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'''ピエール・デュポン'''([[1765年]][[7月4日]] - [[1840年]][[3月9日]])は[[フランス革命戦争]]及び[[ナポレオン戦争]]期、[[フランス復古王政]]期のフランス軍人。兄の[[:fr:Pierre Antoine Dupont-Chaumont|ピエール・アントワーヌ・デュポン]]と共にフランス軍の将軍となった。
'''ピエール・デュポン'''({{lang-fr-short|Pierre-Antoine, comte Dupont de l'Étang}}, [[1765年]][[7月4日]] - [[1840年]][[3月9日]])は[[フランス革命戦争]]及び[[ナポレオン戦争]]期、[[フランス復古王政]]期のフランス軍人。兄の[[:fr:Pierre Antoine Dupont-Chaumont|ピエール・アントワーヌ・デュポン=ショーモン]]と共にフランス軍の将軍となった。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== フランス革命戦争まで ===
=== フランス革命戦争まで ===
[[シャラント県]][[シャバネ]]で生まれた彼は1784年にフランス軍に入隊し少尉となり、その後[[マイユボワ]]の[[砲兵]]隊の中尉となった。この頃はオランダで[[プロイセン]]と対峙した。1791年7月21日に[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー]]の指揮下の[[歩兵]]第12連隊に所属した。同年10月10日には[[リール (フランス)|リール]]の[[シャルルフランソワ・デュムリエ]]([[:fr:Charles-François Dumouriez|fr]])の指揮下、[[:fr:Theobald de Dillon|ディロン]]将軍の北部方面軍に所属した。1792年1月12日には大尉に昇進した。4月29日に[[ベジュー (フランス)|ベジュー]]からの撤退の際にはディロン将軍が戦死した中、撤退を行った。その後亡くなったディロンの弟の[[:fr:Arthur Dillon (1750-1794)|アーサー・ディロン]]将軍の下で[[ヴァランシエンヌ]]での戦闘に勝利、6月10日には[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]から[[:fr:Ordre royal et militaire de Saint-Louis|サン・ルイ騎士十字章]]を受章した。これはルイ16世が生前に授けた最後の勲章であった。1792年9月20日の[[ヴァルミーの戦い]]に加わった後、ベルギー方面の部隊長となった。部隊は[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公フレデリック]]に包囲されている[[ダンケルク]]を救出するために行われた1793年9月8日の[[:en:Battle of Hondschoote (1793)|オンショオットの戦い]]に参加した。9月13日、彼の部隊は[[:fr:Menin|メーネン]](現[[ベルギー]])で[[:de:Ludwig Aloys (Hohenlohe-Waldenburg-Bartenstein)|ホーエンローエ]]の部隊に包囲され敗れた。
[[シャラント県]][[シャバネ]]で生まれた彼は1784年にフランス軍に入隊し少尉となり、その後[[マイユボワ]]の[[砲兵]]隊の中尉となった。この頃はオランダで[[プロイセン王国|プロイセン]]と対峙した。1791年7月21日に[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー]]の指揮下の[[歩兵]]第12連隊に所属した。同年10月10日には[[リール (フランス)|リール]]の[[シャルルフランソワ・デュムリエ]]の指揮下、[[:fr:Theobald de Dillon|ディロン]]将軍の北部方面軍に所属した。1792年1月12日には大尉に昇進した。4月29日に[[ベジュー (フランス)|ベジュー]]からの撤退の際にはディロン将軍が戦死した中、撤退を行った。その後亡くなったディロンの弟の[[:fr:Arthur Dillon (1750-1794)|アーサー・ディロン]]将軍の下で[[ヴァランシエンヌ]]での戦闘に勝利、6月10日には[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]から[[:fr:Ordre royal et militaire de Saint-Louis|サン・ルイ騎士十字章]]を受章した。これはルイ16世が生前に授けた最後の勲章であった。1792年9月20日の[[ヴァルミーの戦い]]に加わった後、ベルギー方面の部隊長となった。部隊は[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公フレデリック]]に包囲されている[[ダンケルク]]を救出するために行われた1793年9月8日の[[:en:Battle of Hondschoote|オンショオットの戦い]]に参加した。9月13日、彼の部隊は[[:fr:Menin|メーネン]](現[[ベルギー]])で[[:de:Ludwig Aloys (Hohenlohe-Waldenburg-Bartenstein)|ホーエンローエ]]の部隊に包囲され敗れた。


その後退役した彼は1795年10月31日、[[ラザール・カルノー]]より[[准将]]に任じられた。1797年には師団長となった。1799年11月の[[ブリュメールのクーデター]]で[[ナポレオン・ボナパルト]]を支持した彼は1800年4月1日に[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]の指揮下の予備軍に配属されて5月には[[バール (アオスタ県)|バール]]の要塞を攻撃した。6月14日の[[マレンゴの戦い]]に参加した後、[[ミヒャエル・フォン・メラス]]を追撃した彼は[[アレッサンドリア]]など[[ミンチョ川]]までの12個の要塞を奪取した。8月15日には[[ジャン=バティスト・ジュールダン]]将軍によってイタリア方面軍の右翼の指揮官に任命された。[[ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ]]と共に[[トスカーナ州|トスカナ]]地方を攻略、10月15日には[[フィレンツェ]]に10月23日には[[リヴォルノ]]に入城した。ミンチョ川には依然として[[:de:Heinrich von Bellegarde|ハインリヒ・フォン・ベレガルデ]]の7万人の部隊がおり[[ガルダ湖]]と[[マントヴァ]]を睨んでいた。[[アルプス山脈]]を超えてきた[[ジャック・マクドナル]]の部隊にブリューヌが合流しミンチョ川、[[アディジェ川]]にオーストリア軍の防衛ラインを後退させた。北上して本隊と合流した彼は右翼に配置され[[ヴァレッジョ・スル・ミンチョ|ヴァレッジョ]]の橋梁を奪取、12月25日の[[モンツァンバ|ポッツォーロ]]の戦いでも勝利した。
その後退役した彼は1795年10月31日、[[ラザール・カルノー]]より[[准将]]に任じられた。1797年には師団長となった。1799年11月の[[ブリュメールのクーデター]]で[[ナポレオン・ボナパルト]]を支持した彼は1800年4月1日に[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]の指揮下の予備軍に配属されて5月には[[バール (アオスタ県)|バール]]の要塞を攻撃した。6月14日の[[マレンゴの戦い]]に参加した後、{{仮リンク|ミヒャエル・フォン・メラス|en|Michael von Melas}}を追撃した彼は[[アレッサンドリア]]など[[ミンチョ川]]までの12個の要塞を奪取した。8月15日には[[ジャン=バティスト・ジュールダン]]将軍によってイタリア方面軍の右翼の指揮官に任命された。[[ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ]]と共に[[トスカーナ州|トスカナ]]地方を攻略、10月15日には[[フィレンツェ]]に10月23日には[[リヴォルノ]]に入城した。ミンチョ川には依然として[[:de:Heinrich von Bellegarde|ハインリヒ・フォン・ベレガルデ]]の7万人の部隊がおり[[ガルダ湖]]と[[マントヴァ]]を睨んでいた。[[アルプス山脈]]を超えてきた[[ジャック・マクドナル]]の部隊にブリューヌが合流しミンチョ川、[[アディジェ川]]にオーストリア軍の防衛ラインを後退させた。北上して本隊と合流した彼は右翼に配置され[[ヴァレッジョ・スル・ミンチョ|ヴァレッジョ]]の橋梁を奪取、12月25日の[[マルミロ|ポッツォーロ]]の戦いでも勝利した。


1801年1月22日、彼はイタリア戦線を離れ1802年3月22日には[[シャルルヴィル=メジエール|メジエール]]の第2師団長、1803年8月30日には[[ミシェル・ネイ]]指揮下にある[[コンピエーニュ]]の第1師団長となった。同年12月12日、彼の第1師団は[[モントレイユ]]に移動、1804年6月14日に彼は[[レジオンドヌール勲章]]を受章した。
1801年1月22日、彼はイタリア戦線を離れ1802年3月22日には[[シャルルヴィル=メジエール|メジエール]]の第2師団長、1803年8月30日には[[ミシェル・ネイ]]指揮下にある[[コンピエーニュ]]の第1師団長となった。同年12月12日、彼の第1師団は[[モントルイユ (パ=ド=カー県)|モントルイユ]]に移動、1804年6月14日に彼は[[レジオンドヌール勲章]]を受章した。


=== ナポレオン戦争 ===
=== ナポレオン戦争 ===
[[File:Ulm campaign - Engagements around Ulm, 7-9 October 1805.jpg|right|240px|thumb|ウルム戦役での各国軍隊の移動]]
[[File:Ulm campaign - Engagements around Ulm, 7-9 October 1805.jpg|right|240px|thumb|ウルム戦役での各国軍隊の移動]]
[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]が結成された際、彼はネイの第6軍団に所属することとなり1805年9月26日には[[ローターブール]]に駐屯した。
[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]が結成された際、彼はネイの第6軍団に所属することとなり1805年9月26日には[[ロテルブール]]に駐屯した。


[[ドナウ川]]上流の[[ウルム]]にいる[[w:Karl Mack von Leiberich|カール・マック]]の[[オーストリア帝国|オーストリア]]軍がフランス軍が[[シュヴァルツヴァルト]]に到着する前に[[ドナウヴェルト]]へ撤退し[[ウィーン]]に駐屯する[[ミハイル・クトゥーゾフ]]のロシア軍と合流するのを防ぐためナポレオンは[[イラー川]]での戦闘を決心、デュポンはドナウ川の左岸を制圧するよう命じられた。彼の部隊は3個歩兵連隊、2個[[騎兵]]連隊、数門の大砲しか持たない6,000人でありウルムのマックが60,000人の全軍で押し寄せた場合、危険となる任務であった。10月11日に行われた[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド大公]]の率いる25,000人との[[w:Battle of Haslach-Jungingen|アルベックの戦い]]で彼は激戦の末、4,000人の捕虜を確保する活躍を見せてオーストリア軍が[[ウルム]]から[[ボヘミア]]へ撤退することを阻止した。10月13日にナポレオンがウルムに到着するとドナウ左岸にいるデュポンの軍が孤立していることを知り、ネイにデュポンとの連携を取るように命令、10月14日に[[エルヒンゲンの戦い]]で彼らは勝利しウルムの包囲網が完成した。ウルムの戦いの後、彼の部隊は[[オーギュスト・マルモン]]の軍団と共に進軍し、その後[[エドゥアール・モルティエ]]の指揮下に入った。11月11日には数で大幅に勝る相手との[[デュルンシュタインの戦い]]で部隊は大打撃を受けたが善戦した。この時の大損害を受けたため彼は[[アウステルリッツの戦い]]には参加しなかった。
[[ドナウ川]]上流の[[ウルム]]にいる[[w:Karl Mack von Leiberich|カール・マック]]の[[オーストリア帝国|オーストリア]]軍がフランス軍が[[シュヴァルツヴァルト]]に到着する前に[[ドナウヴェルト]]へ撤退し[[ウィーン]]に駐屯する[[ミハイル・クトゥーゾフ]]のロシア軍と合流するのを防ぐためナポレオンは{{仮リンク|イラー川|en|Iller}}での戦闘を決心、デュポンはドナウ川の左岸を制圧するよう命じられた。彼の部隊は3個歩兵連隊、2個[[騎兵]]連隊、数門の大砲しか持たない6,000人でありウルムのマックが60,000人の全軍で押し寄せた場合、危険となる任務であった。10月11日に行われた[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド大公]]の率いる25,000人との[[w:Battle of Haslach-Jungingen|アルベックの戦い]]で彼は激戦の末、4,000人の捕虜を確保する活躍を見せてオーストリア軍が[[ウルム]]から[[ボヘミア]]へ撤退することを阻止した。10月13日にナポレオンがウルムに到着するとドナウ左岸にいるデュポンの軍が孤立していることを知り、ネイにデュポンとの連携を取るように命令、10月14日に{{仮リンク|エルヒンゲンの戦い|en|Battle of Elchingen}}で彼らは勝利しウルムの包囲網が完成した。ウルムの戦いの後、彼の部隊は[[オーギュスト・マルモン]]の軍団と共に進軍し、その後[[エドゥアール・モルティエ]]の指揮下に入った。11月11日には数で大幅に勝る相手との{{仮リンク|デュルンシュタインの戦い|en|Battle of Dürenstein}}で部隊は大打撃を受けたが善戦した。この時の大損害を受けたため彼は[[アウステルリッツの戦い]]には参加しなかった。


[[1806年]]10月5日に彼は第1軍団長の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]の指揮下に入り、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]の後、[[オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)|ヴュルテンベルク公]]率いる残兵18,000人と[[ハレ]]で破った。この時彼の部隊は驚異的な速さで進軍しヴュルテンベルク公の部隊が[[ザーレ川]]の対岸に撤退するのを阻止した。この戦いで彼の部隊5,000人に対して高地にいるプロイセン軍は12,000人と劣勢だったが[[:fr:Jean-Baptiste Drouet Erlon|デルロン]]の来援により勝利した。11月6日に[[リューベック]]郊外の戦闘に勝利、1807年2月26日にはブラウンスベルク(現ポーランド、[[:pl:Braniewo|ブラニェ]])の戦いで捕虜2,000人、大砲16門を鹵獲した。6月14日の[[フリートラントの戦い]]では[[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトール]]の指揮下で戦い突出したネイの部隊の危機を救った。彼は19,261人の部隊の指揮官となり、同年6月30日、[[ワルシャワ]]大公となった後、9月15日には[[ベルリン]]の上級指揮官となった。9月23日には新たに5,882人が彼の指揮下に入った。
[[1806年]]10月5日に彼は第1軍団長の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]の指揮下に入り、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]の後、[[オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)|ヴュルテンベルク公]]率いる残兵18,000人と[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]で破った。この時彼の部隊は驚異的な速さで進軍しヴュルテンベルク公の部隊が[[ザーレ川]]の対岸に撤退するのを阻止した。この戦いで彼の部隊5,000人に対して高地にいるプロイセン軍は12,000人と劣勢だったが[[ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)|デルロン]]の来援により勝利した。11月6日に[[リューベック]]郊外の戦闘に勝利、1807年2月26日にはブラウンスベルク(現ポーランド、[[ブラニェヴォ]])の戦いで捕虜2,000人、大砲16門を鹵獲した。6月14日の[[フリートラントの戦い]]では[[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトール]]の指揮下で戦い突出したネイの部隊の危機を救った。彼は19,261人の部隊の指揮官となり、同年6月30日、[[ワルシャワ]]大公となった後、9月15日には[[ベルリン]]の上級指揮官となった。9月23日には新たに5,882人が彼の指揮下に入った。


=== 半島戦争及びその後 ===
=== 半島戦争及びその後 ===
[[File:La Rendición de Bailén (Casado del Alisal).jpg|right|240px|thumb|バイレーンの戦いでの降服]]
[[File:La Rendición de Bailén (Casado del Alisal).jpg|right|240px|thumb|バイレーンの戦いでの降服]]
[[ティルジットの和約]]の後、フランスに戻り第2軍団長となった[[ジロンド県]]に駐屯した彼はスペインに派遣された彼は12月26日に[[ビトリア (ン)|ビトリア]]に到着、翌1808年1月12日には[[バリャドリッド]]に到着した。3月10日に彼と19,000人の部隊は[[ハノーファー]]から出発し4月11日には[[アランフエス]]、24日には[[トレド]]<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=[[:fr:Jean-Paul Bertaud|J・P・ベルト]] |pages=100 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>、6月2日には[[アンドゥハル]]に到着した。[[:fr:Maximilien Sébastien Foy|マクシミリアン・セバスティアン・フォワ]]は当時のことについて[[半島戦争]]ではデュポンより階級が上の人物はおらず[[アンダルシア地方]]へ彼が出発した際に[[カディス]]を占領し元帥杖を授かることを誰もが信じていたという。1808年のナポレオンと[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]との間で行われた[[バイヨンヌ]]の会談以降、スペインの人民は[[フランス帝国]]に対して不満を高め、1808年5月2日に[[マドリード]]で蜂起、[[アストゥリアス州|アストゥリアス]]、[[ガリシア州|ガリシア]]、[[レオン王国|レオン]]、[[カスティーリャ]]でも次々と蜂起した。[[コルドバ]]に進軍していた彼は12,000人の兵と共にスペイン軍40,000人と遭遇し[[アンドゥハル]]へ撤退した。彼はそこで貴重な時間を費やしその後[[バイレ]]に赴いたが3万5000人の[[スペイン]]兵に包囲されていた。7月19日から続いた4日間の戦いの後、7月23日に2万人の兵とともに降伏した<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=105 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。
[[ティルジットの和約]]の後、フランスに戻り第2軍団長とな[[ジロンド県]]に駐屯した彼はスペインに派遣された。1807年12月26日に[[ビトリア=ガ]]に到着、翌1808年1月12日には[[バリャドリッド]]に到着した。4月11日には[[アランフエス]]、24日には[[トレド]]<ref>{{Cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト|authorlink=:fr:Jean-Paul Bertaud |page=100 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>、6月2日には[[アンドゥハル]]に到着した。[[マクシミリアン・セバスティアン・フォワ]]は当時のことについて[[半島戦争]]ではデュポンより階級が上の人物はおらず[[アンダルシア地方]]へ彼が出発した際に[[カディス]]を占領し元帥杖を授かることを誰もが信じていたという。1808年のナポレオンと[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]との間で行われた[[バイヨンヌ]]の会談以降、スペインの人民は[[フランス帝国]]に対して不満を高め、1808年5月2日に[[マドリード]]で蜂起、[[アストゥリアス州|アストゥリアス]]、[[ガリシア州|ガリシア]]、[[レオン王国|レオン]]、[[カスティーリャ]]でも次々と蜂起した。[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]に進軍していた彼は12,000人の兵と共にスペイン軍40,000人と遭遇し[[アンドゥハル]]へ撤退した。彼はそこで貴重な時間を費やしその後{{仮リンク|バイレン|en|Bailén}}に赴いたが3万5000人の[[スペイン]]兵に包囲されていた。7月16日から4日間続いた[[バイレンの戦い]]の後、7月23日に2万人の兵とともに降伏した<ref>{{Cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |page=105 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。
これは[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]初の降伏であったため、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]は「我々の[[軍旗]]を汚した」と猛烈に怒り、そして9月21日に[[トゥーロン]]に帰国したデュポンを[[大逆罪]]で逮捕さた。11月15日に[[パリ]]へ移送された。彼に対しては寛大な処置を求めようとする他の将軍たちもいたが、[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]はこれを阻止した。彼は大逆罪に問われ、[[:fr:Fort de Joux|ジューの要塞]]に投獄されることとなり後に[[デュレ]]に移された<ref name="bertaud259">{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=259 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。
これは[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]初の降伏であったため、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]は「我々の[[軍旗]]を汚した」と猛烈に怒り、そして9月21日に[[トゥーロン]]に帰国したデュポンを[[大逆罪]]で逮捕さた。デュポンは11月15日に[[パリ]]へ移送された。彼に対しては寛大な処置を求めようとする他の将軍たちもいたが、[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]はこれを阻止した。彼は大逆罪に問われ、[[:fr:Fort de Joux|ジューの要塞]]に投獄されることとなり後にデュレに移された<ref name="bertaud259">{{Cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |page=259 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。


[[1814年]]、ナポレオンの退位によって釈放されて、5月12日に[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]のもとで陸軍大臣に就任した。経済的理由により、10万人の兵士を無期限休職とし、将校たちの身辺調査を実施、ナポレオンへの忠誠心が高い可能性のある1万2000人を給与半減の休職とし、別の職に就くことも禁じた<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=209-210 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。
[[1814年]]、ナポレオンの退位によって釈放されて、5月12日に[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]のもとで陸軍大臣に就任した。経済的理由により、10万人の兵士を無期限休職とし、将校たちの身辺調査を実施、ナポレオンへの忠誠心が高い可能性のある1万2000人を給与半減の休職とし、別の職に就くことも禁じた<ref>{{Cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=209-210 |date=2001-04-30 |isbn=4-535-58273-4 }}</ref>。


12月13日に[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]と交代した。[[百日天下]]では[[オルレアン]]に避難し、ロワール軍を指揮した。第2次[[フランス復古王政|王政復古]]で再び国務大臣となり、国王枢密院のメンバーとなった<ref name="bertaud259"/>。
12月13日に[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]と交代した。[[百日天下]]では[[オルレアン]]に避難し、ロワール軍を指揮した。第2次[[フランス復古王政|王政復古]]で再び国務大臣となり、国王枢密院のメンバーとなった<ref name="bertaud259"/>。

1832年に退役し1840年に亡くなるまで回想録を執筆した。[[ペール・ラシェーズ墓地]]に埋葬されている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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ピエール・デュポン

ピエール・デュポン: Pierre-Antoine, comte Dupont de l'Étang, 1765年7月4日 - 1840年3月9日)は、フランス革命戦争及びナポレオン戦争期、フランス復古王政期のフランス軍人。兄のピエール・アントワーヌ・デュポン=ショーモンと共にフランス軍の将軍となった。

経歴

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フランス革命戦争まで

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シャラント県シャバネで生まれた彼は1784年にフランス軍に入隊し少尉となり、その後マイユボワ砲兵隊の中尉となった。この頃はオランダでプロイセンと対峙した。1791年7月21日にジャン=バティスト・ド・ロシャンボーの指揮下の歩兵第12連隊に所属した。同年10月10日にはリールシャルル・フランソワ・デュムリエの指揮下、ディロン将軍の北部方面軍に所属した。1792年1月12日には大尉に昇進した。4月29日にベジューからの撤退の際にはディロン将軍が戦死した中、撤退を行った。その後亡くなったディロンの弟のアーサー・ディロン将軍の下でヴァランシエンヌでの戦闘に勝利、6月10日にはルイ16世からサン・ルイ騎士十字章を受章した。これはルイ16世が生前に授けた最後の勲章であった。1792年9月20日のヴァルミーの戦いに加わった後、ベルギー方面の部隊長となった。部隊はヨーク公フレデリックに包囲されているダンケルクを救出するために行われた1793年9月8日のオンショオットの戦いに参加した。9月13日、彼の部隊はメーネン(現ベルギー)でホーエンローエの部隊に包囲され敗れた。

その後退役した彼は1795年10月31日、ラザール・カルノーより准将に任じられた。1797年には師団長となった。1799年11月のブリュメールのクーデターナポレオン・ボナパルトを支持した彼は1800年4月1日にルイ=アレクサンドル・ベルティエの指揮下の予備軍に配属されて5月にはバールの要塞を攻撃した。6月14日のマレンゴの戦いに参加した後、ミヒャエル・フォン・メラス英語版を追撃した彼はアレッサンドリアなどミンチョ川までの12個の要塞を奪取した。8月15日にはジャン=バティスト・ジュールダン将軍によってイタリア方面軍の右翼の指揮官に任命された。ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌと共にトスカナ地方を攻略、10月15日にはフィレンツェに10月23日にはリヴォルノに入城した。ミンチョ川には依然としてハインリヒ・フォン・ベレガルデの7万人の部隊がおりガルダ湖マントヴァを睨んでいた。アルプス山脈を超えてきたジャック・マクドナルの部隊にブリューヌが合流しミンチョ川、アディジェ川にオーストリア軍の防衛ラインを後退させた。北上して本隊と合流した彼は右翼に配置されヴァレッジョの橋梁を奪取、12月25日のポッツォーロの戦いでも勝利した。

1801年1月22日、彼はイタリア戦線を離れ1802年3月22日にはメジエールの第2師団長、1803年8月30日にはミシェル・ネイ指揮下にあるコンピエーニュの第1師団長となった。同年12月12日、彼の第1師団はモントルイユに移動、1804年6月14日に彼はレジオンドヌール勲章を受章した。

ナポレオン戦争

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ウルム戦役での各国軍隊の移動

大陸軍が結成された際、彼はネイの第6軍団に所属することとなり1805年9月26日にはロテルブールに駐屯した。

ドナウ川上流のウルムにいるカール・マックオーストリア軍がフランス軍がシュヴァルツヴァルトに到着する前にドナウヴェルトへ撤退しウィーンに駐屯するミハイル・クトゥーゾフのロシア軍と合流するのを防ぐためナポレオンはイラー川英語版での戦闘を決心、デュポンはドナウ川の左岸を制圧するよう命じられた。彼の部隊は3個歩兵連隊、2個騎兵連隊、数門の大砲しか持たない6,000人でありウルムのマックが60,000人の全軍で押し寄せた場合、危険となる任務であった。10月11日に行われたフェルディナンド大公の率いる25,000人とのアルベックの戦いで彼は激戦の末、4,000人の捕虜を確保する活躍を見せてオーストリア軍がウルムからボヘミアへ撤退することを阻止した。10月13日にナポレオンがウルムに到着するとドナウ左岸にいるデュポンの軍が孤立していることを知り、ネイにデュポンとの連携を取るように命令、10月14日にエルヒンゲンの戦い英語版で彼らは勝利しウルムの包囲網が完成した。ウルムの戦いの後、彼の部隊はオーギュスト・マルモンの軍団と共に進軍し、その後エドゥアール・モルティエの指揮下に入った。11月11日には数で大幅に勝る相手とのデュルンシュタインの戦い英語版で部隊は大打撃を受けたが善戦した。この時の大損害を受けたため彼はアウステルリッツの戦いには参加しなかった。

1806年10月5日に彼は第1軍団長のベルナドットの指揮下に入り、イエナ・アウエルシュタットの戦いの後、ヴュルテンベルク公率いる残兵18,000人とハレで破った。この時彼の部隊は驚異的な速さで進軍しヴュルテンベルク公の部隊がザーレ川の対岸に撤退するのを阻止した。この戦いで彼の部隊5,000人に対して高地にいるプロイセン軍は12,000人と劣勢だったがデルロンの来援により勝利した。11月6日にリューベック郊外の戦闘に勝利、1807年2月26日にはブラウンスベルク(現ポーランド、ブラニェヴォ)の戦いで捕虜2,000人、大砲16門を鹵獲した。6月14日のフリートラントの戦いではヴィクトールの指揮下で戦い突出したネイの部隊の危機を救った。彼は19,261人の部隊の指揮官となり、同年6月30日、ワルシャワ大公となった後、9月15日にはベルリンの上級指揮官となった。9月23日には新たに5,882人が彼の指揮下に入った。

半島戦争及びその後

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バイレーンの戦いでの降服

ティルジットの和約の後、フランスに戻り第2軍団長となりジロンド県に駐屯した彼はスペインに派遣された。1807年12月26日にビトリア=ガステイスに到着、翌1808年1月12日にはバリャドリッドに到着した。4月11日にはアランフエス、24日にはトレド[1]、6月2日にはアンドゥハルに到着した。マクシミリアン・セバスティアン・フォワは当時のことについて半島戦争ではデュポンより階級が上の人物はおらずアンダルシア地方へ彼が出発した際にカディスを占領し元帥杖を授かることを誰もが信じていたという。1808年のナポレオンとカルロス4世フェルナンド7世との間で行われたバイヨンヌの会談以降、スペインの人民はフランス帝国に対して不満を高め、1808年5月2日にマドリードで蜂起、アストゥリアスガリシアレオンカスティーリャでも次々と蜂起した。コルドバに進軍していた彼は12,000人の兵と共にスペイン軍40,000人と遭遇しアンドゥハルへ撤退した。彼はそこで貴重な時間を費やしその後バイレン英語版に赴いたが3万5000人のスペイン兵に包囲されていた。7月16日から4日間続いたバイレンの戦いの後、7月23日に2万人の兵とともに降伏した[2]。 これは大陸軍初の降伏であったため、ナポレオン1世は「我々の軍旗を汚した」と猛烈に怒り、そして9月21日にトゥーロンに帰国したデュポンを大逆罪で逮捕させた。デュポンは11月15日にパリへ移送された。彼に対しては寛大な処置を求めようとする他の将軍たちもいたが、ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスはこれを阻止した。彼は大逆罪に問われ、ジューの要塞に投獄されることとなり後にデュレに移された[3]

1814年、ナポレオンの退位によって釈放されて、5月12日にルイ18世のもとで陸軍大臣に就任した。経済的理由により、10万人の兵士を無期限休職とし、将校たちの身辺調査を実施、ナポレオンへの忠誠心が高い可能性のある1万2000人を給与半減の休職とし、別の職に就くことも禁じた[4]

12月13日にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトと交代した。百日天下ではオルレアンに避難し、ロワール軍を指揮した。第2次王政復古で再び国務大臣となり、国王枢密院のメンバーとなった[3]

1832年に退役し1840年に亡くなるまで回想録を執筆した。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。

脚注

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  1. ^ J・P・ベルト『ナポレオン年代記』日本評論社、2001年4月30日、100頁。ISBN 4-535-58273-4 
  2. ^ J・P・ベルト『ナポレオン年代記』日本評論社、2001年4月30日、105頁。ISBN 4-535-58273-4 
  3. ^ a b J・P・ベルト『ナポレオン年代記』日本評論社、2001年4月30日、259頁。ISBN 4-535-58273-4 
  4. ^ J・P・ベルト『ナポレオン年代記』日本評論社、2001年4月30日、209-210頁。ISBN 4-535-58273-4