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{{複数の問題
{{出典の明記|date=2012年4月}}
| 出典の明記 = 2021年2月
| 更新 = 2021年2月
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{{基礎情報 会社
{{基礎情報 会社
|社名= バンク・オブ・アメリカ
|社名= バンク・オブ・アメリカ
|英文社名= Bank of America Corporation
|英文社名= Bank of America Corporation
|ロゴ= [[ファイル:Bank of America wordmark.svg|200px]]
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|画像説明 = [[ノースカロライナ州]][[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット市]]にある<br />バンク・オブ・アメリカの本部。
|市場情報= {{上場情報 | NYSE | BAC }}{{上場情報 | 東証1部 | 8648 | 1998年9月28日}}
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|略称= バンカメリカ, バンカメ
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|本社所在地= [[ノースカロライナ州]][[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]]<br /><small>{{coord|35|13|38.2|N|80|50|31.5|W|region:US|display=inline}}</small>
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|業種= 銀行業
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|事業内容= 消費者及び中小企業向け銀行事業<br />法人及び投資銀行事業<br />資産投資管理事業
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|代表者= ケネスD<br />(会長兼最高経営責任者兼社長)
|代表者= {{仮リンク|ブライアンTニハン|en|Brian Moynihan}}<br />(取締役会会長兼最高経営責任者兼社長)
|資本金= 4,438万ドル<br />(2007年12月31日現在
|資本金= 4,438万ドル<br />(2007年12月31日時点
|売上高= 663億19百万ドル<br />(2007年12月31日終了事業年度)
|売上高= 663億19百万ドル<br />(2007年12月31日終了事業年度)
|総資産= 2兆4,429億05百万ドル<br />(2009年9月30日現在
|総資産= 2兆4,429億05百万ドル<br />(2009年9月30日時点
|従業員数= 約210,000人(2015年)<ref name="FY">{{cite web|url=https://www.google.com/finance?q=NYSE%3ABAC&fstype=ii&ei=vWq9VpnvAsyYuASXoqXYDA|title=2015 annual results|publisher=Bank of America Corp|accessdate=2016年11月14日}}</ref>
|従業員数= 約210,000人(2007年12月31日現在)
|決算期= [[12月31日]]
|決算期= [[12月31日]]
|主要株主= [[バークシャー・ハサウェイ]](6.64%)<br />[[:en:The Vanguard Group|The Vanguard Group]](6.55%)<br />[[ブラックロック]](6.53%)<br />[[ステート・ストリート]](4.34%)<br />[[フィデリティ・インベストメンツ]](3.46%)<br>2017年末現在<ref>YahooFinance, Reported Dec 30, 2017</ref>
|主要株主= シード・アンド・カンパニー 92.6%(※)<br />(2007年12月31日現在)
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|外部リンク= [http://www.bankofamerica.com/ www.bankofamerica.com]{{En icon}}
|外部リンク= [https://www.bankofamerica.com bankofamerica.com]{{En icon}}
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|特記事項= ※ デポジタリー(保管機関)のノミニー(名義人)である。
}}
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'''バンク・オブ・アメリカ'''({{lang-en|Bank of America Corporation}})は、[[アメリカ合衆国]][[ノースカロライナ州]]の[[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット市]]に本社を置く[[銀行]]である。'''バンカメリカ'''や'''バンカメ'''の略称で呼ばれることもあり、英語の略称は'''BofA'''である。ニューヨーク証券取引所上場企業({{nyse|BAC}})。なお、名称から「[[連邦準備制度|アメリカの中央銀行]]」と間違えられるが、[[中央銀行]]ではない。日本法人としてホールセール専門の[[証券会社]]([[投資銀行]])である[[BofA証券]](旧メリルリンチ日本証券)を展開している。


== 概要 ==
[[ファイル:Bank of America Corporate Center.jpg|thumb|250px|[[米国]]・[[ノースカロライナ州]][[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット市]]にあるバンク・オブ・アメリカの本部。]]
1998年、'''[[ネーションズバンク]]'''(NationsBank)が'''バンクアメリカ'''(BankAmerica)を吸収合併した(バンク・オブ・アメリカ・コーポレーション)。このとき財務情報が新株主に正しく伝えられなかったので、2002年に和解金5億ドルを支払うことになった<ref name=maji />。
[[2004年]]、[[連邦預金保険公社]]に国内預金市場占有率を5130億ドルと評価された<ref group=注釈>2番目に3530億ドルを保有している[[JPモルガン・チェース]]=バンク・ワン、第3番目の2280億ドルを保有する[[ウェルズ・ファーゴ]]と比べて遥かに抜きん出ている(2003年6月30日時点)。バンク・オブ・アメリカは預金シェアの点において2番目のライバル会社をリードしているかもしれないが、他の金融サービス会社は財産の基礎、利益、市場投資の点で遥かに上回る。</ref>。さらに、[[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン市]]を拠点としたフリートボストン([[:en:FleetBoston Financial|FleetBoston]])を470億ドルで買収した<ref group=注釈>統合したバンク・オブ・アメリカおよびフリートは、29の州で3500万人の顧客を抱える5,700の支店を持つ。フリートボストンとの合併の後、[[市中銀行]]や貯蓄やローンの預金の毎10ドルごとのおよそ1の割合でバンク・オブ・アメリカの預金であった。</ref>。


[[世界金融危機]]で不良資産救済プログラム([[:en:Troubled Asset Relief Program|Troubled Asset Relief Program]])の対象となり、優先株250万ドルを発行した<ref name=maji />。ユーロ危機後に収益が悪化、大規模な事業売却をくりかえしている。バンカメ証券([[:en:Banc of America Securities|Banc of America Securities]])は[[シティグループ]]の戦略に従って設立され、シティグループのように[[ユーロ債]]を取引している。なお、他の[[メガバンク]]同様、バンク・オブ・アメリカも十分に[[機関投資家|機関化]]されている。
'''バンク・オブ・アメリカ'''(''Bank of America Corporation'')は、[[アメリカ合衆国]][[ノースカロライナ州]]の[[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット市]]に本社を置く銀行である。「バンカメリカ」や「バンカメ」の略称で呼ばれることもある。

[[日本]]における事務所は「バンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイ東京支店」として [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]日本橋1-4-1 [[日本橋一丁目ビルディング]]にある。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
*[[1998年]] - [[ネーションズバンク]](NationsBank)が親会社バンクアメリカ(BankAmerica)を吸収合併し、合併後の名称をバンク・オブ・アメリカ・コーポレーションとした。この際、バンク・オブ・アメリカNT&SAがその名称をバンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイに変更。
*[[1998年]] - [[ネーションズバンク]](NationsBank)が親会社バンクアメリカ(BankAmerica)を吸収合併し、合併後の名称をバンク・オブ・アメリカ・コーポレーションとした<ref name=maji>''International Directory of Company Histories'', Vol.101, pp.51-64.</ref>。この際、バンク・オブ・アメリカNT&SAがその名称をバンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイに変更<ref group=注釈>バンク・オブ・アメリカは5700億ドルの総資産および22の州の4,800店の支店を有していた。このとき、バンク・オブ・アメリカは、その名称の末尾に付されていたNT&SAをN.A.に変更した。</ref>。これは当時、歴史上最大の銀行間取引であった。2つの巨大な会社の規模にも関わらず、連邦取締人はニューメキシコの13支店の剥奪のみ主張しただけであった<ref group=注釈>合併後の新銀行が、ニューメキシコの唯一の銀行となってしまうため。支店の剥奪は、合併後の新銀行のFDIC預金市場占有率が特定の州で25%以上、あるいは連邦全体で10%以上となった場合のみ行われる。</ref>
*[[2001年]]、バンク・オブ・アメリカのCEOであり社長でもあるヒュー・マックコール([[:en:Hugh McColl|Hugh McColl]])が辞職し、ケネス・ルイス([[:en:Ken Lewis (executive)|Ken Lewis]])を彼の後継者として指名した。
*[[2008年]][[9月15日]]、米国第3位の[[投資銀行]] [[メリルリンチ]](総資産1兆0200億ドル。2007年12月現在)を1株29ドル、総額500億ドルで買収することを発表。
*[[2003年]][[9月3日]]、[[ミューチュアル・ファンド]]を利用した不正競争の疑いで捜査される。
*[[2005年]]、バンクアメリカ副社長を1993年から務めていたジェームズ・ハンス(James H. Hance, Jr.)が[[カーライル・グループ]]へ移籍した。バンク・オブ・アメリカは[[中国建設銀行]]に9%資本参加した<ref name=maji />。
*[[2007年]]、[[#合理化と持株会社|チャールズ・シュワブ]]からUSトラスト([[:en:U.S. Trust|U.S. Trust]])を買収、さらに[[ABNアムロ銀行]]からラサール銀行([[:en:LaSalle Bank|LaSalle Bank]])も買収した<ref name=maji />。
*[[2008年]][[9月15日]]、アメリカ合衆国第3位の[[投資銀行]]である[[メリルリンチ]](総資産1兆0200億ドル。2007年12月現在)を1株29ドル、総額500億ドルで買収することを発表<ref name=maji /><ref group=注釈>買収を求めていた[[リーマン・ブラザーズ]]は同日[[倒産]]した。</ref>。
*[[2009年]][[1月1日]]、メリルリンチをグループ傘下におさめ、アメリカ最大の民間金融機関となった<ref name=maji />。
*[[2010年]]、自治体や学校・病院を詐欺した容疑で連邦政府から賠償訴訟を提起された。
*2013年、中国建設銀行の株式を全て売却した。
*2014年、ハンティントン・バークシャー([[:en:Huntington Bancshares|Huntington Bancshares]])へミシガン州の数十支店を売却した。
*[[2015年]]2月、[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の引き金となった[[サブプライムローン]]の不動産証券の不正販売をめぐり、[[アメリカ合衆国司法省]]と166億5千万ドルの支払いで和解した<ref>産経ニュース [https://web.archive.org/web/20150518102417/http://www.sankei.com/economy/news/150226/ecn1502260033-n1.html モルガン・スタンレーが3千億円で米司法省と和解 リーマン契機の不正販売で] 2015.2.26 11:08</ref>。


<!--== ネーションズバンク社の歩み ==
*[[2009年]][[1月1日]]、メリルリンチをグループ傘下におさめ、アメリカ最大の民間金融機関となった。
起こりは[[1874年]]に[[ノースカロライナ州]]シャーロットで[[商業銀行]]として開店した'''コマーシャル・ナショナル・バンク'''(CNB)である。


[[1957年]]、シャーロットを本拠とした信託会社'''アメリカントラスト'''を買収した後のCNBの総資産は2億3400万ドルに上り、'''アメリカン・コマーシャル・バンク'''(ACB)を設立した。
== ネーションズバンク社の歩み ==
バンク・オブ・アメリカの最も先駆けである'''コマーシャル・ナショナル・バンク''' (CNB) は [[1874年]]シャーロットで[[商業銀行]]として開店した。


[[1957年]]、シャーロットを本拠としたアメリカの信託会社を買収した後のCNBの総資産は2億3400万ドルに上り、'''アメリカン・コマーシャル・バンク''' (ACB)を設立した。[[1960年]]、シャーロットを本拠としたセキュリティ・ナショナル・バンクを買収の後、ACBは'''ノース・カロライナ・ナショナル・バンク''' (NCNB) を変更
[[1960年]]、シャーロットを本拠とした'''セキュリティ・ナショナル・バンク'''を買収の後、ACBは'''ノース・カロライナ・ナショナル・バンク'''(NCNB)称。


NCNBは[[1982年]]初めて、ノースカロライナ州外の地域に経営を拡大した。[[フロリダ州]]の[[レイクシティ]]を本拠とした間にまたがったファースト・ナショナル・バンク・オブ・レイクシティを買収したときであった。翌年、[[ヒュー・マックコール]]がNCNBのCEOとなる
[[1982年]]、ノースカロライナ州外の地域に経営を拡大し[[フロリダ州]]の[[レイクシティ]]を本拠としたアメリカ際銀行'''ファースト・ナショナル・バンク・オブ・レイクシティ'''を買収した。


[[1983年]]、[[ヒュー・マッコール]]がNCNBの[[最高経営責任者]](CEO)となる。
[[1988年]]、[[FDIC]]から倒産したファースト・リパブリック・オブ・テキサスダラスを買収した。当時のNCNBの財産は600億ドルであった。NCNBは'''NCNBコーポレーション'''に名称を変更。[[ジョージア州]]の[[アトランタ (ジョージア州)|アトランタ市]]を本拠地としたC&Sソブラン・コープの買収時、ネーションズバンクに名称を変更。相次いだ合併により総資産は1180億ドルまで伸びた。


[[1988年]]、[[連邦預金保険公社]]から、倒産したファースト・リパブリック・オブ・テキサスダラスを買収、NCNBは'''NCNBコーポレーション'''に社名を変更。当時のNCNBの財産は600億ドルであった。[[ジョージア州]]の[[アトランタ (ジョージア州)|アトランタ市]]を本拠地とした'''C&Sソブラン・コープ'''の買収時、'''ネーションズバンク'''に社名を変更。相次いだ合併により、総資産は1180億ドルまで伸びた。
[[1996年]]、[[ミズーリ州]]の[[セントルイス]]を本拠地としたボートメンズ・バンクシェアーズを96億ドルで買収した。2250億ドルの総資産で、ノースカロライナ州から[[ニューメキシコ州]]まで2600の支店がある南アメリカにおいて最も規模が大きい銀行に成長した。


年、'''ネーションバンク'''はフロ州の最も大きい銀行と、ジャクソルを本拠地としたネッ銀行155億ドルで買収した。会社全体の総資産は2840億ドルまで成長。
[[1996]][[ミリ州]][[セイス]]を本拠地とした'''ボートメンズ・バンクシェアーズ'''96億ドルで買収した。総資産は2250億ドル、ノースカロライナ州から[[ニューメキシコ州]]まで2600の支店を持つ、アメリカにおいて最も規模が大きい銀行に成長した


[[1997年]]、'''ネーションズバンク'''は、ジャクソンビルを本拠地としたフロリダ州最大の銀行'''バーネットバンク'''を155億ドルで買収、ネーションズバンク全体の総資産は2840億ドルにまで成長した。--><!--[[ネーションズバンク]]に転記するのが望ましい-->
== バンクアメリカ社の歩み ==
[[ネーションズバンク]]の歴史はリンク先に譲る。次節以下はバンク・オブ・アメリカの前身企業、バンクアメリカの歴史である。
[[1904年]]、バンク・オブ・アメリカは[[アマデオ・ジアニーニ]]によって、バンク・オブ・イタリアの商号で、労働者階級-特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、[[サンフランシスコ]]に設立された。[[1906年]]の[[サンフランシスコ地震]]にも生き延び、翌日からは市街の再建ビジネスに融資を提供する最初の銀行にもなる。[[1919年]]に[[連邦準備制度]]に加盟し、融資範囲を拡大。ジアニーニは、[[1949年]]の死まで、会長として陣頭指揮を執り、銀行を大きくした。[[1929年]]、[[カリフォルニア州]][[サンペドロ (カリフォルニア州)|サンペドロ]]([[:en:San Pedro, Los Angeles, California|San Pedro, California]])のバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。概ね[[ネームバリュー]]を得たかったのだろうと言われる。


== アマデオ・ジアニーニ ==
当時、国法銀行(National Association。連邦政府から認可を受けて営業する商業銀行。州が認可する州法銀行に対する)の多くは、商号の末尾にN.A.と付していた。しかし、合併新銀行には旧来の銀行とは異なった機能が存在することを強調したかったジアニーニは、新銀行の商号の末尾をNT&SA(National Trust and Saving Association)として、このユニークな慣習には従わなかった。かくて、アメリカで唯一NT&SAと名乗る新生バンク・オブ・アメリカは、カリフォルニア州最大の商業銀行となった。
[[1904年]]、バンクアメリカはアマデオ・ジアニーニ([[:en:Amadeo Giannini|Amadeo Giannini]])によって、バンク・オブ・イタリア([[:en:Bank of Italy (United States)|Bank of Italy]])の商号で、労働者階級-特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、[[サンフランシスコ]]に設立された<ref name=maji />{{Refnest|group=注釈|この点、異説がある。バンク・オブ・イタリアは[[サスーン]]財閥によって[[上海]]に設立され、[[満州事変]]直後に[[三井財閥]]と組んでアヘン密輸ルートを開拓したが、戦後に本店をサンフランシスコに移して社名をバンク・オブ・アメリカに変更したとするものである<ref>竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 137-138</ref>。なお、バンク・オブ・アメリカという名前の銀行は当時に複数あって、中には本稿のバンカメに吸収されたものも存在する。}}。[[1906年]]の[[サンフランシスコ地震]]にも生き延び、翌日からは市街の再建ビジネスに融資を提供する最初の銀行となった。[[1907年恐慌]]ではソキエタ・バンカリア・イタリアーナ(Società Bancaria Italiana)を救済するため、頭取であったボナルド([[:en:Bonaldo Stringher|Bonaldo Stringher]])が[[米国債]]の利子を立替えて流動性を回復した<ref>Charles P. Kindleberger, Robert Z. Aliber, ''Manias, Panics and Crashes: A History of Financial Crises, Sixth Edition'', Palgrave Macmillan, 2011, p.222. "Bonelli's statements about the 1907 crisis in Italy ofer a moving account of a muddle. The Società Bancaria Italiana was failing, and dragging down a host of small financial, mercantile, and industrial firms. A consortium of the larger banks put together a support fund. The Bank of Italy was involved early and deeply, and almost became too heavily committed. The Treasury finally came to rescue, at the insistance of Bonaldo Stringher, governor of the Bank of Italy, and paid the interest on the national debt early and thus relieved the liquidity crisis."</ref>。


[[1919年]]7月に[[連邦準備制度]]に加盟した<ref>Marquis James, Bessie R. James, ''The Story of Bank of America: Biography of a Bank'', Beard Books, 2002, p.94.</ref>。バンク・オブ・イタリアはクロッカー([[:en:Crocker National Bank|Crocker National Bank]])が小さく見えるほど拡大したが、連邦準備制度は会員銀行にそれ以上の支店設置を認めなかった<ref name=maji />。しかし会員銀行は貿易特権があった。本国[[イタリア]]は1925年に[[JPモルガン]]から10億ドルを借りた。会員銀行は勢いづいた。1927年、[[カリフォルニア州]]の金融当局が態度を軟化させて支店拡大を認めたのである<ref name=maji />。翌1928年に二つ目の持株会社トランスアメリカをつくった(Transamerica)<ref name=maji /><ref group=注釈>持株会社トランスアメリカは、西部各州への銀行網の拡大や、保険産業への進出に力を費やした。</ref>。1929年、[[サンペドロ (カリフォルニア州)|サンペドロ]]のバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。さらに、二つ目の持株会社がブレア商会(Blair & Company)と合併した<ref name=maji />。ブレア社長のエリシャ・ウォーカー(Elisha Walker, October 8, 1879 - November 8, 1950)は、[[クーン・ローブ]]のパートナーであった。ジアニーニは彼という[[ウォール街]]通がほしかったのである<ref name=maji />。1930年、二つの持株会社が統合された({{lang-en-short|National Trust and Saving Association}})<ref group=注釈>当時、国法銀行の多くは、商号の末尾にN.A.と付していた。しかし、合併新銀行には旧来の銀行とは異なった機能が存在することを強調したかったジアニーニは、新銀行の商号の末尾をNT&SAとして、このユニークな慣習には従わなかった。かくて、アメリカで唯一NT&SAと名乗る新生バンク・オブ・アメリカは、カリフォルニア州最大の商業銀行となった。</ref>。ジアニーニは引退して社長職をウォーカーに譲ったが、しかしウォーカーがトランスアメリカを解散して清算しようとしたので、それを聞きつけて1931年に再び社長となり、カリフォルニア州の株主を説得して主導権を回復した<ref name=maji />。それでも[[世界恐慌]]のダメージがジアニーニを連邦の金融政策から疎外していった。1937年、連邦準備制度がトランスアメリカとバンクアメリカ(旧バンク・オブ・イタリア)を強制分離しようとしたのである<ref name=maji />。バンクアメリカは[[第二次世界大戦]]で著しい成長を遂げた。
多くの銀行家がそうであるように、ジアニーニもまた、持株会社トランスアメリカを設立し、西部各州への銀行網の拡大や、保険産業への進出に力を費やした。しかしこのことは、銀行業とそれ以外の兼業を禁じた1956年銀行持株会社法(Bank Holding Company Act of 1956)の制定につながり、バンク・オブ・アメリカは保険事業をトランスアメリカに譲渡。さらにカリフォルニア州外の銀行業務を、やはり新たに設立されたファースト・インターステート・バンコープ(1996年ウェルズ・ファ-ゴに吸収)に譲渡せざるを得なかった。バンク・オブ・アメリカが再びカリフォルニア州外での商業銀行業務を許されたのは1980年代になってからである。


== 合理化と持株会社 ==
カリフォルニア州は[[第二次世界大戦]]後、最も急速に経済成長を遂げた州であったため、当座預金の引き出し率が最も高かった(第二次大戦で戦った兵士の給与の支払に銀行が利用されることも多かった)。銀行は殺到する小切手の処理に追われた。バンク・オブ・アメリカとて例外ではなかった。
戦後、バンクアメリカは[[情報革命]]に努めた。[[ゼネラル・エレクトリック|ジェネラル・エレクトリック]]や[[スタンフォード大学|スタンフォード研究所]](現・SRIインターナショナル)と提携し、業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、[[磁気インク文字認識]]([[MICR]])などを開発した。1954年クラーク・ベイズ(Clark Beise)が社長となっていたが、1963年までオートメーション化を進め職責を果した。彼は[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ウォルト・ディズニー・プロダクション]]とフルハーフ([[日本フルハーフ]]の親会社)で重役をつとめ、[[SRIインターナショナル]]で顧問をしたこともあった<ref>[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]], "Clark Beise, 91; Headed Bank of America", Oct 26, 1989</ref>。1956年、銀行持株会社法([[:en:Bank Holding Company Act|Bank Holding Company Act]])が制定されて、銀行業とそれ以外の兼業を禁じた。バンクアメリカは保険事業をトランスアメリカに譲渡。さらにカリフォルニア州外の銀行業務を、やはり新たに設立されたファースト・インターステート・バンコープ(1996年[[ウェルズ・ファーゴ]]に吸収)に譲渡せざるを得なかった。[[1958年]]には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された<ref group=注釈>これは後の[[1976年]]に[[VISA]]カードに変わる。</ref>。[[1960年]]アメリカ・ニューヨーク州にあるチェースマンハッタン銀行が、バンカメリカードと競争するため、Master Charge(現在のMasterCard[[1962年]])を発明した。1968年、バンクアメリカおよびその子会社を所有する目的でバンクアメリカ・コーポレーションが設立された<ref name=maji />。1971年にトム・クラウセン([[:en:Alden W. Clausen|Alden W. Clausen]])が社長となり、1981年に[[世界銀行]]へ移った<ref name=maji />。これは[[第三世界]]の[[対外債務]]がデフォルトしそうなので、国際交渉に参加しようということであった。なにせ、バンクアメリカは当時[[アグリビジネス]]に対する世界最大の貸し手であった。サム・アルマコスト([[:en:Samuel Armacost|Sam Armacost]])が社長職を引き継いだ。1983年、バンクアメリカはシアトルのシーファスト・コーポレーションと、その銀行業務の子会社であるシーシアトル・ファースト・ナショナル・バンクを買収し([[:en:Seafirst Bank|Seafirst Bank]])<ref group=注釈>シーファストは石油産業への一連の不良債権によって支払い不能になった。</ref>、カリフォルニア以外に経営を広げることを許された。同1983年、チャールズ・シュワブ([[:en:Charles Schwab Corporation|Charles Schwab Corporation]])を買収した。このブローカーは翌年ノーロードの[[ミューチュアル・ファンド]]を設定した。[[ジャンク債]]の隆盛期であった。そこへ[[ラテンアメリカ]]などがデフォルトし、バンクアメリカは1986-87年に巨大な損失を被った。クラウセンはチャールズ・シュワブとグループのイタリア子会社を売り払った<ref name=maji />。


== 証券業への進出 ==
[[1949年]]当時、銀行窓口は午後2時には閉じていた。終業時間の午後5時までにその日の帳簿を締め切らなければならなかったためである。処理の多さに対応するため、バンク・オブ・アメリカは情報処理技術の革新に力を注いだ。[[ジェネラル・エレクトリック]]や[[スタンフォード大学|スタンフォード研究所]](現・SRIインターナショナル)と提携し、現代の銀行では主流となっている業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、[[磁気インク文字認識]]([[MICR]]) などを開発。そして、今日では一般的に信頼が置かれているこれらの技術に基づいて開発されたクレジットカードなども生まれている。これら技術の拡充のおかげで、他の銀行よりも著しく低い管理コストで済み、さらなる経営拡大に成功する。1970年代初期まで世界最大の銀行であった。
[[1987年]]の[[ブラックマンデー]]から[[1992年]]までの5年間バンク・アメリカは1株当たり8ドルで取り引きされていた。事業整理が進んで1990年ごろ収益を回復し、[[機関投資家]]を資本参加させるにつれて株価は大きく反発した。国内外の拡大路線に回帰して、ミラノ支店を開いた。1991年、ヒューストンのヴィレッジ・グリーン・ナショナル・バンクと、そのミューチュアル・ファンド運用や[[租税回避]]を請け負っていたGNA証券を買収した<ref name=maji />。1992年、バンクアメリカはカリフォルニアでライバル社であったセキュリティ・パシフィック・コープと、カリフォルニアにある子会社のセキュリティ・パシフィック・ナショナル・バンク([[:en:Security Pacific Bank|Security Pacific Bank]])を買収した。セキュリティ・パシフィックが1980年代後半に手に入れた広東銀行([[:en:Bank of Canton|Bank of Canton]])も手に入れた。譲り受けた支店は、[[アリゾナ州]]、[[アイダホ州]]、[[オレゴン州]]や[[ワシントン州]]にもあった。セキュリティ・パシフィックのワシントン子会社レイナー・バンク([[:en:Rainier Bancorp|Rainier Bancorp]])は、連邦当局が売却させた。それ以降、バリー・バンク・オブ・ネバダを獲得することで、ネバダ州にまで経営を拡大させた。1993年、[[中国人民銀行]]の認可を得て[[広州市]]の代理店をフルサービスの支店に変えた<ref name=maji />。[[1994年]]、バンクアメリカはシカゴの[[コンチネンタル・イリノイ銀行]]を獲得した<ref group=注釈>同行はシー・ファーストの価値を下げた同じ石油ブームの破綻をきっかけに国有化されていた。コンチネンタルを救済できる資金を有する銀行は存在しなかったため、連邦政府が10年近く銀行を運営した。当時、イリノイでは支店銀行制を禁止していた。そのため、バンク・オブ・アメリカ・イリノイは21世紀まで、単一の銀行であった。</ref>。バンク・オブ・アメリカは経営戦略を展開する店舗を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させた。1996年、ダヴィッド・コールター([[:en:David Coulter (banker)|David Coulter]])が社長兼会長となった<ref name=maji />。バンクアメリカはノンバンクを自由化する、あるいは[[シャドー・バンキング・システム]]を拡張する規制緩和を望んだ。([[グラム・リーチ・ブライリー法]]へ向かって)連邦法は緩和しだしたので、バンクアメリカは1997年にロバートソン・ステファン([[:en:Robertson Stephens|Robertson Stephens]])を買収することができた<ref name=maji />。翌1998年、バンクアメリカが[[ネーションズバンク]]と合併した。ネーションズの子会社モントゴメリー証券([[:en:Montgomery Securities|Montgomery Securities]])は、ロバートソン・ステファンと協働することができなかった。ロバートソン・ステファンは1998年の間にバンクボストン([[:en:BankBoston|BankBoston]])へ売られた。


== 脚注 ==
[[1958年]]には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これは後の[[1976年]]に[[VISA]]カードに変わる。その2年後[[1960年]]アメリカ・ニューヨーク州にあるチェースマンハッタン銀行が、バンカメリカードと競争するため、Master Charge(現在のMasterCard[[1962年]])を発明した。
===注釈===

{{Reflist|group=注釈}}
[[1967年]]の銀行持株会社決議の一件に続いて、バンク・オブ・アメリカおよびその子会社を所有する目的でバンクアメリカ・コーポレーションが設立された。
===出典===

{{Reflist}}
バンクアメリカはシアトルのシーファスト・コーポレーションと、その銀行業務の子会社であるシーシアトル・ファースト・ナショナル・バンクを買収し、[[1983年]]カリフォルニア以外に経営を広げた。シーファストは石油産業への一連の不良債権によって支払い不能になったため、連邦政府により分割化されるリスクがあった。しかしながら、バンクアメリカはネーションズバンクとの合併まで、この銀行をバンク・オブ・アメリカではなくシー・ファーストとして運営し続けた。

バンク・オブ・アメリカは第三世界(特にラテンアメリカ)の債務が不良債権化し、[[1986年]]と[[1987年]]に巨大な損失を被った。CEOである[[サム・アルマコスト]]は前任者であるA・W・トム・クラウセンに問題があったと非難したが、会社は彼を解雇した。この解任は、結果的にバンク・アメリカの株の大きな下落を招く。会社の力を弱めることによって乗っ取りを成功させようとした。ほとんどクライスラーにファイナンス・アメリカの子会社に売ることによって、および証券会社チャールズ・シュワッブをシュワッブへ戻す形で売却することによってバンク・アメリカは拒絶したが、ロサンジェルスのファースト・インターステート・バンコープ(BofAがかつて所有した銀行から築かれた一つ)は1986年の秋にそのような企てを実行し始めた。[[1987年]]の[[ブラックマンデー]]から[[1992年]]までの5年間バンク・アメリカは1株当たり8ドルで取り引きされていたが、その後の株価は大きく反発し、最も大きく利益を得た銀行のうちの1つとなった。

バンク・オブ・アメリカは、1992年に次の大きな利益を得る。バンク・オブ・アメリカはカリフォルニアでライバル社であったセキュリティ・パシフィック・コープと、カリフォルニアにある子会社のセキュリティ・パシフィック・ナショナル・バンクを手に入れた。他にも、[[アリゾナ州]]、[[アイダホ州]]、[[オレゴン州]]や[[ワシントン州]]といったセキュリティ・パシフィックが1980年代後半に手に入れた他の銀行も手に入れた。これは歴史上最も大きな銀行取り引きであった。しかしながら、シー・ファーストとレニエの連合が、バンク・アメリカにその州の市場のあまりにも大規模なシェアを与えるため、連邦取締人によってセキュリティ・パシフィックのワシントン子会社レイナー・バンクを売却させられた。それ以降、バリー・バンク・オブ・ネバダを獲得することで、ネバダ州にまで経営を拡大させた。

[[1994年]]、バンク・オブ・アメリカはシー・ファーストの価値を下げた同じ石油ブームの破綻をきっかけに国有化されていたシカゴの[[コンチネンタル・イリノイ銀行]]を獲得した。当時、コンチネンタルを救済できる資金を有する銀行は存在しなかったため、連邦政府が10年近く銀行を運営した。当時、イリノイでは支店銀行制を禁止していた。そのため、バンク・オブ・アメリカ・イリノイは21世紀まで、単一の銀行であった。バンク・オブ・アメリカは経営戦略を展開する店舗を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させた。後に起こった合併の後でさえ、中西部は他のバンク・オブ・アメリカの支店がないままである。

これらの合併は、バンク・アメリカ株式会社が再び預金高で米国最大の銀行持株会社になるための一助となった。しかし、[[1997年]]、会社は急成長するナショナル・バンクに抜かれ2位に後退。[[1998年]]にはノース・カロライナズ・ファースト・ユニオン社に抜かれ3位に転落。ファースト・ユニオン・ナショナル・バンク・オブ・ノースカロライナに抜かれ、2位に転落した1998年まで、カリフォルニア・バンクは最も大きい銀行であった。(これは、ノースカロライナ単独でファースト・ユニオンの市場占有が理由ではなく、BofAが当時取引していた州ごとに個別の銀行を展開する一方、ノースカロライナへその支店をすべて統合してしまった専門的な理由からである。)

== 合併後のバンク・オブ・アメリカ社の歩み ==
ネーションズバンクによるバンクアメリカの吸収合併はその当時、歴史上最大の銀行取引であった。2つの巨大な会社の規模にも関わらず、連邦取締人はニューメキシコの13支店の剥奪のみ主張しただけであった(合併後の新銀行が、ニューメキシコの唯一の銀行となってしまうため)。その理由は、支店の剥奪は、合併後の新銀行のFDIC預金市場占有率が特定の州で25%以上、あるいは連邦全体で10%以上となった場合のみ行われるためである。ネーションズバンク、バンク・オブ・アメリカによる648億ドルでのバンク・アメリカの獲得に続く。バンク・オブ・アメリカは5700億ドルの総資産および22の州の4,800店の支店を有していた。このとき、バンク・オブ・アメリカは、その名称の末尾に付されていたNT&SAをN.A.に変更した。

[[2001年]]、バンク・オブ・アメリカのCEOであり社長でもあるヒュー・マックコールが辞職し、ケネス・ルイスを彼の後継者として指名した。ルイスの金融訓練および効率性に関するより大きな焦点は、彼の前任者の合併および獲得戦略の発展性とより顕著に対照的である。

[[2004年]]、バンク・オブ・アメリカは最大のFDICにアメリカの預金市場占有率は5130億ドルと評価されたため、バンク・オブ・アメリカの立場を固めるために、[[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン市]]を拠点とした[[フリート・ボストン]]を470億ドルで買収した。2番目に3530億ドルを保有しているJ.P.モーガン・チェイス=バンク・ワン、第3番目の2280億ドルを保有するウェルズ・ファーゴと比べて遥かに抜きん出ている。(2003年6月30日時点)

統合したバンク・オブ・アメリカおよびフリートは、29の州で3500万人の顧客を抱える5,700の支店を持つ。フリート・ボストン・ファイナンシャルとの合併の後、[[市中銀行]]や貯蓄やローンの預金の毎10ドルごとのおよそ1の割合でバンク・オブ・アメリカの預金であった。

バンク・オブ・アメリカは預金シェアの点において2番目のライバル会社にかなりの差があるかもしれないが、他の金融サービス会社は財産の基礎、利益、市場投資の点で遥かに上回る。

== 関連文献 ==


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[バンク・オブ・アメリカ・プラザ (ダラス)]] - [[テキサス州]][[ダラス]]
* [[バンク・オブ・アメリカ・プラザ (ダラス)]] - [[テキサス州]][[ダラス]]
* [[バンク・オブ・アメリカ・スタジアム]] - [[NFL]][[カロライナ・パンサーズ]]の本拠地スタジアム。2004年からバンク・オブ・アメリカが[[命名権]]を取得。
* [[バンク・オブ・アメリカ・スタジアム]] - [[NFL]][[カロライナ・パンサーズ]]の本拠地スタジアム。2004年からバンク・オブ・アメリカが[[命名権]]を取得。
* [[中央銀行]]
* [[日本]]における事務所は“バンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイ東京支店”として [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]日本橋1-4-1 [[日本橋一丁目ビルディング]]にある。
** [[連邦準備制度|アメリカの中央銀行]]
* [[ネーションズバンク]]
* アメリカ3大[[メガバンク]]
** [[シティグループ]]
** [[JPモルガン・チェース]]
* バンク・オブ・アメリカの[[主要株主]]
** [[バークシャー・ハサウェイ]](6.64%)
** [[:en:The Vanguard Group|The Vanguard Group]](6.55%)
** [[ブラックロック]](6.53%)
** [[ステート・ストリート]](4.34%)
** [[フィデリティ・インベストメンツ]](3.46%)
* [[共済]]
** [[アメリカの共済]]
* [[信用組合]]
** [[アメリカの信用組合]]([[クレジットユニオン]])


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Bank of America}}
{{Commons|Category:Bank of America}}
*[http://www.bofa.com Bank of America(英語版)]
*[https://www.bankofamerica.com Bank of America]{{En icon}}
*[http://www2.fdic.gov/sod/index.asp the FDIC(英語版)]
*[https://www.fdic.gov/ the FDIC(英語版)]
*[https://www.bofaml.com/content/boaml/ja_jp/home.html# バンク・オブ・アメリカ東京支店]{{Ja icon}}(東京支店のホームページ)


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[[sv:Bank of America]]
[[uk:Банк Америки]]
[[uz:Bank of America]]
[[war:Bank of America]]
[[zh:美國銀行]]

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バンク・オブ・アメリカ
Bank of America Corporation
ノースカロライナ州シャーロット市にある
バンク・オブ・アメリカの本部。
種類 株式会社
市場情報
略称 バンカメリカ、バンカメ、BofA
本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州シャーロット
北緯35度13分38.2秒 西経80度50分31.5秒 / 北緯35.227278度 西経80.842083度 / 35.227278; -80.842083
設立 1928年
カリフォルニア州サンフランシスコ
業種 銀行業
法人番号 5700150003850 ウィキデータを編集
事業内容 消費者及び中小企業向け銀行事業
法人及び投資銀行事業
資産投資管理事業
代表者 ブライアン・T・モイニハン英語版
(取締役会会長兼最高経営責任者兼社長)
資本金 4,438万ドル
(2007年12月31日時点)
売上高 663億19百万ドル
(2007年12月31日終了事業年度)
総資産 2兆4,429億05百万ドル
(2009年9月30日時点)
従業員数 約210,000人(2015年)[1]
決算期 12月31日
主要株主 バークシャー・ハサウェイ(6.64%)
The Vanguard Group(6.55%)
ブラックロック(6.53%)
ステート・ストリート(4.34%)
フィデリティ・インベストメンツ(3.46%)
2017年末現在[2]
外部リンク bankofamerica.com(英語)
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バンク・オブ・アメリカ英語: Bank of America Corporation)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州シャーロット市に本社を置く銀行である。バンカメリカバンカメの略称で呼ばれることもあり、英語の略称はBofAである。ニューヨーク証券取引所上場企業(NYSEBAC)。なお、名称から「アメリカの中央銀行」と間違えられるが、中央銀行ではない。日本法人としてホールセール専門の証券会社投資銀行)であるBofA証券(旧メリルリンチ日本証券)を展開している。

概要[編集]

1998年、ネーションズバンク(NationsBank)がバンクアメリカ(BankAmerica)を吸収合併した(バンク・オブ・アメリカ・コーポレーション)。このとき財務情報が新株主に正しく伝えられなかったので、2002年に和解金5億ドルを支払うことになった[3]2004年連邦預金保険公社に国内預金市場占有率を5130億ドルと評価された[注釈 1]。さらに、マサチューセッツ州ボストン市を拠点としたフリートボストン(FleetBoston)を470億ドルで買収した[注釈 2]

世界金融危機で不良資産救済プログラム(Troubled Asset Relief Program)の対象となり、優先株250万ドルを発行した[3]。ユーロ危機後に収益が悪化、大規模な事業売却をくりかえしている。バンカメ証券(Banc of America Securities)はシティグループの戦略に従って設立され、シティグループのようにユーロ債を取引している。なお、他のメガバンク同様、バンク・オブ・アメリカも十分に機関化されている。

日本における事務所は「バンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイ東京支店」として 東京都中央区日本橋1-4-1 日本橋一丁目ビルディングにある。

沿革[編集]

ネーションズバンクの歴史はリンク先に譲る。次節以下はバンク・オブ・アメリカの前身企業、バンクアメリカの歴史である。

アマデオ・ジアニーニ[編集]

1904年、バンクアメリカはアマデオ・ジアニーニ(Amadeo Giannini)によって、バンク・オブ・イタリア(Bank of Italy)の商号で、労働者階級-特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、サンフランシスコに設立された[3][注釈 6]1906年サンフランシスコ地震にも生き延び、翌日からは市街の再建ビジネスに融資を提供する最初の銀行となった。1907年恐慌ではソキエタ・バンカリア・イタリアーナ(Società Bancaria Italiana)を救済するため、頭取であったボナルド(Bonaldo Stringher)が米国債の利子を立替えて流動性を回復した[6]

1919年7月に連邦準備制度に加盟した[7]。バンク・オブ・イタリアはクロッカー(Crocker National Bank)が小さく見えるほど拡大したが、連邦準備制度は会員銀行にそれ以上の支店設置を認めなかった[3]。しかし会員銀行は貿易特権があった。本国イタリアは1925年にJPモルガンから10億ドルを借りた。会員銀行は勢いづいた。1927年、カリフォルニア州の金融当局が態度を軟化させて支店拡大を認めたのである[3]。翌1928年に二つ目の持株会社トランスアメリカをつくった(Transamerica)[3][注釈 7]。1929年、サンペドロのバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。さらに、二つ目の持株会社がブレア商会(Blair & Company)と合併した[3]。ブレア社長のエリシャ・ウォーカー(Elisha Walker, October 8, 1879 - November 8, 1950)は、クーン・ローブのパートナーであった。ジアニーニは彼というウォール街通がほしかったのである[3]。1930年、二つの持株会社が統合された(: National Trust and Saving Association[注釈 8]。ジアニーニは引退して社長職をウォーカーに譲ったが、しかしウォーカーがトランスアメリカを解散して清算しようとしたので、それを聞きつけて1931年に再び社長となり、カリフォルニア州の株主を説得して主導権を回復した[3]。それでも世界恐慌のダメージがジアニーニを連邦の金融政策から疎外していった。1937年、連邦準備制度がトランスアメリカとバンクアメリカ(旧バンク・オブ・イタリア)を強制分離しようとしたのである[3]。バンクアメリカは第二次世界大戦で著しい成長を遂げた。

合理化と持株会社[編集]

戦後、バンクアメリカは情報革命に努めた。ジェネラル・エレクトリックスタンフォード研究所(現・SRIインターナショナル)と提携し、業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、磁気インク文字認識MICR)などを開発した。1954年クラーク・ベイズ(Clark Beise)が社長となっていたが、1963年までオートメーション化を進め職責を果した。彼はウォルト・ディズニー・プロダクションとフルハーフ(日本フルハーフの親会社)で重役をつとめ、SRIインターナショナルで顧問をしたこともあった[8]。1956年、銀行持株会社法(Bank Holding Company Act)が制定されて、銀行業とそれ以外の兼業を禁じた。バンクアメリカは保険事業をトランスアメリカに譲渡。さらにカリフォルニア州外の銀行業務を、やはり新たに設立されたファースト・インターステート・バンコープ(1996年ウェルズ・ファーゴに吸収)に譲渡せざるを得なかった。1958年には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された[注釈 9]1960年アメリカ・ニューヨーク州にあるチェースマンハッタン銀行が、バンカメリカードと競争するため、Master Charge(現在のMasterCard1962年)を発明した。1968年、バンクアメリカおよびその子会社を所有する目的でバンクアメリカ・コーポレーションが設立された[3]。1971年にトム・クラウセン(Alden W. Clausen)が社長となり、1981年に世界銀行へ移った[3]。これは第三世界対外債務がデフォルトしそうなので、国際交渉に参加しようということであった。なにせ、バンクアメリカは当時アグリビジネスに対する世界最大の貸し手であった。サム・アルマコスト(Sam Armacost)が社長職を引き継いだ。1983年、バンクアメリカはシアトルのシーファスト・コーポレーションと、その銀行業務の子会社であるシーシアトル・ファースト・ナショナル・バンクを買収し(Seafirst Bank[注釈 10]、カリフォルニア以外に経営を広げることを許された。同1983年、チャールズ・シュワブ(Charles Schwab Corporation)を買収した。このブローカーは翌年ノーロードのミューチュアル・ファンドを設定した。ジャンク債の隆盛期であった。そこへラテンアメリカなどがデフォルトし、バンクアメリカは1986-87年に巨大な損失を被った。クラウセンはチャールズ・シュワブとグループのイタリア子会社を売り払った[3]

証券業への進出[編集]

1987年ブラックマンデーから1992年までの5年間バンク・アメリカは1株当たり8ドルで取り引きされていた。事業整理が進んで1990年ごろ収益を回復し、機関投資家を資本参加させるにつれて株価は大きく反発した。国内外の拡大路線に回帰して、ミラノ支店を開いた。1991年、ヒューストンのヴィレッジ・グリーン・ナショナル・バンクと、そのミューチュアル・ファンド運用や租税回避を請け負っていたGNA証券を買収した[3]。1992年、バンクアメリカはカリフォルニアでライバル社であったセキュリティ・パシフィック・コープと、カリフォルニアにある子会社のセキュリティ・パシフィック・ナショナル・バンク(Security Pacific Bank)を買収した。セキュリティ・パシフィックが1980年代後半に手に入れた広東銀行(Bank of Canton)も手に入れた。譲り受けた支店は、アリゾナ州アイダホ州オレゴン州ワシントン州にもあった。セキュリティ・パシフィックのワシントン子会社レイナー・バンク(Rainier Bancorp)は、連邦当局が売却させた。それ以降、バリー・バンク・オブ・ネバダを獲得することで、ネバダ州にまで経営を拡大させた。1993年、中国人民銀行の認可を得て広州市の代理店をフルサービスの支店に変えた[3]1994年、バンクアメリカはシカゴのコンチネンタル・イリノイ銀行を獲得した[注釈 11]。バンク・オブ・アメリカは経営戦略を展開する店舗を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させた。1996年、ダヴィッド・コールター(David Coulter)が社長兼会長となった[3]。バンクアメリカはノンバンクを自由化する、あるいはシャドー・バンキング・システムを拡張する規制緩和を望んだ。(グラム・リーチ・ブライリー法へ向かって)連邦法は緩和しだしたので、バンクアメリカは1997年にロバートソン・ステファン(Robertson Stephens)を買収することができた[3]。翌1998年、バンクアメリカがネーションズバンクと合併した。ネーションズの子会社モントゴメリー証券(Montgomery Securities)は、ロバートソン・ステファンと協働することができなかった。ロバートソン・ステファンは1998年の間にバンクボストン(BankBoston)へ売られた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2番目に3530億ドルを保有しているJPモルガン・チェース=バンク・ワン、第3番目の2280億ドルを保有するウェルズ・ファーゴと比べて遥かに抜きん出ている(2003年6月30日時点)。バンク・オブ・アメリカは預金シェアの点において2番目のライバル会社をリードしているかもしれないが、他の金融サービス会社は財産の基礎、利益、市場投資の点で遥かに上回る。
  2. ^ 統合したバンク・オブ・アメリカおよびフリートは、29の州で3500万人の顧客を抱える5,700の支店を持つ。フリートボストンとの合併の後、市中銀行や貯蓄やローンの預金の毎10ドルごとのおよそ1の割合でバンク・オブ・アメリカの預金であった。
  3. ^ バンク・オブ・アメリカは5700億ドルの総資産および22の州の4,800店の支店を有していた。このとき、バンク・オブ・アメリカは、その名称の末尾に付されていたNT&SAをN.A.に変更した。
  4. ^ 合併後の新銀行が、ニューメキシコの唯一の銀行となってしまうため。支店の剥奪は、合併後の新銀行のFDIC預金市場占有率が特定の州で25%以上、あるいは連邦全体で10%以上となった場合のみ行われる。
  5. ^ 買収を求めていたリーマン・ブラザーズは同日倒産した。
  6. ^ この点、異説がある。バンク・オブ・イタリアはサスーン財閥によって上海に設立され、満州事変直後に三井財閥と組んでアヘン密輸ルートを開拓したが、戦後に本店をサンフランシスコに移して社名をバンク・オブ・アメリカに変更したとするものである[5]。なお、バンク・オブ・アメリカという名前の銀行は当時に複数あって、中には本稿のバンカメに吸収されたものも存在する。
  7. ^ 持株会社トランスアメリカは、西部各州への銀行網の拡大や、保険産業への進出に力を費やした。
  8. ^ 当時、国法銀行の多くは、商号の末尾にN.A.と付していた。しかし、合併新銀行には旧来の銀行とは異なった機能が存在することを強調したかったジアニーニは、新銀行の商号の末尾をNT&SAとして、このユニークな慣習には従わなかった。かくて、アメリカで唯一NT&SAと名乗る新生バンク・オブ・アメリカは、カリフォルニア州最大の商業銀行となった。
  9. ^ これは後の1976年VISAカードに変わる。
  10. ^ シーファストは石油産業への一連の不良債権によって支払い不能になった。
  11. ^ 同行はシー・ファーストの価値を下げた同じ石油ブームの破綻をきっかけに国有化されていた。コンチネンタルを救済できる資金を有する銀行は存在しなかったため、連邦政府が10年近く銀行を運営した。当時、イリノイでは支店銀行制を禁止していた。そのため、バンク・オブ・アメリカ・イリノイは21世紀まで、単一の銀行であった。

出典[編集]

  1. ^ 2015 annual results”. Bank of America Corp. 2016年11月14日閲覧。
  2. ^ YahooFinance, Reported Dec 30, 2017
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v International Directory of Company Histories, Vol.101, pp.51-64.
  4. ^ 産経ニュース モルガン・スタンレーが3千億円で米司法省と和解 リーマン契機の不正販売で 2015.2.26 11:08
  5. ^ 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 137-138
  6. ^ Charles P. Kindleberger, Robert Z. Aliber, Manias, Panics and Crashes: A History of Financial Crises, Sixth Edition, Palgrave Macmillan, 2011, p.222. "Bonelli's statements about the 1907 crisis in Italy ofer a moving account of a muddle. The Società Bancaria Italiana was failing, and dragging down a host of small financial, mercantile, and industrial firms. A consortium of the larger banks put together a support fund. The Bank of Italy was involved early and deeply, and almost became too heavily committed. The Treasury finally came to rescue, at the insistance of Bonaldo Stringher, governor of the Bank of Italy, and paid the interest on the national debt early and thus relieved the liquidity crisis."
  7. ^ Marquis James, Bessie R. James, The Story of Bank of America: Biography of a Bank, Beard Books, 2002, p.94.
  8. ^ The New York Times, "Clark Beise, 91; Headed Bank of America", Oct 26, 1989

関連項目[編集]

外部リンク[編集]