アラン・トゥーサン (Allen Toussaint, 1938年1月14日 - 2015年11月10日)は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれのピアニスト歌手ソングライタープロデューサー、アレンジャー。自らの演奏活動の他に、特に1960年代から70年代にかけて数多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ、ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマスリー・ドーシーアーニー・ケイドーミーターズラベルポール・サイモンザ・バンドなど、広範囲に渡る。

アラン・トゥーサン
アラン・トゥーサン (2004年)
基本情報
生誕 1938年1月14日
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 (2015-11-10) 2015年11月10日(77歳没)
スペイン マドリード
ジャンル R&Bブルースポップジャズ
職業 ミュージシャン、歌手、ソングライター、プロデューサー
担当楽器 ピアノ
活動期間 1952年 - 2015年
レーベル ミニット・レコード
リプリーズ・レコード
ワーナー・ブラザース・レコード
ナイノ・レコード
ヴァーヴ・フォアキャスト・レコード
ノンサッチ・レコード
共同作業者 リー・ドーシー
デイヴ・バーソロミュー
エルヴィス・コステロ など

来歴

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7歳のときにピアノを弾き始め、1952年、フラミンゴス(ドゥーワップのグループとは同名異グループ)を結成。このバンドにはギターにスヌークス・イーグリンが在籍していた。1955年デイヴ・バーソロミューの目に留まり、ファッツ・ドミノスマイリー・ルイスらのセッションに参加するようになる。これを機に、セッション・ピアニストとして名を上げていった。そして1958年リー・アレンのヒット"Walkin' With Mr. Lee"のアレンジを担当してからは、編曲者としても評価を受けるようになる。同年、初のソロ作『The Wild Sound of New Orleans』も発表している。

1960年、トゥーサンはミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ、彼のプロデュース、作曲による数多くのヒット曲が世に送り出されるようになった。その中にはジェシー・ヒルの「Ooh Poo Pah Doo」やベニー・スペルマンの「Fortune Teller」(ローリング・ストーンズのカバーでも有名)、アーマ・トーマスの「It's Raining」、リー・ドーシーの「Working in the Coal Mine」(1966年)などがある。当時彼は、自分の母親の結婚前の名前である"Naomi Neville"のペンネームで曲を書いていた[1]。60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどのレーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズのシーンに大きな足跡を残した。また、1965年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。

60年代は、自らの作品よりも他のアーティストのプロデューサーとして活躍したトゥーサンだが、70年代になると『From a Whisper to a Scream』(1970年)を始めとして、自己名義のアルバムを複数リリースした。『Southern Nights』(1975年)は、彼の代表作と言われている。アルバムに収められた「サザン・ナイツ」は1977年グレン・キャンベルによってカバーされ、キャンベルのバージョンはビルボード・Hot 100で1位を獲得した[2]。また1973年に「イエス・ウィ・キャン・キャン」をポインター・シスターズがカバーし全米11位を記録。

70年代には、マーシャル・シホーンと共同でシーセイント・スタジオを開設した。ラベルの「レディ・マーマレード」は彼のプロデュースにより、1975年に大ヒットした。他にも、ドクター・ジョンの『イン・ザ・ライト・プレイス』(1973年)や『デスティヴリー・ボナルー』(1974年)、アルバート・キングの『New Orleans Heat』(1978年)をプロデュースした。シングルカットされたドクター・ジョンの「ライト・プレイス・ロング・タイム」は全米9位を記録した。ウイングスの『ヴィーナス・アンド・マース』(1975年)にピアノで参加もしている。

80年代以降は、目立った活動は少ないが、1996年にはナイノ(Nyno)レーベルを設立(レーベル名はニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取ったものである)。同レーベルからは、自身のアルバム『Connected』(1996年)をはじめ、オリバー・モーガンレイモンド・マイルズなど、ニューオーリンズのアーティスト達がアルバムをリリースしている(ただし、2007年現在、同レーベルは休眠状態である)。また、1998年には、ロックの殿堂の非演奏者部門入りを果たした。

2005年ハリケーン・カトリーナで被災し、ニューオーリンズ市内の彼の家もシーセイント・スタジオも全壊してしまった。以後しばらくはニューヨークに拠点を構えたが、2009年以降はニューオーリンズに戻った[3]。自身の被災体験から、カトリーナ関連の多くのベネフィット・コンサート、アルバムなどに参加した。また同時期、エルヴィス・コステロとの共作『The River In Reverse』(2006年)をリリース、中島美嘉のシングル「All Hands Together」にも参加し、2006年5月にはプロモーションのため久々に来日、東京のクラブでソロ・コンサートを開いた。2009年には、収録曲のほとんどがインストゥルメンタルジャズ・アルバム『The Bright Mississippi』をノンサッチ・レコードからリリースした。

2015年、マドリッドでのコンサートの後に心臓発作にて死去[4]

ディスコグラフィ

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オリジナル・アルバム

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  • 1958年 The Wild Sound of New Orleans (Edsel)
  • 1970年 From a Whisper to a Scream (Scepter)
  • 1972年 Life, Love and Faith (Reprise)
  • 1975年 Southern Nights (Reprise)
  • 1978年 Motion (Warner Brothers)
  • 1996年 Connected (Nyno)
  • 2004年 Allen Toussaint's Jazzity Project/Going Places (Captivating Recording Technologies)
  • 2006年 The River In Reverse (Verve Forecast) ※エルヴィス・コステロとの共作
  • 2009年 The Bright Mississippi (Nonesuch)
  • 2013年 Songbook (Rounder/Universal)
  • 2016年 American Tunes (Nonesuch)

参加作品

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映像作品

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作曲作品

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トゥーサンのペンによる主な楽曲は、以下の通り。括弧内は、これらの曲を演奏した主なアーティスト名(トゥーサン本人は除く)。他にザ・バンドの曲のアレンジャーをつとめている。

プロデュース作品:シングル

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  • "Ya Ya"(リー・ドーシー、 1961)
  • "Right Place Wrong Time"(ドクター・ジョン、 1973)
  • "Lady Mamalade"(ラベル、 1974-75)

プロデュース作品:アルバム

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関連項目

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脚注

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出典

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外部リンク

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