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{{画像改訂依頼|ヘッダ画像|[[福岡ソフトバンクホークス]]コーチ時代|date=2022年5月|cat=野球選手}}
{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = 森山 良二
| 選手名 = 森山 良二
|所属球団 = 福岡ソフトバンクホークス
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| 役職 = <br />リハビリ担当コーチ(投手)
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| 画像 = R moriyama20160423.jpg
|写真のコメント = 楽天投手コーチ時代<br />(2016年4月23日 西武プリンスドームにて)
| 画像説明 = 楽天投手コーチ時代<br />(2016年4月23日 西武プリンスドームにて)
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| 初出場 = 1987年9月10日
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* [[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大学附属大濠高等学校]]
* [[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大学附属大濠高等学校]]
* [[北九州市立大学|北九州大学]](中退)
* [[北九州市立大学|北九州大学]](中退)
* ONOフーヅ
* ONOフーヅ(非入部)
* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1987 - 1992)
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* [[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]] (1993 - 1995)
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* 横浜ベイスターズ (1996 - 1997)
* 横浜ベイスターズ (1996 - 1997)
* 西武ライオンズ (1998 - 2007)
* 西武ライオンズ (1998 - 2007)
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* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2010 - 2019)
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'''森山 良二'''(もりやま りょうじ、[[1963年]][[7月20日]] - )は、[[福岡県]][[北九州市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[プロ野球コーチ]]。
'''森山 良二'''(もりやま りょうじ、[[1963年]][[7月20日]] - )は、[[福岡県]][[北九州市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[プロ野球コーチ]]。
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[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大附属大濠高校]]では入学時からずば抜けた球威を誇り<ref name="mainichi_20080415">毎日新聞、2008年4月15日付朝刊、福岡地方面</ref>、3年夏の{{by|1981年}}にエースとして[[第63回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園大会]]に出場。初戦の2回戦で[[函館大学付属有斗高等学校|函館有斗]]を5安打2失点に抑えて完投勝利を収めた<ref>[http://www2.asahi.com/koshien/game/1981/400/7441/ asahi.com 第63回全国高校野球選手権大会 福岡大大濠 対 函館有斗]</ref>が、3回戦で[[鎮西中学校・高等学校|鎮西高校]]に敗れている。[[早稲田大学]]を目指して2年間[[過年度生|浪人]]した後、[[北九州市立大学|北九州大学]]に進学した<ref name="yomiuri_19870128">読売新聞、1987年1月28日付朝刊、P.17</ref>。
[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大附属大濠高校]]では入学時からずば抜けた球威を誇り<ref name="mainichi_20080415">毎日新聞、2008年4月15日付朝刊、福岡地方面</ref>、3年夏の{{by|1981年}}にエースとして[[第63回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園大会]]に出場。初戦の2回戦で[[函館大学付属有斗高等学校|函館有斗]]を5安打2失点に抑えて完投勝利を収めた<ref>[http://www2.asahi.com/koshien/game/1981/400/7441/ asahi.com 第63回全国高校野球選手権大会 福岡大大濠 対 函館有斗]</ref>が、3回戦で[[鎮西中学校・高等学校|鎮西高校]]に敗れている。[[早稲田大学]]を目指して2年間[[過年度生|浪人]]した後、[[北九州市立大学|北九州大学]]に進学した<ref name="yomiuri_19870128">読売新聞、1987年1月28日付朝刊、P.17</ref>。


1年秋には外野手としてベストナイン、2年秋の{{by|1985年}}にはエースとして[[九州六大学野球連盟|九州六大学リーグ]]で3位に入る原動力となった<ref>毎日新聞、2004年6月3日付朝刊、福岡地方面</ref>が、高校時代から注目していた[[埼玉西武ライオンズ|西武]]の球団管理部長・[[根本陸夫]]が接触、入団を打診されて<ref name="mainichi_20080415"/>同年で大学を[[退学|中退]]。翌年、野球部のないONOフーヅに入社して[[レストラン]]で[[キャッシュレジスター|レジ]]打ちなどを行ない<ref>小関順二『ドラフト物語』あかつき株式会社、2009年、28ページ、ISBN 978-4-331-51422-1</ref><ref name="mainichi_20080415"/>、{{by|1986年}}11月の[[1986年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]では全くといっていいほどのノーマークの中で西武から単独で1位指名を受けた<ref>ただし森山によると、当初西武はドラフト外での獲得を目指していたといい、それがドラフト1位指名に変わったのは[[広島東洋カープ|広島]]にその意図を嗅ぎ付けられ、ドラフト指名される危険性が生じたためだったという。</ref>。担当スカウトは[[楠城徹]]で、契約金と年俸それぞれ5000万円、480万円(いずれも推定)で入団している<ref>読売新聞、1986年11月22日付朝刊、P.17</ref>。
1年秋には外野手としてベストナイン、2年秋の{{by|1985年}}にはエースとして[[九州六大学野球連盟|九州六大学リーグ]]で3位に入る原動力となった<ref>毎日新聞、2004年6月3日付朝刊、福岡地方面</ref>が、高校時代から注目していた[[埼玉西武ライオンズ|西武]]の球団管理部長・[[根本陸夫]]が接触、入団を打診されて{{R|mainichi_20080415}}同年で大学を[[退学|中退]]。翌年、野球部のないONOフーヅに入社して[[レストラン]]で[[キャッシュレジスター|レジ]]打ちなどを行ない<ref>小関順二『ドラフト物語』あかつき株式会社、2009年、28ページ、ISBN 978-4-331-51422-1</ref>{{R|mainichi_20080415}}、{{by|1986年}}11月の[[1986年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]では全くといっていいほどのノーマークの中で西武から単独で1位指名を受けた{{Efn2|ただし森山によると、当初西武はドラフト外での獲得を目指していたといい、それがドラフト1位指名に変わったのは[[広島東洋カープ|広島]]にその意図を嗅ぎ付けられ、ドラフト指名される危険性が生じたためだったという。}}。担当スカウトは[[楠城徹]]で、契約金と年俸それぞれ5000万円、480万円(いずれも推定)で入団している<ref>読売新聞、1986年11月22日付朝刊、P.17</ref>。


=== プロ野球選手時代 ===
=== 西武時代 ===
[[打者]]としての素質にも定評があった<ref>読売新聞、1986年11月21日付朝刊、P.16</ref>が[[投手]]となり、1年目の{{by|1987年}}の[[フィジカルトレーニング|自主トレーニング]]の段階から優れた身体能力を発揮し、[[森祇晶]]監督には[[平衡感覚|バランス能力]]の高さを評価されている<ref name="yomiuri_19870128"/>[[9月10日]]に一軍初登板を果たすと[[10月13日]]にはプロ初[[先発投手|先発]]で初勝利を挙げた。[[1987年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第1戦で[[リリーフ]]として登板し、1イニングを1安打無失点に抑えている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1987_1.html NPB公式記録 1987年度日本シリーズ 第1戦]</ref>。
[[打者]]としての素質にも定評があった<ref>読売新聞、1986年11月21日付朝刊、P.16</ref>が[[投手]]となり、1年目の{{by|1987年}}の[[フィジカルトレーニング|自主トレーニング]]の段階から優れた身体能力を発揮し、[[森祇晶]]監督には[[平衡感覚|バランス能力]]の高さを評価されている{{R|yomiuri_19870128}}。9月10日に一軍初登板を果たすと10月13日にはプロ初[[先発投手|先発]]で初勝利を挙げた。[[1987年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第1戦で[[リリーフ]]として登板し、1イニングを1安打無失点に抑えている<ref>[https://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1987_1.html NPB公式記録 1987年度日本シリーズ 第1戦]</ref>。


2年目の{{by|1988年}}は[[東尾修]]の出場停止や[[小野和幸]]の移籍もあって<ref>読売新聞、1987年12月24日付朝刊、P.17</ref>[[先発ローテーション]]に入り、[[パームボール]]を武器に前半戦だけで8勝を挙げてローテーションに定着した<ref name="yomiuri_19881027">読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.18</ref>。躍進には東尾の助言もあったという。後半戦はパームの制球に苦しんだがシーズン通算で10勝し、[[1988年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では、第4戦で最少被安打のシリーズタイ記録となる2安打[[完封]]勝利<ref name="yomiuri_19881027"/>を収めて優秀選手賞を受賞した。これらの活躍が評価されて[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得し、オフには1000万円増の年俸1500万円(推定)で契約を更改している<ref>読売新聞、1988年12月11日付朝刊、P.19</ref>。
{{by|1988年}}は[[東尾修]]の出場停止や[[小野和幸]]の移籍もあって<ref>読売新聞、1987年12月24日付朝刊、P.17</ref>[[先発ローテーション]]に入り、[[パームボール]]を武器に前半戦だけで8勝を挙げてローテーションに定着した<ref name="yomiuri_19881027">読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.18</ref>。躍進には東尾の助言もあったという。後半戦はパームの制球に苦しんだがシーズン通算で10勝し、[[1988年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では、第4戦で最少被安打のシリーズタイ記録となる2安打[[完封]]勝利{{R|yomiuri_19881027}}を収めて優秀選手賞を受賞した。これらの活躍が評価されて[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得し、オフには1000万円増の年俸1500万円(推定)で契約を更改している<ref>読売新聞、1988年12月11日付朝刊、P.19</ref>。


{{by|1989年}}は肘と肩の故障から2試合のみの登板に終わる。
しかし{{by|1989年}}はひじと肩の故障から2試合のみの登板に終わり、{{by|1990年}}は[[オープン戦]]で好投して先発復帰を目指した<ref>読売新聞、1990年4月5日付朝刊、P.18</ref>ものの未勝利となった。{{by|1991年}}頃から軟投派への転向を目指し<ref name="yomiuri_19930607">読売新聞、1993年6月7日付朝刊、P.21</ref>、{{by|1993年}}開幕直前の[[3月24日]]に[[清水義之 (野球)|清水義之]]との交換トレードで[[中村日出夫 (野球)|中村日出夫]]と共に[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]に移籍した。横浜では中継ぎやローテーションの谷間の先発を任され、[[6月6日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で5年ぶりに先発勝利を挙げている<ref name="yomiuri_19930607"/>。その後、{{by|1995年}}限りで現役を引退した

{{by|1990年}}は[[オープン戦]]で好投して先発復帰を目指した<ref>読売新聞、1990年4月5日付朝刊、P.18</ref>ものの未勝利となった。

{{by|1991年}}頃から軟投派への転向を目指す<ref name="yomiuri_19930607">読売新聞、1993年6月7日付朝刊、P.21</ref>。

=== 横浜時代 ===
{{by|1993年}}開幕直前の3月24日に[[清水義之 (野球)|清水義之]]との交換トレードで[[中村日出夫 (野球)|中村日出夫]]と共に[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]に移籍した。横浜では中継ぎやローテーションの谷間の先発を任され、6月6日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で5年ぶりに先発勝利を挙げている{{R|yomiuri_19930607}}。

{{by|1995年}}限りで現役を引退した。


=== 現役引退後 ===
=== 現役引退後 ===
{{by|1996年}}は一軍投手コーチ補佐として横浜に残り、{{by|1997年}}には二軍投手コーチ補佐に転換されこの年限りで退団。横浜退団後は古巣・西武に復帰し、二軍投手兼トレーニングコーチ({{by|1998年}} - {{by|1999年}}, {{by|2001年}} - {{by|2002年}}, {{by|2004年}} - {{by|2005年}})・二軍投手コーチ({{by|2000年}})一軍投手(ブルペン担当)兼トレーニングコーチ({{by|2003年}}, {{by|2006年}} - {{by|2007年}})を務めた。2007年はチーム防御率5位に低迷して26年ぶりのBクラスに終わり、[[10月7日]]に球団側から来季は契約しないことを通告された<ref>西武、7コーチが退団へ、2007年10月7日、[[スポーツニッポン]]</ref>。2007年でコーチの契約が終わり他球団への移籍も白紙になっていたところ、[[四国アイランドリーグplus|四国・九州アイランドリーグ]]の[[福岡レッドワーブラーズ]]から監督就任のオファーを受けてこれを受諾<ref name="mainichi_20080416">毎日新聞、2008年4月16日付朝刊、福岡地方面</ref>。地元での人望が厚く、かつプロでの実績がある点を評価されたという<ref name="mainichi_20080416"/>。プロ入りする選手が生まれるを目標に<ref name="mainichi_20080416"/>{{by|2008年}}から{{by|2009年}}まで監督を務め、球団がリーグ戦参加を休止したのにともない退団。{{by|2010年}}から[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]一軍投手コーチ(ブルペン担当)に就。{{by|2013}}は球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献し、{{by|2015年}}のみ二軍投手コーチを務めた。{{by|2018年}}[[6月16日]]、最下位責任を取って辞任した[[梨田昌孝]]監督の辞任に伴い、ブルペン担当からベンチ担当に配置転換された。{{by|2019年}}シーズン終了後に契約満了に伴い楽天を退団すること発表され<ref>{{Cite news|title=楽天・森山1軍投手コーチが退団|newspaper=Sponichi Annex|date=2019-10-14|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/14/kiji/20191014s00001173244000c.html|accessdate=2019-10-14}}</ref>、2019年[[11月4日]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]が一軍投手コーチ就任発表した。背番号は'''「92」'''
引退後横浜で一軍投手コーチ補佐{{by|1996年}})→二軍投手コーチ補佐({{by|1997年}})を務め、横浜退団後は古巣・西武に復帰し、二軍トレーニング&投手コーチ({{by|1998年}} - {{by|1999年}})→二軍投手コーチ({{by|2000年}})→二軍トレーニングコーチ({{by|2001年}})→二軍投手兼トレーニングコーチ({{by|2002年}})一軍投手(ブルペン担当)兼トレーニングコーチ({{by|2003年}}{{by|2006年}} - {{by|2007年}})、二軍トレーニング兼投手コーチ({{by|2004年}} - {{by|2005年}})を務めた。2007年はチーム防御率5位に低迷して26年ぶりのBクラスに終わり、10月7日に球団側から翌年は契約しないことを通告された<ref>西武、7コーチが退団へ、2007年10月7日、[[スポーツニッポン]]</ref>。2007年でコーチの契約が終わり他球団への移籍も白紙になっていたところ、[[四国アイランドリーグplus|四国・九州アイランドリーグ]]の[[福岡レッドワーブラーズ]]から監督就任のオファーを受けてこれを受諾<ref name="mainichi_20080416">毎日新聞、2008年4月16日付朝刊、福岡地方面</ref>。地元での人望が厚く、かつプロでの実績がある点を評価されたという{{R|mainichi_20080416}}。プロ入りする選手が生まれることを目標に{{R|mainichi_20080416}}{{by|2008年}}から{{by|2009年}}まで監督を務め、球団がリーグ戦参加を休止したのにともない退団。監督在中の2008年に投手の[[金無英]]が[[福岡ソフトバンクホークス]]からドラフト指名受けて入団した。


{{by|2010年}}からは[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]一軍投手コーチ(ブルペン担当)を担当。{{by|2013年}}には球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献した。その後、{{by|2015年}}は二軍投手コーチを務め、{{by|2016年}}からは再び一軍投手コーチを担当。{{by|2018年}}6月16日、最下位の責任を取って辞任した[[梨田昌孝]]の監督辞任に伴い、ブルペン担当からベンチ担当に配置転換された。
== 選手としての特徴・人物 ==
所謂、ドラフト会議における隠し玉の例として有名である。大学を中退してアマチュア野球での所属がなかった時期にはアメリカ・マイナーリーグに参加していたともいわれている。
大学は中退しているが、関連人物として母校での講演に招かれたことがある。


{{by|2019年}}、[[則本昂大]]や[[岸孝之]]らが長期不在の中、若手の[[石橋良太]]を抜擢して3位に導く手腕を発揮<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20191217090228/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/557479/ |title=新天地のソフトバンクでも先発を発掘 北九州市出身の森山投手コーチ |publisher=西日本スポーツ |date=2019-11-07 |accessdate=2022-04-26}}</ref>。シーズン終了後に契約満了に伴い楽天を退団することが発表された<ref>{{Cite news ja |title=楽天・森山1軍投手コーチが退団 |newspaper=Sponichi Annex |date=2019-10-14 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/14/kiji/20191014s00001173244000c.html |accessdate=2019-10-14}}</ref>。
最速143km/hの[[速球]]や[[パームボール]]に加え、[[カーブ (球種)|カーブ]]や[[スライダー (球種)|スライダー]]を駆使した<ref name="yomiuri_19880504">読売新聞、1988年5月4日付朝刊、P.14</ref>。また制球が良く速球が低目に決まり<ref>読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.19</ref>、マウンド度胸の良さにも定評があった<ref name="yomiuri_19880504"/>


2019年11月4日、西武時代に同僚だった[[工藤公康]]が監督を務めるソフトバンクの一軍投手コーチに就任することが発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20191104163030/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/556726/ |title=ソフトバンク投手コーチに森山良二氏 工藤監督と同学年、投手コーチ3人体制に |publisher=西日本スポーツ |date=2019-11-04 |accessdate=2022-04-26}}</ref>。背番号は'''92'''。
プロでは[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得するなど活躍したが故障などの苦労も経験し、高圧的にならず後輩に好かれる性格だったと言う<ref name="mainichi_20080416"/>


{{by|2020年}}は12球団唯一となる2点台(2.92)の投手陣を率い<ref>週刊ベースボール 2021年1月4日、11日号、62頁</ref><ref>週刊ベースボール 2021年2月23日増刊、4頁</ref>、同年のリーグ優勝、日本一に貢献した。{{by|2022年}}まで同職を務め、2022年は12球団ワーストの与四球474だった<ref>{{Cite web ja |url=https://hochi.news/articles/20221024-OHT1T51171.html?page=1 |title=【ソフトバンク】ドラフト2位・大津亮介、同5位・松本晴が来春キャンプ1軍スタートも 藤本監督が示唆 |publisher=スポーツ報知 |date=2022-10-22 |accessdate=2022-11-21}}</ref>。{{by|2023年}}は三軍監督を担当<ref>{{Cite web ja |url=https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00006092.html |title=2023年コーチングスタッフについて(2022年11月28日現在) |website=福岡ソフトバンクホークス |date=2022-11-28 |accessdate=2023-11-02}}</ref>。{{by|2024年}}からはリハビリ担当コーチ(投手)を務める<ref>{{Cite web ja |url=https://full-count.jp/2023/11/01/post1465441/ |title=ソフトバンクのコーチ陣発表 計33人の豪華スタッフ…奈良原ヘッド、松山2軍監督 |website=Full-Count |date=2023-11-01 |accessdate=2023-11-02}}</ref>。
1988年のオープン戦で中日相手に好投した時、[[星野仙一]]監督が試合後のインタビューで'''「何であんな訳分からんピッチャーに抑えられるんや」'''とボヤいた。このが同年日本シリーズ第4戦の完封へと繋がった。試合中ベンチに戻る度に中日ベンチを睨み付けていたと言う<ref>ベースボール・マガジン社 ベースボールマガジン1993年秋 - 栄光の日本シリーズ</ref>。なお、2011年には一軍投手コーチを務める楽天監督に星野が就任することになる。


== 選手としての特徴・人物 ==
横浜移籍時はシーズン開幕前のため、欠番であった背番号24を付けたがこれはチームに長く貢献し前年引退した[[遠藤一彦]]の番号のため空いていた。
ドラフト会議における「隠し玉」の例として有名である<ref>{{Cite web ja |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/10061700/?all=1&page=2 |title=ドラフト会場がどよめいた「隠し玉列伝」 最も記憶に残る西武が指名した食品会社社員(2ページ目) |website=デイリー新潮 |date=2021-10-06 |accessdate=2024-03-20}}</ref>。大学を中退してアマチュア野球での所属がなかった時期には西武ライオンズのアメリカマイナーリーグへの選手派遣に参加していたとも言われている。現地での登録名はレイモンド・タモリで日系人という設定であった<ref>{{Cite web ja |url=https://www.youtube.com/watch?v=AQMItdgd8NE |title=第四話 東尾さんも呆然。球史に残る羽生田さんの伝説の落球&バックホーム |date=2022-04-26 |access-date=2022-04-26 |publisher=デーブ大久保チャンネル}}</ref>。大学は中退しているが、関連人物として母校での講演に招かれたことがある。

最速143km/hの[[速球]]や[[パームボール]]に加え、[[カーブ (球種)|カーブ]]や[[スライダー (球種)|スライダー]]を駆使した<ref name="yomiuri_19880504">読売新聞、1988年5月4日付朝刊、P.14</ref>。また制球が良く速球が低目に決まり<ref>読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.19</ref>、マウンド度胸の良さにも定評があった{{R|yomiuri_19880504}}

プロでは[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得するなど活躍したが故障などの苦労も経験し、高圧的にならず後輩に好かれる性格だったと言う{{R|mainichi_20080416}}

1988年のオープン戦で中日相手に好投した時、[[星野仙一]]監督が試合後のインタビューで「何であんな訳分からんピッチャーに抑えられるんや」とボヤいた。このことが同年日本シリーズ第4戦の完封へと繋がった。試合中ベンチに戻る度に中日ベンチを睨み付けていたと言う<ref>ベースボール・マガジン社 ベースボールマガジン1993年秋 - 栄光の日本シリーズ</ref>。なお、2011年には一軍投手コーチを務める楽天監督に星野が就任することになり、星野も森山を投手コーチとして続投させている。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
=== 年度別投手成績 ===
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|-
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|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]

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=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
* [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]] (1988年)
* [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]](1988年)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞:1回 ([[1988年の日本シリーズ|1988年]])
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞:1回([[1988年の日本シリーズ|1988年]])


=== 記録 ===
=== 記録 ===
; 初記録
*初登板:1987年9月11日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]22回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回表2死に5番手として救援登板・完了、2回1/3を1失点
* 初登板:1987年9月10日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]22回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回表死に5番手救援登板・完了、2回1/3を1失点
*初奪三振:同上、9回表に[[門田博光]]から
* 初奪三振:同上、9回表に[[門田博光]]から
*初先発・初勝利:1987年10月13日、対南海ホークス26回戦(西武ライオンズ球場)、6回2失点
*初完投勝利:1988419日、対[[千葉ロッテマリンズ|ロッテオリオンズ]]1回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、9回2失点
* 初先発・初勝利:19871013日、対南海ホクス26回戦(西武ライオンズ球場)、6回2失点
*初完勝利:1988年511日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]4回戦([[東京ドーム]])
* 初完勝利:1988年419日、対[[千葉ロッテマリズ|ロッテオリオンズ]]1回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、9回2失点
* 初完封勝利:1988年5月11日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]4回戦([[東京ドーム]])


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''31''' (1987年 - 1993年)
* '''31'''(1987年 - 1993年)
* '''24''' (1993年 - 1995年)
* '''24'''(1993年 - 1995年)
* '''84''' (1996年 - 1997年)
* '''84'''(1996年 - 1997年)
* '''80''' (1998年 - 2009年)
* '''80'''(1998年 - 2009年)
* '''72''' (2010年 - 2019年)
* '''72'''(2010年 - 2019年)
* '''92''' (2020年 - )
* '''92'''(2020年 - 2023年
* '''017'''(2024年 - )


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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* [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]]
* [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]]
* [[東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧]]
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* [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]]


== 外部リンク ==
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* [https://www.softbankhawks.co.jp/team/player/detail/2020_92.html 92 森山 良二 選手名鑑] - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト
* [https://www.softbankhawks.co.jp/team/player/detail/2024_00001554.html 92 森山 良二 選手名鑑] - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト
* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19630067/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE


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2024年4月15日 (月) 00:34時点における最新版

森山 良二
福岡ソフトバンクホークス 
リハビリ担当コーチ(投手) #017
楽天投手コーチ時代
(2016年4月23日 西武プリンスドームにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市
生年月日 (1963-07-20) 1963年7月20日(60歳)
身長
体重
183 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト1位
初出場 1987年9月10日
最終出場 1995年6月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

森山 良二(もりやま りょうじ、1963年7月20日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡大附属大濠高校では入学時からずば抜けた球威を誇り[1]、3年夏の1981年にエースとして夏の甲子園大会に出場。初戦の2回戦で函館有斗を5安打2失点に抑えて完投勝利を収めた[2]が、3回戦で鎮西高校に敗れている。早稲田大学を目指して2年間浪人した後、北九州大学に進学した[3]

1年秋には外野手としてベストナイン、2年秋の1985年にはエースとして九州六大学リーグで3位に入る原動力となった[4]が、高校時代から注目していた西武の球団管理部長・根本陸夫が接触、入団を打診されて[1]同年で大学を中退。翌年、野球部のないONOフーヅに入社してレストランレジ打ちなどを行ない[5][1]1986年11月のドラフト会議では全くといっていいほどのノーマークの中で西武から単独で1位指名を受けた[注 1]。担当スカウトは楠城徹で、契約金と年俸それぞれ5000万円、480万円(いずれも推定)で入団している[6]

西武時代[編集]

打者としての素質にも定評があった[7]投手となり、1年目の1987年自主トレーニングの段階から優れた身体能力を発揮し、森祇晶監督にはバランス能力の高さを評価されている[3]。9月10日に一軍初登板を果たすと10月13日にはプロ初先発で初勝利を挙げた。同年の日本シリーズでは第1戦でリリーフとして登板し、1イニングを1安打無失点に抑えている[8]

1988年東尾修の出場停止や小野和幸の移籍もあって[9]先発ローテーションに入り、パームボールを武器に前半戦だけで8勝を挙げてローテーションに定着した[10]。躍進には東尾の助言もあったという。後半戦はパームの制球に苦しんだがシーズン通算で10勝し、同年の日本シリーズでは、第4戦で最少被安打のシリーズタイ記録となる2安打完封勝利[10]を収めて優秀選手賞を受賞した。これらの活躍が評価されて新人王を獲得し、オフには1000万円増の年俸1500万円(推定)で契約を更改している[11]

1989年は肘と肩の故障から2試合のみの登板に終わる。

1990年オープン戦で好投して先発復帰を目指した[12]ものの未勝利となった。

1991年頃から軟投派への転向を目指す[13]

横浜時代[編集]

1993年開幕直前の3月24日に清水義之との交換トレードで中村日出夫と共に横浜ベイスターズに移籍した。横浜では中継ぎやローテーションの谷間の先発を任され、6月6日の対中日戦で5年ぶりに先発勝利を挙げている[13]

1995年限りで現役を引退した。

現役引退後[編集]

引退後は横浜で一軍投手コーチ補佐(1996年)→二軍投手コーチ補佐(1997年)を務め、横浜退団後は古巣・西武に復帰し、二軍トレーニング&投手コーチ(1998年 - 1999年)→二軍投手コーチ(2000年)→二軍トレーニングコーチ(2001年)→二軍投手兼トレーニングコーチ(2002年)、一軍投手(ブルペン担当)兼トレーニングコーチ(2003年2006年 - 2007年)、二軍トレーニング兼投手コーチ(2004年 - 2005年)を務めた。2007年はチーム防御率5位に低迷して26年ぶりのBクラスに終わり、10月7日に球団側から翌年は契約しないことを通告された[14]。2007年でコーチの契約が終わり他球団への移籍も白紙になっていたところ、四国・九州アイランドリーグ福岡レッドワーブラーズから監督就任のオファーを受けてこれを受諾[15]。地元での人望が厚く、かつプロでの実績がある点を評価されたという[15]。プロ入りする選手が生まれることを目標に[15]2008年から2009年まで監督を務め、球団がリーグ戦参加を休止したのにともない退団。監督在任中の2008年に投手の金無英福岡ソフトバンクホークスからドラフト指名を受けて入団した。

2010年からは東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手コーチ(ブルペン担当)を担当。2013年には球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献した。その後、2015年は二軍投手コーチを務め、2016年からは再び一軍投手コーチを担当。2018年6月16日、最下位の責任を取って辞任した梨田昌孝の監督辞任に伴い、ブルペン担当からベンチ担当に配置転換された。

2019年則本昂大岸孝之らが長期不在の中、若手の石橋良太を抜擢して3位に導く手腕を発揮[16]。シーズン終了後に契約満了に伴い楽天を退団することが発表された[17]

2019年11月4日、西武時代に同僚だった工藤公康が監督を務めるソフトバンクの一軍投手コーチに就任することが発表された[18]。背番号は92

2020年は12球団唯一となる2点台(2.92)の投手陣を率い[19][20]、同年のリーグ優勝、日本一に貢献した。2022年まで同職を務め、2022年は12球団ワーストの与四球474だった[21]2023年は三軍監督を担当[22]2024年からはリハビリ担当コーチ(投手)を務める[23]

選手としての特徴・人物[編集]

ドラフト会議における「隠し玉」の例として有名である[24]。大学を中退してアマチュア野球での所属がなかった時期には西武ライオンズのアメリカマイナーリーグへの選手派遣に参加していたとも言われている。現地での登録名はレイモンド・タモリで日系人という設定であった[25]。大学は中退しているが、関連人物として母校での講演に招かれたことがある。

最速143km/hの速球パームボールに加え、カーブスライダーを駆使した[26]。また制球が良く速球が低目に決まり[27]、マウンド度胸の良さにも定評があった[26]

プロでは新人王を獲得するなど活躍したが故障などの苦労も経験し、高圧的にならず後輩に好かれる性格だったと言う[15]

1988年のオープン戦で中日相手に好投した時、星野仙一監督が試合後のインタビューで「何であんな訳分からんピッチャーに抑えられるんや」とボヤいた。このことが同年日本シリーズ第4戦の完封へと繋がった。試合中ベンチに戻る度に中日ベンチを睨み付けていたと言う[28]。なお、2011年には一軍投手コーチを務める楽天の監督に星野が就任することになり、星野も森山を投手コーチとして続投させている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1987 西武 4 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 43 10.2 9 1 1 0 0 6 0 0 4 2 1.69 0.94
1988 28 24 10 2 2 10 9 0 -- .526 706 169.0 166 12 41 4 4 77 3 0 72 65 3.46 1.22
1989 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 30 5.1 11 0 4 1 0 2 0 0 7 7 11.81 2.81
1990 7 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 64 13.2 20 3 6 1 0 8 2 0 13 13 8.56 1.90
1991 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 36 8.2 11 0 2 1 0 3 0 0 2 2 2.08 1.50
1992 6 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 52 10.2 14 5 5 0 1 6 2 0 9 9 7.59 1.78
1993 横浜 13 10 0 0 0 2 3 0 -- .400 205 45.0 48 9 26 0 0 33 1 0 28 26 5.20 1.64
1994 18 4 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 173 41.0 45 5 9 2 0 16 3 0 20 18 3.95 1.32
1995 5 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 48 10.1 10 2 8 0 1 5 0 1 5 5 4.35 1.74
通算:9年 86 42 10 2 2 14 15 0 -- .483 1357 314.1 334 37 102 9 6 156 11 1 160 147 4.21 1.39

表彰[編集]

記録[編集]

初記録

背番号[編集]

  • 31(1987年 - 1993年)
  • 24(1993年 - 1995年)
  • 84(1996年 - 1997年)
  • 80(1998年 - 2009年)
  • 72(2010年 - 2019年)
  • 92(2020年 - 2023年)
  • 017(2024年 - )

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし森山によると、当初西武はドラフト外での獲得を目指していたといい、それがドラフト1位指名に変わったのは広島にその意図を嗅ぎ付けられ、ドラフト指名される危険性が生じたためだったという。

出典[編集]

  1. ^ a b c 毎日新聞、2008年4月15日付朝刊、福岡地方面
  2. ^ asahi.com 第63回全国高校野球選手権大会 福岡大大濠 対 函館有斗
  3. ^ a b 読売新聞、1987年1月28日付朝刊、P.17
  4. ^ 毎日新聞、2004年6月3日付朝刊、福岡地方面
  5. ^ 小関順二『ドラフト物語』あかつき株式会社、2009年、28ページ、ISBN 978-4-331-51422-1
  6. ^ 読売新聞、1986年11月22日付朝刊、P.17
  7. ^ 読売新聞、1986年11月21日付朝刊、P.16
  8. ^ NPB公式記録 1987年度日本シリーズ 第1戦
  9. ^ 読売新聞、1987年12月24日付朝刊、P.17
  10. ^ a b 読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.18
  11. ^ 読売新聞、1988年12月11日付朝刊、P.19
  12. ^ 読売新聞、1990年4月5日付朝刊、P.18
  13. ^ a b 読売新聞、1993年6月7日付朝刊、P.21
  14. ^ 西武、7コーチが退団へ、2007年10月7日、スポーツニッポン
  15. ^ a b c d 毎日新聞、2008年4月16日付朝刊、福岡地方面
  16. ^ 新天地のソフトバンクでも先発を発掘 北九州市出身の森山投手コーチ」西日本スポーツ、2019年11月7日。2022年4月26日閲覧
  17. ^ 楽天・森山1軍投手コーチが退団」『Sponichi Annex』2019年10月14日。2019年10月14日閲覧
  18. ^ ソフトバンク投手コーチに森山良二氏 工藤監督と同学年、投手コーチ3人体制に」西日本スポーツ、2019年11月4日。2022年4月26日閲覧
  19. ^ 週刊ベースボール 2021年1月4日、11日号、62頁
  20. ^ 週刊ベースボール 2021年2月23日増刊、4頁
  21. ^ 【ソフトバンク】ドラフト2位・大津亮介、同5位・松本晴が来春キャンプ1軍スタートも 藤本監督が示唆」スポーツ報知、2022年10月22日。2022年11月21日閲覧
  22. ^ 2023年コーチングスタッフについて(2022年11月28日現在)」『福岡ソフトバンクホークス』2022年11月28日。2023年11月2日閲覧
  23. ^ ソフトバンクのコーチ陣発表 計33人の豪華スタッフ…奈良原ヘッド、松山2軍監督」『Full-Count』2023年11月1日。2023年11月2日閲覧
  24. ^ ドラフト会場がどよめいた「隠し玉列伝」 最も記憶に残る西武が指名した食品会社社員(2ページ目)」『デイリー新潮』2021年10月6日。2024年3月20日閲覧
  25. ^ 第四話 東尾さんも呆然。球史に残る羽生田さんの伝説の落球&バックホーム」デーブ大久保チャンネル、2022年4月26日。2022年4月26日閲覧
  26. ^ a b 読売新聞、1988年5月4日付朝刊、P.14
  27. ^ 読売新聞、1988年10月27日付朝刊、P.19
  28. ^ ベースボール・マガジン社 ベースボールマガジン1993年秋 - 栄光の日本シリーズ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]