大内氏
大内氏(おおうちし)は日本の氏族の一つ。周防を本拠とする守護大名、戦国大名に成長した一族である周防大内氏が著名である。家紋は「大内花菱」。
概略
祖先
百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子が祖と言われている。ただし、これには異説も多く、一説では朝鮮半島から鉄精錬技術を持って渡来してきた渡来人ではないかともされている。
平安・鎌倉時代
何時からかはよくわからないが、周防国多々良浜に着岸してその子孫が大内村に住み姓を多々良、氏を大内としたといわれている。しかしこれはあくまで伝説にすぎないという。平安時代には周防国の在庁官人であった。平安時代後期には大内盛房が周防国衙として周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられた。以後、盛房の子である大内弘盛以降、歴代の当主もこれを世襲し、大内介と称した。
鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。
南北朝時代
南北朝時代に入ると家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争した。
弘幸の子・大内弘世は、本拠地を山口(山口県)に移し、正平18年(1363年)に幕府に帰服した。
弘世の後を継いだ大内義弘は、今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、明徳2年(1391年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍したことにより、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国をを領する守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行うなどして大内氏の最盛期を築き上げた。しかし義弘の勢力を危険視した第3代将軍・足利義満の挑発に乗った義弘は、鎌倉公方の足利満兼と連絡を取り合うなどして、応永6年(1399年)に堺で挙兵する(応永の乱)。しかし義弘は敗れて敗死する。義弘の死後、再び大内家内部では家督をめぐっての抗争が起こり、大内家の勢力は衰退した。しかし周防・長門の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵された。
室町・戦国時代
大内盛見は、義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。
大内政弘は、応仁の乱で西軍の山名氏に属し、幕政にも影響力を持つ大名としての地位を確立した。
政弘の後を継いだ大内義興は、京都を追われた放浪将軍・足利義稙を擁して上洛を果たし、管領代として中央政治を執行するなど、戦国大名として成長を果たした。
大内義隆の時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、さらに義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教布教を許すなどしたことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
衰退
大内義隆は出雲の尼子晴久、筑前の少弐資元らと戦い、さらに勢力を拡大した。しかし義隆の晩年から文治派と武断派による家臣団対立が起こり、天文20年(1551年)には重臣の陶晴賢の謀反に遭って、大内義隆が自害する。これにより大内氏は急速に衰退し始めた。なお、これによって実質的に大内家は滅亡したという見解もある。
滅亡
義隆の死後、晴賢は大友氏から義隆の甥に当たる大内義長を当主として擁し、そのもとで晴賢が実権を掌握するという形で大内氏は形式的には存続した。しかしこの体制に不満を持つ者も少なくなく、各地で大内氏に対する反乱が発生する。その反乱のひとつである毛利元就の反乱により、弘治元年(1555年)に晴賢は討たれてしまった(厳島合戦)。
晴賢の死後、大内家内部では家臣団の対立などからさらに衰退が促進され、弘治3年(1557年)、毛利元就の周防・長門侵攻に遭って義長は自害し、戦国大名としての大内氏はこの時点で滅亡してしまった。
永禄12年(1569年)、大内氏の生き残りである大内輝弘は大友宗麟の支援のもと、一時は勢力を回復したかに見えたが、毛利軍によって最後は滅ぼされ、名実共に大内氏は滅亡した。
江戸時代
歴代当主
多々良氏
大内氏
大内氏家臣団(戦国期)
周防長門
石見
その他
義隆時代