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==来歴==
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[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]に生まれた<ref name=dahl>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/junior-wells-mn0000962064#biography |last=Dahl |first=Bill |title=Junior Wells - Biography & History |publisher=AllMusic |accessdate=2015-12-26}}</ref>。[[ジュニア・パーカー|リトル・ジュニア・パーカー]]に影響を受け、ハーモニカの腕を磨いた彼は、10代の頃シカゴへ移住した。50年代の初頭から、デイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ、フレッド・ビロウらとエイセズを結成して活動するようになった。[[1952年]]、[[リトル・ウォルター]]の後任として[[マディ・ウォーターズ]]のバンドに加入。エイセズとマディのバンドの活動を平行してこなすようになった。50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はステイツ、チーフなどのレーベルにレコーディングを行った。[[1957年]]より、チーフのプロデューサーである{{仮リンク|メル・ロンドン|en|Mel London}}の提供した楽曲を次々と録音し、[[1960年]]には、彼の代表的な持ち歌のひとつとなった"Messin' With The Kid"をリリースしている<ref name=dahl />。


[[1965年]]、[[デルマーク・レコード]]よりアルバム''Hoo Doo Man Blues''をリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、[[シカゴ・ブルース]]を代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。[[1969年]]には、デュオ名義のアルバム''Buddy and the Juniors''をリリースした。一方、ソロとしては[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしば[[ジェームス・ブラウン|ジェイムズ・ブラウン]]を引き合いに出されるようになった。
[[1965年]]、[[デルマーク・レコード]]よりアルバム''Hoo Doo Man Blues''をリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、[[シカゴ・ブルース]]を代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。[[1969年]]には、デュオ名義のアルバム''Buddy and the Juniors''をリリースした。一方、ソロとしては[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしば[[ジェームス・ブラウン|ジェイムズ・ブラウン]]を引き合いに出されるようになった。
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2024年4月29日 (月) 22:16時点における版

ジュニア・ウェルズ
ジュニア・ウェルズ (1996年)
基本情報
出生名 Amos Blakemore
生誕 1934年12月9日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州メンフィス
死没 (1998-01-15) 1998年1月15日(63歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
ジャンル ブルース
職業 ミュージシャン、歌手
担当楽器 ハーモニカ
活動期間 1950年~1997年
レーベル デルマーク
テラーク・インターナショナル
ヴァンガード・レコード
共同作業者 バディ・ガイ、エイセズ

ジュニア・ウェルズ(Junior Wells, 1934年12月9日 - 1998年1月15日)は、アメリカ合衆国ブルースシンガーハーモニカ奏者。本名は、エイモス・ブレイクモア。1950年代よりイリノイ州シカゴで活躍し、そのファンキーなサウンドは、ファンク・ブルースと呼ばれるサウンドの形成に寄与した。ギタリストのバディ・ガイとのデュオでの活動でも知られる。

来歴

テネシー州メンフィスに生まれた[1]リトル・ジュニア・パーカーに影響を受け、ハーモニカの腕を磨いた彼は、10代の頃シカゴへ移住した。50年代の初頭から、デイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ、フレッド・ビロウらとエイセズを結成して活動するようになった。1952年リトル・ウォルターの後任としてマディ・ウォーターズのバンドに加入。エイセズとマディのバンドの活動を平行してこなすようになった。50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はステイツ、チーフなどのレーベルにレコーディングを行った。1957年より、チーフのプロデューサーであるメル・ロンドン英語版の提供した楽曲を次々と録音し、1960年には、彼の代表的な持ち歌のひとつとなった"Messin' With The Kid"をリリースしている[1]

1965年デルマーク・レコードよりアルバムHoo Doo Man Bluesをリリース。このアルバムには、バディ・ガイもセッションに加わり、シカゴ・ブルースを代表する名盤のひとつとして知られるようになった。これ以降、ガイとのデュオによる活動も目に付くようになる。1969年には、デュオ名義のアルバムBuddy and the Juniorsをリリースした。一方、ソロとしてはマーキュリー傘下のブルー・ロック、ヴァンガードなどから相次いでアルバムをリリースしている。この頃から、更にファンキーな色彩を濃くし、そのサウンドはしばしばジェイムズ・ブラウンを引き合いに出されるようになった。

1970年代には再びデルマークよりSouth Side Blues Jam (1970年)、On Tap (1975年)などをリリースした。また、バディ・ガイとのデュオとしては1970年にローリング・ストーンズのツアーでオープニングアクトを務め、同年10月にはエリック・クラプトンらと共にレコーディングを行って、この録音は1972年アトコ・レコードからBuddy Guy & Junior Wells Play the Bluesとしてリリースされた[2]1975年3月には、「第2回ブルース・フェスティバル」出演のため、バディ・ガイと初来日を果たした。デュオとしては、1987年にもジャパン・ブルース・カーニバルで再度来日している。ソロでの来日は、1992年の同カーニバル、1997年のブルーノート公演がある。

1980年代以降は新作レコーディングの数は少ないものの、1990年代にはテラークと契約し、計4枚のアルバムをリリースした。また1990年には、キャリー・ベルジェイムズ・コットンビリー・ブランチらとの共演盤Harp Attack!に参加している。

1998年の映画『ブルース・ブラザース2000』にも出演し、元気な演奏を聴かせていたものの、この映画の撮影から間もない1997年8月、ガンと診断される。1997年10月に発売されたローリング・ストーンズのトリビュート盤Paint It Blue: Songs of the Rolling Stonesでは、"(I Can't Get No) Satisfaction"を歌っている[3]。1997年秋より昏睡状態となり、1998年1月15日に亡くなった[1]

ディスコグラフィー

※印:バディ・ガイとのデュオ名義

脚注

  1. ^ a b c Dahl, Bill. “Junior Wells - Biography & History”. AllMusic. 2015年12月26日閲覧。
  2. ^ Perna, Alan Di (2008年12月9日). “Buddy Guy: A Man and His Blues - Page 3”. Guitar World. NewBay Media. 2015年12月30日閲覧。
  3. ^ Erlewine, Stephen Thomas. “Paint It Blue: Songs of the Rolling Stones - Various Artists”. AllMusic. 2015年12月30日閲覧。

外部リンク