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'''始皇帝'''(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日<ref>{{cite news |url=http://www.travelchinaguide.com/attraction/shaanxi/xian/terra_cotta_army/qin_shihuang_1.htm |title=Emperor Qin Shi Huang -- First Emperor of China |publisher=TravelChinaGuide.com |language=英語|accessdate=2011-12-20}}</ref><ref name="Wood1">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 2.</ref>)は[[中国]]の初代[[皇帝]](在位:紀元前221年 - 紀元前210年)<ref name="duik">Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition:5, illustrated. (2006). ''World History:Volume I:To 1800''. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.</ref>。[[戦国時代 (中国)|古代中国の戦国時代]]の[[秦]]の第31代君主(在位:[[紀元前247年]] - [[紀元前210年]])。6代目の王(在位:紀元前247年 - [[紀元前221年]])。氏名は'''嬴政'''または'''趙政'''<ref>[[姓]]が{{読み仮名|'''嬴'''|えい}}、[[氏]]が{{読み仮名|'''趙'''|ちょう}}、[[諱]]が{{読み仮名|'''政'''|せい}}</ref>。現代中国語では'''秦始皇帝'''<ref>{{ピン音|Qín Shǐ Huángdì}}、チンシーフアンディー</ref>または'''秦始皇'''<ref>{{ピン音|}} {{Audio|Qin shi huang pronunciation 2.ogg|Qín Shǐ Huáng}}、チンシーフアン</ref>と表現する。
 
即位して'''秦王・政'''にった後、勢力を拡大し[[戦国七雄|他の6国]]を攻め滅ぼして中国を紀元前221年に初統一すると、即位して史上初の皇帝として'''始皇帝'''」と号した名乗る<ref name="duik" />。
 
統一後は、重臣の[[李斯]]らとともに主要経済活動や[[政治改革]]を実行した<ref name="duik" />。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が[[世襲]]して統治する[[封建制]]から、中央政権が任命・派遣する[[官僚]]が治める[[郡県制]]への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での[[貨幣]]や[[度量衡|計量単位]]の統一<ref>柿沼2015</ref>、道路整備・[[交通規則]]の制定などを行った。[[万里の長城]]の建設や、等身大の[[兵馬俑]]で知られる[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|秦始皇帝陵]]の建設といった[[世界遺産]]として後世に残ることになった大事業も行った。[[法律|法]]([[法家]])による統治を敷き、批判する[[儒者]]・[[方士]]や書物の弾圧を行った[[焚書坑儒]]でも知られる<ref name="Ren">Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). ''Rise and Fall of the Qin Dynasty''. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.</ref>。
 
紀元前210年に旅の途中で数え50歳で急死するまで秦に君臨した。
{{TOC limit|3}}
 
==称号「始皇帝」==
[[Image:始皇帝 (篆文).svg|thumb|right|100px|始皇帝 <br>''Shǐ Huángdì''<br>小篆体で書かれた「始皇帝」]]
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『[[史記]]』において[[司馬遷]]は「秦始皇帝」と「秦始皇」を遣っている。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて<ref name=ShinHon70 /><ref name="shijichapter5">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7005&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 5].</ref>や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節<ref>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」1]]</ref>、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている<ref name="shijichapter6">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7006&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 6].</ref><ref>Book.sina.com.cn. "[http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_78679_53894.html Sina]." ''帝王相貌引起的歴史爭議.'' Retrieved on 2009-01-18.</ref>。嬴政は「皇」と「帝」を合成して「皇帝」と造語したので「秦始皇帝」の方が正式と考えられる<ref>see ''Chinese Emperors'' by Ma Yan. ISBN 978-1-4351-0408-2.</ref>。
 
== 誕と幼少期==
===生誕と幼少期===
秦人の発祥は[[甘粛省]]で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の[[天水市]][[清水県]]秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた<ref>[http://www.bytravel.cn/Landscape/32/qintingguzhi.html 秦亭故址] Bytravel (中国語)</ref> 。
 
====人質の子====
{{main|[[呂不韋#奇貨居くべし|奇貨居くべし]]}}
秦の公子であった父の「異人」<ref>後に紀元前257年に邯鄲を脱出して秦に帰り、華陽夫人と初めて謁見した際に子楚と改名《戦国策・秦策》:異人至,不韋使楚服而見。王后悦其状,高其知,曰:「吾楚人也。」而自子之,乃変其名曰楚。</ref>は[[休戦協定]]で[[人質]]として[[趙 (戦国)|趙]]へ送られていた<ref name="Huang" />。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子<ref>昭襄王42年([[紀元前265年]])に2年前亡くなった兄の[[悼太子]]に代わって太子に指名された 史記 巻5 秦本紀 (秦昭襄王)四十年,悼太子死魏…四十二年,安国君為太子。</ref>である祖父の安国君(異人の父。後の[[孝文王]]。曾祖父の[[昭襄王]]の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また[[妾]]であった異人の生母の[[夏姫 (秦孝文王)|夏姫]]は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。
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そこで[[韓 (戦国)|韓]]の裕福な商人であった[[呂不韋]]が目をつけた。安国君の[[継室]]ながら太子となる子を産んでいなかった[[華陽太后|華陽夫人]]に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた<ref name="Ren" />。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾([[趙姫 (荘襄王)|趙姫]])<ref name="Huang" /> を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と[[諱]]を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都[[邯鄲]]で生まれたため「趙政」とも呼ばれた<ref group="注">当時は男女で姓と氏を使い分けていたので、「趙氏贏姓の政」はいずれにせよ「趙政」と呼ばれていたともされる。</ref><ref name="RGH">‘‘Records of the Grand Historian:Qin Dynasty'' (English translation). (1996). Ssu-Ma, Ch'ien. Sima, Qian. Burton Watson as translator. Edition:3, reissue, revised. Columbia. University Press. ISBN 0231081693, 9780231081696. pg 35. pg 59.''</ref>。後に始皇帝となる<ref name="Wood1" /><ref name="RGH" /><ref name=Yoshi21 />。
 
===血筋に対する議論===
====呂不韋父親説====
[[漢]]時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという<ref name="Huang" /><ref name=ShikiRo5>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」5]]</ref><ref name=Yoshi30>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.30-37、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐2]]</ref>。[[後漢]]時代の[[班固]]も『[[漢書]]』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『漢書』五行志下49 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
 
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[[陳舜臣]]は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した<ref name=Chin154>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.154-194、乱世の果て]]</ref>。
 
====死と隣り合わせの少年====
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には[[王陵]]、昭襄王50年(紀元前257年)には[[王齕]]に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった<ref name=Yoshi30 />。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している<ref name=Chin154 />。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。
 
昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった<ref name=Yoshi287>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.287-291、秦の始皇帝年譜]]</ref>政を母の[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]と共に秦の[[咸陽市|咸陽]]に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は[[丞相]]に任命された<ref name=Yoshi30 />。
 
===即位===
====若年王の誕生と呂不韋の権勢====
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした<ref name=Yoshi30 />。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ<ref name="Ancient">Donn, Lin. Donn, Don. ''Ancient China''. (2003). Social Studies School Service. Social Studies. ISBN 1560041633, 9781560041634. pg 49.</ref>。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は[[相国]]となり[[戦国七雄]]の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した<ref name="Wood2" />。
 
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[[流刑]]の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒[[自殺]]した<ref name=Wood2/><ref name=Mah/>。[[吉川忠夫]]は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した<ref name=Yoshi45 />が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した<ref name=Chin154 />。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した<ref name=Chin154 />。
 
===専制===
====李斯と韓非====
秦王政による親政が始まった年、[[灌漑]]工事の技術指導に招聘されていた韓の[[鄭国]]が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「[[逐客令]]」が提案された<ref name=Yoshi54>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.54-62、第二章 駆客令‐秦国の発展‐1]]</ref>。反対を表明した者が[[李斯]]だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、[[穆公 (秦)|穆公]]は[[虞 (春秋)|虞]]の大夫であった[[百里奚]]や[[宋 (春秋)|宋]]の[[蹇叔]]らを登用し<ref name=Yoshi54 />、[[孝公 (秦)|孝公]]は[[衛]]の[[公族]]だった[[商鞅]]から<ref name=Yoshi62>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.62-69、第二章 駆客令‐秦国の発展‐2]]</ref>、[[恵文王 (秦)|恵文王]]は[[魏 (戦国)|魏]]出身の[[張儀]]から<ref name=Yoshi69>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.69-74、第二章 駆客令‐秦国の発展‐3]]</ref>、昭襄王は魏の[[范雎]]から<ref name=Yoshi74>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.74-80、第二章 駆客令‐秦国の発展‐4]]</ref>それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は[[性悪説]]の[[荀子]]に学び、人間は環境に左右されるという[[思想]]を持っていた<ref name=Yoshi54 />。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた<ref name=Yoshi81>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.81-88、第三章 統一への道‐六国併合‐1]]</ref>。
 
商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた<ref name=Yoshi62 />。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『[[韓非子]]』に感嘆した。著者の[[韓非]]は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に<ref name=Yoshi287 />使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/chu-jian-qin/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《初見秦》|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}なお、『韓非子』におけるこの篇は後世の法家による偽作と見られている</ref>。しかし、これに危機を感じた李斯と[[姚賈]]の謀略にかかり死に追いやられた<ref name=Yoshi81 />。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/gu-fen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《孤憤》1 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書([[詩経]]・[[書経]])ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり<ref name=KanGo>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《五蠹》10-13 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である<ref name=KanGo />という箇所にも共感を得た<ref name=Yoshi81 />。
 
====韓・趙の滅亡====
{{main|秦の統一戦争}}
秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた<ref name=Yoshi30 />。秦王政の代には、魏出身の[[尉繚子|尉繚]]の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった<ref name=Yoshi81 />。
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趙王は捕らえられたが、その兄の[[代王嘉|公子嘉]]は[[代郡]]([[河北省]])に逃れ、亡命政権である[[代 (戦国)|代]]を建てた。
 
====暗殺未遂と燕の滅亡====
{{Main|荊軻}}
[[燕 (春秋)|燕]]は弱小な国であった<ref name="Firsteselect">Sima Qian. Dawson, Raymond Stanley. Brashier, K. E. (2007). ''The First Emperor:Selections from the Historical Records''. Oxford University Press. ISBN 0199226342, 9780199226344. pg 15 - 20, pg 82, pg 99.</ref>。[[燕太子丹|太子の丹]]はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた<ref name=Yoshi88 />。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという<ref name=Yoshi88 />。実際は脱走したと思われる<ref name=Chin196>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.196-227、天下統一]]</ref>丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった<ref name=Yoshi88 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/ci-ke-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』刺客列傳 26|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
120行目:
そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都[[房山区|薊]]を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された<ref name=Yoshi95 />。その後の戦いも秦軍は圧倒し、[[遼東]]に逃れた[[燕王喜]]は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた([[燕攻略|燕の滅亡]])<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi95 />。
 
====魏・楚・斉の滅亡====
次に秦の標的となった魏は、かつて五国の[[合従]]軍を率いた[[信陵君]]を失い弱体化していた。
 
129行目:
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の[[后勝]]とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ([[斉攻略|斉の滅亡]])<ref name=Yoshi101>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.101-106、第三章 統一への道‐六国併合‐4]]</ref>。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった<ref name=Yoshi101 />。
 
===統一始皇帝王朝===
[[Image:Qin Shi Huang statue.jpg|195px|thumb|right|現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像]]
====皇帝====
[[中国統一|中国が統一]]され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の[[王綰]]・[[馮劫]]・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は[[周]]の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、[[春秋時代|春秋]]・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、[[五帝]]さえ超越したとして三皇の最上位である「[[泰皇]]」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した<ref name=Yoshi107 />。
 
====五徳終始====
始皇帝はまた戦国時代に成立した[[五行思想]](木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた<ref name="Wood4">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 27.</ref>。史記の伝説では秦の始祖、大[[費]](柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、[[方位]]の「[[北]]」、[[季節]]の「[[冬]]」、[[数字]]の「[[6]]」でも[[象徴]]された<ref>Murowchick, Robert E. (1994). ''China:Ancient Culture, Modern Land''. University of Oklahoma Press, 1994. ISBN 0806126833, 9780806126838. p105.</ref><ref name=Yoshi114>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.114-123、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐2]]</ref>。
 
====政治====
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. Sutton Publishing. ISBN 0750939591. pp. 82, 102-103, 131, 134.</ref>。[[政治]]支配は[[中央集権]]が採用されて被征服国は独立国の体を廃され<ref name="Imperialism">Imperialism in Early China. CA. 1600BC - 8AD'. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44'</ref>、代わって36の[[郡]]が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた<ref name="Chang">Chang, Chun-shu Chang. (2007). ''The Rise of the Chinese Empire:Nation, State, and Imperialism in Early China, CA. 1600BC - 8AD''. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44</ref>。これは[[郡県制]]を中国全土に施行したものである<ref name=Yoshi114 />。
 
統一後、臣下の中では従来の[[封建制#中国史における封建制|封建制]]を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く<ref name=Imperialism>Imperialism in Early China. CA. 1600BC - 8AD'. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44'</ref><ref name=Yoshi128>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.128-136、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐4]]</ref>と強硬に主張した李斯の意見が採られた<ref name=Yoshi114 />。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された<ref name="Veeck">Veeck, Gregory. Pannell, Clifton W. (2007). ''China's Geography:Globalization and the Dynamics of Political, Economic, and Social Change''. Rowman & Littlefield publishing. ISBN 0742554023, 9780742554023. p57-58.</ref>。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった<ref name="Chang" /><ref>The source also mention ch'ien-shou was the new name of the Qin people. The may be the Wade-Giles romanization of (秦受) "subjects of the Qin empire".</ref>。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった<ref name="Chang" />。
 
====経済など=その他===
始皇帝と李斯は、[[度量衡]]や[[通貨]]<ref>柿沼2015</ref>、[[荷車]]の[[軸 (機械要素)|軸]]幅(車軌)、また[[位取り記数法]]<ref>{{cite book|和書|author=監修:今井秀孝|title=トコトンやさしい計量の本|chapter=第1章 計るって何だろう|pages=22-23|publisher=[[日刊工業新聞社]]|year=2007|edition=第1刷|isbn=978-4-526-05964-3}}</ref>などを統一し、[[市制 (単位系)|市制]]の標準を定めることで経済の一体化を図った<ref name="Veeck" /><ref name=Yoshi123>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.123-128、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐3]]</ref>。さらに、各地方の交易を盛んにするため[[道路]]や[[運河]]などの広範な[[交通]]網を整備した<ref name="Veeck" />。各国でまちまちだった通貨は[[半両銭]]に一本化された<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi123 />。そして最も重要な政策に、[[漢字]][[書体]]の統一が挙げられる。李斯は秦国内で[[篆書体]]への一本化を推進した<ref name=Yoshi128 />。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた<ref name=Fuji69>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.69-70、四 皇帝の文字 文字改革]]</ref>。臣下が用いる文字は「[[隷書体|隷書]]」として、[[程邈]]という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい<ref name=Fuji93>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.93-97、五 政治の文字 隷書]]</ref>。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi128 />。
 
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之}}<br>始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。|青銅詔版<ref>{{cite web|url=http://abc0120.net/words03/abc2010051201.html |title=青銅詔版の権量銘|publisher=考古用語辞典|accessdate=2011-11-20}}</ref><ref name=Fuji75 />}}
 
===大土木業===
[[Image:Epang-Palast.jpg|170px|thumb|right|阿房宮図。清代の袁耀作。]]
====咸陽と阿房宮====
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし{{仮リンク|十二金人|en|12 Jin Ren}}を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた<ref name=Yoshi151>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.151-157、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐3]]</ref>。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の[[渭水]]北岸では手狭になった<ref name=Yoshi151 />。
 
157行目:
名称「阿房」とは仮の名称である<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「阿房宮未成。'''成、欲更択令名名之'''」</ref>。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名<ref>陝西省長安の西北にある山の名。新釈漢文大系38「史記一(本紀)」吉田賢抗著、349頁。</ref>であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも<ref name=Yoshi151 />、四阿旁広の様子からつけられたとも<ref name=Yoshi151 />、始皇帝に最も寵愛された妾の名<ref>Chang, Kwang-chih. Xu, Pingfang. Lu, Liancheng. Allan, Sarah. (2005). ''The Formation of Chinese Civilization:An Archaeological Perspective''. Yale University Press. ISBN 0300093829, 9780300093827. pg 258.</ref>とも言う。
 
====始皇帝陵 (驪山)====
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある[[驪山]](所在地:{{Coord|34|22|52.75|N|109|15|13.06|E|type:landmark}})が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された<ref name=Yoshi158>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.158-164、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐4]]</ref>。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作驪山。」</ref>。
 
172行目:
[[File:Lingqu Canal.jpg|thumb|200px|現代に残る[[霊渠]]]]
 
====万里の長城====
{{Main|万里の長城}}
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の[[遊牧民]]であった。戦国七雄が争っていたころは[[匈奴]]も[[東胡]]や[[月氏]]と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。<ref name=Chin228>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.228-257、万里の長城]]</ref>。始皇帝は[[蒙恬]]を北方防衛に当たらせた<ref name=Chin228 />。そして巨大な防衛壁建設に着手した<ref name="Haw" /><ref name="Li">Li, Xiaobing. (2007). ''A History of the Modern Chinese Army''. University Press of Kentucky, 2007.ISBN 0813124387, 9780813124384. p.16</ref>。逮捕された不正役人を動員して建造した<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「三十四年、適'''治獄吏不直者'''、築長城及南越地」</ref>この壁は、現在の[[万里の長城]]の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や[[中山国]]など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった<ref name="Clements_p102-103">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 102-103.</ref><ref name=Chin228 /><ref>Huang, Ray. (1997). ''China:A Macro History''. Edition:2, revised, illustrated. M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247313, 9781563247316. p 44</ref>。
 
====霊渠====
{{Main|霊渠}}
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある<ref>Sina.com. "[http://news.sina.com.cn/c/2005-07-26/15497329339.shtml Sina.com]." ''秦代三大水利工程之一:靈渠.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大[[運河]]の建設に着手し<ref name="Mayhew">Mayhew, Bradley. Miller, Korina. English, Alex. ''South-West China:lively Yunnan and its exotic neighbours''. Lonely Planet. ISBN 186450370X, 9781864503708. pg 222.</ref>、中国の南北を接続した<ref name="Mayhew" />。長さは34kmに及び、[[長江]]に流れ込む[[湘江]]と、[[珠江]]の注ぐ[[漓江]]との間をつないだ<ref name="Mayhew" />。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた<ref name="Mayhew" />。これは、万里の長城・[[四川省]]の[[都江堰]]と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる<ref name="Mayhew" />。
 
===天下巡遊===
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西([[甘粛省]]東南・旧[[隴西郡]])と北地(甘粛省[[慶陽市]][[寧県]]・旧[[寧州 (甘粛省)|北地郡]])は<ref name=ShikiSikou18>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」18]]</ref>いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる<ref name=Yoshi165>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.165-173、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐1]]</ref>。
 
194行目:
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省[[孝感市]][[雲夢県]]の戦国‐秦代の古墳から発掘された[[睡虎地秦簡]]の『編年紀』と名づけられた[[竹簡]]の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である<ref name=Yoshi173>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.173-180、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐2]]</ref>。
 
====封禅====
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の[[泰山]]にて、始皇帝は[[封禅]]の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ<ref name=Chin9>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.9-41、秦山風物]]</ref>、かつて斉の[[桓公 (斉)|桓公]]が行おうとして[[管仲]]が必死に止めたと伝わる<ref name=Hou12>[[#史記「封禪書」|「封禪書」12]]</ref>。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え<ref name=Hou19>[[#史記「封禪書」|「封禪書」19]]</ref>、この儀式を遂行した<ref name=Yoshi195>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.195-202、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐1]]</ref>。
 
201行目:
この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった<ref name=Hou20 />。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか<ref name=Yoshi195 />、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる<ref name=Chin9 />。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの[[不老不死]]を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた<ref name=Yoshi195 />。
 
====神仙への傾倒====
[[File:La expedición de Xu Fu, por Utagawa Kuniyoshi.jpg|thumb|left|不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した[[徐福|徐巿]]の船。]]
泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は[[山東半島]]を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた<ref name=Hou22>[[#史記「封禪書」|「封禪書」22]]</ref>。僊人とは[[仙人]]のことであり、始皇帝が[[神仙思想]]に染まりつつあったことを示し<ref name=Yoshi202>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.202-206、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐2]]</ref>、そこに取り入ったのが[[方士]]と呼ばれる者たちであった<ref name="Ong">Ong, Siew Chey. Marshall Cavendish. (2006). ''China Condensed:5000 Years of History & Culture''. ISBN 9812610677, 9789812610676. p 17.</ref>。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」<ref name=Hou23>[[#史記「封禪書」|「封禪書」23]]</ref>と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという<ref name=Yoshi195 />。
207行目:
その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した[[徐福|徐巿]]である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の[[蓬莱|蓬莱山]]など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の{{仮リンク|安期生|zh|安期生}}を伴って帰還する<ref>Fabrizio Pregadio. ''The Encyclopedia of Taoism''. London:Routledge, 2008:199</ref>ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した<ref name=Yoshi202 /><ref name="Wintle" />。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた<ref name=Yoshi202 />。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、[[日本]]にたどり着き、そこに定住したともいう<ref name="Ong" /><ref name=Yoshi218>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.218-227、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐5]]</ref>。
 
====刻石====
各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑([[始皇七刻石]])を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない<ref name=Yoshi165 />。碑文はいずれも[[篆書体|小篆]]で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である<ref name=Yoshi165 />。
 
====逸話====
始皇帝の巡遊にはいくつかの[[逸話]]がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、[[鼎]]を探すため[[泗河|泗水]]に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある<ref name=ShikiSikou26>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」26]]</ref>。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった<ref name=Yoshi173 />。この件について[[北魏]]時代に[[酈道元]]が撰した『[[水経注]]』では、鼎を引き上げる綱を[[竜]]が噛みちぎったと伝える。[[後漢]]時代の[[武氏祠]]石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている<ref name=Yoshi173 />。
 
『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという<ref name=Yoshi202 />。
 
===暗殺未遂===
{{main|始皇帝の暗殺未遂}}
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた<ref name=Yoshi232>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.232-237、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐1]]</ref>。
 
====高漸離の暗殺未遂====
{{Main|高漸離}}
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は[[筑]]の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた<ref>Elizabeth, Jean. Ward, Laureate. (2008). ''The Songs and Ballads of Li He Chang''. ISBN 1435718674, 9781435718678. p 51</ref>。高漸離は筑に[[鉛]]塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された<ref name=Yoshi232 /><ref name="Wu">Wu, Hung. ''The Wu Liang Shrine:The Ideology of Early Chinese Pictorial Art''. Stanford University Press, 1989. ISBN 0804715297, 9780804715294. p 326.</ref>。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした<ref name=Yoshi232 />。
 
====張良の暗殺未遂====
{{Main|張良}}
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120[[斤]](約30kg<ref name=Chin228 />)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった<ref name="Wintle">Wintle, Justin Wintle. (2002). ''China''. Rough Guides Publishing. ISBN 1858287642, 9781858287645. p 61. p 71.</ref>。この事件は、滅んだ韓の貴族だった[[張良]]が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった<ref name="Wintle">Wintle, Justin Wintle. (2002). ''China''. Rough Guides Publishing. ISBN 1858287642, 9781858287645. p 61. p 71.</ref>。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた<ref name="Mah" /><ref name=Yoshi232 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shuo-yuan/fu-en/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 説苑 復恩 14|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
 
====咸陽での襲撃====
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou33>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」33]]</ref>。
 
===「真人」の希求===
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている<ref name=ShikiSikou24>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」24]]</ref>。このように[[五帝]]や三王([[夏 (三代)|夏]]の[[禹|禹王]]、[[殷]]の[[湯王]]、[[周]]の[[文王 (周)|文王]]または[[武王 (周)|武王]])を評し、遥かに広大な国土を[[法治主義]]で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている<ref name=Yoshi173 />。逐電した徐巿<ref name="Ong" />に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に[[盧生]]は様々な影響を与えた<ref name=Yoshi206>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.206-211、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐3]]</ref>。
 
====『録図書』と胡の討伐====
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」<ref name=ShikiSikou36>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」36]]</ref>という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した<ref name=Yoshi206 />。
 
240行目:
一方で南には[[嶺南 (中国)|嶺南]]へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「三十三年、発諸嘗'''逋亡人、贅婿、賈人'''略取陸梁地、為桂林、象郡、南海。以適遣戍」。</ref>を中心に編成された軍団を派遣し<ref name=Yoshi206 />、現在の[[広東省]]や[[ベトナム]]の一部も領土に加えた<ref name="Haw" />。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた<ref name=Yoshi206 />。
 
==== 不老不死の薬 ====
[[2002年]]に[[湖南省]]の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ[[木簡]]の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。
 
地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。<ref>{{Cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3156672?act=all|title=「不老不死の薬探せ!」始皇帝の命令、木簡から発見|accessdate=2020-9-22|publisher=AFP}}</ref>
 
===焚書坑儒===
====焚書====
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、[[焚書]]の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった[[淳于越]]が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった<ref name=ShikiSikou38>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」38]]</ref>。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「始皇下其議」</ref>が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「制曰、可。」</ref>。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は[[族誅]]するという建策を行い、認められた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「臣請、史官非秦記、皆焼之。非博士官所職、天下敢有蔵詩・書・百家語者、尽詣守、尉雑焼之。」</ref><ref name="Lih">Li-Hsiang Lisa Rosenlee. Ames, Roger T. (2006). ''Confucianism and Women:A Philosophical Interpretation''. SUNY Press. ISBN 079146749X, 9780791467497. p 25.</ref>。特に『[[詩経]]』と『[[書経]]』の所有は、博士官の蔵書を除き<ref group="注">この蔵書は紀元前206年に[[項籍|項羽]]が咸陽宮に火をかけたことで消失した。''Records of the Grand Historian'', translated by Raymond Dawson in ''Sima Qian:The First Emperor''. [[オックスフォード大学出版局]], ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9</ref>厳しく罰せられた<ref name=Yoshi211 />。
 
253行目:
すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される<ref name=Machi />。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/jian-jie-shi-chen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 法家 韓非子 姦劫弑臣|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った<ref name="Clementsp131">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. p. 131.</ref>。
 
====坑儒====
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『[[荘子 (書物)|荘子]]』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 大宗師 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>、「内篇・斉物論」で[[神]]と言い切られた存在<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 齊物論 11|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>を元にする超人を指した<ref name=Yoshi218 />。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「始皇帝幸梁山宮、從山上見丞相車騎衆、不善也。中人或告丞相、丞相後損車騎。始皇怒曰、此中人洩吾語。案問莫服。当是時、詔捕諸時在旁者、皆殺之」</ref>。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「聴事、群臣受決事、悉於咸陽宮」。</ref>。
 
262行目:
坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した[[錬金術]]研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する<ref name="Clementsp131_p134">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 131, 134.</ref>。
 
===祖龍の死===
====不吉な暗示====
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した[[隕石]]に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた<ref name="LiangY">Liang, Yuansheng. (2007). ''The Legitimation of New Orders:Case Studies in World History''. Chinese University Press. ISBN 962996239X, 9789629962395. pg 5.</ref>。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された<ref name=ShikiSikou42>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」42]]</ref>上、隕石は焼き砕かれた<ref name="RGH" />。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた<ref name=Yoshi232 />。
 
また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou42 />。
 
====最後の巡遊====
末子の[[胡亥]]と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊<ref name=ShikiSikou43>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」43]]</ref>は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵([[南京]])にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした<ref name=Yoshi238>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.238-243、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐2]]</ref>。また、海神と闘う夢を見たため[[弩]]を携えて海に臨み、之罘で[[大鮫魚]]を仕留めた<ref name=Yoshi238 /><ref name=ShikiSikou45>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」45]]</ref>。
 
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始皇37年(紀元前210年)<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀では旧暦7月22日(ユリウス暦9月10日)、『洪範五行伝』では旧暦6月21日(ユリウス暦7月11日)</ref>、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市[[広宗県]]<ref>{{cite web|url=http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140406.htm |title=中国百科 秦の始皇帝陵|publisher=CRI online |accessdate=2011-12-20}}</ref>)にて崩御<ref>{{cite web|url=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=779950#p7 |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『開元占経』 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2020-12-20}}</ref><ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する[[水銀]]入りの薬を服用していたという<ref name="wright">{{cite book|title=The History of China|year=2001|author=Wright, David Curtis|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=031330940X|page=49}}</ref>。水銀には防腐効果があり屍は腐らぬのだが、後述の通り死臭対策の記録が在る事から、死因は水銀中毒ではなく(趙高と李斯に因る)毒殺の可能性が高い。
 
===死その===
====隠された崩御====
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを[[李斯]]は恐れ<ref name="Firsteselect" />、秘したまま一行は[[咸陽市|咸陽]]へ向かった<ref name="Firsteselect" /><ref>O'Hagan Muqian Luo, Paul. (2006). ''讀名人小傳學英文:famous people''. 寂天文化. publishing. ISBN 9861840451, 9789861840451. p16.</ref><ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm Xinhuanet.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090318222506/http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm |date=2009年3月18日 }}." ''中國考古簡訊:秦始皇去世地沙丘平臺遺跡尚存.'' Retrieved on 2009-01-28.</ref>。[[崩御]]を知る者は[[胡亥]]、[[李斯]]、[[趙高]]ら数名だけだった<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し<ref name=ShikiSikou46 /><ref name="Firsteselect" />、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた<ref name="Firsteselect" />帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。[[扶蘇]]に宛てた遺詔は握りつぶされ、[[蒙恬]]ともども死を賜る詔が偽造され送られた<ref name="Tung" /><ref name=Yoshi243 /><ref name=Yoshi246>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.246-253、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐4]]</ref>。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた<ref name=Yoshi246 />。
 
====二世皇帝====
始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)<ref name="Firsteselect" />、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ<ref name=Yoshi253>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.253-258、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐5]]</ref>。蒙恬や[[蒙毅]]をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、[[陳勝・呉広の乱]]を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った<ref name=Yoshi253 />。そして李斯さえ陥れて処刑させた<ref name=Yoshi258>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.258-264、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐6]]</ref>。
 
しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である[[劉邦]]率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた<ref name=Yoshi264>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.264-270、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐7]]</ref>。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる[[子嬰]]を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、[[項籍|項羽]]に殺害された<ref name=Yoshi264 />。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく[[胡亥]]のことを指していた<ref name=Yoshi264 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lunheng/shi-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 論衝 實知 2|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
 
==== 『趙正書』の記述 ====
{{Wikisourcelang|zh|趙正書}}
{{seealso|趙正書}}
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==評価==
===暴虐な君主としてる始皇帝===
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である[[漢]]の時代に形成された<ref name=Yoshi278>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.278-282、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐3]]</ref>。『[[漢書]]』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 五行志 下之上 54 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。この時代には「無道秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/gao-zu-ben-ji/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 史記 高祖本紀19|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>や「暴秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/gao-di-ji-xia/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 高帝紀下 6|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/analects/zi-zhang/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 論語 子張 20|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった<ref name=Yoshi271>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.271-275、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1]]</ref>。特に[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した<ref name=Yoshi271 />。詩人・政治家であった[[賈誼]]は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた<ref>Loewe, Michael. Twitchett, Denis. (1986). ''The Cambridge History of China:Volume I:the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. - A.D. 220''. Cambridge University Press. ISBN 0521243270.</ref>。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった<ref>Lovell, Julia. (2006). ''The Great Wall:China Against the World, 1000 BC-AD 2000''. Grove Press. ISBN 0802118143, 9780802118141. pg 65.</ref>。
 
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文字という側面から[[藤枝晃]]は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた<ref name=Fuji69 />。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた<ref name=Fuji68>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.68-69、四 皇帝の文字 始皇帝の天下統一]]</ref>。
 
==文化への影響==
==登場する作品==
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===エッセー===