義和団(ぎわだん)は、中国清朝末期に山東省農民などが起こし、列強八カ国と清朝の間の戦争となる義和団の乱を招いた欧米利権排斥運動の秘密結社である[1][2]

義和団
義和団の乱に参加
義和団の旗
活動期間 1890年1901年
活動目的 扶清滅洋
構成団体 中国人
指導者 曹福田張徳成など
本部 山東省
活動地域 中国
兵力 50,000人〜100,000人
上位組織 白蓮教
前身 大刀会
関連勢力 清の旗
敵対勢力 八カ国連合軍
戦闘 義和団の乱
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概要

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義和団は白蓮教の流れを汲んでいたといわれている。義和拳という拳法によってにも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に集結して蜂起し、義和団の乱となった。スローガンは「扶清滅洋」で「清朝を扶(たす)け、西洋人を撃滅する」という意味である[1]

1900年6月に義和団はドイツ公使を殺害し、北京の各国公使館の包囲をしだした。清政府は列強8か国に宣戦布告した。この時点では義和団のかわりに清の政府軍が列強と戦いだした。しかし、同年8月に8か国連合国軍によって北京が占領されると、9月に清の政府は自軍は義和団の鎮圧を命じた義和団の蜂起を「義和団事件」「義和団の戦い」といい、義和団を鎮圧した事件を「北清事変」「義和団事件」という。日本の歴史の教科書では、この2つを細かく区別をしない際には義和団関連事件を「義和団事件 1899〜1900年」としている[3]。義和団に対する多国籍軍の武力行使において、福島安正少将や柴五郎中佐などの日本軍将校は優れたリーダーシップを発揮するなどし、欧米列強の首脳は日本軍の統率力や軍事的能力を評価する結果となった。結局、義和団の乱&北清事変は清国の敗北となり、多国籍軍の構成国は1901年9月7日締結の講和条約で撤兵開始した。満洲支配の既成事実を欲するロシア帝国だけは、自国が権利を有する東清鉄道の建設修理事業を保護するためという理由で撤兵に応じず、逆に満洲駐留部隊の規模を増大させた。ロシアの南下政策的行動は、数年後の日露戦争の原因のひとつになった[1]

2024年6月10日には、中国吉林省で、姉妹校関係を結んだ中国北華大学がある吉林市の北山公園で米国人の大学講師4人が刃物で襲われる事件が発生した。4人のうち1人はアイオワ州下院議員のアダム・ザブナー氏の兄であり、中国国内から反米感情が高まりによって、『現代版義和団』が登場したと懸念が出た。環球時報の胡錫進・元編集人はウェイボーに「外国人が被害者となったのは偶然であってほしい」とした[4]。今回の事件が米中の外交葛藤に広がることを懸念している中国当局は11日時点でも沈黙した上で、中国現地メディアとSNSの関連情報を検閲で全削除された状態である[2]

注釈

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  1. ^ a b c 日本の国際的評価を高めた「義和団事件」と日露戦争への道”. ダイヤモンド・オンライン (2016年8月3日). 2024年6月13日閲覧。
  2. ^ a b 米大学講師4人、中国の公園で刺される…米中外交葛藤に広がるのか”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2024年6月13日閲覧。
  3. ^ 「義和団の戦い」と「義和団事件」のちがいは? | 生徒の広場”. 浜島書店. 2024年6月13日閲覧。
  4. ^ 「現代版義和団」 中国・吉林省で米国人の大学講師4人が刃物で襲われる(朝鮮日報日本語版)”. Yahoo!ニュース. 2024年6月13日閲覧。