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「親衛隊 (ナチス)」の版間の差分

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|標語 = [[File:Organisationsbuc00nati 0 orig 0623 ORGANISATIONSBUCH DER NSDAP 1943 Seite 417 Schutzstaffel SS Die Schutzstaffeln der NSDAP (dagger with "Meine Ehre heisst Treue") cropped dagger+skull contrast.jpg|150px]]<br/>『'''忠誠こそ我が名誉'''』<br />({{lang|de|''Meine Ehre heißt Treue''}})<br/>   【隊歌】<br/>『'''縦ひ全てが背くとも'''』<br />({{lang|de|''Wenn alle untreu werden''}})
|標語 = '''Meine Ehre heißt Treue'''<br />「[[忠誠こそ我が名誉]]」
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|上級部隊 = [[Image:SA-Logo.svg|25x20px]] [[突撃隊]](1934年まで)
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|主な戦歴 = [[第二次世界大戦]]
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'''親衛隊'''(しんえいたい、[[ドイツ語|独]]:Schutzstaffel {{Audio|De-Schutzstaffel.ogg|発音}}、シュッツシュタッフェル、略号:'''SS''')は、[[ドイツ]]の政党、[[国社会主義ドイツ労働者党]]の組織であり、主に[[第一次世界大戦]]時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。ドイツ語でSchutzが「護衛」「防護」、Staffelが「梯団」「梯隊」を意味する。

'''親衛隊'''(しんえいたい、[[ドイツ語|独]]:Schutzstaffel {{Audio|De-Schutzstaffel.ogg|発音}}、シュッツシュタッフェル、略号:'''SS''')は、[[ドイツ]]の政党、[[国社会主義ドイツ労働者党]]の組織であ。ドイツ語でschutzが「護衛」「防護」、staffelが「隊」を意味する。


== 概要 ==
== 概要 ==
元は総統[[アドルフ・ヒトラー]]を護衛する党内組織([[親衛隊]])として[[1925年]]に創設された。[[1929年]]に[[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[親衛隊全国指導者]]に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した[[1933年]]以降には政府の警察組織との一体化が進められた。[[保安警察]]([[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]])、[[秩序警察]]、[[SD (ナチス)|親衛隊情報部]]、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。[[1934年]]には[[軍隊|正規軍]]である[[ドイツ国防軍|国防軍]]から軍事組織の保有を許可され、[[親衛隊特務部隊]](後の[[武装親衛隊]])を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は[[一般親衛隊]]と呼ばれるようになった。
元は総統[[アドルフ・ヒトラー]]を護衛する党内組織([[親衛隊]])として[[1925年]]に創設された。
[[1929年]]に[[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[親衛隊全国指導者]]に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した[[1933年]]以降には政府の警察組織との一体化が進められた。[[保安警察 (ドイツ)|保安警察]]([[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]])、[[秩序警察]]、[[SD (ナチス)|親衛隊情報部]]、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。[[1934年]]には[[軍隊|正規軍]]である[[ドイツ国防軍|国防軍]]から軍事組織の保有を許可され、[[親衛隊特務部隊]](後の[[武装親衛隊]])を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は[[一般親衛隊]]と呼ばれるようになった。


[[第二次世界大戦]]中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、[[ユダヤ人]]狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は[[絶滅収容所]]や[[アインザッツグルッペン]]を組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした([[ホロコースト]])。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後の[[ニュルンベルク裁判]]では全ての親衛隊組織は「犯罪組織([[英語|英]]:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3295367 93歳元ナチス看守に執行猶予付き判決 独裁判所]AFP 2020年7月23日</ref>。
[[第二次世界大戦]]中、武装親衛隊が[[ヨーロッパ]]各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、[[ナチ運動|反ナチ]]勢力の[[弾圧]]、[[ユダヤ人]]狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は[[絶滅収容所]]や[[アインザッツグルッペン]]を組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした([[ホロコースト]])。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後の[[ニュルンベルク裁判]]では全ての親衛隊組織は「犯罪組織([[英語|英]]:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば[[逮捕]][[裁判]]に掛けられている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3295367 93歳元ナチス看守に執行猶予付き判決 独裁判所] AFP 2020年7月23日</ref>。


隊の[[モットー]]は「'''Meine Ehre heißt Treue'''(My honor is called fidelity:[[忠誠こそ我が名誉]]、我が名誉は忠誠を宣する事)」。
隊の[[モットー]]は「'''Meine Ehre heißt Treue'''(My honor is called fidelity:[[忠誠こそ我が名誉]]、我が名誉は忠誠を宣する事)」。
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[[1920年]]の結党から[[1933年]]の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として[[突撃隊]] (SA) があった<ref name="山下(2010)17">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.17</ref>。
[[1920年]]の結党から[[1933年]]の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として[[突撃隊]] (SA) があった<ref name="山下(2010)17">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.17</ref>。


党首[[アドルフ・ヒトラー]]個人のボディーガード集団としては[[1923年]]3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である<ref name="ヘーネ(1981)26">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.26</ref><ref name="山下(2010)38">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.38</ref><ref name="ラムスデン(1997)11">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)]] p.11</ref>。この組織は[[1923年]]5月に「[[アドルフ・ヒトラー特攻隊]] (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された<ref name="ラムスデン(1997)11" /><ref name="学研I32">[[#学研I|武装SS全史I]] p.32</ref>{{#tag:ref|山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧[[エアハルト海兵旅団]]とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。|group=注釈}}。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり<ref name="学研I32" /><ref name="スティン(2001)22">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.22</ref>、隊長は突撃隊員[[ユリウス・シュレック]]退役{{仮リンク|大尉 (ドイツ)|label=大尉|de|Hauptmann (Offizier)}}とナチ党財務担当[[ヨーゼフ・ベルヒトルト]]退役{{仮リンク|少尉 (ドイツ)|label=少尉|de|Leutnant}}の二人で務めていた<ref name="ヘーネ(1981)26"/><ref name="山下(2010)38"/>。
党首[[アドルフ・ヒトラー]]個人のボディーガード集団としては[[1923年]]3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である<ref name="ヘーネ(1981)26">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.26</ref><ref name="山下(2010)38">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.38</ref><ref name="ラムスデン(1997)11">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)]] p.11</ref>。この組織は[[1923年]]5月に「[[アドルフ・ヒトラー特攻隊]] (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された<ref name="ラムスデン(1997)11" /><ref name="学研I32">[[#学研I|武装SS全史I]] p.32</ref>{{#tag:ref|山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧[[エアハルト海兵旅団]]とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。|group=注釈}}。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり<ref name="学研I32" /><ref name="スティン(2001)22">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.22</ref>、隊長は突撃隊員[[ユリウス・シュレック]]退役{{仮リンク|大尉 (ドイツ)|label=大尉|de|Hauptmann (Offizier)}}とナチ党財務担当[[ヨーゼフ・ベルヒトルト]]退役{{仮リンク|少尉 (ドイツ)|label=少尉|de|Leutnant}}の二人で務めていた<ref name="ヘーネ(1981)26"/><ref name="山下(2010)38"/>。


[[ミュンヘン一揆]]の際、「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した<ref name="学研I33">[[#学研I|武装SS全史I]] p.33</ref>。[[ウルリヒ・グラーフ]]もヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である<ref name="ラムスデン(1997)11" />。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちに[[ニュルンベルク党大会]]で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「{{仮リンク|血染めの党旗|de|Blutfahne (NSDAP)}}」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている<ref name="学研I33" />。
[[ミュンヘン一揆]]の際、「アドルフ・ヒトラー特攻隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した<ref name="学研I33">[[#学研I|武装SS全史I]] p.33</ref>。[[ウルリヒ・グラーフ]]もヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である<ref name="ラムスデン(1997)11" />。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちに[[ニュルンベルク]][[ナチ党党大会|党大会]]で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「{{仮リンク|血染めの党旗|de|Blutfahne (NSDAP)}}」に触れさせて[[忠誠]]を誓わせる[[儀式]]を行っている<ref name="学研I33" />。


ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた<ref name="学研I33" /><ref name="ヘーネ(1981)28">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.28</ref>。
ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に[[解散]]させられた<ref name="学研I33" /><ref name="ヘーネ(1981)28">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.28</ref>。


=== 結成 ===
=== 結成 ===
[[1924年]][[12月20日]]に[[ランツベルク刑務所]]を出獄したヒトラーは、[[バイエルン州]]首相[[ハインリヒ・ヘルト]]と会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、[[1925年]][[2月25日]]にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、[[2月27日]]にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った<ref>[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.117-122]]</ref>。
[[1924年]][[12月20日]]に[[ランツベルク刑務所]]を出獄したヒトラーは、[[バイエルン州]]首相[[ハインリヒ・ヘルト]]と会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、[[1925年]][[2月25日]]にナチ党に対する[[非常事態宣言]]の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、[[2月27日]]にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った<ref>[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.117-122]]</ref>。


ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬に[[ユリウス・シュレック]]に自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「'''親衛隊''' (Schutzstaffel)」の名前を与えられた<ref name="阿部(2001)125">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.125</ref><ref name="ヘーネ(1981)30">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.30</ref><ref name="グレーバー(2000)55">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.55</ref>{{#tag:ref|グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。|group=注釈}}。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった<ref name="ヘーネ(1981)30" />。
ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬に[[ユリウス・シュレック]]に自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「'''親衛隊'''(Schutzstaffel)」の名前を与えられた<ref name="阿部(2001)125">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.125</ref><ref name="ヘーネ(1981)30">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.30</ref><ref name="グレーバー(2000)55">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.55</ref>{{#tag:ref|グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。|group=注釈}}。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった<ref name="ヘーネ(1981)30" />。


初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。
初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。
*年齢23歳から35歳まで
* 年齢23歳から35歳まで
*2人以上の[[保証人]]が立てられる
* 2人以上の[[保証人]]が立てられる
*同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある
* 同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある
*健康で頑強な体を持っていること
* 健康で頑強な体を持っていること
また親衛隊の行動指針には[[アルコール依存症|アルコール中毒]]者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる<ref name="グレーバー(2000)55" /><ref name="クノップ(2003)31">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.30</ref><ref name="ヘーネ(1981)31">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.31</ref>。親衛隊は設立後すぐに[[ドレスデン]]において[[ドイツ共産党|共産党員]]50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた<ref name="学研I33" /><ref name="ヘーネ(1981)31" />。
また親衛隊の行動指針には[[アルコール依存症|アルコール中毒]]者、[[おしゃべり]][[非行]]歴がある者は酌量されないと定められていた。[[ドイツ人]]であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる<ref name="グレーバー(2000)55" /><ref name="クノップ(2003)31">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.30</ref><ref name="ヘーネ(1981)31">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.31</ref>。親衛隊は設立後すぐに[[ドレスデン]]において[[ドイツ共産党|共産党員]]50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた<ref name="学研I33" /><ref name="ヘーネ(1981)31" />。


シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した<ref name="ヘーネ(1981)31" />。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという<ref name="ヘーネ(1981)32">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.32</ref>。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された<ref name="山下(2010)41">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.41</ref>。
シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した<ref name="ヘーネ(1981)31" />。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1,000人になっていたという<ref name="ヘーネ(1981)32">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.32</ref>。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された<ref name="山下(2010)41">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.41</ref>。


[[1926年]]4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ<ref name="阿部(2001)133">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.133</ref><ref name="グレーバー(2000)56">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.56</ref>。1926年7月4日の[[ヴァイマル]]での[[ナチ党党大会|第二回党大会]]で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった<ref name="ヘーネ(1981)32" /><ref name="山下(2010)39">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.39</ref><ref name="学研I34">[[#学研I|武装SS全史I]] p.34</ref>。
[[1926年]]4月にベルヒトルトが[[亡命]]先の[[オーストリア]]から帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ<ref name="阿部(2001)133">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.133</ref><ref name="グレーバー(2000)56">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.56</ref>。1926年7月4日の[[ヴァイマル]]での[[ナチ党党大会|第二回党大会]]で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった<ref name="ヘーネ(1981)32" /><ref name="山下(2010)39">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.39</ref><ref name="学研I34">[[#学研I|武装SS全史I]] p.34</ref>。


1926年[[11月1日]]に[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]が[[突撃隊最高指導者]]に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「[[親衛隊全国指導者]]」(Reichsführer-SS)の肩書を得た<ref name="グレーバー(2000)56" /><ref name="山下(2010)39" /><ref name="阿部(2001)138">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.138</ref>。
1926年[[11月1日]]に[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]が突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「[[親衛隊全国指導者]]」(Reichsführer-SS)の肩書を得た<ref name="グレーバー(2000)56" /><ref name="山下(2010)39" /><ref name="阿部(2001)138">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.138</ref>。


結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した<ref name="ヘーネ(1981)33">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.33</ref>。[[1927年]]3月にベルヒトルトの副官[[エアハルト・ハイデン]]が代わって親衛隊全国指導者に就任した<ref name="ヘーネ(1981)33" /><ref name="阿部(2001)141">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.141</ref><ref name="ラムスデン(1997)13">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)]] p.13</ref>。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ<ref name="ヘーネ(1981)33" /><ref name="グレーバー(2000)57">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]]、p.57</ref>。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて[[1929年]][[1月6日]]に辞職することとなった<ref name="山下(2010)39"/><ref name="学研I34" />。
結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した<ref name="ヘーネ(1981)33">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.33</ref>。[[1927年]]3月にベルヒトルトの副官[[エアハルト・ハイデン]]が代わって親衛隊全国指導者に就任した<ref name="ヘーネ(1981)33" /><ref name="阿部(2001)141">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.141</ref><ref name="ラムスデン(1997)13">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)]] p.13</ref>。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10 %以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため[[1928年]]までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ<ref name="ヘーネ(1981)33" /><ref name="グレーバー(2000)57">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]]、p.57</ref>。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて[[1929年]][[1月6日]]に辞職することとなった<ref name="山下(2010)39"/><ref name="学研I34" />。
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=== 勢力拡大 ===
=== 勢力拡大 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|thumb|150px|1929年の[[ハインリヒ・ヒムラー]]]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|thumb|150 px|1929年のハインリヒ・ヒムラー]]
1929年1月6日にハイデンの副官であった[[ハインリヒ・ヒムラー]]が第4代[[親衛隊全国指導者]]に任じられた<ref name="ラムスデン(1997)13"/><ref name="阿部(2000)151">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.151</ref><ref name="クノップ(2003)99">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.99</ref><ref name="グレーバー(2000)58">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.58</ref><ref name="スティン(2001)23">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.23</ref><ref name="ノイマン(1963)431">[[#ノイマン(1963)|ノイマン(1963)]] p.431</ref><ref name="ヘーネ(1981)35">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.35</ref>。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人<ref name="学研I34" /><ref name="ヘーネ(1981)64">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.64]]</ref>、1930年末には2700人<ref name="学研I34" /><ref name="ヘーネ(1981)64" />、1931年には1万5000人<ref name="クノップ(2003)44">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.44]]</ref>、1932年4月には2万5000人<ref name="山下(2010)43">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.43]]</ref>、1932年末には5万人以上になっていた<ref name="キーガン(1972)39">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.39</ref><ref name="山下(2010)47">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.47</ref>。
1929年1月6日にハイデンの副官であった[[ハインリヒ・ヒムラー]]が第4代親衛隊全国指導に任じられた<ref name="ラムスデン(1997)13"/><ref name="阿部(2000)151">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.151</ref><ref name="クノップ(2003)99">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.99</ref><ref name="グレーバー(2000)58">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.58</ref><ref name="スティン(2001)23">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.23</ref><ref name="ノイマン(1963)431">[[#ノイマン(1963)|ノイマン(1963)]] p.431</ref><ref name="ヘーネ(1981)35">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.35</ref>。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1,000人<ref name="学研I34" /><ref name="ヘーネ(1981)64">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.64]]</ref>、[[1930年]]末には2,700人<ref name="学研I34" /><ref name="ヘーネ(1981)64" />、[[1931年]]には1万5000人<ref name="クノップ(2003)44">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.44]]</ref>、[[1932年]]4月には2万5000人<ref name="山下(2010)43">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.43]]</ref>、1932年末には5万人以上になっていた<ref name="キーガン(1972)39">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.39</ref><ref name="山下(2010)47">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.47</ref>。


これは1929年[[10月24日]]の[[ニューヨーク]]・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]により発生した[[世界恐慌]]が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した<ref name="グレーバー61">[[#グレーバー|グレーバー、p.61]]</ref>。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた<ref name="学研I34" /><ref name="グレーバー(2000)62">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.62</ref>。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者[[ヴァルター・シュテンネス]]が党指導部に対して反乱を起こした<ref>[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.168-169</ref>。
これは1929年[[10月24日]]の[[ニューヨーク]]・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]により発生した[[世界恐慌]]が関係していた。[[失業]]者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した<ref name="グレーバー61">[[#グレーバー|グレーバー、p.61]]</ref>。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの[[統制]]すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた<ref name="学研I34" /><ref name="グレーバー(2000)62">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.62</ref>。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者[[ヴァルター・シュテンネス]]が党指導部に対して反乱を起こした<ref>[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.168-169</ref>。


こうした情勢からヒトラーは[[1930年]][[11月7日]]付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めたただし1934年の「[[長いナイフの夜]]」までは形式的に突撃隊の下部組織であった<ref name="阿部(2001)172">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.172]]</ref><ref>[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.167-168</ref>。
こうした情勢からヒトラーは[[1930年]][[11月7日]]付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めたただし[[1934年]]の「[[長いナイフの夜]]」までは形式的に突撃隊の下部組織であった<ref name="阿部(2001)172">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.172]]</ref><ref>[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.167-168</ref>。


[[ヴァルター・ダレ]]の『[[血と大地]]』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、[[1929年]]4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった<ref name="ヘーネ(1981)60">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.60</ref>。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の[[北方人種]]のことであった<ref name="キーガン(1972)37">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.37</ref><ref name="桧山(1976)166">[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.166</ref>。
[[ヴァルター・ダレ]]の『[[血と大地]]』の[[イデオロギー]]に強く影響されていたヒムラーは、[[1929年]]4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、[[人種]]的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった<ref name="ヘーネ(1981)60">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.60</ref>。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「[[エリート]]集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは[[金髪]][[碧眼|青い目]]をしている[[長身]]の[[北方人種]]のことであった<ref name="キーガン(1972)37">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.37</ref><ref name="桧山(1976)166">[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.166</ref>。


農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」<ref name="ヘーネ(1981)60" /><ref name="グレーバー(2000)61">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.61</ref>。
[[農業]]を学び、[[農薬]]会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について[[植物]]と絡めてこのように語っている。「[[品種改良]]をやる栽培家と同じだ。立派な品種も[[雑草]]と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む[[血統]]を有しているはずだからである」<ref name="ヘーネ(1981)60" /><ref name="グレーバー(2000)61">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.61</ref>。


人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった<ref name="グレーバー61" />。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている<ref name="山下(2010)80">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.80</ref>。ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった<ref name="山下(2010)41"/>。
人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった<ref name="グレーバー61" />。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・[[遺伝]]の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている<ref name="山下(2010)80">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.80</ref>。[[ユダヤ人]]からドイツを守る[[世界観]]闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった<ref name="山下(2010)41"/>。


[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-2007-1010-502, Kurt Daluege.jpg|thumb|150px|right|[[クルト・ダリューゲ]]]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-2007-1010-502, Kurt Daluege.jpg|thumb|150 px|right|[[クルト・ダリューゲ]]]]
1930年7月に[[クルト・ダリューゲ]]が親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた<ref name="Yerger(1997)148">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997)]] p.148</ref>{{Full citation needed |date= 2019-02-15|title=Yergerを著者とする1997年刊行の資料は、現在の本記事に載っていません。}}。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった<ref name="山下(2010)43" />。
1930年7月に[[クルト・ダリューゲ]]が親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して[[指揮 (軍事)|指揮]]することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた<ref name="Yerger(1997)148">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997)]] p.148</ref>。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊の[[モットー]]の原型となった<ref name="山下(2010)43" />。


[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R98683, Reinhard Heydrich.jpg|thumb|150px|[[ラインハルト・ハイドリヒ]]]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R98683, Reinhard Heydrich.jpg|thumb|150 px|[[ラインハルト・ハイドリヒ]]]]
なおシュテンネスの反乱には[[プロイセン州]]内相[[カール・ゼーフェリンク]]の政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した<ref name="桧山(1976)168">[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.168</ref>。1931年6月には[[ドイツ海軍|海軍]]を追放され失業中だった[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織は[[SD (ナチス)|SD]]に改組された。SDは後に全[[ヨーロッパ]]に監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった<ref name="バトラー(2006)36">[[#バトラー(2006)|バトラー(2006)]] p.36</ref>。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった<ref name="ヘーネ(1981)176">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.176</ref>。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統[[ルドルフ・ヘス]]の声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた<ref name="ドラリュ(2000)208">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)]] p.208</ref><ref name="ヘーネ(1981)212">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.212]]</ref>。
なおシュテンネスの反乱には[[プロイセン州]]内相[[カール・ゼーフェリンク]]の政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した<ref name="桧山(1976)168">[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.168</ref>。1931年6月には[[ドイツ海軍|海軍]]を追放され失業中だった[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の[[諜報]]部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織は[[SD (ナチス)|SD]]に改組された。SDは後に全[[ヨーロッパ]]に監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった<ref name="バトラー(2006)36">[[#バトラー(2006)|バトラー(2006)]] p.36</ref>。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった<ref name="ヘーネ(1981)176">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.176</ref>。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の[[1934年]]6月9日に副総統[[ルドルフ・ヘス]]の声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた<ref name="ドラリュ(2000)208">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)]] p.208</ref><ref name="ヘーネ(1981)212">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.212]]</ref>。


1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「[[褐色館]]」の警備の全権がヒムラーに任せられた<ref name="ヘーネ(1981)78">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.78</ref>。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった<ref name="山下(2010)43" />。ヒムラーは親衛隊の模範として[[イエズス会]]を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた<ref name="ヘーネ(1981)150">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.150</ref>。
1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「[[褐色館]]」の警備の全権がヒムラーに任せられた<ref name="ヘーネ(1981)78">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.78</ref>。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった<ref name="山下(2010)43" />。ヒムラーは親衛隊の模範として[[イエズス会]]を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた<ref name="ヘーネ(1981)150">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.150</ref>。

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突撃隊の前身組織の指揮官でナチ党古参である[[エミール・モーリス]]は一時追放されていたが、1932年の復帰後に[[親衛隊上級大佐]](隊員番号2番)に任命された。


=== 政権掌握後 ===
=== 政権掌握後 ===
==== 隊員数の増加 ====
==== 隊員数の増加 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 102-04458A, Berlin, Ankunft des englischen Aussenministers.jpg|thumb|250px|時の英外相・[[サミュエル・ホーア (初代テンプルウッド子爵)]]に着剣[[捧げ銃]]の敬礼を行う親衛隊員(1935年3月24日ベルリン)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-04458A, Berlin, Ankunft des englischen Aussenministers.jpg|thumb|250 px|時の英外相・[[サミュエル・ホーア (初代テンプルウッド子爵)]]に着剣[[捧げ銃]]の敬礼を行う親衛隊員(1935年3月24日ベルリン)]]
[[1933年]][[1月30日]]にヒトラーは[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から[[ドイツの首相|ドイツ国首相]]に任命されてドイツの政権を掌握した。
[[1933年]][[1月30日]]にヒトラーは[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から[[ドイツの首相|ドイツ国首相]]に任命されてドイツの政権を掌握した。


[[日和見主義]]者達が保身から続々と入党していた<ref group="注釈">彼ら普通党員章保持者は古参の[[黄金ナチ党員バッジ]]保持者から蔑まれることになる</ref> ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが<ref name="スティン(2001)23"/>、[[1933年]]末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、[[ヴァイマル共和国軍|国防軍]]からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた<ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.45</ref>。またヒムラーは[[親衛隊名誉指導者]]制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった<ref name="ヘーネ(1981)143">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.143</ref>。
[[日和見主義]]者達が保身から続々と入党していた<ref group="注釈">彼ら普通党員章保持者は古参の[[黄金ナチ党員バッジ]]保持者から蔑まれることになる</ref> ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが<ref name="スティン(2001)23"/>、[[1933年]]末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ[[動員]]の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として[[軍事訓練|訓練]]されていないので、[[ヴァイマル共和国軍|国防軍]]からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた<ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)]] p.45</ref>。またヒムラーは[[親衛隊名誉指導者]]制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった<ref name="ヘーネ(1981)143">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.143</ref>。


隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け<ref name="キーガン(1972)38">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.38</ref>、[[北方人種]]の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際[[シークレットブーツ]]などを履いた者もいたという。また、結婚も[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた<ref name="ヘーネ(1981)152">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.152</ref>。
隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族や[[スラブ民族]]の血が混入していないか調査を受け<ref name="キーガン(1972)38">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)]] p.38</ref>、[[北方人種]]の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173 cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を[[閲兵]]する際[[シークレットブーツ]]などを履いた者もいたという。また、結婚も[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた<ref name="ヘーネ(1981)152">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.152</ref>。


旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった<ref name="キーガン(1972)39"/>。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた<ref name="ヘーネ(1981)141">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.141]]</ref>。
旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった<ref name="キーガン(1972)39"/>。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた<ref name="ヘーネ(1981)141">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.141]]</ref>。
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==== 警察権力の掌握 ====
==== 警察権力の掌握 ====
[[File:Langhammer - Josias Prinz zu Waldeck und Pyrmont.jpg|thumb|150px|警察大将の[[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]]]]
[[File:Langhammer - Josias Prinz zu Waldeck und Pyrmont.jpg|thumb|150px|警察大将の[[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]]]]
1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日に[[ハインリヒ・ヘルト]]が首相を務めるバイエルン州政府が[[フランツ・フォン・エップ]]率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーが[[ミュンヘン]]警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された<ref name="ヘーネ(1981)84">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.84</ref><ref name="大野(2001)22">[[#大野(2001)|大野(2001)]] p.22-23</ref>。さらに4月にはヒムラーが[[バイエルン州]]警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった<ref name="大野(2001)22" />。
1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日に[[ハインリヒ・ヘルト]]が首相を務めるバイエルン州政府が[[フランツ・フォン・エップ]]率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された<ref name="ヘーネ(1981)84">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.84</ref><ref name="大野(2001)22">[[#大野(2001)|大野(2001)]] p.22-23</ref>。さらに4月にはヒムラーが[[バイエルン州]]警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった<ref name="大野(2001)22" />。


[[File:Bundesarchiv Bild 102-14381, Berlin, Polizeipatrouille am Wahltag.jpg|thumb|150px|right|ベルリン。警察官(左)と一緒にパトロールする補助警察官の親衛隊員(1933年3月5日)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14381, Berlin, Polizeipatrouille am Wahltag.jpg|thumb|150px|right|ベルリン。警察官(左)と一緒にパトロールする補助警察官の親衛隊員(1933年3月5日)]]
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[[Image:Bundesarchiv Bild 183-R98680, Besprechung Himmler mit Müller, Heydrich, Nebe, Huber.jpg|thumb|200px|left|ヒムラーと[[国家保安本部]]幹部たち。左から[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー|フランツ・フーバー]]([[ゲシュタポ]]高官)、[[アルトゥール・ネーベ]]([[刑事警察 (ドイツ)|クリポ局長]])、ヒムラー(親衛隊全国指導者)、ハイドリヒ(国家保安本部長官)、[[ハインリヒ・ミュラー]](ゲシュタポ局長)(1939年11月、[[ミュンヘン]])]]
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-R98680, Besprechung Himmler mit Müller, Heydrich, Nebe, Huber.jpg|thumb|200px|left|ヒムラーと[[国家保安本部]]幹部たち。左から[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー|フランツ・フーバー]]([[ゲシュタポ]]高官)、[[アルトゥール・ネーベ]]([[刑事警察 (ドイツ)|クリポ局長]])、ヒムラー(親衛隊全国指導者)、ハイドリヒ(国家保安本部長官)、[[ハインリヒ・ミュラー]](ゲシュタポ局長)(1939年11月、[[ミュンヘン]])]]
ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は[[秩序警察]](オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は[[保安警察]](ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。[[ゲシュタポ|秘密警察(ゲシュタポ)]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察(クリポ)]]である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、[[フリーメイソン]]などを専管するとされ、一方ゲシュタポは[[マルクス主義]]、移民、[[国事犯]]を専管とすると定めた。[[教会]]、世界観問題、[[ユダヤ人]]、過激派、[[黒色戦線]]([[ナチス左派]]の[[オットー・シュトラッサー]]の分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている<ref name="学研I115" />。
ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は[[秩序警察]](オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は[[保安警察 (ドイツ)|保安警察]](ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。[[ゲシュタポ|秘密警察(ゲシュタポ)]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察(クリポ)]]である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、[[フリーメイソン]]などを専管するとされ、一方ゲシュタポは[[マルクス主義]]、移民、[[国事犯]]を専管とすると定めた。[[教会 (キリスト教)|教会]]、世界観問題、[[ユダヤ人]]、[[過激派]]、[[黒色戦線]]([[ナチス左派]]の[[オットー・シュトラッサー]]の分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている<ref name="学研I115" />。


さらに1937年11月13日にヒムラーは「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]](Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた<ref name="Yerger(1997)22">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997)]] p.22</ref>。
さらに1937年11月13日にヒムラーは「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]](Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた<ref name="Yerger(1997)22">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997)]] p.22</ref>。
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-067-07, Sicherheitsdienst in Polen, Razzia.jpg|right|thumb|200px|占領下の[[ポーランド]]で家宅捜索に出動する[[SD (ナチス)|SD]]隊員(1939年)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-067-07, Sicherheitsdienst in Polen, Razzia.jpg|right|thumb|200px|占領下の[[ポーランド]]で家宅捜索に出動する[[SD (ナチス)|SD]]隊員(1939年)]]
戦時中に国家保安本部は[[ホロコースト]]の執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒが[[ヴァンゼー会議]]を開催し、[[ラインハルト作戦]]を策定して[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線では[[アインザッツグルッペン]]を組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行った。
[[File:Einsatzgruppen murder Jews in Ivanhorod, Ukraine, 1942.jpg|thumb|200px|left|[[ウクライナ]]の[[イヴァンホロド]]で子供を抱くユダヤ人女性を銃殺する[[アインザッツグルッペン]]の隊員(1942年)]]
戦時中に国家保安本部は[[ホロコースト]]の執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒが[[ヴァンゼー会議]]を開催し、[[ラインハルト作戦]]を策定して[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線では[[アインザッツグルッペン]]を組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の[[虐殺]]を行った。


[[File:Bundesarchiv Bild 146-1968-034-19A, Exekution von polnischen Geiseln.jpg|thumb|200px|left|[[ポーランド]]の[[クルニク]]で市民を銃殺する[[アインザッツグルッペン]](1939年)]]
1942年6月に[[エンスラポイド作戦]]でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]が長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からは[[エルンスト・カルテンブルンナー]]が後任に任じられて国家保安本部長官となった。
1942年6月に[[エンスラポイド作戦]]でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]が長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からは[[エルンスト・カルテンブルンナー]]が後任に任じられて国家保安本部長官となった。


1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺未遂事件]]の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという<ref>[[V2ロケット]]の開発に携わった[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。</ref><ref>[[武田知弘]]「ナチスの発明」45ページ</ref>。
1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺未遂事件]]の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという<ref group="注釈">[[V2ロケット]]の開発に携わった[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。</ref><ref>[[武田知弘]]「ナチスの発明」45ページ</ref>。


==== 経済活動 ====
==== 経済活動 ====
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{{main|武装親衛隊}}
{{main|武装親衛隊}}
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Hoffmann-04-23, Waffen-SS-Div. "Das Reich", Russland.jpg|thumb|200px|1942年3月、[[東部戦線]]。[[第2SS装甲師団|第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」]]]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Hoffmann-04-23, Waffen-SS-Div. "Das Reich", Russland.jpg|thumb|200px|1942年3月、[[東部戦線]]。[[第2SS装甲師団|第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」]]]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Adendorf-009-14, Russland, SS-Rundfunkberichter bei Aufnahme.jpg|thumb|200px|1942年6月、[[東部戦線]]武装SS員]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Adendorf-009-14, Russland, SS-Rundfunkberichter bei Aufnahme.jpg|thumb|200px|1942年6月、[[東部戦線]]で録音を行う武装SS報道員]]
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1985-011-21, Ernst Johann Tetsch.jpg|thumb|200px|親衛隊の戦車兵将校、[[エルンスト=ヨハン・テッチュ]]SS大尉。陸軍とは徽章が違うほか、戦車搭乗服のデザインも微妙に異なる]]
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1985-011-21, Ernst Johann Tetsch.jpg|thumb|200px|親衛隊の戦車兵将校、[[エルンスト=ヨハン・テッチュ]]SS大尉。陸軍とは徽章が違うほか、戦車搭乗服のデザインも微妙に異なる]]


ヒトラーは、軍の枠組みにとらわれず、自らの意志で自由に動かせる軍隊を欲していた。レームの突撃隊は党独自の私軍であったが、レーム以下突撃隊幹部は政権掌握後に突撃隊を正規軍にすることを望み、[[ヴァイマル共和国軍|国軍(Reichswehr)]]と睨みあっていた。国軍と突撃隊を和解させようとするヒトラーを日和見主義者と見なす反ヒトラー派も増えており、「ヒトラーの私軍」になりうる余地はなかった。
ヒトラーは、軍の枠組みにとらわれず、自らの意志で自由に動かせる軍隊を欲していた。レームの突撃隊は党独自の私軍であったが、レーム以下突撃隊幹部は政権掌握後に突撃隊を正規軍にすることを望み、[[ヴァイマル共和国軍|国軍(Reichswehr)]]と睨みあっていた。国軍と突撃隊を和解させようとするヒトラーを日和見主義者と見なす反ヒトラー派も増えており、「ヒトラーの私軍」になりうる余地はなかった。


突撃隊幹部は、1934年6月末から7月初めにかけて[[長いナイフの夜]]において粛清された。粛清に主導的役割を果たした親衛隊は国軍から高い評価を得るようになった。ヒトラーはこれを利用して親衛隊の中に軍隊を設置させる道を模索した。実際に国軍の親衛隊への反感は突撃隊へのそれより少なく、長いナイフの夜直後の1934年7月5日に国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は一個師団規模の軍隊の所持を親衛隊に認める旨を軍司令官たちに通達している。9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつも親衛隊が内政上特別な役割を果たすためとして武装した親衛隊部隊を3連隊と1通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊の戦闘部隊「[[親衛隊特務部隊]]」であった。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍人手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。しかしこの時点では国軍の感情も配慮して特務部隊は戦力を3個連隊と1通信隊に限定され、師団編成の許可は見送られている。
突撃隊幹部は、1934年6月末から7月初めにかけて[[長いナイフの夜]]において[[粛清]]された。粛清に主導的役割を果たした親衛隊は国軍から高い評価を得るようになった。ヒトラーはこれを利用して親衛隊の中に軍隊を設置させる道を模索した。実際に国軍の親衛隊への反感は突撃隊へのそれより少なく、長いナイフの夜直後の1934年7月5日に国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は一個師団規模の軍隊の所持を親衛隊に認める旨を軍司令官たちに通達している。9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつも親衛隊が内政上特別な役割を果たすためとして武装した親衛隊部隊を3連隊と1通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊の戦闘部隊「[[親衛隊特務部隊]]」であった。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍人手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。しかしこの時点では国軍の感情も配慮して特務部隊は戦力を3個連隊と1通信隊に限定され、師団編成の許可は見送られている。


特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年に[[ドイツ国防軍|国防軍(Wehrmacht)]]と改称)の協力を得て進められた。1934年10月には[[バイエルン州]][[バート・トェルツ]]に親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年には[[ブラウンシュヴァイク]]にも親衛隊士官学校が開設された<ref name="芝(1995)30">[[#芝(1995)|芝(1995)]] p.30</ref>。特務部隊の軍事教練には[[パウル・ハウサー]](1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた。
特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年に[[ドイツ国防軍|国防軍(Wehrmacht)]]と改称)の協力を得て進められた。1934年10月には[[バイエルン州]][[バート・トェルツ]]に親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年には[[ブラウンシュヴァイク]]にも親衛隊士官学校が開設された<ref name="芝(1995)30">[[#芝(1995)|芝(1995)]] p.30</ref>。特務部隊の軍事教練には[[パウル・ハウサー]](1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた。
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しかしながら、本質的に武装親衛隊の兵力供給源は(大戦末期の外国人部隊を除けば)一般親衛隊の隊員であり、武装親衛隊の高官は一般親衛隊や[[警察]]の階級も合わせて任官していることが通例であった。特に武装親衛隊[[第3SS装甲師団]]は強制収容所の維持にあたっていた親衛隊髑髏部隊からそのまま抽出されていた。<!--また、ユダヤ人の割礼師(モヒール)の家系や割礼の包皮を飲んだ母親に、クロイツェルヤコブ病(狂牛病)が発生したことから、人間が人肉(包皮の皮)や血を摂取することに原因があると推定した。そして、クロイツェルヤコブ病患者の家系を隔離し、伝染の防除方法を研究した。-->
しかしながら、本質的に武装親衛隊の兵力供給源は(大戦末期の外国人部隊を除けば)一般親衛隊の隊員であり、武装親衛隊の高官は一般親衛隊や[[警察]]の階級も合わせて任官していることが通例であった。特に武装親衛隊[[第3SS装甲師団]]は強制収容所の維持にあたっていた親衛隊髑髏部隊からそのまま抽出されていた。<!--また、ユダヤ人の割礼師(モヒール)の家系や割礼の包皮を飲んだ母親に、クロイツェルヤコブ病(狂牛病)が発生したことから、人間が人肉(包皮の皮)や血を摂取することに原因があると推定した。そして、クロイツェルヤコブ病患者の家系を隔離し、伝染の防除方法を研究した。-->


戦局の悪化とともに親衛隊は国防軍に対して優位を確立していった。1944年2月には国防軍情報部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]の失脚に伴ってアプヴェーアの機能は親衛隊の[[国家保安本部]]のSDに吸収された。さらに1944年7月20日、国防軍将校らによる[[ヒトラー暗殺計画#1944年7月20日の暗殺未遂事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]が発生するとハインリヒ・ヒムラーは[[国内予備軍]]司令官に任じられた。さらに[[陸軍兵器局]]が中心に開発してきた[[V2ロケット]]の生産・運用も陸軍から親衛隊の手に移されている。
戦局の悪化とともに親衛隊は国防軍に対して優位を確立していった。1944年2月には国防軍情報部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]の失脚に伴ってアプヴェーアの機能は親衛隊の[[国家保安本部]]のSDに吸収された。さらに1944年7月20日、国防軍将校らによる[[ヒトラー暗殺計画#7月20日事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]が発生するとハインリヒ・ヒムラーは[[国内予備軍]]司令官に任じられた。さらに[[陸軍兵器局]]が中心に開発してきた[[V2ロケット]]の生産・運用も陸軍から親衛隊の手に移されている。


=== 終焉 ===
=== 終焉 ===
[[File:Dachau execution coalyard 1945-04-29.jpg|thumb|right|230px|[[ダッハウの虐殺]]でアメリカ軍に虐殺される親衛隊員(1945年4月29日)]]
[[File:Dachau execution coalyard 1945-04-29.jpg|thumb|right|230px|[[ダッハウの虐殺]]で[[アメリカ軍]]に虐殺される親衛隊員(1945年4月29日)]]
[[Image:Himmler Dead.jpg|thumb|200px|自殺後のヒムラー]]
[[Image:Himmler Dead.jpg|thumb|200px|自殺後のヒムラー]]
ドイツの敗戦後、ヒムラーはじめ親衛隊員たちの多くが連合軍の捕虜となった。ヒムラーは取り調べ中に自殺した。連合国による非人道的行為への追及やユダヤ人組織による復讐を恐れた親衛隊員は死亡を装って[[バチカン]]の連絡組織や[[オデッサ (組織)|オデッサ]]と呼ばれる支援ネットワークを通じて海外に逃亡するようになった。
[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツの敗戦]]後、ヒムラーはじめ親衛隊員たちの多くが連合軍の捕虜となった。ヒムラーは取り調べ中に自殺した。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による非人道的行為への追及やユダヤ人組織による復讐を恐れた親衛隊員は死亡を装って[[バチカン]]の連絡組織や[[オデッサ (組織)|オデッサ]]と呼ばれる支援ネットワークを通じて海外に[[逃亡]]するようになった。


中には祖国ドイツからの逃亡をもくろむUボート部隊に紛れ込んで姿をくらましたものもいたようである。
中には祖国ドイツからの逃亡をもくろむUボート部隊に紛れ込んで姿をくらましたものもいたようである。


同時に、多様かつ先進的な秘密兵器開発に関わっていた親衛隊員や親衛隊所属の科学者に対し、アメリカの軍需産業による亡命支援や庇護も行われた。ヒトラーの信頼を得て、最先端の軍事研究計画の保安や情報管理を任されてきた経緯もあり、庇護を受けた彼らによってもたらされる科学情報も多かったと推察される([[ペーパークリップ作戦]])<!-- オデッサなる組織は実在しない。あったのは「互助会」的な団体だったとか。 -->
同時に、多様かつ先進的な秘密兵器開発に関わっていた親衛隊員や親衛隊所属の科学者に対し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の軍需産業による亡命支援や庇護も行われた。ヒトラーの信頼を得て、最先端の軍事研究計画の保安や情報管理を任されてきた経緯もあり、庇護を受けた彼らによってもたらされる科学情報も多かったと推察される([[ペーパークリップ作戦]])<!-- オデッサなる組織は実在しない。あったのは「互助会」的な団体だったとか。 -->


<!-- [[ローマ教皇庁]]の一部の高官や -->[[ヨシフ・スターリン]]の台頭に危機感をもつアメリカは、ソ連通の親衛隊員を[[ゲーレン機関]]に参加させるようになった。このゲーレン機関は親衛隊員たちにとってドイツ国内に残れる最も好都合な逃げ道だった。ゲーレン機関は戦後[[西ドイツ]]政府の諜報機関[[連邦情報局|BND]]となった。
<!-- [[ローマ教皇庁]]の一部の高官や -->[[ヨシフ・スターリン]]の台頭に危機感をもつアメリカは、ソ連通の親衛隊員を[[ゲーレン機関]]に参加させるようになった。このゲーレン機関は親衛隊員たちにとってドイツ国内に残れる最も好都合な逃げ道だった。ゲーレン機関は戦後[[西ドイツ]]政府の諜報機関[[連邦情報局|BND]]となった。


一方、[[アドルフ・アイヒマン]]、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]、[[エーリヒ・プリーブケ]]、[[エドゥアルト・ロシュマン]]などソ連通ではない[[戦争犯罪|戦犯]]たちは[[ナチ・ハンター]]や[[モサド]]の追跡からかいくぐるために外国へ逃げるしかなかった。親独的な[[アルゼンチン]]やその他[[ラテンアメリカ]]諸国、また[[アロイス・ブルンナー]]のように反[[イスラエル]]の立場を取る[[シリア]]など[[アラブ諸国]]に渡っていった者もいる。これらの中には現地の治安・諜報機関の養成に関与した者もいれば、完全に消息不明になった者もいる。
一方、[[アドルフ・アイヒマン]]、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]、[[エーリヒ・プリーブケ]]、[[エドゥアルト・ロシュマン]]などソ連通ではない[[戦争犯罪|戦犯]]たちは[[ナチ・ハンター]]や[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]の追跡からかいくぐるために外国へ逃げるしかなかった。親独的な[[アルゼンチン]]やその他[[ラテンアメリカ]]諸国、また[[アロイス・ブルンナー]]のように反[[イスラエル]]の立場を取る[[シリア]]など[[アラブ世界|アラブ諸国]]に渡っていった者もいる。これらの中には現地の治安・諜報機関の養成に関与した者もいれば、完全に消息不明になった者もいる。


== 組織 ==
== 組織 ==
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==== 国家保安本部 ====
==== 国家保安本部 ====
[[国家保安本部]](Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である[[保安警察]]([[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]])と親衛隊の[[SD (ナチス)|SD]]本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめ[[ラインハルト・ハイドリヒ]]SS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後には[[ハインリヒ・ヒムラー]]が長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦まで[[エルンスト・カルテンブルンナー]]SS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。
[[国家保安本部]](Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である[[保安警察 (ドイツ)|保安警察]]([[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]])と親衛隊の[[SD (ナチス)|SD]]本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめ[[ラインハルト・ハイドリヒ]]SS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後には[[ハインリヒ・ヒムラー]]が長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦まで[[エルンスト・カルテンブルンナー]]SS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。
*I局、人事局 (Personal)
*I局、人事局 (Personal)
**局長: [[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]SS少将、[[エーリヒ・エーアリンガー]]SS少将
**局長: [[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]SS少将、[[エーリヒ・エーアリンガー]]SS少将
*II局、編制・総務・法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)
*II局、編制・総務・法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)
**局長: [[ハンス・ノッケマン]][[親衛隊大佐|SS大佐]] ([[:de:Hans Nockemann|Hans Nockemann]])
**局長: [[ハンス・ノッケマン]][[親衛隊大佐|SS大佐]] ([[:de:Hans Nockemann|Hans Nockemann]])
*[[SD (ナチス)|III局、SD国内諜報局]] (SD-Inland)
*[[SD (ナチス)|III局、国内保安局]] (SD-Inland)
**局長: [[オットー・オーレンドルフ]]SS中将
**局長: [[オットー・オーレンドルフ]]SS中将
*[[ゲシュタポ|IV局、ゲシュタポ局]] (Geheimes Staatspolizeiamt)
*[[ゲシュタポ|IV局、秘密国家警察局]] (Geheimes Staatspolizeiamt、略称Gestapo)
**局長: [[ハインリヒ・ミュラー]]SS中将
**局長: [[ハインリヒ・ミュラー]]SS中将
***IVB4課 (ユダヤ人課)
***IVB4課 (ユダヤ人課)
214行目: 217行目:
*[[刑事警察 (ドイツ)|V局、刑事警察局]] (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)
*[[刑事警察 (ドイツ)|V局、刑事警察局]] (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)
**局長: [[アルトゥール・ネーベ]]SS中将、[[フリードリヒ・パンツィンガー]][[親衛隊上級大佐|SS上級大佐]]
**局長: [[アルトゥール・ネーベ]]SS中将、[[フリードリヒ・パンツィンガー]][[親衛隊上級大佐|SS上級大佐]]
*[[SD (ナチス)|VI局、SD国諜報局]] (SD-Ausland)
*[[SD (ナチス)|VI局、保安局]] (SD-Ausland)
**局長: [[ハインツ・ヨスト]]SS少将、[[ヴァルター・シェレンベルク]]SS少将
**局長: [[ハインツ・ヨスト]]SS少将、[[ヴァルター・シェレンベルク]]SS少将
***[[アプヴェーア]]([[ドイツ国防軍]]の情報部。「ゾルフ夫人のお茶会」(Frau Solf Tea Party)が原因で1944年2月、国家保安本部第6傘下となる)
***[[アプヴェーア]]([[ドイツ国防軍]]の情報部。「ゾルフ夫人のお茶会」(Frau Solf Tea Party)が原因で1944年2月、国家保安本部第6傘下となる)
*VII局、世界観調査・分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)
*VII局、世界観調査・分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)
**局長: [[フランツ・ジックス]]SS少将
**局長: [[フランツ・ジックス]]SS少将
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==== 秩序警察本部 ====
==== 秩序警察本部 ====
[[秩序警察|秩序警察本部]](Hauptamt Ordungspolizei、略称OrPo)。政治警察を除いたすべての警察を指揮する[[秩序警察]]を親衛隊の本部にしたもの。長官は[[クルト・ダリューゲ]][[親衛隊上級大将|SS上級大将]]が務めていたが、1943年に心筋梗塞で重体になり、代わりに長官代理として[[アルフレート・ヴェンネンベルク]]警察大将が置かれることとなった<ref name="Yerger(1997)148"/>。
秩序警察本部(Hauptamt Ordungspolizei、略称OrPo)。政治警察を除いたすべての警察を指揮する[[秩序警察]]を親衛隊の本部にしたもの。長官は[[クルト・ダリューゲ]][[親衛隊上級大将|SS上級大将]]が務めていたが、1943年に心筋梗塞で重体になり、代わりに長官代理として[[アルフレート・ヴェンネンベルク]]警察大将が置かれることとなった<ref name="Yerger(1997)148"/>。


==== 親衛隊法務本部 ====
==== 親衛隊法務本部 ====
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{{Quotation|'''<問>'''何故我らはドイツを信じ、総統を信じるのか?<br />'''<答>'''我らが神を信じるからである。ドイツは神によって神の地に作られた国家であり、総統アドルフ・ヒトラーは神が我らにつかわした人だからである。<br />'''<問>'''我らは誰のために働くのか?<br />'''<答>'''我が国民と総統アドルフ・ヒトラーのためである。<br />'''<問>'''我らは何故服従するのか?<br />'''<答>'''我らの信念ゆえに。ドイツ・総統・国家社会主義運動・SSを信じるゆえに。また我が忠誠ゆえに。}}
{{Quotation|'''<問>'''何故我らはドイツを信じ、総統を信じるのか?<br />'''<答>'''我らが神を信じるからである。ドイツは神によって神の地に作られた国家であり、総統アドルフ・ヒトラーは神が我らにつかわした人だからである。<br />'''<問>'''我らは誰のために働くのか?<br />'''<答>'''我が国民と総統アドルフ・ヒトラーのためである。<br />'''<問>'''我らは何故服従するのか?<br />'''<答>'''我らの信念ゆえに。ドイツ・総統・国家社会主義運動・SSを信じるゆえに。また我が忠誠ゆえに。}}


10月1日の入隊後、[[ドイツ国防軍|国防軍]]での訓練期間を経ることになる。国防軍での成績がいいと一か月以内に親衛隊に編入された。二度目の11月9日には自分と自分の子孫が1931年12月31日に制定された親衛隊の結婚条例([[親衛隊全国指導者]]もしくはRuSHAが許可した「人種的に問題がなく、また遺伝的な病気のない健康的血統」の女性とのみ結婚すること)を守ることを宣誓した。この宣誓をした隊員にはようやく「Meine Ehre heißt Treue(忠誠こそわが名誉)」の文字の入ったSS短剣が授与されるのであった。
10月1日の入隊後、[[ドイツ国防軍|国防軍]]での訓練期間を経ることになる。国防軍での成績が良好の場合、一か月以内に親衛隊に編入された。二度目の11月9日には自分と自分の子孫が1931年12月31日に制定された親衛隊の結婚条例([[親衛隊全国指導者]]もしくはRuSHAが許可した「人種的に問題がなく、また遺伝的な病気のない健康的血統」の女性とのみ結婚すること)を守ることを宣誓した。この宣誓をした隊員にはようやく「Meine Ehre heißt Treue(忠誠こそわが名誉)」の文字の入ったSS短剣が授与されるのであった。


=== 若き幹部達 ===
=== 若き幹部達 ===
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=== 親衛隊員の入れ墨 ===
=== 親衛隊員の入れ墨 ===
{{main|親衛隊血液型入れ墨}}
親衛隊員は[[医療識別票]]として左の腋下に[[血液型]]を[[入れ墨]]した({{仮リンク|SS血液型刺青|en|SS blood group tattoo}} )。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想のためである。ただし、その入れ墨は親衛隊員であった動かぬ証拠となり、戦後、刑事責任追及のための身柄確保に役立つこととなった。現在でも[[ナチ・ハンター]]はこの入れ墨及びそれを消した瘢痕を犯人性判断のための最大の間接事実としている。
親衛隊員は[[医療識別票]]として左の腋下に[[血液型]]を[[入れ墨]]した。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想のためである。ただし、その入れ墨は親衛隊員であった動かぬ証拠となり、戦後、刑事責任追及のための身柄確保に役立つこととなった。現在でも[[ナチ・ハンター]]はこの入れ墨及びそれを消した瘢痕を犯人性判断のための最大の間接事実としている。


=== 旧王族・貴族層の親衛隊員 ===
=== 旧王族・貴族層の親衛隊員 ===
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== 思想 ==
== 思想 ==
=== 人種観 ===
=== 人種観 ===
ヒトラーは『[[我が闘争]]』の中で左翼政党、金融資本、国民経済空洞化、議会主義、自由主義、平和主義など「ドイツ労働者を墜落させる」要素はすべてユダヤ人の世界陰謀であり、全ての歴史は「文化創造人種アーリア人VS文化破壊人種ユダヤ人」という文脈で捉えられると主張していた<ref name="芝(2008)33">[[#芝(2002)|芝(2002)]] p.33</ref>{{Full citation needed|date=2019-02-15|title=芝氏を著者とする2002年刊行の資料は現在の本記事に載っていないし、refタグの内部が芝(2008)となっているのも不審。}}。
ヒトラーは『[[我が闘争]]』の中で[[左翼]]政党、金融資本、国民経済空洞化、[[議会主義]][[自由主義]][[平和主義]]など「ドイツ労働者を墜落させる」要素はすべてユダヤ人の世界陰謀であり、全ての歴史は「文化創造人種アーリア人VS文化破壊人種ユダヤ人」という文脈で捉えられると主張していた<ref name="芝(2008)33">[[#芝(2002)|芝(2002)]] p.33</ref>{{Full citation needed|date=2019-02-15|title=芝氏を著者とする2002年刊行の資料は現在の本記事に載っていないし、refタグの内部が芝(2008)となっているのも不審。}}。


親衛隊もこのヒトラーの思想を受け継いでいた。親衛隊の人種理論を立てていた[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]]は「歴史上の偉大な帝国や文明はほとんどが[[北方人種]]によって作られ、維持されてきた。これらの帝国が滅びたのはそれを作った北方人種の血が守られなかったためだ」と主張し、北方人種の血を守るために有害なユダヤ人、フリーメーソン、キリスト教会などを排除する必要性を訴えた<ref name="ヘーネ(1981)55">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.55</ref>。
親衛隊もこのヒトラーの思想を受け継いでいた。親衛隊の人種理論を立てていた[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]]は「歴史上の偉大な帝国や文明はほとんどが[[北方人種]]によって作られ、維持されてきた。これらの帝国が滅びたのはそれを作った北方人種の血が守られなかったためだ」と主張し、北方人種の血を守るために有害なユダヤ人、フリーメーソン、キリスト教会などを排除する必要性を訴えた<ref name="ヘーネ(1981)55">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.55</ref>。
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=== 宗教観 ===
=== 宗教観 ===
親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]は、親衛隊の隊員をキリスト教から切り離し、古代ゲルマン異教思想を持たせることに努めた。婚姻条例において隊員の結婚式をキリスト教会で行うことを禁じ、親衛隊の部隊において結婚式を執り行わせた。その結婚式では上官の親衛隊将校が牧師の代わりを務めた<ref name="ヘーネ(1981)161">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.161</ref>。また[[クリスマス]]を祝う習慣を無くすべく、冬至祭([[ユール]])を祝うことを奨励した<ref name="ヘーネ(1981)162">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.162</ref>。
親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]は、親衛隊の隊員を[[キリスト教]]から切り離し、古代ゲルマン異教思想を持たせることに努めた。婚姻条例において隊員の結婚式をキリスト教会で行うことを禁じ、親衛隊の部隊において結婚式を執り行わせた。その結婚式では上官の親衛隊将校が牧師の代わりを務めた<ref name="ヘーネ(1981)161">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.161</ref>。また[[クリスマス]]を祝う習慣を無くすべく、冬至祭([[ユール]])を祝うことを奨励した<ref name="ヘーネ(1981)162">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.162</ref>。


1934年7月には[[フン族]]の攻撃を防いだと言われる{{仮リンク|ヴェーヴェルスブルク|en|Wewelsburg}}の古城が親衛隊に購入された。ヒムラーはこの城に『[[アーサー王物語]]』や『[[円卓の騎士]]』に強い影響を受けた大改築を行い、ここをゲルマン異教の儀式の中心地にしようとした<ref name="クノップ(2003)108">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.108</ref><ref name="グレーバー(2000)115">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.115</ref>。親衛隊幹部はこの城のヒムラーとともに数時間の瞑想を強要されたという<ref name="グレーバー(2000)116">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.116</ref>。1935年にはヒムラーの主導で「ユダヤ=ボルシェヴィキから北方インド=ゲルマン人種を守るための研究機関」として[[アーネンエルベ]]が創設された。ここではヒムラーの異教思想を科学的に実証しようと試みられた<ref name="クノップ(2003)112">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.112</ref>。
1934年7月には[[フン族]]の攻撃を防いだと言われる{{仮リンク|ヴェーヴェルスブルク|en|Wewelsburg}}の古城が親衛隊に購入された。ヒムラーはこの城に『[[アーサー王物語]]』や『[[円卓の騎士]]』に強い影響を受けた大改築を行い、ここをゲルマン異教の儀式の中心地にしようとした<ref name="クノップ(2003)108">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.108</ref><ref name="グレーバー(2000)115">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.115</ref>。親衛隊幹部はこの城のヒムラーとともに数時間の瞑想を強要されたという<ref name="グレーバー(2000)116">[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)]] p.116</ref>。1935年にはヒムラーの主導で「ユダヤ=ボルシェヴィキから北方インド=ゲルマン人種を守るための研究機関」として[[アーネンエルベ]]が創設された。ここではヒムラーの異教思想を科学的に実証しようと試みられた<ref name="クノップ(2003)112">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.112</ref>。
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しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されていった。1935年には婚姻条例に反した隊員は親衛隊から追放するとしていたが、1937年には人種条項に反した結婚でなければ、それ以外の婚姻条例に違反していたとしても必ずしも追放されないと修正された。さらに1940年には人種条項以外の規定のために追放された隊員は人種条項に反していなければ再入隊が認められるとも定められた<ref name="ヘーネ(1981)162"/>。
しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されていった。1935年には婚姻条例に反した隊員は親衛隊から追放するとしていたが、1937年には人種条項に反した結婚でなければ、それ以外の婚姻条例に違反していたとしても必ずしも追放されないと修正された。さらに1940年には人種条項以外の規定のために追放された隊員は人種条項に反していなければ再入隊が認められるとも定められた<ref name="ヘーネ(1981)162"/>。


一般親衛隊は3分の2が変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中には[[カトリック教会|カトリック]]の[[司祭]]がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中には[[ヴィルヘルム・ビットリヒ]]のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた<ref name="ヘーネ(1981)162"/>。
一般親衛隊は3分の2が変わらず[[キリスト教徒]]だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中には[[カトリック教会|カトリック]]の[[司祭]]がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中には[[ヴィルヘルム・ビットリヒ]]のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた<ref name="ヘーネ(1981)162"/>。


ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は1935年8月21日の日記に「[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]]とヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている<ref name="クノップ(2003)107">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.107</ref>。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった<ref name="ヘーネ(1981)158">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.158</ref>。
ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は1935年8月21日の日記に「[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]]とヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている<ref name="クノップ(2003)107">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.107</ref>。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった<ref name="ヘーネ(1981)158">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.158</ref>。
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{{main|制服 (ナチス親衛隊)}}
{{main|制服 (ナチス親衛隊)}}
[[File:German Allgemeine SS black parade uniform (Sturmbannführer); Peaked visor skull cap; Odal rune; "reichsführung-SS" brassard cuffband; Himmler card; etc DSC00073.jpg|thumb|親衛隊の黒服制服。ノルウェーのロフォーテン戦争記念博物館にて]]
[[File:German Allgemeine SS black parade uniform (Sturmbannführer); Peaked visor skull cap; Odal rune; "reichsführung-SS" brassard cuffband; Himmler card; etc DSC00073.jpg|thumb|親衛隊の黒服制服。ノルウェーのロフォーテン戦争記念博物館にて]]
[[ファイル:Norway in WW2. Nazi German SS uniform. Tunic w SS-Untersturmführer collar patches and SS-eagle on sleeve, visor cap w skull (Totenkopf), Norwegian Armed Forces Museum (Forsvarsmuseet) Oslo 2019-03-31 DSC01617.jpg|thumb|武装親衛隊の野戦服。ノルウェー軍博物館(Forsvarsmuseet)所蔵品]]
[[ファイル:Norway in WW2. Nazi German SS uniform. Tunic w SS-Untersturmführer collar patches and SS-eagle on sleeve, visor cap w skull (Totenkopf), Norwegian Armed Forces Museum (Forsvarsmuseet) Oslo 2019-03-31 DSC01617.jpg|thumb|武装親衛隊将校の野戦服。ノルウェー軍博物館(Forsvarsmuseet)所蔵品]]
親衛隊の制服はそのデザインのスマートさから、世界中のミリタリーマニアに非常に人気の高い制服としても知られる。ただし、多くの親衛隊員は戦犯追及される事を怖れ、連合国へ降伏する時に親衛隊の制服を廃棄して国防軍の制服に着替えたので、現存する本物は極めて少数であり、現在入手可能な物はほとんどが戦後に外国で復刻されたレプリカである(ドイツは国内でのナチ賛美に繋がる物品の製造や販売を厳しく規制している。違反した場合は[[民衆扇動罪]]で処罰される。外国からの輸入も例外ではない)。
親衛隊の制服はそのデザインのスマートさから、世界中のミリタリーマニアに非常に人気の高い制服としても知られる。ただし、多くの親衛隊員は戦犯追及される事を怖れ、連合国へ降伏する時に親衛隊の制服を廃棄して国防軍の制服に着替えたので、現存する本物は極めて少数であり、現在入手可能な物はほとんどが戦後に外国で復刻されたレプリカである(ドイツは国内でのナチ賛美に繋がる物品の製造や販売を厳しく規制している。違反した場合は[[民衆扇動罪]]で処罰される。外国からの輸入も例外ではない)。


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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年2月14日 (木) 23:10 (UTC)|section=1|title=出典として使用していないものは記入不要です。}}
{{参照方法|date=2019年2月14日 (木) 23:10 (UTC)|section=1|title=出典として使用していないものは記入不要です。}}
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=阿部良男|authorlink=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[大野英二]]著|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=大野英二|authorlink=大野英二|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・キーガン]]著|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン(1972)}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン|authorlink=ジョン・キーガン|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン(1972)}}
**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン(1985)}}
**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン(1985)}}
*{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}}
*{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}}
*{{Cite book|和書|author=[[エドゥアルト・クランクショウ]]([[:en:Edward Crankshaw|en]])著|translator=[[渡辺修]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}|year=1973|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク(1973)}}
*{{Cite book|和書|author=エドゥアルト・クランクショウ(en)|authorlink=:en:Edward Crankshaw|translator=[[渡辺修]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}|year=1973|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク(1973)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ゲリー・S・グレーバー]]([[:en:Gerry S. Graber|en]])|translator=[[滝川義人]] |year=2000|title=ナチス親衛隊|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887214132|ref=グレーバー(2000)}}
*{{Cite book|和書|author=ゲリー・S・グレーバー(en)|authorlink=:en:Gerry S. Graber|translator=[[滝川義人]] |year=2000|title=ナチス親衛隊|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887214132|ref=グレーバー(2000)}}
*{{Cite book|和書|author=[[オイゲン・コーゴン]]([[:de:Eugen Kogon|de]])著|translator=[[林功三]]|year=2001|title=SS国家 <small>ドイツ強制収容所のシステム</small>|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623033201|ref=コーゴン(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=オイゲン・コーゴ(de)|authorlink=:de:Eugen Kogon|translator=[[林功三]]|year=2001|title=SS国家 <small>ドイツ強制収容所のシステム</small>|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623033201|ref=コーゴン(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=1995|title=武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝(1995)}}
*{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|year=1995|title=武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝(1995)}}
*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=2005|title=武装親衛隊とジェノサイド|publisher=[[有志舎]]|isbn=978-4903426143|ref=芝(2005)}}
*{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|year=2005|title=武装親衛隊とジェノサイド|publisher=[[有志舎]]|isbn=978-4903426143|ref=芝(2005)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ・H・スティン]]([[:en:George H. Stein|en]])|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=2001|title=詳解 武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45</small>|publisher=[[学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン(2001)}}
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研II}}
*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研II}}
*{{Cite book|author=Mark C. Yerger|year=2002|title=Allgemeine-SS|publisher=Schiffer Pub Ltd|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger(2002)}}
*{{Cite book|author=Mark C. Yerger|year=1997|title=Allgemeine-SS|publisher=Schiffer Pub Ltd|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger(1997)}}


== 関連項目 ==
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*[[ダス・シュヴァルツェ・コーア]] - ナチス親衛隊の[[機関紙]]
*[[ダス・シュヴァルツェ・コーア]] - ナチス親衛隊の[[機関紙]]
*[[レーベンスボルン]] - ナチス親衛隊が設置した母性養護ホーム・福祉機関
*[[レーベンスボルン]] - ナチス親衛隊が設置した母性養護ホーム・福祉機関
* [[親衛隊全国指導者名誉長剣]] - ナチス親衛隊員に下賜された剣
*[[親衛隊全国指導者名誉長剣]] - ナチス親衛隊員に下賜された剣
*[[ナチズム]]
*[[ナチズム]]
*[[オデッサ・ファイル]]
*[[オデッサ・ファイル]]
*{{仮リンク|ブルゴーニュ騎士団|en|Order-State of Burgundy}} - ナチス親衛隊によって計画された国
*[[ブルグント騎士団国]] - 親衛隊によって計画された国


{{武装親衛隊師団}}
{{武装親衛隊師団}}
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[[Category:ナチス・ドイツの軍事]]
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親衛隊
Schutzstaffel

ルーン文字で表記した「SS」
別名“黒地に銀の重ね稲妻”


帽章。トーテンコップ(髑髏)
創設 1925年4月4日
廃止 1945年5月8日
所属政体  ドイツ国
 ドイツ国
所属組織 国民社会主義ドイツ労働者党
部隊編制単位 総軍
人員 125万人(1945年2月)
所在地
通称号/略称 SS
標語
忠誠こそ我が名誉
(Meine Ehre heißt Treue)
   【隊歌】
縦ひ全てが背くとも
(Wenn alle untreu werden)
上級単位 突撃隊(1934年まで)
担当地域 ヨーロッパ
戦歴 第二次世界大戦
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親衛隊(しんえいたい、:Schutzstaffel De-Schutzstaffel.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、シュッツシュタッフェル、略号:SS)は、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、主に第一次世界大戦時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。ドイツ語でSchutzが「護衛」「防護」、Staffelが「梯団」「梯隊」を意味する。

概要

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元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。

1929年ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察ゲシュタポ刑事警察)、秩序警察親衛隊情報部強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、反ナチ勢力の弾圧ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所アインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕裁判に掛けられている[1]

隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。

歴史

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前身

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1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった[2]

党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団としては1923年3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である[3][4][5]。この組織は1923年5月に「アドルフ・ヒトラー特攻隊 (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された[5][6][注釈 1]。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり[6][7]、隊長は突撃隊員ユリウス・シュレック退役大尉ドイツ語版とナチ党財務担当ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉ドイツ語版の二人で務めていた[3][4]

ミュンヘン一揆の際、「アドルフ・ヒトラー特攻隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した[8]ウルリヒ・グラーフもヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である[5]。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちにニュルンベルク党大会で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「血染めの党旗ドイツ語版」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている[8]

ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた[8][9]

結成

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1924年12月20日ランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った[10]

ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊(Schutzstaffel)」の名前を与えられた[11][12][13][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[12]

初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。

  • 年齢23歳から35歳まで
  • 2人以上の保証人が立てられる
  • 同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある
  • 健康で頑強な体を持っていること

また、親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[13][14][15]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[8][15]

シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[15]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば、隊員数は1,000人になっていたという[16]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[17]

1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国して、シュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[18][19]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[16][20][21]

1926年11月1日フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)の肩書を得た[19][20][22]

結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[23]1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[23][24][25]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10 %以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[23][26]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[20][21]

勢力拡大

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1929年のハインリヒ・ヒムラー

1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導に任じられた[25][27][28][29][30][31][32]。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1,000人[21][33]1930年末には2,700人[21][33]1931年には1万5000人[34]1932年4月には2万5000人[35]、1932年末には5万人以上になっていた[36][37]

これは1929年10月24日ニューヨークウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[38]。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[21][39]。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした[40]

こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた。ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に突撃隊の下部組織であった[41][42]

ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[43]。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪青い目をしている長身北方人種のことであった[44][45]

農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[43][46]

人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった[38]。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている[47]ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった[17]

クルト・ダリューゲ

1930年7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた[48]。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった[35]

ラインハルト・ハイドリヒ

なおシュテンネスの反乱にはプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した[49]。1931年6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織はSDに改組された。SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった[50]。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった[51]。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた[52][53]

1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権がヒムラーに任せられた[54]。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった[35]。ヒムラーは親衛隊の模範としてイエズス会を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた[55]

突撃隊の前身組織の指揮官でナチ党古参であるエミール・モーリスは一時追放されていたが、1932年の復帰後に親衛隊上級大佐(隊員番号2番)に任命された。

政権掌握後

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隊員数の増加

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時の英外相・サミュエル・ホーア (初代テンプルウッド子爵)に着剣捧げ銃の敬礼を行う親衛隊員(1935年3月24日ベルリン)

1933年1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握した。

日和見主義者達が保身から続々と入党していた[注釈 3] ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが[30]1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた[56]。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった[57]

隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け[58]北方人種の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173 cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際シークレットブーツなどを履いた者もいたという。また、結婚も親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた[59]

旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった[36]。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた[60]

警察権力の掌握

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警察大将のヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント

1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日にハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された[61][62]。さらに4月にはヒムラーがバイエルン州警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった[62]

ベルリン。警察官(左)と一緒にパトロールする補助警察官の親衛隊員(1933年3月5日)

一方ベルリン親衛隊の指導者であるクルト・ダリューゲは、プロイセン州内相に就任したゲーリングと接近してプロイセン州警察特別委員に任じられ、さらにプロイセン州警察中将の階級を与えられていた。2月22日にはゲーリングは突撃隊員2万5000人と親衛隊員1万5000人をプロイセン州の補助警察として採用したが、その指揮はダリューゲに任せられていた[63][64]。ダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになった。1933年春にはハイドリヒがヒムラーからダリューゲ鎮撫のためにベルリンに派遣されたが、ゲシュタポ(プロイセン州秘密警察。当時はゲーリングが長官、ルドルフ・ディールスが局長をしていた)に脅迫されてミュンヘンに追い返されている[65]。ヒムラーとハイドリヒはひとまずプロイセン州やベルリンの「ゲーリング王国」に手を出すのを諦め、バイエルン州で反体制派取り締まりに精を出して実績を上げた。彼らは1933年3月にミュンヘン郊外のダッハウに最初の強制収容所ダッハウ強制収容所を創設している[66]

ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックは独立傾向のプロイセン州内相ゲーリングに対抗するための実力を求め、親衛隊に接近してきた[67]。1933年から1934年初めにかけて強制的同一化と併せて各州の政治警察がヒムラーに任せられていった[67]。しかしドイツの国土の大半を占めるプロイセン州の警察は相変わらず、ゲーリングやディールス、ダリューゲらによって支配され続けた。ヒムラーは、自分とゲーリング、ダリューゲなどの間をふらふらしていたプロイセン州やベルリンの親衛隊員達が自分に乗り換えるよう粘り強く揺さぶりをかけ、「ゲーリング王国」の足腰を弱体化させていった。さらにゲシュタポの指揮権を手に入れるため、ディールスについてヒンデンブルク大統領に讒言して一時ディールスをゲシュタポ局長から失脚させている[68]

ヘルマン・ゲーリングから「ゲシュタポ総監兼長官代理」に任じられたヒムラー(1934年4月20日)

突撃隊の指導者レームとも争うところが多かったゲーリングは親衛隊とこれ以上争うことは得策ではないと判断し、1934年4月20日、ディールスが務めるゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ総監兼長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」を新設し、ヒムラーをこれに任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ヒムラーは、ただちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、1934年4月22日に後任としてハイドリヒをゲシュタポ局長に任じ、彼にゲシュタポの実質的な運営をゆだねた[69][70]。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった。以降、ドイツの政治警察はほぼヒムラーとハイドリヒが掌握するところとなった。

一方突撃隊は政権獲得後に総隊員数400万人(うち武装兵士50万人)を抱え、「第二の国防軍」などと呼ばれるまでになっていたが、権力からは遠ざけられ、しかも深刻な隊員の失業問題を抱えていた。突撃隊員の中には「第二革命」を唱えて貴族階級が軍部を占める国防軍を解体して突撃隊を代わりの正規軍とすべきと主張する者も増え、軍と党の軋轢を強めていた。ヒトラーはいよいよ突撃隊の大掃除を考えるようになった。1934年6月30日、長いナイフの夜においてエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部や反党分子が数百名殺害された。この事件で主導的地位を果たしたのはプロイセン州内相ゲーリング、そしてヒムラーやハイドリヒなど親衛隊の幹部であった。この実績が認められ、1934年7月20日に親衛隊は突撃隊から分離、独立を果たした[71]。また、1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられた敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の監督権もすべて親衛隊に移された。ヒムラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケを強制収容所総監に任じた。アイケは1933年末にダッハウ強制収容所の監視部隊を親衛隊髑髏部隊として組織しており、長いナイフの夜事件の際にも粛清の実行部隊として活躍し、事件後には五個大隊に再編されて各強制収容所に警備部隊として配置されるようになった[72]

事件後、フリック内相はヒムラーやハイドリヒを警戒して、引き続きヒムラーから独立的な姿勢を見せていたダリューゲと接近し、彼を内務省警察局長に任命した。さらにヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えた[73]。しかしヒトラーのヒムラー達への信任はすでに盤石なものとなっており、フリックとダリューゲでは抗いきれず、1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官に任じることとなった。以降フリックの内相としての地位は形式的なものとなっていった。

ヒムラーと国家保安本部幹部たち。左からフランツ・フーバーゲシュタポ高官)、アルトゥール・ネーベクリポ局長)、ヒムラー(親衛隊全国指導者)、ハイドリヒ(国家保安本部長官)、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)(1939年11月、ミュンヘン

ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は秩序警察(オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は保安警察(ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメイソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人過激派黒色戦線ナチス左派オットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[70]

さらに1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者(Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた[74]

1939年9月、ハイドリヒは政治警察活動の重複を避けるために党機関であるSDと国家機関である保安警察を一つの傘の下に束ねた。それが親衛隊の国家保安本部である。SDは第III局(SD国内諜報)とVI局(SD国外諜報)に、秘密警察(ゲシュタポ)は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。III局はオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、IV局は「ゲシュタポ・ミュラー」と呼ばれたハインリヒ・ミュラー親衛隊中将、V局はアルトゥール・ネーベ親衛隊中将、VI局は30歳で親衛隊少将兼警察少将となったヴァルター・シェレンベルクが指揮した。第二次世界大戦後期には国防軍の諜報部であったはずのアプヴェーアが国家保安本部VI局に組み込まれ、ドイツの対外諜報活動はすべて国家保安本部が管轄するところとなった。

占領下のポーランドで家宅捜索に出動するSD隊員(1939年)
ウクライナイヴァンホロドで子供を抱くユダヤ人女性を銃殺するアインザッツグルッペンの隊員(1942年)

戦時中に国家保安本部はホロコーストの執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒがヴァンゼー会議を開催し、ラインハルト作戦を策定してベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線ではアインザッツグルッペンを組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行った。

ポーランドクルニクで市民を銃殺するアインザッツグルッペン(1939年)

1942年6月にエンスラポイド作戦でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハが長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からはエルンスト・カルテンブルンナーが後任に任じられて国家保安本部長官となった。

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという[注釈 4][75]

経済活動

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ヒムラーは党の政権獲得前から親衛隊の後援会員(FM)の拡大を目指していた。後援会員は親衛隊に資金を提供するが加入はしないシンパのメンバーである。親衛隊の各連隊はそれぞれの後援会を所持しており、隊員には少なくとも一人の後援会員を確保することが命じられていた。1932年の時点では後援会員数は1万3000人にとどまっているが、政権獲得後に一気に後援会員数が増大し、1933年には16万7000人まで伸ばし、さらに1934年には34万2000人に達した[76]。1932年夏にヒトラーの経済顧問ヴィルヘルム・ケプラーWilhelm Keppler)が創設した「経済問題研究委員会」は、1934年半ばに親衛隊に取り込まれて「親衛隊全国指導者友の会(Freundeskreis Reichsführer SS)」となったが、これは親衛隊の後援会の中でも頂点に位置するものであった。ここにはIGファルベンの幹部ハインリヒ・ビューテフィシュHeinrich Bütefisch)、大財閥フリックフリードリヒ・フリックFriedrich Flick)、大手食品会社ドクター・エトカーリヒャルト・カゼロウスキーRichard Kaselowsky)、ドレスナー銀行エミール・ハインリヒ・マイヤーEmil Heinrich Meyer)、ドイツ銀行カール・リッター・フォン・ハルトKarl Ritter von Halt)、ジーメンス・シュケルトルドルフ・ビンゲルRudolf Bingel)、J.H.シュタイン銀行J. H. Stein Bank)のクルト・フォン・シュレーダー男爵Kurt Freiherr von Schröder)、国営企業ヘルマン・ゲーリングReichswerke Hermann Göring)のヴィルヘルム・フォスWilhelm Voss)などそうそうたる財界重鎮が集まった。後援会員はヒトラーへの宣誓も義務付けられず、親衛隊から命令を受けることも制服の着用義務もなく、金銭面のみで親衛隊とつながった人々だった。しかし親衛隊の間違いのない財源であり、重要な存在であった[77]。ヒムラーは後援会員にもしばしば親衛隊名誉指導者として親衛隊の階級を与えるようになった。これにより親衛隊に「親衛隊の魂」を持たぬ者が大量に流れ込むこととなり、旧来からの隊員たちを戸惑わせたという。

しかし後援会の存在により資金を大量に獲得できた親衛隊はドイツの「企業体」のひとつともなっていった。親衛隊は500にも及ぶ企業の経営を行っていた。中でも「ドイツ土石工業社(Deutsche Erde und Steinwerke:略称DEST)」が親衛隊企業としてはもっとも成功した企業である。DESTの主な仕事は3つあり、1つに採石場の開発および天然石の産出、1つに煉瓦クリンカーの生産、1つに道路工事の請負であった。作業員には強制収容所の囚人が駆り出されていた。「ドイツ装備工業社(Deutsche Ausrüstungswerke:略称DAW)」も有名である。各地の強制収容所に生産集中化のために設置され、収容所の囚人を使って弾薬箱、弾倉箱、火砲、その他軍用品の生産にあたっていた。1940年6月に設置された「繊維皮革事業団(Gesellschaft fur Textil und Lederverwertung)」も高い収益を上げた。武装親衛隊の軍服を生産する会社で、主に女囚を働かせていた。いずれの会社も囚人たちを労働条件などまともに考えることもなく、文字通り倒れるまで酷使した[78]

これら親衛隊企業は親衛隊経済部門の長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将の下でまとめられていた。このなかでヒムラーは磁器製造会社の経営に強く関心を示した。彼がちょくちょく経営に口を出していたこの会社は常に赤字であったが、ヒムラーは最後まで経営をやめなかった[79]。他の親衛隊企業も戦前期には赤字かあまり利益を上げず、戦時中になってようやく利益を上げるようになるところが多かった。

軍事組織に

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1942年3月、東部戦線第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」
1942年6月、東部戦線で録音を行う武装SS報道員
親衛隊の戦車兵将校、エルンスト=ヨハン・テッチュSS大尉。陸軍とは徽章が違うほか、戦車搭乗服のデザインも微妙に異なる

ヒトラーは、軍の枠組みにとらわれず、自らの意志で自由に動かせる軍隊を欲していた。レームの突撃隊は党独自の私軍であったが、レーム以下突撃隊幹部は政権掌握後に突撃隊を正規軍にすることを望み、国軍(Reichswehr)と睨みあっていた。国軍と突撃隊を和解させようとするヒトラーを日和見主義者と見なす反ヒトラー派も増えており、「ヒトラーの私軍」になりうる余地はなかった。

突撃隊幹部は、1934年6月末から7月初めにかけて長いナイフの夜において粛清された。粛清に主導的役割を果たした親衛隊は国軍から高い評価を得るようになった。ヒトラーはこれを利用して親衛隊の中に軍隊を設置させる道を模索した。実際に国軍の親衛隊への反感は突撃隊へのそれより少なく、長いナイフの夜直後の1934年7月5日に国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは一個師団規模の軍隊の所持を親衛隊に認める旨を軍司令官たちに通達している。9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつも親衛隊が内政上特別な役割を果たすためとして武装した親衛隊部隊を3連隊と1通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊の戦闘部隊「親衛隊特務部隊」であった。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍人手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。しかしこの時点では国軍の感情も配慮して特務部隊は戦力を3個連隊と1通信隊に限定され、師団編成の許可は見送られている。

特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年に国防軍(Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・トェルツに親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年にはブラウンシュヴァイクにも親衛隊士官学校が開設された[80]。特務部隊の軍事教練にはパウル・ハウサー(1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた。

同時に一般の軍人が注目の対象とはしないが軍事的可能性が高いと思われる技術分野に対する研究支援や研究者の囲い込みが行われていった。この活動によって戦時中における秘匿性の高い軍事計画に親衛隊が関わるようになった。

しかし国防軍は親衛隊の軍隊化を徐々に警戒するようになりはじめた。国防軍は特務部隊勤務を国防軍勤務相当であることを認めたが、1938年8月17日のヒトラーの指令が出されるまで髑髏部隊や親衛隊士官学校については国防軍勤務相当とは認めなかった。兵員補充についても国防軍から常に圧力があり、マスメディアを通じての隊員募集も国防軍から禁止されていた。そのため特務部隊隊員数は1935年1月に約5000名、1935年4月に約7600名、1936年夏に約9200名と小さな伸びにとどまっている。親衛隊の国境部隊も1937年10月に国防軍の圧力により解散させられている[81]。国外諜報活動をめぐっても国防軍のアプヴェーアと親衛隊のSDに争いがあった。

1938年に入り、ブロンベルクの妻の売春婦疑惑と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュの同性愛疑惑が浮上した。これが原因で1938年2月4日にブロンベルクとフリッチュが罷免された(ブロンベルク罷免事件)。ブロンベルクの妻などの証言によるとこのスキャンダル事件はハイドリヒがでっち上げた策謀であったという。いずれにしてもこの事件により国防軍は政府内での発言力を低下させた。依然として軍事における主導権は国防軍が握っていたが、親衛隊の軍事への進出をある程度は黙認せざるを得ない立場に置かれた。1938年8月17日、ヒトラーは秘密指令を出し、親衛隊士官学校や髑髏部隊にも武装編成を認めた。これにより髑髏部隊は親衛隊特務部隊の重要な人材供給源となっていた。

1939年5月の演習で親衛隊特務部隊「ドイッチュラント」連隊は、ヒトラーや国防軍の軍部達も驚かせるほどの果敢な突撃作戦を見せつけた。ヒトラーは「このような突撃は親衛隊の兵士たちでなければなしえない」と称賛し、5月18日に2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。もはや国防軍も積極的反対はしなかったが、「砲兵連隊がない親衛隊特務部隊に師団編成は時期尚早」と消極的に反対したため、親衛隊特務部隊の師団編成は延期された。これを聞いたヒムラーは砲兵連隊の編成を急がせたが、1939年9月のポーランド侵攻には間に合わなかった。この戦争に動員された親衛隊特務部隊は連隊編成のまま参加し、ポーランド侵攻後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。親衛隊特務部隊3連隊はパウル・ハウサーを師団長とするSS特務師団(のち「ダス・ライヒ」師団と改称)にまとめられた。また親衛隊髑髏部隊員から抽出した髑髏師団秩序警察の警察官より抽出した警察師団も編成された。1939年末には髑髏師団や警察師団抜きで親衛隊特務部隊の隊員数は5万6000人を超えていた[82]

西方作戦を前にした1940年4月22日、親衛隊特務部隊は親衛隊作戦本部の司令により武装親衛隊と名称を変えている。1940年11月には「ノルト」師団(のち「ヴィーキング」師団と改称)が編成された。以降も続々と師団が編成され、大戦を通じて武装親衛隊は38個師団90万の兵力を有するまでに成長した。新兵器の優先供給を受けエリート部隊として、崩壊の危機にさらされる最前線の火消し役として国防陸軍に勝る働きを見せることとなる。しかし、実際の戦闘訓練を十分に受けていなかったために戦死者も多かった。この傾向は特務部隊時代からでポーランド戦では国防軍の損害率が3%であったのに対して親衛隊特務部隊は8%に昇っていることからも窺える[83]。ヒムラーはこうした親衛隊特務部隊や武装親衛隊の損害率の高さについては国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるためと釈明していた。

西方戦でも勇戦した武装親衛隊だったが、やはり犠牲者が多く、1940年末頃から占領地域に住むドイツ系外国人の募集が本格化された[84]。武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である親衛隊大将ゴットロープ・ベルガーが主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層やドイツ系外国人などを盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装親衛隊に勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れに懸念があったが、ベルガーに説得された。独ソ戦の開始で戦線が大幅に拡大すると外国人の受け入れもやむなしの状況となった。武装親衛隊の中にはボスニアイスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した(第13SS武装山岳師団)。

なお特務部隊や武装親衛隊のような軍属ではない親衛隊員は区別のために一般親衛隊と呼ばれていた。国家保安本部に代表される一般親衛隊はホロコーストの執行機関として悪名高く、終戦後、武装親衛隊のトップであるヨーゼフ・ディートリヒやハウサーらは「我々は国防軍と変わらない、国のために戦った兵士達の集団である」として一般親衛隊とはまったく別個の存在であるという主張を展開した。

しかしながら、本質的に武装親衛隊の兵力供給源は(大戦末期の外国人部隊を除けば)一般親衛隊の隊員であり、武装親衛隊の高官は一般親衛隊や警察の階級も合わせて任官していることが通例であった。特に武装親衛隊第3SS装甲師団は強制収容所の維持にあたっていた親衛隊髑髏部隊からそのまま抽出されていた。

戦局の悪化とともに親衛隊は国防軍に対して優位を確立していった。1944年2月には国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将の失脚に伴ってアプヴェーアの機能は親衛隊の国家保安本部のSDに吸収された。さらに1944年7月20日、国防軍将校らによるヒトラー暗殺未遂事件が発生するとハインリヒ・ヒムラーは国内予備軍司令官に任じられた。さらに陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊の手に移されている。

終焉

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ダッハウの虐殺アメリカ軍に虐殺される親衛隊員(1945年4月29日)
自殺後のヒムラー

ドイツの敗戦後、ヒムラーはじめ親衛隊員たちの多くが連合軍の捕虜となった。ヒムラーは取り調べ中に自殺した。連合国による非人道的行為への追及やユダヤ人組織による復讐を恐れた親衛隊員は死亡を装ってバチカンの連絡組織やオデッサと呼ばれる支援ネットワークを通じて海外に逃亡するようになった。

中には祖国ドイツからの逃亡をもくろむUボート部隊に紛れ込んで姿をくらましたものもいたようである。

同時に、多様かつ先進的な秘密兵器開発に関わっていた親衛隊員や親衛隊所属の科学者に対し、アメリカの軍需産業による亡命支援や庇護も行われた。ヒトラーの信頼を得て、最先端の軍事研究計画の保安や情報管理を任されてきた経緯もあり、庇護を受けた彼らによってもたらされる科学情報も多かったと推察される(ペーパークリップ作戦)。

ヨシフ・スターリンの台頭に危機感をもつアメリカは、ソ連通の親衛隊員をゲーレン機関に参加させるようになった。このゲーレン機関は親衛隊員たちにとってドイツ国内に残れる最も好都合な逃げ道だった。ゲーレン機関は戦後西ドイツ政府の諜報機関BNDとなった。

一方、アドルフ・アイヒマンヨーゼフ・メンゲレエーリヒ・プリーブケエドゥアルト・ロシュマンなどソ連通ではない戦犯たちはナチ・ハンターモサドの追跡からかいくぐるために外国へ逃げるしかなかった。親独的なアルゼンチンやその他ラテンアメリカ諸国、またアロイス・ブルンナーのように反イスラエルの立場を取るシリアなどアラブ諸国に渡っていった者もいる。これらの中には現地の治安・諜報機関の養成に関与した者もいれば、完全に消息不明になった者もいる。

組織

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中央組織

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親衛隊の中央組織は時期によって変遷があるが、基本的には本部(Hauptamt) が置かれ、その下に各部署が置かれる形になっていた。ヒムラーが全ドイツ警察長官、ドイツ民族性強化国家委員、内相などの国家の役職を兼任するようになると国家機関も親衛隊の機関として含まれるようになった。最終的には12の本部が存在した。

親衛隊全国指導者個人幕僚部

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親衛隊全国指導者個人幕僚部Persönlicher Stab Reichsführer SS、略称Pers,Stab RfSS)は、1936年にカール・ヴォルフSS少将(当時。後に大将)の下にあった親衛隊司令部が改組されて誕生した。1939年に本部 (Hauptamt) に昇格している[85]。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの個人的な幕僚達で構成された部である。長官は一貫してカール・ヴォルフSS大将が務めた。ヴォルフはヒムラーとの関係を悪くして1943年にイタリアへ送られているが、親衛隊全国指導者個人幕僚部長官の地位は敗戦まで保持している。アーネンエルベ生命の泉協会などの親衛隊組織が親衛隊全国指導者個人幕僚部の傘下に置かれていた。親衛隊名誉指導者もこの部の下に配置されていた。

親衛隊本部

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親衛隊本部(SS Hauptamt、略称SS-HA)はもともとSDを除くすべての親衛隊機関の事務を担当していた。人事に財政にとその職務は広範囲に及んだ。武装親衛隊の前身である親衛隊特務部隊や強制収容所の警備部隊親衛隊髑髏部隊ももともとこの本部の傘下に置かれていた。しかし親衛隊本部の仕事はあまりに膨大であったため、この本部からいくつかの事務が切り離されて3つの本部(親衛隊作戦本部、親衛隊人事本部、親衛隊経済管理本部)が独立することになった[85]。戦時中に親衛隊本部は親衛隊(特に武装親衛隊)の隊員の募集と採用を主な任務とする機関となっていた[86]クルト・ヴィットイエSS中将 (Curt Wittje)、アウグスト・ハイスマイヤーSS大将、ゴットロープ・ベルガーSS大将が長官を務めた。

親衛隊作戦本部

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親衛隊作戦本部(SS Führungshauptamt、略称SS-FHA)は1940年8月15日に親衛隊本部から分離して設置された[87]。一般SSと武装SSの司令部を傘下に入れている本部である[88]。武装SSの「総司令部」の役割を期待されて創設された。戦闘の際には武装SSは国防軍の指揮を受けたが、それ以外の際には親衛隊作戦本部の指揮下にあった。武装SSの医療や兵站は作戦本部が担っていた。隊員訓練も作戦本部が行い、SS士官学校も作戦本部により運営されていた。ハンス・ユットナーSS大将が長官を務めた。

親衛隊人事本部

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親衛隊人事本部SS Personalhauptamt)は、親衛隊の人事を管轄とした部署。親衛隊本部から人事に関する事務が切り離されて誕生した。長官はヴァルター・シュミットSS大将(Walter Schmitt)、マキシミリアン・フォン・ヘルフSS大将が務めた。このマキシミリアン・フォン・ヘルフは陸軍大佐だった人物で北アフリカで勇戦している。12本部の長官たちの中では唯一の貴族出身者にして騎士鉄十字章叙勲者である(秩序警察長官代理アルフレート・ヴェンネンベルク除く)。

国家保安本部

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国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である保安警察ゲシュタポ刑事警察)と親衛隊のSD本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラーが長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。

また国家保安本部は戦時中にドイツ占領地各地に「保安警察及びSD司令官」を設置していた。ハインリヒ・ヒムラーの設置した「親衛隊及び警察高級指導者」に対抗したものであった[70]。多くはアインザッツグルッペンの指揮官と兼務となっていた。

秩序警察本部

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秩序警察本部(Hauptamt Ordungspolizei、略称OrPo)。政治警察を除いたすべての警察を指揮する秩序警察を親衛隊の本部にしたもの。長官はクルト・ダリューゲSS上級大将が務めていたが、1943年に心筋梗塞で重体になり、代わりに長官代理としてアルフレート・ヴェンネンベルク警察大将が置かれることとなった[48]

親衛隊法務本部

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親衛隊法務本部 (Hauptamt SS-Gericht) は、SS裁判所を傘下に収める本部であり、規則に反した親衛隊員の懲戒処分を決定する。長官はパウル・シャルフェSS大将 (Paul Scharfe)、フランツ・ブライトハウプトSS大将 (Franz Breithaupt)、ギュンター・ライネッケSS上級大佐(Günther Reinecke)が務めた。

ハイスマイヤー親衛隊大将本部

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ハイスマイヤー親衛隊大将本部 (Hauptamt Dienststelle SS-Obergruppenführer Heißmeyer) は、政治教育を行うナポラ (Nationalpolitische Erziehungsanstalt) の監督を行う本部である。長官はアウグスト・ハイスマイヤーSS大将が務めた。

親衛隊人種及び移住本部

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親衛隊人種及び移住本部(Rasse- und Siedlungshauptamt der SS、略称RuSHA)は、親衛隊員がゲルマン人種の純血を保つこと、また東方に入植させることを目的とする。1931年に創設され、1935年に本部 (Hauptamt) に昇格した。親衛隊員が結婚するためにはこの部署の許可を必要とした。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された[89]。長官は、リヒャルト・ヴァルター・ダレSS中将(当時)、ギュンター・パンケSS少将(当時)(Günther Pancke)、オットー・ホフマンSS中将(当時)、リヒャルト・ヒルデブラントSS大将が務めた。

ドイツ民族性強化国家委員会

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ドイツ民族性強化国家委員会(Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums、略称RKFDV)は、1939年10月7日にハインリヒ・ヒムラーがヒトラーより「ドイツ民族性強化国家委員」に任命されたことにより設置された官庁である。親衛隊の本部のひとつとなった。ナチス・ドイツは占領した地域をドイツ化することを目指していた。そのためのドイツ人の再植民などを担当するのがこの部署であった。長官はウルリヒ・グライフェルトSS大将が務めた。

ドイツ民族対策本部

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ドイツ民族対策本部(Hauptamt Volksdeutsche Mittelstelle、略称VOMI)は、東欧諸国や旧ドイツ植民地から民族ドイツ人の帰国を支援するための組織である。またドイツ人の再植民にもあたった。この面においてドイツ民族性強化国家委員会と似た役割を担うが、こちらは特に再植民の技術面や組織面を担当し、一方、民族性強化国家委員会の方は計画と執行を担当した[90]。長官はヴェルナー・ローレンツSS大将が務めた。

親衛隊経済管理本部

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親衛隊経済管理本部(Wirtschafts- und Verwaltungshauptamt、略称WVHA)は、親衛隊の財政を管理する本部。長官はオズヴァルト・ポールSS大将。前身は1939年6月に親衛隊本部から独立する形で創設された「経済および管理本部」(Hauptamt Verwaltung und Wirtschaft) と「予算および建設本部」(Hauptamt Haushalt und Bauten) である。1942年2月1日にこの2つの本部が統合されて誕生したのが親衛隊経済管理本部である。親衛隊の企業の経営の監督や強制収容所の運営の監督などを行った。また大戦末期にはV2ロケットの生産の監督は陸軍から親衛隊経済管理本部C局のハンス・カムラーSS大将の下に移されている。親衛隊経済管理本部は以下のように編成されていた。

地方組織

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親衛隊はドイツ全土に地区区分を行い、その地区ごとに指導者 (Führer) を任命して親衛隊の地方組織の管理をさせた。親衛隊の地区区分は、もともと突撃隊 (SA) にならって親衛隊集団 (SS-Gruppen) の下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) を置く形で区分されていた。しかし1933年に親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) が新設され、その下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) が置かれる形に変更された。それぞれの親衛隊地区には親衛隊連隊 (SS-Standarten)、親衛隊大隊 (SS-Obersturmbanne)、親衛隊中隊 (SS-Sturmbanne) が属していた。こうした親衛隊地方組織は中央組織から監督と指令を受けた。

親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) は1933年の段階で12個存在していた。1938年には14個になり、さらに1941年には19個置かれた[91]。1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者」(Höhere SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)をドイツの各地域に設置したが、親衛隊上級地区の指導者がこれを兼務するのが通例であった。「親衛隊地区指導者」は一部を除いてドイツ国内にのみ設置されていたが、「親衛隊及び警察高級指導者」は第二次世界大戦中のドイツ国防軍占領地域にも設置されていた。

親衛隊員について

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親衛隊員の入隊の流れ

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親衛隊の採用基準は特にナチス党政権掌握後から第二次世界大戦開戦前までに厳しかった。親衛隊員となるためにはまず親衛隊人種及び移住本部 (RuSHA) の人種委員会の選考を通る必要があった。人種委員会には以下のような人種観があった。

  1. 純粋北方人種
  2. 圧倒的に北方人種であるかファーレン人種
  3. 基本的に先の2つの人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種
  4. 東方(=東欧)系。もしくはアルプス系混血
  5. ヨーロッパ人以外の外人種との混血

このうち親衛隊員として選考対象になりうるのは1と2、少なくとも3までとされていた。さらに身長が最低170センチ(親衛隊特務部隊は更に4センチ加算)、上限30歳(特務部隊は23歳)、体格といった基準があった。血統が1650年辺りにまでアーリアの祖先を遡れる事、などの基準もあったが、この基準は厳しすぎたため、1936年に「1800年」に引き下げられ、さらに1937年には二代前まで引き下げられている。

親衛隊ではこうした人種的、肉体的採用基準のみが重視され、一般的な組織における採用基準となりやすい知的能力については何の基準も存在しなかった。採用試験に合格した後も親衛隊候補生 (SS-Anwärter) として訓練と試験が行われた。11月9日のミュンヘン一揆記念日に襟章なしの親衛隊制服の着用を許され、志願兵として認められた。続いて1月30日のナチス党政権掌握記念日に仮隊員証が授与された。そして4月20日の総統誕生日に正式に入隊宣言とともに襟章と正式な隊員章が授与された。その際の入隊宣言は次の通りであった[92][93]

私はドイツ国首相たるアドルフ・ヒトラーに忠誠と勇気を誓う。私は総統と総統に任命された上官に生涯の服従を誓う。神のご加護のあらんことを。

この後、10月1日の正式入隊日までにドイツ国家スポーツ記章 (Deutsches Reichssportabzeichen) を授与され、さらに教義問答を受ける必要があった。次のような問答であった[94]

<問>何故我らはドイツを信じ、総統を信じるのか?
<答>我らが神を信じるからである。ドイツは神によって神の地に作られた国家であり、総統アドルフ・ヒトラーは神が我らにつかわした人だからである。
<問>我らは誰のために働くのか?
<答>我が国民と総統アドルフ・ヒトラーのためである。
<問>我らは何故服従するのか?
<答>我らの信念ゆえに。ドイツ・総統・国家社会主義運動・SSを信じるゆえに。また我が忠誠ゆえに。

10月1日の入隊後、国防軍での訓練期間を経ることになる。国防軍での成績が良好の場合、一か月以内に親衛隊に編入された。二度目の11月9日には自分と自分の子孫が1931年12月31日に制定された親衛隊の結婚条例(親衛隊全国指導者もしくはRuSHAが許可した「人種的に問題がなく、また遺伝的な病気のない健康的血統」の女性とのみ結婚すること)を守ることを宣誓した。この宣誓をした隊員にはようやく「Meine Ehre heißt Treue(忠誠こそわが名誉)」の文字の入ったSS短剣が授与されるのであった。

若き幹部達

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親衛隊の人事規則には親衛隊中将以上には原則として45歳以上、親衛隊准将は40歳以上、親衛隊大佐は35歳以上、親衛隊少佐は30歳以上という年齢制限が定められていた。しかし実際にはこの年齢より若くしてその階級に達している者が多い。1939年1月時点で親衛隊大将は11名いたが、うち6名は44歳以下であった。同じく親衛隊中将は23名いたが、うち12名が44歳以下であった[95]。他の軍隊組織と比較すればナチス親衛隊の幹部の若さは群を抜いていた。

最も若くして昇りつめたのはフリッツ・ヴァイツェル (Fritz Weitzel) という若い古参党員である。彼は1931年に27歳で親衛隊中将となり、1934年に30歳で親衛隊大将に昇進している。なお親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーも28歳という若さで親衛隊全国指導者となっている。

世代別にみると1894年から1900年生まれが親衛隊大将の半数以上を占めており、最も多いのは1896年生まれである[95]。以下は主な親衛隊大将の年齢に関する表である。

名前 生年 SS入隊(年齢) 少将昇進(年齢) 中将昇進(年齢) 大将昇進(年齢)
パウル・ハウサー 1880年 1934年(54歳) 1936年(55歳) 1939年(58歳) 1941年(60歳)
ヨーゼフ・ディートリヒ 1892年 1928年(35歳) - 1931年(39歳) 1934年(42歳)
テオドール・アイケ 1892年 1930年(37歳) 1934年(41歳) 1934年(41歳) 1942年(49歳)
ヴィルヘルム・ビットリヒ 1894年 1932年(38歳) 1941年(47歳) 1943年(49歳) 1944年(50歳)
ヨシアス・ツー・ヴァルデック 1896年 1930年(33歳) - 1932年(35歳) 1936年(36歳)
フェリックス・シュタイナー 1896年 1935年(39歳) 1940年(44歳) 1942年(45歳) 1944年(48歳)
ゴットロープ・ベルガー 1896年 1936年(39歳) 1939年(42歳) 1941年(44歳) 1943年(46歳)
クルト・ダリューゲ 1897年 1930年(32歳) 1931年(33歳) 1932年(34歳) 1934年(36歳)
ヘルベルト・オットー・ギレ 1897年 1931年(34歳) 1942年(45歳) 1943年(46歳) 1944年(47歳)
エーリヒ・フォン・デム・バッハ 1899年 1931年(31歳) 1933年(34歳) 1934年(35歳) 1941年(42歳)
カール・ヴォルフ 1900年 1931年(31歳) 1935年(35歳) 1937年(36歳) 1942年(41歳)
エルンスト・カルテンブルンナー 1903年 1932年(29歳) 1938年(34歳) 1938年(34歳) 1943年(39歳)
ヴェルナー・ベスト 1903年 1931年(28歳) 1939年(35歳) 1942年(39歳) 1944年(40歳)
ラインハルト・ハイドリヒ 1904年 1931年(27歳) 1933年(29歳) 1934年(30歳) 1941年(37歳)

親衛隊員の入れ墨

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親衛隊員は医療識別票として左の腋下に血液型入れ墨した。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想のためである。ただし、その入れ墨は親衛隊員であった動かぬ証拠となり、戦後、刑事責任追及のための身柄確保に役立つこととなった。現在でもナチ・ハンターはこの入れ墨及びそれを消した瘢痕を犯人性判断のための最大の間接事実としている。

旧王族・貴族層の親衛隊員

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親衛隊にはドイツ帝国領邦の旧王族や貴族が多数参加していた。王族・貴族層は親衛隊の中に決して少なくなく、1938年の時点で親衛隊大将の18.7%、親衛隊中将の9.8%、親衛隊少将の14.3%、親衛隊大佐の8.4%を占めていた[96]。たとえば下のような者達がいた。

思想

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人種観

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ヒトラーは『我が闘争』の中で左翼政党、金融資本、国民経済空洞化、議会主義自由主義平和主義など「ドイツ労働者を墜落させる」要素はすべてユダヤ人の世界陰謀であり、全ての歴史は「文化創造人種アーリア人VS文化破壊人種ユダヤ人」という文脈で捉えられると主張していた[97][要文献特定詳細情報]

親衛隊もこのヒトラーの思想を受け継いでいた。親衛隊の人種理論を立てていたリヒャルト・ヴァルター・ダレは「歴史上の偉大な帝国や文明はほとんどが北方人種によって作られ、維持されてきた。これらの帝国が滅びたのはそれを作った北方人種の血が守られなかったためだ」と主張し、北方人種の血を守るために有害なユダヤ人、フリーメーソン、キリスト教会などを排除する必要性を訴えた[98]

親衛隊員の世界観教育ははじめ親衛隊人種及び移住本部が所管していたことから人種教育に力を入れていたことが分かる。しかし人種関連の講義は隊員から人気がなく、形骸化していったため、世界観教育は後に親衛隊本部の所管となった[99]

宗教観

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親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊の隊員をキリスト教から切り離し、古代ゲルマン異教思想を持たせることに努めた。婚姻条例において隊員の結婚式をキリスト教会で行うことを禁じ、親衛隊の部隊において結婚式を執り行わせた。その結婚式では上官の親衛隊将校が牧師の代わりを務めた[100]。またクリスマスを祝う習慣を無くすべく、冬至祭(ユール)を祝うことを奨励した[101]

1934年7月にはフン族の攻撃を防いだと言われるヴェーヴェルスブルク英語版の古城が親衛隊に購入された。ヒムラーはこの城に『アーサー王物語』や『円卓の騎士』に強い影響を受けた大改築を行い、ここをゲルマン異教の儀式の中心地にしようとした[102][103]。親衛隊幹部はこの城のヒムラーとともに数時間の瞑想を強要されたという[104]。1935年にはヒムラーの主導で「ユダヤ=ボルシェヴィキから北方インド=ゲルマン人種を守るための研究機関」としてアーネンエルベが創設された。ここではヒムラーの異教思想を科学的に実証しようと試みられた[105]

しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されていった。1935年には婚姻条例に反した隊員は親衛隊から追放するとしていたが、1937年には人種条項に反した結婚でなければ、それ以外の婚姻条例に違反していたとしても必ずしも追放されないと修正された。さらに1940年には人種条項以外の規定のために追放された隊員は人種条項に反していなければ再入隊が認められるとも定められた[101]

一般親衛隊は3分の2が変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリック司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリヒのように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[101]

ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、ヨーゼフ・ゲッベルスは1935年8月21日の日記に「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている[106]。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった[107]

制服

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親衛隊の黒服制服。ノルウェーのロフォーテン戦争記念博物館にて
武装親衛隊将校の野戦服。ノルウェー軍博物館(Forsvarsmuseet)所蔵品

親衛隊の制服はそのデザインのスマートさから、世界中のミリタリーマニアに非常に人気の高い制服としても知られる。ただし、多くの親衛隊員は戦犯追及される事を怖れ、連合国へ降伏する時に親衛隊の制服を廃棄して国防軍の制服に着替えたので、現存する本物は極めて少数であり、現在入手可能な物はほとんどが戦後に外国で復刻されたレプリカである(ドイツは国内でのナチ賛美に繋がる物品の製造や販売を厳しく規制している。違反した場合は民衆扇動罪で処罰される。外国からの輸入も例外ではない)。

親衛隊は1932年まで突撃隊と同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツはSAと同じで褐色だったが、ケピ帽やネクタイ、ズボンなどは黒を基調とした[108][109]。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽に髑髏(トーテンコップ)の徽章を入れていることである[109][110]。髑髏は最初期からずっと親衛隊の徽章であり続けた[111][要文献特定詳細情報]。ドイツにおける髑髏は、もともとプロイセン王国第1近衛軽騎兵連隊(de)と第2近衛軽騎兵連隊(de)が「死を恐れぬ軍人」という意味で採用した事に始まる。以降ドイツにおいて髑髏はエリート部隊の意味合いを持つようになった[112]。当初親衛隊は下顎がない伝統的な髑髏を使用していたが、1934年にドイツ陸軍が機甲師団を編成し、戦車兵の制服の襟章に親衛隊の物と同じプロイセン時代からの髑髏を使用するようになったため、混同されないよう親衛隊の髑髏の形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった[112][113]。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。

1932年7月7日に制服が大きく改訂され、親衛隊の制服として有名な「黒服」が定められた。フラップポケットが上下に2つずつ4個付いた黒い背広服を着用し、右肩のみに肩章があるのが特徴的であった。制帽はケピ帽から軍帽型の帽子に変更されたが、髑髏の徽章は引き続き使用された[114]。「黒服」のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の近衛軽騎兵である。「黒」は神聖ローマ帝国プロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。

1937年に親衛隊特務部隊(武装親衛隊)と親衛隊髑髏部隊用にドイツ陸軍の野戦服を参考にしてフィールドグレーの野戦服が導入された。これは詰襟でも開襟でも着ることができた[115]

1938年から一般親衛隊の本部に勤務する常勤隊員用に「フィールドグレーの制服」が導入された[116]。「黒服」と大体同型であるが、「黒服」が右肩にのみ肩章があるのに対して「フィールドグレーの制服」は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった[117]

親衛隊の制服は右襟の徽章とカフタイトル(袖章)でもって所属部隊や所管などを示し、左襟の徽章で階級を示した(ただし親衛隊大佐以上の階級の者は左右両襟は対称の柏葉による階級章になっており、襟章は階級のみを示すものだった)。肩章もあったが、一般親衛隊においては肩章は下士官兵卒、尉官、佐官、将官という大雑把な区別をするための物であり、正確な階級は襟章で示した。しかし1938年以降の親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては肩章でも階級を示していた[118]

脚注

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注釈

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  1. ^ 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧エアハルト海兵旅団とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。
  2. ^ グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると、1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。
  3. ^ 彼ら普通党員章保持者は古参の黄金ナチ党員バッジ保持者から蔑まれることになる。
  4. ^ V2ロケットの開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。

出典

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参考文献

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関連項目

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