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[[画像:Eminescu.jpg|right|thumb|250px|ミハイ・エミネスク(1869年)]]
'''ミハイ・エミネスク'''(Mihai Eminescu、[[1850年]][[1月15日]] - [[1889年]][[6月15日]])は[[ルーマニア]]と[[モルドバ]]で詩聖と称えられ、最もよく知られている近代のルーマニア[[詩人]]。本名は'''ミハイル・エミノヴィチ'''(Mihail Eminovici)。エミネスクの有名な詩<ref name = "example">詩の題名の日本語訳は英語版を参考に意訳したものです。今後出版された時に修正が必要な可能性があります。</ref>は「[[金星ルチャーファル]]」(Luceafărul)({{lang|ro|Luceafărul}})<ref>ルチャーファル(Luceafărul)({{lang|ro|Luceafărul}})はルーマニア語で宵の明星という意味ですがいくつかのミハイの詩を紹介する場で「金星ルチャーファル」の名で紹介されていたためそちらを採用しました。</ref>、「[[古代の韻による叙事詩]](Odă({{lang|ro|Odă (în metru antic)}})、[[風刺]]詩・5つの「[[手紙 (詩)|手紙]]」(Scrisori)など。文学協会『[[ジュニメア]]』(Junimea、青年)で活動し、[[保守党 (ルーマニア, 1880-1918)]]の公報紙『[[ティンプル]]』(Timpul)の編集も勤めた。
 
==生涯==
===家族===
ミハイの父ゲオルゲ・エミノヴィチは、現在の[[スチャヴァ県]][[カリネシュティ]](当時、[[ブコヴィ]]地方は[[オーストリア帝国]]の一部だった)のルーマニア人の家系出身の、ゲオルゲ・エミノヴィチである。1840年、ゲオルゲは[[モルダヴィア]]の上流階級の家の娘、ラルカ・ユラシュクと結婚し、その後、一家は[[ボトシャニ県]][[ボトシャニ]]市に近い[[イポテシュティ]]村に転居し、そこに定住した。二人の間には1111人の子どもが生まれ、ミハイは7番目。ちなみに現在、イポテシュティ村の属するコムナ(小自治体)は、ミハイ・エミネスクという名前になっている。
 
===前歴===
[[画像:Eminescu64.jpg|right|thumb|350px|ミハイ・エミネスク(1864年)]]
ミハイル(洗礼の記録での名前)、もしくはミハイ(一般に使用し知られた名前)はルーマニア、モルダヴィア地域のボトシャニ市で生まれた。両親の実家、ボトシャニとイポテシュティで幼少期を過ごし、[[1858年]]から[[1866年]]まで[[チェルニウツィー|チェルナウツィ]](現在の[[ウクライナ]]・チェルニウツィー州の州都)の学校に通学。[[ギムナジウム]]に2年通い、82人の生徒中5番目の成績で卒業した。
 
1866年、ミハイが16歳の時にミハイの作家としての最初の足跡がある。同年1月、ギムナジウムのルーマニア人教師[[アロン・プムヌル]]が亡くなり、チェルナウツィでプムヌルから学んだ生徒達は小冊子『ギムナジウムの生徒達の涙』を出版。その中に「アロン・プムヌルの墓で」(La({{lang|ro|La mormântul lui Aron Pumnul)Pumnul}})と題した詩が掲載されており、'''ミハイル・エミノヴィチ'''(M. Eminovici)のサインが見える。また、[[2月25日]]付けの彼の詩「[[もし私が持っていたなら]](De({{lang|ro|De-aş avea)avea}})は、[[ハンガリー]]の街[[ペシュト]]で[[ヨシフ・ヴルカン]]が編集する文学雑誌『[[ファミリア (雑誌)|ファミリア]]』(Familia)によって紹介された。これにより、ミハイの詩のシリーズの発表(時々、ドイツ語翻訳の仕事)が定期的に始まる事になった。さらにこの時、編集者ヨシフ・ヴルカンは若き詩人の名前の末尾に[[スラヴ]]系を意味する接尾辞「-ici」が付くことを嫌い、よりルーマニア人らしい[[ペンネーム]]を名乗るよう望んだことから、'''ミハイ・エミネスク'''(Mihai Eminescu)と名乗るようになった。
 
[[1867年]]、ミハイは事務員兼[[プロンプター]]として[[ヨルグ・カラジァーレ]](劇作家[[イオン・ルカ・カラジァーレ]]の叔父)の劇団に参加した。その翌年には[[ミハイ・パスカリー]]の劇団に移籍。この両劇団は当時のルーマニアの主要な劇団で、特に後者は俳優兼脚本家の[[マテイ・ミーロ]][[ファニー・タルディニ・ヴラディチェスク]]グループも含んでいた。ミハイは、まもなく[[首都]][[ブカレスト]]に腰を落ち着けた。そして同年11月末頃には[[ブカレスト国立劇場]]の事務員兼[[写本|写字生]]になった。ミハイはこの仕事をしている間にも小説と詩を書き、出版し続け、同時に[[ハインリッヒ・テオドール・ロッヒャー]]から翻訳の仕事を請けて何百ページに及ぶ翻訳をする事で家賃を支払っていた。しかし、この翻訳作業を全て完成させることはなかった。また、この時小説「[[枯渇した才能]]」(Geniu pustiu)を書き始め、この小説はミハイの死後、[[1904年]]に未完のまま出版された。
 
[[1869年]][[4月1日]]、ミハイは何人かの若者たちと、民話、口承伝承詩、そして歴史と祖国の文学に関する資料の収集などを目標とした文学サークル『東洋』(Orientul)を共同創設した。同年6月、『東洋』委員会のメンバーたちは、ルーマニア国内の様々な地方を見学しに行く事を決定し、エミネスクはモルダヴィア地方を割り当てられた。その夏、[[チシュミジウ公園]]で、ミハイは、軍の将校である兄のヨルグに全くの偶然に再会。その時ミハイは、家族との関係を修復するように助言するヨルグの言葉を断固として拒絶した。
 
1869年夏の静かな日、ミハイはパスカリーの劇団を退団し、チェルナウツィと[[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]に向けて旅立った。この旅の終わりに、ミハイは疎遠になっていた家族と関係を修復し、父親はミハイに、秋になってからもウィーンで学業が続けられるように定期的に仕送りをする事を約束した。そうした中、常にミハイは書くことを続け、詩を発表し続けていた。特に[[ムンテニア]]地方の前の統治者[[バルブ・ディミトリエ・シュティルベイ]]の死に際しては、「シュティルベイ公の死(La({{lang|ro|La moartea principelui Ştirbey)Ştirbey}})という詩を発表した。
 
===文学協会『ジュニメア』===
1869年から[[1872年]]、ミハイは[[ウィーン]]で学んだ。ミハイは[[哲学]]と[[法学]]の学部で「臨時聴講生」とみなされ、学生生活中は活動的に行動し、小説家[[ヨアン・スラヴィチ]]と親交を持ち、詩人[[ベロニカ・ミクレ]]を通してウィーンを知った。文学協会『ジュニメア』が編集する本『文学の対話』(Convorbiri literare)にも寄稿するようになった。文化機関である『ジュニメア』のリーダー達、[[ペトレ・P・カルプ]][[ヴァシレ・ポゴル]][[テオドール・ロセッティ]][[ヤコブ・ネグルジ]]、そして[[ティトゥ・マヨレスク]]の活動は、ミハイの半生の、政治的、文化的な背景に大きな影響を与えた。その中でミハイの詩の一つ「[[ヴィーナスとマドンナ]](Venere({{lang|ro|Venere şi Madonă)Madonă}})に感銘を受けたリーダーの1人、『文学の対話』の編集者でもあったヤコブ・ネグルジは、ミハイに会いにウィーンまでやって来た。ネグルジは晩年、ミハイとの出会いを、長い髪と物思いに耽る「ロマンチック(非現実的)」な様子で、注目を浴びてウィーンのカフェ内で若者の集団から浮いていたため、ミハイをたやすく見つけ出す事が出来たと書いている。
 
[[1870年]]、エミネスクは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の中のルーマニア人とその他の少数派の置かれた状況下で、古代ローマの風刺家[[マルクス・セルンティウス・バロ]]の名を借りて「バロ」(Varro)というペンネームのもと、ペシュトの雑誌[[フェデラツィウネア]](Federaţiunea』({{lang|ro|Federaţiunea}}、連合)に、3つの記事を書いた。その頃、ペシュトの新聞『[[ミツバチ (新聞)|ミツバチ]]』(Albina)のジャーナリストになった。また[[1872年]]から[[1874年]]は『ジュニメア』からの給料のおかげで[[ベルリン]]に学生として留まることが出来た。
 
[[1874年]]から[[1877年]]、ミハイは『ジュニメア』のリーダーの1人で、モルダヴィア地方の都市ヤシの大学校長であるティトゥ・マヨレスクとの親交により、ヤシの中央図書館の理事として働き、ウィーンとヤシの州で代用教員、学校監査官、新聞『[[ヤシ新報]](The({{lang|ro|The Courier of Iaşi)Iaşi}})で編集などを務めた。また、『ジュニメア』の本『文学の対話』で作品を発表し続けた。その他にも[[イオン・クリャンガ]]の良き友になり、クリャンガに作家になるように説得して、『文学の対話』に紹介した。
 
[[1877年]]、27歳の時、ミハイは[[ブカレスト]]に移住。[[1883年]]までの間、保守党 (ルーマニア, 1880-1918)の公報紙『ティンプル』(Timpul)の最初の編集長になった。この時期に、名作「金星ルチャーファル」(Luceafărul)({{lang|ro|Luceafărul}})、「古代の韻による叙事詩」(Odă({{lang|ro|Odă (în metru antic)}})、風刺詩「手紙」(Scrisori)が生まれた。
 
ミハイの有名な編集記事の多くが、ルーマニアが[[露土戦争 (1877年)]]で[[オスマン帝国]]と戦った時とその間の外交争いの時期のもので、それはついにルーマニア独立の国際的な承認をもたらした。だがその承認は、ユダヤ教の全ての国民にルーマニアの市民権を授けるという条件下でのものであった。エミネスクはこの条件と[[ベルリン条約 (1878年)]]の条項に抵抗する記事を編集。しかし、ルーマニアは[[ベッサラビア]]南部領地を、[[黒海]]に面した元オスマン領土のロシア領[[ドブロジャ]]北部と交換しなければならなかった。
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===闘病期===
[[画像:Eminescu grave.jpg|right|thumb|250px|エミネスクの墓]]
[[1884年]]1月、イポテシュティで、ミハイの父ゲオルゲが亡くなった。このすぐ後、ミハイは古い友人であるアレクサンドル・キビチ・レヴニャーヌに、また2月にもマヨレスクに、国に戻りたいと手紙を書いている。医師はミハイに[[イタリア]]を通っての旅を勧め、 2月末、ミハイはキビチと一緒に勧められた旅路に出発し、3月末、大勢の友人たちに迎えられてブカレストに到着した。その後ヤシに行ったり、10月にはその年の『ジュニメア』のパーティーに出るなどしていたが、11月にはまた病院に入院する事となった。その後、入院と退院を繰り返す事となる。
 
ミハイは晩年、[[双極性障害]]に苦しんでいた。更に1883年にはルーマニアで[[梅毒]]と診断されていたと、後にルーマニアの作家で文学評論家の
[[ジョルジェ・カリネスク]]は詩人ミハイの[[伝記]]で書いている。ミハイは20歳の時から病気を患っていた。しかし、ウィーンで行われた別の診断では
同様に[[1883年]]の彼の衰弱については言及したが、梅毒については言及していない。その上、1884年には、ミハイはルーマニアに戻り通常の健康状態に見えた。このような疑問の中、[[1886年]]、ミハイは梅毒の時に行う因襲的な治療法、[[水銀]][[注射]]の投与を受けている。
 
[[1889年]]6月15日、ミハイはブカレストのシュツ医師の病院で、39歳で亡くなった。しかし当時のミハイの検死は酷いものであったため、ミハイの本当の死因は謎のままに終わってしまった。その後、ミハイはブカレスト最大の墓地[[ベル (墓地)|ベル]]に埋葬された。
 
近年の研究によれば<ref>ルーマニアの新聞『Jurnalul Național』の記事「エミネスクは政治の犠牲者だった」への[http://www.jurnalul.ro/articol_43943/eminescu_a_fost_victima_politica.html リンク]が貼ってあったが、現在はリンク切記事が削除さになっているため、詳細は不明。</ref>、当時のルーマニアとオーストリア当局がルーマニア-オーストリア条約の強力な政敵を排除するように命じて、エミネスクを「病気」にすることを企てたと主張されている。秘密条約はルーマニアに、当時オーストリア統治下にあった[[トランシルバニア]]地域のルーマニア人への支援を止めるように要求した。それは暫くの間実行され、トランシルバニア出身のルーマニア人をブカレストから去らせる原因になった。エミネスクもまた去る事になり、定期的に監視下に置かれた。そして唯一(未確認)の梅毒診断は、ルーマニアの医者達によって下されたものだった。
 
==作品==
ルーマニアの歴史家[[ニコラエ・ヨルガ]]はエミネスクを古[[ルーマニア語]]の父と呼んだ。ミハイはルーマニアの詩人として最も偉大で最も代表的な人物として、誰もが認め祝福した。
 
===詩歌===
[[画像:Mihai Eminescu - Poesii.jpg|right|thumb|210px|ミハイル・エミネスク詩集(1884年)]]
 
{{wikisourcelang|ro|Autor:Mihai Eminescu|ミハイ・エミネスクの作品}}
ミハイの詩は、自然や歴史への愛や社会的論評など、主題が広い範囲に亘る。ミハイの幼少期が深い郷愁を生み、晩年の詩歌に繋がった。
 
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;ミハイ・エミネスクの有名な詩<ref name = "example"/>[http://ro.wikisource.org/wiki/Autor:Mihai_Eminescu]
* [[ドイナ]](Doina) (ドイナとはルーマニアの歌の伝統的な型の名)1884
* [[(詩)|湖]](Lacul)1876
* [[金星ルチャーファル]](Luceafărul)1884({{lang|ro|Luceafărul}})1884
* [[青い花 (詩)({{lang|青い花]](Floarero|Floare albastră)1884albastră}})1884
* 願望({{lang|ro|Dorinţa}})1884
* [[願望]](Dorinţa)1884
* [[丘の上の夕暮れ]](Sara pe deal)1885
* [[ああ、追憶のなかで]](O({{lang|ro|O, rămâi)1884rămâi}})1884
* [[模倣者たち]](Epigonii)1884
* [[手紙 (詩)|手紙]](Scrisoarea) 1881
* [[そして、もし]](Şi({{lang|ro|Şi dacă)1883dacă}})1883
* [[古代の韻による叙事詩]](Odă (în metru antic))1883
* [[私はまだ、一つの望みを持っている]](Mai am un singur dor)1883
 
===小説===
;散文
* [[涙のファト・フルモス]] (Făt({{lang|ro|Făt-Frumos din lacrimă)(lacrimă}})([[ファト・フルモス]]はルーマニア伝承神話の騎士英雄の名)
* [[枯渇した才能]](Geniu pustiu)
* [[不幸なディオニス]](Sărmanul Dionis)
* [[ふさわしい名前]](Cezara)
;全集版
* ミハイ・エミネスクの詩と散文(Poems and Prose of Mihai Eminescu)(編集: [[カート・W・トレプトウ]], 出版社: {{lang|ro|The Center for Romanian Studies, Iaşi}}, Oxford, and Portland, 2000, ISBN 973-9432-10-7) 英訳版傑作選集 Eminescu's poems and prose.
 
==ルーマニア文化の中のエミネスク==
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# 初期のルーマニア詩には稀な、大胆な隠喩を使った。
#最後だがとりわけ重要な理由は、彼はおそらく、ルーマニアの全ての地域で作品を発表し、あらゆる部分のルーマニア人の問題に絶えず興味を持っていた、初めてのルーマニアの作家であった。
そしてミハイは、自分の詩的位置を詩「私への評価」(Criticilor mei)の中で[[ロマン主義|ロマン派]]と定義していた。結果、ミハイの早すぎる死と同様に、その自由奔放なライフスタイルが(ミハイは一度も学位や地位、妻、財産にこだわったことがなかった。)[[天才]]の「ロマンティック」な像に彼を関連づけたと言える。[[1880年]]代後期という早い時期に、エミネスクには信奉の厚い支持者の一団がいた。[[1883年]]、「金星ルチャーファル」(Luceafărul)はあまりにも有名になったため、新しい文学批評誌が後にその名を使用した。
 
===国民的詩人===
ミハイはすぐにルーマニアの[[国民的詩人]]として賞賛された。それはミハイが国家回復の時代に書いていたからではなく、ルーマニア全域で最高位の作家として受け入れられたからである。今日でもミハイはルーマニア、モルドバ、ウクライナの一部と、ブコヴィナ地域で暮らすルーマニア人達の国民的詩人として尊敬されている。
 
===ルーマニア紙幣===
[[画像:ROL 1000 1998 obverse.jpg|right|thumb|300px|以前のルーマニア・1000レイ紙幣]]
エミネスクは現代において、どこにでも存在している。エミネスクの像はいたる所にあり、エミネスクの顔は、最高額のルーマニア紙幣として、[[1998年]]に発行された1000[[ルーマニア・レウ|レイ]]紙幣と、[[2005年]]に発行された新500レイ紙幣の肖像で表示されている。多くの学校や施設はエミネスクにちなんで名づけられている。またエミネスクの誕生と死の式典は多くのルーマニアの街で毎年行われ、[[1989年]]と[[2000年]]には国民行事になった。(1989年はエミネスク死後100周年、2000年はエミネスク生誕から150年目にあたり、ルーマニアでエミネスク年が指定された)
 
こうした中、多くの若いルーマニアの小説家達は、エミネスクの思想と神秘性を取り除こうとした時大きなスキャンダルを引き起こし、公の世界から拒絶され二度と表に出る事はなかった。
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ミハイの保守的[[愛国主義]]見識は賞賛を受け、ミハイはルーマニア右派によりすんなり肖像に採用された。ルーマニア右派がミハイを完全に自陣に抱き込むための主な障害は、実際のところエミネスクが今まで一度も自身を[[クリスチャン]]であると証明せず、自著の詩でやや無差別的に[[仏教徒]]、クリスチャン、[[不可知論]]者、[[無神論者]]をテーマに使用していたことであった。
 
ミハイは活動していた時から10年間は「[[神秘主義者]]」、「[[資本主義]]者」と非難され、ルーマニア[[共産主義]]者はルーマニア詩人の主役としてエミネスクを採用する事を止めさせた。この状況のなか雪解けのドアを開けたのは、[[フランス]]の1870年-1871年の事件([[普仏戦争]])の影響下で書き、人命についてのショーペンハウアーの批評で終わったエミネスクの詩「[[皇帝と無産階級]]」(Împărat şi proletar)だった。なぜなら、この詩を節や連(4行以上で作る詩の単位)でのみ見せる検閲削除版で、[[プロレタリアート|無産階級]]者の運命に興味を持つ1人の詩人としてのエミネスクを示すことが出来たからだった。
 
==脚注==
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==参考書籍==
*[[:en:George Călinescu]], ''La vie d'Eminescu'', Bucarest: Univers, 1989, 439 p.
* Marin Bucur (ed.), ''{{lang|ro|Caietele Mihai Eminescu'', Bucureşti, Editura Eminescu,}} 1972
 
==関連項目==