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'''張顗'''('''ちょう ぎ''' 〔Zhang Yi〕 生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。「'''ちょうがい'''」と読まれる場合もある。
'''張 顗'''(ちょう ぎ生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。「ちょうがい」と読まれる場合もあるが、これは[[形声文字]]の声符から音を憶測しただけの誤読である。
== 正史の事跡 ==
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! 姓名
| 張顗
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! 時代
| [[後漢]]時代
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! 生没年
| 〔不詳〕
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! 字・別号
| 〔不詳〕
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! 出身地
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! 職官
| 〔不詳〕
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! 爵位・号等
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! 陣営・所属等
| [[袁尚]]
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! 家族・一族
| 〔不詳〕
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[[袁尚]]配下。「大将」と表記される同僚の[[馬延]]よりも格下の将、あるいは馬延の副将であろうか。張顗の名『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書武帝紀にしか見当たらないのに対し、馬延の名は他にも『三国志』魏書[[紹]]『[[後漢書]]』袁紹伝にされる。


[[建安 (漢)|建安]]9年([[204]])、[[]]を守備する[[審配]]を救援するため、袁尚に従って[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。このため袁尚は降伏の使者を曹操に送った。しかし曹操には全く容れられなかったためついに張顗馬延曹操に降伏することにた。このことで袁尚の軍勢は総崩れとなり、中山へ敗走した。の後、張顗の名は史書に見当たらない。
[[袁紹]]の三男[[袁尚]]配下の将。「大将」と表記される同僚の[[馬延]]よりも格下の将、あるいは馬延の副将であろうか。張顗の名『[[三国志]]』武帝紀のみにしか見ないのに対し、馬延の名は他にも『三国志』董二『[[後漢書]]』劉表袁紹伝に見る。


== 物語中の張顗 ==
[[建安]]9年(204年)、鄴を守備する袁尚の参謀[[審配]]を救援するため、袁尚に従って[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられは、張顗馬延と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。の後、張顗は史書に登場しない。
小説『[[三国演義]]』では、の後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。[[長坂の戦い]]他の袁紹の降将と共に、[[劉禅|阿斗]]を抱える[[劉備]]軍の[[趙雲]]を包囲したが、突破されている。[[赤壁の戦い]]では、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた[[孫権]]軍の[[甘寧]]に馬延共々討ち取られてしまう


『[[三国演義]]』では、の後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。当陽の戦いで他の袁紹の降将と共に、[[劉禅|阿斗]]を抱える劉備の将・[[趙雲]]を包囲したが、突破され。[[赤壁の戦い]]では、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた呉将[[甘寧]]に馬延共々討ち取られ
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書1武帝紀</span>
*[[陳寿]]『三国志』巻一魏書一武帝紀第一(和訳:[[今鷹真]]・[[井波律子]]『三国志 正史 1』[[ちくま学芸文庫]]、1992年)
*『三国演義』(和訳:[[立間祥介]]『三国演義平凡社、1972年)
* <span style="font-size:90%;">[[三国演義|三国演義]]</span>
*[[渡辺精一]]『三國志人物事典』講談社、1989年


[[Category:三国志の登場人物|ちようき]]
{{DEFAULTSORT:ちよう }}
[[Category:袁紹軍の人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:生没年不詳]]
[[Category:3世紀中国の軍人]]

2024年4月17日 (水) 02:01時点における最新版

張 顗(ちょう ぎ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。「ちょうがい」と読まれる場合もあるが、これは形声文字の声符から音を憶測しただけの誤読である。

正史の事跡

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姓名 張顗
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚
家族・一族 〔不詳〕

袁尚配下。「大将」と表記される同僚の馬延よりも格下の将、あるいは馬延の副将であろうか。張顗の名が『三国志』魏書武帝紀にしか見当たらないのに対し、馬延の名は他にも『三国志』魏書袁紹伝や『後漢書』袁紹伝に散見される。

建安9年(204年)、を守備する審配を救援するため、袁尚に従って曹操軍と戦ったが、敗北を積み重ねた。このため袁尚は降伏の使者を曹操に送った。しかし曹操には全く容れられなかったため、ついに張顗と馬延は曹操に降伏することにした。このことで袁尚の軍勢は総崩れとなり、中山郡へ敗走した。その後、張顗の名は史書に見当たらない。

物語中の張顗

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小説『三国志演義』では、その後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。長坂の戦いでは他の袁紹軍の降将と共に、阿斗を抱える劉備軍の趙雲を包囲したが、突破されている。赤壁の戦いでは、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた孫権軍の甘寧に馬延共々討ち取られてしまう。

参考文献

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