コンテンツにスキップ

「ジュニア・ウェルズ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: ca:Junior Wells
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.allmusic.com) (Botによる編集)
(14人の利用者による、間の18版が非表示)
7行目: 7行目:
|Birth_name = Amos Blakemore
|Birth_name = Amos Blakemore
|Alias =
|Alias =
|Born = [[1934年]][[12月9日]]<br />[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]
|Born = [[1934年]][[12月9日]]<br />{{USA}} [[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]
|Died = {{死亡年月日と没年齢|1934|12|9|1998|1|15}}<br />[[イリノイ州]][[シカゴ]]
|Died = {{死亡年月日と没年齢|1934|12|9|1998|1|15}}<br />{{USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]
|Origin =
|Origin =
|Instrument = [[ハーモニカ]]
|Instrument = [[ハーモニカ]]
|Genre = [[ブルース]]
|Genre = [[ブルース]]
|Occupation = ミュージシャン、歌手
|Occupation = ミュージシャン、歌手
|Years_active = 1950年~1998
|Years_active = 1950年~1997
|Label = [[デルマーク・レコード|デルマーク]]<br />[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク・インターナショナル]]<br />[[ヴァンガード・レコード]]
|Label = [[デルマーク・レコード|デルマーク]]<br />[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク・インターナショナル]]<br />[[ヴァンガード・レコード]]
|Associated_acts = [[バディ・ガイ]]、エイセズ
|Associated_acts = [[バディ・ガイ]]、エイセズ
20行目: 20行目:
|Past_members =
|Past_members =
}}
}}
ジュニア・ウェルズ ('''Junior Wells''', [[1934年]][[12月9日]] - [[1998年]][[1月15日]])は、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[ブルース]]・[[歌手|シンガー]]、[[ハーモニカ]]奏者。本名は、エイモス・ブレイクモア。[[1950年代]]より[[イリノイ州]][[シカゴ]]で活躍し、そのファンキーなサウンドは、ファンク・ブルースと呼ばれるサウンドの形成に寄与した。ギタリストの[[バディ・ガイ]]とのデュオでの活動でも知られる。
ジュニア・ウェルズ(Junior Wells, [[1934年]][[12月9日]] - [[1998年]][[1月15日]]は、[[アメリカ合衆国]]の[[ブルース]]・[[歌手|シンガー]]、[[ハーモニカ]]奏者。本名は、エイモス・ブレイクモア。[[1950年代]]より[[イリノイ州]][[シカゴ]]で活躍し、そのファンキーなサウンドは、ファンク・ブルースと呼ばれるサウンドの形成に寄与した。ギタリストの[[バディ・ガイ]]とのデュオでの活動でも知られる。


==来歴==
==来歴==
[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]に生まれた。リトル・ジュニア・パーカーに影響を受け、ハーモニカの腕を磨いた彼は、10代の頃シカゴへ移住した。50年代の初頭から、デイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ、フレッド・ビロウらとエイセズを結成して活動するようになった。[[1952年]]、[[リトル・ウォルター]]の後任として[[マディ・ウォーターズ]]のバンドに加入。エイセズとマディのバンドの活動を平行してこなすようになった。50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はステイツ、チーフなどのレーベルにレコーディングを行った。[[1957年]]には、彼の代表的な持ち歌のひとつとなった"Messin' With The Kid"をリリースしている。
[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]に生まれた<ref name=dahl>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/junior-wells-mn0000962064#biography |last=Dahl |first=Bill |title=Junior Wells - Biography & History |publisher=AllMusic |accessdate=2015-12-26}}</ref>[[ジュニア・パーカー|リトル・ジュニア・パーカー]]に影響を受け、ハーモニカの腕を磨いた彼は、10代の頃シカゴへ移住した。50年代の初頭から、デイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ、フレッド・ビロウらとエイセズを結成して活動するようになった。[[1952年]]、[[リトル・ウォルター]]の後任として[[マディ・ウォーターズ]]のバンドに加入。エイセズとマディのバンドの活動を平行してこなすようになった。50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はステイツ、チーフなどのレーベルにレコーディングを行った。[[1957年]]より、チーフのプロデューサーである{{仮リンク|メル・ロンドン|en|Mel London}}の提供した楽曲を次々と録音し、[[1960年]]には、彼の代表的な持ち歌のひとつとなった"Messin' With The Kid"をリリースしている<ref name=dahl />


[[1965年]]、[[デルマーク・レコード]]よりアルバム''Hoo Doo Man Blues''をリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、[[シカゴ・ブルース]]を代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。[[1969年]]には、デュオ名義のアルバム''Buddy and the Juniors''をリリースした。一方、ソロとしては[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしば[[ジェームス・ブラウン|ジェイムズ・ブラウン]]を引き合いに出されるようになった。
[[1965年]]、[[デルマーク・レコード]]よりアルバム''Hoo Doo Man Blues''をリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、[[シカゴ・ブルース]]を代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。[[1969年]]には、デュオ名義のアルバム''Buddy and the Juniors''をリリースした。一方、ソロとしては[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしば[[ジェームス・ブラウン|ジェイムズ・ブラウン]]を引き合いに出されるようになった。


[[1970年代]]には再びデルマークより''South Side Blues Jam'' ([[1970年]])、''On Tap'' ([[1975年]])などをリリースする傍ら、バディ・ガイとデュオとしては''Buddy Guy & Junior Wells Play the Blues'' ([[1972年]])を[[アトランティッ・レコード]]からリリースした。には、ゲストで[[エリック・クラプトン]]が参加している。[[1975年]]3月には、「第2回ブルース・フェスティバル」出演のため、バディ・ガイと初来日を果たした。デュオとしては、[[1987年]]にも[[ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバル|ジャパン・ブルース・カーニバル]]で再度来日している。ソロでの来日は、[[1992年]]の同カーニバル、[[1997年]]のブルーノート公演がある。
[[1970年代]]には再びデルマークより''South Side Blues Jam'' ([[1970年]])、''On Tap'' ([[1975年]])などをリリースした。また、バディ・ガイとデュオとしては1970年に[[ローリング・ストーンズ]]のツアーで[[オープニングアク]]を務め、年10月には[[エリック・クラプトン]]らと共にレコーディングを行って、この録音は[[1972年]]に[[アトコ・レコード]]から''[[プレイ・ザ・ブルース (バディ・ガイ&ジュニア・ウェルズのアルバム)|Buddy Guy & Junior Wells Play the Blues]]''としてリリースされた<ref>{{Cite web |url=http://www.guitarworld.com/buddy_guy_a_man_and_his_blues?page=0,2 |last=Perna |first=Alan Di |title=Buddy Guy: A Man and His Blues - Page 3 |publisher=NewBay Media |work=Guitar World |date=2008-12-09 |accessdate=2015-12-30}}</ref>。[[1975年]]3月には、「第2回ブルース・フェスティバル」出演のため、バディ・ガイと初来日を果たした。デュオとしては、[[1987年]]にも[[ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバル|ジャパン・ブルース・カーニバル]]で再度来日している。ソロでの来日は、[[1992年]]の同カーニバル、[[1997年]]のブルーノート公演がある。


[[1980年代]]以降は新作レコーディングの数は少ないものの、[[1990年代]]には[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク]]と契約し、計4枚のアルバムをリリースした。また[[1990年]]には、[[キャリー・ベル]]、[[ジェイムズ・コットン]]、[[ビリー・ブランチ]]らとの共演盤''Harp Attack!''に参加している。
[[1980年代]]以降は新作レコーディングの数は少ないものの、[[1990年代]]には[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク]]と契約し、計4枚のアルバムをリリースした。また[[1990年]]には、[[キャリー・ベル]]、[[ジェイムズ・コットン]]、[[ビリー・ブランチ]]らとの共演盤''Harp Attack!''に参加している。


[[1998年]]の映画ブルース・ブラザー2000にも出演し、元気な演奏を聴かせていたものの、この映画の撮影から間もない[[1997年]]8月、ガンと診断され、翌115日亡くなっ。また、亡くなる直前に、[[ローリング・ストーンズ]]のトリビュート盤''Paint It Blue: Songs of the Rolling Stones''にも参加し、"(I Can't Get No) Satisfaction"を歌っている。
[[1998年]]の映画『[[ブルース・ブラザー2000]]』にも出演し、元気な演奏を聴かせていたものの、この映画の撮影から間もない[[1997年]]8月、ガンと診断される。1997年10月に発売されたローリング・ストーンズのトリビュート盤''Paint It Blue: Songs of the Rolling Stones''では、"[[サティスファクション|(I Can't Get No) Satisfaction]]"を歌っている<ref>{{Cite web |url=http://www.allmusic.com/album/paint-it-blue-songs-of-the-rolling-stones-mw0000596043 |last=Erlewine |first=Stephen Thomas |title=Paint It Blue: Songs of the Rolling Stones - Various Artists |publisher=AllMusic |accessdate=2015-12-30}}</ref>。1997年秋より昏睡状態となり、1998年1月15日に亡くなった<ref name=dahl />


==ディスコグラフィー==
==ディスコグラフィー==
41行目: 41行目:
* [[1969年]] ''Buddy and the Juniors'' (Blue Thumb)※
* [[1969年]] ''Buddy and the Juniors'' (Blue Thumb)※
* [[1970年]] ''South Side Blues Jam'' (Delmark)
* [[1970年]] ''South Side Blues Jam'' (Delmark)
* [[1972年]] ''Buddy Guy & Junior Wells Play the Blues'' (Atlantic)※
* [[1972年]] ''[[プレイ・ザ・ブルース (バディ・ガイ&ジュニア・ウェルズのアルバム)|Buddy Guy & Junior Wells Play the Blues]]'' (Atco)※
* [[1975年]] ''On Tap'' (Delmark)
* [[1975年]] ''On Tap'' (Delmark)
* [[1977年]] ''Blues Hit Big Town'' (Delmark)
* [[1977年]] ''Blues Hit Big Town'' (Delmark)
58行目: 58行目:
''※印:バディ・ガイとのデュオ名義''
''※印:バディ・ガイとのデュオ名義''


==外部リンク==
== 脚注 ==
{{reflist}}
*[http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&sql=11:difuxq95ldae~T1 Allmusicのバイオ] {{en icon}}
*[http://www.delmark.com/rhythm.junior.htm Can I Do it Like I Want To? - Bob Koester remembers Junior Wells] {{en icon}}
*[http://centerstage.net/music/whoswho/JuniorWells.html Centerstageの訃報] {{en icon}}


== 外部リンク ==
* {{amg|id=mn0000962064}} {{en icon}}
* [http://www.delmark.com/rhythm.junior.htm Can I Do it Like I Want To? - Bob Koester remembers Junior Wells] {{en icon}}
* [http://centerstage.net/music/whoswho/JuniorWells.html Centerstageの訃報] {{en icon}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆにあ うえるす}}
{{DEFAULTSORT:しゆにあ うえるす}}
[[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]]
[[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]]
[[Category:アメリカ合衆国の歌手]]
[[Category:アメリカ合衆国の男性歌手]]
[[Category:イリノイ州の人物]]
[[Category:テネシの人物]]
[[Category:ハーモニカ奏者]]
[[Category:ハーモニカ奏者]]
[[Category:ブルース・ミュージシャン]]
[[Category:ブルース・ミュージシャン]]
[[Category:ブルスの殿堂入りの人物]]
[[Category:メンフィス出身の人物]]
[[Category:1934年生]]
[[Category:1934年生]]
[[Category:1998年没]]
[[Category:1998年没]]

[[ca:Junior Wells]]
[[de:Junior Wells]]
[[en:Junior Wells]]
[[es:Junior Wells]]
[[fi:Junior Wells]]
[[fr:Junior Wells]]
[[he:ג'וניור ולס]]
[[pl:Junior Wells]]

2024年4月29日 (月) 22:16時点における版

ジュニア・ウェルズ
ジュニア・ウェルズ (1996年)
基本情報
出生名 Amos Blakemore
生誕 1934年12月9日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州メンフィス
死没 (1998-01-15) 1998年1月15日(63歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
ジャンル ブルース
職業 ミュージシャン、歌手
担当楽器 ハーモニカ
活動期間 1950年~1997年
レーベル デルマーク
テラーク・インターナショナル
ヴァンガード・レコード
共同作業者 バディ・ガイ、エイセズ

ジュニア・ウェルズ(Junior Wells, 1934年12月9日 - 1998年1月15日)は、アメリカ合衆国ブルースシンガーハーモニカ奏者。本名は、エイモス・ブレイクモア。1950年代よりイリノイ州シカゴで活躍し、そのファンキーなサウンドは、ファンク・ブルースと呼ばれるサウンドの形成に寄与した。ギタリストのバディ・ガイとのデュオでの活動でも知られる。

来歴

テネシー州メンフィスに生まれた[1]リトル・ジュニア・パーカーに影響を受け、ハーモニカの腕を磨いた彼は、10代の頃シカゴへ移住した。50年代の初頭から、デイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ、フレッド・ビロウらとエイセズを結成して活動するようになった。1952年リトル・ウォルターの後任としてマディ・ウォーターズのバンドに加入。エイセズとマディのバンドの活動を平行してこなすようになった。50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はステイツ、チーフなどのレーベルにレコーディングを行った。1957年より、チーフのプロデューサーであるメル・ロンドン英語版の提供した楽曲を次々と録音し、1960年には、彼の代表的な持ち歌のひとつとなった"Messin' With The Kid"をリリースしている[1]

1965年デルマーク・レコードよりアルバムHoo Doo Man Bluesをリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、シカゴ・ブルースを代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。1969年には、デュオ名義のアルバムBuddy and the Juniorsをリリースした。一方、ソロとしてはマーキュリー傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしばジェイムズ・ブラウンを引き合いに出されるようになった。

1970年代には再びデルマークよりSouth Side Blues Jam (1970年)、On Tap (1975年)などをリリースした。また、バディ・ガイとのデュオとしては1970年にローリング・ストーンズのツアーでオープニングアクトを務め、同年10月にはエリック・クラプトンらと共にレコーディングを行って、この録音は1972年アトコ・レコードからBuddy Guy & Junior Wells Play the Bluesとしてリリースされた[2]1975年3月には、「第2回ブルース・フェスティバル」出演のため、バディ・ガイと初来日を果たした。デュオとしては、1987年にもジャパン・ブルース・カーニバルで再度来日している。ソロでの来日は、1992年の同カーニバル、1997年のブルーノート公演がある。

1980年代以降は新作レコーディングの数は少ないものの、1990年代にはテラークと契約し、計4枚のアルバムをリリースした。また1990年には、キャリー・ベルジェイムズ・コットンビリー・ブランチらとの共演盤Harp Attack!に参加している。

1998年の映画『ブルース・ブラザース2000』にも出演し、元気な演奏を聴かせていたものの、この映画の撮影から間もない1997年8月、ガンと診断される。1997年10月に発売されたローリング・ストーンズのトリビュート盤Paint It Blue: Songs of the Rolling Stonesでは、"(I Can't Get No) Satisfaction"を歌っている[3]。1997年秋より昏睡状態となり、1998年1月15日に亡くなった[1]

ディスコグラフィー

※印:バディ・ガイとのデュオ名義

脚注

  1. ^ a b c Dahl, Bill. “Junior Wells - Biography & History”. AllMusic. 2015年12月26日閲覧。
  2. ^ Perna, Alan Di (2008年12月9日). “Buddy Guy: A Man and His Blues - Page 3”. Guitar World. NewBay Media. 2015年12月30日閲覧。
  3. ^ Erlewine, Stephen Thomas. “Paint It Blue: Songs of the Rolling Stones - Various Artists”. AllMusic. 2015年12月30日閲覧。

外部リンク