大久野島の毒ガス製造

広島県大久野島で1929年から1945年頃に行われた大日本帝国陸軍による毒ガス製造

大久野島の毒ガス製造(おおくのしまのどくがすせいぞう)では、広島県竹原市大久野島における大日本帝国陸軍が開発した化学兵器毒ガスの製造について解説する。

60kg投下弾。投下弾には、びらん剤きい[1]イペリット/ルイサイト)・嘔吐剤あか(ジフェニルシアノアルシン[2]が詰められた。また砲弾もあり、あか・きい(イペリット)・窒息剤あを(ホスゲン)が詰められた[2][3]
1946年8月
2018年4月
三軒家地区・現在の大久野島中心部
大久野島の毒ガス製造の位置(日本内)
習志野
習志野
大久野島
大久野島
曽根
曽根
大久野島の毒ガス製造
赤が旧陸軍における毒ガス編成[4]。青が旧海軍の毒ガス製造拠点があった相模海軍工廠[5][6]

概要

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旧陸軍における毒ガス兵器は、大久野島で化学物質を作り、曽根まで輸送しそこで兵器に詰め替え、習志野で運用訓練し、大陸(日中戦争)で用いた、とされる。大久野島では陸軍造兵廠/東京第二陸軍造兵廠が管轄し、1929年から太平洋戦争後期である1944年ごろまで、びらん剤血液剤催涙剤嘔吐剤などを合計約6,600トン製造したとされる。それを秘匿するため大久野島は「地図から消された島」であった。ただし操業時を通じて作られていたのは毒ガスよりも発煙筒であり、他にもちび弾風船爆弾の球体部分、民間向けに殺虫殺鼠剤なども作られている。

製造には陸軍の技術者や軍属、大戦後期に徴用工・学徒勤労動員・勤労報国隊が従事し、男女のべ人数で6,500人以上が作業した。基本的に工場では安全管理が施されていたが、作業中での事故や微量な毒ガス成分の空中飛散を長期にわたり浴びたことや大戦後期の防護物資不足などから、工員はほぼ被毒し皮膚疾患呼吸器疾患を抱えた。操業時に発生した死者数は、公に判っているのは3人のみだが他にもいるとされるため全体数はわかっていない。

戦後処理は進駐軍が行い、大久野島のみならず近辺に点在した旧陸海軍施設にあった毒ガス兵器・資材類が島に集められて処理され、最終的に太平洋高知県沖とこの島周辺へ海洋投棄あるいは島内に埋没処理され、更にのちに自衛隊による処理も行われている。最近でも周辺海域で残存機器が発見され島内でヒ素汚染が発見されるなど負の影響は残り続けている。

毒ガス障害者は戦後処理作業に従事したものを含めると、少なくとも約6,800人とされる。彼らへの社会保障は戦後30年近くかかって確立した。2015年度時点での対象者は2,073人平均88歳になる。

資料展示として大久野島毒ガス資料館が島内にあり、また当時の製造関連施設も残っている。ただ歴史遺産として恒久保存される目処は立っていない。

背景

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地理

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近代に入り広島県豊田郡の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれた[7]。明治23年(1890年)忠海に呉憲兵分隊が置かれ、大久野島には明治35年(1902年)国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれ、忠海には大正7年(1918年)陸軍電信独立大隊も置かれた[7][8][6]

つまり、忠海は近代に入り豊田郡の政治の中心となり、陸軍にとっても重要な位置を占めていた[6][7]。当時の地図では芸予要塞秘匿のため忠海一帯から来島海峡まで瀬戸内海を縦断するように赤で塗りつぶされていたという[3]。現在一般的な説として、昭和初期に毒ガス製造所があったため当時陸地測量部が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた“地図から消された島”と言われている[9][10]が、実際にはそれより前から検閲されていたことになる。

 
陸軍参謀本部陸地測量部「明神 [1938] (二万五千分一地形圖 ; 廣島 3號 三津ノ1)」
 
 
1.5 km
大久野島のみではなく周辺一帯を消していた。
 
大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。見えている範囲内はすべて旧逓信省、現海上保安庁所管。

一方でこの島の南から東への海域は“三原瀬戸航路”、近代において潮流の影響で来島海峡を航行できない船が通っていた重要な航路であり(大浜埼灯台#沿革参照)、大久野島灯台を目印に多くの船が航行していた[11][12]。灯台付近のみ逓信省所管[11]だが、毒ガス製造所が開所するにあたり島のすべてが陸軍用地となったとする資料がある[9]。また島が軍用地となった際に、灯台付近のみ南側の愛媛県大三島の行政管理下に委任していたとする資料がある[13]

毒ガス製造

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日本軍の毒ガスは第一次世界大戦での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)陸軍技術審査部で研究が始まる[5]。大正14年(1925年)ジュネーブ議定書で化学兵器の戦争利用は禁止されたが、当時の日本はこれに署名はしたが批准はしなかった(のち1970年批准[14])。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島に設置された理由については、毒ガスを研究する市民団体などで以下のとおり結論づけられている。

  1. 大正12年(1923年)関東大震災を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた[6][15]
  2. 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、忠海町は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で大崎上島出身で立憲政友会代議士の望月圭介[注 1]が誘致に尽力した[6][3][15]

大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する[9][5][7]。 以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。

研究 陸軍科学研究所 大正8年(1919年) [5]
製造 陸軍造兵廠忠海製造所 昭和4年(1929年) [5]
教育訓練 陸軍習志野学校 昭和8年(1933年) [5]
充填 陸軍造兵廠曽根製造所 昭和12年(1937年) [5]

なお「陸軍造兵廠忠海製造所」として開所、のち「東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所」となり、終戦頃には「臣第2963部隊」と部隊名に変っていたという[3]

一般的な説明として、習志野で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、曽根まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ[18]、大陸(日中戦争)で用いた、としている[9][6][15][19]

生産

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毒ガス

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大久野島での毒ガス製造は、昭和8年(1933年)ごろに大量生産できるようになり[20]、生産のピークは昭和15年(1940年)・昭和16年(1941年)ごろ[9][20]、これ以降は戦争が長引くにつれ海上封鎖により海外から物資が届かなくなったため生産が縮小していった[21]、とされる。生産総量は約6,600トンとされる[22]

以下、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は○○号特薬と番号で区別しており[5]、ここでは陸軍式を用いる。

名称 種類 化学物質 外観 臭気 推定生産量[注 2]
(t)
備考
最盛期
月生産量
[注 3]
総生産量
[注 4]
ちや
(茶)
血液剤 シアン化水素
(青酸)
微褐色
液体
アーモンド 50 248 [19][1][23]
みどり
(緑)
催涙剤 クロロ
アセトフェノン
微黄色
固体
りんご花 25 28 C号とも
[5][19][1][23][24]
きい
(黄)
びらん剤 マスタード
(イペリット)
褐色
粘液体
ケシ 200
~450
(甲) 915
(乙) 921
(丙) 969
きい一号、A号とも
[23][5][1][19][13]
ルイサイト 微黄色
粘液体
テンジクアオイ 50 1,268 きい二号、A号とも
いわゆる「死の露」
[23][5][1][25][19]
あか
(赤)
嘔吐剤 ジフェニル
シアノアルシン
淡緑色
固体
ニンニク
+アーモンド
50
~80
1,757 [5][19][1][23]
あを
(青)
窒息剤 ホスゲン 干し草 [5][1][26]
しろ
(白)
発煙剤 トリクロロ
アルシン
刺激臭 [1][26]
 
茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた(写真は戦後の毒ガス処理時のもの)。

最初に製造が試みられた毒ガスはフランス式イペリット[27][28]。嘔吐剤アダムサイトも製造していたが毒性が低かったため制式採用に至らず、製造を止め工場を他の製造に転用している[29][30]

  • きい剤(びらん剤)
    • イペリットとルイサイトで生産量が異なるのは、ルイサイトの方が毒性が強く製造時の危険が少なかったが、製造コストが高く湿気を含む大気中や保管中の安定性が低く、更に実戦での効果がイペリットより劣っていたため、イペリットに生産の重点が置かれていったことから[25][31]
    • イペリット製法はフランス式とドイツ式があったが、フランス式のほうが製法としては簡単だったが不純物が多く保存の際に定期的にガス抜きをしないとガス爆発したという問題点があった[32]
    • イペリットの甲乙丙とは、甲がドイツ式・乙がフランス式で、丙はドイツ式イペリットの融点を下げ不凍性を高めた寒冷地用のもの[13][31][33]
  • あか剤(嘔吐剤)は、国の資料ではジフェニルシアノアルシン(DC)とジフェニルクロロアルシン(DA)の混合[34]、当時の陸軍技手・軍属工員の資料ではDC単独のもの[19][26]として説明している。
  • みどり剤(催涙剤)は、当初製造していた工場が手狭となったため新築移転したがそこでの製造は短期間に終わり、終戦までストック品で需要を満たしていた[35]

その他

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毒ガス成分以外も生産されている。

青酸燻蒸剤
この島で最初に作られた物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫殺鼠剤サイロームである[36]。まずサイローム製造とフランス式イペリット試作から始まり、後にサイローム製造が毒ガスちや剤製造に転用され双方並行して作られていた[36][19][2][28]。陸軍で特許を取っていたという話もある[20]
瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことからヤノネカイガラムシ退治に、また貨物船の倉庫ではネズミ退治に用いられ、造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとして広く流通しており、製造所は利益を得ていた[37][36]。製造所側は、この製造作業で熟練工の離職防止および熟練工養成として、また世間へのイメージアップとして、期待していたという[37]。その反面、取扱を過大に危険視されたことから製造所に使用委託の申し入れが多かったという[37]
  • サイローム - 青酸を珪藻土に付着させ、缶詰して販売した[36]。当時は柑橘の木を天幕で覆いその中で青酸ソーダと硫酸を容器で混ぜて青酸ガスを発生させて貝殻虫を退治するポット法が行われていた[37]。それに対してサイロームは缶を開けて内容物を新聞紙などに広げるだけで青酸ガスが発生するため従来のポット法より容易であった[37]。サイローム法とも[38]
  • カルサイト - 青酸を賦形剤に付着させ錠剤とし、缶詰して販売した[2]。これは青酸が付着した固形状のものを機械で粉々にしながら天幕の中に送り込み青酸ガスを発生させる[39]というカルチット法[38]で用いられた。
筒類
  • 発煙筒 - 陸軍板橋火薬製造所から業務を引き継いで開所当初から製作されていた。第一次上海事変を機に本格的に製造が始まり中国戦線での拡大に伴って需要が続き太平洋戦争以降は更に格段に需要が上がったことから、終戦まで製造中止されることなく作られていた[27][40]。また製造側からすると、他の作業より危険が少ないことから製造所に入ったばかりの工員が作業に慣れるため最初にやる工程として、あるいは毒ガス製造過程で問題が起き一旦作業がストップした際に代わりとして、あるいは毒ガス障害者の休養作業として、発煙筒製造が行われていた[41][27][42]
  • あか筒 - くしゃみ筒。あか(ジフェニルシアノアルシン)を軽石に付着させ点火剤・加熱剤と一緒に筒体に入れたもの[26]。ジフェニルシアノアルシンは安定した化合物で、揮発性は大久野島で作られた毒ガスの中で最も低く、加熱しないと毒性は現れなかった[19][2]
  • みどり筒 - 催涙筒。みどり(クロロアセトフェノン)をセルロイド片に付着させ点火剤と一緒に筒体に入れたもの[26]。あるいは点火剤・小粒薬を入れた筒体に臭化ベンジルを填実したもの[26]
ちび弾
青酸は不安定な液体であるため、当時安定剤として銅を用いていた[43]。これは小さな球形ガラス瓶の中に青酸と銅粉を詰めたもの[19][43]。昭和17年(1942年)10月忠海から小樽を経てアッツ島など北方方面へ、昭和18年(1943年)5月忠海からサイゴン(ホーチミン市)へ送ったとする証言が残っている[43]。工員も投げる練習をしたという[19]
火薬
昭和19年(1944年)、不要となった工場を改造し陸軍宇治製造所から火薬製造作業の一部が移された。火薬は砲弾用に用いられた[3][2]
風船爆弾
太平洋戦争末期、動員学徒が風船爆弾の球体部分を作っており、梱包して発送していた[3][44][45]
玉砕兵器
太平洋戦争末期、硝那薬包という小型爆破薬が作られていた[46]

施設

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表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった[47]

昭和2年(1927年)島内に軍事工場が設けられることとなり、農家の立ち退きおよび一般人の立入禁止処置が取られた[3]。ただ昭和金融恐慌の最中にあったことから、この工場建設工事は久野島景気とも言われ喜ばれもした[3]。一応の完成は昭和4年(1929年)春のことで、同年4月1日付で陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が誕生、開所式は同年5月19日に行われた[3]

まず島の南西部にあたる三軒屋地区で土地造成と施設建設が進んだ[3]。島の東側は斜面が多く[3]、また三原瀬戸航路側でもある。島の南東側に桟橋・事務所・発電所・倉庫などが建設され、海岸に沿ってそれらを繋ぎ工場敷地まで結ぶ幅4mの道路が整備された[3]。そして昭和7年(1932年)三呉線忠海駅が開業し曽根まで貨車輸送する体制が確立したことにより施設の再配置として、更に三軒屋地区が手狭になったことと旧型となった施設の更新として、島の西中部にあたる長浦地区に建設されていった[3][35][43]。それでも手狭となったため、北側の本州(本土)側の忠海にも関連施設が建てられている[3]。中には新規で建て製造をはじめたものの短期間で止めた施設もある[35]。また製造工場群はほぼ西側一帯に配置された反面、東側発電所周辺は毒ガスの気配すら感じなかったという[48]。かつては島内で松茸が採取できたが、昭和10年(1935年)ごろから取れなくなったという[49]

そして軍機保護法に基づき、白地に黒文字で「立入禁止」と書かれた立て看板が島の周囲に建てられていった[35]。島全体は植樹され[50]緑で覆われ[注 5]、建物には迷彩が施された[51]。資材も樹木で隠していた。機密保持のため箝口令が敷かれ憲兵が厳しく監視していた[13][20]。証言によると、大久野島を見るな、あるいは絶対撮影するなと言われ[52]、呉線ではこの島付近になると海側の窓を鎧戸で閉められ見えなくしていたという[13]

拡大途中のことになる昭和8年(1933年)には秩父宮雍仁親王が、昭和9年(1934年)には高松宮宣仁親王が視察のため来島している[35]。太平洋戦争中、忠海には、松竹歌劇団星光子一座、斎藤隆夫が指揮する日本合唱団、山田耕筰の楽団、守田勘彌水谷八重子一座と、慰問団が訪れている[41][53]

 
 
15 km
 
忠海
 
福山
 
因島
 
契島
 
今治
 
 
広島
 

戦中、連合国軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明である。戦争末期この島には高射砲隊が常駐することになり、昭和20年(1945年)7月の一度だけ上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊は施設の存在が発覚することを恐れて撃たなかったという[54]

周辺では、呉市(呉軍港空襲)、周辺島嶼である因島因島空襲)や契島、あるいは今治市(松山大空襲)や福山市(福山大空襲)が攻撃されており[45]、当時の工員は空襲の恐怖を感じながら作業していたという[3][55]。契島が機銃掃射された日、この島に本土からの通勤船が到着したちょうどそのときに空襲警報が鳴り、円滑に島からの退避行動が取られたという[45]。松山市(あるいは今治)の空襲で発生した火が、大三島の山を真紅に染め、それが大久野島から見えたという[45]

配置

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島内の建物配置などは、竹原観光ナビ『パンフレットダウンロード(大久野島)』や、「昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”」 アジア歴史資料センター Ref.C01004702600 や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図』、市民団体大久野島から平和と環境を考える会が作成した地図『大久野島の遺跡地図』を参照。以下は主に終戦間際ごろの配置になる。
大久野島北側
 
1948年
 
 
300 m
8
7
6
5
4
3
2
1
7
6
5
4
3
2
1
6
5
4
3
2
1
 北部
  • 1. 島の北端には点火試験場があった。発煙筒や発射式のあか筒などをここで試験した[56]
  • 2. この海岸は唐人傘とも呼ばれ、発煙筒などの試験が行われ、更にルイサイトの原料の一つである塩を作っていた。近代において塩は専売制で基本的には竹原から購入していた[57][13]
  • 4. 芸予要塞北部砲台跡(西側)。毒ガスを貯蔵していた[58]
 長浦地区
  • 3. 現在テニスコートが並ぶ一体は、製品倉庫・発煙筒工場・みどり一号工室(クロロアセトフェノン工場)・みどり筒工室などがあった[61][13]
  • 4. 長浦桟橋があった。ここから曽根へ向けて運ばれていたという[62]。太平洋戦争末期、空襲の危険性が高まるにつれ、本土側と最短距離になるこの桟橋を通勤用として用いられていた[45]
  • 5. この敷地では、まずアダムサイト、次にあか(ジフェニルシアノアルシン)、最後にきい(イペリット)が生産されていた。最後にできたのがA二工室と呼ばれたドイツ式イペリット製造工場があった。製造所最大の工場だった[29][61][13]
  • 6. 貯蔵タンク台座跡。全部で32個ある[13][60]
 発電所周辺
  • 2. 海水タンク跡。地下水が豊富でないため海水が様々なところで用いられた[13][60]


大久野島南側
 
1948年
 
 
300 m
4
322
2
1
6
5
4
3
2
1
6
5
4
3
2
1
7
6
5
4
3
2
1
 三軒家地区
 南西側
  • 1. 芸予要塞南部砲台跡。製品倉庫として用いられていた[72]
  • 3. 南部監視所。太平洋戦争末期に高射砲隊が駐屯した。
  • 4. 現在ごみ処理センターがある地はかつて芸予要塞南部砲台があった。のち撤去され技能者養成所が建てられた。ここで3年間専門的な知識を勉強した。戦後竹原市立忠海東小学校の教室として移築したという[73][74][13]
  • 5. キャンプ場管理管理棟から階段を登り奥に進む途中に深さ1mほどの大きめの窪みあるいは溝があるが、これは空襲時の従業員用退避壕として掘られたもの。この規模の穴が島中にある[13]
  • 6. 掲揚台跡[13]
手前斜めが軍隊舎。左手前は車庫で、その左に見切れているのが炊事場[73]。左白い屋根が消防詰所[73]。その向こう側が製品倉庫群[73]
ほぼ同じ位置の現在。
表桟橋(第一桟橋)から西側。
 事務所周辺
  • 2. 現在のキャンプ場管理棟の裏手あたりに炊事場(食堂)があった。大盛りご飯15銭、小盛り10銭、かけうどん10銭のほか、二重焼も売られていた。壁には世界で初めての大規模毒ガス戦があった第二次イーペル会戦の大判の絵が飾られていた[75]
  • 3. 幹部用防空壕。他の防空壕より強固に造られている。軍属が入る場合、敬礼しなければならなかったという。その目の前に製図所があった[76][13]
 南部
  • 2. 実験やガス漏れ監視に用いるウサギやジュウシマツが飼われていた動物舎があった。医務室の裏手に自転車が配置され、それで各現場にジュウシマツを配っていた[78]


忠海
 
拡大

Clip
1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた[3][41]。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現県立忠海高

人員

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歴代所長[3]は以下の通り。

  • 5代 : 中橋桂次郎
  • 6代 : 阿部三雄
  • 7代 : 山中峰次

所長と陸軍技手数十人程度から始まり、施設拡張・製造方式再検討を続け拡大していった[3]。初期は昭和恐慌の最中にあった。軍属(工員)には近隣で雇用されたもの、初期には日給の6割が危険手当加給という給料体制に釣られ製造所を建設していた日雇い労働者の中にはそのまま島に残ったものもいる[37][30]。彼らは毒ガス製造どころか工業的製造で仕事に就いたことのないものたちであったことから、1ヶ月に渡り基礎教育が仕込まれている[37]。昭和8年(1933年)入所した工員によると、その年に入所したのは24人でほぼ製造所内に縁故者のある者だった[55]

陸軍の工場であるため工員も階級制であった[13]。勤務時間は1日8時間から10時間[81][82]、中毒予防として例えばイペリット製造現場では1時間働いて2時間別室で休憩[82]、という体制だった。基本的に工員は実績を重ねるごとに基本給昇給、それに危険手当が別途ついて、残業手当・深夜手当[21]・年末賞与[55]、など様々な賞与があった[13]。危険手当の付与は現場職長の裁量に一任され、現場によって6割/4割/2割加給・加給なし、となった[55][21]。ただ賞与が出た際には給料から天引きの形で国債(戦時国債)を買わされたという[21]。一方で機密保持のため憲兵によって厳しく監視され、口外や物品の持ち出しは厳しく罰せられた[13][20]。自主退職はほぼ却下され、受傷して働けなくなって退職許可(解雇命令)が下された[21][13][20]。友和会という工員の労働団体が結成されたが昭和10年(1935年)軍から解散命令が下された[55]。元陸軍技手の証言によると、平時には毎年春秋の2回慰安会が行われており、諸経費が支給され額は旅費と清酒1合付きの弁当で尽きる程度であったそうで、太平洋戦争が続く中で自然消滅したという[83]。太平洋戦争末期、工員にも召集が来ていたが、19歳になってもここで働いていれば1年間の入隊延期ができたという[84]

 
イペリット用1トン計測タンク(写真は戦後処理時のもの)。

季節・気象条件によっては原料の塩酸や硫酸からガスが発生しむせたという[85][86]。製造施設からヒ素化合物が排水管を通って海に流れていた[87]。生産拡大に伴い、相当数の中毒患者が発生した[40]。どの作業でも身体に害を及ぼさないものはなく[21]、ほとんどの工員にとって毒ガスによる受傷は2度や3度どころではなかった[20]。ゴムの防毒着に長靴・ゴム手袋・防毒面で防護していたが、ズボンと長靴の間・上着と手袋の間とつなぎ目から毒ガスが入り込み汗で湿気やすい脇の下や股間を受傷していた[55]。A二工室(ドイツ式イペリット工場)での夜間作業[注 6]、フランス式イペリット真空蒸溜[注 7]、焼却場での残渣焼却、が中毒症状が重患になる三毒と言われていたという[2]。当時陸軍技手の中で「大久野島で毒物製造に関係しておれば一度は肺炎の洗礼を受けるであろう」と言われており、研究員の確保に苦労していたという[40]。末期に入った勤労奉仕の女学生の証言によると、黒く焼けた鉄の色をした顔、目の縁が黒くなった顔、ガラガラ声、の工員を見たという[42]

製造所稼動時、死亡3件[21](島構内だけで2件[37])あったことが公には分かっている。ただし軍属(工員)ではなく軍直属の技手や、医務解雇などで被毒して退職した後での工員、など公になっていない死者はいる[21][20]

  1. 昭和8年(1933年)サイローム製造過程でゴム管から青酸を缶に注入する作業中に誤ってその飛沫を大量に浴び、そこがガスマスク先の吸収缶近くであったため中和剤を通り抜けて一気に体内に入り、数時間後絶命した。製造所初の犠牲者であり、日本人として初めて毒ガスによって死亡した人物となった[37][55]
  2. フランス式イペリットが量産体制に入り昼夜兼業で長時間製造された。その際にイペリットを原因とする障害者が激増した。その障害を抱えた一人が、トラック荷役中に踏み板で足を滑らせて頭から一塩化硫黄を浴び、死亡した[37]
  3. 曽根へ毒物を運搬する際に馬車も用いられていた。ある時、馬が尻尾にジフェニルシアノアルシンを付けたままその尻尾でハエを払ったことで、近くで作業中の人物が全身に浴びて数カ月後死亡した[13]

昭和12年(1937年)大久野島神社に殉職碑が建立されている[37]。最も危険な毒物になるルイサイト[13]では人命に関わる事故は発生しなかった[25]。発煙筒製造現場では数十人が全治まで3ヶ月から半年を要した火災事故が発生している[41]。元陸軍技手の証言によると、こうした事故が起こると「同じ失敗を再度繰り返すナ」とその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという[88]。ただしそれは外傷に対してのみで、内傷特に呼吸器系に関しては想定していなかった[88]。一般工員はそもそも製造していた物自体の知識が不足していたこともあり、危険手当加増目当てで自ら進んで危険な現場に志願したものもいた[21]。また当時は就業不良=悪という考えがあり「身体に異常があればすぐに診療所に行って治療を受けるよう」と厳しく指導され医務室へ行っただけで少々の傷害でも休業処置がとられていた[55][13]。それに対して工員側は、使命感から、あるいは生活がかかっているため、あるいは憲兵が徹底的に調査するため、休業や入院を嫌がって少々の傷害でも作業に従事していた[55][89](重症でない限り休むことは許されなかったとする証言もある[89])。受傷箇所によっては気軽に申告できない女性工員にとってはさらなる苦痛を味わったという[55]。働けなくなって退職したとしても、軍から召集令状が来ていた[21][55]

昭和12年(1938年)頃から大量生産要員として多数の新入工員を入れたが、未経験者に対して指導工員の絶対数が少ないため、早い段階から受傷し昭和15年(1940年)末ごろから若年工員に離職者が出始めた[55]国家総動員法に基づき昭和15年には旧制高等小学校卒業者を対象とした技能者養成所が島に開校している[90]。戦争が続く中で、工員(軍属)にも応召者が出ていた[55]。そして労働者確保のため徴用工や学徒勤労動員・勤労報国隊が用いられた[3][9]。これらの募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明した[91]。徴用工は2年間だけだがほぼ危険な現場に行かされたという[21]

製造所末期には完全に軍隊化していた[45]。硝酸・硫酸・塩酸など主成分が海上封鎖により海外から入ってこなくなったため、製造自体は縮小していった[21]。そして筒類製造に主力が注がれた[3]。新しい防護用具も不足し、交換しないまま古い防護用具を着続けたため、受傷者は増加していた[55]。不要となっていたあか一号工室や遊休工場は火薬工場に転用された[3][21]。忠海製造所での製造自体が縮小していたため、技術を持った工員は荒尾・板橋・宇治・岩鼻・坂市と他の陸軍の火薬製造所増設工事へ応援出張した[21]

 
防空壕跡(上地図赤4の南側)。長いものでは100mほどあり、中でつながっているという[60]

日本本土空襲が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、工員のほとんどが防弾壁の構築と防空壕掘りに従事した[3][45]。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた[45]。勤労奉仕の女学生・中学生は風船爆弾の気球部分の製造を担った[9][45][92]。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料があるが[9]、こういった背景にある。彼女たちはその他にも、草取り、焼却場へのごみ運び、発煙筒をつくる作業など様々であったという[42]。疎開作業にも従事しており、制服にハチマキ・麦わら帽子姿で作業服は着ずゴム手袋だけで毒ガス製品を触っており、後遺症を抱えてしまうことになる[66][92][42]

広島市への原子爆弾投下の際には、ここから軍医以下12人からなる救護班を編成し8月7日広島入りし日赤病院福屋とも)で救護にあたった[45][93](入市被爆したことになる)。この12人の中には勤労奉仕の女学生もいた[94]

結局島内で作業に従事したのは、ピーク時で約3,000人[20]とも約5,000人[95]、のべ人数で約6,500人[9]とも約6,700人[20]と言われている。

以下参考例として、昭和8年つまり開所4年目に入所しのち化学工となった人物の沿革を示す。体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったという[21]。なお例に出した化学工の人物は終戦までに3度退職願を出したがすべて却下されている[55]。ちなみに化学工は現場がよく変わり、毒ガス製造に直接関わったことから日給が最も高かった[96]

  • 昭和8年度
    • 4月 : 入所。誓約書に捺印「入所後は上司の命令に服従し勤務に精励、製造所内の模様は絶対に他言しません」と誓わされる。日給1円10銭。各自に白い作業着が支給され、まず普通兵器(発煙筒)の検缶作業から始める。次いでテルミット充填、発煙剤充填、導火索の加工などの発煙筒製造作業[55]
    • 5月 : 甲みどり筒の仕上げおよび填実作業[55]
    • 8月 : 演習用筒類(現示筒、甲・乙・丙みどり筒および代用あか筒等)の填実作業の習得[55]
    • 10月 : 毒ガスの実態を教育認識させるための見本(毒煙筒、試臭器)の填実作業[55]
    • 11月 : A三工室(ルイサイト工場)竣工にあたり同工室所属[55]
    • 12月 : 昇給、日給1円12銭[55]
    • 1月 : 発煙筒製造作業[55]
    • 2月 : A一工室(イペリット工場)での試運転に1週間従事、その後1ヶ月余り休業作業として発煙筒製造作業[55]
    • 3月 : A一工室できい一号乙の真空蒸留試験に参加、容器洗い作業中に初受傷し自宅休業。曰く「一番先に目と咽喉を浸され一時眼が開かなくなり声も出なくなり一日後には上半身に小さい水泡がいっぱい出来て身体は茶褐色となり入浴も出来ず、すれると皮膚がむげるので静かにして寝て居るより外なく一週間位い経た後に皮がぽりぽりむげ出して来ると追い追いと楽になって来ました。」[55]
  • 昭和9年度
    • 4月 : 普通工に昇格。日給1円26銭[55]
    • 4月29日 : 昭和六年乃至九年事変(満洲事変・第一次上海事変)における勤労に対し金15円賜う[55]
    • 5月 : A四工室(イペリット工場)全装置完成、試運転から製造に。不慣れなことと暑さで傷害者が続出し一時中止し秋から再開することになった[55]
    • 6月 : 昇給、日給1円29銭[55]
    • 9月 : きい二号大量生産命令によりA三工室製造準備。10月から1ヶ月間作業。全従業員の2/3以上が傷害患者となった[55]
    • 12月 : A四工室の手入れ[55]
    • 1月 : 配置換え。それまでは工員がいなかったため1つの工場に全員集まって作業していたが、このときから専属化が始まった。あか一号製造班長、A三付属工室アセチレンガス製造班長、A四工室塩素導入(応援)班長を命じられる[55]
  • 昭和10年度
    • あか一号製造班長としてあか及びあか筒製造作業、あか弾・きい弾製造作業の応援班長として勤務した[55]
    • 6月 : 昇給、日給1円37銭[55]
    • 12月 : 昇給、日給1円41銭[55]
    • 1月 : きい二号製造が始まり付属アセチレンガス製造工室で後任班長を育成、以降あか製造の方に専任した[55]
  • 昭和11年度
    • 6月 ; 昇給、日給1円45銭[55]
    • 10月 : きい一号大量生産命令により、A四工室塩素導入(応援)班長として兼務[55]
  • 昭和12年度
    • 4月 : あか一号製造専属職長を命じられる。昼夜2班体制であか大量生産に着手[55]
    • 7月 : 支那事変(日中戦争)勃発に伴い製造所拡大化が始まる。その時点で毒ガス兵器は備蓄もあり対応できたが、普通兵器(発煙筒)は大量生産しなければ対応できなかった。一時的に発煙筒製造職長を命じられる[55]
  • 昭和13年度
    • 4月 : 出張命令。技手1人工員3人で陸軍岩鼻火薬工場へ10日間、薬包製造要領修得。帰ってからは薬包製造指導教育に従事し、翌年3月まで続いた[55]
    • 7月 : 発煙筒大量生産命令により、一時的に発煙筒製造職長を命じられる[55]
  • 昭和14年度
    • 4月 : 工員副長事務取扱を命じられる。工員詰所に入り全工員の勤務割事務を担当した[55]
    • 9月 : 第二次世界大戦勃発。
  • 昭和15年度
    • 4月 : 工員副長を命じられる。現場替願が通り、A二工室(イペリット工場)職長を命じられ、終戦まで[55]
    • 4月29日 : 支那事変に於ける功に依り金60円賜う[55]
  • 昭和16年度
    • 4月 : 進級制度改革により、化学工に昇格を命じられる[55]
    • 12月 : 太平洋戦争勃発。
  • 昭和19年度
    • 5月 : 激務により急性肺炎を発症し自宅で倒れる。自宅近くにいた嘱託医が救命処置を行い、大久野島の医務室まで船で運ばれ1ヶ月間入院し復帰[55]
    • 9月 : 功労賞的な意味合いで特別賞与61円30銭[55]
    • この年は12月分給与280円+年末賞与358円+特別賞与で工場工員としては最高額給与だった[55]

同様に参考として技能者養成所の概要を示す。

入所時、「今日から20年間は、自分の理由で辞めるようなことはしません」「軍規保護法を絶対に守ります」「大久野島でおきる一切のことは家庭に帰っても話しません」などの内容が書かれた誓約書を書く[21][20]
就学期間は昭和15年度1期生が3年制、昭和16年度2期生が2年制、昭和17年度以降から終戦まで1年制[90]。給料が出た[20](金額不明)。
幹部工員を養成する見習工員科と一般工員を養成する養成工員科があり、当初は全員養成工として入所し1学期あるいは2年目頭に行われた試験の成績で分かれる形であった[90][21]。更に見習工は技能試験・適性検査により、化学科・電気科・機械科の専攻に分かれた[21][90]。基本的に養成工は午前教育・午後実習、見習工は午前・午後ともに教育であった[90][21]。養成工のほうが早くから仕事に慣れることになるが、給料は見習工のほうが良かった[21]。(ちなみに卒業後現場に配属された時点で、見習工出身者は職長待遇で日給2円、養成工出身者は伍長待遇で日給1円80銭[21]。)
本土側忠海分廠に宿舎があったが徴用工が用いていたため通いであった[21]
以下、昭和16年5月の時間割[90]を示す。
日付
曜日
養成工員科(一般養成) 見習工員科(幹部養成)

表の略字は以下の通り。

  • 前段 : 8時から10時
  • 後段 : 10時から12時
  • 地歴 : 国史または地理
  • 精 : 精神教育
  • 法規 : 陸軍諸法規
  • 教練 : 学校教練
  • 救急 : 救急学
  • 兵器 : 兵器学
  • 製化 : 製造化学
  • 材料 : 材料学
  • 電気 : 電気工学
  • 機械 : 機械工学
  • 分析 : 分析化学
  • 化兵 : 化学兵器学
  • 専工 : 専門工作
  • 工管 : 工場管理
1年 2年 1年 2年
午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後
1 代数 教練 兵器 分析 英語 分析 材料 法規
2 地歴 国語 電気 国語 兵器 英語 兵器 教練
3 物理 地歴 力学 地歴 製化 機械 専工 工管
4 休み
5 化・精 精・材 分析 体操 精・代 分析 体操 精・歴 体操
6 英語 地歴 救急 代数 機械 救急 兵器 製化 救急 兵器
7 物理 教練 幾何 国語 材料 国語 力学 英語
8 化学 英語 武道 材料 武道
9 地歴 製化 化兵 図学 幾何 化兵 英語 化兵 図学
10 法規 地歴 武道 地歴 製化 専工
11 休み
12 化・精 精・材 代・精 機械 精・歴
13 英語 製化 分析 力学 兵器 分析 兵器
14 物理 教練 材料 幾何 電気 力学 英語
15 化学 電気 化兵 図学 英語 化兵 材料 化兵 図学
16 地歴 国語 分析 国語 製化 分析 英語
17 代数 武道 幾何 材料 分析
18 休み
19 大久野島神社祭(製造所創立記念日)
20 法規 兵器 化兵 教練 材料 化兵 教練 分析 化兵 教練
21 幾何 武道 代数 電気 英語 国史
22 化学 教練 機械 英語 力学 武道 製化 武道
23 代数 地歴 図学 分析 地歴 図学 分析 英語
24 物理 電気 化兵 製化 化兵 機械 材料 化兵
25 休み
26 化・精 教練 精神 精・電 製化 精・法
27 代数 力学 分析 幾何 分析 製化
28 地歴 電気 材料 兵器 力学 英語 兵器
29 武道 材料 英語 機・電 分析
30 代数 幾何 体操 製化 電気 体操 英語 体操
31 化学 電気 化兵 教練 材料 化兵 教練 工管 化兵 教練
前段と後段の間に5分休憩、昼休憩1時間、午後は3時まで。空欄は実習時間。その後精神教育をした後に5時退所となる[90]。なお日曜休みは1期生・2期生のみで、昭和17年度入所3期生からは休みはなくなる[90]
教官は、普通教科の英語・代数・幾何は近くの旧制中学校教諭、他は忠海製造所の所員が務めた[90]
この中で「化学兵器人道論」が徹底的に叩き込まれた。曰く「人道上許されるべき通常兵器」「なぜ化学兵器が人道兵器かと言えば、化学兵器は人を殺すために造るのではない。広範囲に渡って、一時的に中毒を起させるんだ。中毒を起させることによって、戦闘能力を低下させるんだ。その人たちは、後には回復してくる。回復するまでに捕虜にすればよい。捕虜として回復してきたら、我が戦力として使うこともできる。敵だからといって、殺す必要はない。そして、戦闘も早く終わる。戦争を早く打ち切りたい。ところが、大砲とか機関銃は、命中するとたいてい流血の惨事がおきる。まあほとんどは死ぬだろう。かつての世界大戦のときには、こうした銃器戦闘での戦死の数と、化学兵器での戦死者の数は、何10パーセントと何パーセントの違いなんだ。」[20][21]
教練では、ちび弾の運用や、装面訓練では実際に催涙ガスを発生させガスマスクを着けて行っていたという[57]
養成所ではすべての現場で実習が行われた[90][21]。この時期の工員は専属化し自分の現場以外知らなかったため、養成所出身者のほうが各現場のことを知っていたという[21]

戦後処理

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国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大久野島
 
 
 
八本松
 
大嶺
 
曽根
 
中国地方以西における終戦時の主な生産・保管場所[4]。赤が陸軍、青が海軍。

終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。

  • 研究・訓練及び実験等 - 陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された[5]
  • 毒ガス戦準備計画 - 昭和19年(1944年)1月29日大本営陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と小樽の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された[97]
  • 疎開 - 空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍は、八本松(広島)や大嶺(山口)に集中的に運んでいる[97]

つまり大久野島には毒ガス製造によって備蓄品があっただけでなく、意図的に集積されていたことになる。また、この南側の大三島には大戦末期に大久野島から疎開された毒ガスが貯蔵され、西側の阿波島には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた[98]。特にこの大三島への疎開を担当したのが勤労奉仕の女学生であった[92]

以下その3島における、環境省が公表する終戦時での保管量と、米軍調査による昭和21年(1946年)1月時点での集計を示す。これは環境省の方は資料から専門家からの助言・検討を踏まえて2004年に最終稿として公表したもの、米軍資料の方はそののち2014年に発見されたものになる。

環境省資料
終戦時の3島における保管量(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,451 824 13.2 958.1 70 - 大三島分も含む[98]
大三島 - - - (595)0 (7) - [98]
阿波島 - ちび弾 数量不明
各種あか筒 89,504本
[98]
米軍資料
昭和21年(1946年)1月時点の集計(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,200
(甲)430
(乙)150
(丙)620
910 15 1,035 7 [99]
  • 通常兵器
    • 94式水上発煙筒 14,485個
    • 94式大発煙筒 3,364個
    • Striker Head for Smoke Candle 3,400個
  • 原料・薬品類
    • 青酸ソーダ 391 t
    • ヨウ化カリウム 0.357 t
    • チオジグリコール 113 t
    • アルコール 4,410 gal = 16.7 kl
    • ヘキサクロロフィン 60 t
    • ベンゼン 3 t
    • 酸化亜鉛 10 t
    • 粉末状亜鉛 8 t
    • セルロイド 140 t
    • 亜ヒ酸 106 t
    • 塩酸 28 t
    • 硝酸 22 t
    • トルエン 47 t
    • 硫酸 154 t
    • アセトン 4 t
    • ナフタレン 15 t
    • 青酸用シリンダー(空) 6,300個
    • ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
    • イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
    • 炭酸カルシウム 50 t
    • プロピレングリコール 3t
    • 二硫化炭素 0.5 t
    • ピロ硫化ナトリウム 12 t
    • 水酸化ナトリウム 32 t
    • ジフェニルアルシン 57 t
[99]
大三島 - - - 5950 7 - [99]
阿波島 -
  • 99式あか筒 2,919個
  • 1式大あか筒 33,166個
  • 98式中あか筒 420個
  • 100式中あか筒 46,640個
  • 98式小あか筒 44,650個
  • 100式発射あか筒 3,529,994個
[99]
忠海 -
  • 89式催涙筒 141,630個
  • 89式催涙棒 141,072個
  • 99式大あか筒 8,339個
  • 98式小あか筒 29,953個
  • 100式小あか筒 45,814個
  • 100式中あか筒 17,460個
  • 98式中あか筒 7,210個
  • 1式大あか筒 798個
  • 擬似イペリット 191,906gal = 726kl
[99]
  • 通常兵器
    • 94式大発煙筒 6,735個
    • 94式水上発煙筒 35,949個
    • 94式小発煙筒 207,210個
    • 94式代用発煙筒 245,220個
    • 97式信号用発煙筒 9,156個
    • 97式発煙筒 11,020個
    • 99式発射発煙筒 542,389個
    • 93式特殊発煙筒 1,670個
    • 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
[99]

終戦直後の毒ガス処理は旧日本軍、アメリカ陸軍第41歩兵師団英語版イギリス連邦占領軍(BCOF)の3者が行っている。処理方法は大きく埋設・海中投棄・焼却の3つに分けられる[100]。ほとんどが島内およびその周辺海域で行われた。

旧日本軍隠蔽

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3 km
神殿島
松島
忠海
大三島
阿波島
大久野島

軍による投棄が行われていたと言われている。

元工員・村上初一(毒ガス資料館初代館長)によると、昭和20年(1945年)8月15日工員はいつもと変わらず出勤しそこで玉音放送を聞くことになる[84]。翌16日も通常勤務するよう指示されたが、ボイコットする工員もいて集まらなかった[84]。そして解体(隠蔽工作)を指示されることになる[20][84]。旧陸軍側は工員に対して「我々はここで毒ガスをつくっていた。(その時初めて陸軍側は毒ガスという言葉を使ったという)。これは国際上の問題になる。日本は戦争に負けたんだから、どこの国が日本に進駐してくるかわからない。が、こういうことはないとは思うけど、その毒ガス製造について、拘束されるんじゃないといううわさがある。」「危険手当10割つける。」と言ったという[84][20]。村上は進駐軍に拘束される恐怖に畏れたという[20]。それから1週間後に上から命令が来て、それから工員の証明になるようなものは全て焼いて捨てたという[84]。機械工だった村上は同年8月18日からちゃ一号工室の新しいサイローム装置を解体し近くの海域に投棄したが、作業が始まって1週間後一切の作業は中止になった[84][101]。その後島に行っていたが何もせずにいて、同年9月11日付でほとんどの工員は解雇となったという[84][20]。進駐軍が来るまで代表者は残っていたという[20]

またこれとは別に松島から神殿島の海域にイペリットやルイサイトを投棄した、ボンベを近海に投棄した、という証言もある[101][102]

以下、環境省資料による、旧日本軍廃棄量を示す。

環境省資料による旧日本軍廃棄
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 ボンベ類、数量不明 - 終戦時 大久野島周辺海域に投棄[103]
阿波島 - - ちび弾
数量不明
- - - 1945年8月
または同年10月
島内焼却[104]
- - - - - あか筒4個入り
木箱×50~60箱
島内退避壕に埋設[104]

第41師団

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15 km
 
川上
 
日之浦
 
切串
 
 
 
 

GHQが日本に進駐、広島にはアメリカ陸軍第41歩兵師団が駐屯した[105]。昭和20年11月、第41師団司令部化学班が現地調査し、大久野島周辺の旧陸軍貯蔵に加えて川上[注 8]・切串・日之浦の旧海軍貯蔵分を発見した[107]

それを受けて第58化学戦総合中隊(化学処理部隊135名とも[101])を大久野島・忠海に派遣し、処理作業が始まった[108]。ただこの時点では発煙筒や前駆物質を主に処理し、イペリットやルイサイトなど危険な物質は処理されなかった。これはその時点で瀬戸内海の機雷掃海が進んでいなかったため、海洋投棄ができなかったと推察されている[109]。化学物質の中には広島県側の投棄中止要望により県に引き渡されたものもある[110]。一方で旧海軍貯蔵分のいくつかは海洋投棄が行われている[111]

同年12月31日付で第41師団は動員解除となり、第58化学戦総合中隊も翌昭和21年(1946年)1月に撤退した[112]。あるいは2月までとも[101]。昭和21年5月時点で、大久野島にあった青酸はすべて県に転用され殺虫剤として用いたとする資料もある[87]

以下大久野島関連のみで、第41師団司令部化学班が12月26日付でまとめた廃棄量と、第58化学戦総合中隊が11月12日から24日にかけて行った廃棄量を示す。整合性がとれないものがあるがそのまま記載する[113]

第41師団司令部化学班資料
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 - - 15 t - - 不明 引渡[99]
  • ベンゼン 3 t
  • アルコール 4,410gal
  • ヨウ化カリウム 0.357 t
  • 亜ヒ酸 106 t
  • 塩酸 28 t
  • 硝酸 22 t
  • トルエン 47 t
  • 硫酸 154 t
  • アセトン 4 t
  • ナフタレン 15 t
  • 炭酸カルシウム 38 t
  • 二硫化炭素 0.5 t
  • ピロ硫化ナトリウム 12 t
不明 引渡[99]
  • シアン化ナトリウム 391 t
  • 酸化亜鉛 10 t
  • 粉末状亜鉛 8 t
不明 廃棄・引渡[99]
  • チオジグリコール 113 t
  • ヘキサクロロフィン 60 t
  • セルロイド 140 t
不明 廃棄[99]
  • 94式水上発煙筒 14,485個
  • 94式大発煙筒 3,364個
  • Striker Head for Smoke Candle 3,400個
不明 廃棄[99]
忠海
  • 94式大発煙筒 6,735個
  • 94式水上発煙筒 35,949個
  • 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
  • 94式小発煙筒 207,210個
  • 94式代用発煙筒 245,220個
  • 97式信号用発煙筒 9,156個
  • 97式発煙筒 11,020個
  • 99式発射発煙筒 542,389個
  • 擬似イペリット 191,906 gal
不明 廃棄[99]
第58化学戦総合中隊処理
廃棄量(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島
  • シアン化ナトリウム 33.4 t
  • 六塩化エタン 60 t
  • 粉末状亜鉛 7.5 t
  • 塩化亜鉛 10 t
  • チオジグリコール 84 t
1945年11月 廃棄[114]
  • 94式水上発煙筒(1箱3個入) 14,485個
  • 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,634個
  • 発射発煙筒(大型発煙筒用と推定) 3,400個
  • 水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
1945年11月 廃棄[114]
忠海
  • 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,506個
  • 94式水上発煙筒(1箱3個入) 8,817個
  • 三式手榴弾(1箱30個入) 11,790個
  • 発煙筒(形式不明) 232,456缶
1945年11月 廃棄[114]

進駐軍再編を受けてイギリス連邦占領軍(BCOF)が中国地方を統括した。そこで昭和21年5月からBCOFが作業を引き継いだ[20]。作戦名は“Operation Lewisite”、指揮はアメリカ軍から派遣されたウィリアムソン少佐、任務はBCOFのDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT Section(DEE、兵器処理分隊)が担当し、これに日本人約300人[115]が参加した。特に帝国人絹(帝人)は、戦後インフレの中で新円を欲していた(新円切替)ことと、進駐軍から大久野島にある製塩機器を中心とする設備移転契約を結ぶことに成功したため、戦後処理に参加した[116][46]。帝人三原製造所が工員を出し、その下請け、忠海周辺での現地募集から参加したものもいる[52][117]。また山中峰次 元陸軍忠海製造所所長など旧関係者も参加している[118][46]

機器のいくつかは戦後賠償として進駐軍が持ち帰っている[116]。なお日本政府からの支援はなかった[116]

当初は3年を予定していたが工期繰り上げ要請[116]によりほぼ1年で終わっている[46]。作業は昭和21年5月8日から同年11月30日までの第一次作業、同年11月21日から昭和22年(1947年)5月27日までの第二次作業に分かれた[118]。ピーク時は3交代制で島に泊まり込んでの作業となった[117]

第一次作業
 
 
15 km
 
内海
 
川上
 
日之浦
 
切串
 
 
 
 
山口県の米光は詳細場所が不明であるため省略。
1, 忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光・切串・川上・内海など、旧陸海軍が保管していた毒ガス弾を大久野島に集める[118][119]
2. そこから毒ガスを抜き取り、主にきい剤ときい弾(イペリットとルイサイト)を船に積み込んで高知県沖で海洋投棄する[118][23]
3. あか筒(ジフェニルシアノアルシン)は島内防空壕で埋没処理する[118][46]
4. 発煙筒は島内あるいは近隣海上で焼却処理[46]
第二次作業
 
 
3 km
神殿島
松島
忠海
大三島
阿波島
大久野島
元陸軍技手によると、大久野島南西端を基点として北西から南西に向かう約4kmの海域に海洋投棄したという[122]
1. イペリットおよびルイサイト工場あるいは貯蔵庫の天井や窓を開け、建物内に蒸気を吹き込み、屋内に残存する毒ガスを大気中に放出する[118]。濃度が濃くなる排気には次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)と水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)溶液を通過させる[116]
2. 建物内を火炎放射器で焼却[118]。コンクリート地下貯蔵庫は爆破解体後焼却し埋没[116]
3. 製造装置の解体・除毒後、島周辺の水深15m以上のところで海洋投棄[118][23]
4. 工場地域全体を焼却および次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を散布[118]
 
戦後処理時の作業員。

旧陸軍製造所と同じように小鳥で毒ガス漏れの管理をしており、ガス漏れが酷いと作業は中止となる事が度々あった[117]。疲れを取るためか大釜に砂糖湯が用意されていた[52][121]。島には(工業用)アルコールがあり水で薄めて飲んでいたという[117]

戦前の陸軍製造所時代の工員は、毒ガスという単語は使われなかったが影響は動物実験や熟練工の受傷経験などで教えられていた一方で、戦後処理の日本人作業員は、扱っているものは毒ガスであることは知っていたが影響がどの程度のものか理解していなかった[52][121]。防毒服・作業服はBCOFから支給されていたがあくまで近いところで作業する者が用いていただけで、支給されないものもいた[52]。普通の服装で素手で作業を行っていたり、中には暑いからと裸で作業するものもいた[52]。そのため戦後処理の日本人作業員も被毒している。

昭和21年7月29日、積込作業中のLST-814は台風でアンカーチェーンが切れて陸から離れた[122][52][117]。この時点で90%の積込が完了していたとされ[117]、LST-814がそのまま沖に漂流していれば意図しない大事故が発生する可能性があった[52]。この時に岸に繋ぐ作業をした人物によると、29日朝から日本語が話せないウィリアムソンは銃を手に持ち「ハバハバハバ」と打つマネをして他の作業員を現場に入らせないようにしていたという[52]。その人物は毒物が流出していた海の中をパンツ一丁で飛び込み、アンカーチェーンに細いロープをくくりつけたという[52]。それを100人ぐらいで綱引きの要領で陸まで引張り着岸させた[52]。この作業で船から流出し海の中や空中に漂う毒ガスに約90人が被毒した[122][52]。この作業で被毒したもの、あるいは別の作業で被毒したもののうち、1人がのちに死亡している[123][122]

以下、米軍資料における未処理とされているつまりBCOFが引き継いだと考えられる物量と、2003年時点での環境省が公表する資料における廃棄量と、帝人資料による賠償機械明細を示す。環境省資料にはオーストラリア軍(BCOF)資料を元に作成されている。

米軍資料
昭和21年(1946年)1月時点の集計(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,200
(甲)430
(乙)150
(丙)620
910 15 1,035 7 [99]
  • 青酸用シリンダー(空) 6,300個
  • ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
  • イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
  • 炭酸カルシウム 12 t
  • プロピレングリコール 3t
  • 水酸化ナトリウム 32 t
  • ジフェニルアルシン 57 t
[99]
大三島 - - - 5950 7 - [99]
阿波島 -
  • 99式あか筒 2,919個
  • 1式大あか筒 33,166個
  • 98式中あか筒 420個
  • 100式中あか筒 46,640個
  • 98式小あか筒 44,650個
  • 100式発射あか筒 3,529,994個
[99]
忠海 -
  • 89式催涙筒 141,630個
  • 89式催涙棒 141,072個
  • 99式大あか筒 8,339個
  • 98式小あか筒 29,953個
  • 100式小あか筒 45,814個
  • 100式中あか筒 17,460個
  • 98式中あか筒 7,210個
  • 1式大あか筒 798個
[99]
  • 93式特殊発煙筒 1,670個
[99]
環境省資料によるBCOF破棄
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 - - - - -

くしゃみ剤

  • 大 65,933個
  • 中 123,990個
  • 小 44,650個
  • 発射筒 421,980個
1946年5月
-同年9月18日
島内防空壕に埋設
海水・さらし粉注入[104]
56 t(内訳不明)
  • 催涙棒 2,820箱
  • 催涙筒 1,989箱
- 不明 島内焼却[104]
- - - 1,390 t - - 1946年9月
-1947年5月
島内埋設[104]
19 t 40 t 10 t - - - 1946年11月
-1947年5月
除毒・焼却後
大久野島周辺海中投棄[104]
- - - - 10 t - 海中投棄(場所不明)[104]
  • 毒液 1,854 t
  • 毒液缶 930 t / 7,447缶
- 990 t / 9,901缶 催涙剤 7 t/ 131缶
  • 60kgガス弾 13,272個
  • 10kgガス弾 3,036個
1946年7月
-同年10月
土佐沖に海中投棄[104][101][46]
阿波島 - - - - - あか筒
20個×20箇所ぐらい
1946年1月
または同年2月
島内砂浜に埋設[104]
帝人資料による賠償機械

計 387台[116]

  • ボール盤 4
  • 卓上ボール盤 1
  • 旋盤 7
  • フライス盤 2
  • 型削盤 3
  • 心立盤 1
  • 圧力計検査器 1
  • 変電装置 2
  • 電動機 111
  • 減速機 12
  • 微粉機 1
  • 混和機 8
  • 製氷装置 1
  • 圧縮機 10
  • 圧空ポンプ 2
  • 水圧ポンプ 1
  • 送風機 1
  • 排風機 5
  • 缶締機 7
  • 稱潰機 10
  • 油分離機 3
  • 遠心分離機 2
  • 蒸気風温機 1
  • 電気浄油機 1
  • 電気乾燥機 4
  • 分光器 1
  • 渦巻きポンプ 8
  • 真空ポンプ 8
  • 電気高温機 1
  • 電気容量分析器 1
  • 油ガス発生器 1
  • 電気温度調整器 1
  • 変圧器 25
  • 静電畜電器 6
  • 配電函 21
  • 油入函開閉器 90
  • (不明)電動ポンプ 1
  • ホイスト 3
  • 削岩機 1
  • 温度計計算機 2
  • 蒸溜器 1
  • ネジ立盤 1
  • 発電機 4
  • 橋秤機 1
  • フレス 1
  • タッピングマシン 1
  • 電気炉 1
  • (不明)1
  • タービンポンプ 1
  • 起重機 1
  • 電気熔接機 2
  • 水圧フレス 1

残存

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国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を、日本国内での問題は化学兵器#化学兵器の廃棄処理を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。

上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1997年以降、危険物質が確認された場合は化学兵器禁止条約に基いて処理されている。以下、環境省資料記載分を中心とした戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況を示す。

毒ガス弾等の発見・被災・掃海等の処理状況
日時 状況 種類
1951年4月 被災 不明
  • タコ漁の際に海底にあったとみられる毒物に被災[123]
1955年7月 被災 イペリットらしいもの
  • 島内の池にあった防毒衣などの除去作業中に作業員2人が毒ガス障害。
  • うち1人は後遺症で1956年1月死去[123]
1955年頃 処理 不明
  • 島内で臭気黄土を発見。
  • コンクリート槽へ埋設[123]
1955年頃 発見 不明
  • 大久野島・小久野島・松島で囲まれた海域で漁師が正体不明のドラム缶を引き上げる。
  • 中身を確認せず再投棄[123]
1958年5月29日 被災

青酸ガスボンベ

  • 約20kg×1本
  • 漁師が網にかかったボンベを廃品回収業者に転売、解体作業中に被災。
  • 死者1人・中傷9人・軽傷18人。ボンベは民間会社が処理[123]
1961年6月13日
から同月15日
発見

赤筒(くしゃみ剤)

  • 2.5tトラック×5・6台分(推定)
  • 国民休暇村になるにあたり県が自衛隊に調査を依頼、防空壕内で発見
  • 処理方法は不明[123]
1961年 被災

イペリットと推定

  • 新聞報道によると、国民休暇村工事請負業者が工事中に被災
  • それ以上の詳細は不明[123]
1964年7月31日 発見

茶1号(青酸ボンベ)

  • 1個
  • 漁船が海中から毒ガスボンベを引き上げ
  • 竹原市に陸揚げ[123]
1964年8月1日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 民間人が購入した古鉄の中に毒ガスボンベがあった
  • 陸自第13師団武器大隊が回収、海自が引き継ぎ海中投棄[123]
1964年8月26日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 詳細不明
  • 海自が引き継ぎ海中投棄[123]
1968年5月11日 被災

毒物ボンベ

  • 1本
1人負傷[123]
1969年8月26日 発見
  • あか筒 3本
  • 発射筒 1本
  • 島内で発見
  • コンクリート密封の後、海中投棄[123]
1969年11月13日
から12月18日
掃海
  • 発見なし
  • 海上自衛隊の掃海艇3隻による2回に分けての捜索[123]
1970年1月12日
から同月16日
発見

あか筒

  • 650本
  • 島内防空壕で発見[123]
1970年1月13日
から同月15日
発見

あか筒

  • 大 22本
  • 中 約600本
  • 発射筒 1,000本
  • 厚生省・防衛庁が追跡調査を行い防空壕内で発見
  • 上記の物も含め、同年3月いっぱいまで防空壕の閉鎖処理[123]
1970年2月22日 被災

毒ガスボンベ

  • 1個
  • 小型底曳網にかかったボンベで漁師がノドに炎症。
  • コンクリート詰め後、海中投棄[123]
1970年12月22日 被災

青酸ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベで乗務員4人が負傷。
  • 自衛隊がコンクリート詰め後、太平洋で海中投棄[123]
1971年2月8日 発見

ボンベ

  • 1本
  • 漁師が酸素ボンベ状のものを引き上げる。
  • 竹原市役所が調査、危険性はないとして市役所が保管[123]
1971年2月8日 被災

毒ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベがガス漏れを起こし漁師が軽い中毒症状。
  • 運搬中にガスがすべて放散したため、海中投棄[123]
1972年4月18日 被災
  • ドラム缶 2個
  • コンクリート槽 1個
  • 護岸工事中に作業員が発見。ドラム缶から流出した液体によりかぶれる。
  • 診断および成分検査の結果毒ガスとは断定されず[123]
1977年10月 発見
  • 空のちび弾容器
  • 竹原市忠海町の人物が空のちび弾容器を所有。
  • 自衛隊が処理、1978年2月海洋投棄[124]
1995年3月
から1996年7月
調査

土壌汚染

  • 環境省による土壌および地下水調査で最大で環境基準値2200倍のヒ素を検出
  • 1998年から撤去開始、1999年完了[125]
1997年 発見

あか筒の残骸

  • 35本
  • 市民が島の北部海岸にてあか筒の残骸1本を発見。
  • 環境省・県・市の詳細調査で34本発見[125]
1997年9月 発見 不明
  • 新聞報道によると、金属製の筒1本が発見された
  • それ以上の詳細は不明[125]
1999年3月26日 発見

大あか筒

  • 9本
  • 島内整備工事中に防空壕内から発見
  • 化学兵器禁止条約に基いて無害化処理[125]
1999年10月23日 発見

97式中あか筒

  • 3本
  • 市民が島内で発見[125]
2009年1月19日 発見
  • 発煙筒 21本
  • あか筒 2本
  • 環境省による大久野島海底送水管敷設事業の際に北側海域で発見[126][127]

上記のうち、死者が発生した件の詳細を示す。

  • 1955年(昭和30年)7月、作業員2人が大久野島の池に沈められた防毒衣などを引上げ作業中に毒ガス障害を起こし、うち1人が後遺症で翌昭和31年1月に死亡[122]
  • 1958年(昭和33年)5月24日、周辺海域で漁民が青酸ボンベ2本を引上げ、それを廃品回収業者が買い取り1本を解体したところ青酸ガスが発生し死者1人・中傷9人・軽症18人の被害が出た[128]

上記の通り、大久野島に国民休暇村が開業する際に調査、あるいは海上自衛隊による周辺海域で掃海が行われている。なお大久野島の東側は1960年代から1990年代にかけて大規模な海砂利採取が行われてきた地点[129]であるが、その際に起きた事例は環境省資料にはない。

戦後BCOFによるあか箱(ジフェニルシアノアルシン)処理の様子。防空壕の中に入れ海水と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を注入し加水分解により無毒化させる処置がとられた。
第二桟橋南側にある岩。左写真の現場はここであると推察されている[120]。現在中がどのような状態かは不明。当時よりもコンクリートで覆われていることから対策済であることはわかる。

近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超えるヒ素による汚染が確認されたことである[125][130]。当時生産されていた毒ガスの中でヒ素化合物は、ルイサイト(きい2号)、ジフェニルシアノアルシン(あか)、トリクロロアルシン(しろ)、アダムサイト、になる[31][33]。環境省資料では何が原因でヒ素汚染したかは明記していない。市民団体では、戦後直後旧日本軍が隠蔽工作した際の残骸が海底で埋没し土壌汚染した、あるいは戦後進駐軍による処理で機器の焼却処理の際にヒ素が飛散した、戦後BCOFによる処理で防空壕に埋設処理されたあか筒が腐食により流出した[注 10]ものと推定している[6]。以下は1997年時点で環境省が公表する調査資料を元に記載する。

  • 土壌
    • 環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、北部海岸周辺、北部砲台跡地、西側テニスコート周辺、運動場西護岸側、国民休暇村前広場、元理材置場、南側キャンプ場付近、東・南の護岸付近及び東側周遊道路沿いの一部。うち北部砲台跡地、運動場西護岸側、元理材置場、は大幅に上回っていた[132]
    • 1999年11月まで土壌汚染対策工事が行われ[130]、現在は立ち入りできる。ただし元理財置場および北部海岸周辺、いわゆる北端の唐人傘周辺は金網フェンスで覆われ立入禁止処置がとられている。
 
北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった[133]
  • 水質
    • 水質環境基準・地下水環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、島内11カ所の井戸水・8カ所の表流水・湧き水のうち4カ所の井戸。基準を超えた4ヶ所の井戸は、観測時点で全く使用しておらず放棄していた状況だった。うち北部砲台跡地内井戸と島南側井戸では大幅に上回っていた。北部は土壌から流出したと考えられ、南側には井戸内に投棄されたとみられる腐食したあか筒が見つかっておりそれが汚染原因と考えられている[132]
    • 休暇村大久野島では2004年から井戸水の使用を中止し、飲料用水などは給水船で島外から運んでいる[134]
  • その他
    • 土壌からの巻き上げによって砒素が飛散した可能性はない[132]
    • 周辺海域および海洋生物の汚染は認められなかった[132]

こうした状況下で安定して上水を島外から運び入れるため環境省により「大久野島海底送水管敷設事業」が計画されたが、2009年その敷設工事前の調査段階で空のあか筒・発煙筒とされる23本を海底から発見、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた[134][135]

障害

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国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした状況について記す。

毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は、少なくとも約6,800人とされる[81][136]

症例

編集

毒ガス製造従事者の後障害は広島大学大学院分子内科学が昭和27年から現在まで継続実施している調査によると、発癌率が非常に高く呼吸器がん発症率は検診を開始した1950年代が最も高かった。一方、消化器癌の発症率も高く、1970代・1980年代がピークであった。マスタード・ガス製造従事者に生じた肺がんに関しては、発癌への影響を疫学的に明確にすることができたとしている[137][138][139]

この障害者特有の、ある意味で職業病とも言える疾患は、呼吸器疾患である[81]。これは毒ガスの飛沫による大気汚染が主因と断定されている[81][140]。特に顕著なのが慢性気管支炎[115][136]。その中でも1988年時点の慢性気管支炎患者のうち78.5%が膿状痰を喀出している[136]

1952年(昭和27年)から調査を開始し、職種によって、グループA:ぴらん剤(イペリット・ルイサイト)の製造に直接従事した人、グループB:工務・焼却・修理・検査・守衛とぴらん剤製造の近くで作業していた人、グループC:ぴらん剤以外の毒ガス製造に従事した人と医務・事務と毒ガス製造自体に関わっていない人、と3つに分類されている。以下その分類で記載する。

以下1973年の論文より職種・勤務期間別の慢性気管支炎発症人数[81]を示す。

慢性気管支炎発症数(人)
勤務期間 1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A イペリット・ルイサイト関連 製造 0 14 93 112 57 17
0 2 11 3 6 -
B 工務・焼却 0 8 44 74 26 5
0 1 1 3 - -
検査・守衛 2 5 18 19 - 17
1 2 3 1 8 0
C その他の
ガス製造
4 12 49 18 5 1
1 12 42 17 8 0
医務
事務
4 3 18 15 3 2
0 1 6 6 2 0
10 42 222 238 91 42
2 18 63 30 24 0
上記の集計(人・%)
1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A 0(00.0) 14(01.8) 93(11.9) 112(14.3) 57(07.3) 17(02.2) 293(37.5)
0(00.0) 2(00.3) 11(01.4) 3(00.4) 6(00.8) 0(00.0) 22(02.8)
B 2(00.3) 13(01.7) 62(07.9) 93(11.9) 26(03.3) 22(02.8) 218(27.9)
1(00.1) 3(00.4) 4(00.5) 4(00.5) 8(01.0) 0(00.0) 20(02.6)
C 8(01.0) 15(01.9) 67(08.6) 33(04.2) 8(01.0) 3(00.4) 134(17.1)
1(01.0) 13(01.7) 48(06.1) 23(02.9) 10(01.3) 0(00.0) 95(12.1)
小計 10(01.3) 42(05.4) 222(28.4) 238(30.4) 91(11.6) 42(05.4) 645(82.5)
2(00.3) 18(02.3) 63(08.1) 30(03.8) 24(03.1) 0(00.0) 137(17.5)
合計 12(01.5) 60(07.7) 285(36.4) 268(34.3) 115(14.7) 42(05.4) 782(100.0)

イペリット・ルイサイトの現場に近い人ほど慢性気管支炎の発病率が高くなっている[81]。また医務・事務など工場地帯にいなかった人でも発病している[81]。なお体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったとする証言がある[21]

調査当初は肺癌を含む呼吸器系の癌の発見が多く、肺癌の標準化死亡比は数倍の高値であった[115][17][141]。のちに肝癌を含む消化器系の癌、ボーエン病を含む皮膚がんが発見されている[17]。調査開始時点で生存していた1,632人のうち1981年末までに557人が死亡したが、その死因で分類したもの[142]が以下のものになる。

主要死因(人・%)
呼吸器系 消化器系 心・血管系 その他 うち悪性腫瘍
によるもの
A 103(18.5) 71(12.7) 29(05.2) 39(07.0) 232(41.7) 116
B 70(12.6) 56(10.1) 39(07.0) 50(09.0) 212(38.1) 146
C 25(04.5) 31(05.6) 26(04.7) 32(05.7) 113(20.3) 24
207(37.2) 158(28.4) 94(16.9) 121(21.7) 557(100.0) 271

グループA・Bともに呼吸器系疾患による死亡が最も多い[142]。グループCでは他の疾患による死亡が多い[142]。またグループA・Bの呼吸器系の癌による死亡は、当時の一般日本人統計に基づいて算出された期待数に比べて4~5倍の高確率で発生している[142]。一方で消化器系の癌ではあまり差がない[142]

また調査の結果毒ガス障害者の二世への影響は極めて少ないと推論されている[140]。なお大久野島で勤労奉仕した女学生の中には被爆後の広島に入り救護活動していた、つまり入市被爆した被爆者もいる[94]。その一人の2002年インタビュー記事では、被爆に関することは書かれているが毒ガスのことは書かれていない[94]

補償

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1952年の診断名(人・%)[81]
呼吸器
疾患
気管支炎 108 93.5
肺結核 23
肺炎 15
肺膜炎 6
肺壊疽 2
喘息 1
肺疾患 2
気管支拡張症 1
扁桃腺炎 1
喉頭炎 1
消化器疾患 3 1.8
循環器疾患 2 1.2
食道癌 1 0.6
肝臓癌 1 0.6
その他 4 -
 
現在の呉共済病院忠海分院。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した[143]

以下戦後の社会保障の歴史を示す。

  • 1952年(昭和27年、終戦から7年後、毒ガス処理から5年後。大久野島自体は朝鮮戦争に伴い米軍が1956年まで接収[64]。この年の4月にサンフランシスコ講和条約発行およびプレスコード失効。)
    • 広島県立医学大学和田直内科(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学)に、元工員の30歳男性が呼吸困難を訴えて入院、約1ヶ月後に死亡。診断により気管分岐部に発生した扁平上皮癌と診断[115][141]
    • これを受けて7月8日から8月2日にかけて計5回、県立医大内科・病理および竹原保健所の3者協力のもと、元工員男性205人女性5人計210人の健康診断を行う[115][136]。右上表はその時の診断結果。更に死亡診断書が集められ、その中の数名から喉頭癌や肺癌など呼吸器系の癌が推定された[115][141]
    • この直後、30歳の肺癌症例[注 11]を診断した[136]
  • 1953年(昭和28年) : これを基に「大久野島の所謂毒ガス工場工員間に見られた後遺症の検索第1報臨床的観察」として論文公表[136]
  • 1954年(昭和29年) : 国は「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される[115][136]
  • 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立[136]。竹原保健所を拠点にボランティア活動として開始した[136]。これと並行して旧従業員名簿を作成し始める[115][136]
  • 1962年(昭和37年) : 広大から行武正刀が忠海病院に赴任[144]
  • 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した[136]
  • 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス工場従事に関する全県下アンケート調査を実施し名簿作成[136]
  • 1969年(昭和44年) : 県は、名簿を基に独自に援護施策を開始した[145]
  • 1970年(昭和45年) : 国家公務員共済組合連合会は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した[136]
  • 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当を給付した[136]
  • 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して厚生省を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した[136]。これにより障害者全員が社会保障対象となった[136]

現在被爆者に準じた措置が取られ[115]、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属は財務省が、それ以外は厚生労働省が担当し、これに県が受託される形で厚労省分は事業全般・財務省分は健康診断のみ(事業全体は国家公務員共済組合連合会が担当)を行っている[145][146]。認定を受けると、年1回無料で一般および精密検査が受けられ健康管理手帳、医療費の自己負担分が免除となる医療手帳、が交付され、症状により手当が支給される[147][145]。これとは別に県独自の施策事業がある[146]。健康管理手帳所有者数は、総数が6,113人(厚労省3,334人・財務省2,779人)[145]。初年度である1974年度が2,965人[136]、2010年度は2,753人平均年齢84歳[147]、2015年度は2,073人平均88歳[147]

地域・従事職種別で障害者団体が10団体結成された[145]が、高齢化に伴い2017年現在で8団体に減り諸事務も一本化された[148]。被爆者と違い、いわゆる二世の団体は存在していない[149]

大久野島毒ガス傷害研究会による集団健診は、ピークが1988年の3,624人が受けていたが、近年は高齢化の影響で決まった日時での受診自体が難しくなっていた[150][151]。2016年研究会は設立当初から続けていた集団健診を停止し個別診断で対応することとなり、その結果2017年は受診者が増えたという[150][151]

慰霊・伝承

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大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑
 
毒ガス資料館。所有者は竹原市。これの管理も国の介入が望まれている[152]

1963年(昭和38年)、大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)が開場[9]、これ以降、島に残っていた旧陸軍毒ガス工場群が壊されていったという[15]。1969年、島内で毒ガス兵器が発見された際には国会で取り上げられたという[15]

1983年、『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』など3種類の重要資料が粟屋憲太郎によって発見され旧日本軍による化学戦の使用実態が明らかになり、それを全国メディアが報道したことで注目を集めることとなった[153][95]。そうした中で、慰霊碑の建設、そして毒ガス製造の実態を知ってもらおうと資料館建設に向けて動き出した[95]が、国側は消極的であった[95]。これは当時、国側は毒ガスのことを隠したかったためと言われている[95]

1985年、「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立、毎年10月に慰霊祭が行われている[145]。1988年、資料館が開館した[95]。1992年、化学兵器禁止条約が起草されると、中国国内の旧日本軍毒ガス兵器の存在が論点となった[153]。この間、資料館は注目を集め、年間入場者数でみると開館当初は5・6万人台、1995年で約6万5千人のピークに達している[154]

平和学習目的での島内ガイド役は資料館館長の村上初一が行っていたが、村上が辞任した1996年以降は島内ガイドは依頼があれば市民団体が答える形となっている[155]

島を管理する環境省としては、1997年時点での資料には「この島の歴史を語るものとして教育の観点からもできるだけ保存すべきである」と残している[132]。2018年西日本豪雨で島内の火薬庫跡が土石流で損壊する[156]など関連遺構の老朽化が表面化した際、環境省は2019年11月時点で報道に対し「文化財指定されていないため、積極的に保存処理することはない」とコメントしている[22]。これに対して竹原市や被害者団体は遺構保存に向けて環境省に要望書を提出している[22]

2023年、写真家の竹下和輝が毒ガス製造工場の戦争遺跡をテーマに写真集を刊行[157]。「負の歴史」の記録を行った。

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の忠海町長望月忠吉が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとする説[6][15]があるが、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫つまり圭介の従甥[16]にあたる。また望月が白川義則陸軍大臣と親しかったため頼んだとする資料[15]があるが、大久野島で製造所が着工した昭和2年(1927年)[3][17]に発足した田中義一内閣で双方とも初めて閣僚入りしている(望月:逓信相、白川:陸軍相)。なお田中義一は元陸軍で当時政友会総裁、望月は昭和2年時点で政友会総務。
  2. ^ それぞれ別の資料から。元資料も推定部分が多いことに注意[23]
  3. ^ 1937年-1943年の間の月生産量[23]
  4. ^ 1931年以降[23]
  5. ^ かつて瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が必要だったことから、この周辺の山々はハゲ山が多かった。
  6. ^ A二工室は製造所内最大の工場で、室内で充満するイペリットガスを排風機で排出していたが十分ではなかった[55]。これに夜間だと湿気が籠もるため、受傷しやすくなった[2]
  7. ^ フランス式イペリットは不純物が多いため再蒸留して純度を高めた[13]
  8. ^ 東広島市八本松には川上に第11海軍航空廠の補給廠(現川上弾薬庫)と、八本松町東4丁目に陸軍兵器補給廠八本松分廠(現在民間工場)があり、双方ともに毒ガスを貯蔵していた[106]。資料では海軍の川上はあるが陸軍の八本松の記載がない。
  9. ^ 名前・肩書はオーストラリア戦争記念館が公開する写真の説明と帝人資料[118]から。
  10. ^ 2003年神栖市でヒ素中毒が発生した際、当初は毒ガス兵器あか筒が原因と考えられていたが、現在では産業廃棄物の不法投棄による汚染の可能性が高いとされている[131]
  11. ^ 当時日本での年間肺癌発症例は500~600例程度[136]

出典

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参考資料

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関連項目

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