朱 家宝(しゅ かほう)は清末民初の政治家。清末は地方官僚をつとめ、中華民国では北京政府の要人となった。経田金田。号は墨龍

朱家宝
プロフィール
出生: 1860年咸豊10年)
死去: 1923年民国12年)9月5日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 雲南省臨安府寧州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 朱家寶
簡体字 朱家宝
拼音 Zhū Jiābǎo
ラテン字 Chu Chia-pao
注音二式 Jū Jiābǎu
和名表記: しゅ かほう
発音転記: ジュー ジアバオ
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事跡

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16歳で秀才となり、19歳で挙人となった。1892年光緒18年)、壬辰科進士となり、翰林院庶吉士を授かる。以後、知県、知府、道台を歴任して、江蘇按察使となる。1906年(光緒32年)、吉林巡撫に昇進した。翌年、安徽巡撫に異動している。

1911年宣統3年)の辛亥革命において、朱家宝は安徽省咨議局から安徽都督に推戴された。しかし、まもなく兵変が発生して朱は逃亡した。以後、参議院議員、政治会議議員をつとめる。1914年民国3年)2月、直隷民政長に就任し、さらに署直隷都督となった。5月、民政長が巡按使に改められ、6月、正式に直隷将軍(都督を改称)に就任した。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を図ると、朱はこれを支持し、一等伯に封じられた。

袁世凱死後の1916年(民国5年)7月、朱家宝は、引き続き直隷省省長兼都督として、同省の統治を継続した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟に際して、これを支持して、張勲内閣の民政部尚書に任命された。しかし復辟失敗とともに、朱も失脚し、日本へ亡命した。同年10月、帰国して、天津に逃げ込んでいる。

1923年(民国12年)9月5日、天津で病没。享年64。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  
先代
-
吉林巡撫
1907-1908
次代
陳昭常
先代
馮煦
安徽巡撫
1908-1911
次代
-
   中華民国北京政府
先代
趙秉鈞
直隷都督(署理)
1914年2月 - 6月
次代
(将軍に改称)
先代
(都督から改称)
直隷将軍
1914年6月 - 1916年7月
次代
(督軍に改称)
先代
(将軍から改称)
直隷督軍
1916年7月 - 9月
次代
曹錕
   張勲復辟
先代
(創設)
民政部尚書
1917年7月
次代
(廃止)