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'''人類館事件'''(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、[[1903年]]に大阪・[[天王寺公園|天王寺]]で開かれた第5回[[内国勧業博覧会]]の「学術人類館」において、[[アイヌ]]・[[台湾]][[高族]](生蕃)・[[沖縄県]]([[琉球]])・[[朝鮮]][[大韓帝国]])・[[清国]]・[[インド]]・[[ジャワ]]・バルガリー([[ベンガル地方|ベンガル]]・[[トルコ]]・[[アフリカ]]など合計32名の人々が、[[民族衣装]]姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である
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'''人類館事件'''(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、[[1903年]]に大阪天王寺で開かれた第5回[[内国勧業博覧会]]の「学術人類館」において、[[アイヌ]]・[[台湾]][[高族]](生蕃)・[[沖縄県]]([[琉球]])・[[朝鮮]][[国]][[支那]]・[[インド]]・[[ジャワ]]・[[バルガリー]]・[[トルコ]]・[[アフリカ]]など合計32名の人々が、[[民族衣装]]姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件。


== 博覧会帝国主義の視線 ==
== 博覧会 - 帝国主義の視線 - ==
[[19世紀]]半ばから[[20世紀]]初頭における[[博覧会]]は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、[[帝国主義]]列強の[[植民地]]支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、[[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]である
[[19世紀]]半ばから[[20世紀]]初頭における[[博覧会]]は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、[[帝国主義]]列強の[[植民地]]支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。


人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、[[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]である。欧米での万博では日本人を展示品とした日本人村もあった。パリ万博では展示役を務めた芸者に一目惚れした青年がプロポーズを申し出たり、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあった。
こうした「人間の展示」の背後には、当時席巻していた[[社会進化論]]と[[人種差別]]主義というイデオロギーが介在していた。社会進化論は、あらゆる人類が同じ発展をすると考える単一的発展史観を取る。したがって世界各地の地域的な差異を歴史的な発展程度に置き換えて理解する。つまりアフリカや[[アジア]]の[[文明]]は、かつて[[ヨーロッパ]]が遠い過去において経験した発展段階だと考え、ヨーロッパ文明圏以外の人々・地域を「遅れた」「劣った」文明とみなした。生きた「人間の展示」とは、観覧者たちが自らとは異なる生活様式を「実際」に見ることによって、差異を「発見」し、それを「劣等性」と読み替え確認する仕組みなのである。


== 大阪博覧会 ==
== 大阪博覧会 ==
明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると[[富国強兵]]の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供というのが本来の目的であった。そうした日本の博覧会に「帝国主義の視線」という博覧会の負の側面が見え始めたのが、第5回大阪博覧会であった。当時の日本が[[日清戦争]]の勝利によって、世界の強国となったという自負を持ち始めたことが、その原因である
[[明治期]]、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、[[博覧会]]という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると[[富国強兵]]の手段として盛んに「[[内国勧業博覧会]]」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供、およびそれら産業へ投資を募集する産業振興が目的であった。

{{正確性}}
大日本帝国がアジアに拡張する中で開かれた大阪博覧会は、これまでの博覧会の内容や展示のあり方とは一線を画すものであった。欧米の博覧会で採用されていた帝国主義の植民地主義的な展示方式、すなわち植民者が現地人を差別的に眼差す展示方式を初めて導入した博覧会となった<ref>{{Cite book|author=屋嘉比収|title=近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷 / 『別冊環⑥-琉球文化圏とは何か』所収|date=|year=|accessdate=|publisher=藤原書店|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
大阪博覧会において、「人間の展示」は学術人類館と台湾館という[[パビリオン]]でなされた<ref>学術人類館は日本人類学の祖[[坪井正五郎]]の発案による。また台湾館は[[後藤新平]]の強力な要請による。</ref>。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。

「人間の展示」は民間業者主催の学術人類館という[[パビリオン]]でなされた<ref>学術人類館は日本人類学の祖[[坪井正五郎]]の発案による。また台湾館は[[後藤新平]]の強力な要請による。</ref>。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。
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■『[[風俗画報]]』269号(1903年)
■『風俗画報』269号(1903年)<ref>『風俗画報』は1889年(明治22年)から1916年(大正5年)までのおよそ27年間発行された日本初のグラフ雑誌。</ref>


内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり
内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり(以降、大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」とほぼ同じ内容)


■大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)
■大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)


○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる/\自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。
○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる〳〵自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。
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一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。
一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。


== 反発の広がり ==
== 反発と積極的参加 ==
当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進され、南北から多くの人が博覧会を観覧しにてきていたまた日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などから来日した人々が大勢来場していた。彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、そこに[[明治維新]]の成果を認めざるを得なかった。しかし学術人類館と台湾館を前にして、日本へ賞賛の念は反発へと変わっていく。これがこの事件の発端であっ展示された地域からの激しい抗議より博覧会は外交問題化していくことった。
当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進されたことで全国から多くの人が博覧会を観覧しに来るようになっていた。さらに、日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などから来日した多くの人々が来場するようになった。彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、[[明治維新]]の成果を認めた。しかし学術人類館の生きた展示に清国、沖縄が反発し、外交問題化した。反対、後述のアイヌのように積極的に参加する場合もあった。


=== 沖縄県 ===
=== 沖縄県 ===
沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示されていることにし、地元で抗議の声があがった。たとえば当時の『[[琉球新報]]』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開されたのである。特に、沖縄県出身の言論人[[太田朝敷]](おおた・ちょうふ)が、
沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示し、説明者が動物の見世物ながらに「此奴は、此奴は」鞭で指しながら、沖縄の生活様式などを説明した。これを見た県人の一人が、琉球新報投書たことから、地元で抗議の声があがった<ref>{{Cite book|author=[[大田昌秀]]|title=醜い日本人―日本の沖縄意識|date=|year=2000|accessdate=|publisher=岩波現代文庫|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。たとえば当時の『[[琉球新報]]』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり(我々を生蕃(台湾高山族)・アイヌと同一視するものだ)」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開された。特に、沖縄県出身の言論人[[太田朝敷]]が、
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陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷<ref>六ヶ敷=むつかし(い)「六借」「難」とも書く。難しいと同義。</ref>事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや
陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷<ref>六ヶ敷=むつ(ず)かし。「難しきの[[当て字]]。</ref>事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや
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であると抗議し、[[沖縄県]]全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。
であると抗議し、[[沖縄県]]全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。


当時の世情として太田朝敷や[[沖縄県民]]は、[[大日本帝国]]の一員であり[[本土]]出身者と同じ[[日本民族]]だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。
当時の世情として太田朝敷や[[沖縄県民]]は、[[大日本帝国]]の一員であり帝国臣民して積極的に「化」しようとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。


=== 清国 ===
=== 清国 ===
清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。
清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や[[在大阪中華人民共和国総領事館|清国在神戸領事館員]]から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。その学術人類館に「展示」される予定だったのは、[[阿片]]吸引の男性と[[纏足]]の女性であった。清国人の展示が中止された後、今度は人類館に出演している台湾女性が実際には中国[[湖南]]省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられた。しかし、その留学生が自分で確かめたところ、台湾女性は本当に台湾出身であることが判明し、一件落着となった。

その学術人類館に「展示」される予定だったのは、[[阿片]]吸引の男性と[[纏足]]の女性であった。
{{正確性}}
抗議の第2波は、台湾館での展示についてであった。原因は、「展示」されている台湾女性が実際には中国[[湖南]]省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられたためであった。台湾女性は本当に台湾出身であったことが判明し、一件落着となった。

== 反発の構造―「文明」と「野蛮」の間― ==
「展示」された諸地域の反発は当然であったといって良い。それらはその地域に「野蛮」という他者表象を与える一方で、「文明」日本という自己表象を構成しようとする明治日本への抗議であった。明治日本の「文明」日本という自己表象に、西欧列強との同化願望があったことは否定できず、その点で差別主義的であったことは夙に指摘されている。しかし沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない。


=== アイヌ ===
たとえばこの事件に関して、[[金城馨]]は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、[[沖縄人]]も差別する側に立っていた」と主張している。
アイヌはむしろこれを好機と捉え、来場者にアイヌの待遇改善をアピールした。{{要出典|date=2019年10月}}


== 反発の構造 ==
また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『[[浙江潮]]』第2号、1903年)と悲憤慷慨しているように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであったことがわかる<ref>『浙江潮』は当時東京において、中国[[浙江省]]出身者が中心となって発行していた漢語雑誌。中国革命への支持拡大に大きな力を果たした。</ref>。そこには日本や西欧と同質の差別的視線を共有することで、同等の存在になりたいという願望が透けて見える
沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない{{要出典|date=2019年10月}}。たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、[[沖縄人]]も差別する側に立っていた」と主張している。


また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『浙江潮』第2号、1903年)と悲憤慷慨しているように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであった<ref>『浙江潮』は当時東京において、中国[[浙江省]]出身者が中心となって発行していた漢語雑誌。中国革命への支持拡大に大きな力を果たした。</ref>。
以上のような文明/野蛮言説は西欧や日本ばかりでなく、それらから差別された地域をも取り込んで語られていた。他者との比較を通じて文明/野蛮の差異を計測し、その差異を埋める/広げるという欲望を喚起することによって富国強兵を達成しようとする思想構造が列強諸国にも、非列強諸国にもあった。社会進化論が当時先進的科学言説として世界を席巻していたさなかにあって、文明/野蛮言説の外から思考・発言することは非常な困難であったと言わねばならない。それは富国強兵という目標を推進するとともに、差別の再生産を準備していたといえる。人類館事件は、文明/野蛮言説の一端を覗かせる事件であった。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
刊行年順
刊行年順
* 厳安生 『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』 岩波書店、1991年、ISBN 400001689X。
* 厳安生 『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』 岩波書店、1991年、ISBN 400001689X。
* [[吉見俊哉]] 『博覧会の政治学』 中央公論社〈中公新書〉、1992年、ISBN 4121010906。
* [[吉見俊哉]] 『博覧会の政治学』 中央公論社〈中公新書〉、1992年、ISBN 4121010906。
* 松田京子 『帝国の視線―博覧会と異文化表象』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642037578。
* 松田京子 『帝国の視線―博覧会と異文化表象』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642037578。
* [[坂元ひろ子]] 『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』 岩波書店、2004年、ISBN 400023823X。
* [[坂元ひろ子]] 『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』 岩波書店、2004年、ISBN 400023823X。
* 演劇「人類館」上演を実現させたい会編著 『人類館・封印された扉』 アットワークス、2005年、ISBN 4939042111。
* 演劇「人類館」上演を実現させたい会編著 『人類館・封印された扉』 アットワークス、2005年、ISBN 4939042111。
* [[Frank Dikotter]]: ''The Discourse of Race in Modern China'', C. Hurst & Co,1994, ISBN 1850653003.
* [[Frank Dikotter]]: ''The Discourse of Race in Modern China'', C. Hurst & Co,1994, ISBN 1850653003.


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[人種差別]]
* [[エスノセントリズム]]
* [[人間動物園]]
* [[人間動物園]]
*[[新世界 (大阪)|新世界]]
* [[進化主義]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/yakabi.htm 屋嘉比収「近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷」]
* [http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/yakabi.htm 屋嘉比収「近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷」]


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2024年5月15日 (水) 08:27時点における最新版

人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ台湾高山族(生蕃)・沖縄県琉球人)・朝鮮大韓帝国)・清国インドジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコアフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。

博覧会 - 帝国主義の視線 -

[編集]

19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。

人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、1889年パリ万国博覧会である。欧米での万博では日本人を展示品とした日本人村もあった。パリ万博では展示役を務めた芸者に一目惚れした青年がプロポーズを申し出たり、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあった。

大阪博覧会

[編集]

明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると富国強兵の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供、およびそれら産業への投資を募集する産業振興が目的であった。

大日本帝国がアジアに拡張する中で開かれた大阪博覧会は、これまでの博覧会の内容や展示のあり方とは一線を画すものであった。欧米の博覧会で採用されていた帝国主義の植民地主義的な展示方式、すなわち植民者が現地人を差別的に眼差す展示方式を初めて導入した博覧会となった[1]

「人間の展示」は民間業者主催の学術人類館というパビリオンでなされた[2]。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。

■『風俗画報』269号(1903年)

内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり(以降、大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」とほぼ同じ内容)

■大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)

○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる〳〵自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。

一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。

反発と積極的参加

[編集]

当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進されたことで、全国から多くの人々が博覧会を観覧しに来るようになっていた。さらに、日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などから来日した多くの人々が来場するようになった。彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、明治維新の成果を認めた。しかし学術人類館の生きた展示に清国、沖縄が反発し、外交問題化した。反対に、後述のアイヌのように積極的に参加する場合もあった。

沖縄県

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沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示し、説明者が動物の見世物さながらに「此奴は、此奴は」と鞭で指しながら、沖縄の生活様式などを説明した。これを見た県人の一人が、琉球新報に投書したことから、地元で抗議の声があがった[3]。たとえば当時の『琉球新報』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり(我々を生蕃(台湾高山族)・アイヌと同一視するものだ)」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開された。特に、沖縄県出身の言論人太田朝敷が、

陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷[4]事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや

であると抗議し、沖縄県全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。

当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり帝国臣民として積極的に「同化」しようとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。

清国

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清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。その学術人類館に「展示」される予定だったのは、阿片吸引の男性と纏足の女性であった。清国人の展示が中止された後、今度は人類館に出演している台湾女性が実際には中国湖南省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられた。しかし、その留学生が自分で確かめたところ、台湾女性は本当に台湾出身であることが判明し、一件落着となった。

アイヌ

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アイヌはむしろこれを好機と捉え、来場者にアイヌの待遇改善をアピールした。[要出典]

反発の構造

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沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない[要出典]。たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している。

また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『浙江潮』第2号、1903年)と悲憤慷慨しているように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであった[5]

脚注

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  1. ^ 屋嘉比収. 近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷 / 『別冊環⑥-琉球文化圏とは何か』所収. 藤原書店 
  2. ^ 学術人類館は日本人類学の祖坪井正五郎の発案による。また台湾館は後藤新平の強力な要請による。
  3. ^ 大田昌秀 (2000). 醜い日本人―日本の沖縄意識. 岩波現代文庫 
  4. ^ 六ヶ敷=むつ(ず)かしき。「難しき」の当て字
  5. ^ 『浙江潮』は当時東京において、中国浙江省出身者が中心となって発行していた漢語雑誌。中国革命への支持拡大に大きな力を果たした。

参考文献

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刊行年順

  • 厳安生 『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』 岩波書店、1991年、ISBN 400001689X
  • 吉見俊哉 『博覧会の政治学』 中央公論社〈中公新書〉、1992年、ISBN 4121010906
  • 松田京子 『帝国の視線―博覧会と異文化表象』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642037578
  • 坂元ひろ子 『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』 岩波書店、2004年、ISBN 400023823X
  • 演劇「人類館」上演を実現させたい会編著 『人類館・封印された扉』 アットワークス、2005年、ISBN 4939042111
  • Frank Dikotter: The Discourse of Race in Modern China, C. Hurst & Co,1994, ISBN 1850653003.

関連項目

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外部リンク

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