室町幕府

足利氏による日本の武家政権

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室町幕府むろまちばくふは、室町時代における日本武家政権征夷大将軍となる足利尊氏京都で創始した。

室町幕府
概要
創設年 1336年
解散年 1573年
対象国 日本の旗 日本
政庁所在地 山城国 平安京室町
(現 : 京都府京都市
代表 征夷大将軍足利氏
機関
中央 管領
政所
侍所
問注所
評定衆
奉公衆
地方 鎌倉府
関東管領
奥州探題
羽州探題
九州探題
守護
地頭
備考
創設年は1338年、解散年は1588年とする説がある
建武政権
北朝
南朝
細川政権
三好政権
織田政権
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その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府あしかがばくふともいう。

義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。

成立時期

 
初代将軍足利尊氏

延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏湊川の戦い楠木正成を破る。後醍醐天皇比叡山に退去したが、正成とともに「三木一草」と称された後醍醐の武将ら(結城親光名和長年千種忠顕)もこの前後に相次いで戦死したため、苦境に立たされることとなった。

翌月、入京した尊氏は光厳上皇治天の君に擁立し、8月には光厳の弟豊仁親王(光明天皇)が践祚する。和睦の成立によって10月に帰洛した後醍醐は幽閉され、11月2日に光明へ神器が譲与される。

同月7日、是円(中原章賢)・真恵兄弟らが起草した『建武式目』の制定によって新たな武家政権の施政方針が示されたが、室町幕府の実質的な成立はこの時期とされる。北朝から権大納言に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされた。

翌月21日、後醍醐が大和国吉野に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。

延元2年(北朝建武4年、1337年)8月、鎮守府将軍として東北にあった南朝方の北畠顕家が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、1338年)1月には青野原の戦いで幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し(石津の戦い)。また、事実上の南朝方総大将であった新田義貞も、閏7月の藤島の戦いで敗死した。

こうして、主将と奥羽に勢力を築いた有力武将の2人を失った南朝方の劣勢は覆いようもなく、北朝・幕府方優位の趨勢の下、建武5年(1338年)8月11日に尊氏は征夷大将軍に任ぜられた。

滅亡

滅亡は、元亀4年(1573年)7月に15代将軍・義昭織田信長によって京都から追放された時点とするのが一般的である。また、信長以前には、天文22年(1553年)8月に13代将軍義輝三好長慶に敗れ近江国朽木谷に逃れてから永禄元年(1558年)11月に和議を結び入京するまで、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を京畿に打ち立てていた例もある。

もっとも、義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。義昭追放後も彼を支援する毛利輝元毛利氏との交渉で、信長もその復帰を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。

藤田達生は、京都追放後の義昭による政権を「鞆幕府」として規定することを提唱した。これによれば、幕府の滅亡は1573年ではなく、より遅い時期となることとなる[1]が、既に幕臣の多くが義昭の元を去っており、幕府の体をなしているとは言いがたく、「鞆幕府」説が研究者の支持を得ているものではないことに留意する必要がある。

天正16年(1588年1月13日、義昭は関白豊臣秀吉とともに参内して、その地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から准三宮の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。

政治

組織機構

 
組織

中央

 
3代将軍足利義満
 
花の御所(室町殿)
 
花の御所

室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲している。基本法として建武式目を制定(1336年)。具体的な法令としては鎌倉時代の御成敗式目(貞永式目)を適用し、必要に応じて「建武以来追加」と呼ばれる追加法を発布して補充している。

幕府開設当初、初代将軍尊氏は武家の棟梁として諸国の武士を統帥して執事高師直がこれを補佐し、政務・裁判は弟直義が総理する二頭体制が取られた。やがて直義と師直の間に確執が生じ、幕府内が尊氏・直義両派に分裂して観応の擾乱へと発展、南朝方や諸国の武士を巻き込んで内乱は長期化した。

尊氏の後を継いだ2代将軍義詮は幕府機構の再建に努め、病に倒れると、細川頼之を管領に任じて幼少の後継者・義満を後見させた。頼之後見期及び義満による親裁期を経て政治機構が整えられていった。

鎌倉時代の将軍は全国の御家人と個々に主従関係を結び、所領(地頭職)を安堵する立場にあり、守護は任国の軍事・刑事の長であり、国内の御家人の監督者に過ぎなかった。

これに対して室町幕府は、守護大名による合議制・連合政権であったと評される。長期の南北朝内乱の間に、守護はその権限を拡大し、任国内の領主層の武士(国人)を被官化するなどして、任国の管理者から領国支配者(大名)となっていく(ただし地域差があるので、詳細は「守護領国制」を参照)。これにより、御家人=将軍直臣という鎌倉幕府の基礎構造は失われ、将軍の諸国武士・所領に対する支配は相当後退し、主に守護を通じて全国支配を行う体制となった。しかしながら室町将軍がこの現状をよしとした訳ではなく、鎌倉時代以来の足利氏の根本被官や一族、守護の分家など、守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結ぶ場合もあった。特に足利義満は直属軍事力の整備に熱心であり、奉公衆を整えていき、以降の将軍にも継承された。

また、義満以降の室町幕府は「天下無為」の実現をもって全国統治の基本的な考え方としていた。「無為」とは何もしないことではなく、何もしない状態にもっていくことを指し、室町殿である将軍の上意をもって紛争当事者間の調停を図るものであった。上意は紛争解決の手段としては万能ではないものの、守護や国人にとっては無視しえないものであった[2]。だが、嘉吉の乱後、幼少の将軍が続いた中で、管領である細川氏と畠山氏が上意を利用して自己に有利な政治的な状況を作りだそうとし、それに振り回された守護や国人は上意に従わなくなり、独自行動を取るようになる。やがて、彼らは仲間同士で連携して行動することで上意の相対化を図るようになり、特に守護たちは細川氏側と反細川氏側(最初は畠山氏、後に山名氏を盟主とする)に分かれて集団を形成して争い、応仁の乱の一因を作った[3]

その一方で、室町将軍以上の勢威を持った守護大名を幕府が危険視し、討伐した例もある。しかし、個々の守護大名はともかく、守護大名と室町将軍が全面的に対立することはなかった。守護大名は幕府から任命された守護職に支配の正当性の根拠があり、室町将軍の権威を否定することはできず、両者は相互に補完する体制であった(室町幕府―守護体制)。将軍の権威の失墜はすなわち守護大名の権威の失墜を意味し、応仁の乱後にそうなっていくのである。

室町殿御分国

中世後期、天皇から日本国の支配を委任されていた室町殿(征夷大将軍)の政治的権限の及ぶ実効統治範囲、管轄区域のことを室町殿御分国、あるいは室町殿分国公方分国という。その範囲は九州探題管轄の11ヵ国、鎌倉府管轄の10ヵ国を除いた畿内近国山陽道山陰道南海道東海道北陸道の国々からなる[4]。御分国内の守護家(二十一屋形)の多くは在京し、国政の重要議題は将軍から守護達に諮問され、将軍と共に国政に関わっていた[4]

文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江美濃尾張遠江三河飛騨能登加賀越前大和河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州摂州越中和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨備前美作備中備後伊勢伊賀淡路四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記しており、室町殿御分国と日本国の範囲は同一であるとの認識を示している[5]

地方

室町幕府は辺境分治・遠国融和を基本的な政治方針としていた[6]。15世紀前半に幕府は「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣」という認識を獲得し[7]、日本国の東側の国境は鎌倉府との境界にある駿河に存在すると理解するようになった[8][9]。こうして地方は幕府による日本国統治の埒外に置かれることになった。

奥羽

東北地方には当初奥州管領が設置されたが、斯波家兼ら4人の管領が並立し争うなど混迷を極め、半世紀を経て奥州探題が設置された。さらに、奥羽2国(陸奥国出羽国)が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は稲村公方篠川公方が設置されている。

幕府は鎌倉府に対抗するため、斯波家兼の孫大崎詮持を奥州探題に補任し、以降大崎氏により世襲される。しかし、蘆名氏伊達氏などが京都扶持衆として戦国大名化していくにつれて、大崎氏も在地領主化していくことになる。

また、家兼の死後に羽州探題が分裂し次子最上兼頼以降最上氏により世襲される。

関東

観応の擾乱が起こると、足利尊氏は鎌倉東国10カ国を統括する機関として鎌倉府を設置した。長官は鎌倉公方で尊氏の子足利基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。室町時代を通じて鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立していった。

これに対抗するため、幕府は東国や陸奥の有力国人を京都扶持衆として直臣化した。このため、足利義教の代に永享の乱を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子足利成氏を新しい鎌倉公方とした。だが成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、さらに上杉氏は山内上杉家扇谷上杉家に分裂したため、応仁の乱が始まる前に関東地方は騒乱状態となる。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、8代将軍足利義政の庶兄足利政知を関東に派遣する(堀越公方)。だが、堀越公方も政知の死後に今川氏重臣伊勢盛時(北条早雲)によって倒されて、失敗に終わった。古河公方も小弓公方との分裂を経て、盛時の子孫である後北条氏によって傀儡化させられていくのである。

九州

九州には本拠を博多(福岡県福岡市)に置く九州探題が設置される。初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。

財政

室町幕府の財政は幕府直轄の御料所からの収入が主であったが、南北朝の戦乱の際に敵対する南朝側より狙われて奪取されたり、自軍への恩賞にされてしまうケースも多く、次第に土地からの収入が減少して鎌倉幕府や江戸幕府に比べて小規模であったと考えられている。このため、武家役として臨時の段銭や棟別銭などが徴収された。

商人に対しては特権や保護の代償に営業税などを取り、各からの津料関所のからの関銭(通行税)も徴収された。尚、足利義満の時代に京都の土倉や酒屋に対して恒常的に役銭を取る権利を認められると、段銭や棟別銭等と共に納銭方と呼ばれる幕府御用の土倉によって徴収された。後に納銭方は幕府の委託を受けて税収の保管・出納の事務等も任される様になり、こうした土倉を公方御倉と呼んだ。更に義満が日明貿易を始めると貿易そのものや抽分銭による収益も幕府収入となる。貿易の回数が限られていた為に臨時収入的な物に留まったが、1回の貿易で他の税収の数年分の収益を挙げる事もあったとされている。

また、明徳の乱・応永の乱・嘉吉の乱などによって没収された守護大名の所領の一部は幕府御料所に組み入れられたり、将軍側近や奉公衆に所領として宛がって将軍直属軍の基盤とした[10]。他の臨時収入的な物として礼銭分一銭等が挙げられる。更に15世紀後半以後には京都のある山城国内の御料所化にも着手している。

室町幕府の大名諸侯

鎌倉幕府と同じく室町幕府においても各国には守護が設置された。守護職には足利一門を初めとして有力武家が任じられたが、室町期の守護は鎌倉期のそれと比べて大幅に権限が強化され、鎌倉期では禁じられていた国衙組織への関与・支配を強め、国衙の在庁官人や在地の地頭・名主などの国人領主を自らの被官層に組み込む守護も現れた。こうした領国の一円支配(守護領国制)を強めていった室町期守護を、鎌倉期守護と区別して「守護大名(日本史における概念であるため、当時そのように呼称されていた訳ではない)」と呼ぶ。 尤も、室町期に守護に任じられたからといって後世必ずしも「守護大名」に分類されるという訳でもなく、領国の一円支配を確立できなかった室町期守護に関しては通常は守護大名とは見なされない。但し室町幕府では室町殿御分国のうち准国持衆以上の武家を「大名(だいみょう・たいめい)」と呼称したために、後世に守護大名に分類される武家であっても、その枠組みから外れていれば当時の幕府からは「大名」と見なされていない場合や、逆に領国の一円支配を確立できなかったり、そもそも守護職自体を保持していなくとも准国持衆以上であれば幕府からは「大名」と見なされる場合もある。

室町殿御分国

江戸時代前期頃に成立した『南方紀伝』によると、幕府中央においては三職七頭の家格が定められたとされる。すなわち「三職」は斯波氏畠山氏細川氏の三氏、「七頭」は山名氏一色氏土岐氏赤松氏京極氏上杉氏伊勢氏の七氏を指し、七頭のうち山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏の四氏と土岐氏を含めた五氏が京都奉行職(侍所所司)に就いて「四職」と称され、残り二氏のうち伊勢氏は奏者(申次)、上杉氏は関東執事(関東管領)にそれぞれ任じられたとされる。また三職七頭の他には武田氏小笠原氏の両氏を礼式奉行に任じ、吉良氏渋川氏今川氏の諸氏は武頭(侍大将)とされ、将軍直轄の軍事力として奉公衆が編成されたと言われる。尤も前述のように『南方紀伝』自体が江戸時代前期頃の成立と見られているので、どこまで実態を反映しているかは不明。『永享以来御番帳』や『文安年中御番帳』などの室町時代当時に近い史料において見られる大名諸侯は概ね以下の様になる。

  • 三管領(三職家):管領職に任じられる大名家であり、格別に高い格式を誇った。
    • 斯波氏(武衛家):越前・尾張・遠江の守護職を世襲。三職の中でも筆頭に位置し、将軍連枝と同等の格式にあった。
    • 畠山氏(金吾家):紀伊・河内・越中の守護職を世襲。室町中期には大きな勢力を誇ったが、同家の家督争いが応仁の乱の最大の要因となった。
    • 細川氏(京兆家):摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を世襲。室町後期には管領職をほぼ独占し、幕府は『細川政権』の体をなした。
  • 御相伴衆:三職に次ぐ有力大名家で、宿老として宿老会議に出席して、将軍の諮問に答え幕政に参加できた家。
    • 一色氏:丹後・伊勢・三河の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
    • 畠山氏(匠作家):能登の守護職を世襲。
    • 細川氏(讃州家):阿波の守護職を世襲。
    • 山名氏:但馬・備後・安芸の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
    • 赤松氏:播磨・備前・美作の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。嘉吉の乱を引き起こして一時滅亡するものの、後に再興を許される。
    • 京極氏:出雲・隠岐・飛騨の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
    • 大内氏:周防・長門・豊前・筑前の守護職を世襲。
  • 国持衆:三職、御相伴衆に属する大名の庶家や、畿内近国の有力大名家が列した。
    • 斯波氏(大野家):加賀・越前大野郡の守護職を世襲。
    • 土岐氏(西池田家):美濃の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
    • 六角氏:近江の守護職を世襲。
    • 細川氏(上和泉家):和泉の守護職を世襲。
    • 細川氏(下和泉家):和泉の守護職を世襲。
    • 山名氏(伯耆家):伯耆の守護職を世襲。
    • 山名氏(石見家):石見の守護職を世襲。
    • 土岐氏(世保家):伊勢の守護職を世襲。土岐康行の乱以前までの土岐惣領家。
    • 武田氏(豆州家):若狭・安芸の守護職を世襲。甲斐武田家の別流。
    • 冨樫氏:加賀の守護職を世襲。
    • 今川氏:駿河の守護職を世襲。鎌倉府の担当地域に隣接している事からその監視の役目を負った。
    • 上杉氏(越後守護家):今川氏と同様の役目を負った。
    • 小笠原氏(信濃守護家):今川氏、越後守護上杉氏と同様の役目を負った。
    • 河野氏:伊予の守護職を世襲。

この他、厳密には幕府体制の枠組みには入っていないが、伊勢の守護職を断続的に世襲した北畠氏(伊勢国司)も国持衆(在国衆)に分類される事もある。

  • 准国持衆:国持に准ずる家。
    • 細川氏(奥州家):近世大名に成長した肥後細川氏の前身(血統的には上和泉家)。
    • 京極氏(加州家):嘉吉の乱で命を落とした京極高数の流れか。

時代によって変遷はあるものの、これら三職家から准国持衆までの20数家が室町幕府における「大名」と呼称された家々で[11]、俗に「室町二十一屋形」と呼ばれた(『京極家譜』)。 この「大名」と呼称された家々の他に、以下のような家格があった。

  • 御供衆:外様衆に次ぐ家格で、一部に国持衆並の格式を持つ家もあった。
    • 細川氏(淡路家):淡路の守護職を世襲。国持衆並。奉公衆の一番番頭。
    • 細川氏(備中家):備中の守護職を世襲。国持衆並。
    • 細川氏(典厩家):摂津中島郡の守護職を世襲。国持衆並。
    • 山名氏(因幡家):因幡の守護職を世襲。国持衆並。
    • 伊勢氏(勢州家):政所執事職を世襲。
    • 桃井氏:奉公衆の二番番頭。
    • 畠山氏(播州家):奉公衆の三番番頭。
    • 上野氏:奉公衆の三番番頭。
    • 畠山氏(中務少輔家):奉公衆の四番番頭。
    • 大舘氏:奉公衆の五番番頭。
    • 細川氏(野州家):伊予宇摩郡の守護職を世襲。
    • 一色氏(式部少輔家):一色持範の系統。
  • 申次衆:御部屋衆に次ぐ家格。一部に御供衆、御部屋衆と重複する家がある。
    • 伊勢氏(備中家):北条早雲を出した家と考えられる。
    • 畠山氏
    • 大舘氏
    • 上野氏
    • 荒川氏


  • 御一家衆:将軍の親族として遇され、三職並み(一説には三職以上とも)の格式があった。
    • 吉良氏(西条家):御一家衆筆頭とされる。引付方の頭人などに任じられた。
    • 吉良氏(東条家):西条家よりも早くに幕府へ帰順した為、当初は西条家よりも重んじられた。
    • 渋川氏(京都家):当初は九州探題職に任じられていたが、後に京都へ移りさらに関東へ移った。
    • 石橋氏(京都家):足利一門の貴種として貴ばれたが、後に本家筋の斯波氏を頼り尾張へ下向。

この他 石塔氏を御一家衆に含む場合もある。

関東

関東8ヶ国および甲斐国伊豆国の併せて10ヶ国(後に奥羽2ヶ国も追加)は鎌倉府の管轄となり、京都の将軍の代理である「鎌倉公方(鎌倉御所・鎌倉殿)」を首長とし、「関東管領」がそれを補佐する体制がとられた。鎌倉府においては源平時代以来の有力な名族を「関東八屋形」に列させるなど独自の家格が整えられていき、その一方で京都の将軍と直接主従を結ぶ「京都扶持衆」なども存在した。

  • 関東管領
  • 関東諸勢力
    • 宇都宮氏 :宇都宮朝綱を家祖とする。下野の守護職を主に世襲。関東八屋形の一つ。京都扶持衆。
    • 上杉氏(扇谷家):相模の守護職を世襲。惣領・山内家を凌ぐほどの勢力を誇った。
    • 三浦氏 :主に相模の守護職を世襲。佐原氏の後裔。
    • 小田氏 : 八田知家を家祖とする。常陸筑波郡に勢力を誇った大身領主。関東八屋形の一つ。
    • 小山氏 : 小山政光を家祖とする。下野の守護職を主に世襲。関東八屋形の一つ。
    • 佐竹氏 : 佐竹昌義を家祖とする。常陸の守護職を世襲。関東八屋形の一つ。
    • 佐竹氏(山入家) : 佐竹氏の分家。血統的には佐竹氏の男系。京都扶持衆。
    • 千葉氏 : 千葉常兼を家祖とする。上総・下総の守護を世襲。関東八屋形の一つ。
    • 吉良氏(武蔵家):奥州吉良家の後裔。「吉良御所(世田谷御所・蒔田御所)」と尊称された。
    • 梁田氏 : 常陸平氏の一族。鎌倉公方および古河公方の強力な与党の一つ。
    • 長沼氏 : 長沼宗政を家祖とする。下野芳賀郡に勢力を誇った大身領主。関東八屋形の一つ。
    • 大掾氏 : 常陸平氏の惣領格。長沼氏没落後に関東八屋形に列したとも。京都扶持衆。
    • 小栗氏 : 常陸平氏の一族。京都扶持衆。
    • 真壁氏 : 常陸平氏の一族。下総葛飾郡を中心に勢力を張った。京都扶持衆。
    • 那須氏 : 那須資隆を家祖とする。下野那須郡の大身領主。関東八屋形の一つ。京都扶持衆。
    • 結城氏 : 結城朝光を家祖とする。下総結城郡を中心に勢力を張った大身領主。関東八屋形の一つ。
    • 武田氏(甲斐家) : 甲斐の守護職を世襲。京都扶持衆。
    • 武田氏(庁南家):兄系上総武田氏。
    • 武田氏(真里谷家):弟系上総武田氏。小弓公方を擁立し「房総管領」を自称。

九州

九州は平安時代以来の豪族や鎌倉幕府以来の御家人の後裔が割拠し、また南朝勢力が南北朝時代末期まで健在だったこともあり、諸勢力が入り乱れる難治の地であった。一応は九州探題が幕府出先機関として存在したが、敵味方問わず九州の伝統的諸勢力は容易に探題に従わず、また中央政府である室町幕府も積極的に探題を援助しなかったため、相伴衆である周防の大内氏が筑前の守護職を兼ねて九州諸勢力と対峙することとなった。

  • 九州探題
    • 渋川氏 : 御一家系渋川氏(京都家)の別流で、時代によって断続的に肥前の守護職も兼ねた。
  • 九州三守護家 
    • 少弐氏 : 主に筑前守護職を世襲。名目上は三前(筑前・肥前・豊前)守護を自認。
    • 大友氏 : 主に豊後守護職を世襲。名目上は三後(豊後・筑後・肥後)守護を自認。
    • 島津氏 : 主に薩摩守護職を世襲。名目上は三奥(薩摩・大隅・日向)守護を自認。
  • 九州諸勢力
    • 麻生氏 : 筑前遠賀郡を拠点とした大身領主。幕府の奉公衆にも名を連ねる。
    • 宗像氏 : 古代豪族以来の出自を称し、筑前宗像郡を中心として広く玄界灘沿岸に勢力を張った。
    • 原田氏 : 古代からの豪族大蔵氏の惣領という。筑前怡土・志摩両郡(糸島)を拠点とした。
    • 秋月氏 : 大蔵氏の一族。筑前秋月郡に勢力を張った。
    • 宇都宮氏(城井家) : 下野宇都宮氏の分家。豊前仲津郡城井郷を中心に栄えた大身領主。
    • 今川氏(持永家) :肥前佐賀郡を拠点とした 今川了俊の弟である今川仲秋の後裔。
    • 千葉氏(九州家): 下総千葉氏の分家。肥前小城郡を中心に栄えた大身領主。
    • 有馬氏 : 肥前高来郡を拠点とした大身領主。
    • 蒲池氏 : 「筑後十五城」の旗頭と謳われた筑後最大の大身領主。
    • 小代氏 : 肥後北部に勢力を張った大身領主。
    • 菊池氏 : 南朝の主勢力であったが後に室町幕府に帰順し肥後の守護職を世襲した。
    • 阿蘇氏 : 古代豪族である阿蘇国造の出自を称し、古来より肥後阿蘇郡一帯を支配した。
    • 名和氏 : 名和長年の後裔。肥後八代郡を中心に勢力を張った。
    • 相良氏 : 肥後球磨郡を中心として肥後南部に勢力を張った。
    • 伊東氏 : 日向最大の大身領主。最盛期は幕府から偏諱や高位の官位を与えられた。
    • 北郷氏 : 日向庄内(諸県郡一帯)の大身領主。島津一門だが、幕府より直接所領を安堵された。
    • 肝付氏 : 古代豪族の大伴氏の後裔という。大隅最大の大身領主。
    • 宗氏 : はじめ少弐氏の下で対馬守護代を務めていたが、やがて宗氏自体が対馬の守護を世襲した。

奥羽

陸奥国および出羽国は広大な為に守護は置かれず、代わりに奥州探題と羽州探題を設置し、その下に数多くの武家が郡規模で割拠した。これら諸勢力ははじめ奥羽の探題および関東公方に伺候することになっていたが、やがて関東の諸侯と同じように京都扶持衆となって直接京都の幕府の支配下に入るなど、事実上の分郡守護となる家も見られた。

  • 奥州探題
    • 大崎氏 : 斯波氏の分家で陸奥の探題職を世襲。
  • 奥州諸勢力
    • 斯波氏(高水寺家) : 斯波氏の分家で紫波郡を拠点とし、「高水寺御所(紫波御所)」と尊称された。
    • 石橋氏(塩松家) : 御一家系石橋氏(京都家)の別流。「塩松殿」と尊称された。京都扶持衆。
    • 北畠氏(浪岡家) : 北畠顕家の後裔とされる。幕府支配下ではないが「浪岡御所」と尊称された。
    • 伊達氏 : 伊達郡をはじめ後に出羽南部にも進出し戦国期には新設の陸奥守護職ともなった。京都扶持衆。
    • 葛西氏 : 伝統的な奥州有力武家で、鎌倉時代以来の「奥州総奉行」を自認した。
    • 南部氏 : 奥州北部を一族で広く領有し、北奥最大の勢力を誇った。京都扶持衆。
    • 留守氏 : 宮城郡を拠点とした大身領主。源頼朝以来の「奥州留守職(陸奥留守職)」を自認した。
    • 結城氏(白河家) : 下総結城氏の分家。京都扶持衆。
    • 蘆名氏 : 会津郡を中心に広く栄え、「会津守護」を自認した。京都扶持衆。
    • 岩城氏 : 岩城郡を拠点とした大身領主。京都扶持衆。
    • 稗貫氏 : 稗貫郡を拠点とした大身領主。
    • 相馬氏 : 行方郡を拠点とした大身領主。京都扶持衆。
    • 足利氏(篠川家) : 安積郡篠川に拠り「篠川公方」と尊称された。京都扶持衆。
    • 畠山氏(二本松家) : 管領畠山氏の分家で、その兄系になる。安達郡を拠点とした。
    • 和賀氏 : 和賀郡を拠点とした大身領主。
    • 阿曽沼氏 : 奥州遠野郷を中心に栄えた。
    • 二階堂氏(須賀川家) : 岩瀬郡を拠点とした大身領主。幕臣の京都二階堂氏の分家。
    • 田村氏 :坂上田村麻呂を家祖にもつとされる。 田村郡を拠点とした。


  • 羽州探題
    • 最上氏 : 斯波氏の分家(大崎氏の分家)で出羽の探題職を世襲。
  • 奥州諸勢力
    • 大宝寺氏 : 庄内地方を拠点とした大身領主。
    • 天童氏 : 村山郡を拠点とした大身領主。
    • 安東氏(檜山家) : 下国安東氏とも。檜山郡を拠点とした大身領主。近世大名秋田氏の前身。
    • 安東氏(湊家) : 上国安東氏とも。秋田郡にを拠点とした大身領主。京都扶持衆。
    • 小野寺氏 : 雄勝郡を拠点とした大身領主。京都扶持衆。
    • 戸沢氏 : 仙北郡を拠点とした大身領主。
    • 浅利氏(比内家) : 比内郡(当時は陸奥国。後に秋田郡に編入)を拠点とした大身領主。

歴代将軍

名前と就任年(年号は義満まで北朝のもの)。

(10代 足利義材は足利義稙と同一人物なので、通常は義稙を代数に含まない[12]。代数に含む場合、義稙が12代、義晴が13代、義輝が14代、義栄が15代、義昭が16代となり、全16代15人となる)

脚注

  1. ^ 藤田達生「「鞆幕府」論」『芸備地方史研究』268・269号、2010年。 
  2. ^ 市川裕士「応永・永享年間における室町幕府の地方支配と地域権力」『室町幕府と地方支配と地域権力』戎光祥出版、2017年。ISBN 978-4-86403-234-6 
  3. ^ 市川裕士「嘉吉の乱後の室町幕府の地方支配と地域権力」『室町幕府と地方支配と地域権力』戎光祥出版、2017年。 
  4. ^ a b 「室町殿」 『国史大辞典』13 吉川弘文館、1992年、709頁。
  5. ^ 有光友學 編『戦国の地域国家』吉川弘文館〈日本の時代史12〉、2003年、16頁。 
  6. ^ 古野貢「中世後期地域権力論研究の視角」『市大日本史』第006号、2003年、109頁。 
  7. ^ 堀川康史「今川了俊の探題解任と九州情勢」『史学雑誌』125巻12号、2016年、1-24頁。 doi:10.24471/shigaku.125.12_1
  8. ^ 黒嶋敏「境界論と主従の関係(報告,シンポジウム「中世史学の未来像を求めて」,日本史部会,第一一〇回史学会大会報告)」『史学雑誌』122巻1号、2013年、101頁。 doi:10.24471/shigaku.122.1_101_1
  9. ^ 新田英治「中世後期の東国守護をめぐる二、三の問題」『学習院大学文学部研究年報』40号、1994年、56頁。 
  10. ^ 田沼睦「室町幕府と守護領国」『講座日本史3 封建社会の展開』東京大学出版会、1970年。 /所収:田沼睦『中世後期社会と公田体制』岩田書院、2007年。 
  11. ^ 二木謙一『中世武家の作法』吉川弘文館、1999年。 
  12. ^ 『国史大事典』(吉川弘文館)

関連項目

外部リンク