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⚫ | '''中川 文蔵'''(なかがわ ぶんぞう、[[1892年]]([[明治]]25年) / [[1893年]](明治26年) - [[1978年]]([[昭和]]53年))は、日本の農民、商人(雑貨商兼家畜商)、政治家。[[北海道]][[広尾町]]議会議員を務めた。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”{{refnest|group="注"|{{Harvnb|今井久夫|1979|p=240}}によると「“拙者文蔵”というのは文蔵が改まった時に使う一人称である。つまり文蔵は「拙者文蔵…」と切り出すような[[明治]]の古いタイプの人間であった。広尾周辺の人たちは、文蔵を“拙者文蔵”とアダ名で呼ぶようになった。」という。}}。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 入植者 === |
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[[富山県]][[西砺波郡]][[福光町]](現在の[[南砺市]])出身。 |
[[富山県]][[西砺波郡]][[福光町]](現在の[[南砺市]])出身。14歳の時[[北海道]]に渡り{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}、[[道東]]の僻地を選んで開拓に従事した{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。 |
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14歳の時[[北海道]]に渡り、[[北海道]]の中でも[[チベット]]といわれる道東の僻地を選んで[[開拓]]に従事した<ref>今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』239頁に「なにしろ広尾というところは[[北海道]]の中央を北から南に貫く[[日高山脈]]が[[太平洋]]に没するその海岸線の北に位置する小さな部落である。[[馬]]が生きながら[[エゾヒグマ|クマ]]に喰われるところであった。人々はその馬の泣き声を何度も聞いた。」とある</ref>。 |
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=== 雑貨商兼家畜商 === |
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=== 政治家として === |
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⚫ | 政治評論家の[[今井久夫]]によると、村議となった文蔵はある時[[陳情]]のため札幌の[[北海道庁|道庁]]に出かけた{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。そのカチンが中川の運命を左右する{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。道庁の役人は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱った{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった{{Sfn|今井久夫|1979|p=240-241}}。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の一郎を一流の官吏に育てあげ、道庁の木っ葉役人どもを見返すほかはない{{Sfn|今井久夫|1979|p=241}}。文蔵は後事を托するような気持で息子の成長を見守り、その出世を期待したという{{Sfn|今井久夫|1979|p=241}}。 |
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* 子供10人 |
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* 今井久夫 『反骨の宰相候補 中川一郎』1979年 |
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* 内藤國夫 『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 1985年 |
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== 脚注 == |
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=== 出典 === |
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* {{Cite book|和書|author=今井久夫|title=反骨の宰相候補 中川一郎|year=1979|month=8|publisher=経済往来社|asin=B000J8FIEQ|ref=harv}} |
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2024年5月9日 (木) 03:21時点における最新版
中川 文蔵 | |
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出生地 | 富山県西砺波郡福光町(現在の南砺市) |
死没地 | 北海道 |
前職 | 農民、商人 |
配偶者 | 妻・中川セイ |
親族 | 息子・中川一郎、中川義雄など |
広尾町会議員 |
中川 文蔵(なかがわ ぶんぞう、1892年(明治25年) / 1893年(明治26年) - 1978年(昭和53年))は、日本の農民、商人(雑貨商兼家畜商)、政治家。北海道広尾町議会議員を務めた。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”[注 1]。
経歴[編集]
入植者[編集]
富山県西砺波郡福光町(現在の南砺市)出身。14歳の時北海道に渡り[1]、道東の僻地を選んで開拓に従事した[1]。
19歳で父を失った[2]。以来、文蔵はたったひとりで一家眷族を養うことになった[2]。ある時は田畑の作物が全滅し、また牛馬が人手に渡ったことも一度や二度ではなかった[2]。
雑貨商兼家畜商[編集]
長男の一郎が小学校2年生の時、文蔵は開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商兼家畜商に転じた[3]。
政治家として[編集]
政治評論家の今井久夫によると、村議となった文蔵はある時陳情のため札幌の道庁に出かけた[2]。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた[2]。そのカチンが中川の運命を左右する[2]。道庁の役人は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱った[2]。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった[4]。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の一郎を一流の官吏に育てあげ、道庁の木っ葉役人どもを見返すほかはない[5]。文蔵は後事を托するような気持で息子の成長を見守り、その出世を期待したという[5]。
晩年[編集]
1978年(昭和53年)、一郎が農林大臣の要職にある時に、85歳で逝去した[6]。
「道庁の役人を見返してやろう」と思った文蔵の願いを、一郎は「十倍にも二十倍にもしてかなえてくれた」と文蔵は称している[7]。
人物像[編集]
長男の一郎と貞子が結婚したのは、1951年(昭和26年)7月9日)[8]。札幌市中央区南14条西4丁目にある弥彦神社で、神前結婚式が行われた[8]。2人の結婚に当初から反対していた文蔵は、姿を見せなかった[8]。
家族・親族[編集]
中川家は、文蔵の時に富山県西礪波郡福光町(現南砺市)から北海道広尾郡広尾町へ移住している[9]。
一郎の長男昭一は兎唇の障害を持って誕生した[10]。一郎の妻の貞子はこれを“中川一族の血”のせいと信じ込み、夫の一郎にあたりちらした[11]。一郎の父文蔵が家畜商をしていた、そのたたりだとまで言ったという[12]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 今井久夫 1979, p. 239.
- ^ a b c d e f g 今井久夫 1979, p. 240.
- ^ a b 内藤國夫 1985, p. 73.
- ^ 今井久夫 1979, p. 240-241.
- ^ a b 今井久夫 1979, p. 241.
- ^ 内藤國夫 1985, p. 150.
- ^ 今井久夫 1979, p. 251.
- ^ a b c 内藤國夫 1985, p. 139.
- ^ 鈴木宗男『政治の修羅場』〈文春新書〉2012年6月。ISBN 978-4166608645。
- ^ 内藤國夫 1985, p. 140.
- ^ 内藤國夫 1985, p. 140-141.
- ^ 内藤國夫 1985, p. 141.
参考文献[編集]
- 今井久夫『反骨の宰相候補 中川一郎』経済往来社、1979年8月。ASIN B000J8FIEQ。
- 内藤國夫『悶死-中川一郎怪死事件-』草思社、1985年2月。ISBN 978-4794202123。