頭陀寺城(ずだじじょう)は、現在の静岡県浜松市中央区頭陀寺町[1]にある高野山真言宗の古刹・靑林山頭陀寺(づだぢ)の門前にあった戦国時代日本の城

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頭陀寺城
静岡県
別名 市場城、伝・松下屋敷
城郭構造 不明
天守構造 なし
築城主 松下氏?
築城年 不明
主な改修者 不明
主な城主 松下之綱
廃城年 16世紀
遺構 なし(地下に遺構あり)
指定文化財 なし
位置 北緯34度41分53.4秒 東経137度45分21.2秒 / 北緯34.698167度 東経137.755889度 / 34.698167; 137.755889
地図
頭陀寺城の位置(静岡県内)
頭陀寺城
頭陀寺城
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概要

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地元の伝承では別名市場城とも云う。引間城主・飯尾氏寄親とする寄子の土豪・近江源氏松下氏の居城で、松下氏は頭陀寺の寺侍であった可能性が強い。川匂庄(かわわのしょう)の領家は頭陀寺であった。

天文20年(1551年)頃から約3年間、まだ無名の豊臣秀吉松下之綱(松下加兵衛)に仕えたと『太閤素生記』に記されている。

永禄6年(1563年)遠州忩劇(今川氏と飯尾氏の争乱)で焼き討ちに遭い、炎上する。

江戸時代は、松下之綱の長男暁綱の家系が、松下屋敷の当主となって明治38年(1905年)まで居住した。

遺構

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遺構は1945年アメリカ軍による空襲と艦砲射撃で、頭陀寺の本堂(法堂)、仏殿、三重塔、行者堂、庫裏、御影堂、仁王門などとともに壊滅した。

広さは約1町(109m)四方で、ほぼ土豪の一般的な大きさで、頭陀寺自体を含めると、広さについては、もっと大きかったのかもしれない。かつて、城の周囲は田となっており、戦国時代の頭陀寺城は、通称「松下屋敷跡」(別名:田中屋敷)といわれる場所の地下80cmにあることが、平成13年(2001年)10月の発掘調査でほぼ明らかになっている。また、焼き討ちにあったことを裏付ける炭跡も確認されている。

井戸跡からは大きな硯石や高級青磁の破片が発見されており、松下氏は交易商人でもあった可能性がある。

頭陀寺町第一公園の、わずかに土塁の面影を残すところにある「松下屋敷跡石碑」は、松下氏の屋敷神を祀る、「松下稲荷」の本殿のあった場所で、かつては応神天皇敦実親王を祀っていた所である。松下稲荷は頭陀寺の境内に移転した。

外部リンク

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参考文献

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  • 冨永公文『松下加兵衛と豊臣秀吉』(東京図書出版会、2002年)

関連項目

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脚注

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