真蔭流
真蔭流(しんかげりゅう)とは、幕末に幕臣の今泉八郎[1](号 柳定斎)が天神真楊流をもとに開いた柔術の流儀。
眞蔭流柔術 しんかげりゅうじゅうじゅつ | |
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![]() 1938年の演武 | |
発生国 |
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発生年 | 嘉永年間(1848~1854年) |
創始者 | 今泉八郎柳定斎定智 |
源流 |
天神真楊流 関口新心流、楠流拳法、荒木流 |
派生流派 | 鷲尾流、神道六合流 |
主要技術 | 柔術、殺法、活法、乱捕、捕縄術 |
伝承地 | 埼玉県鶴ヶ島市 |
歴史
今泉八郎の養父・今泉智明(号 柳雲斎)は、関口新心流、楠流拳法、天神真楊流、荒木流の4流の柔術を学んでいた。八郎は父より柔術を学び[2]、後に天神真楊流の家元・磯又右衛門柳関斎源正足に就いて柔術を学び、天神真楊流から真蔭流を開いた[3]。
今泉八郎は下谷区同朋町一番地に演武館と称する道場を開いていた[4]。
第5代の菅野久師範は大正9年宮城県に生まれる。 滝沢常三郎柳幹斎と戸張喜兵衛柳振斎に師事し免許を得て道統を継いだ[5]。現在は菅野久師範から免許皆伝を受けた山田實師範が埼玉県で伝承している[6]。
今泉八郎は明治39年2月2日に亡くなり、墓は東京都港区三田「長運寺」にある。
明治26年頃に今泉八郎の演武館に入門した澤逸與(講道館柔道)によると、今泉の教授法は形を主として乱捕を従としていたとされる。形の稽古は師が受で弟子が取りであり、この形を稽古した後に乱捕に移った。澤逸與は形は一刀両断の術で頗る精神的なものであり、乱捕は体育法としてよかったが武術の価値は寧ろ形にあったと記している。
明治31年頃に今泉八郎の演武館に入門した堀田相爾(講道館柔道)によると、今泉は真蔭流柔術という一流の開祖であるに関わらず既に「柔道」という語を用いていたとされる。また目録以上の人は大抵講道館柔道と関係があって段位を持っている人も数人いた。当時の免許皆伝は山内豊景だけであったが山内は講道館とは関係がなかった。今泉は維新以前の道場の形態をそのまま伝えており子弟の礼は厳格であったと記している。
高橋喜三郎(講道館柔道九段)によると、二代目を継いだ松本栄作は浅草奥山の興行で熊ヶ谷というずば抜けて強い力士と立ち合い勝ったという。熊ケ谷は六尺(約180㎝)三十数貫(約130㎏)もあり、名だたる柔術家達が入れかわり立ちかわり掛ってもコロコロ投げてしまうので評判となった。松本栄作は五尺三寸(160㎝)十六貫(60㎏)の小兵であったが、熊ヶ谷に挑戦した。いったいどうなることかと見ていると、松本は全く熊ケ谷を働かさず見事な足払いで立て続けに二本とって意気揚々と帰っていったという。興行には八百長があったかも知れないが飛び入り試合には許されず、真剣勝負で小兵が大兵を投げ飛ばした痛快事に市民は溜飲を下げたと記している。
真蔭流の内容
源流の天神真楊流の技数は124手であったが、真蔭流では48手とコンパクトに纏め上げている。技そのものも、最初の段階では天神真楊流とほぼ同じ技もあるが、極意の段階では独自の内容となっている。
稽古方法については、明治以降に広まった講道館柔道式と同質の乱取り法を伝えている。このため、明治期に隆盛した。
下記の形以外に、捕縄術、急所、当身、活法、口伝などが伝わっている。
- 初段手解 六手
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- 片手取、振解、逆手、逆指、小手返、両手捕
- 初段居捕 十手
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- 居別捕、送襟絞、襟絞、小太刀捕、抜合、両手捕、小手返、片手胸取、折込、引立
- 中段立合 十手
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- 行違、捨身投、腕搦、歸投、打手留、壁副捕、前立取、襟投、面蔭、鐘木
- 中段投捨 十二手
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- 行違、引込、背負投、水月、折敷投、捨身投、片手胸取、両手捕、右腰投、後捕、襟投、巻落
- 極意上段 十手
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- 大太刀捕、車返、鷲蹴返、肩車落、小太刀留、小太刀詰、帯引、捨身投、櫓落、大太刀留
系譜
例として一部の系譜を以下に示す。
関連書籍
- 菅野久『実戦古武道 柔術入門』 愛隆堂 昭和54年4月1日発行。
- 山田實『yawara―知られざる日本柔術の世界』 BABジャパン
- 平上信行「武術秘伝書夢世界」 (『月刊秘伝』BABジャパン 平成20年11月1日発行 柔術家 松岡仙次郎 秘伝書 天之巻、地之巻 掲載)
- 拳法教範図解 : 早縄活法
- 東京百事便 p507
- 柔術練習図解 早縄活法 一名警視拳法
- 『江戸ッ子百話 上』 p133 昭和34年8月
- 『別冊宝石』武芸もろもろ座談会 並木忠太郎(真蔭流柔術師範、向井流水法師範、講道館柔道六段)、杉野嘉雄(神道流師範)、清水隆次(神道夢想流杖術師範)
- 『伊藤痴遊全集 續第十二卷 政界回顧録』
脚注
関連項目