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{{参照方法|date=2019年6月}}
{{Infobox 学者
{{Infobox 学者
| name = ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー
| name = ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー
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'''ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー''' ({{Ru|Николай Александрович Невский}}, {{En|Nikolai Aleksandrovich Nevsky}}, [[1892年]][[3月3日]](ロシア暦:[[2月20日]])- [[1937年]][[11月24日]]) は、[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ソ連]]の東洋[[言語学者]]・[[東洋学者]]・[[民俗学者]]。
'''ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー''' ({{Ru|Николай Александрович Невский}}, {{En|Nikolai Aleksandrovich Nevsky}}, [[1892年]][[3月3日]](ロシア暦:[[2月20日]])- [[1937年]][[11月24日]]) は、[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ソ連]]の東洋[[言語学者]]・[[東洋学者]]・[[民俗学者]]。


日本でロシア語を教えながら多くの学者と交友を深め、[[民俗学#日本民俗学|日本民俗学]][[アイヌ語]]・[[宮古島方言]]・[[ツォウ語]][[西夏語]]などの研究を行った
日本で、[[イヌ]]・[[宮古島方言]]・[[民俗学#日本民俗学|日本民俗学・]]台湾の[[ツォウ語]]、特に、[[西夏語]]研究ではこの分野の第一人者として没後、評価される。帰国後、社会主義革命が勃発し、日本人妻イソが日本国のスパイとされ、妻と共に銃殺刑に遭う

夫人は日本人。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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この頃、「ルィビンスク在住の[[タタール人]]と知り合い{{Sfn|加藤|2011|p=18}}」、[[タタール語]]を習った。また、友人に影響され、「独学で[[アラビア文字]]を覚えた{{Sfn|加藤|2011|p=18}}」。
この頃、「ルィビンスク在住の[[タタール人]]と知り合い{{Sfn|加藤|2011|p=18}}」、[[タタール語]]を習った。また、友人に影響され、「独学で[[アラビア文字]]を覚えた{{Sfn|加藤|2011|p=18}}」。


1909年、ルィビンスク中学校を銀メダルで卒業した後、[[ペテルブル大学]]東洋語学部とペテルブル工芸専門学校の両校に合格するが、叔母の意嚮で後者に進学する{{Sfn|加藤|2011|p=19}}。
1909年、ルィビンスク中学校を銀メダルで卒業した後、[[サンクトペテルブル大学]]東洋語学部とサンクトペテルブル工芸専門学校の両校に合格するが、叔母の意嚮で後者に進学する{{Sfn|加藤|2011|p=19}}。1910年夏に退学し、東洋語学部に入校し直し、中国語・日本語を専攻する{{Sfn|加藤|2011|p=20}}。[[レフ・シュテルンベルク]]([[民族学]])、[[:en:Vasily Mikhaylovich Alekseyev|V・アレクセエフ]]([[中国学]])、[[ヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ|ボーダン・ド・クルトネ]](言語学)、[[ワシーリィ・バルトリド|V・バルトリド]](中央アジア史)らに教えを受けた{{Sfn|加藤|2011|p=22}}。シュテルンベルクは1904年から1914年まで、人類学・民族学博物館で学生主催の民族学講義に参加していた{{Sfn|加藤|2011|p=34,35}}。中国語の教師として[[アレクセイ・イワノビッチ・イワノフ]]もいた{{Sfn|加藤|2011|p=33}}。

しかし1910年夏に退学し、まだ在籍扱いだったペテルブルグ大学東洋語学部に入校し直し、『専門として中国語・日本語を選んだ{{Sfn|加藤|2011|p=20}}』。ネフスキーは、[[ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・アレクセーエフ|V・アレクセエフ]]([[中国学|支那学]])、[[ヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ|ボーダン・ド・クルトネ]](言語学)、[[ワシーリィ・バルトリド|V・バルトリド]](中央アジア史)、[[レフ・シュテルンベルク|シュテルンベルグ]](民族学)らに直接教えを受けた{{Sfn|加藤|2011|p=22}}。1904年から1914年までシュテルンベルグが人類学・民族学博物館で学生グループに行っていた民族学の講義に、彼は参加していた{{Sfn|加藤|2011|p=34,35}}。学部には中国語の教師として、[[アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフ|A・イワノフ]]もいた{{Sfn|加藤|2011|p=33}}。


=== 日本留学 ===
=== 日本留学 ===
1913年、日本に二ヶ月間旅行に出掛け、東京に滞在し日本文学を研究した{{Sfn|加藤|2011|p=46}}。[[1914年]]に大学卒業後、教授候補者として勉学を重ねた{{Sfn|加藤|2011|p=47}}。1915年、大学の官費留学生として2年間の予定で日本に留学する{{Sfn|加藤|2011|p=47}}。7月に東京につき、菊富士ホテルに逗留、約半年後に東京大学に通っていた[[ニコライ・コンラド]]とともに本郷駒込林町に一戸を構え{{Sfn|加藤|2011|p=70}}、ともに漢学者[[高橋天民]]から漢文を習った{{Sfn|加藤|2011|p=71}}。その後、[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]を通して[[柳田國男]]・[[折口信夫]]・[[金田一京助]]・[[山中共古]]・[[佐々木喜善]]らと知り合う{{Sfn|加藤|2011|p=71,72}}。{{要出典範囲|[[新村出]]・[[羽田亨]]らとも親交を結んだ|date=2020年3月}}。
1913年、日本に二ヶ月間旅行に出掛け、東京に滞在し日本文学を研究した{{Sfn|加藤|2011|p=46}}。[[1914年]]に大学卒業後、教授候補者として勉学を重ねた{{Sfn|加藤|2011|p=47}}。1915年、大学の官費留学生として2年間の予定で日本に留学する{{Sfn|加藤|2011|p=47}}。7月に東京につき、[[菊富士ホテル]]に逗留、約半年後に東京大学に通っていた[[ニコライ・コンラド]]とともに本郷駒込林町に一戸を構え{{Sfn|加藤|2011|p=70}}、ともに漢学者[[高橋天民]]から漢文を習った{{Sfn|加藤|2011|p=71}}。その後、[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]を通して[[柳田國男]]・[[折口信夫]]・[[金田一京助]]・[[山中共古]]・[[佐々木喜善]]らと知り合う{{Sfn|加藤|2011|p=71,72}}。{{要出典範囲|[[新村出]]・[[羽田亨]]らとも親交を結んだ|date=2020年3月}}。しかし、留学終了予定だった1917年、[[ロシア革命]]と[[ロシア内戦]]が起こり、本国からの送金が停止されて働かなければいけなくなった上に、健康をも害し、帰国を断念する{{Sfn|加藤|2011|p=81}}。


ネフスキーの日本語による最初の発表物は、1918年8月に日本の雑誌『土俗と伝統』に掲載された記事「農業に関する血液の土俗」と見なされていたが{{Sfn|加藤|2011|p=87,88}}、桧山真一<ref>Синъити Хияма. Кто такой Николай Соснин — автор статьи «Еще один взгляд на постоянные эпитеты в традиционной японской поэзии»? (檜山真一 『冠辞異考』の筆者・露国留学生ニコライ・ソスニンとは誰のことか)"- доклад на Конференции Общества «Муза» по изучению русской и советской литературы, 11 декабря 1999 г. (ロシア・ソヴェート文学例会[むうざ]での口頭報告、1999年12月11日、)</ref>、6か月前1918年2月雑誌『[[太陽 (博文館)|太陽]]』に、ニコラ・ソスニン<ref>ニコライ・アレクサンドロヴィチ・サスニン(Николай Александрович Соснин)はN.A.ネフスキーの母方の祖父。</ref>という仮名で発表した記事「冠辞異考」を見つけた<ref>''Икута М.'' Новые факты из наследия Н. А. Невского // Социологические, этнологические и лингвистические проблемы современности: Тезисы докладов международной научной конференции, посвящённой 110-летию учёного-востоковеда Н. А. Невского. — Рыбинск: Рыбинская государственная авиационная технологическая академия (РГАТА), 2002. — С. 4.<br>生田美智子, N. A.ネフスキーの遺産からの新しい事実//現在の社会学的、民族学的、言語学的問題:東洋学者N. A.ネフスキー生誕110周年記念国際科学会議の要約。 -ルイビンスク:ルイビンスク州航空技術大学(Рыбинская государственная авиационная технологическая академия, РГАТА)、2002年。-P. 4。</ref>。
しかし留学終了予定だった1917年、[[ロシア革命]]と[[ロシア内戦]]が起こり、本国からの送金が停止されて働かなければいけなくなった上に、健康をも害し、帰国を断念する{{Sfn|加藤|2011|p=81}}。


1919年から[[小樽高等商業学校]](現・[[小樽商科大学]])でロシア語教師を務める{{Sfn|加藤|2011|p=90}}。
通常、ネフスキーの日本語による最初の発表物は、1918年8月に日本の雑誌『土俗と伝統』に掲載された記事「農業に関する血液の土俗」と見なされてい{{Sfn|加藤|2011|p=87,88}}。しかし日本の研究者桧山真一<ref>Синъити Хияма. Кто такой Николай Соснин — автор статьи «Еще один взгляд на постоянные эпитеты в традиционной японской поэзии»? (檜山真一 『冠辞異考』の筆者・露国留学生ニコライ・ソスニンとは誰のことか)"- доклад на Конференции Общества «Муза» по изучению русской и советской литературы, 11 декабря 1999 г. (ロシア・ソヴェート文学例会[むうざ]での口頭報告、1999年12月11日、)</ref>その6か月前1918年2月の日本の雑誌『[[太陽 (博文館)|太陽]]』に、ニコラ・ソスニン<ref>ニコライ・アレクサンドロヴィチ・サスニン(Николай Александрович Соснин)はN.A.ネフスキーの母方の祖父。</ref>という仮名でネフスキーが発表した記事「冠辞異考」を見つけた<ref>''Икута М.'' Новые факты из наследия Н. А. Невского // Социологические, этнологические и лингвистические проблемы современности: Тезисы докладов международной научной конференции, посвящённой 110-летию учёного-востоковеда Н. А. Невского. — Рыбинск: Рыбинская государственная авиационная технологическая академия (РГАТА), 2002. — С. 4.<br>生田美智子, N. A.ネフスキーの遺産からの新しい事実//現在の社会学的、民族学的、言語学的問題:東洋学者N. A.ネフスキー生誕110周年記念国際科学会議の要約。 -ルイビンスク:ルイビンスク州航空技術大学(Рыбинская государственная авиационная технологическая академия, РГАТА)、2002年。-P. 4。</ref>。


1919年から[[小樽高等商業学校]](現・[[小樽商科大学]])でロシア語教師を務める{{Sfn|加藤|2011|p=90}}。1921年から翌22年頭にかけ、東京滞在[[宮古島方言]]と[[アイヌ語]]を研究した{{Sfn|加藤|2011|p=117}}。宮古島方言を、当時[[東京高等師範学校]]に通っていた[[上運天賢敷]](後に[[稲村賢敷]]と改姓、郷土史家となる)から学んだ{{Sfn|加藤|2011|p=120}}。[[コポアヌ]]と[[タネサンノ]]という二人の老女からアイヌ語を習い、[[ユカラ]]や[[ウエペケレ]]、[[ウパシクマ]]を記録した{{Sfn|加藤|2011|p=122}}。その[[大阪外国語学校 (旧制)|大阪外国語学校]]に赴任してからも、[[鍋沢ワカルパ]]の娘[[鍋沢ユキ]]を女中として半年ほど雇いアイヌ語の研究を続け{{Sfn|加藤|2011|p=122}}。
1921年から東京滞在中、[[アイヌ語]]と[[宮古島方言]]を研究した{{Sfn|加藤|2011|p=117}}。アイヌ語は2人の[[アイヌ]]老女([[コポアヌ]]と[[タネサンノ]]から習い、メノコ[[ユカラ|ユカㇻ]](女が語る叙事詩)や[[ウエペケレ|ウェぺケㇾ(昔話)]]、[[ウパシクマ|ウパシクマ(言い伝え)]]を記録した{{Sfn|加藤|2011|p=122}}。1922年大阪外国語学校に赴任してからも、ユカㇻの高名な伝承者である[[鍋沢ワカルパ]]の娘[[鍋沢ユキ]]を半年ほど雇いアイヌ語の研究を続け{{Sfn|加藤|2011|p=122}}、膨大な数のロシア語訳を残し、その論文集は『アイヌのフォークロア(民俗)』の題名で[[1972年]]ソ連で出版された

宮古島方言は東京高等師範学校に通っていた[[上運天賢敷]](後に[[稲村賢敷]]と改姓、郷土史家となる)から学んだ{{Sfn|加藤|2011|p=120}}。


=== 結婚 ===
=== 結婚 ===
1917年頃、住み込みで家事をしていた前山光子と恋仲になり、1919年娘若子が生まれる{{Sfn|加藤|2011|p=360}}。ネフスキーは結婚を申し込んだが光子の母が籍に入ってソ連に行くことに反対したため、挙式のみした{{Sfn|加藤|2011|p=360,361}}。若子は後埼玉県白子村に里子に出た{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。1919年、ネフスキーが小樽高商のロシア語教師になってしばらくは3人で小樽で暮らし、男児も生まれたがすぐに亡くなった{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。その後、理由や時期は不明だが別れる{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。若子は東洋英和女学院に進学し、[[真崎甚三郎]]の子[[真崎秀樹]]と婚約を交わていたが{{要出典範囲|中退し|date=2020年3月}}、[[肺結核]]により20歳で亡くなっている{{Sfn|加藤|2011|p=362}}。
1917年頃、住み込みで家事をしていた前山光子と恋仲になり、1919年若子が生まれる{{Sfn|加藤|2011|p=360}}。結婚を申し込んだが光子の母がソ連に行くことに反対したため、挙式のみした{{Sfn|加藤|2011|p=360,361}}。は後埼玉県白子村に里子に出された{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。小樽高商のロシア語教師にな、男児も生まれたがすぐに亡くな{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。その後、理由は不明だが別れる{{Sfn|加藤|2011|p=361}}。娘、若子は[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]]に進学したが中退、[[真崎甚三郎]]の子[[真崎秀樹]]と婚約したが、[[肺結核]]により20歳で亡くなっている{{Sfn|加藤|2011|p=362}}。

1921年夏、小樽高商の[[ドイツ人]]教師を介し、原稿整理や資料収集のアシスタントとして、北海道[[後志国]][[積丹郡]][[入舸村]](現・[[積丹町]])の網元の長女萬谷(よろずや)イソ(磯子、芸名は旭輦(きょくれん){{Sfn|加藤|2011|p=163}})と知り合い{{Sfn|加藤|2011|p=128}}、1922年結婚する{{Sfn|加藤|2011|p=316}}。1928年53、娘のエレナ(愛称ネリ)が生まれる{{Sfn|加藤|2011|p=196}}。


正式な結婚登録は、帰国前の1929年6月12日神戸のソ連総領事館で行っていた{{Sfn|加藤|2011|p=130}}。
1921年夏、小樽高商のドイツ人教師を介し、原稿整理や資料収集のアシスタントとして、北海道後志国積丹郡入舸村の網元の長女萬谷イソ(磯子、芸名は旭輦{{Sfn|加藤|2011|p=163}})と知り合い{{Sfn|加藤|2011|p=128}}、1922年結婚する{{Sfn|加藤|2011|p=316}}。1928年日、娘のエレナ(ネリ)が生まれる{{Sfn|加藤|2011|p=196}}。正式な結婚登録は、1929年6月12日神戸にあったソ連総領事館で行った{{Sfn|加藤|2011|p=130}}。エレナは両親が処刑された後に同僚の学者[[ニコライ・コンラド]]や3家族に引き取られて育った{{Sfn|加藤|2011|p=333}}。


=== 大阪時代 ===
=== 大阪時代 ===
1922年4月、[[大阪外国語学校 (旧制)|大阪外国語学校]](現・[[大阪大学]][[外国語学部]])でロシア語教師として教鞭を執ることとなり、大阪へ転居する{{Sfn|加藤|2011|p=131}}。
1922年4月、大阪外国語学校(現・[[大阪大学]][[外国語学部]])でロシア語教師として教鞭を執ることとなり、転居する{{Sfn|加藤|2011|p=131}}。


その後、ネフスキーは1922年夏、26年夏、28年の3度[[宮古群島]]へ出かけ、民俗、民謡([[アーグ]][[アヤゴ]])などの調査を行っておりその成果を雑誌『民族』などに発表したり、方言辞典編纂のためにカードやノートをまとめたりした{{Sfn|加藤|2011|p=131}}。1回目の旅行では、上運天も同行した。ネフスキーは、[[東恩納寛惇]]や[[伊波普猷]]とも親しく手紙をやり取りしていた{{Sfn|加藤|2011|p=159}}。
1922年夏、26年夏、28年の3度[[宮古群島]]へ出かけ、民俗、民謡(アーグ、アヤゴ)などの調査を行、雑誌『民族』などに発表方言辞典編纂のためにカードやノートをまとめたりした{{Sfn|加藤|2011|p=131}}。1回目の調査旅行では、上運天も同行した。[[東恩納寛惇]]や[[伊波普猷]]とも親しく手紙をやり取りしていた{{Sfn|加藤|2011|p=159}}。


1925年、中国調査旅行、[[中国学者]]アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフとの出会いを機に、[[カラ・ホト]]の[[西夏語]]のテキストの研究と西夏文字の解読に着手し始める。
1927年6月には大阪外国語学校のマレー語の教授で親しかった[[浅井恵倫]]とともに台湾へ言語調査に行く{{Sfn|加藤|2011|p=165}}。それぞれ、浅井は[[セデック族]]の[[セデック語]]、ネフスキーは[[ツォウ族]]の[[ツォウ語]]を対象に、原住民から直接神話や伝説を聞きながら音声や文法を導出するという方法で調査した{{Sfn|加藤|2011|p=165}}。彼は、タナンギ在住で日本語が上手な{{Sfn|加藤|2011|p=170}}青年[[ウオグ・エ・ヤタウヨガナ|ウォンギ・ヤタユンガナ]](日本語名[[矢多一生|矢田一生]])とその兄パスヤ(同次郎)からツォウ語の話を聞き取った{{Sfn|加藤|2011|p=169}}。


ネフスキーは[[石浜純太郎]]と親しくなり、その蔵書と学識助けながら西夏語西夏字へと関心向けてくことなる{{Sfn|加藤|2011|p=183,184}}。1927年7月、ネフスキーは、4年前に大阪外国語学校で結成した大阪東洋学会を、石浜純太郎、[[高橋盛孝]]、浅井恵倫、[[笹谷良造]]らとともに発展させ「静安学社」とし、幹事の一人に就任する。静安学社の名は、結成直近に亡くなっていた[[西夏学]]者[[王国維]]の字の静安からとった{{Sfn|加藤|2011|p=189}}。
1927年6月、[[マレー語]]教授[[浅井恵倫]]と台湾へ調査に行く{{Sfn|加藤|2011|p=165}}。浅井は[[セデック語]]、ネフスキーは[[ツォウ語]]を対象、[[台湾原住民]]か直接神話や伝説を聞きながら音声や文導出するとう方法で調査した{{Sfn|加藤|2011|p=165}}。タナンギ在住中は{{Sfn|加藤|2011|p=170}}[[ウオグ・エ・ヤタウヨガナ|ウォンギ・ヤタユンガナ]](日本語名[[矢多一生|矢田一生]])その兄パスヤ(同次郎)からツォウ語の話を聞き取った{{Sfn|加藤|2011|p=169}}。年7月、大阪外国語学校で結成した大阪東洋学会を、[[石濱純太郎|石浜純太郎]]、[[高橋盛孝]]、[[浅井恵倫]]、[[笹谷良造]]らとともに発展させ「静安学社」改名、幹事の一人に就任静安学社の名は、結成直近に亡くなった[[西夏学]]者[[王国維]]の字の静安からとったものであった){{Sfn|加藤|2011|p=189}}。


更に、石浜純太郎との交友から、西夏語や西夏文字への研究関心が向けられ{{Sfn|加藤|2011|p=183,184}}、西夏語文書を理解し、文法を再構、西夏語・英語・ロシア語による西夏語辞典を編纂。この学術的功績は没後、1960年刊行された西夏語の近代辞書で、千ページにわたる西夏語の辞書の草稿として「タングーツカヤ・フィロローギヤ」(西夏語[[文献学]]/Tangut Philology )の題で出版、新世代の学者に西夏語テキスト研究の門戸を開いた。1962年、[[レーニン賞]]が与えられた。
この頃、ネフスキーは大阪外国語学校以外に[[京都帝国大学]](現・[[京都大学]])文学部でも講師として{{Sfn|加藤|2011|p=200}}ロシア語を教えたが教え子の中には[[石田英一郎]]、高橋盛孝、[[田村実造]]がいた{{Sfn|加藤|2011|p=190}}。

[[京都帝国大学]](現・[[京都大学]])文学部でも{{Sfn|加藤|2011|p=200}}ロシア語を教え、子の中には[[石田英一郎]]、高橋盛孝、[[田村実造]]がいた{{Sfn|加藤|2011|p=190}}。


=== ソ連への帰国後 ===
=== ソ連への帰国後 ===
[[1929年]]9月、敦賀港から[[ソビエト]]連邦共和国となった祖国に単身帰国、レニングラード大学(旧[[サンクトペテルブルク大学|ペテルブルク大学]])の助教授とな{{Sfn|加藤|2011|p=205}}。の1933年11月4日、妻のイソと娘のリがレニングラードに到着し、で暮し始めた{{Sfn|加藤|2011|p=217,218}}。
[[1929年]]9月、[[敦賀港]]から[[ソビエト]]連邦共和国となった祖国に単身帰国、レニングラード大学(旧[[サンクトペテルブルク大学|ペテルブルク大学]])東洋学研究所で助教授となり、{{Sfn|加藤|2011|p=205}}イワノフと共に、カラ・ホトの西夏語のテキストの研究と西夏文字の解読に着手した[[ロシア]]探検家[[ピョートル・コズロフ]]によりカラ・ホトで見つかった語彙資料に基づいて西夏語の辞書編纂に取り組んだ。1933年11月4日、妻のイソと娘のがレニングラードに到着する{{Sfn|加藤|2011|p=217・218}}が、1937年[[10月4日]]、日本国のために[[スパイ]]活動を行ったとて[[内務人民委員部]](NKVD)によって逮捕され{{Sfn|加藤|2011|p=332}}翌月24日、夫妻は「国叛逆罪」により[[大粛清]](銃殺刑)された{{Sfn|加藤|2011|p=340}}。娘エレナは両親の処刑後、[[ニコライ・コンラド]]や3家族に引き取れ、のちに医師になった{{Sfn|加藤|2011|p=333}}<ref>『本郷菊富士ホテル』近藤冨枝、中公文庫、2012、p52</ref>


== 没後 ==
しかし1937年[[10月4日]]、日本のためにスパイ活動を行ったとしてネフスキーが、4日後にはイソが逮捕され{{Sfn|加藤|2011|p=332}}、翌月24日[[レニングラード]]において夫妻は「国家叛逆罪」により[[粛清]](銃殺刑)された([[スターリン粛清]]){{Sfn|加藤|2011|p=340}}。
[[1957年]][[11月14日|11月14日、]][[スターリン批判]]により、ベラルーシ軍事法廷でネフスキー、1958年2月18日にレニングラード軍管区法廷でイソの名誉回復がなされ{{Sfn|加藤|2011|p=341}}{{Sfn|加藤|2011|p=345}}。


2018927日、ネフキー小樽訪問100年目を記念し、音楽朗読劇「島へ ニコライ・ネフスキー人生の旅」(作・演出:垣花理恵子)が、[[小樽市]]民センター・マリンホールで上演された。小樽高等商業学校(現・小樽商科大)で3年間の教師生活の様子や、入舸村(現・積丹町)生まれの妻イソとの出会いを、宮古島の古謡や旧ソ連の音楽を交えて描かれた。9月29日には、同じ演目が[[道北]]の[[下川町]]民館で行われた。11月にはパネル展や講開かれた。<br>2020年3月14・15日には、同作品の公演が[[在ウラジオストク日本領事館]]の主催で、ロシア・[[沿海地方]]の[[マリインスキー劇場沿海州別館]]小ホールで行われた。チェロは当劇場首席奏者の[[オレグ・センデツキー]]。宮古島古謡第一人者[[與那城美和]]は日本から参加た<ref>[https://www.facebook.com/529635777159478/posts/750161295106924/ 在ウラジオストク日本領事館・イベント(2020年3月16日掲載)]</ref><ref>[https://prim.mariinsky.ru/playbill/playbill/2020/3/15/1_1500?fbclid=IwAR0S76_Yhj1mh0BrBL2XA_oJfzlOj4ugQB-dDI_RVeef_EP95JM-s3KYw2U Острова любви --- Жизненный путь востоковеда Николая Невского (Prim.marinsky.ru)] (ロシア語)</ref>。
== レガシー ==
その後の[[スターリン批判]]によって[[1957年]][[11月14日]]にベラルーシ軍事法廷でネフスキー58年2月18日にレニングラード軍管区法廷でイソの名誉回復がなされ{{Sfn|加藤|2011|p=341}}、[[1962年]]には生前の業績に対して[[レーニン賞]]が授与された{{Sfn|加藤|2011|p=345}}。


== 著書 ==
2020314日および15日、在[[ウラジオトク]]日本領事館の主催で音楽朗読劇「島へ ニコライ・ネフスキー 人生の旅」の公演が[[マリインスキー劇場沿海州別館]]小ホールで行われた。当劇場首席チェロ奏者宮古島古謡の歌い手など日本から参加者も入れて、ネフスキーの業績をたたえた<ref>[https://www.facebook.com/529635777159478/posts/750161295106924/ 在ウラジオストク日本領事館・イベント(2020年3月16日掲載)]</ref><ref>[https://prim.mariinsky.ru/playbill/playbill/2020/3/15/1_1500?fbclid=IwAR0S76_Yhj1mh0BrBL2XA_oJfzlOj4ugQB-dDI_RVeef_EP95JM-s3KYw2U Острова любви --- Жизненный путь востоковеда Николая Невского (Prim.marinsky.ru)] (ロシア語)</ref>。これは北海道ですでに2回行われた公演が、ロシアでも行われたものである


*ネフスキー『月と不死』<ref>表題は『沖縄文化論集』にも収録。新版・[[角川ソフィア文庫]]、2022年</ref> [[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]], 1971年。日本語で発表された論考集。[[岡正雄]]編解説は加藤。2003年にワイド版が刊
== 関連文献 ==
*ネフスキー『アイヌ・フォークロア』エリ・グロムコフスカヤ編、[[魚井一由]] 訳、北海道出版企画センター, 1991年9月。[[ISBN]] [[特別:文献資料/978-4832891043|978-4832891043]]- 第5回地方出版文化功労賞受賞。
*[[加藤九祚]] 天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』 [[河出書房新社]], 1976、完本版 2011
*ネフスキー『宮古のフォークロア』リヂア・グロムコフスカヤ編、狩俣繁久ほか訳、砂子屋書房「弧琉球叢書」, 1998年
*:初版([[大佛次郎賞]]受賞)で、没年1945年と記したが、その後の関係者への調査で1937年であることが判明。<br>新版では「死の真相」解明と、遺族(長年の交流がある)や関係者のその後を増補した。

*ネフスキー 『月と不死』[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]], 1971、ワイド版2003)、日本語で発表された論考集。[[岡正雄]]編解説は加藤。ワイド版2003年
== 関連資料 ==
*『アイヌ・フォークロア』 [[魚井一由]]訳 北海道出版企画センター, 1991
*日本経済新聞、2012年11月13日(火)夕刊、「東洋学者ネフスキー 生誕120年 言語の才人 遺産は多彩」
*日本経済新聞、2012年11月13日(火)夕刊、「東洋学者ネフスキー 生誕120年 言語の才人 遺産は多彩」


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book
* [[加藤九祚]]「ネフスキー」『[[国史大辞典]] 15巻』に収録([[吉川弘文館]]、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9
|和書
*『文部省職員録.大正1211日調』(文部省,1924年)の「京都帝国大学」の「文学部」(pp145―pp148)
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*:初版(第3回[[大佛次郎賞]]受賞)で、没年1945年と記したが、長年かけ関係者への調査で1937年であることが判明。<br>新版では「死の真相」解明と、遺族(長年の交流がある)や関係者たちのその後を追記した約40頁を増補
* [[加藤九祚]]「ネフスキー」-『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 15巻』に収録([[吉川弘文館]]、1996年)ISBN 978-4642005159
*『文部省職員録 大正12111日調』文部省, 1924年「京都帝国大学 文学部」(pp145 - pp148)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references />
<references />


== 外部リンク ==
* [http://mochi12093112.jounin.jp/simpleVC_20101115211419.html 悲劇の言語学者 ニコライ・ネフスキー]
* [https://hdl.handle.net/11094/79831 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキーをめぐる新事実]生田美智子、大阪外国語大学論集. 23、2000
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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー
家族とともに(1929年)
人物情報
生誕 (1892-03-03) 1892年3月3日
ロシアの旗 ロシアヤロスラヴリ
死没 1937年11月24日(1937-11-24)(45歳没)
出身校 ペテルブルク大学東洋学部
学問
研究分野 言語学東洋学民俗学
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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー (Николай Александрович Невский, Nikolai Aleksandrovich Nevsky, 1892年3月3日(ロシア暦:2月20日)- 1937年11月24日) は、ロシアソ連の東洋言語学者東洋学者民俗学者

日本で、アイヌ語宮古島方言日本民俗学・台湾のツォウ語、特に、西夏語研究ではこの分野の第一人者として没後、評価される。帰国後、社会主義革命が勃発し、日本人妻イソが日本国のスパイとされ、妻と共に銃殺刑に遭う。

経歴

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1892年、ヤロスラヴリに生まれる。生まれて1年にもならないうちに母と、4歳で県内の地方裁判所予審判事だった父と死別し、ルィビンスクの母方の祖父N・サスニンの家に引き取られた[1]

1900年8月、ルィビンスク中学校(ギムナジウム)に入学する[2]

この頃、「ルィビンスク在住のタタール人と知り合い[3]」、タタール語を習った。また、友人に影響され、「独学でアラビア文字を覚えた[3]」。

1909年、ルィビンスク中学校を銀メダルで卒業した後、サンクトペテルブルク大学東洋語学部とサンクトペテルブルク工芸専門学校の両校に合格するが、叔母の意嚮で後者に進学する[4]。1910年夏に退学し、東洋語学部に入校し直し、中国語・日本語を専攻する[5]レフ・シュテルンベルク(民族学)、V・アレクセエフ(中国学)、ボーダン・ド・クルトネ(言語学)、V・バルトリド(中央アジア史)らに教えを受けた[6]。シュテルンベルクは1904年から1914年まで、人類学・民族学博物館で学生主催の民族学講義に参加していた[7]。中国語の教師としてアレクセイ・イワノビッチ・イワノフもいた[8]

日本留学

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1913年、日本に二ヶ月間旅行に出掛け、東京に滞在し日本文学を研究した[9]1914年に大学卒業後、教授候補者として勉学を重ねた[10]。1915年、大学の官費留学生として2年間の予定で日本に留学する[10]。7月に東京につき、菊富士ホテルに逗留、約半年後に東京大学に通っていたニコライ・コンラドとともに本郷駒込林町に一戸を構え[11]、ともに漢学者高橋天民から漢文を習った[12]。その後、中山太郎を通して柳田國男折口信夫金田一京助山中共古佐々木喜善らと知り合う[13]新村出羽田亨らとも親交を結んだ[要出典]。しかし、留学終了予定だった1917年、ロシア革命ロシア内戦が起こり、本国からの送金が停止されて働かなければいけなくなった上に、健康をも害し、帰国を断念する[14]

ネフスキーの日本語による最初の発表物は、1918年8月に日本の雑誌『土俗と伝統』に掲載された記事「農業に関する血液の土俗」と見なされていたが[15]、桧山真一は[16]、6か月前の1918年2月、雑誌『太陽』に、ニコライ・ソスニン[17]という仮名で発表した記事「冠辞異考」を見つけた[18]

1919年から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)でロシア語教師を務める[19]

1921年から東京滞在中、アイヌ語宮古島方言を研究した[20]。アイヌ語は2人のアイヌ老女(コポアヌタネサンノ)から習い、メノコユカㇻ(女が語る叙事詩)やウェぺケㇾ(昔話)ウパシクマ(言い伝え)を記録した[21]。1922年大阪外国語学校に赴任してからも、ユカㇻの高名な伝承者である鍋沢ワカルパの娘・鍋沢ユキを半年ほど雇いアイヌ語の研究を続け[21]、膨大な数のロシア語訳を残し、その論文集は『アイヌのフォークロア(民俗)』の題名で1972年ソ連で出版された。

宮古島方言は東京高等師範学校に通っていた上運天賢敷(後に稲村賢敷と改姓、郷土史家となる)から学んだ[22]

結婚

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1917年頃、住み込みで家事をしていた前山光子と恋仲になり、1919年、娘、若子が生まれる[23]。結婚を申し込んだが光子の母がソ連に行くことに反対したため、挙式のみをした[24]。娘は後、埼玉県白子村に里子に出された[25]。小樽高商のロシア語教師になり、男児も生まれたがすぐに亡くなる[25]。その後、理由は不明だが別れる[25]。娘、若子は東洋英和女学校に進学したが中退、真崎甚三郎の息子真崎秀樹と婚約したが、肺結核により20歳で亡くなっている[26]

1921年夏、小樽高商のドイツ人教師を介し、原稿整理や資料収集のアシスタントとして、北海道後志国積丹郡入舸村(現・積丹町)の網元の長女・萬谷(よろずや)イソ(磯子、芸名は旭輦(きょくれん)[27])と知り合い[28]、1922年結婚する[29]。1928年5月3日に、娘のエレナ(愛称ネリ)が生まれる[30]

正式な結婚登録は、帰国前の1929年6月12日神戸のソ連総領事館で行っていた[31]

大阪時代

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1922年4月、大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)でロシア語教師として教鞭を執ることとなり、転居する[32]

1922年夏、26年夏、28年の3度宮古群島へ出かけ、民俗、民謡(アーグ、アヤゴ)などの調査を行い、雑誌『民族』などに発表。方言辞典編纂のためにカードやノートをまとめたりした[32]。1回目の調査旅行では、上運天も同行した。東恩納寛惇伊波普猷とも親しく手紙をやり取りしていた[33]

1925年、中国調査旅行、中国学者アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフとの出会いを機に、カラ・ホト西夏語のテキストの研究と西夏文字の解読に着手し始める。

1927年6月、マレー語教授浅井恵倫と台湾へ調査に行く[34]。浅井はセデック語、ネフスキーはツォウ語を対象に、台湾原住民から直接神話や伝説を聞きながら音声や文法を導出するという方法で調査した[34]。タナンギ在住中は[35]ウォンギ・ヤタユンガナ(日本語名矢田一生)とその兄パスヤ(同次郎)からツォウ語の話を聞き取った[36]。同年7月、大阪外国語学校で結成した大阪東洋学会を、石浜純太郎高橋盛孝浅井恵倫笹谷良造らとともに発展させ「静安学社」改名、幹事の一人に就任(静安学社の名は、結成直近に亡くなった西夏学王国維の字の静安からとったものであった)[37]

更に、石浜純太郎との交友から、西夏語や西夏文字への研究関心が向けられ[38]、西夏語文書を理解し、文法を再構、西夏語・英語・ロシア語による西夏語辞典を編纂。この学術的功績は没後、1960年刊行された西夏語の近代辞書で、千ページにわたる西夏語の辞書の草稿として「タングーツカヤ・フィロローギヤ」(西夏語文献学/Tangut Philology )の題で出版、新世代の学者に西夏語テキスト研究の門戸を開いた。1962年、レーニン賞が与えられた。

京都帝国大学(現・京都大学)文学部でも[39]ロシア語を教え、弟子の中には石田英一郎、高橋盛孝、田村実造がいた[40]

ソ連への帰国後

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1929年9月、敦賀港からソビエト連邦共和国となった祖国に単身帰国、レニングラード大学(旧ペテルブルク大学)内の東洋学研究所で助教授となり、[41]イワノフと共に、カラ・ホトの西夏語のテキストの研究と西夏文字の解読に着手した。ロシアの探検家ピョートル・コズロフによりカラ・ホトで見つかった語彙資料に基づいて西夏語の辞書編纂に取り組んだ。1933年11月4日、妻のイソと娘のエリナがレニングラードに到着する[42]が、1937年10月4日、日本国のためにスパイ活動を行ったとして内務人民委員部(NKVD)によって逮捕され[43]、翌月24日、夫妻は「国家叛逆罪」により大粛清(銃殺刑)された[44]。娘エレナは両親の処刑後、ニコライ・コンラドや3家族に引き取られ、のちに医師になった[45][46]

没後

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1957年11月14日、スターリン批判により、ベラルーシ軍事法廷でネフスキー、1958年2月18日にはレニングラード軍管区法廷で妻イソの名誉回復がなされた[47][48]

2018年9月27日、ネフスキー小樽訪問100年目を記念し、音楽朗読劇「島へ ニコライ・ネフスキー人生の旅」(作・演出:垣花理恵子)が、小樽市民センター・マリンホールで上演された。小樽高等商業学校(現・小樽商科大)での3年間の教師生活の様子や、入舸村(現・積丹町)生まれの妻イソとの出会いを、宮古島の古謡や旧ソ連の音楽を交えて描かれた。9月29日には、同じ演目が道北下川町公民館で行われた。11月にはパネル展や講演会が開かれた。
2020年3月14・15日には、同作品の公演が在ウラジオストク日本領事館の主催で、ロシア・沿海地方マリインスキー劇場沿海州別館小ホールで行われた。チェロは当劇場首席奏者のオレグ・センデツキー。宮古島古謡第一人者の與那城美和は日本から参加した[49][50]

著書

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  • ネフスキー『月と不死』[51] 平凡社東洋文庫, 1971年。日本語で発表された論考集。岡正雄編、解説は加藤。2003年にワイド版が刊
  • ネフスキー『アイヌ・フォークロア』エリ・グロムコフスカヤ編、魚井一由 訳、北海道出版企画センター, 1991年9月。ISBN 978-4832891043- 第5回地方出版文化功労賞受賞。
  • ネフスキー『宮古のフォークロア』リヂア・グロムコフスカヤ編、狩俣繁久ほか訳、砂子屋書房「弧琉球叢書」, 1998年

関連資料

[編集]
  • 日本経済新聞、2012年11月13日(火)夕刊、「東洋学者ネフスキー 生誕120年 言語の才人 遺産は多彩」

参考文献

[編集]
  • 加藤九祚『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房新社、1976年、完本版 2011年。ISBN 978-4309225432NCID BB05652564 
    初版(第3回大佛次郎賞受賞)では、没年は1945年と記したが、長年かけ関係者への調査で1937年であることが判明。
    新版では「死の真相」解明と、遺族(長年の交流がある)や関係者たちのその後を追記した約40頁を増補。
  • 加藤九祚「ネフスキー」-『国史大辞典 15巻』に収録(吉川弘文館、1996年)。ISBN 978-4642005159
  • 『文部省職員録 大正12年11月1日調』文部省, 1924年。「京都帝国大学 文学部」(pp145 - pp148)

脚注

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  1. ^ 加藤九祚『完本 天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房新社、2011年、12頁。 
  2. ^ 加藤 2011, p. 16.
  3. ^ a b 加藤 2011, p. 18.
  4. ^ 加藤 2011, p. 19.
  5. ^ 加藤 2011, p. 20.
  6. ^ 加藤 2011, p. 22.
  7. ^ 加藤 2011, p. 34,35.
  8. ^ 加藤 2011, p. 33.
  9. ^ 加藤 2011, p. 46.
  10. ^ a b 加藤 2011, p. 47.
  11. ^ 加藤 2011, p. 70.
  12. ^ 加藤 2011, p. 71.
  13. ^ 加藤 2011, p. 71,72.
  14. ^ 加藤 2011, p. 81.
  15. ^ 加藤 2011, p. 87,88.
  16. ^ Синъити Хияма. Кто такой Николай Соснин — автор статьи «Еще один взгляд на постоянные эпитеты в традиционной японской поэзии»? (檜山真一 『冠辞異考』の筆者・露国留学生ニコライ・ソスニンとは誰のことか)"- доклад на Конференции Общества «Муза» по изучению русской и советской литературы, 11 декабря 1999 г. (ロシア・ソヴェート文学例会[むうざ]での口頭報告、1999年12月11日、)
  17. ^ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・サスニン(Николай Александрович Соснин)はN.A.ネフスキーの母方の祖父。
  18. ^ Икута М. Новые факты из наследия Н. А. Невского // Социологические, этнологические и лингвистические проблемы современности: Тезисы докладов международной научной конференции, посвящённой 110-летию учёного-востоковеда Н. А. Невского. — Рыбинск: Рыбинская государственная авиационная технологическая академия (РГАТА), 2002. — С. 4.
    生田美智子, N. A.ネフスキーの遺産からの新しい事実//現在の社会学的、民族学的、言語学的問題:東洋学者N. A.ネフスキー生誕110周年記念国際科学会議の要約。 -ルイビンスク:ルイビンスク州航空技術大学(Рыбинская государственная авиационная технологическая академия, РГАТА)、2002年。-P. 4。
  19. ^ 加藤 2011, p. 90.
  20. ^ 加藤 2011, p. 117.
  21. ^ a b 加藤 2011, p. 122.
  22. ^ 加藤 2011, p. 120.
  23. ^ 加藤 2011, p. 360.
  24. ^ 加藤 2011, p. 360,361.
  25. ^ a b c 加藤 2011, p. 361.
  26. ^ 加藤 2011, p. 362.
  27. ^ 加藤 2011, p. 163.
  28. ^ 加藤 2011, p. 128.
  29. ^ 加藤 2011, p. 316.
  30. ^ 加藤 2011, p. 196.
  31. ^ 加藤 2011, p. 130.
  32. ^ a b 加藤 2011, p. 131.
  33. ^ 加藤 2011, p. 159.
  34. ^ a b 加藤 2011, p. 165.
  35. ^ 加藤 2011, p. 170.
  36. ^ 加藤 2011, p. 169.
  37. ^ 加藤 2011, p. 189.
  38. ^ 加藤 2011, p. 183,184.
  39. ^ 加藤 2011, p. 200.
  40. ^ 加藤 2011, p. 190.
  41. ^ 加藤 2011, p. 205.
  42. ^ 加藤 2011, p. 217・218.
  43. ^ 加藤 2011, p. 332.
  44. ^ 加藤 2011, p. 340.
  45. ^ 加藤 2011, p. 333.
  46. ^ 『本郷菊富士ホテル』近藤冨枝、中公文庫、2012、p52
  47. ^ 加藤 2011, p. 341.
  48. ^ 加藤 2011, p. 345.
  49. ^ 在ウラジオストク日本領事館・イベント(2020年3月16日掲載)
  50. ^ Острова любви --- Жизненный путь востоковеда Николая Невского (Prim.marinsky.ru) (ロシア語)
  51. ^ 表題は『沖縄文化論集』にも収録。新版・角川ソフィア文庫、2022年

外部リンク

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