中野信治

日本のレーシングドライバー

中野 信治(なかの しんじ、1971年4月1日 - )は、日本レーシングドライバー大阪府高槻市出身。

なかの しんじ
中野 信治
Shinji Nakano
中野信治 (2009年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1971-04-01) 1971年4月1日(53歳)
出身地 日本の旗 日本
同・大阪府高槻市
基本情報
F1での経歴
活動時期 1997-1998
所属チーム '97 プロスト
'98 ミナルディ
出走回数 33
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 2
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1997年オーストラリアGP
最終戦 1998年日本GP
テンプレートを表示
ル・マン24時間での経歴
2005-2008,2011-2014,2016
チームクラージュ・コンペティション
クリエイション・オートスポルティフ
エプシロン・ユースカディ
オーク・レーシング
最高位14位 (2011)
クラス優勝0

経歴

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カート

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実父の常治も家業と兼業しながらFFスーパーシビックレース全日本F2選手権などに参戦したレーシングドライバーであり、中野は父がレースに参戦する姿を鈴鹿サーキットで見て育つ[1]。1982年夏、11歳の中野を父がカート場に連れて行ったことがきっかけでレーシングカートを開始。それ以後は父が自身のレース活動を引退し、中野のカートチーム監督となりレースの参戦準備やマシン整備などを担当、まずは地方選手権から参戦をスタートする。なお、金石勝智光貞秀俊は同じカート大会に参戦しており、光貞は地方選手権時代に参戦クラスも同じだったことがある[2]

15歳の時に無限のカート活動のワークスドライバーに選抜されたのを機に、自身の将来を真剣に考え、将来レーサーとしてプロになりF1ドライバーになると決意する。その決意は普通の物ではなく、「絶対に実現させる」と意識を高める行動と志向を自分の中に作り、15歳ながら強固な決意だったと後年に自身で述懐している。周囲が楽しそうに遊んでいる多感な10代中盤にして、将来のF1を実現させるための継続した決め事として自宅内でストイックなフィジカルトレーニングも日々実行するようになっていたが、「やったからと言って行けるとは限らないけど、自分の意識を高める方法として私生活のなかに決めごとを作った。子供ながらに色々と真剣に考えてやっていた。」という[3]。1987年、香港で行われた国際カートGPで日本人初優勝(大会史上最年少優勝)を勝ち取った。

四輪デビュー/イギリス修行

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1989年、戸田レーシングより全日本F3選手権にデビュー。カート出身の中野はそれまで四輪に乗った事はなかったため、初めてミッション付きに乗った四輪デビューはこのF3マシン(ラルト・RT31 / 無限・MF204)であった[4]。コース幅が狭いため予選通過台数が少なくなる筑波大会では予選落ちを喫したが、それ以外は全て決勝レースを完走。第9戦西日本サーキットでは入賞直前の7位を記録した。

翌1990年、無限の本田博俊の勧めもあり、中嶋企画のマネージメントにより19歳で単身イギリスに渡り、野田英樹と共にロンドン郊外の中嶋悟の家に居候しながら、英語の習得を目指す武者修行に出る。レース参戦時の実務面は提携したイギリスのクリスタル・レーシングから出走し、フォーミュラ・ボクスホール・ロータス(FVL)に参戦。マシンは中嶋企画を支援するPIAAカラーとなった。シルバーストン・サーキットヴィンセンツォ・ソスピリルーベンス・バリチェロを破り1勝を挙げ、シーズンランキングでもソスピリ、ジル・ド・フェランデビッド・クルサードに続くランキング5位を獲得。なお、バリチェロのほかケルビン・バートなども同シリーズに参戦のライバルだった。

同年はヨーロッパのサーキットを数多く経験するためにフォーミュラ・オペル・ロータス・ユーロ選手権(媒体によりGMロータス・ユーロシリーズとも呼ばれる)にも参戦しダブルエントリーだった。こちらではFVLでもライバルであるソスピリ、ド・フェラン、バリチェロのほか、マルセル・アルバースケニー・ブラックペドロ・ラミーアンドレ・リベイロミハエル・クルムらと競い、腕を磨いた。同シリーズはF1のヨーロッパラウンドのサポートイベントとして同じ週末に同時開催されることも多く、F1パドックの様子を知ることもできた[5]

1991年はオペル・ロータス・ユーロシリーズでの2シーズン目となり、ポール・スチュワート・レーシング(PSR)から参戦し、ポールポジションファステストラップを1度ずつ獲得した。同年のPSRはクルサードが所属してイギリスF3選手権に参戦していたため、中野は1年間クルサードと同じ部屋で生活するルームメイトでもあった[6]。2年のイギリス生活を経て、英語力も中野の武器の一つとなった[3]

F3/F3000

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1992年より、中嶋企画から全日本F3と全日本F3000にダブルエントリーすることが発表された。しかし、特にF3においてはチームが採用した新車であるラルト・RT36がその前影投影面積の大きさから致命的なストレートの遅さを抱え、旧型RT35を使用の他チームよりラップタイムで1秒、直線の長い富士では2秒以上離されることが続くなど苦戦[7]。RT36を開幕戦のみであきらめマシンをスイッチするチームが多い中、PIAAナカジマは使用を継続したため成績が出ず、第3戦富士では予選不通過に終わるなど他車のスリップストリームに入ることが出来ない致命的な直線の遅さに悩み続けた[8]。F3000でも悪循環が続き、同年をもって中嶋企画を離れる。

1993年より、スーパーノヴァ・レーシングへ移籍。参戦カテゴリーを全日本F3のみに参戦を集中させた。チームメイトは井上隆智穂。同年は2位表彰台を3度獲得するなど安定した結果を残し、ランキング5位を獲得。1994年からスーパーノヴァが井上とヴィンセンツォ・ソスピリの2台体制で国際F3000選手権への挑戦を開始するにあたり、国内のF3はシャシーメンテナンスを担当した元F1チームメカニックの藤池省吉が監督となり「シオンフォーミュラ Ltd.」へと引き継がれ、中野は引き続き全日本F3に参戦。第2戦富士にてポール・トゥ・フィニッシュで待望のF3初勝利を挙げるなどランキング3位を獲得した。同年の夏には全日本F3での走りを有望と見なされた影山正美高木虎之介と中野の3名に全日本F3000選手権(後にフォーミュラ・ニッポンと改称)の第7戦鈴鹿ラウンドに参戦する機会を与えられた。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災に見舞われたこの年、大阪を拠点とする名門スピードスターレーシング (SSR)より全日本F3000に参戦することになったが、震災の影響もあり、京都を拠点とする童夢とのジョイント体制となった。しかしSSRはシーズン途中で撤退を余儀なくされ、チームは童夢の単独体制となった。童夢では監督の松本恵二の薫陶を受ける[9]。また、童夢のスポンサーにavexがついていたことで松浦正人との交流が生まれ、以後のavexによる中野への支援の発端の年となった[10]1996年フォーミュラ・ニッポン参戦と平行して、童夢のF1テストカーF105のテストドライブも行った。

1997年にプロスト・グランプリよりF1にデビューし、日本人5人目のF1レギュラードライバーとなる。成績は6位入賞2回。1998年はミナルディより参戦。1999年はジョーダンのテストドライバーを務めた(F1参戦時代は後述)。

2000年よりホンダの誘いを受けてアメリカのCARTへ転向。オーバルトラックでのテスト中にクラッシュし、脳内出血により3戦を欠場した[11]。CARTには3シーズン参戦し、2002年には最高4位を記録したが、ホンダの撤退によりレギュラーシートを失う。2003年はIRLにスポット参戦した。

世界三大レース参戦

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2005年よりスポーツカーレースに参戦し、日本人として初めて世界三大レース(F1モナコGPインディ500ル・マン24時間レース)の全てに参戦した[12]。2009年にはアジアン・ル・マン・シリーズで初代シリーズチャンピオンを獲得。2017年にはスーパー耐久にシリーズ参戦するなど、40歳を超えても現役活動を続けている。2006年の取材では「パリダカにも出たら?という誘いが来たことがあるんです。40歳を越えたら参戦してみたいなと。それが実現したら世界4大イベントになりますね(笑)」とコメントしたことがある[1]

現在

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レーシングドライバー以外にも活躍の場を広げており、2009年6月には中日本自動車短期大学の客員教授に就任。その他、環境保護やチャリティー活動に積極的に取り組んでいる。

2016年よりDAZNのF1生配信の日本語での解説をつとめている。

2019年から鈴鹿サーキットレーシングスクールの四輪部門(SRS-Formula・SRS-Kart)のVice Principal(副校長)を務める(Principal(校長)は佐藤琢磨[13][14]。また、無限のスーパーGTスーパーフォーミュラのチーム監督にも就任[15]。その後、2020年限りで無限の監督を退任した[16]

F1時代

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1997年

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中野は1996年秋の日本GP直後に鈴鹿でのリジェのテストに参加し、セッティングや英語力の試験を受けた結果、チェーザレ・フィオリオ監督に認められて1997年のドライバー契約を結んだ。特に英語での意思疎通に関しては難なくクリアし、「19歳で渡英した経験があったおかげだけど、それが7年以上たってから役に立ったということです。15歳から真剣に考えて続けてきたことすべては未来に繋がっていたなと思えた。」と当時の心境を語っている[3]。中野はカート時代より無限の支援を受けており、リジェは無限ホンダエンジンを搭載するチームだった。日本人ドライバーとしては中嶋悟ロータスホンダ)に次ぐ良い条件でのF1デビューになると思われた。

しかし、1997年シーズン開幕前にチームが売却されF1チャンピオンのフランス人ドライバー、アラン・プロスト率いる「プロスト・グランプリ」へと体制が大きく変更された。加えて、1998年からプジョーエンジンを搭載することが決まったため、中野の立場は微妙なものになった。

チームのリソースはエースドライバーのオリビエ・パニスに集中され、中野はテストドライブの機会やセッティングの権限を与えられなかった。チームミーティングはフランス語で行われ、パニスは「シンジにも彼が走りやすい環境を作ってやってほしい」と同情したほどだった。負傷欠場したパニスの代役として出場したヤルノ・トゥルーリの活躍の陰にも隠れてしまったが、後半戦はテストも行えるようになり、ハンガリーGPではフェラーリエディ・アーバインとの激しいバトルを制して6位入賞した(他にカナダGPでも6位)。なお中野はプロストチームでの待遇について、「たしかにアラン・プロストが来て僕はかなりやりづらくなった。リジェのままだったら違っていたと思う。プロストはドライバーの成長を待つタイプの人ではなく、待てない人。だから最初から速かったトゥルーリを当然乗せたがる訳です。F1のチームオーナーとしては正しいんだと思う。人を育てるとか作っていくという部分ではどうかなと思うけど…。結局は彼(プロスト)が望んでるような走りを、僕が出来なかったからなんですよ。人種差別とかの問題では全くないんです。僕がプロストでのトゥルーリのように、来て1戦目からトップ争いなんかしてたら違ったでしょうねそれは。僕がシューマッハのような天才だったらよかったんでしょうけど、そうじゃなかった。」と2000年の取材で述べている。また、プロストでのこの経験を経て「日本のレース界ってすごく時間があるんですよ。ある程度誰でも順応できる環境になっていて、それはそれで素晴らしい事なんだけど、最終的には誰でもある程度速く走れるようになる。日本で上手になるって言うのは練習とか経験に裏打ちされて出来た上手さであって、本当の意味での天性の速さっていうのは、短い時間の限られた中でもすぐ速さを見せるって言うのは別ものです。僕はイギリスから戻ったあと、長く日本のレースの中にいて日本の癖がついてしまった。それは(最初から結果を要求される)F1ではマイナスになったなと思った。」と述べている[17]

1998年

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スペインGP

翌1998年はプロストから離脱し、開幕前まで所属チームが決まらなかったが、引退した片山右京の後任としてミナルディへ加入した。この時はイタリアでの契約交渉が不調に終わり、帰国前日にミラノでショッピングをしていたところ、当時ミナルディのオーナーだったガブリエーレ・ルミとモンテナポレオーネ通りで偶然対面し契約に至らなかった理由を尋ねた所、中野の代理人が提示した条件が事実と異なっていた事が判った。そこで改めてその場で話し合いを持ち契約にこぎつけたというエピソードがある[18]

チームの財政難と競争力の低いマシンの為に苦しいシーズンとなったが、シングルフィニッシュ4回[19] と見せ場を作った。また、日本人初の6戦連続完走を果たしている[20]。チームオーナーからも高評価を受けたが、チームには残れずF1シートを失った。

1999年

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1999年にはジョーダン・無限ホンダのテストドライバーに就任。デイモン・ヒルがシーズン途中に引退を示唆した際にはレギュラー昇格の可能性があったが、結局ヒルが最終戦まで現役続行したため中野にチャンスは巡ってこなかった。

年表

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アジアン・ル・マン・シリーズに参戦する中野(2009年)
  • 2009年 アジアンルマンシリーズ参戦(ソラ・レーシング) 岡山国際サーキット 総合優勝
  • 2011年 ル・マン24時間レース参戦(OAK ペスカロロ #49 BMW) 総合14位
  • 2012年
    • ル・マン24時間レース参戦(Boutsen Ginion Racing #45 オレカ・03ニッサン) 総合24位
    • FIA 世界耐久選手権 第7戦富士スポット参戦 (ADRデルタ #25 オレカ03・ニッサン) LMP2クラス優勝・総合8位
  • 2013年
    • ル・マン24時間レース参戦(デルタ-ADR #25 オレカ・03ニッサン) リタイア
    • FIA 世界耐久選手権 第6戦富士スポット参戦 (ADRデルタ #25 オレカ03・ニッサン) LMP2クラス5位・総合8位
  • 2014年 ル・マン24時間レース参戦(Team Taisan #70 Ferrari・458)LM GTE AMクラス8位・総合28位
  • 2015年
    • アジアンルマンシリーズ 第1~2戦スポット参戦 (レース・パフォーマンス #8 オレカ・03R)LMP2クラス優勝・総合優勝
    • マセラティ トロフェオグランツーリスモMCワールドシリーズ 第5戦鈴鹿スポット参戦 レース1・3位入賞
  • 2016年
    • ル・マン24時間レース参戦(レース・パフォーマンス #34 オレカ・03R)LMP2クラス18位・総合44位
    • ヨーロピアンルマンシリーズ 第2戦スポット参戦 (レース・パフォーマンス #34 オレカ・03R)総合9位
    • FIA 世界耐久選手権 第7戦富士スポット参戦 (マノー #45 オレカ・05)LMP2クラス11位・総合29位
    • SUPER GT 第6戦鈴鹿1000kmスポット参戦 (Team TAISAN SARD #26 Audi R8 LMS)GT300クラス20位
  • 2017年 スーパー耐久参戦(Modulo Racing Project #97 ホンダ・シビックタイプR)ST-TCRクラス シリーズ2位・2勝

レース戦績

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全日本F3選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 DC ポイント
1989年 TODA RACING ラルト・RT31 無限・MF204 SUZ
17
FSW SUZ SEN
C
TSU
DNQ
SUG
13
TSU
17
SUZ
16
NIS
7
SUZ
11
NC 0
1992年 NAKAJIMA PLANNING ラルト・RT36
ラルト・RT35
SUZ
18
TSU
11
FSW
DNQ
SUZ
11
SEN
13
AID
9
MIN
10
SUG
Ret
SUZ
21
NC 0
1993年 SUPER NOVA ダラーラ・F393 SUZ
8
TSU
4
FSW
2
SUZ
12
SEN
9
AID
5
MIN
2
SUG
Ret
SUZ
4
5位 20
1994年 SHION FORMULA SUZ
3
FSW
1
TSU
7
SUZ
2
SEN
4
TOK
3
MIN
6
AID
Ret
SUG
2
SUZ
8
3位 33

全日本F3000/フォーミュラ・ニッポン

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エントラント 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1992年 NAKAJIMA PLANNING SUZ
DNQ
FSW
12
MIN
Ret
SUZ
DNQ
AUT
Ret
SUG
Ret
FSW
12
FSW
13
SUZ
14
FSW
16
SUZ
9
NC 0
1994年 acom RACING TEAM NOVA SUZ FSW MIN SUZ SUG FSW SUZ
Ret
FSW FSW NC 0
NAKAJIMA PLANNING SUZ
Ret
1995年 スピードスターホイールレーシングチーム SUZ
Ret
FSW
C
MIN
7
SUZ
Ret
SUG
3
FSW
Ret
11位 6
エイベックス 童夢 with 無限レーシングチーム TOK
5
FSW
9
SUZ
8
1996年 TEAM avex 童夢 with 無限 SUZ
2
MIN
13
FSW
Ret
TOK
9
SUZ
6
SUG
7
FSW
3
MIN
2
SUZ
9
FSW
4
6位 20

フォーミュラ1

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1997年 プロスト JS45 無限ホンダ MF-301HB 3.0 V10 AUS
7
BRA
14
ARG
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
6
FRA
Ret
GBR
11
GER
7
HUN
6
BEL
Ret
ITA
11
AUT
Ret
LUX
Ret
JPN
Ret
EUR
10
18位 2
1998年 ミナルディ M198 フォード JD Zetec-R 3.0 V10 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
13
SMR
Ret
ESP
14
MON
9
CAN
7
FRA
17
GBR
8
AUT
11
GER
Ret
HUN
15
BEL
8
ITA
Ret
LUX
15
JPN
Ret
NC 0

アメリカン・オープン=ホイール・レーシング

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 ランク ポイント
2000年 ウォーカー・レーシング レイナード 2Ki ホンダ HR-0 V8t MIA
8
LBH RIO MOT
14
NZR
Wth
MIL
23
DET
15
POR
11
CLE
15
TOR
14
MIS
20
CHI
13
MDO
19
ROA
22
VAN
19
LS
26
STL
21
HOU
8
SRF
21
FON
16
24位 12
2001年 フェルナンデス・レーシング レイナード 01i ホンダ HR-1 V8t MTY
18
LBH
12
TXS
NH
NZR
15
MOT
8
MIL
16
DET
13
POR
22
CLE
22
TOR
9
MIS
22
CHI
16
MDO
18
ROA
15
VAN
14
LAU
22
ROC
17
HOU
15
LS
21
SRF
12
FON
21
26位 11
2002年 ローラ B02/00 ホンダ HR-2 V8t MTY
15
LBH
12
MOT
10
MIL
18
LS
14
POR
11
CHI
5
TOR
4
CLE
10
VAN
11
MDO
9
ROA
11
MTL
9
DEN
16
ROC
16
MIA
14
SRF
13
FON
15
MXC
14
17位 43

IRL・インディカー・シリーズ

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ランク ポイント
2003年 ベック・モータースポーツ ダラーラ・IR-03 ホンダ HMS PHX MOT
11
INDY
14
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS STL KTY NZR CHI FON TX2 29位 35

全日本GT選手権/SUPER GT

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2004年 チーム国光 with MOON CRAFT ホンダ・NSX GT500 TAI
Ret
SUG
8
SEP
15
TOK
10
TRM
9
AUT
10
SUZ
9
13位 9
2016年 Team TAISAN SARD アウディ・R8 LMS ウルトラ GT300 OKA FSW SUG FSW SUZ
20
CHA TRM TRM NC 0
2018年 Team TAISAN GT300 OKA FSW
DNR
SUZ CHA FSW
Ret
SUG AUT TRM NC 0

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
2005年   クラージュ・コンペティション   ジョナサン・コシェ
  ブルース・ジュアニー
クラージュ・C60H-ジャッド LMP1 52 DNF DNF
2006年   ジャン=マルク・グーノン
  黒澤治樹
クラージュ・LC70-無限 35 DNF DNF
2007年   クリエイション・オートスポルティフ Ltd.   ジェイミー・キャンベル=ウォルター
  フェリペ・オルティス
クリエイション・CA07-ジャッド 55 DNF DNF
2008年   エプシロン・ユースカディ   ステファン・ヨハンソン
  ジャン=マルク・グーノン
エプシロン・ユースカディEE1-ジャッド 158 DNF DNF
2011年   オーク・レーシング   ニコラ・ド・クラム
  ヤン・チャロウズ
オークペスカロロ・01 Evo-ジャッド LMP2 313 14位 5位
2012年   ブーツェン・ジニオン・レーシング   バスチャン・ブリエール
  イェンス・ピーターセン
オレカ・03-日産 325 24位 10位
2013年   デルタ-ADR   トア・グレイヴス
  アーチー・ハミルトン
101 DNF DNF
2014年   チーム・タイサン   マーティン・リッチ
  ピエール・エーレット
フェラーリ・458 Italia GT2 GTE
Am
327 28位 8位
2016年   レース・パフォーマンス   ニコラス・ロイトヴィラー
  ジェームズ・ウィンスロー
オレカ・03R-ジャッド LMP2 289 44位 17位

FIA 世界耐久選手権

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エントラント クラス 車両 エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ランク ポイント
2012年 ADR-デルタ LMP2 オレカ・03 日産 VK45DE 4.5 L V8 SEB SPA LMS SIL SÃO BHR FUJ
8
SHA 41位 4
2013年 デルタ-ADR SIL SPA LMS
Ret
SÃO COA FUJ
4
SHA BHR 26位 6
2016年 マノー オレカ・05 SIL SPA LMS NÜR MEX COA FUJ
11
SHA BHR 32位 0.5

出演

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ネット配信

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  • WEDNESDAY F1 TIME(DAZN、2021年3月 - )- 解説

脚注

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  1. ^ a b ピープル・中野信治 夢を話そう、離さぬために 夕刊フジzakzak 2006年2月2日
  2. ^ カーティング・堺カートランド地方選手権A2部門 中野信治選手がタイムトライアルからのパーフェクト優勝、ポイントでも首位に立った。中野選手のチーム監督は、元F2ドライバーのパパ・中野常治。 オートスポーツ No.399 129-131頁 三栄書房 1984年7月15日発行
  3. ^ a b c PEOPLE中野信治 夢を叶える思考法 メディアプレス DAIKANYAMA COLLECTION
  4. ^ F1 TIME PLUS 新幹線日本グランプリ号 by Lenovo(10分01秒頃-) DAZN Youtubeチャンネル 2024年4月4日
  5. ^ Formula Opel Lotus Euroseries 1990 Driver Database
  6. ^ 昔のルームメートと再会しました 公式Twitterアカウント 2018年10月6日
  7. ^ F3合同タイヤテスト鈴鹿 Motorsports Forum 1992年2月17日
  8. ^ 富士も苦しんだRT36勢・現在ラルトでデザイナーが対策中 Racing On No.121 47頁 1992年6月15日発行
  9. ^ 松本恵二さんを偲んで 中野信治公式ウェブサイト 2015年5月日
  10. ^ 旧公式ホームページ
  11. ^ "中野信治選手、ドクターストップによりやむなく3戦を欠場". HONDA.(2000年4月7日)2013年4月25日閲覧。
  12. ^ 中野信治 公式ウェブサイト PROFILE”. 2021年9月2日閲覧。
  13. ^ 鈴鹿サーキットのドライバー育成機関「SRS-Kart」「SRS-Formula」、中嶋悟校長が勇退して佐藤琢磨氏がPrincipalに - car watch
  14. ^ 鈴鹿サーキットの若手レーサー育成機関「SRS-Kart/Formula」新体制発表会。Principalに佐藤琢磨選手が就任 - Car Watch
  15. ^ 無限が2019年モータースポーツ活動概要を発表。中野信治がスーパーGT、スーパーフォーミュラで監督に - auto sport web・2019年1月12日
  16. ^ 監督交代で体制一新。TEAM MUGENが2021年のモータースポーツ活動概要を発表”. Motorsport.com 2021-01-15. 2021年4月15日閲覧。
  17. ^ 日本人ドライバー8人の証言 日本のレースとF1の違い Sports Graphic Number PLUS March.2000 20世紀スポーツ最強伝説⑥「F1 未知への疾走」130-131頁 文芸春秋 2000年3月15日発行
  18. ^ "藤本裕子スペシャル対談 レーシングドライバー 中野信冶さん". トランタンネットワーク新聞社.(2005年2月号)2013年4月25日閲覧。
  19. ^ 2010年からの10位入賞基準なら4度の入賞。
  20. ^ これ以前は1988年の中嶋悟及び1996年の片山右京の4戦連続完走が最高で、この記録が破られるのは2008年の中嶋一貴の11戦連続完走まで待つこととなる(ただし、完走扱いも含めれば2007年の佐藤琢磨が7戦連続完走の時点で更新されたとも解釈できる)。

関連項目

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外部リンク

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