有馬頼徸

江戸時代中期の大名。久留米藩第7代藩主。和算家として著名

有馬 頼徸(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名数学者和算家[1]筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。

 
有馬 頼徸
有馬頼徸像(篠山神社蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年11月24日1714年12月30日
死没 天明3年11月23日1783年12月16日
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従四位下、左少将、玄蕃頭、中務大輔、贈従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
筑後国久留米藩
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬則維、母:小林氏
兄弟 則矩大次郎則如頼徸則恵
正室:京極宮家仁親王の娘
幾代丹羽高庸婚約)、頼貴多吉郎
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数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」として著名である。一方、為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではなかった。

生涯

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正徳4年11月25日(1714年12月31日)第6代藩主・有馬則維の四男として生まれる[2]

享保14年(1729年)、父の隠居により16歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、元文2年(1737年)までは重臣が藩政を担った。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起こる。頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施した。広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励した。

当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。

天明3年11月23日(1783年12月16日)70歳で死去した。跡を長男・頼貴が継いだ。

学問藩主として

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頼徸は有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。特に頼徸が優れていたのは和算であり、流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ。それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、小数の計算まで成立させた。明和6年(1769年)には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著した。これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである。

評価

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幕府からその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もそれまでの歴代藩主より上の左少将に叙任された。また将軍が狩猟で仕留めたを拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けている。これは徳川御三家伊達家島津家加賀前田家などの大藩しか賜れず、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けた。

頼徸の治世は54年の長きにわたり、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって、久留米藩の藩政は比較的安定した。その治績から頼徸は久留米藩の吉宗と賞賛されるに至った。また頼徸と同時期の教養人、新発田藩溝口直温松江藩松平宗衍と並んで風流三大名と称される。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『江戸時代人名控1000』山本博文監修、小学館、2007年、20頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 65頁。

有馬頼徸が登場する作品

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参考文献

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  • Döll, Steffen; Hinz, Andreas M. (2018). “Kyū-renkan – the Arima sequence”. In Ogawa, T.; Morimoto, M.. Mathematics of Takebe Katahiro and History of Mathematics in East Asia. Advanced Studies in Pure Mathematics. 79. Tokyo: Mathematical Society of Japan. pp. 321-335 

外部リンク

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