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'''李 典'''(り てん、[[生没年不詳]])は、[[中国]]の[[後漢]]末の[[武将]]。字は'''曼成'''。[[エン州|兗州]]山陽郡[[巨野県|鉅野県]]<ref>『[[資治通鑑]]』巻64には巨鹿の人であると記述されている。</ref>の人。子は李禎その他1名。[[曹操]]に仕えた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。
'''李 典'''(り てん、[[生没年不詳]])は、[[中国]]の[[後漢]]末の[[武将]]。字は'''曼成'''(まんせい)。[[兗州]][[山陽郡]][[巨野県|鉅野県]]<ref group="注釈">『[[資治通鑑]]』巻64には乗氏の人であると記述されている。</ref>の人。子は李禎その他1名。[[曹操]]に仕えた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。


== 生涯 ==
== 正史の事跡 ==
従父の[[李乾]]は曹操に付き従って武功を立てたが、兗州が乱れた際に殺された。後を継いだ[[李整]](李乾の子)も亡くなると、李典は[[潁川郡]][[魏都区|潁陰]][[県令]]になり、[[中郎将]]となって李整の軍を率いた。李典は若いころ学問を好み、軍事は好きではなかった。先生について『[[春秋左氏伝]]』をはじめ多くの書物に親しんだ。曹操はそれを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。離狐郡の[[太守]]に昇進した。
謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだ(『魏書』)。


[[建安 (漢)|建安]]5年([[200年]][[官渡の戦い]]では、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、[[東平国]]の安民に駐屯した
従父の李乾は食客数千家を擁して乗氏県にいたが、[[初平]]年間に曹操に付き従った。初平3年(192年)、寿張で黄巾賊を掃討し、翌年には[[袁術]]を追討、[[徐州]]を征討するなど、数々の戦いに参戦した。


建安7年([[202]]、曹操が[[黎陽]]の[[袁譚]]・[[袁尚]]攻撃した際李典は[[程昱]]ととも船で兵糧を輸送た。袁尚は[[魏郡]]太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。曹操はあらかじめ「船通れないなら陸路を行くように」と命じていたが、李典は「高蕃軍はよろいつけ兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。軍は朝廷に統御されず、国家の利益になるならば専断は許される。速やかに攻撃すべきだ」と主張した。程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。
興平元年(194年)に兗州の諸将が[[呂布]]を招き入れて曹操に反旗を翻すと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させて民心を落ち着かせようとした。李乾は呂布の将である兗州別駕の[[薛蘭]]・兗州治中の[[李封]]から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために薛蘭・李封に殺害された。


[[劉備]]が[[劉表]]の命で北進して葉まで来た時、曹操は李典を[[夏侯惇]]に従わせてこれを防がせた。退却した劉備を夏侯惇は追撃しようとしたが、李典は「敵が理由もなく退いたからには伏兵の疑いがある。道は狭く草木は深いので追ってはいけない」と反対した。夏侯惇は聞き入れず[[于禁]]を従えて追撃し、李典は留守を任されたが、夏侯惇が伏兵により不利な状態に陥いった。李典が救援に駆けつけると劉備はすぐに兵を引いた(『[[博望坡の戦い]]』)。
曹操は李乾の子の李整に跡を継がせ、興平2年(195年)の夏には諸将とともに薛蘭・李封を撃ち破り、親の仇を討っている。
続いて兗州の諸県を平定するなどの功績をあげ、やがて[[青州]][[刺史]]になった。


建安9年([[204]][[鄴]]の包囲に参加した。
李整が亡くなると李典は潁陰の[[県令]]に異動になり、[[中郎将]]となって李整の軍を率いることになった。
曹操は、李典が若いころに先生の下で『春秋左氏伝』等に親しんでいたことを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。


建安10年([[205]])8月[[高幹]]が関で挙兵すると、[[楽進]]と共に討伐した。
しばらくして離狐の[[太守]]に昇進した。
当時(建安5年200年)、曹操は袁紹と官渡で対峙していたため([[官渡の戦い]]、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、安民<ref>荀彧伝によると東平国内か?</ref>に駐屯する


建安11年([[206]])8月、海賊の管承を楽進と共に破り、敗走させた。[[雑号将軍|将軍]]に昇進、都亭侯となった。
建安7年(202年)から翌年にかけての[[袁譚]]・[[袁尚]]攻撃のおりには、[[程イク|程昱]]とに兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。曹操はあらかじめ、水路を通ること困難であるなら陸路を使うように指示を出していたが、李典は状況上で程昱と相談し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。


その後、拠点としていた乗氏から三千家余りの一族郎党を魏郡の鄴に移住させた。移住することを願い出た時、曹操は笑いながら「[[耿純]]にならうつもりか<ref group="注釈">耿純が劉秀に付き従う時、一族からの寝返りを防ぐために屋敷を焼き払って後顧の憂いを絶った逸話をいう。</ref>」とたずねた。李典は頭を垂れ、「私はのろまで臆病、功績もわずかですのに厚い待遇を受けております。ですので一族を挙げて仕えるのは当然です。それに征伐はまだ終わっておりませんから、まず都の周辺を充実させ、その勢いをもって四方を制すべきと考えます。耿純にならったわけではありません」と答えた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。
[[博望坡の戦い]]では、伏兵に気を付けるよう進言するも、[[夏侯惇]]はそれを聞き入れずに[[劉備]]軍を追い、不利な状態に陥ったが、李典が救援に駆けつけたことによって劉備軍は退却した。


建安13年([[208]])、曹操が[[荊州]]を征伐する際、于禁・[[張遼]]・[[張郃]]・[[朱霊]]・李典・[[路招]]・馮楷の7軍は、章陵太守・[[都督]]護軍となった[[趙儼]]統括された(「趙儼伝」)。
建安9年(204年)[[ギョウ|鄴]]の包囲に参加した。


建安16年([[211年]])、曹操が[[関中]]で[[馬超]]・[[韓遂]]らと対峙した際、李典も駐屯したとある(『[[水経注]]』)<ref>『水経注』巻4「《記》曰:漢末之乱,魏武征韓遂・馬超,連兵此地。今際河之西,有曹公塁。道東原上,云李典営」</ref>。
建安10年(205年)8月[[高幹]]が関で挙兵すると、[[楽進]]と共に討伐した。


建安20年([[215年]])の[[合肥の戦い]]の際、李典は張遼・楽進とともに七千人余りの兵を連れて合肥に駐屯していた。孫権に十万の軍で城を包囲されると、張遼は曹操の命令<ref>「孫権が来た時は張遼と李典は出撃し、楽進は護軍を守り、共に戦ってはならない」(『張遼伝』)</ref>を奉じて出撃しようとした。しかし三人は普段から不仲だったため、張遼は彼らが賛同しないことを恐れた。李典は慨然として「これは国家の大事であり、計略がどうであるかを顧みるだけだ。我々は個人的な恨みで公の道義を忘れるべきではない」と言い、張遼と共に孫権軍を破って敗走させた。100戸の加増を受け300戸となった。
建安11年(206年)8月、海賊の管承を楽進と共に破り、敗走させた。虜将軍に昇進、都亭侯となった。


李典は学問を好み、儒家やその思想を貴んだ。諸将と功績を争わず、[[士大夫]]を敬い、慎み深く誠実であったので、軍中ではその長者ぶりを称えられた。
その後、拠点としていた乗氏から1万3000人あまりの一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。厚い待遇への感謝と、鄴の充実のためだと口述している。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。


36歳で逝去し、子の李禎が後を継いだ。
建安13年(208年)、曹操が荊州征伐に向かう[[于禁]]・[[張遼]]・[[張コウ|張郃]]・[[朱霊]]・[[路招]]・馮楷の6将軍と共に[[趙儼]]統括下に入ることになった(「趙儼伝」)。


[[曹丕]](文帝)が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられた。'''愍侯'''と諡された。
建安20年(215年)の[[合肥の戦い]](逍遥津の戦い)では、日頃から不和であった張遼と協調して[[孫権]]軍を迎撃した。100戸の加増を受け300戸となった。


[[243年]]秋7月、[[曹芳]](斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典も含まれている(『斉王紀』)
李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争うこともなく、[[士大夫]]にも謙虚に接した。軍中においても称えられたという。また、個人的な仲違いのために道を踏み外さなかったとして陳寿から評されている。


[[陳寿]]は、李典が儒者を尊重し、義によって個人的な仲違いを忘れたことを立派であると評している。
36歳で逝去し、子の李禎が後を継いだ。

[[曹丕]](文帝)が帝位に就くと、李典の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられた。愍侯と諡された。

[[243年]]秋7月、[[曹芳]](斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典も含まれている。


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正史では武帝紀で、[[215年]]([[建安 (漢)|建安]]20年)8月、孫権を合肥で破った記述を最後に事績が途絶えている。生没年を[[174年]]-[[209年]]とする書物があるが、史書や上記の略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは官渡の戦い前後である。何より武帝紀の記述から先の没年を採る事は不可能といえよう。
正史では武帝紀で、[[215年]]([[建安 (漢)|建安]]20年)8月、孫権を合肥で破った記述を最後に事績が途絶えている。生没年を[[174年]]-[[209年]]とする書物があるが、史書や上記の略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは官渡の戦い前後である。何より武帝紀の記述から先の没年を採る事は不可能といえよう。
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== 『三国志演義』における李典 ==
小説『[[三国志演義]]』では、曹操が反[[董卓]]の兵を募った時から仕えた。呂布との戦いや[[華北]]4州平定にも参加し、黄巾の[[黄邵]]を生け捕るなど、 武将として早くから武功を挙げた。


非常に慎重な性格であり、はやる上役を抑えようとする役割が多い。濮陽城の呂布を攻めた際には、危険であるから城外で待つよう曹操を制止する。しかし曹操は聞かずに入城し、[[陳宮]]の術中にはまって大火傷を負った。また[[曹仁]]とともに[[新野県|新野]]にいる劉備を攻撃した際にも、勝算なしとみて援軍を要請し大軍であたること、樊城を守備すべきとの慎重論を主張し、功を急ぐ曹仁と対立している。曹仁は李典の進言を聞き入れず、[[徐庶]]の采配に翻弄されて[[樊城区|樊城]]を奪われた。
== 注釈 ==
<references/>

== 『三国志演義』における李典 ==
小説『[[三国志演義]]』では、曹操が[[董卓]]に反旗を翻し、軍を編成した時点で3千の兵を引き連れて参加し仕えている。[[黄邵]]を捕虜にするなど曹操の将として早くから武功を挙げ、呂布との戦いや[[華北]]4州平定にも参加。[[禰衡]]には他の曹操の部下とともに罵られている。


[[博望坡の戦い]]では、夏侯惇が[[諸葛亮]]の計略にかかって深追いしたが、後方にいた李典は前方の地形を分析して火攻めに用心するよう夏侯惇に知らせた。しかしそれと同時に火の手が上がり、攻撃を受けて大敗を喫した。
その後に[[曹仁]]の配下として[[樊城]]に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として[[新野県|新野]]に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である[[徐庶]]の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。


[[長坂の戦い]]では、[[張飛]]が長坂橋を焼き払ったことをいぶかしみ、諸葛亮の罠だと進言する曹操は張飛に策略などないと断して再追撃を命じるが途中で伏兵の[[関羽]]に出会い、驚い撤退した。
207年に、劉備と[[諸葛亮]]打倒を曹操に志願した夏侯惇の配下として[[于禁]]と共に付けられ、新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている([[博望坡の戦い]])。


以上のように、意見が通ることは少ないものの、冷静に敵状を察知して助言をする副将として描かれている。
208年、曹操が[[荊州]]など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。[[長坂の戦い]]で長坂橋を陣取っていた[[張飛]]が橋を焼き払って去り、それを見李典は諸葛亮の罠だと進言するが、曹操は橋を落としたの伏兵のない証拠断して再追撃を命じる。だが途中で伏兵の関羽に出会い、驚いた曹操は撤退した。


209年の合肥の戦いでは、張遼の副将として登場し40万敵軍に対して呉の[[宋謙]]を射殺した。その後、張遼楽進と協力して[[太史慈]]に致命傷負わせている。
以上のように相手の策を見破り進言する知性的な副将としての位置で描かれることが多い。


215年の合肥の戦いでは、40万の敵軍に対し討って出よとの君命に従おうとする張遼に対し、彼と不仲の李典は押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼楽進と共に孫権軍を撃退した。216年の濡須口の戦いでは、曹操が40万以上の軍勢を率いて呉に攻め、李典は徐盛に敗れる
209年は、張遼の副将として合肥の守備を任され武将の[[宋謙]]を射殺した。その後、張遼楽進と協力して[[太史慈]]を討ち取っている。


== 墓所 ==
215年の合肥の戦いでは、10万の敵軍に対し、張遼は討って出よとの君命に従おうとする李典は無言の抵抗をするが、張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼楽進と共に孫権軍を撃退した。
『嘉慶合肥県志<ref group="注釈">合肥の歴史・風土を記した清代の書物。</ref>』によると、李典が合肥に駐留していた頃、先祖である[[李陵]]をまつるために合肥市肥西県の紫蓬山に李陵廟(現在の西廬寺)を建て、李典もこの地に葬られたと伝えられている。その由縁で現在、紫蓬山には李典の墓がある。


また、山東省菏沢市巨野県でも李典の墓とみられる石室が見つかり、菏沢市博物館に収容されているという。


== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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李典
後漢 
都亭侯・破虜将軍
出生 180年以降
兗州山陽郡鉅野県
死去 215年以降または217年以降
拼音 Lǐ Diǎn
曼成
諡号 愍侯
主君 曹操
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李 典(り てん、生没年不詳)は、中国後漢末の武将。字は曼成(まんせい)。兗州山陽郡鉅野県[注釈 1]の人。子は李禎その他1名。曹操に仕えた。『三国志志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。

正史の事跡

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従父の李乾は曹操に付き従って武功を立てたが、兗州が乱れた際に殺された。後を継いだ李整(李乾の子)も亡くなると、李典は潁川郡潁陰県令になり、中郎将となって李整の軍を率いた。李典は若いころ学問を好み、軍事は好きではなかった。先生について『春秋左氏伝』をはじめ多くの書物に親しんだ。曹操はそれを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。離狐郡の太守に昇進した。

建安5年(200年)の官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、東平国の安民に駐屯した。

建安7年(202年)、曹操が黎陽袁譚袁尚を攻撃した際、李典は程昱とともに船で兵糧を輸送した。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。曹操はあらかじめ「船が通れないなら陸路を行くように」と命じていたが、李典は「高蕃の軍はよろいをつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。軍は朝廷に統御されず、国家の利益になるならば専断は許される。速やかに攻撃すべきだ」と主張した。程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。

劉備劉表の命で北進して葉まで来た時、曹操は李典を夏侯惇に従わせてこれを防がせた。退却した劉備を夏侯惇は追撃しようとしたが、李典は「敵が理由もなく退いたからには伏兵の疑いがある。道は狭く草木は深いので追ってはいけない」と反対した。夏侯惇は聞き入れず于禁を従えて追撃し、李典は留守を任されたが、夏侯惇が伏兵により不利な状態に陥いった。李典が救援に駆けつけると劉備はすぐに兵を引いた(『博望坡の戦い』)。

建安9年(204年)、の包囲に参加した。

建安10年(205年)8月、高幹が壷関で挙兵すると、楽進と共に討伐した。

建安11年(206年)8月、海賊の管承を楽進と共に破り、敗走させた。破虜将軍に昇進し、都亭侯となった。

その後、拠点としていた乗氏から三千家余りの一族郎党を魏郡の鄴に移住させた。移住することを願い出た時、曹操は笑いながら「耿純にならうつもりか[注釈 2]」とたずねた。李典は頭を垂れ、「私はのろまで臆病、功績もわずかですのに厚い待遇を受けております。ですので一族を挙げて仕えるのは当然です。それに征伐はまだ終わっておりませんから、まず都の周辺を充実させ、その勢いをもって四方を制すべきと考えます。耿純にならったわけではありません」と答えた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。

建安13年(208年)、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼張郃朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。

建安16年(211年)、曹操が関中馬超韓遂らと対峙した際、李典も駐屯したとある(『水経注』)[1]

建安20年(215年)の合肥の戦いの際、李典は張遼・楽進とともに七千人余りの兵を連れて合肥に駐屯していた。孫権に十万の軍で城を包囲されると、張遼は曹操の命令[2]を奉じて出撃しようとした。しかし三人は普段から不仲だったため、張遼は彼らが賛同しないことを恐れた。李典は慨然として「これは国家の大事であり、計略がどうであるかを顧みるだけだ。我々は個人的な恨みで公の道義を忘れるべきではない」と言い、張遼と共に孫権軍を破って敗走させた。100戸の加増を受け300戸となった。

李典は学問を好み、儒家やその思想を貴んだ。諸将と功績を争わず、士大夫を敬い、慎み深く誠実であったので、軍中ではその長者ぶりを称えられた。

36歳で逝去し、子の李禎が後を継いだ。

曹丕(文帝)が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられた。愍侯と諡された。

243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典も含まれている(『斉王紀』)。

陳寿は、李典が儒者を尊重し、義によって個人的な仲違いを忘れたことを立派であると評している。

『三国志演義』における李典

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小説『三国志演義』では、曹操が反董卓の兵を募った時から仕えた。呂布との戦いや華北4州平定にも参加し、黄巾の黄邵を生け捕るなど、 武将として早くから武功を挙げた。

非常に慎重な性格であり、はやる上役を抑えようとする役割が多い。濮陽城の呂布を攻めた際には、危険であるから城外で待つよう曹操を制止する。しかし曹操は聞かずに入城し、陳宮の術中にはまって大火傷を負った。また曹仁とともに新野にいる劉備を攻撃した際にも、勝算なしとみて援軍を要請し大軍であたること、樊城を守備すべきとの慎重論を主張し、功を急ぐ曹仁と対立している。曹仁は李典の進言を聞き入れず、徐庶の采配に翻弄されて樊城を奪われた。

博望坡の戦いでは、夏侯惇が諸葛亮の計略にかかって深追いしたが、後方にいた李典は前方の地形を分析して火攻めに用心するよう夏侯惇に知らせた。しかしそれと同時に火の手が上がり、攻撃を受けて大敗を喫した。

長坂の戦いでは、張飛が長坂橋を焼き払ったことをいぶかしみ、諸葛亮の罠だと進言する。曹操は張飛には策略などないと断言して再追撃を命じるが、途中で伏兵の関羽に出会い、驚いて撤退した。

以上のように、意見が通ることは少ないものの、冷静に敵状を察知して助言をする副将として描かれている。

209年の合肥の戦いでは、張遼の副将として登場し、40万の敵軍に対して呉の宋謙を射殺した。その後、張遼・楽進と協力して太史慈に致命傷を負わせている。

215年の合肥の戦いでは、40万の敵軍に対して討って出よとの君命に従おうとする張遼に対し、彼と不仲の李典は押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼・楽進と共に孫権軍を撃退した。216年の濡須口の戦いでは、曹操が40万以上の軍勢を率いて呉に攻め、李典は徐盛に敗れる。

墓所

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『嘉慶合肥県志[注釈 3]』によると、李典が合肥に駐留していた頃、先祖である李陵をまつるために合肥市肥西県の紫蓬山に李陵廟(現在の西廬寺)を建て、李典もこの地に葬られたと伝えられている。その由縁で現在、紫蓬山には李典の墓がある。

また、山東省菏沢市巨野県でも李典の墓とみられる石室が見つかり、菏沢市博物館に収容されているという。

脚注

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注釈

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  1. ^ 資治通鑑』巻64には乗氏の人であると記述されている。
  2. ^ 耿純が劉秀に付き従う時、一族からの寝返りを防ぐために屋敷を焼き払って後顧の憂いを絶った逸話をいう。
  3. ^ 合肥の歴史・風土を記した清代の書物。

出典

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  1. ^ 『水経注』巻4「《記》曰:漢末之乱,魏武征韓遂・馬超,連兵此地。今際河之西,有曹公塁。道東原上,云李典営」
  2. ^ 「孫権が来た時は張遼と李典は出撃し、楽進は護軍を守り、共に戦ってはならない」(『張遼伝』)