クリスチャン・フィッティパルディ

クリスチャン・フィッティパルディ(Christian Fittipaldi、1971年1月18日 - )は、ブラジル出身の元レーシングドライバー。1991年の国際F3000選手権チャンピオン。

クリスチャン・フィッティパルディ
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 同・サンパウロ
生年月日 (1971-01-18) 1971年1月18日(53歳)
F1での経歴
活動時期 1992-1994
所属チーム '92-'93 ミナルディ
'94 フットワーク
出走回数 43
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 10
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初勝利
最終勝利
最終戦 1994年オーストラリアGP
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父はかつて存在したF1チームフィッティパルディのオーナーであるウィルソン・フィッティパルディ、叔父は元F1ワールドチャンピオンでインディ500優勝者でもあるエマーソン・フィッティパルディである。

甘いマスクで人気が高かったため、フジテレビF1中継において古舘伊知郎は「F1貴花田」「顔面トム・クルーズ」との異名で呼んだ。

経歴

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初期のキャリア

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父と叔父がレーサーである家庭環境もあって幼い頃からレーシングカートを走らせ、1988年には17歳の若さでブラジル国内のフォーミュラ・フォード選手権に出場。1989年に1年落ちのレイナード・883でサウスアメリカ・フォーミュラ3選手権にステップアップすると、参戦5戦目のジャカレバグア・サーキットポールポジションを獲得、次戦のインテルラゴス・サーキットでは初優勝を挙げる素性の良さを見せる。同年12月まで南米でのF3参戦を経て、将来のF1参戦を目指しヨーロッパに渡った。

F3 / F3000

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イギリスに渡るとウェストサリー・レーシング(WSR)の一員となり、同時期所属したチームメイトにはミカ・ハッキネン田中実がいる。 1990年のイギリス・フォーミュラ3選手権はハッキネンとミカ・サロによるチャンピオン争いで有名な年となるが、フィッティパルディは第9戦ドニントン・パークで優勝・PP・FLのハットトリックを達成するなど、ランキング4位となる。

キャリア初期から渡欧後もレース活動でのマネージメントは全て父・ウィルソンが行っていたが、イギリスF3への参戦後、チームメイトとなったハッキネンのマネージャーだったケケ・ロズベルグからもキャリア構築について助言を受けることがあった。1990年シーズン終了後はケケだけでなく、WSRの監督ディック・ベネットなど関係者の多くがもう一年イギリスF3で経験値を高めた方がよいという意見が多かったが、ウィルソンの直感で1991年から国際F3000選手権へのステップアップを決めた[1]

1991年にパシフィック・レーシングへ加入し、チームメイトは前年に1年F3000でのキャリアを積んでいるイタリアのアントニオ・タンブリーニとなった。フィッティパルディは国際F3000デビュー戦となる開幕戦ヴァレンシアで2位表彰台を獲得。第2戦ポーグランプリでも2連続で2位を獲得し、続く第3戦ヘレスではF3000初優勝を挙げるなど参戦初年度にしてチャンピオン争いをリード。シーズン中盤はエマニュエル・ナスペッティの4連勝や、確実に表彰台を獲得し続けるアレッサンドロ・ザナルディとのタイトル争いとなった。初優勝以来勝利が無かったが、最終戦ノガロで2勝目を挙げてザナルディを5ポイント差で振り切り、年間チャンピオンを獲得。シーズン終盤からはF1へのステップアップの報道が増え始めた。同年11月にはF1参戦前の総仕上げとしてマカオF3グランプリ制覇を目指し、単発契約でセオドール・レーシングと契約。マカオでの優勝は成らなかったが、1年ぶりのF3マシン搭乗で同年英国F3チャンピオン争いをしていたデビッド・クルサードジョルディ・ジェネに次ぐ3位表彰台に立った。

フォーミュラ1

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国際F3000タイトルを引っさげ、1992年開幕戦南アフリカGPミナルディからデビューした。同年のマシンM192はランボルギーニV12エンジンを搭載し、デザイナーのアルド・コスタと、空力専門家のルネ・ヒルホルストの共作でフロント部の空力デザイン、サスペンション設計など渾身作[2]だったことで開幕前より活躍を期待されていたが、実戦が始まるとV12エンジンの重量の重さがシャシー性能へ及ぼす悪影響が徐々に判明、想定よりエンジンパワーも低くチームメイトともども苦戦。さらにフランスGP予選中に首を負傷して3戦を欠場など試練のシーズンになった。10月、第15戦日本GPで6位初入賞を果たす。このフィッティパルディが獲得した1ポイントがこのシーズンのチーム唯一の獲得ポイントであった。

2年目の1993年、開幕戦南アフリカGPで4位を獲得と好スタートを切る。しかし、イタリアGPではゴール直前に同僚ピエルルイジ・マルティニのクルマに追突して空中で1回転し、マシンを破損したままゴールするというあわやの場面もあった[3]。幸いフィッティパルディのマシンは元通りに着地し、マルティニ7位、フィッティパルディ8位でチェッカーを受けた。シーズン最後の2戦はチームの運営資金難のため、新たなスポンサー資金を持ち込めるジャン=マルク・グーノンにシートを譲り欠場した。フィッティパルディはシーズン5ポイントを獲得し、ドライバーズランキング14位だった。

1994年にフットワークへ移籍。FA15は、前年マクラーレンが5勝を挙げたフォードHBエンジンのシリーズ7と8を譲り受けたもので、エレクトロニック・コントロールユニット(ECU)もマクラーレンが使用していたTAG製のもの搭載。設計者のアラン・ジェンキンスが前年型から空力面を見直した結果、中団で戦える性能を持っており[4]、チームメイトとなったジャンニ・モルビデリを上回る2回の4位入賞を記録。しかしチーム基盤を左右する親会社フットワークの撤退により「現在のF1でもっともカオスなチーム」「未定な部分が多くシーズン展望を予想できない状態」とチーム状態が報道される状況で翌年に向けた残留交渉が進まず[5]、最終戦終了後は翌年のシート交渉をザウバーティレルとした結果、年末の時点でハインツ=ハラルド・フレンツェンのチームメイトとしてザウバー入りが有力とされていたが、ペーター・ザウバーが負傷療養中のカール・ヴェンドリンガーの復帰も考慮していたため、ザウバー入りの最終合意に至らなかった。叔父のエマーソン・フィッティパルディからの助言もありF1シートに固執せず、良い体制での参戦が望めるCARTシリーズ参戦を決断した[6]

1995年よりアメリカに渡り、CARTシリーズにウォーカー・レーシング英語版よりフル参戦。初参加だったインディ500で2位に入る快挙などもあり、CARTのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

1996年よりトップチームの一角ニューマン・ハース・レーシングへ移籍。1999年のロードアメリカでCART初優勝を挙げた。

CARTでは2度の事故を経験しているが、1997年の第2戦サーファーズ・パラダイスにおいて足を複雑骨折した最初の事故は後遺症を残した。CARTシリーズには2002年まで8年間参戦して2勝1ポールポジションを記録した。

NASCAR

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フィッティパルディはアメリカのモーターレーシングにおけるもうひとつの人気シリーズであるNASCARに焦点を合わせ、2000年から2001年にかけ、ブッシュ・シリーズ(Busch Series)に3戦出場した。

それらのレースでは良い印象を残したとは言いがたかったが、その走りはリチャード・ペティの目にとまり、2002年の末にクリスチャンはペティ・エンタープライゼスと契約し、2003年の夏にはウィンストン・カップでデビューを飾った。

2003年、アンディ・ペトリーと1戦のみ契約し、ARCAでデイトナ500に初めて参戦し、夏にはジョン・アンドレッティの計らいで有名なカーナンバー43のクルマのドライバーとなった。フィッティパルディは苦戦したが、秋になると契約が更新され、チームに残留してカーナンバー44のクルマを運転した。

ペティ・エンタープライゼスから離れた後、2004年にベル・モータースポーツのドライバーの一人としてデイトナ24時間レースに出場し、優勝した。

その他の活動

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2005年はブラジルに戻り、国内で人気を誇るストックカーシリーズに参戦、それとは別に北米で開催されるGrand-Amシリーズにも出場し、フェニックスで優勝した。その後、ネルソン・ピケJr.の離脱後に、2005-2006シーズンA1グランプリのブラジルチームのステアリングを握ってもいる(最高位4位1回、チーム総合6位)。

2006年は、エディ・チーバーのチームからGrand-Amに出場するなど北米での活動に重点を置いたが、ブラジル国内のストックカーシリーズへも数戦にスポット参戦したほか、ル・マン24時間レースではプライベーターのサリーンS7Rを駆ってクラス6位、総合11位という成績を収めた。

エピソード

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  • フィッティパルディがF1デビューした1992年は日本でF1ブームの渦中にあったため、その端正なマスクと、出自の毛並みのよさが女性ファンの関心を集めた。フジテレビのF1中継やプロ野球ニュース内に毎週設けられていたF1コーナーでも次代のスターとしてプッシュされ、当時やはり人気と話題を集めていた大相撲の花田兄弟になぞらえて、古舘伊知郎から「F1貴花田」とニックネームを付けられた。また、顔が似ているとして「顔面トム・クルーズ」とも呼ばれた。
  • フジテレビはアイルトン・セナに続く次世代のブラジル人ヒーローになることを期待し、自局のF1関連番組に積極的に出演させたほか、『笑っていいとも!』に生出演したこともある。
  • 作詞家エッセイスト麻生圭子はクリスチャンびいきで知られた[要出典]
  • ヘルメットのデザインは父であるウィルソンのものを受け継いでいる。父は緑色ベースに黄色のワンポイントだったが、クリスチャンは配色を逆にして、黄色ベースに緑色のワンポイントとした。
  • 同郷のセナにはフィッティパルディ家の子息ということもあり可愛がられ、セナの死後に行われたモナコGPではヘルメットにセナのヘルメットシールをつけて出走した。

レース戦績

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イギリス・フォーミュラ3選手権

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チーム シャシー エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1990年 ウェスト・サリー・レーシング ラルト RT34 無限・MF204 A DON
4
SIL
14
THR
5
BRH
6
SIL
7
BRH
6
THR
5
SIL
8
DON
1
SIL
6
SNE
3
OUL
Ret
SIL
DSQ
BRH
5
DON
Ret
THR
4
SIL
2
4位 36

国際F3000選手権

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チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1991年 パシフィック・レーシング レイナード・91D 無限・MF308 A VLL
2
PAU
2
JER
1
MUG
3
PER
Ret
HOC
4
BRH
3
SPA
Ret
BUG
2
NOG
1
1位 47

マカオグランプリ

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チーム シャシー エンジン 周回 合計タイム LEG1 LEG2 総合順位
1991年   エデンブリッジ・セオドール・レーシング レイナード 913 無限・MF204 30 1:11:29.460 5 3 3位
チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1992年 ミナルディ M191B RSA
Ret
MEX
Ret
BRA
Ret
ESP
11
18位 1
M192 SMR
Ret
MON
8
CAN
13
FRA
DNQ
GBR GER HUN BEL
DNQ
ITA
DNQ
POR
12
JPN
6
AUS
9
1993年 M193 RSA
4
BRA
Ret
EUR
7
SMR
Ret
ESP
8
MON
5
CAN
9
FRA
8
GBR
12
GER
11
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
8
POR
9
JPN AUS 14位 5
1994年 フットワーク FA15 BRA
Ret
PAC
4
SMR
13
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
DSQ
FRA
8
GBR
9
GER
4
HUN
14
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
8
EUR
17
JPN
8
AUS
8
15位 6
チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 順位 ポイント
1995年 ウォーカー・レーシング レイナード・95i コスワース MIA
5
SRF
Ret
PHX
10
LBH
Ret
NZR
Ret
INDY
2
MIL
7
DET
17
POR
12
ROA
8
TOR
9
CLE
Ret
MIS
9
MDO
Ret
NHM
8
VAN
Ret
LS
Ret
15位 54
1996年 ニューマン・ハース・レーシング ローラ・T96/00 MIA
6
RIO
5
SRF
5
LBH
Ret
NZR
9
500
Ret
MIL
6
DET
2*
POR
3
CLE
7
TOR
7
MIS
10
MDO
7
ROA
Ret
VAN
3
LS
10
5位 110
1997年 スウィフト・007.i MIA
Ret
SRF
Ret
LBH NZR RIO STL MIL DET POR
4
CLE
6
TOR
11
MIS
Ret
MDO
Ret
ROA
4
VAN
Ret
LS
Ret
FON
9
15位 42
1998年 スウィフト・009.c MIA
4
MOT
Ret
LBH
Ret
NZR
11
RIO
Ret
STL
11
MIL
DNS
DET
17
POR
Ret
CLE
11
TOR
16
MIS
Ret
MDO
13
ROA
3
VAN
14
LS
9
HOU
Ret
SRF
3
FON
7
14位 56
1999年 スウィフト・010.c MIA
9
MOT
3
LBH
5
NZR
7
RIO
3
STL
9
MIL
6
POR
14
CLE
12
ROA
1
TOR
3
MIS
8
DET MDO CHI VAN LS HOU
7
SRF
Ret
FON
3
7位 121
2000年 ローラ・B2K/00 MIA
7
LBH
Ret
RIO
5
MOT
11
NZR
11
MIL
9
DET
Ret
POR
3
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS
Ret
CHI
DNS
MDO
3
ROA
Ret
VAN
4
LS
10
STL
12
HOU
6
SRF
Ret
FON
1
12位 96
2001年 ローラ・B01/00 トヨタ MTY
Ret
LBH
Ret
TXS
NH
NZR
5
MOT
4
MIL
Ret
DET
5
POR
3
CLE
11
TOR
Ret
MIS
Ret
CHI
Ret
MDO
8
ROA
Ret
VAN
11
LAU
Ret
ROC
Ret
HOU
8
LS
9
SRF
8
FON
13
15位 70
2002年 ローラ・B02/00 MTY
3
LBH
13
MOT
12
MIL
4
LS
2
POR
13
CHI
14
TOR
3
CLE
12
VAN
13
MDO
2
ROA
6
MTL
7
DEN
5
ROC
17
MIA
2
SRF
11
FON
7
MXC
15
5位 122

スポーツカー

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ロレックス・スポーツカー・シリーズ

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チーム シャシー エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
2003年 コダック・ベル・モータースポーツ ドラン・JE4 シボレー DP DAY
6
HMS PHX BAR FON WGL MDO DAY WGL MTT VIR DAY 39位 25
2004年 ポンティアック DP DAY
1
HMS PHX MTT FON WGL DAY MDO HMS
9
VIR
7
BAR
12
FON
13
27位 118
2005年 DP DAY
26
HMS
6
20位 199
クローン・レーシングTRG ライリー・Mk. XI FON
10
LGA MTT
5
WGL
2
DAY BAR
3
WGL MDO PHX
1
WGL
17
VIR
11
MEX
2006年 チーバー・レーシング クロウフォード・DP03 ポルシェ DP DAY
11
MEX
6
HMS
2
LBH
24
VIR
7
LGA
27
PHX
10
WGL
13
MDO
19
DAY
9
BAR
8
WGL
7
SNM
12
UTA
11
18位 313
2007年 DP DAY
14
MEX
17
HMS
14
VIR
15
LGA
11
WGL
18
MDO
8
DAY
17
IOW
14
BAR
11
MTL
4
WGL
7
SNM
13
UTA
13
17位 259
2008年 コヨーテ・CC/08 ポンティアック DP DAY HMS MEX VIR LGA WGL MDO DAY BAR MTL
2
WGL
6
SNM
15
NWJ
17
UTA
14
33位 58
2011年 アクション・エクスプレス・レーシング ライリー・Mk. XI ポルシェ DP DAY
3
HMS BAR VIR LIM WGL ELK LGA NWJ WGL MTL MDO 25位 30
2012年 コヨーテ・コルベットDP シボレー DP DAY
5
BAR HMS NWJ DET MDO ELK WGL IMS WGL MTL LGA LIM 30位 26
2013年 DP DAY
8
CTA
5
BAR
11
ATL
12
DET
2
MDO
1
WGL
1
IMS
14
ELK
2
KAN
4
LGA
7
LIM
14
4位 308

(key)

アメリカン・ル・マン・シリーズ

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2008年 アンドレッティ・グリーン・レーシング アキュラ・ARX-01b LMP1 SEB
6
STP
5
LBH
4
UTA
7
LIM MDO ROA MOS DET PET LGA 24位 38

ユナイテッド・スポーツカー選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2014年 アクション・エクスプレス・レーシング コヨーテ・コルベットDP P DAY
1
SEB
3
LBH
3
LGA
4
DET
6
WGL
3
MOS
4
IMS
1
ELK
1
CTA
3
PET
2
1位 349
2015年 P DAY
2
SEB
1
LBH
5
LGA
4
DET
3
WGL
3
MOS
5
ELK
2
CTA
6
PET
1
1位 309
2016年 P DAY
4
SEB
3
LBH
2
LGA
7
DET
2
WGL
1
MOS
2
ELK
2
CTA
3
PET
5
2位 311
2017年 マスタング・サンプリング・レーシング キャデラック・DPi-V.R P DAY
2
SEB
2
LBH
7
CTA
3
DET
4
WGL
1
MOS
6
ELK
6
LGA
5
PET
5
3位 284
2018年 P DAY
1
SEB
10
LBH MDO DET WGL
6
MOS
4
ELK LGA PET
4
19位 137
2019年 P DAY
7
SEB LBH MDO DET WGL MOS ELK LGA PET 33位 24

ル・マン24時間レース

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ル・マン24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
2006年   ACEMCO・モータースポーツ   ジョニー・モウレム
  テリー・ボーチェラー
サリーン・S7-R GT1 337 12位 7位
2007年   チーム・モデナ   アントニオ・ガルシア
  ヨス・メンテン
アストンマーティン・DBR9 GT1 318 17位 10位
2008年   テリー・ボーチェラー
  ヨス・メンテン
LMP1 302 30位 8位

デイトナ24時間レース

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デイトナ24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
2003年   ベル・モータースポーツ   ディディアー・セイス
  フォレスト・バーバー
  テリー・ボーチェラー
ドラン・JE4-シボレー DP 67 DNF DNF
2004年   テリー・ボーチェラー
  フォレスト・バーバー
  アンディ・ピルグリム
ドラン・JE4-ポンティアック DP 526 1位 1位
2005年   コダック・ベル・モータースポーツ   ポール・トレーシー
  テリー・ボーチェラー
  ラルフ・ケルナーズ
DP 328 DNF DNF
2006年   チーバー・レーシング   エディ・チーバー
  パトリック・カーペンティア
クロウフォード・DP03-レクサス DP 669 DNF DNF
2007年   エディ・チーバー
  エマニュエル・コラール
  サッシャ・マーセン
クロウフォード・DP03-ポルシェ DP 601 24位 14位
2011年   アクション・エクスプレス・レーシング   テリー・ボーチェラー
  J・C・フランス
  ジョアン・バルボーザ
  マックス・パピス
ライリー・Mk. XI-ポルシェ DP 721 3位 3位
2012年   デイビッド・ダナヒュー
  ダレン・ロー
コヨーテ・コルベットDP DP 758 5位 5位
2013年   ジョアン・バルボーザ
  バート・フリッセル
  マイク・ロッケンフェラー
DP 708 4位 4位
2014年   ジョアン・バルボーザ
  セバスチャン・ボーデ
P 695 1位 1位
2015年   ジョアン・バルボーザ
  セバスチャン・ボーデ
P 740 2位 2位
2016年   フェリペ・アルブケルケ
  ジョアン・バルボーザ
  スコット・プルーエット
P 731 4位 4位
2017年   マスタング・サンプリング・レーシング   フェリペ・アルブケルケ
  ジョアン・バルボーザ
キャデラック・DPi-V.R P 659 2位 2位
2018年   フェリペ・アルブケルケ
  ジョアン・バルボーザ
P 808 1位 1位
2019年   フェリペ・アルブケルケ
  ジョアン・バルボーザ
DPi 573 9位 7位

関連項目

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脚注

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  1. ^ インタビュー クリスチャン・フィッティパルディ Racing On No.103 74-79頁 武集書房 1991年9月1日発行
  2. ^ ミナルディM192、スペインGPでデビュー Racing On No.121 35頁 1992年6月15日発行
  3. ^ The Most Unusual Crashes in F1 History”. FORMULA 1 2017-10-03. 2022年1月20日閲覧。
  4. ^ Footwork Ford AS+F 1994F1総集編 50-52頁 1994年12月14日発行
  5. ^ 続々と決定'94年ラインナップ F1グランプリ特集 vol.57 55頁 1994年3月16日発行
  6. ^ C.フィッティパルディ インディに転向 F1グランプリ特集 vol.069 31頁 1995年3月16日発行

外部リンク

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タイトル
先代
エリック・コマス
国際F3000選手権
1991年
次代
ルカ・バドエル