勝力(かつりき)は、日本海軍敷設艦[21]太平洋戦争中、特務艦(測量艦)に艦種変更された[22][4]

勝力
竣工まもない頃の「勝力」[1]
竣工まもない頃の「勝力」[1]
基本情報
建造所 呉海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 (雑役船)
→ 敷設船
敷設艦[3]
測量艦[4]
母港 呉(最終時)[5]
艦歴
計画 大正4年度[6](1915年)
発注 1915年10月6日製造訓令[7]
起工 1916年5月5日[2]
進水 1916年10月5日[8][9]
竣工 1917年1月15日[10]
最期 1944年9月21日戦没[11]
除籍 1944年11月10日[5]
要目([12]
基準排水量 1,540英トン[10]
常備排水量 計画:2,000英トン[10][9]
1917年1月:2,004英トン[13]
満載排水量 1917年1月:2,126英トン[13]
垂線間長 240 ftin (73.15 m)[10][9]
最大幅 39 ft 1 in (11.91 m)[9]
水線幅 公表値 11.89m[10]
吃水 計画 14 ft 0 in (4.27 m)[9]
1917年1月:常備平均 13 ft 6 in (4.11 m)[13]
同:満載平均 14 ft 2+58 in (4.33 m)[13]
公表値 4.11m[10]
ボイラー 艦本式 2基[10][9]
主機 直立3気筒3段レシプロ 2基[14]
推進 2軸[10]
出力 1,800馬力[9][15]
速力 13.0ノット[10][9]
燃料 石炭 449英トン[9]
1917年1月:石炭 472英トン[16]
乗員 竣工時定員 138名(1916年10月11日)[17]
敷設艦時定員 184名(1920年8月1日)[18][10]
兵装 40口径安式12cm単装砲 3門[9]
5号機雷100個[6](または480個[19])
1917年1月:五号機雷360個[20]
搭載艇 4隻[10]
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概要

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敷設艦/特務艦「勝力」は日本海軍の機雷敷設艦(排水量約1,500トン)[23][24]1917年(大正6年)1月に竣工した際は「敷設船 勝力[21](もしくは「勝力丸」[24])だったが、1920年(大正9年)4月1日附で日本海軍の軍艦となり[25]敷設艦に類別変更された[3]。 旧式化にともない1935年(昭和10年)7月より呉鎮守府部隊測量艦となり、測量任務に従事[23]太平洋戦争でも東南アジア方面で測量任務に従事した[23]1942年(昭和17年)7月20日で特務艦(測量艦)に類別変更される[23][4]。その後も測量任務に従事していたが、 1944年(昭和19年)9月21日、潜水艦の雷撃を受け沈没した[11][注釈 1]

艦型

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敷設艦

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日露戦争以降、日本海軍は旧式装甲巡洋艦を敷設艦に改造して機雷戦に備え、同時に敷設艇として400トン級の「夏島」等を建造した[24]。大正時代になると、巡洋艦改造大型艦と敷設艇の中間型として本艦(勝力)が開発・建造された[24]。従来の敷設艇(マイン・ボート)の拡大型的な艦艇で[26]、船体形状には商船の雰囲気が残る[27]。速力13ノット[26]。五号機雷100個[26]、上甲板に120個、船艙内に360個を搭載とする文献もある[19]1917年(大正6年)の南洋巡航の際は上甲板に20個、1番から4番までの機雷庫に340個の計360個の五号機雷を搭載している[20]。主砲は安式四〇口径一二センチ砲3門[26]。配置は艦首に2門、艦尾上構上に1門だが、艦首の2門は日本海軍では珍しく並列に配置されていた[6]

測量艦

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基本情報
艦歴
要目(1935年[28]
排水量 1942.11トン
水線長 73.152m
水線幅 11.912m
深さ 6.86m
吃水 3.99m
出力 2,057IHP
速力 14.14ノット
燃料 456トン
航続距離 5,310カイリ / 10ノット
乗員 定員 154名(1942年7月20日、測量艦編入時)[29]
沈没時:乗員195名[30]、測量班員25名[31]
兵装 8cm砲2門(1935年)[32]
または 8cm高角砲3門(1942年)[33]
最終時
8cm高角砲3門[34]
7.7mm機銃5挺[34]
爆雷[35]
搭載艇 28ft内火艇1隻、30ftカッター1隻、26ftカッター1隻、27ft通船1隻、20ft通船1隻[32]
最終時:カッター2隻、内火艇1隻、測量艇4隻[36]
レーダー 1944年6月:零式電波探知器(逆探)[37]
測量艦としての要目
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1935年(昭和10年)に「満州」の測量器材を引き継いで測量用に改造された[6]。この時に後部マストを三脚(測量艇揚卸用デリック装備)に変更した[38]。公式図によると主砲前部2門は8cm砲に換装、後部1門は撤去され羅針儀が設置された[32]。「写真日本の軍艦第14巻」では『そのさい備砲は三年式8センチ高角砲に換装された』としている(高角砲の門数の記載は無い)[38]1942年に撮影された写真では8cm高角砲3門(前部2門、後部1門)が搭載されている[33]

1944年(昭和19年)9月の沈没時の兵装は8cm高角砲3門、7.7mm機銃5挺[34]、爆雷となっている[35]。その他逆探の装備が確認される[37]。また搭載艇はカッター2隻、内火艇1隻、筏2隻も搭載していた[36]。測量艇は任務に応じて搭載しており[注釈 2]、沈没時は4隻を搭載していた[36]。なお、1944年9月の戦時日誌には水偵による直衛任務の記載もある[39]

艦歴

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1915年(大正4年)12月10日、日本海軍は建造予定の2,000トン級水雷敷設船を「勝力」と命名する[21][40]。この艦名は、神奈川県横須賀市横須賀軍港)にある岬の名「勝力鼻」に依る[41][42]

1916年(大正5年)5月5日、「勝力」(一部文献では勝力丸[41])は呉海軍工廠で起工[43][44]。 起工直後の5月17日に敷設船(工作船、運送船と合わせて特務船と総称)が制定される[45]。それまでは雑役船の扱いだった[1]。 同年10月5日、進水[44][46]1917年(大正6年)1月15日、竣工[44]。呉鎮守府籍[46]

1920年(大正9年)4月1日附で、「敷設船 勝力」は軍艦勝力」となる[25][47]。同日附で艦艇類別等級の改正により敷設艦が新たに定められ、3隻(阿蘇津軽、勝力)は敷設艦に類別変更された[48][3]

1935年(昭和10年)7月1日、呉鎮守府部隊の測量艦となる[23][46]。この頃から測量艦として用いられた[49]。南洋諸島や支那海での測量任務に従事する[46]

1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[50]

太平洋戦争

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1941年(昭和16年)6月より南洋方面の測量を実施したあと、12月1日に横須賀到着[46]1942年(昭和17年)1月12日より呉で入渠・整備をおこなった[46]。横須賀に回航されたのち3月10日附で第一南遣艦隊附属となる[46]。3月16日、第三測量隊と器材を搭載して横須賀を出撃[23]シンガポールに進出後、マラッカ海峡ビルマ方面の測量任務に従事した[23][46]。 同年7月20日附で、「勝力」は敷設艦から削除[51]。特務艦(測量艦)に類別変更[23][22]。引続き、東南アジアやインド洋方面での測量業務に従事した[49][24]

1944年後半

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1944年(昭和19年)6月の時点で南西方面艦隊に所属し、測量任務に就いていた[52]。1日、マカッサル[53]。4日測量艇3隻を乗せて同地発[53]、測量を行い8日ソロン[54]、測量艇1隻を同地に残した[55]。翌9日同地発[54]、14日マカッサルに到着した[56]。17日マカッサル発[56]、19日スラバヤに帰着、同地で整備作業や[57]逆探装備[37]等を行った。

7月4日スラバヤ発[58]、7日バリクパパン着、測量班先発隊と測量艇1隻を降ろした[59]。10日同地発[59]、12日タラカン着、15日同地発[60]、17日バリクパパン着、21日同地発[61]、24日スラバヤに帰着した[62]

測量機材52トンを搭載し8月8日にスラバヤ発[63]、12日シンガポール着、測量機材を降ろした[64]。以後パレンバンで測量の予定であったが[65]フィリピン方面で測量を行っていた「第36共同丸」が消息不明となる[66]。このため勝力はブルネイ湾の測量引き継ぎ、マニラへの進出を命令された[67]。便乗者40名や兵器等を搭載しシンガポールを18日発[64]、22日スラバヤ着[68]マニラへの物品約70トン等を搭載し28日スラバヤ発、30日バリクパパン着[68]。9月1日同地発[69]、12日マニラ湾に入港、直ちに出港しマニラ湾西方で避泊[70][71]、同地で整備作業を行い16日マニラ港に再度入港した[72][71]。17日同地で新艦長が着任し、前艦長は退艦、20日測量班員25名と測量艇4隻を収容した[72]。また第36共同丸の生存者9名も勝力に収容された[73][注釈 3]

沈没

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この頃フィリピン中南部は既にアメリカ海軍艦載機の空襲を受けていた[74]。北部にあるマニラも空襲の可能性が高くなり[74]、勝力はルソン島西岸のマシンロック英語版に待避する為、21日午前3時に単艦マニラを出港した[75]。しかし、北上中の午前11時30分頃に敵戦闘機約60機を認め[75]、このうち約10機から午前11時40分頃から約20分間、機銃掃射と急降下爆撃を受けた[76][77]。爆弾2発は回避したが機銃掃射により重傷者2名、軽傷者数名を出した他、艦には機銃弾約100発を被弾した[76]。勝力搭載の7.7mm機銃は敵機に相当数命中したが、威力不足の為に[34][78]敵機の撃破は1機に留まった[76]。勝力は一旦敵機攻撃圏内から離脱するために西方に進路を向け、予定をブルネイ回航に変更した[79]。午後4時30分頃に病院船高砂丸を認め、重傷者2名を高砂丸に入院させた[80]

同日午後10時30分、北緯13度30分・東経119度20分の地点で[81] 潜水艦ハッドによる雷撃3本(ハッドの記録では6本)を受け、回避行動を取ったが内1本が右舷艦橋前部に命中、艦首を下にして約1分で沈没した[11]。沈没による乗員の戦死、行方不明者は計167名[82]、生存者28名(うち重傷4名)[83]。また便乗していた南方海軍航路部第4測量班の25名のうち、10名が行方不明となった[31]。「沈没顛末報告」では生存者の少なかった原因として単艦での行動、夜間でかつ海が荒れていた、沈没が急だった、沈没後に敵潜水艦が浮上し銃撃を行った事をあげている[84]

生存者は浮いていたカッター1隻と測量艇1隻に乗り、カッターは24日、測量艇は25日にそれぞれルバング島に到着[85]、現地の陸軍情報隊で合流した[86]。24日から数回に分かれてマニラへ移動[86]、30日生存者はマニラに集合した[87]。生存者のうち、下士官10名と傭人1名は9月30日附で呉海兵団に転勤、重傷者4名は第103病院に入院、残り12名は第5補充部に転勤した[83]

11月10日、「勝力」は測量艦[88]および帝国特務艦籍から削除された[5]。敷設艦2隻(八重山蒼鷹)も同日附で除籍されている[5]

略歴

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歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』199-201頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

指揮官

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  • 角田貴三 中佐:1916年11月6日 - 1917年7月2日
  • 迎邦一 中佐:1917年9月1日 - 1917年12月1日[89]
  • 高倉正治 中佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日[90]
  • 有田秀通 中佐:1918年11月10日 - 1918年12月4日[91]
  • 前川直平 中佐:1918年12月4日[91] - 1919年11月20日[92]
  • 宮野好二 中佐:1919年11月20日 - 1920年4月1日

艦長

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  • 宮野好二 中佐:1920年4月1日 - 1920年11月12日[93]
  • 今橋重良 中佐:1920年11月12日[93] - 1921年7月25日[94]
  • 成沢美水 中佐:1921年7月25日 - 1921年12月1日[95]
  • 堀内宗平 中佐:1921年12月1日 - 1922年11月1日[96]
  • 土方鎮雄 中佐:1922年11月1日[96] - 1923年7月20日[97]
  • 上村従義 中佐:1923年7月20日[97] - 1923年11月20日[98]
  • 石田正一 中佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
  • 松井利三郎 中佐:1924年12月1日 - 1925年4月15日
  • 山田松次郎 中佐:1925年4月15日 - 1925年10月20日
  • 広岡正治 中佐:1925年10月20日 - 1927年11月15日[99]
  • 荒糺 中佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
  • 平野武雄 中佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  • 藤永三郎 中佐:1929年11月30日 - 1930年5月1日[100]
  • 石橋敏成 中佐:1930年5月1日 - 1930年11月15日
  • 佐倉武夫 中佐:1930年11月15日 - 1931年12月1日
  • 荻野仲一郎 中佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
  • 香宗我部譲 中佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
  • 脇坂乗平 中佐:1934年11月1日 - 1935年10月10日
  • 松良祐宏(考行)中佐:1935年10月10日 - 1938年2月21日[101]
  • 延谷保司 中佐:1938年2月21日 - 1939年4月20日[102]
  • 長尾素夫 大佐:1939年4月20日 - 1940年5月2日[103]
  • 中村正雄 大佐:1940年5月2日[103] - 1940年6月1日[104]
  • 近藤脩三 中佐:1940年6月1日 - 1942年1月15日[105]
  • 千葉次雄 大佐:1942年1月15日[105] - 1942年7月20日[106]

特務艦長

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  • 千葉次雄 大佐:1942年7月20日[106] -
  • 寺島昌善 大佐:1943年11月10日 -
  • 志和彪 大佐:1944年9月1日 - 1944年9月21日戦死

脚注

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注釈

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  1. ^ #写真日本の軍艦第14巻55頁(『敷設艦』行動年表◇勝力◇)や#補助艦艇奮戦記176頁『勝力(かつりき)』では空襲により沈没としている。
  2. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像7、昭和19年6月9日令達報告等『測量艇三隻(一隻現地ノ要望ニ依リ残置)搭載作業地発』や同画像30、昭和19年8月15日無電『一.現在本艦ニ測量班及測量艇搭載シ居ラズ』。
  3. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)には、勝力沈没時の生存者に記載が無い。

出典

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  1. ^ a b #写真日本の軍艦第14巻p.57上写真の解説
  2. ^ a b c #T5公文備考27/起工画像7、『呉工第四号ノ三〇ノ一〇一ノ二 大正五年五月六日 呉海軍工廠長伊藤乙次郎 海軍大臣加藤友三郎殿 水雷敷設舩勝力起工報告ノ件 水雷敷設舩勝力本月五日午前九時起工致候 右報告ス』
  3. ^ a b c d #達大正9年4月p.1『達第三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル/海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル/巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ如ク加フ|航空母艦| |若宮|/|水雷母艦| |韓崎、駒橋|/|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力|』
  4. ^ a b c d #内令昭和17年7月(3)p.19『内令第千三百十七號 特務艇類別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|運送艦ノ部中「伊良湖」ノ下ニ「、大瀬」ヲ、測量艦ノ項中「筑紫」ノ下ニ「、勝力」ヲ、標的艦ノ項中「攝津」ノ下ニ「、矢風」ヲ加フ』
  5. ^ a b c d e #内令(秘)昭和19年11月(2)pp.27-28『『内令第一二五四號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 秋津洲 軍艦迅鯨|呉鎮守府在籍 軍艦 雲鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 八重山|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 蒼鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 皐月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 海防艦 平戸|呉鎮守府在籍 海防艦 五百島|佐世保鎮守府在籍 第十號海防艦 右帝國海防艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第三號輸送艦 第四號輸送艦 第五號輸送艦|佐世保鎮守府在籍 第百二十七號輸送艦 第百三十四號輸送艦 右帝國輸送艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第三十二號驅潜艇|呉鎮守府在籍 第五十五號驅潜艇|舞鶴鎮守府在籍 第十號驅潜艇 右帝國驅潜艇籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 特務艦 勝力 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和十九年十一月十日 海軍大臣』』
  6. ^ a b c d #日本海軍特務艦船史(1997)p.63
  7. ^ #T4公文備考41/製造付製造費予算(雑船其他)(4)画像5-6、官房第3069号『大正四年十月六日 海軍大臣 呉鎮司令長官アテ 水雷敷設舩製造ノ件』(以下略)
  8. ^ a b #T6公文備考19/磯風、浜風、天津風、時津風(1)画像43、海軍大臣宛電報『天津風、磯風、勝力本日無事進水セリ 十月五日 呉鎮守府司令長官』(大正5年10月5日艦政局接受の印有り)
  9. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その三「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務船」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1064-1065、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲
  11. ^ a b c d #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像21-22。、同画像27-28。
  12. ^ #写真日本の軍艦第14巻31頁(『敷設艇』要目一覧)による。ただし主要寸法は(小数点以下2桁を四捨五入して)小数点以下1桁まで記載されている。
  13. ^ a b c d #T6公文備考巻41/勝力巡航報告(1)画像13、同画像18
  14. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  15. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1088-1089、昭和6年4月29日(内令79)艦船要目公表範囲。
  16. ^ #T6公文備考巻41/勝力巡航報告(2)画像33-34、別紙乙、二.炭水の計欄。但し各数値の合計は473。
  17. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.567、大正5年10月11日内令第218号、敷設船定員表。將校、機關將校、將校相當官10人、特務士官、准士官5人、下士29人、卒94人。
  18. ^ #海軍制度沿革10-2(1972)pp.608,635、大正9年8月1日内令第267号、第56表(敷設艦定員表其三)。士官9人、特務士官2人、准士官5人、下士官38人、兵130人。
  19. ^ a b #写真日本の軍艦第14巻p.57中写真の解説
  20. ^ a b #T6公文備考巻41/勝力巡航報告(2)画像13、三.準備。同33、別紙乙、一.兵器。
  21. ^ a b c #達大正4年12月p.19『達第百七十八號 臨時軍事費ヲ以テ呉海軍工廠ニ於テ製造スヘキ二千噸級水雷敷設船ヲ カツリキ ト命名ス 大正四年十二月十日 海軍大臣 加藤友三郎』
  22. ^ a b #補助艦艇奮戦記284頁『勝力(かつりき/測量艦)』
  23. ^ a b c d e f g h #補助艦艇奮戦記176頁『勝力(かつりき)』
  24. ^ a b c d e #日本補助艦艇物語43-45頁『わが敷設艦の概要』
  25. ^ a b c #達大正9年4月p.1『達第三十六號 敷設船勝力ヲ帝國軍艦ト定メ勝力ト命名セラル 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎』
  26. ^ a b c d #写真日本の軍艦第14巻27頁『◇勝力◇』
  27. ^ #写真日本の軍艦第14巻57頁(勝力側面写真)
  28. ^ #軍艦基本計画資料Sheet19
  29. ^ 昭和17年7月20日付 内令第1320号別表。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070164200 で閲覧可能。
  30. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像22-23。准士官以上16名、下士官兵176名、傭人3名。
  31. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像32-33、『六. 参考 (三)測量班(南方海軍航路部第四測量班)人員状況』
  32. ^ a b c #海軍艦艇公式図面集pp.258-259、45.測量艦・勝力 昭和10年の公式図。
  33. ^ a b #日本海軍全艦艇史下巻p.872No.2761、1942年9月1日撮影の写真。#写真日本の軍艦第13巻p.59下、勝力の写真及び解説。
  34. ^ a b c d #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像16、(ロ)功績
  35. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像4、1944年9月11日『〇九五〇 威嚇投射始ム 一〇〇〇 同右止ム 消耗爆雷○個』
  36. ^ a b c #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像29。『イ. 遭難当時、二カッター救助艇ニ備ヘアリ、一カッターハ水漏レ大ナルタメ上甲板ニアリ、其ノ他上甲板ニ内火艇一、測量艇四、筏二アリタルモ』(以下略)
  37. ^ a b c #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像6
  38. ^ a b #写真日本の軍艦第14巻57頁下(勝力昭和6年写真)
  39. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像4、昭和19年9月10日、11日の経過摘要欄。
  40. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.218『◎水雷敷設船勝力命名ノ件 大正四年十二月十日(達一七八) 大正九年四月三六號勝力ト命名 臨時軍事費ヲ以テ呉海軍工廠ニ於テ要造スヘキ二千噸級水雷敷設船ヲ カツリキ ト命名ス』
  41. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.145『勝力(かつりき) 艦種敷設艦 艦名考岬名にして横須賀軍港内に在る勝力鼻に採る。艦歴初め敷設船「勝力丸」と稱す、大正9年4月1日軍艦と定められ、「勝力」と命名。』
  42. ^ #写真日本の軍艦第14巻2頁『艦名の由来』-『勝力(かつりき)―岬角名』
  43. ^ #海軍制度沿革(巻11、1940)p.570『勝力|敷設艦|73.15|11.89|4.11|1,540|13.0|184|4|呉工廠|大正5-5-5|大正5-10-5|大正6-1-15|8c/m…3|―|―|1|直立三段膨張式2|艦本式2|2|1,800』
  44. ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.18『勝力|敷設艦|73.15|11.89|4.11|1,540|13.0|184|4|呉工廠|大正5-5-5|大正5-10-5|大正6-1-15|8c/m…3|―|―|1|直立三段膨張式2|艦本式2|2|1,800』
  45. ^ #海軍制度沿革3-2(1971)p.1162『大正五年五月十七日(軍令海六) 大正八年三月一號消滅 艦船令 第一條 艦船ハ之ヲ左ノ如ク種別ス 軍艦 驅逐艦 水雷艇 潜水艇 敷設船 工作船 運送船 雑役船 軍艦、驅逐艦、水雷艇及潜水艇ヲ総称シテ艦艇ト謂ヒ敷設船工作船及運送船ヲ総称シテ特務船ト謂フ』(第2條以下省略)
  46. ^ a b c d e f g h #写真日本の軍艦第14巻55頁(『敷設艦』行動年表◇勝力◇)
  47. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.201『◎敷設船勝力ヲ軍艦勝力ト命名ノ件 大正九年四月一日(達三六)敷設船勝力ヲ帝國軍艦ト定メ勝力ト命名セラル』
  48. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.58『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル|海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル|巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|-|水雷母艦| |韓崎、駒橋|-|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
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  50. ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
  51. ^ #内令昭和17年7月(3)p.19『内令第千三百十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、敷設艦ノ項中「勝力、」ヲ削ル/驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、矢風」ヲ削ル』
  52. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像1
  53. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像2
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  55. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像7
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  65. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像29、8月1日受信、機密南航命令第8号『南方航路部命令 勝力ハ八月上旬「スラバヤ」發同下旬帰港予定ヲ以テ左記測量ニ関スル作業ニ従事スベシ 一.測量器在ヲ「スラバヤ」ヨリ昭南ニ輸送 二.「パレンバン」方面測量作業終了次第同地第三測量班ヲ撤収「スラバヤ」ニ帰投』
  66. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像29、8月12日19時受信、GKF機密第101042番電『発GKF参謀長宛南航通報水路部長大○参謀第一部長 第三六共仝丸ノ消息不明ナル処仝船救援ハ急ヲ要スルヲ以テ勝力ヲ使用○○ニ付準備サレ度 右計画並ニ要○テ事項知ラサレ度』。同画像30。
  67. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像31、17日11時受信、GKF機密第170950番電『GKF電令作第四一九号 一.「ブルネイ」湾測量ハ大○機密大一四二〇一〇番電ニ依リ勝力ヲ以テ実施ス 二.勝力ハ「スラバヤ」ニ於テ準備○速カニ「マニラ」ニ回航スベシ』
  68. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(1)画像26
  69. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像3
  70. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像4
  71. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像25
  72. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像5
  73. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像26
  74. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像12、特務艦勝力戦闘詳報第5号・敵情。
  75. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像13
  76. ^ a b c #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像14
  77. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像15
  78. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像17、戦訓所見(ロ)『敵機ノ攻撃ニ際シ機銃弾(七、七粍)相当数機体ニ命中セルヲ認メラルモ効果負確認ニシテ大口径ノ機銃アリセバ更ニ戦果大ナルヲ得ム 少数ノ単八糎高角砲ニテノ急降下爆撃艦橋掃射ノ敵機ニ対スル攻撃ハ概ネ効果少シ』
  79. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像20、一.形勢(ロ)、二.計画。
  80. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像21、三.経過概要(ロ)『一六三〇頃病院船高砂丸ヲ認メ前記重傷者二名ヲ高砂丸ニ入院セシム 一七〇〇 二一〇度 二〇〇〇 一九三度ニ変針セリ』。
  81. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像24。『一. 遭難日時 昭和十九年九月二十一日 二二三〇 二. 遭難位置 一三 - 三〇北 一一九 - 二〇東』
  82. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像36-43、人員明細書(行方不明者)准士官以上、人員明細書(戦死又ハ行方不明者)下士官兵。准士官以上15名、下士官61名、兵89名、傭人2名。
  83. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像22-23、六.我ガ兵力ノ現状。
  84. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像33、『六. 参考 (六)生存者少キ原因ト思考スル事項左ノ如シ』
  85. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像29-31、四.遭難後生存者ノ行動・ロ、同・ハ。
  86. ^ a b #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像31、四.遭難後生存者ノ行動・ニ。
  87. ^ #S19.6.1-S19.9.24勝力日誌詳報(2)画像23『生存者ハ浮揚セシ第一カッター及測量艇一ニ分乗二十五日ルバング島到着三十日「マニラ」ニ集合セリ』。
  88. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2)p.22『内令第一二四八號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|測量艦ノ部中「勝力」ヲ削ル』
  89. ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
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参考文献

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    • 戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
  • 福井静夫 編『-海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1987年12月。ISBN 4-87565-212-7 
  • 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6 
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  • 官報
  • 国立国会図書館デジタルライブラリー - 国立国会図書館
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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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関連項目

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