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{{Infobox 学者
'''ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン'''({{lang-de|Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann}}, [[1822年]][[1月6日]] - [[1890年]][[12月26日]])は、[[ドイツ]]の[[考古学]]者、[[実業家]]。幼少期に聞かされた[[ギリシア神話]]に登場する伝説の都市[[イリオス|トロイア]]が実在すると考え、実際にそれを発掘によって実在していたものと証明した。
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'''ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン'''({{lang-de|Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann}}, [[1822年]][[1月6日]] - [[1890年]][[12月26日]])は、[[ドイツ]]の[[考古学]]者、[[実業家]]。[[ギリシア神話]]に登場する伝説の都市[[イリオス|トロイア]]を発掘した。[[1865年]]には日本にも訪れ、[[八王子]]紀行などを記した。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[プロイセン王国]]のメクレンブルクシュヴェリン(現[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]])ノイブコウ([[シュヴェリーン]]の近郊)生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストは[[プロテスタント]]の[[説教者|説教師]]で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳で[[ギムナジウム]]に入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。仕事の合間の勉強で15ヶ国語を完全にマスターした<ref name="古代">『古代への情熱 シュリーマン自伝』岩波・角川・新潮文庫, 1964.</ref>。
[[メクレンブルクシュヴェリ大公国]](現[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]){{illm|ノイブコウ|en|Neubukow}}生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストは[[プロテスタント]]の[[説教者|説教師]]で、母{{仮リンク|ルイーゼ・テレーズ・ソフィー・シュリーマン|label=ルイーゼ|fr|Louise Thérèse Sophie Schliemann}}はシュリーマンが9歳のときに死去し、シュリーマンは叔父の家に預けられた。13歳で[[ギムナジウム]]に入学するが、貧しかったため[[1836年]]に退学して食品会社の[[wikt:徒弟|徒弟]]になった。自伝には仕事の合間の勉強で15ヶ国語を完全にマスターした<ref name="古代">『古代への情熱 シュリーマン自伝』岩波・角川・新潮文庫, 1964.</ref>とあるが、その可能性は低いとされている<ref name="1997年">{{仮リンク|エーベルハルト・ツァンガー|en|Eberhard Zangger}}著、[[和泉雅人]]訳 『甦るトロイア戦争』 大修館書店、1997年 ISBN 4-469-21213-X P113-P138。</ref><ref name="1999年">{{仮リンク|デイヴィッド・トレイル|wikidata|Q116811766}}『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』[[周藤芳幸]]ほか訳 [[青木書店]] 1999年</ref>。


貧困から脱するため1841年に[[ベネズエラ]]に移住を志したものの、船が難破して[[オランダ]]領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年に[[サンクトペテルブルク]]に商社を設立し、翌年[[ロシア]]国籍を取得。この時期に成功し、30歳(1852)の時にロシア女性と結婚したが、後に離婚。さらに[[ゴールドラッシュ]]に沸く[[カリフォルニア州]][[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]にも商社を設立し成功を収める。[[クリミア戦争]]に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。
貧困から脱するため[[1841年]]に[[ベネズエラ]]に移住を志したものの、船が難破して[[オランダ]]領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。[[1846年]]に[[サンクトペテルブルク]]に商社を設立し、翌年[[ロシア]]国籍を取得。この時期に成功し、[[1852]]30歳でロシア女性と結婚したが、後に離婚。さらに[[ゴールドラッシュ]]に沸く[[カリフォルニア州]][[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]にも商社を設立し成功を収める。[[クリミア戦争]]に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。


=== トロイア発見 ===
=== トロイア ===
[[画像:Schliemann Trojanische Altertümer EA.jpg|thumb|シュリーマンによるトロイア発掘報告書の扉絵(1874年の初版)]]
[[画像:Schliemann Trojanische Altertümer EA.jpg|thumb|シュリーマンによるトロイア発掘報告書の扉絵(1874年の初版)]]
[[画像:Lion Gate Mykene with Wilhelm Dörpfeld and Heinrich Schliemann.jpg|thumb|シュリーマンらによるミケーネの調査(1885年頃)]]
[[画像:Lion Gate Mykene with Wilhelm Dörpfeld 1891.jpg|thumb|シュリーマンらによるミケーネの調査(1885年頃)]]
自身の著作では、幼少のころに[[ホメーロス]]の『[[イーリアス]]』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしているが、これは功名心の高かったによる後付けの創作である可能性が高い{{要出典|title=どの文献でそう呼ばれましたか?|date=20172月}}。発掘当時はトロイア戦争はホメロスの創作と言われ、トロイアの実在も疑問視されていたというのもシュリーマンの著作に見られる記述あるが、実際には当時もトロイアの[[遺跡]]発掘は行われており、シュリーマンの「トロイア実在説」は当時からして決して荒唐無稽なものではなかっ{{要出典|title=どの文献でそう呼ばれましたか?|date=20172月}}
自身の著作では、幼少のに[[ホメーロス]]の『[[イーリアス]]』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけとしているが、これは功名心の高かったシュリーマンによる後付けの創作である可能性が高い<ref name="1999"/>シュリーマンの著作には「発掘当時はトロイア戦争はホメロスの創作と言われ、トロイアの実在も疑問視されていたという記述あるが、実際には当時もトロイアの[[遺跡]]発掘は行われて<ref name="1999"/>


は発掘調査費を自弁するために貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と[[語学]]にいそしんだと自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。実際には発掘調査に必要な費用用意できたので事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。また彼は世界旅行に出て[[清]](当時の中国)に続き、幕末・慶応元年(1865年)には[[日本]]を訪れ、自著 ''La Chine et le Japon au temps présent'' (石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)にて、鋭い観察眼で当時の東アジアを描写している。その後[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]や[[ロストック大学]]に学んだのち、[[ギリシャ|ギリシア]]に移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、[[トルコ]]に発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた
シュリーマン発掘調査費を自弁するために貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と[[語学]]にいそしんだと自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。しかし実際には発掘調査に必要な費用用意できたので遺跡発掘のために事業をんだのではなく、事業をんでから遺跡発掘を思いついたのである。


またシュリーマンは世界旅行に出て、[[清]]に続いて幕末の[[慶応]]元年([[1865年]])に[[日本]]を訪れた。自著 ''La Chine et le Japon au temps présent'' ([[石井和子]]訳『シュリーマン旅行記清国・日本』[[講談社学術文庫]])では、当時の東アジアを描写している。それによれば日本に到着したのは6月1日で<ref>『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、73頁</ref>、日本を出発したのは7月4日である<ref>『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、179頁</ref>。横浜滞在中に特に興味深かったものに、八王子へ向けての馬の旅を挙げている。シュリーマンは6月18日にイギリス人6人と馬丁7人で横浜から八王子に向かい、手織機をそなえた木造住宅、絹織物店がならぶ町並みを見て、大通りの井戸を観察した<ref>『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、103-109頁</ref>。
彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市は[[ヒサルルク]](ヒサルルック)の丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「[[プリアモス]]の財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、[[古代ギリシア]]の[[先史時代]]の研究は大いに進むこととなった。


その後[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]や[[ロストック大学]]に学んだのち、[[ギリシャ|ギリシア]]に移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、[[トルコ]]に発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。
「プリアモスの財宝」は[[オスマン帝国]]政府に無断でシュリーマンによってギリシアの[[アテネ]]に持ちだされ、1881年に「[[ベルリン]]名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦争中に[[モスクワ]]の[[プーシキン美術館]]の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。


<!--彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市は[[ヒサルルク]](ヒサルルック)の丘にあると推定した。-->[[1870年]]に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。[[1873年]]にいわゆる「[[プリアモスの財宝]]」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、[[古代ギリシア]]の[[先史時代]]の研究は大いに進むこととなった。「プリアモスの財宝」はシュリーマンによって[[オスマン帝国]]政府に無断でギリシアの[[アテネ]]に持ち出され、[[1881年]]に「[[ベルリン]]名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。[[第二次世界大戦]]中に[[モスクワ]]の[[プーシキン美術館]]の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されている。トルコ・ドイツ・ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での[[考古学]]は整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、[[イスタンブール]]に駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。


シュリーマンは発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での[[考古学]]も整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたってシュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し、出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、[[イスタンブール]]に駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しくしている。
=== ギリシア考古学の父 ===
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)が[[トロイア戦争]]時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る[[文明]]が、[[エーゲ海]]の各地に存在していたということをも証明した。


=== ギリシア考古学 ===
また彼は、1876年に[[ミケーネ]]で「[[アガメムノンのマスク]]」のような豪奢な黄金を蔵した[[竪穴墓]]([[竪穴式石室]])を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈して[[ベルリン]]の名誉市民となった。建築家[[ヴィルヘルム・デルプフェルト]]の助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年には[[ティリンス]]の発掘に着手。1890年、旅行先の[[ナポリ]]の路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られた。
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)が[[トロイア戦争]]時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る[[エーゲ文明|文明]]が[[エーゲ海]]の各地に存在したことをも証明した。


またシュリーマンは、[[1876年]]に[[ミケーネ]]で「[[アガメムノンのマスク]]」のような豪奢な黄金を蔵した[[竪穴墓]]([[竪穴式石室]])を発見している。1881年、トロイアの黄金をドイツ国民に寄贈して[[ベルリン]]の名誉市民となった。建築家[[ヴィルヘルム・デルプフェルト]]の助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年には[[ティリンス]]の発掘に着手。
== 人物 ==
職を転々としながらも商才を発揮し、トロイ発掘の目標に向け蓄財し、かつ勉学に励んだ。語学は、音読をすること・決して翻訳しないこと・文法を度外視して文章を丸暗記することなどの勉強法により、多国語を学習した<ref name="古代" />。母国語である[[ドイツ語]]のほか、[[英語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[スウェーデン語]]、[[ポーランド語]]、[[イタリア語]]、現代[[ギリシア語]]および[[古代ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]、[[ラテン語]]、[[ロシア語]]、[[アラビア語]]、[[トルコ語]]に詳しかった。内容は著書『古代への情熱 シュリーマン自伝』で詳述、語学習得法の一例としてよく紹介される。


1890年、旅行先の[[ナポリ]]の路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られた。
18ヶ国語を話せたという<ref name="古代" />。


== エピソード ==
== 人物 ==
*職を転々としながらも商才を発揮した<!--、トロイ発掘の目標に向け蓄財し、かつ勉学に励んだ。語学は、音読をすること・決して翻訳しないこと・文法を度外視して文章を丸暗記することなどの勉強法により、多国語を学習した<ref name="古代" />。母国語である[[ドイツ語]]のほか、[[英語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[スウェーデン語]]、[[ポーランド語]]、[[イタリア語]]、現代[[ギリシア語]]および[[古代ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]、[[ラテン語]]、[[ロシア語]]、[[アラビア語]]、[[トルコ語]]に詳しかった。内容は著書『古代への情熱 シュリーマン自伝』で詳述、語学習得法の一例としてよく紹介される。-->。
幕末の[[慶応]]元年([[1865年]])に日本を訪れ、「日本人が世界で最も清潔な国民だということに疑いの余地がない」と言及した<ref>''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.</ref>。
*自伝では18ヶ国語を話せたとある<ref name="古代" />が、可能性は低いとされている<ref name="1997年"/><ref name="1999年"/>。
背景には当時はイギリスの[[テムズ川]]などのヨーロッパの川は、排泄物などで汚染されていて不潔だったので、[[ペスト]]など伝染病などの原因となっていた。
これに対して江戸時代の日本の川は綺麗だった。理由は排泄物の処理がきちんと管理されていたからだった。なぜなら排泄物が優れた有機肥料という点で高い値段で取り引きされていたからだった。価格が急騰して、[[江戸幕府]]が介入して排泄物の価格を引き下げるように強制する法令まで制定して公布していたほどだった。


== 日本語訳一覧 ==
日本人の入浴・[[混浴]]文化を知って「なんと清らかな素朴さだろう!」と初めて公衆浴場の前を通り全裸の男女を見た時に感動して叫んだ。『どんなに貧しい人でも、日には一度は公衆浴場に通っている。」とし男女混浴を見て「禁断の林檎をかじる前の我々の先祖と同じ姿になった老若男女が一緒に湯をつかっている。日本人は礼儀に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、人間というものは自国の習慣に従って生きている限り間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。すべてのものが男女混浴を容認しており、男女混浴が恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。ある民族の道徳性を他の民族のそれに比べてうんぬんすることはきわめて難しい。』と記した。<ref>''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.</ref>。
*''Selbstbiographie bis zu seinem Tode vervollständigt'', 1892.
**『先史世界への熱情 : シュリーマン自叙伝』[[村田数之亮]]訳、[[星野書店]]、1942年
***『先史世界への熱情 : シュリーマン自敍伝』村田数之亮訳、[[みすず書房]]、1950年
***『古代への情熱 : シュリーマン自伝』村田数之亮訳、[[岩波文庫]]、1954年(改版1976年) ISBN 4003342011
***『古代への情熱 : シュリーマン自伝』村田数之亮訳、ワイド版岩波文庫、1991年。ISBN 4000070762
**『先史時代への情熱』[[立川洋三]]訳、[[平凡社]]〈世界教養全集〉、1962年(新版1974年)
***『古代への情熱』立川洋三訳、[[ポプラ社]]〈世界の名著〉、1968年
**『古代への情熱 : 発掘王シュリーマン自伝』[[佐藤牧夫]]訳、[[角川文庫]]、1967年(改版1994年) ISBN 4043158017
**『古代への情熱 : シュリーマン自伝』[[関楠生]]訳、[[新潮文庫]]、1977年(改版2004年) ISBN 4102079017
**『古代への情熱』[[池内紀]]訳、[[小学館]]〈地球人ライブラリー〉、1995年。ISBN 4092510209
***『古代への情熱』池内紀訳、[[角川ソフィア文庫]]、2023年。ISBN 4044007446
*''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.
**『日本中国旅行記』藤川徹訳、[[雄松堂書店|雄松堂出版]]〈新[[異国叢書]] 第Ⅱ輯6〉、1982年。ISBN 4841902074
**『シュリーマン旅行記 清国・日本』石井和子訳、エス・ケイ・アイ、1991年
***『シュリーマン旅行記 清国・日本』石井和子訳、[[講談社学術文庫]]、1998年。ISBN 4061593250


== 伝記 ==
[[浅草寺]]で[[花魁]]の[[絵姿]]と[[仏像]]が並んで飾られている様子を見てシュリーマンはしばらく立ち尽くして、「私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた----長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ」と[[遊女]]が人々に尊敬されていることに驚いた<ref>''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.</ref>
*[[エミール・ルートヴィヒ]]『シュリーマン トロイア発掘者の生涯』[[秋山英夫]]訳 [[白水社]]、新版2022年ほか
*{{仮リンク|エルヴェ・デュシエーヌ|wikidata|Q113764425}}『シュリーマン・黄金発掘の夢』[[「知の再発見」双書]]:[[創元社]]、1998年
*{{仮リンク|キャロライン・ムアヘッド|en|Caroline Moorehead}}『トロイアの秘宝 その運命とシュリーマンの生涯』芝優子訳 [[角川書店]]、1997年
*[[大村幸弘]]『トロイアの真実 アナトリアの発掘現場からシュリーマンの実像を踏査する』[[大村次郷]]写真、[[山川出版社]]、2014年


== 脚注 ==
[[幕末]]の日本国内の政治について「絶対的権力を持った[[大名]]達は、二つの権力の臣下として国法を尊守しながらも、実際には、大君([[徳川家茂]])と帝([[孝明天皇]])の権威に対抗している。好機と見て自己の利益と情熱によって両者の権威を縮小しようと図るのである。これは騎士制度を欠いた封建制度であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主が全てであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にしましてよく耕された土地が見られる」と記した<ref>''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.</ref>
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


== 著書 ==
== 参考文献 ==
*エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』 和泉雅人訳、[[大修館書店]]、1997年 {{ISBN2| 4-469-21213-X}} P113-P138。
*『古代への情熱 シュリーマン自伝』
*エリック・H・クライン『トロイア戦争』[[西村賀子]]訳、白水社、2021年 {{ISBN2| 4-560-09825-5}} P103-P116。
** [[村田数之亮]]訳、[[岩波文庫]]、1954年
*{{仮リンク|デイヴィッド・トレイル|wikidata|Q116811766}}『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』[[周藤芳幸]]ほか訳 [[青木書店]]、1999年
** [[佐藤牧夫]]訳、[[角川文庫]]、1967年
** [[立川洋三]]訳、[[ポプラ社]]、1968年
** [[関楠生]]訳、[[新潮文庫]]、1977年
** [[池内紀]]訳、[[小学館]]〈地球人ライブラリー〉、1995年
*''La Chine et le Japon au temps présent'', Paris: Librairie centrale, 1867.
**藤川徹訳『日本中国旅行記』[[雄松堂書店]]〈[[異国叢書|新異国叢書]] 第2輯6〉、1982年、ISBN 4841902074
**石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』[[講談社学術文庫]]、1998年、ISBN 4061593250

== 伝記 ==
*エミール・ルートヴィヒ『シュリーマン トロイア発掘者の生涯』秋山英夫訳 [[白水社]]
*エルヴェ・デュシエーヌ『シュリーマン・黄金発掘の夢』[[「知の再発見」双書]]:[[創元社]]、1998年
*キャロライン・ムアヘッド『トロイアの秘宝 その運命とシュリーマンの生涯』芝優子訳 [[角川書店]] 1997年
*デイヴィッド・トレイル『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』周藤芳幸ほか訳 [[青木書店]] 1999年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[http://www.schliemann-museum.de/ Heinrich-Schliemann-Museum] - (ドイツ語)シュリーマン博物館。シュリーマンが育ったアンカースハーゲン(Ankershagen)にある。
*[http://www.schliemann-museum.de/ Heinrich-Schliemann-Museum] - (ドイツ語)シュリーマン博物館。シュリーマンが育ったアンカースハーゲン(Ankershagen)にある。


== 出典 ==
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[[Category:1822年生]]
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[[Category:メクレンブルク=フォアポンメルン州出身の人物]]

2024年5月20日 (月) 17:12時点における最新版

ハインリヒ・シュリーマン
人物情報
生誕 1822年1月6日
ドイツ連邦 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国ノイブーコウ英語版
死没 (1890-12-26) 1890年12月26日(68歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国 ナポリ
国籍 ドイツ連邦
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
学問
研究分野 考古学
主な業績 トロイアの発掘
影響を与えた人物 アーサー・エヴァンズ
ゴードン・チャイルド
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ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマンドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日)は、ドイツ考古学者、実業家ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した。1865年には日本にも訪れ、八王子紀行などを記した。

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン大公国(現メクレンブルク=フォアポンメルン州ノイブーコウ英語版生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストはプロテスタント説教師で、母ルイーゼフランス語版はシュリーマンが9歳のときに死去し、シュリーマンは叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。自伝には仕事の合間の勉強で15ヶ国語を完全にマスターした[1]とあるが、その可能性は低いとされている[2][3]

貧困から脱するため1841年ベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年サンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。この時期に成功し、1852年に30歳でロシア女性と結婚したが、後に離婚。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立し、成功を収める。クリミア戦争に際して、ロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。

トロイア

[編集]
シュリーマンによるトロイア発掘報告書の扉絵(1874年の初版)
シュリーマンらによるミケーネの調査(1885年頃)

自身の著作では、幼少の頃にホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけとしているが、これは功名心の高かったシュリーマンによる後付けの創作である可能性が高い[3]。シュリーマンの著作には「発掘当時は『トロイア戦争はホメーロスの創作』と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた」という記述があるが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われていた[3]

シュリーマンは「発掘調査費を自弁するために貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだ」と自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。しかし実際には、発掘調査に必要な費用を用意できたので遺跡発掘のために事業を畳んだのではなく、事業を畳んでから遺跡発掘を思いついたのである。

またシュリーマンは世界旅行に出て、に続いて幕末の慶応元年(1865年)に日本を訪れた。自著 La Chine et le Japon au temps présent石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)では、当時の東アジアを描写している。それによれば日本に到着したのは6月1日で[4]、日本を出発したのは7月4日である[5]。横浜滞在中に特に興味深かったものに、八王子へ向けての馬の旅を挙げている。シュリーマンは6月18日にイギリス人6人と馬丁7人で横浜から八王子に向かい、手織機をそなえた木造住宅、絹織物店がならぶ町並みを見て、大通りの井戸を観察した[6]

その後ソルボンヌ大学ロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、トルコに発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。

1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシア先史時代の研究は大いに進むこととなった。「プリアモスの財宝」はシュリーマンによってオスマン帝国政府に無断でギリシアのアテネに持ち出され、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦中にモスクワプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されている。トルコ・ドイツ・ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。

シュリーマンは発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での考古学も整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたってシュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し、出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブールに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しくしている。

ギリシア考古学

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シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る文明エーゲ海の各地に存在したことをも証明した。

またシュリーマンは、1876年ミケーネで「アガメムノンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓竪穴式石室)を発見している。1881年、トロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。

1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られた。

人物

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  • 職を転々としながらも商才を発揮した。
  • 自伝では18ヶ国語を話せたとある[1]が、可能性は低いとされている[2][3]

日本語訳一覧

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伝記

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脚注

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  1. ^ a b 『古代への情熱 シュリーマン自伝』岩波・角川・新潮文庫, 1964.
  2. ^ a b エーベルハルト・ツァンガー英語版著、和泉雅人訳 『甦るトロイア戦争』 大修館書店、1997年 ISBN 4-469-21213-X P113-P138。
  3. ^ a b c d デイヴィッド・トレイルwikidata『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』周藤芳幸ほか訳 青木書店 1999年
  4. ^ 『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、73頁
  5. ^ 『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、179頁
  6. ^ 『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫、103-109頁

参考文献

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  • エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』 和泉雅人訳、大修館書店、1997年 ISBN 4-469-21213-X P113-P138。
  • エリック・H・クライン『トロイア戦争』西村賀子訳、白水社、2021年 ISBN 4-560-09825-5 P103-P116。
  • デイヴィッド・トレイルwikidata『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』周藤芳幸ほか訳 青木書店、1999年

関連項目

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外部リンク

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  • Heinrich-Schliemann-Museum - (ドイツ語)シュリーマン博物館。シュリーマンが育ったアンカースハーゲン(Ankershagen)にある。