「ハーバート・フーヴァー」の版間の差分
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| 職名 = 第31代[[歴代アメリカ合衆国大統領の一覧|大統領]] |
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| 就任日 = [[1929年]][[3月4日]] |
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| 退任日 = [[1933年]]3月4日 |
| 退任日 = [[1933年]][[3月4日]] |
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| 副大統領 = [[チャールズ・カーティス]] |
| 副大統領 = [[チャールズ・カーティス]] |
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| 国名2 = {{USA1912}} |
| 国名2 = {{USA1912}} |
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| 代数2 = 第3 |
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| 職名2 = [[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]] |
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| 就任日2 = [[1921年]][[3月5日]] |
| 就任日2 = [[1921年]][[3月5日]] |
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| 退任日2 = [[1928年]][[8月21日]] |
| 退任日2 = [[1928年]][[8月21日]] |
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| 元首職2 = 大統領 |
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| 元首2 = [[ウォレン・ハーディング]]<br/>[[カルビン・クーリッジ]] |
| 元首2 = [[ウォレン・ハーディング]]<br/>[[カルビン・クーリッジ]] |
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| 出生日 = [[1874年]][[8月10日]] |
| 出生日 = [[1874年]][[8月10日]] |
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| 生地 = {{USA1867}} |
| 生地 = {{USA1867}}<br/>{{flag|Iowa}}ウェストブランチ |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1874|8|10|1964|10|20}} |
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1874|8|10|1964|10|20}} |
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| 没地 = {{USA}} |
| 没地 = {{USA}}<br/>[[ファイル:Flag of New York City.svg|border|25px]] ニューヨーク州[[ニューヨーク]] |
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| 出身校 = [[スタンフォード大学]] |
| 出身校 = [[スタンフォード大学]] |
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| 配偶者 = |
| 配偶者 = {{仮リンク|ルー・ヘンリー・フーヴァー|en|Lou Henry Hoover}} |
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| 子女 = |
| 子女 = {{仮リンク|ハーバート・フーヴァー・ジュニア|en|Herbert Hoover Jr.}}<br/>[[アラン・フーヴァー]] |
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| 政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]] |
| 政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]] |
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| サイン = Herbert Clark Hoover Signature.svg |
| サイン = Herbert Clark Hoover Signature.svg |
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'''ハーバート・クラーク・フーヴァー'''({{lang|en|Herbert Clark Hoover}} |
'''ハーバート・クラーク・フーヴァー'''({{lang|en|'''Herbert Clark Hoover'''}}、[[1874年]][[8月10日]] - [[1964年]][[10月20日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、鉱山技術者。第31代[[アメリカ合衆国大統領]]、第3代[[アメリカ合衆国商務長官]]を歴任した。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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1874年8月10日に[[アイオワ州]]ウェストブランチにて、[[クエーカー]]信者の一家に誕生した。幼くして両親を亡くした後、[[オレゴン州]][[ニューバーグ (オレゴン州)|ニューバーグ]]に転居した。 |
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[[ファイル:Herbert Hoover in 1877.jpg|thumb|left|120px|幼少期 |
[[ファイル:Herbert Hoover in 1877.jpg|thumb|left|120px|幼少期(1877年)]] |
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[[1885年]]夏、フーヴァーは11歳の |
[[1885年]]夏、フーヴァーは11歳の時におばのハンナの手製のごちそうの入ったバスケットを持ち、2枚の10[[セント (通貨)|セント]]硬貨を衣服に縫い込み、[[ユニオン・パシフィック鉄道|ユニオン・パシフィック]]の列車に乗って西のオレゴン州へ向かった。アメリカ大陸の反対側で彼を待ったのは、おじで医者であり教育長のジョン・ミンソーンだった。後にフーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想した。 |
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フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァー曰く「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼は[[チャールズ・ディケンズ]]と[[ウォルター・スコット]]の小説に夢中になった。『[[デイヴィッド・コパフィールド]]』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。 |
フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァー曰く「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼は[[チャールズ・ディケンズ]]と[[ウォルター・スコット]]の小説に夢中になった。『[[デイヴィッド・コパフィールド]]』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。 |
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{{-}} |
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=== スタンフォード大学へ === |
=== スタンフォード大学へ === |
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[[1891年]]秋に[[カリフォルニア州]]パロアルトの[[スタンフォード大学]]に入学する。在学中、[[野球]]チームや[[フットボール]]チームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を浴びた。 |
[[1891年]]秋に[[カリフォルニア州]]パロアルトの[[スタンフォード大学]]に第1期生として入学する。在学中、[[野球]]チームや[[フットボール]]チームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を浴びた。 |
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[[キャンパス]]の上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識も |
[[キャンパス]]の上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識も無い[[学生自治会]]の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の負債を返済することに成功した。 |
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フーヴァーは[[地質学]]を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強した。ブラネル教授は彼のために夏休みの間[[アーカンソー州]]の[[オザーク山脈]]で地形の地図を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、[[1899年]]に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人ともスタンフォード大学を卒業している。 |
フーヴァーは[[地質学]]を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強した。ブラネル教授は彼のために夏休みの間[[アーカンソー州]]の[[オザーク山脈]]で地形の地図を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、[[1899年]]に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人ともスタンフォード大学を卒業している。 |
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[[1895年]]5月、フーヴァーに知識 |
[[1895年]]5月、フーヴァーに知識・職業・妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りの無い人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。 |
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=== 卒業後 === |
=== 卒業後 === |
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卒業後、フーヴァーは[[オーストラリア]]の[[鉱山]]で鉱山技師として働き始め、その後に[[清]]で鉱山の開発に従事した。[[1900年]] |
卒業後、フーヴァーは[[オーストラリア]]の[[鉱山]]で鉱山技師として働き始め、その後に[[清]]で鉱山の開発に従事した。[[1900年]]6月には[[天津租界]]で[[義和団]]によって、1か月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。 |
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[[1928年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、民主党の[[アル・スミス (ニューヨーク州知事)|アル・スミス]]に対して選挙戦を有利に展開。[[1928年]][[11月7日]]の非公式集計において、過半数の選挙人を獲得したことが確実となり<ref>共和党フーバー、大差で大統領に当選『東京朝日新聞』昭和3年11月8日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p5-6昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>大統領就任が決定づけられた。 |
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=== 大統領職 === |
=== 大統領職 === |
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[[1928年アメリカ合衆国大統領選挙|前年の選挙]]で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、[[1929年]]3月4日に行われた[[アメリカ合衆国大統領就任式|就任式]]の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語った。しかし、その |
[[1928年アメリカ合衆国大統領選挙|前年の選挙]]で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、[[1929年]]3月4日に行われた[[アメリカ合衆国大統領就任式|就任式]]の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語った。しかし、その演説は彼の予想とは関係なく、ただ裏切られた。 |
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既に陰りが見えていたアメリカ経済は10月の[[世界恐慌]] |
既に陰りが見えていたアメリカ経済は10月の[[世界恐慌]]以降、未曾有の大不況に突入し、フーヴァーはこの対応に振り回されることになった。彼は、国民を鼓舞するためにも「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という[[古典派経済学]]の姿勢を貫くしかなく、国内においては政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。[[金本位制]]の維持に固執し、高金利政策と緊縮財政を断行した。一方で、復興金融公社の創設など、古典派経済学の政策から逸脱した施策も対処的に実施した。しかし対外的には[[スムート・ホーリー法|スムート=ホーリー法]]のもとで[[保護貿易]]政策をとった。このことが世界恐慌を深刻にさせた一因、とも指摘する論もある。 |
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恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、[[第一次世界大戦]]で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「[[フーヴァーモラトリアム|フーヴァー・モラトリアム]]」である。彼は、この政策を実行 |
恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、[[第一次世界大戦]]で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「[[フーヴァーモラトリアム|フーヴァー・モラトリアム]]」である。彼の政権は、この政策を実行して耐え忍ぶことにより、その1年間の間に景気は回復するだろうと考えていた。次代の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]が公約を反故にした[[ニューディール政策]]で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァー政権は政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることになってしまった。 |
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[[シカゴ]]のギャング・[[アル・カポネ]]の逮捕については |
[[シカゴ]]のギャング・[[アル・カポネ]]の逮捕については精力的であったものの、一方で、[[ボーナスアーミー]]と呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長[[ダグラス・マッカーサー]]に指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。 |
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結局フーヴァーは、世界恐慌に対して有効な政策が取れ |
結局フーヴァー政権は、未曾有の世界恐慌に対して有効な政策が取れなかった。救済は[[赤十字]]頼みとなり、[[1932年アメリカ合衆国大統領選挙|1932年の大統領選挙]]で対立候補の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40[[アメリカ合衆国の州|州]]以上で敗北する歴史的大敗を喫した。1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。 |
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在任期間中の[[1931年]][[3月3日]]にフーヴァーは、『[[星条旗 (国歌)|星条旗]]』をアメリカ合衆国の国歌として正式採用する法律に署名した。第28代大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]の下で食糧庁長官、第29代大統領[[ウォレン・ハーディング]]と第30代大統領[[カルビン・クーリッジ]]の下で商務長官(1921年 - 1929年)を務めたフーヴァーは、主要閣僚でない閣僚を経験して大統領の座についた数少ない大統領である。 |
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==== 内閣 ==== |
==== 内閣 ==== |
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[[Image:HerbertClarkHoover.jpg|thumb|right|200px|ラジオを聞くフーヴァー]] |
[[Image:HerbertClarkHoover.jpg|thumb|right|200px|ラジオを聞くフーヴァー]] |
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{|class=wikitable |
{|class="wikitable" |
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!職名!!氏名!!任期 |
!職名!!氏名!!任期 |
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|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]|| |
|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||ハーバート・フーヴァー||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]|| |
|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||[[チャールズ・カーティス]]||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||[[ヘンリー・L・スティムソン]]||1929年 - 1933年 |
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|rowspan=2|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]|| |
|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||[[アンドリュー・メロン]]||1929年 - 1932年 |
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|[[オグデン・L・ミルズ]]||1932年 - 1933年 |
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|rowspan=2|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]|| |
|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]||[[ジェイムズ・ウィリアム・グッド]]||1929年 |
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|[[パトリック・ジェイ・ハーリー]]||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||{{仮リンク|ウィリアム・D・ミッチェル|en|William D. Mitchell}}||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||{{仮リンク|ウォルター・F・ブラウン|en|Walter Folger Brown}}||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]||[[チャールズ・フランシス・アダムズ (3世)|チャールズ・フランシス・アダムズ]]||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||{{仮リンク|レイ・L・ウィルバー|en|Ray Lyman Wilbur}}||1929年 - 1933年 |
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|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]|| |
|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||[[アーサー・マスティック・ハイド]]||1929年 - 1933年 |
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|rowspan=2|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]|| |
|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||{{仮リンク|ロバート・P・ラモント|en|Robert P. Lamont}}||1929年 - 1932年 |
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|{{仮リンク|ロイ・D・チャピン|en|Roy D. Chapin}}||1932年 - 1933年 |
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|rowspan=2|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]|| |
|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||{{仮リンク|ジェームズ・J・デイヴィス|en|James J. Davis}}||1929年 - 1930年 |
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|{{仮リンク|ウィリアム・N・ドーク|en|William N. Doak}}||1930年 - 1933年 |
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=== 大統領職後 === |
=== 大統領職後 === |
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[[1938年]]にフーヴァーはヨーロッパ各地を訪れ、[[アドルフ・ヒトラー]]を始めとする多くの国家元首と会談した。 |
[[1938年]]にフーヴァーはヨーロッパ各地を訪れ、[[アドルフ・ヒトラー]]を始めとする多くの国家元首と会談した。 |
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[[1940年]]にフーヴァーは[[フィラデルフィア]]で行われた共和党大会で講演を行った。[[ド |
[[1940年]]にフーヴァーは[[フィラデルフィア]]で行われた共和党大会で講演を行った。[[ドリュー・ピアソン (ジャーナリスト)|ドリュー・ピアソン]]を含む多数のリポーターはフーヴァーが自身を大統領候補として考えていると報じた。フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにおける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。このことはチャールズ・ピーターズの『フィラデルフィアでの5日間』(''{{lang|en|Five Days in Philadelphia}}'')で詳述される。 |
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フーヴァーはアメリカは自国の防衛に当たるべきだとイギリスへの軍事援助、[[レンドリース法|レンド・リース・プログラム]]に強く反対した。[[真珠湾攻撃]]の際は参戦に賛成した |
フーヴァーはアメリカは自国の防衛に当たるべきだとイギリスへの軍事援助、[[レンドリース法|レンド・リース・プログラム]]に強く反対した。[[真珠湾攻撃]]の際は参戦に賛成した{{sfn|『Freedom Betrayed』|p={{要ページ番号|date=2023年10月}} }}。 |
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フーヴァーは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]とルーズベルトが[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に引き入れたことは、スターリンが共産主義を広める手助けになったと批判、スターリンはヒトラーと同じろくでなしで、彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを著書 |
フーヴァーは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]とルーズベルトが[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に引き入れたことは、スターリンが共産主義を広める手助けになったと批判、スターリンはヒトラーと同じろくでなしで、彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを著書『裏切られた自由』(''Freedom Betrayed'')で述べている(本自体の発行は2011年){{sfn|『Freedom Betrayed』|p={{要ページ番号|date=2023年10月}} }}。 |
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フーヴァーは後に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]司令官を解任された[[ダグラス・マッカーサー]]が、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアドバイスしている。この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従ったと思われる。 |
フーヴァーは後に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]司令官を解任された[[ダグラス・マッカーサー]]が、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアドバイスしている。この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従ったと思われる。 |
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戦後、第33代大統領[[ハリー・S・トルーマン]]は、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。 |
戦後、第33代大統領[[ハリー・S・トルーマン]]は、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。 |
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日本の食糧事情に関しては「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、[[強制収容所 (ナチス)|ドイツの強制収容所]]並みからそれ以下になるだろう」とし、食糧援助をマッカーサーなどに進言した{{sfn|『Freedom Betrayed』|p={{要ページ番号|date=2023年10月}} }}<ref name="sankei20111207">{{Cite web2 |author=佐々木類 |authorlink=佐々木類 |date=2011-12-07 |title=「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130415022616/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |archivedate=2013-04-15 |accessdate=2012-03-08 |website=MSN産経ニュース |publisher=産経新聞社 |df=ja}}</ref>(その結果援助された物資は、[[ガリオア資金]]で買い付けられたので「[[ガリオア物資]]」と呼ばれている)。また対日政策についても連合国軍総司令部に助言している。 |
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|editor = George H. Nash |
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|others = The Herbert Hoover Estate, The Herbert Hoover Foundation |
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|title = Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath (邦題:『裏切られた自由』) |
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|url = http://www.hooverpress.org/productdetails.cfm?PC=1470 |
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|accessdate = 2012-12-08 |
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|edition = 初版 |
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|date = 2011-11-07 |
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|publisher = Hoover Institution Press |
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|location = [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[スタンフォード大学]]内 |
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|language = [[英語]] |
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|isbn = 978-0-8179-1234-5 |
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|asin = 0817912347 |
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}}</ref>。日本の食糧事情に関しては「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、[[強制収容所 (ナチス)|ドイツの強制収容所]]並みからそれ以下になるだろう」とし、食糧援助をマッカーサーなどに進言した<ref name="sankei20111207" /><ref name="nash" />(その結果援助された物資は、[[ガリオア資金]]で買い付けられたので「ガリオア物資」と呼ばれている)。また対日政策についても連合国軍総司令部に助言している。 |
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1946年から[[1947年]]にかけての冬にはドイツに派遣された([[ドイツとオーストリアに対する大統領経済使節団|フーヴァー使節団]])。フーヴァーは[[ヘルマン・ゲーリング]]が使用した古い専用列車で西部ドイツ内を視察し、アメリカの占領政策に対して批判的な多くの報告書を作成し、ドイツ経済は「100年間で最低のレベルに沈んだ」{{sfn|Beschloss|2002|p=277}}と語った。[[冷戦]]が激しくなるとフーヴァーは以前強く支持したアメリカ・フレンド奉仕委員会への支援を保留した。 |
1946年から[[1947年]]にかけての冬にはドイツに派遣された([[ドイツとオーストリアに対する大統領経済使節団|フーヴァー使節団]])。フーヴァーは[[ヘルマン・ゲーリング]]が使用した古い専用列車で西部ドイツ内を視察し、アメリカの占領政策に対して批判的な多くの報告書を作成し、ドイツ経済は「100年間で最低のレベルに沈んだ」{{sfn|Beschloss|2002|p=277}}と語った。[[冷戦]]が激しくなるとフーヴァーは以前強く支持したアメリカ・フレンド奉仕委員会への支援を保留した。 |
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[[ファイル:Hoover1961dike.jpg|サムネイル|演説するフーヴァー(1961年)]] |
[[ファイル:Hoover1961dike.jpg|サムネイル|演説するフーヴァー(1961年)]] |
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1947年にトルーマンは行政部再編成委員会の委員にフーヴァーを任命し、議長に選出された。この委員会は後に[[フーヴァー委員会]]として知られるようになった。[[1953年]]には第34代大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が同様の委員会の議長に任命した。2つの委員会は多くの非効率で不要な物を削減した。 |
1947年にトルーマンは行政部再編成委員会の委員にフーヴァーを任命し、議長に選出された。この委員会は後に[[フーヴァー委員会]]として知られるようになった。[[1953年]]には第34代大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が同様の委員会の議長に任命した。2つの委員会は多くの非効率で不要な物を削減した。 |
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著書『裏切られた自由』の中で、太平洋戦争は、[[フランクリン・ルーズベルト]]が参戦を希求して日本を挑発し続けたことによって生じたものであり、開戦を回避することが可能だったと主張していた<ref>{{Cite web |title=裏切られた自由 : フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症 下 {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028600206 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-04-20 |language=ja}}</ref>。 |
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=== 死去 === |
=== 死去 === |
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フーヴァーは大統領退任から31年7か月後の1964年10月20日の午前11時35分に、[[ニューヨーク]]にて90歳で死去した。なお、彼は妻よりも20年長く生きた。その時点で、歴代大統領中で退任後最も長生きし<ref>2012年、[[ジミー・カーター]]によってこの記録は更新された。</ref>、(退任後の諸活動により)没するまでに自らのパブリック・イメージを改善することができた。フーヴァーは妻と共に[[アイオワ州]]ウェスト・ブランチのハーバート・フーヴァー大統領図書館に埋葬された。フーヴァーの葬儀は「国葬」として行われ、前年の[[ジョン・F・ケネディ]]、同年の[[ダグラス・マッカーサー]]に続き行われた。 |
フーヴァーは大統領退任から31年7か月後の1964年10月20日の午前11時35分に、[[ニューヨーク]]にて90歳で死去した。なお、彼は妻よりも20年長く生きた。その時点で、歴代大統領中で退任後最も長生きし<ref group="注釈">2012年、[[ジミー・カーター]]によってこの記録は更新された。</ref>、(退任後の諸活動により)没するまでに自らのパブリック・イメージを改善することができた。フーヴァーは妻と共に[[アイオワ州]]ウェスト・ブランチのハーバート・フーヴァー大統領図書館に埋葬された。フーヴァーの葬儀は「国葬」として行われ、前年の[[ジョン・F・ケネディ]]、同年の[[ダグラス・マッカーサー]]に続き行われた。 |
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== 能力、評価 == |
== 能力、評価 == |
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第39代大統領[[ジミー・カーター]]の著書によると、フーヴァーは[[フライフィッシング]]を趣味にしていたとのことである。 |
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フーヴァーは[[コロンビア大学]]から、[[トーマス・エジソン]]と並んで「アメリカ史上2人の偉大な技術者」として表彰されている。 |
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== 著作 == |
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* 『裏切られた自由 フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』 |
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**『フーバー大統領が明かす日米戦争の真実』(同:新書改訂版、2019年2月) |
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*井口治夫 |
* 井口治夫『誤解された大統領 フーヴァーと総合安全保障構想』[[名古屋大学出版会]]、2018年 |
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== 受賞歴 == |
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*1919年 - [[ワシントン賞]] |
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*1920年 - [[米国科学アカデミー]]より[[公共福祉メダル]] |
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*<!--執筆者は不詳-->「一千万人餓死説 深刻な食糧危機を救った放出物資」 |
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*高崎通浩『歴代アメリカ大統領総覧』[[中公新書ラクレ]]、2002年 |
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*[[宇佐美滋]]『アメリカ大統領を読む事典』講談社+α文庫、2000年 |
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*『裏切られた自由 ''Freedom Betrayed''』、訳書は上記 |
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2024年4月24日 (水) 09:26時点における最新版
ハーバート・フーヴァー Herbert Hoover | |
![]() | |
任期 | 1929年3月4日 – 1933年3月4日 |
---|---|
副大統領 | チャールズ・カーティス |
任期 | 1921年3月5日 – 1928年8月21日 |
大統領 | ウォレン・ハーディング カルビン・クーリッジ |
出生 | 1874年8月10日![]() ![]() |
死去 | 1964年10月20日(90歳没)![]() ![]() |
政党 | 共和党 |
出身校 | スタンフォード大学 |
配偶者 | ルー・ヘンリー・フーヴァー |
子女 | ハーバート・フーヴァー・ジュニア アラン・フーヴァー |
署名 | ![]() |
ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover、1874年8月10日 - 1964年10月20日)は、アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者。第31代アメリカ合衆国大統領、第3代アメリカ合衆国商務長官を歴任した。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1874年8月10日にアイオワ州ウェストブランチにて、クエーカー信者の一家に誕生した。幼くして両親を亡くした後、オレゴン州ニューバーグに転居した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Herbert_Hoover_in_1877.jpg/120px-Herbert_Hoover_in_1877.jpg)
1885年夏、フーヴァーは11歳の時におばのハンナの手製のごちそうの入ったバスケットを持ち、2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込み、ユニオン・パシフィックの列車に乗って西のオレゴン州へ向かった。アメリカ大陸の反対側で彼を待ったのは、おじで医者であり教育長のジョン・ミンソーンだった。後にフーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想した。
フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァー曰く「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼はチャールズ・ディケンズとウォルター・スコットの小説に夢中になった。『デイヴィッド・コパフィールド』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。
スタンフォード大学へ[編集]
1891年秋にカリフォルニア州パロアルトのスタンフォード大学に第1期生として入学する。在学中、野球チームやフットボールチームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を浴びた。
キャンパスの上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識も無い学生自治会の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の負債を返済することに成功した。
フーヴァーは地質学を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強した。ブラネル教授は彼のために夏休みの間アーカンソー州のオザーク山脈で地形の地図を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、1899年に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人ともスタンフォード大学を卒業している。
1895年5月、フーヴァーに知識・職業・妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りの無い人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
卒業後[編集]
卒業後、フーヴァーはオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後に清で鉱山の開発に従事した。1900年6月には天津租界で義和団によって、1か月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。
1907年から1912年にかけてフーヴァーとルーは、1556年出版という最も古くに印刷された技術的な論文の一つであるゲオルク・アグリコラの論文を翻訳した。この翻訳はアグリコラの論文の中で、最も信頼される英語翻訳となっている。
1921年、商務長官の地位にあったフーヴァーは、ヘンリー・カボット・ロッジや他の上院の共和党員の反対を退け、飢饉で苦しむソ連やドイツの人々への食糧支援を実施。評論家から、共産主義ロシアを助けたのではないかと問い合わせを受けると、「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と反論した。『ニューヨーク・タイムズ』は「10人の最も重要な生きているアメリカ人」にフーヴァーを選んだ。
1928年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党のアル・スミスに対して選挙戦を有利に展開。1928年11月7日の非公式集計において、過半数の選挙人を獲得したことが確実となり[1]大統領就任が決定づけられた。
大統領職[編集]
前年の選挙で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、1929年3月4日に行われた就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語った。しかし、その演説は彼の予想とは関係なく、ただ裏切られた。
既に陰りが見えていたアメリカ経済は10月の世界恐慌以降、未曾有の大不況に突入し、フーヴァーはこの対応に振り回されることになった。彼は、国民を鼓舞するためにも「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫くしかなく、国内においては政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。金本位制の維持に固執し、高金利政策と緊縮財政を断行した。一方で、復興金融公社の創設など、古典派経済学の政策から逸脱した施策も対処的に実施した。しかし対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策をとった。このことが世界恐慌を深刻にさせた一因、とも指摘する論もある。
恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、第一次世界大戦で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「フーヴァー・モラトリアム」である。彼の政権は、この政策を実行して耐え忍ぶことにより、その1年間の間に景気は回復するだろうと考えていた。次代の大統領フランクリン・ルーズベルトが公約を反故にしたニューディール政策で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァー政権は政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることになってしまった。
シカゴのギャング・アル・カポネの逮捕については精力的であったものの、一方で、ボーナスアーミーと呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーに指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。
結局フーヴァー政権は、未曾有の世界恐慌に対して有効な政策が取れなかった。救済は赤十字頼みとなり、1932年の大統領選挙で対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40州以上で敗北する歴史的大敗を喫した。1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。
在任期間中の1931年3月3日にフーヴァーは、『星条旗』をアメリカ合衆国の国歌として正式採用する法律に署名した。第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの下で食糧庁長官、第29代大統領ウォレン・ハーディングと第30代大統領カルビン・クーリッジの下で商務長官(1921年 - 1929年)を務めたフーヴァーは、主要閣僚でない閣僚を経験して大統領の座についた数少ない大統領である。
内閣[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4e/HerbertClarkHoover.jpg/200px-HerbertClarkHoover.jpg)
職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | ハーバート・フーヴァー | 1929年 - 1933年 |
副大統領 | チャールズ・カーティス | 1929年 - 1933年 |
国務長官 | ヘンリー・L・スティムソン | 1929年 - 1933年 |
財務長官 | アンドリュー・メロン | 1929年 - 1932年 |
オグデン・L・ミルズ | 1932年 - 1933年 | |
陸軍長官 | ジェイムズ・ウィリアム・グッド | 1929年 |
パトリック・ジェイ・ハーリー | 1929年 - 1933年 | |
司法長官 | ウィリアム・D・ミッチェル | 1929年 - 1933年 |
郵政長官 | ウォルター・F・ブラウン | 1929年 - 1933年 |
海軍長官 | チャールズ・フランシス・アダムズ | 1929年 - 1933年 |
内務長官 | レイ・L・ウィルバー | 1929年 - 1933年 |
農務長官 | アーサー・マスティック・ハイド | 1929年 - 1933年 |
商務長官 | ロバート・P・ラモント | 1929年 - 1932年 |
ロイ・D・チャピン | 1932年 - 1933年 | |
労働長官 | ジェームズ・J・デイヴィス | 1929年 - 1930年 |
ウィリアム・N・ドーク | 1930年 - 1933年 |
大統領職後[編集]
フーヴァーは退任後、スタンフォード大学に「フーヴァー研究所」を創設している。
1932年の大統領選挙で自身に大勝し、後任として大統領に就任したルーズベルトが行ったニューディール政策を批判し、国家主義傾向に対する警告を発した。その懸念を『自由への挑戦』(The Challenge to Liberty)を著し、アメリカが従来持ってきた自由主義に敵対するファシズム、共産主義、社会主義について語っている。
1938年にフーヴァーはヨーロッパ各地を訪れ、アドルフ・ヒトラーを始めとする多くの国家元首と会談した。
1940年にフーヴァーはフィラデルフィアで行われた共和党大会で講演を行った。ドリュー・ピアソンを含む多数のリポーターはフーヴァーが自身を大統領候補として考えていると報じた。フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにおける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。このことはチャールズ・ピーターズの『フィラデルフィアでの5日間』(Five Days in Philadelphia)で詳述される。
フーヴァーはアメリカは自国の防衛に当たるべきだとイギリスへの軍事援助、レンド・リース・プログラムに強く反対した。真珠湾攻撃の際は参戦に賛成した[2]。
フーヴァーはチャーチルとルーズベルトがスターリンを連合国側に引き入れたことは、スターリンが共産主義を広める手助けになったと批判、スターリンはヒトラーと同じろくでなしで、彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを著書『裏切られた自由』(Freedom Betrayed)で述べている(本自体の発行は2011年)[2]。
フーヴァーは後に、GHQ司令官を解任されたダグラス・マッカーサーが、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアドバイスしている。この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従ったと思われる。
第二次世界大戦後[編集]
戦後、第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。
日本の食糧事情に関しては「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、ドイツの強制収容所並みからそれ以下になるだろう」とし、食糧援助をマッカーサーなどに進言した[2][3](その結果援助された物資は、ガリオア資金で買い付けられたので「ガリオア物資」と呼ばれている)。また対日政策についても連合国軍総司令部に助言している。
1946年から1947年にかけての冬にはドイツに派遣された(フーヴァー使節団)。フーヴァーはヘルマン・ゲーリングが使用した古い専用列車で西部ドイツ内を視察し、アメリカの占領政策に対して批判的な多くの報告書を作成し、ドイツ経済は「100年間で最低のレベルに沈んだ」[4]と語った。冷戦が激しくなるとフーヴァーは以前強く支持したアメリカ・フレンド奉仕委員会への支援を保留した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/Hoover1961dike.jpg/220px-Hoover1961dike.jpg)
1947年にトルーマンは行政部再編成委員会の委員にフーヴァーを任命し、議長に選出された。この委員会は後にフーヴァー委員会として知られるようになった。1953年には第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが同様の委員会の議長に任命した。2つの委員会は多くの非効率で不要な物を削減した。
著書『裏切られた自由』の中で、太平洋戦争は、フランクリン・ルーズベルトが参戦を希求して日本を挑発し続けたことによって生じたものであり、開戦を回避することが可能だったと主張していた[5]。
死去[編集]
フーヴァーは大統領退任から31年7か月後の1964年10月20日の午前11時35分に、ニューヨークにて90歳で死去した。なお、彼は妻よりも20年長く生きた。その時点で、歴代大統領中で退任後最も長生きし[注釈 1]、(退任後の諸活動により)没するまでに自らのパブリック・イメージを改善することができた。フーヴァーは妻と共にアイオワ州ウェスト・ブランチのハーバート・フーヴァー大統領図書館に埋葬された。フーヴァーの葬儀は「国葬」として行われ、前年のジョン・F・ケネディ、同年のダグラス・マッカーサーに続き行われた。
能力、評価[編集]
大恐慌のときに有効な手を打てなかったので、大統領としての評価は低い。だが、自身が大統領になる前にウィルソン、ハーディング、クーリッジの下で閣僚として働き、第二次世界大戦後はトルーマン、アイゼンハワーの下で働いた。また1962年のキューバ危機では、当時生存していた3人の元大統領の1人としてケネディ大統領の状況説明会に参加している。ルーズベルト政権には参加こそしなかったが、ルーズベルトもフーヴァーが大統領になる前、「彼の下なら喜んで働きたい」と発言したほどである。こうして見ると、歴代大統領はそろってフーヴァーを高く評価していたことがわかる。彼は技師、経営者として非常に優秀であった。もし大統領時代に大恐慌に直面していなかったら(あるいは有効な手を打てていたら)、大統領として高い評価を得ていた可能性も皆無ではない。一般的に世界恐慌の時に何もしなかった大統領のイメージがあるが、それは間違いで、鉄道公社の救済や失業者に無償で資金を出すなど様々な対策を行っていた。
第39代大統領ジミー・カーターの著書によると、フーヴァーはフライフィッシングを趣味にしていたとのことである。
魚釣りをしていると、人間社会の騒々しい鉄槌から逃避できる。私が自由な天地に逍遥することができる、ただ1つの慰みである。 — ハーバート・フォーヴァー(1946年)、Addresses Upon the Road: World War II, 1941-1945[6]
フーヴァーはコロンビア大学から、トーマス・エジソンと並んで「アメリカ史上2人の偉大な技術者」として表彰されている。
著作[編集]
- 『裏切られた自由 フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』
- ジョージ・H・ナッシュ 編、渡辺惣樹 訳(草思社(上・下)、2017年7月 - 11月)
解説書[編集]
- 渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社、2017年7月/草思社文庫、2020年12月)
- 藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』(勉誠出版、2016年1月)、序文:加瀬英明
- 『フーバー大統領が明かす日米戦争の真実』(同:新書改訂版、2019年2月)
研究評伝[編集]
- 井口治夫『誤解された大統領 フーヴァーと総合安全保障構想』名古屋大学出版会、2018年
受賞歴[編集]
- 1919年 - ワシントン賞
- 1920年 - 米国科学アカデミーより公共福祉メダル
- 1929年 - ジョン・フリッツ・メダル
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 共和党フーバー、大差で大統領に当選『東京朝日新聞』昭和3年11月8日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p5-6昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ a b c 『Freedom Betrayed』, p. [要ページ番号].
- ^ 佐々木類 (2011年12月7日). "「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判". MSN産経ニュース. 産経新聞社. 2013年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月8日閲覧。
- ^ Beschloss 2002, p. 277.
- ^ “裏切られた自由 : フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症 下 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年4月20日閲覧。
- ^ "Herbert Hoover quote: To go fishing is the chance to wash one's soul..." AZ Quotes (英語). 2023年10月25日閲覧。
参考文献[編集]
- Nash, George H., ed (2011-11-07) (英語). Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. The Herbert Hoover Estate, The Herbert Hoover Foundation (1st ed.). アメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォード大学内: Hoover Institution Press. ISBN 978-0-8179-1234-5『裏切られた自由』の原著。
- Beschloss, Michael R. (2002) (英語), The Conquerors: Roosevelt, Truman and the Destruction of Hitler's Germany, 1941-1945 (1st ed.), Simon & Schuster, ISBN 978-0-6848-1027-0
- 「一千万人餓死説 深刻な食糧危機を救った放出物資」
- 『昭和二万日の全記録⑦-廃墟からの出発』 講談社、1989年
- 高崎通浩『歴代アメリカ大統領総覧』中公新書ラクレ、2002年
- 宇佐美滋『アメリカ大統領を読む事典』講談社+α文庫、2000年
- 『裏切られた自由 Freedom Betrayed』、訳書は上記
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Herbert Hoover Presidential Library
- Hoover Presidential Library Association
- Herbert Hooverの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Hoover and Agricola
- Hoover translation of Agricola: De Re Metallica The Mining Magazine, 1912
- Inaugural Address
- Audio clips of Hoover's speeches
- White House Biography
- American President.org Biography
- Herbert Hoover First State of the Union Address
- Herbert Hoover Second State of the Union Address
- Herbert Hoover Third State of the Union Address
- Herbert Hoover Fourth State of the Union Address
- Herbert Hoover Links
- Medical and Health history of Herbert Hoover
- Brief Synapse of Herbert Hoover
- Herbert Hoover's 1946 - 1947 factfinding mission to Germany. (Report No.1), (Report No.3)
公職 | ||
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先代 カルビン・クーリッジ |
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次代 フランクリン・ルーズベルト |
先代 ジョシュア・ウィリス・アレグザンダー |
![]() 第3代:1921年3月5日 - 1928年8月21日 |
次代 ウィリアム・フェアフィールド・ホワイティング |
- ハーバート・フーヴァー
- 19世紀アメリカ合衆国の政治家
- 20世紀アメリカ合衆国の政治家
- 19世紀アメリカ合衆国の著作家
- 20世紀アメリカ合衆国の著作家
- 19世紀のクエーカー
- 20世紀のクエーカー
- アメリカ合衆国の大統領
- アメリカ合衆国商務長官
- アメリカ合衆国の技術者
- アメリカ合衆国の地質学者
- アメリカ合衆国の人道支援家
- アメリカ合衆国の反共主義者
- アメリカ合衆国のクエーカー
- アメリカ合衆国の回想録作家
- アメリカ合衆国の男性ノンフィクション作家
- アメリカ合衆国の鉱山技術者
- 公共福祉メダルの受賞者
- フーヴァー・メダルの受賞者
- 北清事変の人物
- 訪日外国人
- スタンフォード大学理事
- イングランド系アメリカ人
- オランダ系アメリカ人
- スイス系アメリカ人
- ドイツ系アメリカ人
- スタンフォード大学出身の人物
- アイオワ州の人物
- 1874年生
- 1964年没