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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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| 選手名 = 奈良原 浩 |
| 選手名 = 奈良原 浩 |
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| 所属球団 = |
| 所属球団 = 福岡ソフトバンクホークス |
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| 役職 = |
| 役職 = ヘッドコーチ |
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| 背番号 = |
| 背番号 = 92 |
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| 画像説明 = 2024年03月29日[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]] |
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| 画像説明 = ヤクルト戸田球場にて(2020年) |
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| 国籍 = {{JPN}} |
| 国籍 = {{JPN}} |
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| 出身地 = [[埼玉県]] |
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| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1968|5|16}} |
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1968|5|16}} |
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| 没年月日 = |
| 没年月日 = |
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* 埼玉西武ライオンズ (2012 - 2016) |
* 埼玉西武ライオンズ (2012 - 2016) |
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* 中日ドラゴンズ (2017 - 2019) |
* 中日ドラゴンズ (2017 - 2019) |
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* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2020 - |
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2020 - 2023) |
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* [[福岡ソフトバンクホークス]] (2024 - ) |
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'''奈良原 浩'''(ならはら ひろし、[[1968年]][[5月16日]] - )は、[[埼玉県]] |
'''奈良原 浩'''(ならはら ひろし、[[1968年]][[5月16日]] - )は、[[埼玉県]][[白岡市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、右投右打)、[[プロ野球コーチ]]。現在は[[福岡ソフトバンクホークス]]の一軍ヘッドコーチを務めている。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== アマチュア時代 === |
=== アマチュア時代 === |
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[[埼玉県]]白岡町で[[ドライクリーニング|クリーニング店]]を営む家庭に生まれる<ref name="base_20021021_56">「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『[[週刊ベースボール]]』、2002年10月21日号、P.56</ref>。4歳の時に[[軟式野球]]の[[ボール (野球)|ボール]]と[[グラブ (野球)|グローブ]]を買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった{{R|base_20021021_56}}。白岡市立篠津小学校ではスポーツ少年団で野球をし、[[白岡市立篠津中学校|篠津中学]]を経て[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]に進学<ref name="base_20021021_57">『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57</ref>{{R|mainichi_19981124}}。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の[[前田三夫]] |
[[埼玉県]]白岡町で[[ドライクリーニング|クリーニング店]]を営む家庭に生まれる<ref name="base_20021021_56">「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『[[週刊ベースボール]]』、2002年10月21日号、P.56</ref>。4歳の時に[[軟式野球]]の[[ボール (野球)|ボール]]と[[グラブ (野球)|グローブ]]を買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった{{R|base_20021021_56}}。白岡市立篠津小学校ではスポーツ少年団で野球をし、[[白岡市立篠津中学校|篠津中学]]を経て[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]に進学<ref name="base_20021021_57">『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57</ref>{{R|mainichi_19981124}}。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の[[前田三夫]]による優れたノックで守備を鍛えられたという{{R|base_20021021_57}}。1学年上に[[河田雄祐]]と[[小林昭則]]、1学年下に[[芝草宇宙]]がおり、チームは2年春の[[第57回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]で準優勝している。主将となった3年春も[[第58回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]に出場し、初戦で[[高知中学校・高等学校|高知高校]]と対戦して自身は1番・[[遊撃手]]として2[[安打]]1[[盗塁]]の成績を残したが、チームは0対3で敗れている<ref>『朝日新聞』、1986年3月31日付朝刊、P.19</ref>。 |
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[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]へ進むと、2年の秋に[[遊撃手]]として[[東都大学野球連盟|東都リーグ]]のベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した<ref>『[[読売新聞]]』、1988年11月4日付朝刊、P.19</ref>。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ<ref>『読売新聞』、1989年5月27日付朝刊、P.18</ref>、同年は[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]の代表にも選ばれた<ref>『読売新聞』、1989年6月10日付朝刊、P.19</ref>。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している<ref>『読売新聞』、1989年10月27日付朝刊、P.18</ref><ref>『読売新聞』、1990年5月24日付朝刊、P.19</ref><ref>『読売新聞』、1990年10月26日付朝刊、P.18</ref>。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。[[1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1990年度ドラフト会議]]にて[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から2位指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ<ref>『読売新聞』、1990年12月21日付朝刊、P.19</ref>。 |
[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]へ進むと、2年の秋に[[遊撃手]]として[[東都大学野球連盟|東都リーグ]]のベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した<ref>『[[読売新聞]]』、1988年11月4日付朝刊、P.19</ref>。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ<ref>『読売新聞』、1989年5月27日付朝刊、P.18</ref>、同年は[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]の代表にも選ばれた<ref>『読売新聞』、1989年6月10日付朝刊、P.19</ref>。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している<ref>『読売新聞』、1989年10月27日付朝刊、P.18</ref><ref>『読売新聞』、1990年5月24日付朝刊、P.19</ref><ref>『読売新聞』、1990年10月26日付朝刊、P.18</ref>。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。 |
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[[1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1990年度ドラフト会議]]にて[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から2位指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ<ref>『読売新聞』、1990年12月21日付朝刊、P.19</ref>。 |
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=== 西武時代 === |
=== 西武時代 === |
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{{by|2000年}}は田中幸雄や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた<ref>『読売新聞』、2000年9月24日付朝刊、P.16</ref>。同年のシーズンオフには[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|FA]]の権利を行使し、複数年契約で残留している<ref>『毎日新聞』、2000年11月9日付朝刊、P.23</ref>。 |
{{by|2000年}}は田中幸雄や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた<ref>『読売新聞』、2000年9月24日付朝刊、P.16</ref>。同年のシーズンオフには[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|FA]]の権利を行使し、複数年契約で残留している<ref>『毎日新聞』、2000年11月9日付朝刊、P.23</ref>。 |
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{{by|2002年}}には監督の[[大島康徳]]から指名を受け、主将に就任{{R|base_20021021_58}}。同年のシーズンは遊撃手のレギュラーとして期待され<ref>『読売新聞』、2002年2月23日付朝刊、P.18</ref>、オープン戦では打率.412の好成績を残している{{R|base_20021021_57}}。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大により、待球が難しくなったこともあり、打撃不振に陥った{{R|base_20021021_57}}。また、[[札幌市]]への本拠地移転計画の発表や[[日本ハム]]本社の[[牛肉偽装事件]]などがあり、チームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている{{R|base_20021021_56}}。同年のシーズンオフには400万円減の年俸 |
{{by|2002年}}には監督の[[大島康徳]]から指名を受け、主将に就任{{R|base_20021021_58}}。同年のシーズンは遊撃手のレギュラーとして期待され<ref>『読売新聞』、2002年2月23日付朝刊、P.18</ref>、オープン戦では打率.412の好成績を残している{{R|base_20021021_57}}。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大により、待球が難しくなったこともあり、打撃不振に陥った{{R|base_20021021_57}}。また、[[札幌市]]への本拠地移転計画の発表や[[日本ハム]]本社の[[牛肉偽装事件]]などがあり、チームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている{{R|base_20021021_56}}。同年のシーズンオフには400万円減の年俸6800万円(推定)で契約を更改した<ref>『毎日新聞』、2002年12月5日付朝刊、P.19</ref>。[[木元邦之]]の成長などもあって出場機会は徐々に減った。 |
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{{by|2005年}}オフには翌年のシーズンの年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている<ref>『朝日新聞』、2005年9月30日付朝刊、P.21</ref>。 |
{{by|2005年}}オフには翌年のシーズンの年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている<ref>『朝日新聞』、2005年9月30日付朝刊、P.21</ref>。 |
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=== 中日時代 === |
=== 中日時代 === |
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{{by|2006年}}には6月20日、金銭トレードで[[中日ドラゴンズ]]へ移籍<ref>『朝日新聞』、2006年6月21日付朝刊、P.23</ref>。9月19日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110919001635660.html スポニチ 日めくりプロ野球 【9月19日】2006年 移籍1号本塁打、と思いきや…奈良原浩 幻の大飛球]</ref>なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で延長12回表に放った[[適時打]]であった。古巣・日本ハムとの[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1戦、第2戦で代走として起用されている<ref> |
{{by|2006年}}には6月20日、金銭トレードで[[中日ドラゴンズ]]へ移籍<ref>『朝日新聞』、2006年6月21日付朝刊、P.23</ref>。9月19日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110919001635660.html スポニチ 日めくりプロ野球 【9月19日】2006年 移籍1号本塁打、と思いきや…奈良原浩 幻の大飛球]</ref>なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で延長12回表に放った[[適時打]]であった。古巣・日本ハムとの[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1戦、第2戦で代走として起用されている<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/scores/nipponseries/linescore2006.html |title=2006年度日本シリーズ 試合結果 |website=日本野球機構 |date= |accessdate=2024-02-12}}</ref>。同年のシーズンオフに現役を引退した。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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{{by|2007年}}から{{by|2010年}}まで、中日の二軍内野守備走塁コーチを担当<ref>『朝日新聞』、2006年10月31日付朝刊、P.18</ref>。{{by|2011年}}は二軍野手コーチを務め、同年限りで[[落合博満]]が監督を辞任すると、10月6日付で一軍ヘッドコーチの[[森繁和]]ら他の8人のコーチとともに退団が発表された<ref>『朝日新聞』、2011年10月23日付朝刊、P.23</ref>。 |
{{by|2007年}}から{{by|2010年}}まで、中日の二軍内野守備走塁コーチを担当<ref>『朝日新聞』、2006年10月31日付朝刊、P.18</ref>。{{by|2011年}}は二軍野手コーチを務め、同年限りで[[落合博満]]が監督を辞任すると、10月6日付で一軍ヘッドコーチの[[森繁和]]ら他の8人のコーチとともに退団が発表された<ref>『朝日新聞』、2011年10月23日付朝刊、P.23</ref>。 |
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[[file:Narahara_hiroshi.jpg|right|thumb|西武一軍守備走塁コーチ時代(2012年9月30日、[[西武ドーム|西武プリンスドーム]]にて)]] |
[[file:Narahara_hiroshi.jpg|right|thumb|150px|西武一軍守備走塁コーチ時代(2012年9月30日、[[西武ドーム|西武プリンスドーム]]にて)]] |
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{{by|2012年}}からは古巣・西武の一軍内野守備・走塁コーチを務めた<ref>『朝日新聞』、2011年11月11日付朝刊、P.23</ref>。しかし、{{by|2016年}}は両リーグワーストの101失策を記録し<ref> |
{{by|2012年}}からは古巣・西武の一軍内野守備・走塁コーチを務めた<ref>『朝日新聞』、2011年11月11日付朝刊、P.23</ref>。しかし、{{by|2016年}}は両リーグワーストの101失策を記録し<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/162624 |title=西武「守乱」の責任とり奈良原コーチ退団 |website=東スポWEB |date=2016-09-29 |accessdate=2024-02-12}}</ref>、同年9月29日に、一軍打撃コーチの[[宮地克彦]]とともに退団が発表された。 |
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同年10月12日、{{by|2017年}}より中日の一軍内野守備走塁コーチを務めることが発表され、6年ぶりに中日へ復帰となった。攻撃時は三塁コーチを担当した<ref> |
同年10月12日、{{by|2017年}}より中日の一軍内野守備走塁コーチを務めることが発表され、6年ぶりに中日へ復帰となった。2017年の[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]では[[野球日本代表]]のヘッドコーチを務め、監督の小久保監督、奈良原ヘッド体制でベスト4に導いた実績がある<ref>{{Cite web |和書 |title=【ソフトバンク】奈良原浩1軍ヘッド、倉野信次1軍投手、牧田和久3軍投手、川越英隆4軍投手 各コーチ入閣発表 |url=https://hochi.news/articles/20231031-OHT1T51105.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2023-10-31 |access-date=2023-10-30}}</ref>。攻撃時は三塁コーチを担当した<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2016/10/13/0009576765.shtml |title=中日、奈良原氏がコーチ就任「スキのない野球を浸透させたい」 |website=デイリースポーツ |date=2016-10-13 |accessdate=2024-02-12}}</ref>。コーチの一軍・二軍の枠が撤廃された{{by|2018年}}は内野守備走塁コーチとして<ref>{{Cite web |和書 |title=2018年度の監督、コーチングスタッフを発表 |url=https://dragons.jp/news/2017/17103101.html |website=中日ドラゴンズ |date=2017-10-31 |accessdate=2022-10-15}}</ref>、{{by|2017年}}から{{by|2019年}}までは一軍内野守備走塁コーチとして、3年間在籍した後、2019年10月3日に同年限りでの退団が発表された<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910030000344.html |title=中日奈良原守備走塁コーチが退団 - プロ野球 : 日刊スポーツ |website=日刊スポーツ |date=2019-10-03 |accessdate=2024-02-12}}</ref>。[[堂上直倫]]は奈良原を「守りの師匠」し、模倣としている<ref>{{Cite web |和書 |title=一日中素手でノック…中日・堂上コーチが模倣する“守りの師匠”のスタイル 全ての努力は試合で笑うために |url=https://www.chunichi.co.jp/article/851066 |website=中日スポーツ、東京中日スポーツ |date=2024-02-09 |access-date=2024-02-09}}</ref>。[[権藤博]]は「私は投手でダメになったあと、遊撃に転向したので守備のこともわかる。芯で捕るにはグラブの角度、体の入れ方を調節し、グラブの面に対して90度の角度で球を受けないといけない。それを実際にやってみせ、理屈も説明できるのが奈良原コーチ。ノックも厳しく、捕り方が少しでも怪しいと「もう一丁」。そんな指導で、堂上や[[高橋周平|高橋]]、一塁の[[ダヤン・ビシエド]]を含め、中日内野陣はみるみる上手になった。」<ref>{{Cite web |和書 |title=名手に託したタカの守り |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO78317970X00C24A2UU8000/ |website=日本経済新聞 |date=2024-02-08 |access-date=2024-02-08}}</ref>と述べている。 |
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|date=2017-10-31 |accessdate=2022-10-15}}</ref>、2017年と{{by|2019年}}は一軍内野守備走塁コーチとして、3年間在籍した後、2019年10月3日に同年限りでの退団が発表された<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910030000344.html 中日奈良原守備走塁コーチが退団] 日刊スポーツ 2019年10月3日</ref>。 |
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[[ファイル:H_narahara20200901.jpg|thumb|150px|[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]二軍監督時代<br />(2020年9月1日 [[ヤクルト戸田球場]])]] |
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同年10月14日、{{by|2020年}}は[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の二軍監督を務めることが発表された<ref>{{Cite web |title=新任コーチに関して |url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00002519.html |website=楽天イーグルス オフィシャルサイト |access-date=2022-10-14}}</ref>。 |
同年10月14日、{{by|2020年}}は[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の二軍監督を務めることが発表された<ref>{{Cite web |和書 |title=新任コーチに関して |url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00002519.html |website=東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト |date=2019-10-14 |access-date=2022-10-14}}</ref>。[[イースタン・リーグ]]優勝、球団初のファーム日本一を達成した<ref>{{Cite web |和書 |title=2020ファーム総括【楽天】奈良原浩二軍監督の下で球団初の日本一を達成/2020ファーム総括 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20201220-12 |website=週刊ベースボール |date=2020-12-20 |access-date=2020-12-20}}</ref>。{{by|2021年}}からは一軍内野守備走塁コーチ<ref>{{Cite web |和書 |title=コーチ人事に関して |url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00003388.html |website=東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト |date=2020-11-12 |accessdate=2022-10-14}}</ref>、{{by|2023年}}は育成総合コーチを務め<ref>{{Cite news |和書 |title=楽天が来季コーチ陣の組閣を発表 的場1軍バッテリーコーチ、川島2軍打撃コーチが新任 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/10/14/kiji/20221014s00001173426000c.html |newspaper=スポーツニッポン |date=2022-10-14 |accessdate=2022-10-15}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |title=2023コーチングスタッフに関して |url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00005123.html |website=東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト |date=2022-11-12 |accessdate=2022-10-14}}</ref>、同年限りで退団した<ref>{{Cite news |和書 |title=【楽天】奈良原育成総合コーチ退団、本人から球団に申し出 20年2軍監督でイースタン優勝導く |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202310180000651.html |newspaper=日刊スポーツ |date=2023-10-18 |accessdate=2023-11-02}}</ref>。 |
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{{by|2024年}}からは、大学の後輩である[[小久保裕紀]]のソフトバンク監督就任に伴い、[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチを務める<ref>{{Cite web |和書 |title=新入団コーチのお知らせ |url=https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/202300438409.html |website=福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト |date=2023-10-31 |access-date=2023-10-30}}</ref>。 |
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== 選手としての特徴 == |
== 選手としての特徴 == |
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[[辻発彦]]と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ<ref name="gendai_199403_120">「西武・辻発彦と奈良原浩の内野手論 『見えないファイン・プレー』の美学」『現代』、1994年3月号、P.120</ref>、[[ゴールデングラブ賞]]の受賞歴こそないものの、[[オレステス・デストラーデ]]からは「[[オジー・スミス]]とまでは言わないが、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]で十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている<ref>「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.32</ref>。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や[[石毛宏典]]と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した{{R|Number_19930120_48}}。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取る |
[[辻発彦]]と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ<ref name="gendai_199403_120">「西武・辻発彦と奈良原浩の内野手論 『見えないファイン・プレー』の美学」『現代』、1994年3月号、P.120</ref>、[[ゴールデングラブ賞]]の受賞歴こそないものの、[[オレステス・デストラーデ]]からは「[[オジー・スミス]]とまでは言わないが、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]で十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている<ref>「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.32</ref>。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や[[石毛宏典]]と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した{{R|Number_19930120_48}}。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取ることなど多くを学んだという{{R|Number_19930120_48}}。守備では特に打球へのスタートを重視しており、[[捕手]]のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた{{R|Number_19930120_48}}。 |
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西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している{{R|Number_19930120_48}}。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと[[東尾修]]は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという{{R|Number_19930120_48}}。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている{{R|base_20021021_58}}。 |
西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している{{R|Number_19930120_48}}。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと[[東尾修]]は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという{{R|Number_19930120_48}}。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている{{R|base_20021021_58}}。 |
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=== 年度別守備成績 === |
=== 年度別守備成績 === |
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{| class="wikitable" style="text-align: |
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=== 記録 === |
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; 初記録 |
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* 初出場:1991年4月6日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]1回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、8回裏に[[オレステス・デストラーデ]]の代走 |
* 初出場:1991年4月6日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]1回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、8回裏に[[オレステス・デストラーデ]]の代走で出場 |
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* 初先発出場:1991年4月21日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]3回戦([[藤井寺球場]])、9番・[[遊撃手]] |
* 初先発出場:1991年4月21日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]3回戦([[藤井寺球場]])、9番・[[遊撃手]]で先発出場 |
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* 初安打:同上、3回表に[[山崎慎太郎]]から |
* 初安打:同上、3回表に[[山崎慎太郎]]から |
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* 初犠打:1991年4月23日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]4回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に[[星野伸之]]から一塁前犠打 |
* 初犠打:1991年4月23日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]4回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に[[星野伸之]]から一塁前犠打 |
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* 初盗塁:1991年6月16日、対近鉄バファローズ14回戦([[ナゴヤ球場]])、8回表に二盗(投手:[[赤堀元之]]、捕手:[[光山英和]]) |
* 初盗塁:1991年6月16日、対近鉄バファローズ14回戦([[ナゴヤ球場]])、8回表に二盗(投手:[[赤堀元之]]、捕手:[[光山英和]]) |
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* 初打点:1991年10月13日、対ロッテオリオンズ26回戦([[川崎球場]])、8回表に[[安藤信二]]の代打 |
* 初打点:1991年10月13日、対ロッテオリオンズ26回戦([[川崎球場]])、8回表に[[安藤信二]]の代打で出場、[[今野隆裕]]から適時二塁打 |
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* 初本塁打:1996年7月18日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]20回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に[[今関勝]]からソロ |
* 初本塁打:1996年7月18日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]20回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に[[今関勝]]からソロ |
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; 節目の記録 |
; 節目の記録 |
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* '''5'''(1996年 - 1997年) |
* '''5'''(1996年 - 1997年) |
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* '''4'''(1998年 - 2006年途中) |
* '''4'''(1998年 - 2006年途中) |
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* '''95'''(2006年途中 - 同年終了、2020年 - ) |
* '''95'''(2006年途中 - 同年終了、2020年 - 2023年) |
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* '''82'''(2007年 - 2011年) |
* '''82'''(2007年 - 2011年) |
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* '''74'''(2012年 - 2016年) |
* '''74'''(2012年 - 2016年) |
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* '''83'''(2017年 - 2019年) |
* '''83'''(2017年 - 2019年) |
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=== 代表コーチ歴 === |
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* [https://www.softbankhawks.co.jp/team/player/detail/2024_00001558.html 92 奈良原 浩 選手名鑑2024] - 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト |
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* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19680064/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE |
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2024年5月18日 (土) 18:10時点における最新版
福岡ソフトバンクホークス ヘッドコーチ #92 | |
---|---|
2024年03月29日京セラドーム大阪 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県白岡市 |
生年月日 | 1968年5月16日(56歳) |
身長 体重 |
168 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、二塁手、三塁手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト2位 |
初出場 | 1991年4月6日 |
最終出場 | 2006年10月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県白岡市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。現在は福岡ソフトバンクホークスの一軍ヘッドコーチを務めている。
経歴[編集]
アマチュア時代[編集]
埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる[1]。4歳の時に軟式野球のボールとグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった[1]。白岡市立篠津小学校ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学[2][3]。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫による優れたノックで守備を鍛えられたという[2]。1学年上に河田雄祐と小林昭則、1学年下に芝草宇宙がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。主将となった3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は1番・遊撃手として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている[4]。
青山学院大学へ進むと、2年の秋に遊撃手として東都リーグのベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した[5]。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ[6]、同年は日米大学野球の代表にも選ばれた[7]。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している[8][9][10]。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。
1990年度ドラフト会議にて西武ライオンズから2位指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ[11]。
西武時代[編集]
1991年から一軍守備走塁コーチの伊原春樹には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け[12]、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは第1戦に代走としてシリーズ初出場を果たした[13]。
1992年は代走や田辺徳雄の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された[14]。同年のヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第3戦の8回に伊東昭光からシリーズ初安打、初打点を記録している[15]同年のシーズンオフには380万円増の年俸1700万円(推定)で契約を更改[16]。
1993年は遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した[17]。
1994年は5月7日の対ロッテ戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、鎖骨を骨折。全治2か月のケガを負っている[18]。
1995年は松井稼頭央と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。
1996年は田辺とともに主に二塁手として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。
1997年は高木浩之が二塁手として先発出場することが多く、出場試合数は100試合を割っている。1997年7月10日の近鉄戦の9回表無死一・二塁で二走の奈良原が捕手からのけん制でアウトこれに抗議し、塁審の胸を突き奈良原は退場となり、監督の東尾修は試合終了後塁審に胸ぐらをつかみ右足で回し蹴りし、東尾は3試合出場停止制裁金10万と処分を科された[19]。同年10月30日に西崎幸広との交換トレードで石井丈裕とともに日本ハムファイターズへ移籍[20]。この際、当時日本ハム監督のだった上田利治はトレード要員として奈良原と投手1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の東尾修はやむを得ず承諾したという[21][注 1]。
日本ハム時代[編集]
1998年は開幕当初は代走や二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わり、スタメンで起用されると3割を超える打率を記録し、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着[22]。その後、右肩を痛めた田中幸雄が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている[22]。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の規定打席に到達し、ビッグバン打線の中で貴重なつなぎ役となった[21][22]。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の出塁率.388を記録し[3]、年俸は2600万円増の7400万円(推定)となっている[23]。
1999年は田中幸雄が遊撃手に戻り、自身は代走や守備固めなどでの起用が増えた。
2000年は田中幸雄や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた[24]。同年のシーズンオフにはFAの権利を行使し、複数年契約で残留している[25]。
2002年には監督の大島康徳から指名を受け、主将に就任[12]。同年のシーズンは遊撃手のレギュラーとして期待され[26]、オープン戦では打率.412の好成績を残している[2]。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大により、待球が難しくなったこともあり、打撃不振に陥った[2]。また、札幌市への本拠地移転計画の発表や日本ハム本社の牛肉偽装事件などがあり、チームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている[1]。同年のシーズンオフには400万円減の年俸6800万円(推定)で契約を更改した[27]。木元邦之の成長などもあって出場機会は徐々に減った。
2005年オフには翌年のシーズンの年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている[28]。
中日時代[編集]
2006年には6月20日、金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍[29]。9月19日の対横浜ベイスターズ戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている[30]なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対巨人戦で延長12回表に放った適時打であった。古巣・日本ハムとの日本シリーズでは第1戦、第2戦で代走として起用されている[31]。同年のシーズンオフに現役を引退した。
引退後[編集]
2007年から2010年まで、中日の二軍内野守備走塁コーチを担当[32]。2011年は二軍野手コーチを務め、同年限りで落合博満が監督を辞任すると、10月6日付で一軍ヘッドコーチの森繁和ら他の8人のコーチとともに退団が発表された[33]。
2012年からは古巣・西武の一軍内野守備・走塁コーチを務めた[34]。しかし、2016年は両リーグワーストの101失策を記録し[35]、同年9月29日に、一軍打撃コーチの宮地克彦とともに退団が発表された。
同年10月12日、2017年より中日の一軍内野守備走塁コーチを務めることが発表され、6年ぶりに中日へ復帰となった。2017年のWBCでは野球日本代表のヘッドコーチを務め、監督の小久保監督、奈良原ヘッド体制でベスト4に導いた実績がある[36]。攻撃時は三塁コーチを担当した[37]。コーチの一軍・二軍の枠が撤廃された2018年は内野守備走塁コーチとして[38]、2017年から2019年までは一軍内野守備走塁コーチとして、3年間在籍した後、2019年10月3日に同年限りでの退団が発表された[39]。堂上直倫は奈良原を「守りの師匠」し、模倣としている[40]。権藤博は「私は投手でダメになったあと、遊撃に転向したので守備のこともわかる。芯で捕るにはグラブの角度、体の入れ方を調節し、グラブの面に対して90度の角度で球を受けないといけない。それを実際にやってみせ、理屈も説明できるのが奈良原コーチ。ノックも厳しく、捕り方が少しでも怪しいと「もう一丁」。そんな指導で、堂上や高橋、一塁のダヤン・ビシエドを含め、中日内野陣はみるみる上手になった。」[41]と述べている。
同年10月14日、2020年は東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍監督を務めることが発表された[42]。イースタン・リーグ優勝、球団初のファーム日本一を達成した[43]。2021年からは一軍内野守備走塁コーチ[44]、2023年は育成総合コーチを務め[45][46]、同年限りで退団した[47]。
2024年からは、大学の後輩である小久保裕紀のソフトバンク監督就任に伴い、福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチを務める[48]。
選手としての特徴[編集]
辻発彦と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ[49]、ゴールデングラブ賞の受賞歴こそないものの、オレステス・デストラーデからは「オジー・スミスとまでは言わないが、MLBで十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている[50]。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や石毛宏典と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した[14]。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取ることなど多くを学んだという[14]。守備では特に打球へのスタートを重視しており、捕手のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた[14]。
西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している[14]。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと東尾修は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという[14]。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている[12]。
人物[編集]
奈良原の友人が発見した小惑星(15716) Naraharaは奈良原の名前にちなんで命名された[51]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 西武 | 70 | 63 | 57 | 9 | 13 | 1 | 0 | 0 | 14 | 1 | 3 | 3 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 9 | 0 | .228 | .267 | .246 | .512 |
1992 | 66 | 40 | 35 | 9 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .171 | .237 | .200 | .437 | |
1993 | 110 | 205 | 161 | 20 | 40 | 3 | 0 | 0 | 43 | 13 | 10 | 4 | 16 | 1 | 26 | 0 | 1 | 24 | 1 | .248 | .354 | .267 | .622 | |
1994 | 72 | 176 | 141 | 26 | 35 | 5 | 0 | 0 | 40 | 11 | 14 | 4 | 11 | 2 | 21 | 0 | 1 | 17 | 1 | .248 | .345 | .284 | .629 | |
1995 | 102 | 245 | 208 | 19 | 47 | 5 | 1 | 0 | 54 | 13 | 19 | 6 | 18 | 2 | 16 | 0 | 1 | 29 | 1 | .226 | .282 | .260 | .542 | |
1996 | 108 | 215 | 170 | 31 | 37 | 4 | 3 | 2 | 53 | 8 | 22 | 5 | 22 | 3 | 18 | 0 | 2 | 34 | 3 | .218 | .295 | .312 | .607 | |
1997 | 94 | 100 | 89 | 20 | 17 | 1 | 2 | 0 | 22 | 3 | 13 | 6 | 5 | 0 | 6 | 0 | 0 | 17 | 1 | .191 | .242 | .247 | .489 | |
1998 | 日本ハム | 128 | 464 | 364 | 72 | 102 | 6 | 4 | 1 | 119 | 25 | 30 | 6 | 36 | 0 | 60 | 1 | 4 | 50 | 9 | .280 | .388 | .327 | .715 |
1999 | 88 | 121 | 103 | 17 | 18 | 5 | 0 | 0 | 23 | 6 | 6 | 1 | 9 | 0 | 9 | 0 | 0 | 18 | 1 | .175 | .241 | .223 | .464 | |
2000 | 101 | 305 | 254 | 50 | 65 | 16 | 0 | 3 | 90 | 31 | 14 | 3 | 13 | 2 | 36 | 0 | 0 | 46 | 6 | .256 | .346 | .354 | .700 | |
2001 | 124 | 399 | 334 | 32 | 79 | 19 | 3 | 4 | 116 | 19 | 27 | 5 | 31 | 1 | 33 | 0 | 0 | 59 | 5 | .237 | .304 | .347 | .652 | |
2002 | 116 | 364 | 320 | 22 | 65 | 6 | 0 | 1 | 74 | 19 | 13 | 4 | 21 | 2 | 21 | 0 | 0 | 49 | 1 | .203 | .251 | .231 | .482 | |
2003 | 109 | 376 | 317 | 40 | 82 | 24 | 3 | 0 | 112 | 32 | 12 | 4 | 16 | 4 | 35 | 1 | 4 | 70 | 3 | .259 | .336 | .353 | .689 | |
2004 | 85 | 109 | 99 | 21 | 24 | 4 | 1 | 0 | 30 | 9 | 5 | 1 | 4 | 0 | 5 | 0 | 1 | 20 | 1 | .242 | .286 | .303 | .589 | |
2005 | 98 | 179 | 165 | 21 | 38 | 7 | 2 | 2 | 55 | 17 | 6 | 2 | 5 | 1 | 7 | 0 | 1 | 35 | 1 | .230 | .264 | .333 | .598 | |
2006 | 中日 | 37 | 35 | 31 | 4 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 11 | 0 | .194 | .219 | .258 | .477 |
通算:16年 | 1508 | 3396 | 2848 | 413 | 674 | 109 | 19 | 13 | 860 | 212 | 198 | 55 | 215 | 18 | 300 | 3 | 15 | 495 | 34 | .237 | .311 | .302 | .613 |
年度別守備成績[編集]
年 度 |
球 団 |
二塁 | 三塁 | 遊撃 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1992 | 西武 | 16 | 7 | 12 | 0 | 5 | 1.000 | - | 48 | 25 | 50 | 0 | 13 | 1.000 | |||||
1993 | 4 | 3 | 6 | 0 | 0 | 1.000 | - | 102 | 82 | 183 | 4 | 43 | .985 | ||||||
1994 | 20 | 10 | 25 | 0 | 1 | 1.000 | - | 53 | 64 | 111 | 3 | 26 | .983 | ||||||
1995 | 39 | 26 | 48 | 1 | 5 | .987 | - | 75 | 72 | 169 | 3 | 28 | .988 | ||||||
1996 | 97 | 150 | 172 | 5 | 44 | .985 | - | 9 | 3 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | ||||||
1997 | 83 | 73 | 98 | 2 | 21 | .988 | - | - | |||||||||||
1998 | 日本ハム | 33 | 76 | 78 | 2 | 23 | .987 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 99 | 117 | 215 | 11 | 46 | .968 |
1999 | 31 | 26 | 39 | 1 | 8 | .985 | 14 | 7 | 8 | 0 | 1 | 1.000 | 29 | 15 | 52 | 2 | 8 | .971 | |
2000 | 30 | 64 | 85 | 2 | 15 | .987 | - | 80 | 96 | 149 | 11 | 40 | .957 | ||||||
2001 | - | 40 | 14 | 40 | 3 | 1 | .947 | 96 | 79 | 233 | 6 | 49 | .981 | ||||||
2002 | 65 | 107 | 153 | 0 | 29 | 1.000 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 52 | 69 | 131 | 2 | 23 | .990 | |
2003 | 88 | 169 | 232 | 3 | 53 | .993 | 8 | 3 | 8 | 0 | 0 | 1.000 | 23 | 16 | 39 | 1 | 9 | .982 | |
2004 | 65 | 31 | 67 | 2 | 11 | .980 | 5 | 0 | 6 | 1 | 1 | .857 | 13 | 9 | 20 | 0 | 6 | 1.000 | |
2005 | 56 | 49 | 82 | 0 | 20 | 1.000 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | .750 | 39 | 32 | 92 | 3 | 19 | .976 | |
2006 | 中日 | 14 | 6 | 18 | 0 | 3 | 1.000 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
通算 | 641 | 797 | 1115 | 18 | 238 | .991 | 83 | 28 | 63 | 5 | 3 | .948 | 718 | 679 | 1451 | 46 | 311 | .979 |
記録[編集]
- 初記録
- 初出場:1991年4月6日、対ロッテオリオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏にオレステス・デストラーデの代走で出場
- 初先発出場:1991年4月21日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、9番・遊撃手で先発出場
- 初安打:同上、3回表に山崎慎太郎から
- 初犠打:1991年4月23日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に星野伸之から一塁前犠打
- 初盗塁:1991年6月16日、対近鉄バファローズ14回戦(ナゴヤ球場)、8回表に二盗(投手:赤堀元之、捕手:光山英和)
- 初打点:1991年10月13日、対ロッテオリオンズ26回戦(川崎球場)、8回表に安藤信二の代打で出場、今野隆裕から適時二塁打
- 初本塁打:1996年7月18日、対日本ハムファイターズ20回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に今関勝からソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:2001年6月24日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、6回裏に遊撃手として出場 ※史上368人目
- 200犠打:2003年6月22日、対大阪近鉄バファローズ14回戦(大阪ドーム)、10回表に岡本晃から投手前犠打 ※史上23人目
- 1500試合出場:2006年9月18日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、8回表に小林正人の代打として出場 ※史上147人目
背番号[編集]
- 9(1991年 - 1995年)
- 5(1996年 - 1997年)
- 4(1998年 - 2006年途中)
- 95(2006年途中 - 同年終了、2020年 - 2023年)
- 82(2007年 - 2011年)
- 74(2012年 - 2016年)
- 83(2017年 - 2019年)
- 92(2024年 - )
代表コーチ歴[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.56
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57
- ^ a b 『毎日新聞』、1998年11月24日付朝刊、埼玉地方面
- ^ 『朝日新聞』、1986年3月31日付朝刊、P.19
- ^ 『読売新聞』、1988年11月4日付朝刊、P.19
- ^ 『読売新聞』、1989年5月27日付朝刊、P.18
- ^ 『読売新聞』、1989年6月10日付朝刊、P.19
- ^ 『読売新聞』、1989年10月27日付朝刊、P.18
- ^ 『読売新聞』、1990年5月24日付朝刊、P.19
- ^ 『読売新聞』、1990年10月26日付朝刊、P.18
- ^ 『読売新聞』、1990年12月21日付朝刊、P.19
- ^ a b c 『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.58
- ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
- ^ a b c d e f 「ベースボール・ルネッサンス1993 クローズアップ 奈良原浩 他のプレーヤーが飛びついて捕るような打球を正面でさばく。」『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.48
- ^ 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)
- ^ 『読売新聞』、1992年12月5日付朝刊、P.21
- ^ 日本野球機構 1993年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
- ^ 『読売新聞』、1994年5月8日付朝刊、P.13
- ^ 西武・森慎二、2度目の先発試合での退場劇【1997年7月10日】
- ^ 『朝日新聞』、1997年10月31日付朝刊、P.31
- ^ a b 「BASEBALL 西武野球の粋を知るつなぎ役・奈良原浩が日ハムにもたらした効果。」『Sports Graphic Number』、1998年7月30日号、P.153
- ^ a b c 「新天地1年目を振り返る 奈良原浩 念願のシーズンフル出場も『喜び』と『悔しさ』の1年」『週刊ベースボール』、1998年10月26日号、P.60
- ^ 『読売新聞』、1998年12月1日付朝刊、P.25
- ^ 『読売新聞』、2000年9月24日付朝刊、P.16
- ^ 『毎日新聞』、2000年11月9日付朝刊、P.23
- ^ 『読売新聞』、2002年2月23日付朝刊、P.18
- ^ 『毎日新聞』、2002年12月5日付朝刊、P.19
- ^ 『朝日新聞』、2005年9月30日付朝刊、P.21
- ^ 『朝日新聞』、2006年6月21日付朝刊、P.23
- ^ スポニチ 日めくりプロ野球 【9月19日】2006年 移籍1号本塁打、と思いきや…奈良原浩 幻の大飛球
- ^ “2006年度日本シリーズ 試合結果”. 日本野球機構. 2024年2月12日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』、2006年10月31日付朝刊、P.18
- ^ 『朝日新聞』、2011年10月23日付朝刊、P.23
- ^ 『朝日新聞』、2011年11月11日付朝刊、P.23
- ^ “西武「守乱」の責任とり奈良原コーチ退団”. 東スポWEB (2016年9月29日). 2024年2月12日閲覧。
- ^ “【ソフトバンク】奈良原浩1軍ヘッド、倉野信次1軍投手、牧田和久3軍投手、川越英隆4軍投手 各コーチ入閣発表”. スポーツ報知 (2023年10月31日). 2023年10月30日閲覧。
- ^ “中日、奈良原氏がコーチ就任「スキのない野球を浸透させたい」”. デイリースポーツ (2016年10月13日). 2024年2月12日閲覧。
- ^ “2018年度の監督、コーチングスタッフを発表”. 中日ドラゴンズ (2017年10月31日). 2022年10月15日閲覧。
- ^ “中日奈良原守備走塁コーチが退団 - プロ野球 : 日刊スポーツ”. 日刊スポーツ (2019年10月3日). 2024年2月12日閲覧。
- ^ “一日中素手でノック…中日・堂上コーチが模倣する“守りの師匠”のスタイル 全ての努力は試合で笑うために”. 中日スポーツ、東京中日スポーツ (2024年2月9日). 2024年2月9日閲覧。
- ^ “名手に託したタカの守り”. 日本経済新聞 (2024年2月8日). 2024年2月8日閲覧。
- ^ “新任コーチに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (2019年10月14日). 2022年10月14日閲覧。
- ^ “2020ファーム総括【楽天】奈良原浩二軍監督の下で球団初の日本一を達成/2020ファーム総括”. 週刊ベースボール (2020年12月20日). 2020年12月20日閲覧。
- ^ “コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (2020年11月12日). 2022年10月14日閲覧。
- ^ 「楽天が来季コーチ陣の組閣を発表 的場1軍バッテリーコーチ、川島2軍打撃コーチが新任」『スポーツニッポン』、2022年10月14日。2022年10月15日閲覧。
- ^ “2023コーチングスタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (2022年11月12日). 2022年10月14日閲覧。
- ^ 「【楽天】奈良原育成総合コーチ退団、本人から球団に申し出 20年2軍監督でイースタン優勝導く」『日刊スポーツ』、2023年10月18日。2023年11月2日閲覧。
- ^ “新入団コーチのお知らせ”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2023年10月31日). 2023年10月30日閲覧。
- ^ 「西武・辻発彦と奈良原浩の内野手論 『見えないファイン・プレー』の美学」『現代』、1994年3月号、P.120
- ^ 「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.32
- ^ “(15716) Narahara = 1989 WY1 = 2000 BD29”. MPC. 2021年9月12日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 奈良原浩 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 92 奈良原 浩 選手名鑑2024 - 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE