大内氏
日本の氏族。室町時代の有力大名として知られる
百済の王族であった琳徳太子が祖と言われている。何時からかはよくわからないが、周防に土着して最初は多々良氏と名乗っていたらしい。平安時代には周防の在庁官人で、南北朝時代に大内長弘が周防守護となり、大内弘世の頃に本拠地を山口に移す。室町時代には数ヶ国を領する大守護大名であったが、大内義弘が時の将軍・足利義満と応永の乱で敗死すると、一時、衰退した。
しかし、その後は勢力を盛り返し、戦国時代に入ると周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・石見・豊前・筑前を領し、さらには細川氏とも争って明との交易を独占、そして放浪将軍・足利義稙を擁して上洛も果たし、名実ともに西国最強の戦国大名として発展した。
しかし、1551年、重臣の陶晴賢の謀反に遭って大内義隆が自害すると、大内氏は急速に衰退する。その後、晴賢は大友氏から大内義長を擁して大内氏は形式的には存続したが、1557年、厳島合戦で陶晴賢が討たれた2年後に毛利元就の侵攻に遭って義長は自害し、大内氏は名実ともに滅亡してしまった。
その後の1569年、大内氏の生き残りである大内輝弘は大友宗麟の支援のもと、一時は勢力を回復したかに見えたが、毛利軍によって最後は滅ぼされている。