クロード・チアリ

フランス出身のタレント、ギタリスト

クロード・チアリClaude Ciari、本名・戸籍名:智有 蔵上人/ちあり くろうど、旧名・通名:同じ、1944年2月11日 - )は、フランスニース出身のタレントギタリストプログラマ日本国籍。タレントのクリステル・チアリは娘。

クロード・チアリ
出生名 クロード・チアリ
別名 智有 蔵上人(本名・戸籍名、ちあり くろうど)
生誕 (1944-02-11) 1944年2月11日(80歳)
出身地 フランスの旗 フランス,ニース
学歴 ECOLE GRENIER SUR L'EAU PARIS卒業
ジャンル アコースティック
職業 ギタリスト
タレント
担当楽器 ギター
活動期間 1960年-
公式サイト 公式サイト

来歴等

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独学でギターを始め、フランスのECOLE GRENIER SUR L'EAU PARIS卒業。パリ証券取引所のコンピューター室に勤務。16歳でロックバンド「レ・シャンピオンズ(:fr:)」結成。ヨーロッパで大人気となり、演奏前の前座はビートルズが務めた。20歳でバンドから独立し、ソロ・アコースティックギタリストとして活動を始める。1964年にギター曲「夜霧のしのび逢い」が世界的にヒットし、「哀愁のギタリスト」として知られる。ただし「夜霧の -」は日本版タイトルであり、スペイン語の原曲タイトル「La playa」の意味は「浜辺」である。フランスのACCディスク大賞受賞。その後、映画『夜霧のしのび逢い』が公開されたが、世界的にはクロード・チアリの曲「夜霧のしのび逢い」とは関係ない。しかし、日本のみ、この曲を映画の随所に使用し公開された。

1967年に初来日。1975年に日本人と白系ロシア人とのハーフの女性で元モデルのジェーン矢田と結婚して日本に永住するようになる。1985年に日本に帰化し、日本名である2012年現在の本名・智有蔵上人に改名する。帰化したばかりの頃、ニコニコのりのテレビCMに出演し、お中元の署名としてこの日本名を毛筆で書き込むシーンが入っている。家族とは関西弁神戸弁)で話すため、海外旅行をするとホテルの従業員などに「あなたはどこの国の人なのか」と聞かれることがある。

1979年から放送のバラエティ番組アイ・アイゲーム』(フジテレビ)に解答者として出演。タレントとしても活動した。『年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ』(朝日放送)、『てるてる家族』(NHK)、『世界・わが心の旅』(BS2)『「午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)などの番組にも出演。

1989年には、「新自由クラブ」(河野洋平らが設立した新自由クラブとは別組織)から、第15回参議院議員通常選挙の比例代表区で出馬したが落選。

ギタリストになる前はコンピュータ技師をしており、パソコンにも造詣が深い。インターネットの前身、パソコン通信創生期の代表的な人物の一人である。1980年代から1990年代にかけて、NECが運営していたPC-VANでは「チアリコンピュータワールド」(旧称:「NEC98 by チアリ」)というSIGを運営。オンラインソフトの集積場として、PC-VANの看板的存在であったが、SIGの運営では独善的な面も見られ批判も多かった[1]

1995年の阪神・淡路大震災では、自身も被害を受けるも、日本各地でチャリティーコンサートを開催。震災復興に協力。1990年兵庫県文化功労賞、2005年西宮市民文化賞受賞。近年では、世界一周クルーズ乗船演奏会、世界豪華客船演奏会、コンサート、ディナーショー、講演会活動などをおこなっている。

代表曲

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出演

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テレビ番組

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ラジオ番組

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  • クロード・チアリのボンジュール三番街FM大阪、1978年 - 1989年) 約10年間続いていた番組だったが、参議院選選挙に出馬するため番組を終了した。
  • 桑原征平粋も甘いも水曜日(ABCラジオ、2012年5月 - 2013年3月)月1回のレギュラーゲスト扱いで出演

・このほか、東海テレビの1980年代後半のクロージングでの演奏も担当している。

補足事項

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脚注

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出典

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  1. ^ チアリのSIG運営を「週刊文春」1994年8月11日・18日号の記事が「独裁者」と表現。これを巡って名誉毀損の民事裁判となったが、チアリ側の敗訴。
  2. ^ 例えば、「キネマ旬報2006年12月上旬特別号の宮城正樹「懐かしのテレビ・ドラマ『特捜最前線』『服部半蔵 影の軍団』『柔道一直線』」では、チリアーノ名義でクロード・チアリが歌っているとしている。

関連項目

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外部リンク

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