「アンバージャック (SS-219)」の版間の差分
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{{Infobox 艦艇 |
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<div class="thumb tright"> |
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|名称=USS アンバージャック |
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{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
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|画像=USS Amberjack (SS-219).jpg |
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|建造所=[[ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート|エレクトリック・ボート造船所]] |
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|運用者={{USNAVY}} |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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|艦種=[[潜水艦#攻撃型潜水艦|攻撃型潜水艦]] (SS) |
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|級名=[[ガトー級潜水艦]] |
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|発注: |
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|発注=[[1940年]][[7月1日]]<ref>[[#海と空]]p.170</ref> |
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|起工=[[1941年]][[5月15日]]<ref name="a">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.5</ref> |
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|進水=[[1942年]][[3月6日]]<ref name="a" /> |
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|起工: |
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|就役=1942年[[6月19日]]<ref name="a" /> |
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|最期=[[1943年]][[2月16日]]、[[セント・ジョージ岬]]沖にて戦没 |
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|除籍=1943年[[3月22日]] |
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|進水: |
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|その後= |
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|[[1942年]][[3月6日]] |
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|水上排水量=1,526 [[トン数|トン]] |
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|水中排水量=2,424 トン |
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|就役: |
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|全長={{convert|311|ft|9|in|m|2|lk=on}} |
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|[[1942年]][[6月19日]] |
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|水線長={{convert|307|ft|1}} |
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|- |
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|全幅={{convert|27|ft|3|in|2}} |
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|退役: |
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|吃水={{convert|17|ft|1}} |
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|主機=[[ゼネラルモーターズ]]278A16気筒[[ディーゼルエンジン]]×4基 |
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|- |
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|電源=[[ゼネラル・エレクトリック]]製 [[発電機]]×2基 |
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|除籍: |
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|出力={{convert|5,400|hp|MW|lk=on}} |
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|[[1943年]][[3月22日]] |
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|電力={{convert|2,740|hp|MW|1}} |
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|最大速力=水上:20.25[[ノット]]<br />水中:8.75ノット |
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|その後: |
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|航続距離=11,000[[カイリ]]/10ノット時 |
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|[[1943年]][[2月16日]]に戦没 |
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|潜航深度=試験時:{{convert|300|ft}} |
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|- |
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|乗員=士官6名、兵員54名(平時)<br />士官、兵員80 - 85名(戦時) |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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|兵装={{ubl|21インチ[[魚雷発射管]]×10基(前方6,後方4)/魚雷×24本 |
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|3インチ砲×1基 |
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|[[排水量]]: |
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|7.62mm50口径機銃×2基 |
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|1,526トン(水上)2,424トン(水中) |
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|7.62mm30口径機銃×2基<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.5</ref>}} |
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|- |
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}} |
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|全長: |
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|307ft (93.6m)(水線長)<br />311ft 9in (95m)(全長) |
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|全幅: |
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|27.3 ft (8.3 m) |
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|吃水: |
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|15.3 ft (4.6 m) |
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|機関: |
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|[[ゼネラル・モーターズ]]278A16気筒[[ディーゼルエンジン]] 4基<br />[[ゼネラル・エレクトリック]]発電機2基 |
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|- |
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|最大速: |
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|水上:20.25 [[ノット]] (37 km/h)<br />水中:8.75 ノット (16 km/h) |
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|- |
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|航続距離: |
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|11,000[[カイリ]](10ノット時)<br />(18.5 km/h 時に 20,000 km) |
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|- |
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|試験深度: |
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|300ft(90m) |
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|- |
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|兵員: |
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|士官6名、兵員54名(平時)<br />士官、兵員80 - 85名(戦時) |
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|兵装: |
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|3インチ砲1基、21インチ[[魚雷発射管]]10基 |
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|} |
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</div> |
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'''アンバージャック'''('''USS Amberjack, SS-219''')は、[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]。[[ガトー級潜水艦]]の8番艦。艦名は[[ニューイングランド]]から[[ブラジル]]西部大西洋に生息する[[カンパチ]]の一種に因む。 |
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'''アンバージャック''' (USS ''Amberjack'', SS-219) は、[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]。[[ガトー級潜水艦]]の8番艦。艦名は[[ニューイングランド]]から[[ブラジル]]西部大西洋に生息する[[カンパチ]]など[[ブリ属]]の総称に因む。 |
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==艦歴== |
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アンバージャックは1941年5月15日に[[コネチカット州]][[グロトン]]の[[エレクトリック・ボート]]社で起工する。1942年3月6日にランドール・ジェーコブス夫人によって進水し、艦長[[ジョン・A・ボール・ジュニア]]少佐の指揮下1942年6月19日に就役する。アンバージャックは7月20日からコネチカット州[[ニューロンドン (コネチカット州)|ニューロンドン]]および[[ロードアイランド州]][[ニューポート(ロードアイランド)|ニューポート]]沖の海域で整調、訓練を行った。その後8月中旬、[[パナマ運河]]を経由して太平洋に出航、8月20日に[[ハワイ州]][[真珠湾]]に到着し訓練を実施した。 |
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[[File:Seriola dumerili- Greater amberjack.png|250px|thumb|left|[[カンパチ]](Greater '''amberjack''')]] |
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=== 第1の哨戒 === |
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[[File:Yellowtail amberjack.jpg|250px|thumb|left|[[ヒラマサ]](Yellowtail '''amberjack''')]] |
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アンバージャックは、9月3日から最初の哨戒任務に就いた。2日後、[[ジョンストン島]]で給油を行った後、[[ニューアイルランド]]の北東海岸から[[ブーゲンビル島]]間での哨戒を再開した。9月15日、アンバージャックは[[ニューアイルランド島]]の[[カビエン]]沖を偵察する。3日後には[[駆逐艦]]が護衛する大船団に遭遇、[[魚雷]]4発を発射するがどれも命中しなかった。9月19日、ブーゲンビル海峡を哨戒する間、潜水艦は2発の魚雷を海軍徴用船'''志ろがね丸'''(日本海運。3,630トン)に向け発射した。2発が見事命中し、志ろがね丸は竜骨が真っ二つに折れて沈没した。沈没地点は、南緯6度33分、東経156度5分であった<ref>『日本商船隊戦時遭難史』では、同船は「9月17日に[[汕頭市|汕頭]]付近で雷撃により沈没」とある。また、『日本商船隊戦時遭難史』に掲載されている「しろがねまる」と名乗る戦没船は、当該船しかいない。さらに、9月19日に沈没した輸送船は『日本商船隊戦時遭難史』や『[[戦史叢書]]』によれば1隻もいない(喪失原因が雷撃のみならず、空爆や事故等も含め)。アンバージャックがこの時本当は何を攻撃したのかは不明だが、ここでは英文版およびRoscoe "United States Submarine Operetions in World War II"の記述に拠った</ref>。この戦功によりアンバージャックは殊勲部隊賞を受賞した。9月25日にも日本艦艇と接触し、駆逐艦に護衛された大型[[巡洋艦]]を発見する。しかしながら攻撃開始前に敵駆逐艦に発見され、アンバージャックは潜行を強いられた。数発の爆雷が投下されたが、アンバージャックの損傷はなかった。その数日後には[[タウ島]]、[[キリナイラウ島]]、[[グリニッジ島]]、[[オーシャン島]]への偵察を行う。9月30日、アンバージャックは巡洋艦を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった。アンバージャックはさらに2本発射したが、結果は同じであった。1週間後の10月7日、アンバージャックはカビエン港外で海軍徴用船'''鮮海丸'''(嶋谷汽船。2,103トン)を発見。これに対し魚雷を2本発射した。1本は外したものの、もう1本が命中。しかし、鮮海丸は沈む気配を見せず相変わらず航行を続けていたので、アンバージャックはこれを追跡した。1時間後、鮮海丸からアンバージャックに向けて発砲があったが、効果は見られなかった。さらに2時間監視を続けた後、止めの魚雷を1本発射。魚雷は鮮海丸の左舷に命中し、鮮海丸はついに沈没した。沈没地点は北緯1度12分、東経153度33分だった。アンバージャックは潜望鏡越しに、鮮海丸の救命ボートが浮いているのを発見した。<br/> |
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{{-|left}} |
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10月10日、なおもカビエン港外で監視を続けていたアンバージャックは、獲物を求めて港内に侵入。停泊していた第二図南丸([[日本水産]]。19,209トン。[[第三図南丸]]と同型)などに向けて魚雷4本を発射。魚雷の命中を受けた第二図南丸は沈没を避けるために座礁、後に浮揚して日本本土に戻っている。10月16日、アンバージャックはバラストタンクの修理のために[[エスピリトゥサント島]]に向かい、10月19日に到着の後修理を実施した。その後、アンバージャックは特別任務として[[ツラギ島]]に対する補給を命じられた。これより先の10月13日、[[戦艦]][[金剛 (戦艦)|金剛]]と[[榛名 (戦艦)|榛名]]が[[ガダルカナル島]]のヘンダーソン飛行場を艦砲射撃し([[ヘンダーソン基地艦砲射撃]])、航空機の他所在の[[ガソリン|航空ガソリン]]も砲撃により炎上。このため、緊急に航空ガソリンを輸送する必要が生じた。1番手として駆逐艦メレディス(''USS Meredith, DD-434'')や艦隊曳船ヴィレオ(''USS Vireo, AM-52'')などからなる小船団がガダルカナル島に向かったが、船団は途中で[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]機に発見され、メレディス沈没、ヴィレオ自沈処分などにより船団は退却し輸送は失敗した。次に輸送艦として選ばれたのがアンバージャックであった。アンバージャックは9,000[[ガロン]]の航空ガソリン、200個の爆弾、15名の陸軍航空隊搭乗員を搭載し、10月25日にツラギ島に到着し揚陸。ヘンダーソン飛行場はこれで当面の活動が出来るようになった。任務完了後、アンバージャックは[[ブリスベン]]に向かい、10月30日に帰投した。 |
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== 艦歴 == |
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アンバージャックは1941年5月15日に[[コネチカット州]][[グロトン (コネチカット州)|グロトン]]の[[エレクトリック・ボート]]社で起工する。1942年3月6日にランドール・ジェーコブス夫人によって進水し、艦長ジョン・A・ボール・ジュニア少佐([[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス]]1928年組)の指揮下1942年6月19日に就役する。アンバージャックは7月20日からコネチカット州[[ニューロンドン (コネチカット州)|ニューロンドン]]および[[ロードアイランド州]][[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]]沖の海域で整調、訓練を行った。その後8月中旬、[[パナマ運河]]を経由して太平洋に出航、8月20日に[[ハワイ州]][[真珠湾]]に到着し訓練を実施した。 |
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アンバージャックは[[潜水母艦]]グリフィン(''USS Griffin, AS-13'')に横付けして改装を実施した後、11月21日に2回目の哨戒で[[ソロモン諸島]]方面に向かった。11月27日、アンバージャックは2隻の駆逐艦を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった。攻撃後深々度潜航で避退し、2時間後に浮上。特に損害が認められなかったので、新しい哨区を[[ショートランド島]]沖に設定し移動した。2日後の11月29日、トレジュアリー諸島沖合いで日本の潜水艦を発見し攻撃をしようとしたが、相手が潜航して退散したので攻撃の機会は得られなかった。ショートランド島沖の哨区に到着したアンバージャックは、12月3日に泊地に停泊していた潜水艦を発見し魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった。その後はしばしば船舶を発見したものの、いずれも攻撃の機会を得ることが出来なかった。12月15日に発見した輸送船団に対しては攻撃の機会があり、大型貨物船と小型タンカーに向けてそれぞれ魚雷を1本ずつ発射したが、命中しなかった。<br> |
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12月19日17時ごろ、アンバージャックは[[ニューブリテン島]]南南西70海里の地点で、駆逐艦[[有明 (駆逐艦)|有明]]と[[江風 (駆逐艦)|江風]]に護衛され[[ニュージョージア諸島]]に向かっていた輸送船宏山丸(山本汽船。4,180トン)を発見、魚雷6本を発射した。しかし、命中はしなかった。有明と江風はアンバージャックの潜望鏡を発見し[[爆雷]]攻撃に移った。発見されたアンバージャックは75メートルの深度に避退して爆雷攻撃が収まるのを待った。爆雷は6個投下され、船体のバルブが外れ、また、潜望鏡が2本とも破損。SJレーダーを支える台も破損した。浮上し応急修理を施した後、[[ニューアイルランド島]]北東海面に移動して哨戒を続行した。1943年1月3日、アンバージャックは新しい目標を発見し雷撃したが、命中しなかった。1月5日、アンバージャックは哨区を離れてブリスベンに帰投することとし、1月11日にブリスベンに帰投した。 |
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===第 |
=== 第1の哨戒 1942年9月 - 10月 === |
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9月3日、アンバージャックは最初の哨戒で[[ビスマルク諸島]]および[[ソロモン諸島]]方面に向かった。2日後の9月5日に[[ジョンストン島]]で給油を行った後<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.7</ref>、[[ミリ環礁]]と[[ブタリタリ|マキン]]の間を通って<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.7-8</ref>、[[ニューアイルランド島]]の北東海岸から[[ブーゲンビル島]]間での哨区に到着した。9月15日、アンバージャックはニューアイルランド島の[[カビエン]]を偵察する。3日後の9月18日には{{coor dm|04|50|S|154|37|E|}}の地点で[[駆逐艦]]が護衛する大船団に遭遇、大型輸送船に対して魚雷を4本を発射して1本の命中と判断される<ref name="d">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.36</ref>。9月19日、アンバージャックは{{coor dm|06|33|S|156|05|E|}}の地点で特設運送船「'''しろがね丸'''」(日本海運、3,130トン)と駆逐艦を発見し、同船に向け魚雷を2本発射した<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.13,32</ref>。1本が「しろがね丸」の左舷中部に命中して大破<ref>[[#佐鎮1709(1)]]pp.45-46</ref>。「しろがね丸」は駆逐艦「[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]」に曳航されて[[ショートランド諸島]]に到着したが<ref>[[#佐鎮1709(2)]]p.60</ref>、最終的には放棄されて1945年6月30日に除籍された<ref>[[#特設原簿]]p.105</ref>。この戦功によりアンバージャックは殊勲部隊章を受賞した。9月25日夜にも日本艦艇と接触し、駆逐艦に護衛された大型[[巡洋艦]]を発見する。しかしながら攻撃開始前に敵駆逐艦に発見されて潜航を強いられ、数発の爆雷が投下されたが、アンバージャックに損傷はなかった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.16-17</ref>。その数日後には[[タウ島]]、{{仮リンク|キリナイラウ島|en|Carteret Islands}}、[[カピンガマランギ|グリニッジ島]]、[[バナバ島|オーシャン島]]への偵察を行う。9月30日、アンバージャックは{{coor dm|06|29|S|156|01|E|}}の地点で「[[青葉型重巡洋艦]]」を発見して魚雷を4本発射したが命中せず、「[[戦艦]]」に対しても2本発射したが結果は同じであった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.18-19, p.36</ref>。一週間後の10月7日、アンバージャックはカビエン港外で特設運送船(給糧)「'''鮮海丸'''」(嶋谷汽船、2,103トン)を発見。これに対し魚雷を2本発射した。1本は外したものの、もう1本が命中<ref name="b">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.21-22, pp.36-37</ref>。しかし、「鮮海丸」は沈む気配を見せず相変わらず航行を続けていたので、アンバージャックはこれを追跡した<ref name="b" />。1時間後、「鮮海丸」からアンバージャックに向けて発砲があったが、効果は見られなかった<ref name="b" />。さらに2時間監視を続けた後、止めの魚雷を1本発射し、その魚雷は「鮮海丸」の左舷に命中して同船はついに沈没した<ref name="b" />。沈没地点は{{coor dm|01|55|N|153|42|E|}}だった<ref name="e">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.37</ref>。アンバージャックは潜望鏡越しに、「鮮海丸」の救命ボートが浮いているのを発見した。 |
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アンバージャックの3回目の哨戒は1月24日から始まったが、当初は十分な休養を取ってから出撃するはずであった。しかし、ソロモン方面の戦局は予断を許さないものであり、12日間で休養が打ち切られた。ブリスベンを出港したアンバージャックであったが、故障が発生したためブリスベンに引き返し、修理の上2日後の1月26日に再度出撃した。1月29日、[[テテパレ島]]付近でショートランド島への航路を通過した後北西方面に移動。2月1日にはブカ島の西方に位置していることを報告した。2月3日、アンバージャックはブカ島の沖合いで[[スクーナー]]を発見し浮上砲戦で撃沈した後、[[ベララベラ島]]~ブカ島~ショートランド島を結ぶ海域に移動するよう命令を受けた。<br> |
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2月4日、アンバージャックは「5,000トン級の貨物船と交戦、5本の魚雷を発射してこれを撃沈したが<ref>『日本商船隊戦時遭難史』では該当船舶はない。Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II"でも撃沈は認定されていない。おそらく損傷に留まったものと考えられる</ref>、アーサー・C・ビーマンが反撃の機銃掃射を食らって戦死し、上級将校が負傷した」と、この哨戒での2度目の報告をした。2月8日、アンバージャックは南緯7度30分付近、[[ラノンガ島]]の西寄りの位置に移動し、[[ラバウル]]~ブカ島~ショートランド島間の航路を哨戒するよう命令を受けた。アンバージャックからの3度目で結果的に最後となった通信は2月14日に受信された。敵駆逐艦2隻により潜行を強いられる。2月13日には敵飛行士2名を救助、捕虜とする。その後は引き続き南緯6度30分以北のラバウル航路の偵察を命じられた。その後アンバージャックからの応答は無く、3月10日の定時報告も行われることはなかった。1943年3月22日に喪失が推定された。 |
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10月10日、なおもカビエン港外で監視を続けていたアンバージャックは、獲物を求めて南方のニッセル水道<ref>{{Cite web|url=http://mapcarta.com/16524816|title=Nissel Passage|publisher=Mapcarta|language=英語|accessdate=2011-03-02}}</ref>から港内に侵入<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.23</ref>。{{coor dm|02|36|S|150|48|E|}}の地点<ref name="e" />で停泊していた特設運送船「[[第二図南丸#第二図南丸 (初代)|第二図南丸]]」([[ニッスイ|日本水産]]、19,209トン)と6,000トン輸送船に向けて魚雷を4本発射し、魚雷の命中を受けた「第二図南丸」は沈没を避けるために座礁<ref name="d" />。後に浮揚して曳航され、日本に戻っていった<ref>[[#Blair]]p.316</ref><ref group="注釈">当時アンバージャックの副長であった{{仮リンク|バーナード・A・クラーレイ|en|Bernard A. Clarey}}大尉(アナポリス1934年組)は、後に[[ピンタド (潜水艦)|ピンタド]] (''USS Pintado, SS-387'') 艦長として1944年8月22日に第二図南丸を撃沈する([[#Roscoe]]p.355)。</ref>。10月16日、アンバージャックはバラストタンクの修理のために[[エスピリトゥサント島]]に向かい、10月19日に到着の後修理を実施した<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.26-27</ref>。その後、アンバージャックは特別任務として[[ガダルカナル島]]と[[ツラギ島]]に対する補給を命じられた。これより先の10月13日、[[戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」と「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」がガダルカナル島の[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]を艦砲射撃し([[ヘンダーソン基地艦砲射撃]])、航空機の他所在の[[ガソリン|航空ガソリン]]も砲撃により炎上。このため、緊急に航空ガソリンを輸送する必要が生じた。1番手として駆逐艦「[[メレディス (DD-434)|メレディス]]」(USS ''Meredith'', DD-434) や艦隊曳船「{{仮リンク|ヴィレオ (掃海艇)|en|USS Vireo (AM-52)|label=ヴィレオ}}」(USS ''Vireo'', AM-52) などからなる小船団がガダルカナル島に向かったが、船団は途中で[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]機に発見され、「メレディス」は沈没し、「ヴィレオ」以下生き残った船団は退却して輸送は失敗した。次に輸送艦として選ばれたのがアンバージャックであった。アンバージャックは9,000[[ガロン]]の航空ガソリン、200個の爆弾、15名の陸軍航空隊搭乗員を搭載し、10月22日にエスピリトゥサントを出撃してガダルカナル島に急行<ref>[[#Roscoe]]p.161</ref>。10月25日朝、アンバージャックは艦隊曳船「{{仮リンク|セミノール (艦隊曳船)|en|USS Seminole (AT-65)|label=セミノール}}」(USS ''Seminole'',AT-65) の誘導を受けてガダルカナル島北岸部の[[ルンガ岬]]に到着し、緊急物資を揚陸<ref name="c">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.28</ref><ref>[[#Roscoe]]p.162</ref>。ヘンダーソン飛行場はこれで当面の活動が出来るようになった。任務完了後、アンバージャックは[[サボ島]]の北を回り、[[ブリスベン]]に針路を向けた<ref name="c" />。10月30日、アンバージャックは57日間の行動を終えてブリスベンに帰投。[[潜水母艦]]「{{仮リンク|グリフィン (潜水母艦)|en|USS Griffin (AS-13)|label=グリフィン}}」(USS ''Griffin'', AS-13) に横付けして改装を実施した。 |
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===アンバージャック?の最期=== |
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戦後日本側から提出された報告書には、恐らくアンバージャックを沈めたであろう攻撃が記録されている。 |
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=== 第2の哨戒 1942年11月 - 1943年1月 === |
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1943年2月16日、水雷艇鵯と第18号駆潜艇は[[コロンバンガラ島]]に兵員と補給物品を輸送する特設輸送船能代丸([[日本郵船]]。7,189トン)を護衛しラバウルを出撃した。出港後の15時28分、船団がニューブリテン島の最東端であるセントジョージ岬沖を通過中、船団の右側約4,000メートルから魚雷が4本向かってくるのを発見し、ただちに回避運動を実施して難を避けた。この際、上空を哨戒していた第九五八航空隊所属の哨戒機が、敵潜水艦が魚雷を発射した位置をを発見したことを受け、15時34分に南緯5度5分、東経152度37分の海域でこれを攻撃した。また、15時40分には現場に急行してきた鵯が9個の爆雷を、15時46分には第18号駆潜艇が6個の爆雷を投下し、これらの攻撃の結果、多量の重油と外郭部分が海面に浮かんだ。16時前には第18号駆潜艇から再度3個の爆雷が投下された。16時20分、鵯が救命筏と思われる浮遊物を回収している。<br> |
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11月21日、アンバージャックは2回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。11月27日、アンバージャックは{{coor dm|07|08|S|155|28|E|}}の地点で2隻の駆逐艦を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.45-46, p.68</ref>。攻撃後深々度潜航で避退し、2時間後に浮上。特に損害が認められなかったので、新しい哨区をショートランド沖に設定し移動した。2日後の11月29日、{{coor dm|07|16|S|155|53|E|}}の[[トレジャリー諸島]]沖合いで日本の潜水艦を発見し攻撃をしようとしたが、相手が潜航して退散したので攻撃の機会は得られなかった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.47,63,66</ref>。ショートランド沖の哨区に到着したアンバージャックは、12月3日に{{coor dm|07|07|S|155|29|E|}}の地点で、ショートランドに出入りしていた潜水艦を発見し魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.49-50, pp.67-68</ref>。12月15日、{{coor dm|07|14|S|155|21|E|}}の地点で輸送船団を発見し、4,000トン輸送船に対して2本、小型輸送船と小型タンカーに向けてそれぞれ魚雷を1本ずつ計4本発射したが、命中しなかった<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.53,64,68</ref>。12月19日朝、アンバージャックは{{coor dm|07|05|S|155|24|E|}}の地点で大型輸送船と駆逐艦を発見して接近を試みるが、約4,000ヤード(約3,700メートル)まで接近したところで3機の[[水上機]]を発見し攻撃をあきらめた<ref name="f">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.54,64</ref>。翌12月20日、{{coor dm|07|10|S|155|21|E|}}の前日とほぼ同じ海域で哨戒中のアンバージャックは15分間隔で響く爆発音を聴取し、やがて中型輸送船と2隻の駆逐艦の姿を発見する<ref name="f" />。1隻の駆逐艦が反転してアンバージャックの方に向かってくるのが見えたため、75mの深度に避退して爆雷攻撃が収まるのを待った<ref name="g">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.55</ref>。6発の爆雷を投じられ、船体のバルブが外れる<ref name="g" />。また、2本の潜望鏡やレーダーを支える台も破損した<ref name="g" />。アンバージャックは浮上し応急修理を施した後、ニューアイルランド島北東海面に移動して哨戒を続行した<ref name="g" /><ref group="注釈">この戦闘は、[[#二水戦1712]]p.21 および[[#木俣敵潜1989]]p.212 では[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]輸送を行っていた陸軍輸送船宏山丸(山本汽船、4,180トン)を護衛していた駆逐艦[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]と[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]が12月19日に行ったものとしているが、本文中のとおり12月19日には爆雷攻撃を受けていない。12月20日には江風が爆雷攻撃を行って「効果不明」と報じている([[#二水戦1712]]pp.21-22)。[[#二水戦1712]]p.21 および[[#木俣敵潜1989]]p.212 には魚雷を6本発射してきたという記述もあるが、アンバージャックがこの哨戒で魚雷を発射したのは12月15日が最後である([[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.67-68)。</ref>。1943年1月1日、アンバージャックは{{coor dm|00|20|S|148|20|E|}}の地点で新しい目標を発見して攻撃しようと接近するが、駆逐艦の存在はアンバージャックの攻撃意図を挫かせた<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.58-59, p.64</ref>。1月5日、アンバージャックは哨区を離れてブリスベンに帰投することとした。1月11日、アンバージャックは51日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 |
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この攻撃によりアンバージャックは沈没したと考えられるが、これと前後して[[グランパス (SS-207)|グランパス]] (''USS Grampus, SS-207'') がほぼ同海域で失われており、撃沈されたのがアンバージャックであると断言することは不可能である。普通ならば、数々の証拠から2月16日の攻撃でアンバージャックは沈んだと考えられるが、仮にアンバージャックがこの攻撃を乗り切ったとすれば、グランパスのものとされる攻撃と目撃例のいくつかはアンバージャックによるものであったかもしれない。なお、日本側では「2月24日にこの海域で敵潜水艦を目視した」という報告があるが、これが事実となるとアンバージャックかグランパスのどちらかが、通説の喪失日を越えて健在だった可能性もゼロではない<ref>例えば木俣滋郎が『敵潜水艦攻撃』でこの見解を示している。なお、木俣は「当時この辺には米潜水艦はいなかった」としている</ref>。 |
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=== 第3の哨戒 1943年1月 - 2月 === |
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アンバージャックは[[第二次世界大戦]]の戦功で3個の従軍星章を受章した。3隻の船を含む総トン数28,600トンを沈め、14,000トンに損害を与えた。真珠湾潜水艦基地の下士官兵用のレクリエーション・センターは本艦に乗務して2月4日の銃撃戦で戦死したアーサー・C・ビーマンに因んで命名されている。アンバージャックの艦名は[[テンチ級潜水艦]][[アンバージャック (SS-522)]]に継承された。 |
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1月24日、アンバージャックは3回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。当初は十分な休養を取ってから出撃するはずであったが、ソロモン方面の戦局は予断を許さないものであり、12日間で休養が打ち切られた。ブリスベンを出港したアンバージャックであったが、故障が発生したためブリスベンに引き返し、修理の上2日後の1月26日に再度出撃した<ref name="h">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.74</ref>。1月29日、[[テテパレ島]]付近でショートランド島への航路を通過した後北西方面に移動。2月1日にはブカ島の西方に位置していることを報告した<ref name="h" />。2月3日の報告では、アンバージャックはトレジャリー諸島の南西海域で日本の潜水艦を発見し、またブカ島の沖合いで[[スクーナー]]を発見し浮上砲戦で撃沈したことを伝えた<ref name="h" />。アンバージャックは[[ベララベラ島]]、ブカ島とショートランドを結ぶ海域に移動するよう命令を受けた<ref name="h" />。 |
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2月4日、アンバージャックは「5,000トン級輸送船と交戦、5本の魚雷を発射してこれを撃沈したが、アーサー・C・ビーマンが反撃の機銃掃射を食らって戦死し、リチャード・G・スターン中尉が負傷した」と、この哨戒での2度目の報告をした<ref name="h" />。2月8日、アンバージャックは南緯7度30分付近、[[ラノンガ島]]の西寄りの位置に移動し、[[ラバウル]]とブカ島、ショートランド間の航路を哨戒するよう命令を受けた。アンバージャックからの3度目で結果的に最後となった通信は2月14日に受信された。その内容は「2月13日夜に、敵駆逐艦2隻により潜行を強いられる。同じ日には日本軍パイロット2名を救助、[[捕虜]]とした」とあった<ref name="i">[[#SS-219, USS AMBERJACK]]p.75</ref>。その後は引き続き南緯6度30分以北のラバウル航路の偵察を命じられた<ref name="i" />。予定では、{{仮リンク|ステフェン海峡|en|Steffen Strait}}、[[ニューハノーバー島]]方面に移動して哨戒を行い、{{仮リンク|ヴィティアス海峡|en|Vitiaz Strait}}を通過して再び[[ソロモン海]]に入るというプランであったが<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.75-76</ref>、その後アンバージャックからの応答は無く、3月10日の定時報告も行われることはなかった。アンバージャックは1943年3月22日に喪失が推定された。 |
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;脚注 |
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<references /> |
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=== アンバージャックの最期 === |
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==関連項目== |
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アンバージャックからの最後の通信が発信されて2日後の2月16日、[[水雷艇]]「[[鵯 (水雷艇)|鵯]]」と「[[第十三号型駆潜艇#同型艦|第18号駆潜艇]]」は[[コロンバンガラ島]]に兵員と補給物品を輸送する特設運送船「[[能代丸 (特設巡洋艦)|能代丸]]」([[日本郵船]]、7,189トン)を護衛しラバウルを出撃した。出港後の15時28分、船団がニューブリテン島の最東端である[[セント・ジョージ岬]]沖を通過中、船団の右側約4,000mから魚雷が4本向かってくるのを発見し、ただちに回避運動を実施して難を避けた。この際、上空を哨戒していた[[第九五八海軍航空隊|第九五八航空隊]]所属の哨戒機が、敵潜水艦が魚雷を発射した位置を発見したことを受け、15時34分に{{coor dm|05|05|S|152|37|E|}}の海域でこれを攻撃した。また、15時40分には現場に急行してきた鵯が9個の爆雷を、15時46分には第18号駆潜艇が6個の爆雷を投下し、これらの攻撃の結果、多量の重油と外郭部分が海面に浮かんだ。16時前には第18号駆潜艇から再度3個の爆雷が投下された。16時20分、鵯が救命筏と思われる浮遊物を回収している。これらの大筋の内容は、アメリカ側が傍受した日本側の3月25日付の報告書の内容からのものであり<ref name="i" />、この攻撃によりアンバージャックは沈没したと考えられたと、3月29日作成の文書で記されている<ref>[[#SS-219, USS AMBERJACK]]pp.74-76</ref>。 |
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*[[アメリカ海軍艦艇一覧]] |
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しかし、これと前後して潜水艦「[[グランパス (SS-207)|グランパス]]」(USS ''Grampus'', SS-207) がほぼ同海域で失われており、撃沈されたのがアンバージャックであると断言することは不可能である。普通ならば、数々の証拠から2月16日の攻撃でアンバージャックは沈んだと考えられるが、仮にアンバージャックがこの攻撃を乗り切ったとすれば、「グランパス」のものとされる攻撃と目撃例のいくつかはアンバージャックによるものであったかもしれない。なお、日本側では「2月24日にこの海域で敵潜水艦を目視した」という報告があるが、これが事実となるとアンバージャックか「グランパス」のどちらかが、通説の喪失日を越えて健在だった可能性もゼロではない<ref group="注釈">例えば艦船研究家の木俣滋郎が[[#木俣敵潜1989]]p.56 でこの見解を示し、また木俣は「当時この辺には米潜水艦はいなかった」としている。</ref>。 |
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アンバージャックは[[第二次世界大戦]]の戦功で3個の従軍星章を受章した。3隻の船を含む総トン数28,600トンを沈め、14,000トンに損害を与えた。真珠湾潜水艦基地の下士官兵用のレクリエーション・センターは本艦に乗務して2月4日の銃撃戦で戦死したアーサー・C・ビーマンに因んで命名されている。アンバージャックの艦名は[[テンチ級潜水艦]][[アンバージャック (SS-522)|アンバージャック]] (''USS Amberjack, SS-522'') に継承された。 |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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<references group="注釈"/> |
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=== 出典 === |
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{{reflist|2}} |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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*{{Cite book|title=SS-219, USS AMBERJACK|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-219_amberjack|format=issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-219, USS AMBERJACK}} |
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*Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3 |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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*財団法人海上労働協会編『<small>復刻版</small> 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6 |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030338600|title=自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌|ref=佐鎮1709(1)}} |
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*防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1971年 |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030338700|title=自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌|ref=佐鎮1709(2)}} |
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*Clay Blair,Jr. "Silent Victory <small>The U.S.Submarine War Against Japan</small>" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1 |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030099600|title=自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌|ref=二水戦1712}} |
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*木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年 |
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*{{Cite journal|和書|author=深谷甫(編)|year=1940|title=写真 米国海軍|journal=増刊 海と空|publisher=海と空社|ref=海と空}} |
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*木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年 |
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*{{Cite book|last=Roscoe|first=Theodore|title=United States Submarine Operetions in World War II|publisher=Naval Institute press |location=Annapolis, Maryland|isbn=0-87021-731-3|ref=Roscoe }} |
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*木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5 |
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*{{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会(編)|year=2007|origyear=1962|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}} |
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*{{Cite book|和書|author=防衛研究所戦史室編|authorlink=防衛研究所|year=1973|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2){{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史62}} |
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*{{Cite book|last=Blair,Jr|first=Clay|year=1975|title=Silent Victory {{small|The U.S.Submarine War Against Japan}}|publisher=J. B. Lippincott Company|location=Philadelphia and New York|isbn=0-397-00753-1|ref=Blair }} |
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*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}} |
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*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1983|title=日本戦艦戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣戦艦}} |
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*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=敵潜水艦攻撃|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-17218-5|ref=木俣敵潜1989}} |
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*{{cite book|last=Friedman|first=Norman|authorlink= |coauthors= |title=U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History|publisher=United States Naval Institute|year=1995|location=Annapolis, Maryland|pages=pp .285?304|url= |doi= |isbn=1-55750-263-3 |ref=Friedman}} |
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*{{Cite journal|和書|author=林寛司(作表)|coauthors=戦前船舶研究会(資料提供)|year=2004|title=特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿|journal=戦前船舶|issue=104|publisher=戦前船舶研究会|ref=特設原簿}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*{{Wayback|url=http://www.history.navy.mil/danfs/a8/amberjack-i.htm |title=history.navy.mil: USS ''Amberjack'' |date=20040225203722}} |
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*[ |
*[https://www.navsource.org/archives/08/08219.htm navsource.org: USS ''Amberjack''] |
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*[http://www.hazegray.org/danfs/submar/ss219.htm hazegray.org: USS ''Amberjack''] |
*[http://www.hazegray.org/danfs/submar/ss219.htm hazegray.org: USS ''Amberjack''] |
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*[http://www.oneternalpatrol.com/uss-amberjack-219.htm On Eternal Patrol: USS ''Amberjack''] |
*[http://www.oneternalpatrol.com/uss-amberjack-219.htm On Eternal Patrol: USS ''Amberjack''] |
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{{DANFS}} |
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{{coord|05|05|S|152|37|E|display=title}} |
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{{ガトー級潜水艦}} |
{{ガトー級潜水艦}} |
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{{DEFAULTSORT:あんはあしやつく}} |
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[[Category:ガトー級潜水艦 |
[[Category:ガトー級潜水艦]] |
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[[Category:1941年進水船]] |
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[[en:USS Amberjack (SS-219)]] |
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[[Category:1942年竣工船]] |
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[[Category:ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート建造の潜水艦]] |
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[[Category:第二次世界大戦の沈没船]] |
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[[Category:行方不明の船]] |
2024年5月23日 (木) 01:39時点における最新版
USS アンバージャック | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | エレクトリック・ボート造船所 |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦種 | 攻撃型潜水艦 (SS) |
級名 | ガトー級潜水艦 |
艦歴 | |
発注 | 1940年7月1日[1] |
起工 | 1941年5月15日[2] |
進水 | 1942年3月6日[2] |
就役 | 1942年6月19日[2] |
最期 | 1943年2月16日、セント・ジョージ岬沖にて戦没 |
除籍 | 1943年3月22日 |
要目 | |
水上排水量 | 1,526 トン |
水中排水量 | 2,424 トン |
全長 | 311フィート9インチ (95.02 m) |
水線長 | 307フィート (93.6 m) |
最大幅 | 27フィート3インチ (8.31 m) |
吃水 | 17フィート (5.2 m) |
主機 | ゼネラルモーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン×4基 |
電源 | ゼネラル・エレクトリック製 発電機×2基 |
出力 | 5,400馬力 (4.0 MW) |
電力 | 2,740馬力 (2.0 MW) |
最大速力 |
水上:20.25ノット 水中:8.75ノット |
航続距離 | 11,000カイリ/10ノット時 |
潜航深度 | 試験時:300フィート (91 m) |
乗員 |
士官6名、兵員54名(平時) 士官、兵員80 - 85名(戦時) |
兵装 |
アンバージャック (USS Amberjack, SS-219) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の8番艦。艦名はニューイングランドからブラジル西部大西洋に生息するカンパチなどブリ属の総称に因む。
艦歴
[編集]アンバージャックは1941年5月15日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1942年3月6日にランドール・ジェーコブス夫人によって進水し、艦長ジョン・A・ボール・ジュニア少佐(アナポリス1928年組)の指揮下1942年6月19日に就役する。アンバージャックは7月20日からコネチカット州ニューロンドンおよびロードアイランド州ニューポート沖の海域で整調、訓練を行った。その後8月中旬、パナマ運河を経由して太平洋に出航、8月20日にハワイ州真珠湾に到着し訓練を実施した。
第1の哨戒 1942年9月 - 10月
[編集]9月3日、アンバージャックは最初の哨戒でビスマルク諸島およびソロモン諸島方面に向かった。2日後の9月5日にジョンストン島で給油を行った後[4]、ミリ環礁とマキンの間を通って[5]、ニューアイルランド島の北東海岸からブーゲンビル島間での哨区に到着した。9月15日、アンバージャックはニューアイルランド島のカビエンを偵察する。3日後の9月18日には南緯04度50分 東経154度37分 / 南緯4.833度 東経154.617度の地点で駆逐艦が護衛する大船団に遭遇、大型輸送船に対して魚雷を4本を発射して1本の命中と判断される[6]。9月19日、アンバージャックは南緯06度33分 東経156度05分 / 南緯6.550度 東経156.083度の地点で特設運送船「しろがね丸」(日本海運、3,130トン)と駆逐艦を発見し、同船に向け魚雷を2本発射した[7]。1本が「しろがね丸」の左舷中部に命中して大破[8]。「しろがね丸」は駆逐艦「天霧」に曳航されてショートランド諸島に到着したが[9]、最終的には放棄されて1945年6月30日に除籍された[10]。この戦功によりアンバージャックは殊勲部隊章を受賞した。9月25日夜にも日本艦艇と接触し、駆逐艦に護衛された大型巡洋艦を発見する。しかしながら攻撃開始前に敵駆逐艦に発見されて潜航を強いられ、数発の爆雷が投下されたが、アンバージャックに損傷はなかった[11]。その数日後にはタウ島、キリナイラウ島、グリニッジ島、オーシャン島への偵察を行う。9月30日、アンバージャックは南緯06度29分 東経156度01分 / 南緯6.483度 東経156.017度の地点で「青葉型重巡洋艦」を発見して魚雷を4本発射したが命中せず、「戦艦」に対しても2本発射したが結果は同じであった[12]。一週間後の10月7日、アンバージャックはカビエン港外で特設運送船(給糧)「鮮海丸」(嶋谷汽船、2,103トン)を発見。これに対し魚雷を2本発射した。1本は外したものの、もう1本が命中[13]。しかし、「鮮海丸」は沈む気配を見せず相変わらず航行を続けていたので、アンバージャックはこれを追跡した[13]。1時間後、「鮮海丸」からアンバージャックに向けて発砲があったが、効果は見られなかった[13]。さらに2時間監視を続けた後、止めの魚雷を1本発射し、その魚雷は「鮮海丸」の左舷に命中して同船はついに沈没した[13]。沈没地点は北緯01度55分 東経153度42分 / 北緯1.917度 東経153.700度だった[14]。アンバージャックは潜望鏡越しに、「鮮海丸」の救命ボートが浮いているのを発見した。
10月10日、なおもカビエン港外で監視を続けていたアンバージャックは、獲物を求めて南方のニッセル水道[15]から港内に侵入[16]。南緯02度36分 東経150度48分 / 南緯2.600度 東経150.800度の地点[14]で停泊していた特設運送船「第二図南丸」(日本水産、19,209トン)と6,000トン輸送船に向けて魚雷を4本発射し、魚雷の命中を受けた「第二図南丸」は沈没を避けるために座礁[6]。後に浮揚して曳航され、日本に戻っていった[17][注釈 1]。10月16日、アンバージャックはバラストタンクの修理のためにエスピリトゥサント島に向かい、10月19日に到着の後修理を実施した[18]。その後、アンバージャックは特別任務としてガダルカナル島とツラギ島に対する補給を命じられた。これより先の10月13日、戦艦「金剛」と「榛名」がガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を艦砲射撃し(ヘンダーソン基地艦砲射撃)、航空機の他所在の航空ガソリンも砲撃により炎上。このため、緊急に航空ガソリンを輸送する必要が生じた。1番手として駆逐艦「メレディス」(USS Meredith, DD-434) や艦隊曳船「ヴィレオ」(USS Vireo, AM-52) などからなる小船団がガダルカナル島に向かったが、船団は途中で瑞鶴機に発見され、「メレディス」は沈没し、「ヴィレオ」以下生き残った船団は退却して輸送は失敗した。次に輸送艦として選ばれたのがアンバージャックであった。アンバージャックは9,000ガロンの航空ガソリン、200個の爆弾、15名の陸軍航空隊搭乗員を搭載し、10月22日にエスピリトゥサントを出撃してガダルカナル島に急行[19]。10月25日朝、アンバージャックは艦隊曳船「セミノール」(USS Seminole,AT-65) の誘導を受けてガダルカナル島北岸部のルンガ岬に到着し、緊急物資を揚陸[20][21]。ヘンダーソン飛行場はこれで当面の活動が出来るようになった。任務完了後、アンバージャックはサボ島の北を回り、ブリスベンに針路を向けた[20]。10月30日、アンバージャックは57日間の行動を終えてブリスベンに帰投。潜水母艦「グリフィン」(USS Griffin, AS-13) に横付けして改装を実施した。
第2の哨戒 1942年11月 - 1943年1月
[編集]11月21日、アンバージャックは2回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。11月27日、アンバージャックは南緯07度08分 東経155度28分 / 南緯7.133度 東経155.467度の地点で2隻の駆逐艦を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった[22]。攻撃後深々度潜航で避退し、2時間後に浮上。特に損害が認められなかったので、新しい哨区をショートランド沖に設定し移動した。2日後の11月29日、南緯07度16分 東経155度53分 / 南緯7.267度 東経155.883度のトレジャリー諸島沖合いで日本の潜水艦を発見し攻撃をしようとしたが、相手が潜航して退散したので攻撃の機会は得られなかった[23]。ショートランド沖の哨区に到着したアンバージャックは、12月3日に南緯07度07分 東経155度29分 / 南緯7.117度 東経155.483度の地点で、ショートランドに出入りしていた潜水艦を発見し魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった[24]。12月15日、南緯07度14分 東経155度21分 / 南緯7.233度 東経155.350度の地点で輸送船団を発見し、4,000トン輸送船に対して2本、小型輸送船と小型タンカーに向けてそれぞれ魚雷を1本ずつ計4本発射したが、命中しなかった[25]。12月19日朝、アンバージャックは南緯07度05分 東経155度24分 / 南緯7.083度 東経155.400度の地点で大型輸送船と駆逐艦を発見して接近を試みるが、約4,000ヤード(約3,700メートル)まで接近したところで3機の水上機を発見し攻撃をあきらめた[26]。翌12月20日、南緯07度10分 東経155度21分 / 南緯7.167度 東経155.350度の前日とほぼ同じ海域で哨戒中のアンバージャックは15分間隔で響く爆発音を聴取し、やがて中型輸送船と2隻の駆逐艦の姿を発見する[26]。1隻の駆逐艦が反転してアンバージャックの方に向かってくるのが見えたため、75mの深度に避退して爆雷攻撃が収まるのを待った[27]。6発の爆雷を投じられ、船体のバルブが外れる[27]。また、2本の潜望鏡やレーダーを支える台も破損した[27]。アンバージャックは浮上し応急修理を施した後、ニューアイルランド島北東海面に移動して哨戒を続行した[27][注釈 2]。1943年1月1日、アンバージャックは南緯00度20分 東経148度20分 / 南緯0.333度 東経148.333度の地点で新しい目標を発見して攻撃しようと接近するが、駆逐艦の存在はアンバージャックの攻撃意図を挫かせた[28]。1月5日、アンバージャックは哨区を離れてブリスベンに帰投することとした。1月11日、アンバージャックは51日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。
第3の哨戒 1943年1月 - 2月
[編集]1月24日、アンバージャックは3回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。当初は十分な休養を取ってから出撃するはずであったが、ソロモン方面の戦局は予断を許さないものであり、12日間で休養が打ち切られた。ブリスベンを出港したアンバージャックであったが、故障が発生したためブリスベンに引き返し、修理の上2日後の1月26日に再度出撃した[29]。1月29日、テテパレ島付近でショートランド島への航路を通過した後北西方面に移動。2月1日にはブカ島の西方に位置していることを報告した[29]。2月3日の報告では、アンバージャックはトレジャリー諸島の南西海域で日本の潜水艦を発見し、またブカ島の沖合いでスクーナーを発見し浮上砲戦で撃沈したことを伝えた[29]。アンバージャックはベララベラ島、ブカ島とショートランドを結ぶ海域に移動するよう命令を受けた[29]。
2月4日、アンバージャックは「5,000トン級輸送船と交戦、5本の魚雷を発射してこれを撃沈したが、アーサー・C・ビーマンが反撃の機銃掃射を食らって戦死し、リチャード・G・スターン中尉が負傷した」と、この哨戒での2度目の報告をした[29]。2月8日、アンバージャックは南緯7度30分付近、ラノンガ島の西寄りの位置に移動し、ラバウルとブカ島、ショートランド間の航路を哨戒するよう命令を受けた。アンバージャックからの3度目で結果的に最後となった通信は2月14日に受信された。その内容は「2月13日夜に、敵駆逐艦2隻により潜行を強いられる。同じ日には日本軍パイロット2名を救助、捕虜とした」とあった[30]。その後は引き続き南緯6度30分以北のラバウル航路の偵察を命じられた[30]。予定では、ステフェン海峡、ニューハノーバー島方面に移動して哨戒を行い、ヴィティアス海峡を通過して再びソロモン海に入るというプランであったが[31]、その後アンバージャックからの応答は無く、3月10日の定時報告も行われることはなかった。アンバージャックは1943年3月22日に喪失が推定された。
アンバージャックの最期
[編集]アンバージャックからの最後の通信が発信されて2日後の2月16日、水雷艇「鵯」と「第18号駆潜艇」はコロンバンガラ島に兵員と補給物品を輸送する特設運送船「能代丸」(日本郵船、7,189トン)を護衛しラバウルを出撃した。出港後の15時28分、船団がニューブリテン島の最東端であるセント・ジョージ岬沖を通過中、船団の右側約4,000mから魚雷が4本向かってくるのを発見し、ただちに回避運動を実施して難を避けた。この際、上空を哨戒していた第九五八航空隊所属の哨戒機が、敵潜水艦が魚雷を発射した位置を発見したことを受け、15時34分に南緯05度05分 東経152度37分 / 南緯5.083度 東経152.617度の海域でこれを攻撃した。また、15時40分には現場に急行してきた鵯が9個の爆雷を、15時46分には第18号駆潜艇が6個の爆雷を投下し、これらの攻撃の結果、多量の重油と外郭部分が海面に浮かんだ。16時前には第18号駆潜艇から再度3個の爆雷が投下された。16時20分、鵯が救命筏と思われる浮遊物を回収している。これらの大筋の内容は、アメリカ側が傍受した日本側の3月25日付の報告書の内容からのものであり[30]、この攻撃によりアンバージャックは沈没したと考えられたと、3月29日作成の文書で記されている[32]。
しかし、これと前後して潜水艦「グランパス」(USS Grampus, SS-207) がほぼ同海域で失われており、撃沈されたのがアンバージャックであると断言することは不可能である。普通ならば、数々の証拠から2月16日の攻撃でアンバージャックは沈んだと考えられるが、仮にアンバージャックがこの攻撃を乗り切ったとすれば、「グランパス」のものとされる攻撃と目撃例のいくつかはアンバージャックによるものであったかもしれない。なお、日本側では「2月24日にこの海域で敵潜水艦を目視した」という報告があるが、これが事実となるとアンバージャックか「グランパス」のどちらかが、通説の喪失日を越えて健在だった可能性もゼロではない[注釈 3]。
アンバージャックは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。3隻の船を含む総トン数28,600トンを沈め、14,000トンに損害を与えた。真珠湾潜水艦基地の下士官兵用のレクリエーション・センターは本艦に乗務して2月4日の銃撃戦で戦死したアーサー・C・ビーマンに因んで命名されている。アンバージャックの艦名はテンチ級潜水艦アンバージャック (USS Amberjack, SS-522) に継承された。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時アンバージャックの副長であったバーナード・A・クラーレイ大尉(アナポリス1934年組)は、後にピンタド (USS Pintado, SS-387) 艦長として1944年8月22日に第二図南丸を撃沈する(#Roscoep.355)。
- ^ この戦闘は、#二水戦1712p.21 および#木俣敵潜1989p.212 ではムンダ輸送を行っていた陸軍輸送船宏山丸(山本汽船、4,180トン)を護衛していた駆逐艦有明と江風が12月19日に行ったものとしているが、本文中のとおり12月19日には爆雷攻撃を受けていない。12月20日には江風が爆雷攻撃を行って「効果不明」と報じている(#二水戦1712pp.21-22)。#二水戦1712p.21 および#木俣敵潜1989p.212 には魚雷を6本発射してきたという記述もあるが、アンバージャックがこの哨戒で魚雷を発射したのは12月15日が最後である(#SS-219, USS AMBERJACKpp.67-68)。
- ^ 例えば艦船研究家の木俣滋郎が#木俣敵潜1989p.56 でこの見解を示し、また木俣は「当時この辺には米潜水艦はいなかった」としている。
出典
[編集]- ^ #海と空p.170
- ^ a b c #SS-219, USS AMBERJACKp.5
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.5
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.7
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.7-8
- ^ a b #SS-219, USS AMBERJACKp.36
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.13,32
- ^ #佐鎮1709(1)pp.45-46
- ^ #佐鎮1709(2)p.60
- ^ #特設原簿p.105
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.16-17
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.18-19, p.36
- ^ a b c d #SS-219, USS AMBERJACKpp.21-22, pp.36-37
- ^ a b #SS-219, USS AMBERJACKp.37
- ^ “Nissel Passage” (英語). Mapcarta. 2011年3月2日閲覧。
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.23
- ^ #Blairp.316
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.26-27
- ^ #Roscoep.161
- ^ a b #SS-219, USS AMBERJACKp.28
- ^ #Roscoep.162
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.45-46, p.68
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.47,63,66
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.49-50, pp.67-68
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKp.53,64,68
- ^ a b #SS-219, USS AMBERJACKp.54,64
- ^ a b c d #SS-219, USS AMBERJACKp.55
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.58-59, p.64
- ^ a b c d e #SS-219, USS AMBERJACKp.74
- ^ a b c #SS-219, USS AMBERJACKp.75
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.75-76
- ^ #SS-219, USS AMBERJACKpp.74-76
参考文献
[編集]- (issuu) SS-219, USS AMBERJACK. Historic Naval Ships Association
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030338600『自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
- Ref.C08030338700『自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
- Ref.C08030099600『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』。
- 深谷甫(編)「写真 米国海軍」『増刊 海と空』、海と空社、1940年。
- Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6。
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年。
- Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5。
- Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. pp. pp .285?304. ISBN 1-55750-263-3
- 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。
外部リンク
[編集]- history.navy.mil: USS Amberjack - ウェイバックマシン(2004年2月25日アーカイブ分)
- navsource.org: USS Amberjack
- hazegray.org: USS Amberjack
- On Eternal Patrol: USS Amberjack
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。