなくに」に衝突し逃走。8日にトロール船に強行接舷して船長を公務執行妨害容疑で逮捕した。(詳細は尖閣諸島中国漁船衝突事件を参照
8月16日香港活動家尖閣諸島上陸事件が発生。
8月19日日本人活動家尖閣諸島上陸事件が発生。
9月14日9月24日
9月11日の日本の尖閣諸島国有化を受けて、9月14日に過去最多となる中国の公船6隻が同時に尖閣諸島の領海を侵犯。15日には中国の各都市で過去最大規模の反日デモが発生し、日中のメディアが16日以降に中国の漁業監視船「漁政」が漁船1,000隻を引き連れて尖閣海域で漁をすると報じたことから、海上保安庁は創設以来最大規模となる巡視船(PS以上)50隻体制で尖閣諸島を警備した。50隻は修理中でない稼動可能なPS型以上巡視船の約半数である。18日には中国の公船12隻が接続水域に侵入し3隻が領海侵犯したが、1,000隻の漁船の領海侵犯は起こっていない。以後、中国公船が接続水域を徘徊し続け、24日には2隻の「海監」が領海侵犯した。
9月25日台湾海巡署の巡視船12隻と漁船約40隻が同時に尖閣諸島の領海を領海侵犯し、これに対して海保の巡視船約30隻が放水をするなどして領海から退去するよう警告した。
12月23日:尖閣諸島上空で領空侵犯している中国国家海洋局所属のY-12航空機を巡視船が視認、航空無線機にて国外退去を要求し、直ちに防衛省へ通報した。(中国機尖閣諸島領空侵犯事件
10月末 ~ 12月
小笠原諸島伊豆諸島周辺の日本領海排他的経済水域(EEZ)で希少な宝石サンゴを狙う中国の密漁船がこれまでで最多となる212隻確認された。11月21日に該当海域に巡視船を大幅に増勢できたことから積極的な摘発を開始し、12月21日までに10人の中国人船長を逮捕した。このうち4人が外国人漁業規制法違反となる領海内操業容疑であった。(中国漁船サンゴ密漁問題
11月
北海道南部の松前町の沖で北朝鮮の朝鮮人民軍第854部隊所属の木造漁船を巡視船が発見し、函館港沖に曳航した。その際に木造船の乗組員は証拠隠滅を図り家電製品などを海に投棄していたが、それは当時無人の渡島小島の小屋などから盗んだものだった。12月8日に木造船は巡視船と繋がれていたロープを切断し函館港沖を1時間余りにわたって逃走したが、追いかけてきた別の巡視船艇が取り囲み阻止した。

2021年(令和3年)

7月〜9月

東京2020大会にて全国から巡視船巡視艇選手村や競技会場周辺に集結し警備を実施。

海難救助等

  • 1954年(昭和29年)
9月26日洞爺丸台風により青函連絡船5隻(洞爺丸、北見丸、十勝丸、第十一青函丸、日高丸)が沈没し、1,430名が死亡(洞爺丸事故)。
9月26日伊勢湾台風により11,027隻が遭難。S-55による救難飛行を実施。
10月7日マリアナ海域漁船集団遭難事件により日本の漁船が多数沈没。死者1名、行方不明者208名の大惨事となる。これを機に、長距離での救難任務が求められ、YS-11いず型巡視船の導入が決定する。
3月5日全日空羽田沖墜落事故の捜索活動で出動したが、ヘリが墜落して乗員3名が殉職した。
3月16日:漁船19隻が択捉島単冠湾で遭難。巡視船「宗谷」、「だいおう」、「えりも」、「りしり」が救難に当たる。これを機に第一管区海上保安部内に流氷情報センターが設置され、流氷観測、通報体制が強化されることになった。
11月9日LPGタンカー「第十雄洋丸」とリベリア籍貨物船「パシフィック・アレス」が東京湾にて衝突、約20日間に亘り炎上。消防船「ひりゆう」、「しようりゆう」が消火に当たるも、第十雄洋丸は火災、爆発を繰り返しながら漂流を始め二次災害の危険が増したため、海上自衛隊に処分を依頼。艦砲射撃や魚雷などによる撃沈処分が行われた(第十雄洋丸事件)。
9月1日大韓航空機撃墜事件発生。その後約2ヶ月に亘り大規模な海上捜索を実施。
8月20日樺太に住む当時3歳の男児コンスタンチン・スコロプイシュヌイが全身に大やけどを負う。サハリン州知事からの救助要請を受けて千歳航空基地所属のYS-11A「おじろ」が、日本の航空機としては戦後初めて宗谷海峡を越えて、コンスタンチンをユジノサハリンスクホムトヴォ空港から丘珠空港まで緊急搬送。
1月2日ロシア籍タンカー「ナホトカ」海難流出油災害発生。当該船は破断事故の末沈没し、C重油約6,140klが流出。(ナホトカ号重油流出事故
7月2日パナマ籍タンカー「ダイヤモンド・グレース」座礁油流出事故発生。東京湾において座礁した当該船より原油約1,550klが流出。
  • 1999年(平成11年)
10月22日:日本の会社が所有する大型貨物船「アランドラ・レインボー」が海賊に襲撃され行方不明となる事件が発生。船会社から通報を受けた海上保安庁は、鹿児島海上保安部所属の巡視船「はやと」とファルコン900航空機を派遣。フィリピン沖からマレーシア東岸にかけての南シナ海全域を捜索。
  • 2000年(平成12年)
12月00宮城県金華山はるか沖で、シンガポール船籍タンカーの乗員が重篤の状態になる。釧路海上保安署所属のPLH型巡視船「そうや」と塩釜海上保安部所属のPLH型巡視船「ざおう」が救助に向かう。搭載ヘリコプターの能力では本土まで直接搬送が不可能な沖合であったが、2隻の巡視船の協同対処により、初の「飛び石搬送」による急患搬送を行った。
7月2日玄界灘海難事故発生。
10月20日海王丸II世の座礁事故発生。翌21日、台風23号による荒天の中、乗員乗組員併せて167名が無事に救助された。
10月28日:伊豆諸島の八丈島近海で乗組員8人が行方不明となった漁船、第1幸福丸(鎮西町漁協所属)の捜索行い、八丈島付近で転覆した当該漁船を発見、船内から乗組員3人を救出した。
3月11日東北地方太平洋沖地震発生。それにともなう東日本大震災に対応する。
被災状況:仙台空港内の仙台航空基地が津波で被災し、建物・航空機が浸水。沿岸の保安署などが津波の浸水被害を受ける。巡視船まつしまが津波を乗り越え、その映像が後日公開される。
災害対策活動:広大な被災地域において他機関と連携して生存者の救出活動を行いつつ、海上部における行方不明者の捜索活動を行う。漂流船舶の回収等も行う。海上自衛隊とともに、福島第一原子力発電所事故の影響がある福島第一原子力発電所周囲10キロ圏内の捜索も行う。
復旧復興活動:平成23年度海上保安庁関係補正予算にて、被災した航空基地や航路標識の復旧や活動経費等に166億円[8]。6月11日より国土交通省とともに海底地形の調査を開始する。
9月10日茨城県常総市宮城県内において、平成27年台風第18号に伴う大雨で大規模水害が発生。特殊救難隊機動救難士が孤立した住民の救助活動に当たり、茨城県で99名、宮城県で8名の計107名の住民を救助した。

脚注

  1. ^ 読売新聞戦後史班編「第2章 海上警備隊」『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』読売新聞社、1981年、174-256頁。ASIN B000J7W6JM 
  2. ^ 掃海OB等の集い 世話人会 (2013年9月30日). “航路啓開史” (PDF). 2013年3月13日閲覧。
  3. ^ 谷村文雄 (2002年10月24日). “朝鮮戦争における対機雷戦(日本特別掃海隊の役割)” (PDF). 防衛研究所. 2013年3月13日閲覧。
  4. ^ 1948年6月9日運輸省告示第166号。告示は6月にずれこむが「海上保安庁法施行の日から適用」とされる。
  5. ^ 佐藤雄二『波濤を越えて 叩き上げ海保長官の重大事案ファイル』文藝春秋社、2019年。ISBN 4163910565  p.85-86
  6. ^ 小峯隆生『海上保安庁特殊部隊SST』並木書房、2005年、p.p.147-151
  7. ^ 菊池雅之『最新 日本の対テロ特殊部隊』三修社、2008年、p.130.
  8. ^ 平成23年度海上保安庁関係補正予算” (PDF). 国土交通省. 2011年6月11日閲覧。

関連項目

外部リンク