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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[本籍]]は[[長崎県]][[東彼杵郡]][[彼杵村]]だが、[[清]]の[[吉林省]]和龍県大拉子(現在の[[中華人民共和国|中国]][[延辺朝鮮族自治州]])で生まれ、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]の[[忠清南道 (日本統治時代)|忠清南道]]大田面に転居し同地の小学校を卒業<ref name="ansatsu544-546">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920437/280 濱口首相要撃の兇漢]『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), pp. 544-546.</ref>。15歳で家出し、[[福岡県]][[大牟田市]]に暮らす生母の佐郷屋いそのもとに寄宿し、同地で[[日本郵船]]営口丸の舵夫となり、19歳まで[[横浜市|横浜]]や[[神戸市|神戸]]など各地の汽船会社を転々とする<ref name="ansatsu544-546" />。その後一年間[[満州]]を放浪したのち1927年に[[大連]]から[[シンガポール]]へ密航し、翌年鹿児島丸で神戸に戻り、上京して[[黒龍会]]渡辺義久らの世話になる<ref name="ansatsu544-546" />。1929年に渡辺が殴打される事件が起こり、その[[報復]]に犯人を襲い[[傷害罪]]で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、[[執行猶予]]4年の刑を受ける<ref name="ansatsu544-546" />。1930年7月に愛国社の社員となり、同年11月に濱口首相襲撃事件を起こす<ref name="ansatsu544-546" />。
[[玄洋社]]系[[右翼団体]][[愛国社 (1928年-)|愛国社]]党員。

[[1930年]][[11月14日]]午前8時58分、[[東京駅]]構内にて、特急燕に乗り込むため第4ホームを移動中の[[濱口雄幸]]首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる([[濱口首相遭難事件]])。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、[[現行犯逮捕]]された。

佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「'''濱口は社会を不安におとしめ、[[陛下]]の[[統帥権]]を犯した。だからやった。何が悪い'''」と供述したが、「'''[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]とは何か'''」という質問には答えられなかった。


=== 濱口首相暗殺未遂事件 ===
濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱口首相が特殊な[[細菌]]の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる[[化膿]]によるものと判断された。そのため、[[裁判]]では[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]ではなく、殺人未遂罪が適用された。[[1933年]]、殺人未遂罪により[[死刑]][[判決]]を受け、[[1934年]][[恩赦]]で[[無期懲役]]に減刑され、[[1940年]]に[[仮出所]]している。
[[ファイル:The scene of the death of Osachi Hamaguchi.jpg|thumb|濱口首相遭難事件現場のプレート、東京駅、2012年撮影。]]
[[ファイル:HamaguchiOsachi20130312.jpg|thumb|濱口首相遭難現場、東京駅、2013年撮影。]]
[[1930年]][[11月14日]]午前8時58分、[[東京駅]]構内にて、[[つばめ (列車)#|特急燕]]に乗り込むためホームを移動中の濱口雄幸首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる('''濱口首相遭難事件''')<ref name="ansatsu539-540">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920437/277 濱口首相要撃の兇漢]『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), pp. 539-540.</ref>。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、[[現行犯|現行犯逮捕]]された。佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、[[陛下]]の[[統帥権]]を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]とは何か」という質問には答えられなかった。


濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱口首相が特殊な[[細菌]]の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる[[化膿]]によるものと判断された。佐郷屋は殺人未遂罪で[[起訴]]<ref name="ansatsu544-546" />、一審では殺人罪が適用され[[日本における死刑|死刑]]判決、二審では殺人未遂罪が適用され死刑判決が言い渡され、[[1933年]]11月6日に上告が棄却されたことにより死刑[[判決 (日本法)|判決]]が確定した<ref name="ansatsu554">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920437/285 濱口首相要撃の兇漢]『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), p. 554.</ref><ref>馬場義続 編『我国に於ける最近の国家主義乃至国家社会主義運動に就て』257頁 1935年</ref><ref>佐郷屋の死刑確定、上告棄却の判決『東京日日新聞』昭和8年11月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p593 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。[[1934年]][[恩赦]]で[[無期懲役]]に減刑された。[[1940年]]に[[仮出所]]している<ref name="Kotobank" />。
その後、愛国社社長[[岩田愛之助]]の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は[[公職追放]]を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。[[1954年]]、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体[[護国団]]を結成、第二代団長となる。[[1959年]]には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。


=== 出所後 ===
弟子に[[黒崎健時]]、[[藤元正義]]がいる。黒崎はのちに空手「[[極真会館]]」のナンバー2となり日本とオランダでキックボクシングを育てた。<!-- 『格闘技通信』の黒崎自身の説明によると、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが何をしたいのか聞かれても当時の黒崎は満足に答えられなかったこと。思想的教育を受けた事実ないといつもの如く糞リアリアズムに徹した、殺し屋のような答えで格闘ファンを落胆させている。 -->
出所したのち、愛国社社長[[岩田愛之助]]の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は[[公職追放]]を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名した。[[1954年]]、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体護国団を結成、副団長となる。団は、メンバーが企業・宗教団体あるいは団員になることを断った者への恐喝や監禁・リンチ等の暴力事件をたびたび繰り返し、逮捕されている<ref>{{Cite news|和書 |title=護国団本部に手入れ |newspaper=朝日新聞 |date=1955-12-3 |edition=夕刊 |page=3}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=幹部ら八人に逮捕状「脅し」「暴力」の疑い |newspaper=朝日新聞 |date=1956-1-12 |edition=朝刊 |page=7}}</ref>。佐郷屋自身も繰返し逮捕されている<ref>{{Cite news|和書 |title=佐郷屋を留置 |newspaper=朝日新聞 |date=1955-12-3 |edition=朝刊 |page=9}}</ref>が、団長の井上日召が責任を取るとして、団及び団長を辞めたことで、かえって佐郷屋が団長となっている<ref name="Kotobank" />。[[1959年]]には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。


弟子に[[藤元正義]]がいる。「[[極真会館]]」のナンバー2となり日本と[[オランダ]]でキックボクシングを育てた[[黒崎健時]]は『格闘技通信』、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが、佐郷屋より思想的教育を受けた事実ないと答えている。
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== 脚注 ==
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佐郷屋留雄、1953年。

佐郷屋 留雄(さごうや[1][2] とめお、1908年12月1日 - 1972年4月14日[3])は、日本右翼活動家。熊本県出身。別名は佐郷屋 嘉昭(さごうや よしあき)。玄洋社右翼団体愛国社党員。濱口雄幸首相暗殺未遂犯。

経歴

[編集]

本籍長崎県東彼杵郡彼杵村だが、吉林省和龍県大拉子(現在の中国延辺朝鮮族自治州)で生まれ、朝鮮忠清南道大田面に転居し同地の小学校を卒業[4]。15歳で家出し、福岡県大牟田市に暮らす生母の佐郷屋いそのもとに寄宿し、同地で日本郵船営口丸の舵夫となり、19歳まで横浜神戸など各地の汽船会社を転々とする[4]。その後一年間満州を放浪したのち1927年に大連からシンガポールへ密航し、翌年鹿児島丸で神戸に戻り、上京して黒龍会渡辺義久らの世話になる[4]。1929年に渡辺が殴打される事件が起こり、その報復に犯人を襲い傷害罪逮捕され、執行猶予4年の刑を受ける[4]。1930年7月に愛国社の社員となり、同年11月に濱口首相襲撃事件を起こす[4]

濱口首相暗殺未遂事件

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濱口首相遭難事件現場のプレート、東京駅、2012年撮影。
濱口首相遭難現場、東京駅、2013年撮影。

1930年11月14日午前8時58分、東京駅構内にて、特急燕に乗り込むためホームを移動中の濱口雄幸首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる(濱口首相遭難事件[5]。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕された。佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、陛下統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。

濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱口首相が特殊な細菌の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる化膿によるものと判断された。佐郷屋は殺人未遂罪で起訴[4]、一審では殺人罪が適用され死刑判決、二審では殺人未遂罪が適用され死刑判決が言い渡され、1933年11月6日に上告が棄却されたことにより死刑判決が確定した[6][7][8]1934年恩赦無期懲役に減刑された。1940年仮出所している[3]

出所後

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出所したのち、愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名した。1954年血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、副団長となる。団は、メンバーが企業・宗教団体あるいは団員になることを断った者への恐喝や監禁・リンチ等の暴力事件をたびたび繰り返し、逮捕されている[9][10]。佐郷屋自身も繰返し逮捕されている[11]が、団長の井上日召が責任を取るとして、団及び団長を辞めたことで、かえって佐郷屋が団長となっている[3]1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議全愛会議)の初代議長となる。

弟子に藤元正義がいる。「極真会館」のナンバー2となり日本とオランダでキックボクシングを育てた黒崎健時は『格闘技通信』で、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが、佐郷屋より思想的教育を受けた事実はないと答えている。

1972年4月14日、入院先の東京慈恵会医科大学付属病院で肝硬変により死去。同年9月8日東急建設専務が自社株売買をネタに恐喝されていた事件で相模工業学園理事長、右翼団体塾長の2人が逮捕されたが、佐郷屋も生前に恐喝に関与していたとして書類送検された[12]

脚注

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  1. ^ https://kotobank.jp/word/佐郷屋留雄-1077987
  2. ^ https://kotobank.jp/word/佐郷屋+留雄-1645808
  3. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “佐郷屋留雄”. コトバンク. 2018年2月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 濱口首相要撃の兇漢『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), pp. 544-546.
  5. ^ 濱口首相要撃の兇漢『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), pp. 539-540.
  6. ^ 濱口首相要撃の兇漢『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』 (有恒社, 1934), p. 554.
  7. ^ 馬場義続 編『我国に於ける最近の国家主義乃至国家社会主義運動に就て』257頁 1935年
  8. ^ 佐郷屋の死刑確定、上告棄却の判決『東京日日新聞』昭和8年11月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p593 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 「護国団本部に手入れ」『朝日新聞』1955年12月3日、夕刊、3。
  10. ^ 「幹部ら八人に逮捕状「脅し」「暴力」の疑い」『朝日新聞』1956年1月12日、朝刊、7面。
  11. ^ 「佐郷屋を留置」『朝日新聞』1955年12月3日、朝刊、9面。
  12. ^ 「重役おどし八千万円 二人逮捕 右翼の故佐郷屋が関係」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月9日、13版、23面