日本及日本人

1907年から1945年まで政教社から出版された言論の雑誌

日本及日本人(にほんおよびにほんじん)は、1907年明治40年)1月1日から1945年昭和20年)2月まで、政教社から出版された、おもに言論の雑誌。1923年秋まで、三宅雪嶺が主宰した。

第511号(1909)

歴史

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この雑誌は、政教社日本人誌と陸羯南日本新聞とを継いでいる。これらは元々兄弟のような間柄だったが、1906年、日本新聞社の後任社長伊藤欽亮の運営を不服として、社員12人が政教社に移り、三宅雪嶺が『日本人』誌と『日本新聞』との伝統を継承すると称して、翌年元日から『日本人』誌の名を『日本及日本人』と変え、彼の主宰で発行したのである。創刊号の号数も、『日本人』誌から通巻の第450号だった。

雪嶺は1923年(大正12年)秋まで主筆を続けたが、関東大震災後の政友社の再建を巡る対立から、去った。それまでが盛期だった。

雪嶺は、西欧を知り、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていた。題言と主論説は雪嶺、漢詩の時評の『評林』は日本新聞以来の国分青崖、時事評論の『雲間寸観』は主に古島一雄、俳句欄は内藤鳴雪、和歌欄は三井甲之が担当し、一般募集の俳句欄『日本俳句』は河東碧梧桐が選者で、彼は俳論・随筆も載せた。ほかに、島田三郎杉浦重剛福本日南池辺義象南方熊楠三田村鳶魚徳田秋声長谷川如是閑鈴木虎雄丸山幹治鈴木券太郎らの在野陣が執筆した。月2回刊、B5より僅か幅広の判だった。

たびたび発禁処分を受けた。

大正期に入ってからは、三井甲之の論説が増え、中野正剛五百木良三植原悦二郎安岡正篤土田杏村布施辰治寒川鼠骨らが書いて、右翼的色彩も混ざった。

1920年(大正9年)4月5日発行の春季増刊号『百年後の日本』(通巻第780号)は、当時の未来予測記事としてしばしば言及される[1][2][3][4][5][6]。同号はJ&Jコーポレーションから2002年ISBN 4930794005)と2010年ISBN 9784930794000)に覆刻されている。

1923年(大正12年)の関東大震災に、発行所の政教社は罹災した。雪嶺と女婿の中野正剛とは、社を解散し新拠点から雑誌を継続発行すべきとし、他の同人が反対し、碧梧桐・如是閑が調停したが、雪嶺は去った。以降の『日本及日本人』は、同名の無関係の雑誌とする論もある[7]

1924年年初、政教社が発行し直した『日本及日本人』は、体裁はほぼ以前通りだったが、内容は神秘的国粋論が多くなった。1930年(昭和5年)、五百木良三が政教社社長となって『日本及日本人』を率いた、1935年からは月一回発行になった。

1937年の五百木の没後は、国分青崖社長、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆の、戦争協力体制になった。

第二次世界大戦の末期、1945年2月号(第440号)まで発行が確認されている[8]

戦後の復刊

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1950年9月に復刊し、日本新聞社、日本及日本人社、J&Jコーポレーションと版元を変えて2004年1月(通巻第1650号)まで発行されていた。

1988年陽春特別号(通巻第1590号、1988年4月1日発行、日本及日本人社)は、「創刊100周年記念」と題されている。

脚注

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  1. ^ 横田順彌『百年前の二十世紀 明治・大正の未来予測』1994年、筑摩書房。ISBN 4-480-04186-9
  2. ^ 学び!と歴史 読み解く歴史の世界 歴史に何を想い描きますか、日本文教出版 - 2021年8月21日閲覧。
  3. ^ 「大正人が見た100年後 1920日本人の『未来力』」『日経ビジネス』2010年1月4日号。
  4. ^ Wearable Computerの時代鈴木邦男公式サイト、2010年3月22日。
  5. ^ みんな未来予想に夢中だった 100年前に描かれた「百年後の日本」、朝日新聞GLOBE+、2019年10月13日。
  6. ^ 100年前に予想されていた「スマホ」の姿 大正時代に描かれた“日本の未来”脅威の的中率、ORICON NEWS、2020年1月31日。
  7. ^ 『新潮 日本文学辞典 増補改訂版』、新潮社(1988) p.960
  8. ^ 『雑誌「日本人」「日本及日本人」目次総覧Ⅴ』(日本近代史料研究会、1984)p.435

出典

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  • 松本三之介:『日本及日本人』、文学(1956.4)(「『政教社文学集』、筑摩書房 明治文学全集37(1980)p.411 - 415)
  • 佐藤能丸編:『政教社文学年表』(筑摩書房 明治文学全集37 政教社文学集(1980)所収)(明治末までの各号の、記事名と筆者名が載っている。)

外部リンク

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