石川 通清(いしかわ みちきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備中石川氏の末裔で、河野氏の家臣のち三好氏長宗我部氏の家臣。伊予国新居郡高峠城主。

 
石川 通清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文元年(1532年
死没 天正12年10月17日1584年11月19日
別名 四郎虎武
墓所 愛媛県西条市中野の保国寺
官位 備中守
主君 河野通直通宣三好長慶、河野通宣、長宗我部元親
氏族 伊予石川氏
父母 父:石川伊予守
兄弟 通清
三好氏女(三好長慶の女か)[1]
勝重?、金子元宅室、松木新之室、宇高佐馬之佐室、河端甚左衛門[2]
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略歴

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伊予石川氏は、備中国の石川左衛門尉の子・石川伊予守を祖とする。天文元年(1532年)、伊予の豪族・石川伊予守の嫡男として誕生。

弘治2年(1556年)に阿波国三好氏の娘を娶ったことで三好氏に接近し、元亀3年(1572年)に三好長慶が伊予に攻め込むと案内役を務めた。

三好氏が伊予から去ると、惣領家の河野氏の侵攻を受け降伏するも、天正10年(1582年7月16日に今度は長宗我部元親に攻められ、降伏した[3]高尾城の戦い)。

天正12年(1584年10月17日に死去。享年53[4]

翌年に羽柴秀吉による四国攻めが行われ、義弟の金子元宅が通清の次男(勝重の息子とも)虎竹丸を擁して奮戦し虎竹丸を土佐に逃すことに成功した[5]。長男の勝重は元宅と運命を共にし、戦死したと伝わる。

脚注

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  1. ^ 武田昌憲「山口県文書館蔵(毛利家文庫)『澄水記』(翻刻)[1]
  2. ^ 久門範政編『西條市誌』(西條市、1991年)
  3. ^ 『予陽本』
  4. ^ 『澄水記』
  5. ^ 宗像神社