「久保田治」の版間の差分
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{{別人|久保田収|久保田修}} |
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{{野球選手 |
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{{Infobox baseball player |
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|選手名 = 久保田治 |
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|選手 |
|選手名 = 久保田 治 |
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|所属球団 = |
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|写真サイズ = |
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|背番号 = |
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|写真のコメント = |
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|国籍 = {{JPN}} |
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|出身地 = [[愛知県]][[新城市]]<br />([[青森県]][[上北郡]][[野辺地町]]生まれ) |
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|現在 = [[1966年]]引退 |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1934|12|19}} |
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|所属球団 = [[読売ジャイアンツ]]<!--(現役最終所属球団)--> |
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|国籍 = {{JPN}} |
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|身長 = 177 |
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|出身地 = [[愛知県]][[豊川市]]<br />([[島根県]][[浜田市]]生まれ) |
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|体重 = 72 |
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|利き腕 = 右 |
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|没年月日 = |
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|打席 = 右 |
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|身長 = 177 |
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|守備位置 = [[投手]] |
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|体重 = 72 |
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|プロ入り年度 = 1955年 |
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|血液型 = |
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|ドラフト順位 = |
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|守備位置 = [[投手]] |
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|初出場 = 1955年 |
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|利き腕 = 右 |
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|最終出場 = 1966年 |
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|打席 = 右 |
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|経歴 = |
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|プロ入り年度 = [[1955年]] |
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* [[豊川高等学校]] |
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|ドラフト順位 = |
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* [[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]](中退) |
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|背番号 = '''26'''(東映現役時) |
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* [[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]] (1955 - 1965) |
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|英語表記 = '''KUBOTA''' |
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* [[読売ジャイアンツ]] (1966) |
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|年俸 = |
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|選出国 = |
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|初出場 = [[1955年]] |
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|選出年 = |
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|最終出場 = [[1966年]] |
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|得票率 = |
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|経歴 = [[豊川高等学校|豊川高校]]-[[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]](中退)-<br />[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]-<br />[[読売ジャイアンツ]] |
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|選出方法 = |
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'''久保田 治'''( |
'''久保田 治'''(くぼた おさむ、[[1934年]][[12月19日]] - )は、[[愛知県]][[新城市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[プロ野球審判員]]。 |
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== |
== 経歴 == |
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父親が[[帝室林野局]]勤務のため、各地に移り住む<ref name="jinguguide">神宮球場ガイドブック1995年秋号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典</ref>。[[豊川高等学校]]に入学後、父の転勤で[[島根県立浜田高等学校]]へ移る<ref name="jinguguide"></ref>。その後、本人の希望で再度豊川高校に戻る<ref name="jinguguide"></ref>。豊川高校の同級生には[[中日ドラゴンズ]]で投手として活躍した[[伊奈努]]、同じく中日に入団する[[外野手]]の[[足木敏郎]]がいた。{{by|1952年}}[[全国高等学校野球選手権愛知大会|夏の甲子園県予選]]で準決勝に進むが[[愛知県立時習館高等学校|時習館高]]に敗退、甲子園には出場できなかった。卒業後は[[法政大学野球部]]へ進むがすぐに[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]入りの噂が立って居づらくなり<ref name="jinguguide"></ref>、[[駒澤大学]]へ入る。黒柳勝至([[NTT東日本硬式野球部|東京電電]])とともに投手陣を支えるが、[[東都大学野球連盟|東都大学野球リーグ]]では優勝に届かず、{{by|1954年}}春季リーグの3位が最高成績だった。リーグ通算10勝13敗を記録。 |
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[[豊川高等学校|豊川高校]]から[[駒澤大学]]を経て[[1955年]]に[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に[[投手]]として入団。[[土橋正幸]]と並ぶ東映のエース格として、[[1961年]]には25勝を挙げた。翌[[1962年]]には16勝を挙げ、[[防御率]]は2.12で[[最優秀防御率]]に輝き、東映の[[パシフィック・リーグ]]初優勝および日本一に大きく貢献する。[[1966年]]には[[読売ジャイアンツ]]に移籍するも、1勝挙げたのみで引退した。サイドスローからのスライダー、カーブ、シュートが武器。 |
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{{by|1955年}}、大学を中退して[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に[[投手]]として入団。当時[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]も使用していた[[駒沢野球場]]が東映の本拠地で久保田をマークしており、成績不振のため戦力を求めての獲得だった<ref name="jinguguide"></ref>。1年目から先発として起用され、同年は3勝を挙げるがその後は伸び悩む。しかし{{by|1960年}}にショートリリーフが中心ながら9勝、同僚だった[[張本勲]]によるとちょっと横から投げてクセ球を投げる投手だった<ref name="ベースボールマガジン,2020年9月号">[[ベースボールマガジン]]2020年9月号、東映フライヤーズ、1954-1972、暴れん坊伝説、10頁</ref>。{{by|1961年}}に監督に就任した[[水原茂]]が[[土橋正幸]]に次ぐ先発として起用し25勝<ref name="ベースボールマガジン,2020年9月号" />、防御率2.16(いずれもリーグ3位)を記録した。翌{{by|1962年}}にも16勝を挙げ、[[防御率]]2.12と[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]に輝く。東映の[[パシフィック・リーグ]]初優勝に貢献し、同年の[[阪神タイガース]]との[[1962年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも3試合に先発。最終第7戦では9回を無得点に抑え土橋につなぐ。シリーズで勝利投手にはなれなかったが、日本一に大きく力を添えた。翌{{by|1963年}}にも15勝を記録するが、その後は登板機会が減少。{{by|1966年}}に[[読売ジャイアンツ]]に移籍するも、1勝を挙げたのみで引退した。サイドスローからのスライダー、カーブ、シュートが武器。 |
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引退後[[セントラル・リーグ]]審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、[[ファーム]]では最優秀審判賞を受賞、早い時期から[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦の球審も任され、[[1974年]]に[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]初出場を果たし、[[1978年]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]がリーグ初[[優勝]]の試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターはともに7回出場した。[[1995年の日本シリーズ]]を最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが[[2001年]]に退職した。現在は[[プロ野球マスターズリーグ]]で審判を務めている。審判員袖番号は'''12'''([[1988年]]初採用から2001年引退まで。専任指導員に転じた[[1996年]]以降もつけていた。'''12'''は[[2007年]]新採用の[[坂井遼太郎]]が引き継いだ。)[[1992年]][[湯舟敏郎]]が[[ノーヒットノーラン]]を達成した時球審を務め、その年[[八木裕]]が幻のホームランの時球審だった。また、公式戦ではないが、1975年の川上哲治引退試合(巨人の監督勇退時)に球審を務めていた。 |
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引退後[[セントラル・リーグ]]審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、[[二軍|ファーム]]では最優秀審判賞を受賞、早い時期から[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦の球審も任され、{{by|1974年}}に[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]初出場を果たし、{{by|1978年}}の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]がリーグ初優勝決定試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターゲームはともに7回出場した。[[1995年の日本シリーズ]]を最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが{{by|2001年}}に退職した。現在は[[プロ野球マスターズリーグ]]で審判を務めている。 |
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プロ野球選手として一流の成績を残した後に審判に転進した、最後の人物といえるだろう(タイトルホルダーの現役審判としては、[[1990年]]に[[ゴールデングラブ賞]]受賞経験のある[[柳田浩一]]がいる)。[[平光清]]・[[三浦真一郎]]とともに早くから[[インサイドプロテクター]]を採用していた。やや打者の内角寄りに身体を傾けて構え、[[ストライク]]のコールはその状態から右腕を真上に上げていた。また、打者が見逃し[[三振]]をした時のポーズも特徴的であった(真上に手を挙げた後、打者と反対側の方を向いてストライクアウトのポーズを取る)。[[性格]]は温厚で、多芸多才、[[動物]]好きである。 |
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審判員袖番号は'''12'''([[1988年]]初採用から2001年引退まで。専任指導員に転じた{{by|1996年}}以降もつけていた。その後{{by|2007年}}新採用の[[坂井遼太郎]]が引き継いだ。その後、坂井が審判を引退してからは[[青木昴]]が2021年から12番を引き継いだ。)。{{by|1992年}}には[[湯舟敏郎]]が[[ノーヒットノーラン]]を達成した試合や、[[八木裕]]が放った「[[平光清#「幻の本塁打」事件|幻のホームラン]]」で公式戦では最長の6時間26分となった試合の球審を務めている。また、公式戦ではないが、{{by|1975年}}の[[川上哲治]]引退試合(巨人の監督勇退時)に球審を務めていた。 |
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==年度別投手成績== |
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*表中の'''太字'''はリーグ最多数字 |
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プロ野球選手として一流の成績を残した後に審判に転進した、最後の人物といえるだろう(タイトルホルダーの現役審判としては、{{by|1990年}}に[[ゴールデングラブ賞]]受賞経験のある[[柳田浩一]]がいる)。[[平光清]]・[[三浦真一郎]]とともに早くから[[インサイドプロテクター]]を採用していた。やや打者の内角寄りに身体を傾けて構え、[[ストライク (野球)|ストライク]]のコールはその状態から右腕を真上に上げていた。また、打者が見逃し[[三振]]をした時のポーズも特徴的であった(真上に手を挙げた後、打者と反対側の方を向いてストライクアウトのポーズを取る)。[[性格]]は温厚で、多芸多才、[[動物]]好きである。 |
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{| class="wikitable" |
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== 詳細情報 == |
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=== 年度別投手成績 === |
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{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |
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|- |
|- |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1955}} |
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!年度!!チーム!!登板!!完投!!完封!!無四<br />球!!勝利!!敗北!!投球回!!被安打!!被本<br />塁打!!与四<br />死球!!奪三振!!自責点!!防御率(順位) |
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| |
|rowspan="11" style="text-align:center;"|[[北海道日本ハムファイターズ|東映]] |
||
| |
|16||12||0||0||0||3||4||--||--||.429||285||68.0||62||3||23||1||0||26||2||0||32||30||3.97||1.25 |
||
|- |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1956}} |
|||
|[[1956年]]||11||0||0||0||1||1||27.1||35||3||14||5||20||6.43 |
|||
|11||5||0||0||0||1||1||--||--||.500||124||27.1||35||3||14||0||0||5||1||0||21||20||6.43||1.79 |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|- |
|||
|[[1957年]]||16||0||0||0||1||0||31||25||1||23||7||12||3.48 |
|||
| |
|style="text-align:center;"|{{by2|1957}} |
||
| |
|16||3||0||0||0||1||0||--||--||1.000||135||31.0||25||1||22||0||1||7||0||0||14||12||3.48||1.52 |
||
|- |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1958}} |
|||
|[[1959年]]||24||1||1||1||3||3||68||64||5||14||29||25||3.31 |
|||
|14||5||0||0||0||0||2||--||--||.000||178||41.1||45||5||13||0||0||21||1||0||18||17||3.64||1.40 |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|- |
|||
|[[1960年]]||48||4||2||0||9||10||169.1||148||13||31||76||47||2.49 |
|||
| |
|style="text-align:center;"|{{by2|1959}} |
||
| |
|24||3||1||1||1||3||3||--||--||.500||275||68.0||64||5||14||0||0||29||1||0||26||25||3.31||1.15 |
||
|- |
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|- style="text-align: right;" |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1960}} |
|||
|[[1962年]]||43||5||4||3||16||7||190.2||164||10||27||54||45||'''2.12(1)''' |
|||
|48||16||4||2||0||9||10||--||--||.474||670||169.1||148||13||26||4||5||76||1||0||59||47||2.49||1.03 |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|- |
|||
|[[1963年]]||36||7||2||2||15||10||206.2||218||20||27||61||62||2.70 |
|||
| |
|style="text-align:center;"|{{by2|1961}} |
||
| |
|55||34||18||5||5||25||11||--||--||.694||1230||313.0||257||12||47||6||0||137||2||0||96||75||2.16||0.97 |
||
|- |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1962}} |
|||
|[[1965年]]||15||1||0||0||3||5||44.1||50||5||10||16||20||4.09 |
|||
|43||25||5||4||3||16||7||--||--||.696||739||190.2||164||10||25||1||2||54||1||0||65||45||'''2.12'''||0.99 |
|||
|- style="text-align: right;" |
|||
|- |
|||
|[[1966年]]||style="text-align: center;"|巨人||5||1||0||0||1||1||22||21||4||11||4||11||4.50 |
|||
| |
|style="text-align:center;"|{{by2|1963}} |
||
|36||27||7||2||2||15||10||--||--||.600||840||206.2||218||20||26||2||1||61||0||0||67||62||2.70||1.18 |
|||
!colspan="2"|'''通算成績''' |
|||
|- |
|||
|307||38||14||11||80||58||1264.1||1171||87||257||453||398||2.83 |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1964}} |
|||
|} |
|||
|24||9||1||0||0||3||4||--||--||.429||342||82.2||82||6||16||1||1||17||2||0||38||34||3.69||1.19 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1965}} |
|||
|15||4||1||0||0||3||5||--||--||.375||191||44.1||50||5||9||0||1||16||1||0||29||20||4.09||1.33 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1966}} |
|||
|style="text-align:center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]] |
|||
|5||5||1||0||0||1||1||--||--||.500||96||22.0||21||4||9||3||2||4||0||0||12||11||4.50||1.36 |
|||
|- |
|||
!colspan="2"|通算:12年 |
|||
|307||148||38||14||11||80||58||--||--||.580||5105||1264.1||1171||87||244||18||13||453||12||0||477||398||2.83||1.12 |
|||
|} |
|||
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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=== タイトル === |
|||
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1962年) |
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=== 記録 === |
|||
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1961年、1963年) |
|||
=== 背番号 === |
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* '''62''' (1955年) |
|||
* '''26''' (1956年 - 1965年) |
|||
* '''19''' (1966年) |
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== 審判出場記録 == |
|||
* 初出場:[[1968年]][[4月25日]]、サンケイ対大洋対2回戦(神宮)、右翼外審 |
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* 出場試合数:2852試合 |
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* オールスター出場:7回 |
|||
* 日本シリーズ出場:7回 |
|||
(記録は1995年シーズン終了時点) |
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== 脚注 == |
|||
==タイトル・表彰== |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
*最優秀防御率 (1962年) |
|||
{{Reflist}} |
|||
*[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場 2回(1961年、1963年) |
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==関連項目== |
== 関連項目 == |
||
*[[愛知県出身の人物一覧]] |
* [[愛知県出身の人物一覧]] |
||
*[[ |
* [[駒澤大学の人物一覧]] |
||
* [[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]] |
|||
*[[岩本義行]] |
|||
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
|||
*[[水原茂]] |
|||
* [[プロ野球審判員一覧]] |
|||
*[[川上哲治]] |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{先代次代|[[最優秀防御率|パ・リーグ防御率1位]]|[[1962年]]|[[稲尾和久]]|[[久保征弘]]}} |
|||
{{NPB|01903800}} |
|||
{{パシフィック・リーグ最優秀防御率}} |
|||
{{DEFAULTSORT:くほた おさむ}} |
|||
{{北海道日本ハムファイターズ開幕投手|東映フライヤーズ}} |
|||
{{デフォルトソート:くほた おさむ}} |
|||
[[Category:日本の野球選手]] |
[[Category:日本の野球選手]] |
||
[[Category:島根県立浜田高等学校出身の野球選手]] |
|||
[[Category:豊川高等学校出身の野球選手]] |
|||
[[Category:駒澤大学硬式野球部の選手]] |
[[Category:駒澤大学硬式野球部の選手]] |
||
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]] |
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]] |
||
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]] |
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]] |
||
[[Category: |
[[Category:最優秀防御率 (NPB)]] |
||
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]] |
|||
[[Category:野球に関する記事]] |
|||
[[Category:日本のプロ野球審判員]] |
|||
[[Category:愛知県出身の人物]] |
[[Category:愛知県出身の人物]] |
||
[[Category:1934年生]] |
[[Category:1934年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
2024年5月16日 (木) 04:27時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
愛知県新城市 (青森県上北郡野辺地町生まれ) |
生年月日 | 1934年12月19日(89歳) |
身長 体重 |
177 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1955年 |
初出場 | 1955年 |
最終出場 | 1966年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
|
久保田 治(くぼた おさむ、1934年12月19日 - )は、愛知県新城市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球審判員。
経歴
[編集]父親が帝室林野局勤務のため、各地に移り住む[1]。豊川高等学校に入学後、父の転勤で島根県立浜田高等学校へ移る[1]。その後、本人の希望で再度豊川高校に戻る[1]。豊川高校の同級生には中日ドラゴンズで投手として活躍した伊奈努、同じく中日に入団する外野手の足木敏郎がいた。1952年夏の甲子園県予選で準決勝に進むが時習館高に敗退、甲子園には出場できなかった。卒業後は法政大学野球部へ進むがすぐに毎日オリオンズ入りの噂が立って居づらくなり[1]、駒澤大学へ入る。黒柳勝至(東京電電)とともに投手陣を支えるが、東都大学野球リーグでは優勝に届かず、1954年春季リーグの3位が最高成績だった。リーグ通算10勝13敗を記録。
1955年、大学を中退して東映フライヤーズに投手として入団。当時東都大学リーグも使用していた駒沢野球場が東映の本拠地で久保田をマークしており、成績不振のため戦力を求めての獲得だった[1]。1年目から先発として起用され、同年は3勝を挙げるがその後は伸び悩む。しかし1960年にショートリリーフが中心ながら9勝、同僚だった張本勲によるとちょっと横から投げてクセ球を投げる投手だった[2]。1961年に監督に就任した水原茂が土橋正幸に次ぐ先発として起用し25勝[2]、防御率2.16(いずれもリーグ3位)を記録した。翌1962年にも16勝を挙げ、防御率2.12と最優秀防御率に輝く。東映のパシフィック・リーグ初優勝に貢献し、同年の阪神タイガースとの日本シリーズでも3試合に先発。最終第7戦では9回を無得点に抑え土橋につなぐ。シリーズで勝利投手にはなれなかったが、日本一に大きく力を添えた。翌1963年にも15勝を記録するが、その後は登板機会が減少。1966年に読売ジャイアンツに移籍するも、1勝を挙げたのみで引退した。サイドスローからのスライダー、カーブ、シュートが武器。
引退後セントラル・リーグ審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、ファームでは最優秀審判賞を受賞、早い時期から巨人戦の球審も任され、1974年に日本シリーズ初出場を果たし、1978年のヤクルトスワローズがリーグ初優勝決定試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターゲームはともに7回出場した。1995年の日本シリーズを最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが2001年に退職した。現在はプロ野球マスターズリーグで審判を務めている。
審判員袖番号は12(1988年初採用から2001年引退まで。専任指導員に転じた1996年以降もつけていた。その後2007年新採用の坂井遼太郎が引き継いだ。その後、坂井が審判を引退してからは青木昴が2021年から12番を引き継いだ。)。1992年には湯舟敏郎がノーヒットノーランを達成した試合や、八木裕が放った「幻のホームラン」で公式戦では最長の6時間26分となった試合の球審を務めている。また、公式戦ではないが、1975年の川上哲治引退試合(巨人の監督勇退時)に球審を務めていた。
プロ野球選手として一流の成績を残した後に審判に転進した、最後の人物といえるだろう(タイトルホルダーの現役審判としては、1990年にゴールデングラブ賞受賞経験のある柳田浩一がいる)。平光清・三浦真一郎とともに早くからインサイドプロテクターを採用していた。やや打者の内角寄りに身体を傾けて構え、ストライクのコールはその状態から右腕を真上に上げていた。また、打者が見逃し三振をした時のポーズも特徴的であった(真上に手を挙げた後、打者と反対側の方を向いてストライクアウトのポーズを取る)。性格は温厚で、多芸多才、動物好きである。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 東映 | 16 | 12 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | -- | -- | .429 | 285 | 68.0 | 62 | 3 | 23 | 1 | 0 | 26 | 2 | 0 | 32 | 30 | 3.97 | 1.25 |
1956 | 11 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 124 | 27.1 | 35 | 3 | 14 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 21 | 20 | 6.43 | 1.79 | |
1957 | 16 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | -- | 1.000 | 135 | 31.0 | 25 | 1 | 22 | 0 | 1 | 7 | 0 | 0 | 14 | 12 | 3.48 | 1.52 | |
1958 | 14 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 178 | 41.1 | 45 | 5 | 13 | 0 | 0 | 21 | 1 | 0 | 18 | 17 | 3.64 | 1.40 | |
1959 | 24 | 3 | 1 | 1 | 1 | 3 | 3 | -- | -- | .500 | 275 | 68.0 | 64 | 5 | 14 | 0 | 0 | 29 | 1 | 0 | 26 | 25 | 3.31 | 1.15 | |
1960 | 48 | 16 | 4 | 2 | 0 | 9 | 10 | -- | -- | .474 | 670 | 169.1 | 148 | 13 | 26 | 4 | 5 | 76 | 1 | 0 | 59 | 47 | 2.49 | 1.03 | |
1961 | 55 | 34 | 18 | 5 | 5 | 25 | 11 | -- | -- | .694 | 1230 | 313.0 | 257 | 12 | 47 | 6 | 0 | 137 | 2 | 0 | 96 | 75 | 2.16 | 0.97 | |
1962 | 43 | 25 | 5 | 4 | 3 | 16 | 7 | -- | -- | .696 | 739 | 190.2 | 164 | 10 | 25 | 1 | 2 | 54 | 1 | 0 | 65 | 45 | 2.12 | 0.99 | |
1963 | 36 | 27 | 7 | 2 | 2 | 15 | 10 | -- | -- | .600 | 840 | 206.2 | 218 | 20 | 26 | 2 | 1 | 61 | 0 | 0 | 67 | 62 | 2.70 | 1.18 | |
1964 | 24 | 9 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | -- | -- | .429 | 342 | 82.2 | 82 | 6 | 16 | 1 | 1 | 17 | 2 | 0 | 38 | 34 | 3.69 | 1.19 | |
1965 | 15 | 4 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | -- | -- | .375 | 191 | 44.1 | 50 | 5 | 9 | 0 | 1 | 16 | 1 | 0 | 29 | 20 | 4.09 | 1.33 | |
1966 | 巨人 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 96 | 22.0 | 21 | 4 | 9 | 3 | 2 | 4 | 0 | 0 | 12 | 11 | 4.50 | 1.36 |
通算:12年 | 307 | 148 | 38 | 14 | 11 | 80 | 58 | -- | -- | .580 | 5105 | 1264.1 | 1171 | 87 | 244 | 18 | 13 | 453 | 12 | 0 | 477 | 398 | 2.83 | 1.12 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]- 最優秀防御率:1回 (1962年)
記録
[編集]- オールスターゲーム出場:2回 (1961年、1963年)
背番号
[編集]- 62 (1955年)
- 26 (1956年 - 1965年)
- 19 (1966年)
審判出場記録
[編集](記録は1995年シーズン終了時点)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 久保田治 - NPB.jp 日本野球機構