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{{infobox record label
| name = スタックス・レコード<br />Stax Records
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| founder = [[ジム・スチュワート (音楽プロデューサー)|ジム・スチュワート]]、[[エステル・アクストン]]
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[[Image:Staxmuseum2005.jpg|thumb|right|200px|メンフィスのスタックス博物館。1989年に取り壊されたスタックス・スタジオを再現して同じ場所に建設された。]]
[[Image:Staxmuseum2005.jpg|thumb|right|200px|メンフィスのスタックス博物館。1989年に取り壊されたスタックス・スタジオを再現して同じ場所に建設された。]]
'''スタックス・レコード''' ('''Stax Records''')は、[[アメリカ合衆国|米国]][[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]レコード・レーベルで[[1957年]]設立、[[1976年]]まで活動を続けるが倒産。[[2006年]]末、レーベルの権利を保有する[[コンコード・レコード]]復活せた。
'''スタックス・レコード''''''Stax Records'''は、[[アメリカ合衆国]][[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]に拠点を置いていたレコード・レーベルである。[[1957年]]設立され、[[1975年]]末に[[倒産]]したその後、[[2006年]]末、レーベルの権利を保有する[[コンコード・レコード]]により復活。社名は当時のレーベル・オーナーである[[ジム・スチュワート (音楽プロデューサー)|ジム・スチュワート]](Jim '''St'''ewart)と[[エステル・アクストン]](Estelle '''Ax'''ton)の姓をあわせたもの


[[サザン・ソウル]]、[[メンフィス・ソウル]]といった音楽スタイルの形成に大きな役割を担っといわれており、また[[ファンク]]、1960年代の[[シカゴ・ブルース]]などのレコーディング多い。また、スタックスは異なる種が融して成功を収めたバンドの草分け的存在が在籍していたことでも知られている。スタクスの名前は、当初のレベルオーナーの2人、ジムスチュワート(Jim '''St'''ewart)とエステル・アクストン(Estelle '''Ax'''ton)の姓を合体させたものであった。
[[サザン・ソウル]]、{{仮リンク|メンフィス・ソウル|en|Memphis soul}}といった音楽スタイルの発展に大きな役割を、また[[ソウルミュージッ|ソウル]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]だけでなく[[ブルース]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]<ref group="注">ランス・アレン・グループなどゴスペル・グループのレコー発表し。</ref>[[ファン]]などもリリーした。演奏の多く、白・黒人混合バンドの[[ブー・T&ザMG's]]が主に担当した。


==歴史==
== 歴史 ==
[[1957年]]、ジム・スチュワートによってスタックス・レコードの前身となるサテライト・レコードが設立される<ref>[http://www.soulsvilleusa.com/press-media/detail.asp?id=48 Get ready for some golden soul in 2007]</ref>。設立当初は、メンフィス北部のガレージに事務所を構えていた。翌[[1958年]]、彼の姉、エステル・アクストンが共同オーナーとなる。事務所は一時期、メンフィス北東郊外の[[ブランズウィック]]へ移設したが、その後、キャピトル劇場の跡地だったメンフィス市内のイースト・マクレモア・アベニュー926番地に移り、この場所が定位置となった。初、同レーベルは[[カントリー・ミュージック]]をリリースしていたが、より利益生むことがでると判断し、[[リズム・アンド・ブルース]]に方向転換している。
[[1957年]]、ジム・スチュワートによってスタックス・レコードの前身となるサテライト・レコードが設立される<ref>[http://www.soulsvilleusa.com/press-media/detail.asp?id=48 Get ready for some golden soul in 2007]</ref>。設立当初は、メンフィス北部のガレージに事務所を構えていた。翌[[1958年]]、彼の姉、エステル・アクストンが共同オーナーとなる。事務所は、キャピトル劇場の跡地だったメンフィス市内のイースト・マクレモア・アベニュー926番地に移り、この場所が定位置となった。期には、同レーベルは[[カントリー・ミュージック]]をリリースしていたが、ジムはレイ・チャールズの「ワッド・アイ・セイ」き、[[リズム・アンド・ブルース]]に目覚めて路線変更している<ref>「魂のゆくえ」p.96、ピーターバラカン、新潮社</ref>


===アトランティック時代===
=== アトランティック配給時代 ===
サテライト・レコードがレコーディングしたアーティストで、初めて成功を収めたのは[[ルーファス・トーマス]]と[[カーラ・トーマス]]の親子デュオだった。彼らの成功が[[アトランティック・レコード]]の目に留まり、スチュワートはアトランティックが優先的にサテライト音源をリリースできるよう、配給契約を締結した。サテライトと初期に契約したバンドには、[[マーキーズ]](元ロイヤル・スペーズ)も挙げられる。マーキーズの[[1961年]]のシングル"Last Night"は、当初サテライトから全米に配給された。アトランティックが配給したサテライト音源は、アトランティック・レーベル、もしくは[[アトコ・レコード|アトコ]]から全米に向けてリリースされた。"Last Night"ヒットチャートを駆け上っていた頃、スチュワートとアクストンは、[[カリフォルニア州]]にサテライト・レコードというレーベルが別に存在していることを知り、レーベル名をスタックスと変更する。間もなく、[[ピアニスト]]の[[ブッカー・T・ジョーンズ]]がレーベルに合流し、彼は[[ブッカー・T&ザ・MG's]]の名前で、マーキーズのメンバーとプレイするようになった。このバンドこそが、レーベルの方向性を示したのだった。[[1962年]]、スタックスは[[リズム・アンド・ブルース]]音楽のためのレーベル、[[ヴォルト・レコード|ヴォルト]](Volt)を傘下に設立する。同レーベルでリリース最初アーティストが、スタックスで最大の成功を収めることとなった[[オーティス・レディング]]だった。もうひ組のヒットメーカーは、アトランティックがスタックスに紹介した[[サム&デイヴ]]だった。
サテライト・レコードがレコーディングしたアーティストで、初めて成功を収めたのは[[ルーファス・トーマス]]と[[カーラ・トーマス]]の親子だった。彼らの成功が[[アトランティック・レコード]]の目に留まり、スチュワートはアトランティックが優先的にサテライト音源をリリースできるよう、配給契約を締結した。サテライトと初期に契約したバンドには、[[マーキーズ]](元ロイヤル・スペーズ)も挙げられる。マーキーズの[[1961年]]のシングル"ラスト・ナイト/Last Night"は、当初サテライトから全米に配給された<ref>http://www.allmusic.com/artist/the-mar-keys-mn0000059655</ref>。アトランティックが配給したサテライト音源は、アトランティック・レーベル、もしくは[[アトコ・レコード|アトコ]]から全米に向けてリリースされた。"Last Night"ヒットチャートを駆け上り、ポップで3位、ソウルで2位、年間チャートでも34位の大ヒットとなた。チャートを上昇しているころ、スチュワートとアクストンは、[[カリフォルニア州]]にサテライト・レコードというレーベルが別に存在していることを知り、レーベル名をスタックスと変更した。間もなく、[[ピアニスト]]の[[ブッカー・T・ジョーンズ]]がレーベルに合流し、彼は[[ブッカー・T&ザ・MG's]]の名前で、マーキーズのメンバーとプレイするようになった<ref>{{cite book |last1=Hughes |first1=Charles L. |title=Country Soul: Making Music and Making Race in the American South |date=March 23, 2015 |publisher=UNC Press Books |isbn=9781469622446}}</ref>。[[1962年]]、スタックスは[[リズム・アンド・ブルース]]音楽のためのレーベル、[[ヴォルト・レコード|ヴォルト]](Volt)を傘下に設立する。スタックスからリリースされたの[[オーティス・レディング]]と、アトランティックがスタックスに紹介した[[サム&デイヴ]]だった。


アトランティックのオーナーのひとりだった[[ジェリー・ウェクスラー]]はスタックスが生み出した個性的なサウンドに魅せられていたが、レーベルのトレードマーク的なこのスタイルは偶然の産物であった。映画の劇場を改装したスタックス・スタジオは元々客席が設置されていたフロアの傾斜がそのまま残されていたのだ。このような部屋の構造が変則的な音響効果を生み、それが生々しく深みのあるサウンドとなってレコーディングに現れたのだった。
アトランティックのオーナーのひとりだった[[ジェリー・ウェクスラー]]はスタックスサウンドに魅せられていた。<!--
レーベルのトレードマーク的なこのスタイルは偶然の産物であった。映画の劇場を改装したスタックス・スタジオは元々客席が設置されていたフロアの傾斜がそのまま残されていたのだ。このような部屋の構造が変則的な音響効果を生み、それが生々しく深みのあるサウンドとなってレコーディングに現れたという見方もある。スチュワートがウェクスラーにスタジオの技術上の問題点を打ち明けた際、ウェクスラーはアトランティックのプロデューサー/エンジニアであった[[トム・ダウド]]をスタックスへ派遣し調査を指示した。スタックスでは、彼らの唯一のモノラルの録音機が故障していたが、メカに強いダウドはすぐに修理をし、スチュワートとスタッフに、機材の正しい使用法と保守管理法を教えた。-->
ウェクスラーはアトランティックのプロデューサー/エンジニアであった[[トム・ダウド]]をスタックスへ派遣し、ダウドは設備を近代化し、スタジオのレコーディング機材をモノラルからステレオにした。[[1965年]]までに、スタックスはアトランティックと正式な全米を対象とした配給契約を締結した。この契約には、アトランティックがスタックスから受け取ったマスターの所有権を有する旨の条項が含まれていたが、後まで見過ごされていた。


ウェクスラーは、アトランティックのアーティストをレコーディングさせるため、頻繁にメンフィスのスタックス・スタジオへ連れて行った。ブッカー・T&ザ・MG'sのギタリスト、[[スティーヴ・クロッパー]]は[[エディ・フロイド]]<ref group="注">「ノック・オン・ウッド」が1966年にヒット。</ref>、オーティス・レディング<ref group="注">「ドック・オブ・ザ・ベイ」が死後の1968年にヒット。</ref>、[[ウィルソン・ピケット]]<ref group="注">「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」がヒットしている。</ref>とそれぞれ共作を行い、ヒットに結び付けた<ref>{{cite web | url=http://somethingelsereviews.com/2015/02/03/wilson-pickett-in-the-midnight-hour-steve-cropper/ | title=Steve Cropper's research into Wilson Pickett sparked initial hit | website=Something Else | date=February 3, 2015 | access-date=2021年12月8日閲覧}}</ref>。ピケットのヒットはスタックスの手によるものであったが、名義としてはアトランティックからのリリースだった。一方、アトランティックのデュオ、サム&デイヴについては、スタックスにリースされ、スタックスから世に送り出された<ref>{{cite web|last1=Blount Danois|first1=Ericka|title=The Soul of Stax Records|url=http://waxpoetics.com/features/articles/the-soul-of-stax/|website=waxpoetics.com|publisher=Wax Poetics Magazine| access-date=2015-12-23}}</ref>。
スチュワートがウェクスラーにスタジオの技術上の問題点を打ち明けた際、ウェクスラーはアトランティックのプロデューサー/エンジニアであった[[トム・ダウド]]をスタックスへ派遣し調査を指示した。スタックスでは、彼らの唯一の録音機であったモノラルのアンペックス350が故障してしまったが、修理に必要な技術的ノウハウを誰も持ち合わせていなかった。ダウドはすぐに修理をし、スチュワートと彼のスタッフに、機材の正しい使用と保守方法について教授したのだった。ダウドはスタジオのレコーディング機材をモノラルからステレオにアップグレードした。[[1965年]]までに、スタックスはアトランティックと正式な全米を対象とした配給契約を締結した。この契約には、アトランティックがスタックスから受け取ったマスターの所有権を有する旨の条項が含まれていたが、後まで見過ごされていた。


当時、多くのラジオ局は「特定のレーベルへの肩入れを疑われるのを嫌い」、同じレーベルからリリースされた新曲を同時に1、2曲以上は放送しない規則を掲げていた。この対策として、他のレーベルと同様、スタックスも複数の傘下レーベルを設立していた。最も有名なのがヴォルトであるが、他にもエンタープライズ、チャリス、ヒップ、サフィスなどのレーベルがあった。
ウェクスラーは、アトランティックのアーティストをレコーディングさせるため、頻繁にメンフィスのスタックス・スタジオへ連れて行った。[[英国放送協会|BBC放送]]の[[ドキュメンタリー]]「ソウル・ディープ」の中でウェクスラーが語ったところによると、彼は[[ウィルソン・ピケット]]とブッカー・T&ザ・MG'sのギタリスト、[[スティーヴ・クロッパー]]を[[ジャック・ダニエル]]のボトルを持たせてモーテルの部屋に入らせ、その結果ソウル・スタンダードとなった"In the Midnight Hour"が生まれたという。ピケットのヒットはスタックスの手によるものであったが、名義としてはアトランティックからのリリースだった。一方、アトランティックのデュオ、サム&デイヴについては、スタックスに「リース」され、スタックスから世に送り出された。


所属アーティストのツアーを頻繁に企画した[[モータウン]]とは異なり、スタックスはレーベル主催のコンサートを通じてアーティストのプロモーションを行うことはあまり多くなかった。レーベル初となるこのような形式のコンサートは、メンフィスではなく[[ロサンゼルス]]で[[1965年]]の夏に行われた。コンサートは成功を収めたが、終了後に[[ワッツ暴動]]が起き、スタックスのアーティストの一部が暴動に巻き込まれてしまった。スタックスはまた、メンフィスにおいて何年かに渡りクリスマス・コンサートも主催した。スタックスのパッケージ・ショーは、[[1967年]]の[[イギリス]]、[[フランス]]でも実施された。[[アメリカ合衆国|米国]]の[[ソウル・ミュージック]]は当時西欧で人気を誇っており、このツアーは大きな成功を収めた。スタックスは、ヒットとなったオーティス・レディングの「Otis Live In Europe」を始め、このツアーからいくつかのライヴ・アルバムを発表した。
当時、多くのラジオ局は特定のレーベルへの肩入れを疑われるのを嫌い、同じレーベルからリリースされた新曲を同時に1、2曲以上は放送しない規則を掲げていた。この対策として、他のレーベルと同様、スタックスも複数の傘下レーベルを設立していた。最も有名なのがヴォルトであるが、他にもエンタープライズ、チャリス、ヒップ、サフィスなどのレーベルがあった。


=== アトランティックとの契約解消 ===
所属アーティストを頻繁にパッケージ化してレビュー形式のツアーを企画した[[モータウン]]とは異なり、スタックスはレーベル主催のコンサートを通じてアーティストのプロモーションを行うことはあまり多くなかった。レーベル初となるこのような形式のコンサートは、メンフィスではなく[[ロサンゼルス]]で[[1965年]]の夏に行われた。コンサートは成功を収めたが、終了後に[[ワッツ暴動]]が起き、スタックスのアーティストの一部が暴動に巻き込まれてしまった。スタックスはまた、メンフィスにおいて何年かに渡りクリスマス・コンサートも主催した。その中でも悪名高いのは[[1968年]]のもので、出演した[[ジャニス・ジョップリン]]が泥酔してステージに上がり、退場となったのだった。スタックスのパッケージ・ショーの頂点は、[[1967年]]の[[イギリス]]、[[フランス]]・ツアーであった。[[アメリカ合衆国|米国]]の[[ソウル・ミュージック]]は当時西欧で爆発的な人気を誇っており、このツアーは大きな成功を収めた。スタックスは、大ヒットとなったオーティス・レディングの「Otis Live In Europe」を始め、このツアーからいくつかのライヴ・アルバムを発表した。
[[1967年]]、アトランティック・レコードが[[ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ]]に買収され、スタックス/アトランティック間の契約に定められていた配給契約の見直しが浮上する。この時点で、スチュワートはアトランティック配給のスタックス音源のオリジナル・マスターの権利がアトランティックに移ってしまっていることを初めて知ったとされている(彼は、このことが明記されていた契約条項について気がついていなかった)。


ワーナーの新しい経営陣は、アトランティックが保有するスタックス音源の権利について、全く妥協の余地を見せることがなく、その結果同年3月、スチュワートはレーベルをガルフ・アンド・ウェスタン社へ売却することとなった。エステル・アクストンは、売却後レーベルを去った。彼女がスタックスを去る前に最後の仕事として、ウェクスラーに対し、スタックスがアトランティックとの関係を終了させることを伝えた。スタックスは、そのカタログの中の最も有望な部分を持たずしてその後の運営をすることを余儀なくされた(後年、[[ファンタジー・レコード]]傘下に入ったスタックスは、それらのヒットの別テイクをリリースしたりもした)。同年5月に配給契約が終了したのち、一時期アトランティックは関係終了後のスタックス/ヴォルト音源を別デザイン、別ロゴを使用してリリースした。その後スタックス音源についてアトランティック・レーベルで、ヴォルト音源については[[アトコ・レコード|アトコ・レーベル]]で再発した。関係終了後のスタックス/ヴォルト関連のリリースは、販売店の混乱を避けるため、カタログ番号の系統も変更された。
===アトランティックとの契約解消===
[[1967年]]、アトランティック・レコードが[[ワーナー・ブラザーズ|ワーナー・セヴンアーツ]]に買収され、スタックス/アトランティック間の契約に定められていた配給契約の見直しが浮上する。この時点で、スチュワートはアトランティック配給のスタックス音源のオリジナル・マスターの権利がアトランティックに移ってしまっていることを初めて知ったとされている(彼は、このことが明記されていた契約条項について気がついていなかった)。


=== 独立系時代のスタックス/1968-1975年 ===
ワーナーの新しい経営陣は、アトランティックが保有するスタックス音源の権利について、全く妥協の余地を見せることがなく、結果同年3月、スチュワートはレーベルをガルフ・アンド・ウェスタン社へ売却することとなった。エステル・アクストンは、売却後レーベルを去った。彼女がスタックスを去る前に最後の仕事として、ウェクスラーに対し、スタックスがアトランティックとの関係を終了させることを伝えた。スタックスは、そのカタログの中の最も有望な部分を持たずしてその後の運営をすることを余儀なくされた(後年、[[ファンタジー・レコード]]傘下に入ったスタックスは、それらのヒットの別テイクをリリースしたりもした)。同年5月に配給契約が終了したのち、一時期アトランティックは関係終了後のスタックス/ヴォルト音源を別デザイン、別ロゴを使用してリリースした。その後スタックス音源についてアトランティック・レーベルで、ヴォルト音源については[[アトコ・レコード|アトコ・レーベル]]で再発した。関係終了後のスタックス/ヴォルト関連のリリースは、販売店の混乱を避けるため、カタログ番号の系統も変更された。
スタックスは、サム&デイヴ(アトランティックと契約しており、スタックスで預かっていた)とオーティス・レディング(アトランティックとの関係終了直前に他界した)という人気アーティストを失った。サム&デイヴのヒット曲を制作した[[プロデューサー]]、[[作曲家|ソングライター]]の[[アイザック・ヘイズ]]がアルバム"Hot Buttered Soul"をヒットさせた。また、スタックスは、ジョニー・テイラー、ドラマティックス、[[ステイプル・シンガーズ]]、ソウル・チルドレン、ジーン・ナイト、フレデリック・ナイト、バーケイズらによる[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]・ヒットもリリースした。68年のジョニー・テイラーによる「フーズ・メイキン・ラブ」はレーベルに勢いを与える重要なヒット曲となった。レーベル最古参のアーティスト、[[ルーファス・トーマス]]も人気を取り戻し、いくつかのヒットを生んだ。しかしながら、スタックスのレコードの売上は、ガルフ・アンド・ウェスタンの貧弱な経営の下で全体的には下降傾向を辿った。[[1970年]]、スチュワートとスタックスの販売ディレクターのアル・ベルが共同で、レーベルを買い戻した。スタックスは、その後[[コロムビア・レコード]]との交渉が始まるまでの短い間、独立した経営を行った。スチュワートはレーベルが消えていくのを見過ごすことはできず、私財を投げ打って、レーベルの運営を継続させたと語っている。


[[1971年]]、[[アイザック・ヘイズ]]が映画『[[黒いジャガー]]』のサウンドトラックを制作。アルバム、主題歌(「[[黒いジャガーのテーマ]]」)ともに全米1位を記録した。レコーディングには[[バーケイズ]]のメンバーが参加した。
===インディ・レーベルとしてのスタックス===
スタックスは、サム&デイヴ(アトランティックと契約しており、スタックスで預かっていた)とオーティス・レディング(アトランティックとの関係終了直前に他界した)という最大のアーティストを失ったにも関わらず、素早い回復を見せた。サム&デイヴのプロデュースに重要な役割を果たした[[プロデューサー]]、[[作曲家|ソングライター]]の[[アイザック・ヘイズ]]が"Hot Buttered Soul"で脚光を浴び、[[1969年]]、同作はトリプル・プラチナ・ディスクに輝く。また、スタックスは、また[[ステイプル・シンガーズ]]が[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]から[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ポップ・ミュージック|ポップ]]路線に転じたことによる成功も味わった。レーベル最古のアーティスト、[[ルーファス・トーマス]]も再度人気を取り戻し、ヒットをいくつかのヒットを生んだ。しかしながら、スタックスのレコードの売上は、ガルフ・アンド・ウェスタンの貧弱な経営の下で全体的には下降傾向を辿った。[[1970年]]、スチュワートとスタックスの販売ディレクターのアル・ベルが共同で、レーベルを買い戻した。スタックスは、その後[[コロムビア・レコード]]との交渉が始まるまでの短い間、独立した経営を行った。スチュワートはレーベルが消えていくのを見過ごすことはできず、私財を投げ打って、レーベルの運営を継続させたと語っている。


共同経営者として、ベルはスタックスを単に主要なレコード会社に育てることに留まらず、[[アフリカ系アメリカ人]]コミュニティーの主たるプレイヤーに育てることを模索しはじめた。彼はより多くのアーティストと契約を締結し、アーティストの多くがマスルショールズなどスタックス・スタジオ以外のスタジオでレコーディングするようになった。またプロデューサーも外部の人材が関わるようになっていき、スタックス固有のサウンドの時代は終わることになった(ベルが契約する機会があったにもわらず、なぜか契約しなかったアーティストの中には、[[アル・グリーン]]がいる)。ベルはコメディのレーベルとして、傘下にパーティー(Partee)を設立し、[[リチャード・プライアー]]、[[モムズ・マブリ]]などのアルバムをリリース。また[[ビッグ・スター]]と契約し、白人のポップ・マーケットへの参入も図った。ベルは、様々な黒人運動に関わるようになった。彼はジェシー・ジャクソン師の親友であり、彼のレインボー・プッシュ連合を財政的に支援していた。
共同経営者として、ベルはスタックスを単に主要なレコード会社に育てることに留まらず、[[アフリカ系アメリカ人]]コミュニティーの主たるプレイヤーに育てることを模索しはじめた。彼はより多くのアーティストと契約を締結し、アーティストの多くがマスルショールズなどスタックス・スタジオ以外のスタジオでレコーディングするようになった。またプロデューサーも外部の人材が関わるようになっていき、スタックス固有のサウンドの時代は終わることになった(ベルが契約する機会があったにもかかわらず、なぜか契約しなかったアーティストの中には、[[アル・グリーン]]がいる)。ベルはコメディのレーベルとして、傘下にパーティー(Partee)を設立し、コメディアン、[[リチャード・プライアー]]<ref group="注">プライアのレコードは黒人サークル内でかなりのヒットとなった。</ref>などのアルバムをリリース。また[[ビッグ・スター]]と契約し、白人のポップ・マーケットへの参入も図った。ベルは、様々な黒人運動に関わるようになった。彼はジェシー・ジャクソン師の親友であり、彼のレインボー・プッシュ連合を財政的に支援していた。


[[1972年]]、アル・ベルとスタックスのアーティストたちは、[[ワッツタックス]]と銘打ったコンサートを開催し、ロサンジェルスのアフリカ系アメリカン人を中心に10万人以上を集客した。「ブラック・ウッドストック」としても知られるこのイベントは、ジェシー・ジャクソン師が司会を務め、映画監督の[[メル・スチュワート]]によって撮影された。スタックスのアーティストが出演したほか、当時は無名に近かったリチャード・プライアーのお笑いもフィーチャーされた。
[[1972年]][[8月20日]]、アル・ベルとスタックスのアーティストたちは、ワッツタックスと銘打ったコンサートを開催し、ロサンジェルスのアフリカ系アメリカン人を中心に10万人以上を集客した。「ブラック・ウッドストック」としても知られるこのイベントは、ジェシー・ジャクソン師が司会を務め、[[メル・スチュワート]]の監督により映画も撮影された。スタックスのアーティストが出演したほか、当時は無名に近かったリチャード・プライアーのお笑いもフィーチャーされた。


{{main|ワッツタックス/スタックス・コンサート}}
===倒産===
一方、スタックスの将来は決して明るくはなかった。スタックスは、[[コロムビア・レコード|コロンビア/CBS]]との配給契約を締結する。同社社長の[[クライヴ・デイヴィス]]はCBSが本格的にアフリカ系アメリカ人の市場に参入し、[[モータウン]]と競争するための手段としてスタックスを有望視していたが、契約締結後間もなく、彼は会社からその座を追われてしまう。デイヴィス不在のCBSは、急速にスタックスへの興味を失っていき、スタックスの利益は劇的に目減りしていった。CBSの販売網は、スタックスの販売を下支えしていた黒人コミュニティーの個人経営のレコード店を無視、またCBSのアーティストの売上が減少することを恐れて、スタックスの販売促進を充分に行わなかった。[[シカゴ]]、[[デトロイト]]などの大都市でスタックスの新譜が入手できないというレポートがスタックスに上がってくるにつれ、CBSとの契約が大きな誤りであったことが明確になり、このままでは会社が存続できないという状況に追い込まれていった。しかしながら、このような状況下においてもCBSは、契約を終了してスタックスを解放することを拒否した。それは、スタックスが他のレコード会社とより実りある契約を締結し、CBSの競合となることを恐れたためである。


=== 倒産 ===
スタックス最後の大ヒットは、[[1974年]]の[[シャーリー・ブラウン]]の"Woman to Woman"だった。このヒットによりスタックスの終焉は延びることとなったが、[[1976年]]、スタックスはついに倒産した。
スタックスは、[[コロムビア・レコード|コロンビア/CBS]]との配給契約を締結した。同社社長の[[クライヴ・デイヴィス]]はCBSが本格的にアフリカ系アメリカ人の市場に参入し、[[モータウン]]と競争するための手段としてスタックスを有望視していたが、契約締結後間もなく、彼は会社からその座を追われてしまう。デイヴィス不在のCBSは、急速にスタックスへの興味を失っていき、スタックスの利益は急激に減少していった。CBSの販売網は、スタックスの販売を下支えしていた黒人コミュニティーの個人経営のレコード店を無視、またCBSのアーティストの売上が減少することを恐れて、スタックスの販売促進を充分に行わなかった。[[シカゴ]]、[[デトロイト]]などの大都市でスタックスの新譜が入手できないというレポートがスタックスに上がってくるにつれ、CBSとの契約が大きな誤りであったことが明確になり、このままでは会社が存続できないという状況に追い込まれていった。しかしながら、このような状況下においてもCBSは、契約を終了してスタックスを解放することを拒否した。それは、スタックスが他のレコード会社とより実りある契約を締結し、CBSの競合となることを恐れたためである。


スタックス最後のR&Bヒットは、[[1974年]]の[[シャーリー・ブラウン]]の"ウーマン・トゥ・ウーマン/Woman to Woman"だった。このヒットによりスタックスの終焉は延びることとなったが、[[1976年]]、スタックスはついに倒産した。
アル・ベルは、銀行から融資を受けることよって倒産を食い止めようとし、またジム・スチュワートはメンフィスの邸宅を抵当に入れて短期の運転資金を得ようと試みた。しかしながら銀行は、ローンを抵当流れ処分にしてしまい、スチュワートは自宅と財産の多くを失うこととなってしまった。


アル・ベルは、銀行から融資を受けることによって倒産を食い止めようとし、またジム・スチュワートはメンフィスの邸宅を抵当に入れて短期の運転資金を得ようと試みた。しかしながら銀行は、ローンを抵当流れ処分にしてしまい、スチュワートは自宅と財産の多くを失うこととなってしまった。
===リバイバル===
[[ファンタジー・レコード]]がアトランティックが権利を持たないスタックス音源を買い取り、スタックスのカタログを再発し続けた。一方[[1968年]]5月以前のアトランティック時代のスタックス音源については、現在もアトランティックが権利を有しており、その多くは傘下の[[ライノ・エンタテインメント|ライノ・レコード]]から再発されている。一部は[[コレクタブルズ・レコード]]へライセンスされている。ファンタジーはアトランティック時代の音源を含む形で「ザ・スタックス・ストーリー」と題したボックス・セットをリリースした。これは、アトランティックとの合意に基づいてリリースに漕ぎ着けたものである。現在スタックスは、その他ファンタジー・レーベル・グループとともに、[[コンコード・レコード|コンコード・ミュージック・グループ]]傘下にある。


=== 復活 ===
[[2003年]]、スタックス・スタジオ跡地に再建されたスタックス・アメリカン・ソウル・ミュージック博物館(Stax Museum of American Soul Music)が開館した。
[[ファンタジー・レコード]]がアトランティックが権利を持たないスタックス音源を買い取り、スタックスのカタログを再発し続けた。一方[[1968年]]5月以前のアトランティック時代のスタックス音源については、現在もアトランティックが権利を有しており、その多くは傘下の[[ライノ・エンタテインメント|ライノ・レコード]]から再発されている。一部は[[コレクタブルズ・レコード]]へライセンスされている。ファンタジーはアトランティック時代の音源を含む形で「ザ・スタックス・ストーリー」と題したボックス・セットをリリースした。これは、アトランティックとの合意に基づいてリリースに漕ぎ着けたものである。現在スタックスは、その他ファンタジー・レーベル・グループとともに、[[コンコード・レコード|コンコード・ミュージック・グループ]]傘下にある。


BBC放送のラジオ局1xtraでアンジー・ストーンがロニー・ヘレルのインタビューに答える形で、コンコードがスタックスの再スタートを準備しており、彼女が2007年のリリースに向けアルバムをレコーディング中であることを明らかにした。
[[2003年]]、スタックス・スタジオ跡地に再建されたスタックス・アメリカン・ソウル・ミュージック博物館(Stax Museum of American Soul Music)が開館した。BBC放送のラジオ局1xtraでアンジー・ストーンがロニー・ヘレルのインタビューに答える形で、コンコードがスタックスの再スタートを準備しており、彼女が2007年のリリースに向けアルバムをレコーディング中であることを明らかにした。


[[ローリング・ストーン|ローリング・ストーン誌]]の[[2006年]][[9月23日]]号は、メンフィス出身の[[ジャスティン・ティンバーレイク]]がレーベルを復活しマット・モリスと契約を締結することを模索していると伝えた。
[[ローリング・ストーン|ローリング・ストーン誌]]の[[2006年]][[9月23日]]号は、メンフィス出身の[[ジャスティン・ティンバーレイク]]がレーベルを復活しマット・モリスと契約を締結することを模索していると伝えた。
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以降も[[レイラ・ハサウェイ]]、[[ソウライヴ]]等が新たに契約し、新作を発表。[[モータウン]]で[[マーヴィン・ゲイ]]等に楽曲を提供していた、[[ノーザン・ソウル]]の雄[[リオン・ウェア]]も移籍してきた。スタックスの全盛期を支えた[[エディ・フロイド]]や[[スティーヴ・クロッパー]]もこのレーベルへと戻ってきた。
以降も[[レイラ・ハサウェイ]]、[[ソウライヴ]]等が新たに契約し、新作を発表。[[モータウン]]で[[マーヴィン・ゲイ]]等に楽曲を提供していた、[[ノーザン・ソウル]]の雄[[リオン・ウェア]]も移籍してきた。スタックスの全盛期を支えた[[エディ・フロイド]]や[[スティーヴ・クロッパー]]もこのレーベルへと戻ってきた。


==ミュージシャン==
== 所属したミュージシャン ==
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=== アトランティック時代 ===
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(1957年–1968年)
===アトランティック期===
(1957–1968)
*[[ルーファス・トーマス]]
*[[ルーファス・トーマス]]
*[[カーラ・トーマス]] <small>(アトランティック→スタックス)</small>
*[[カーラ・トーマス]] <small>(アトランティック→スタックス)</small>
*[[マーキーズ|ザ・マーキーズ]] <small>(サテライト→スタックス)</small>
*[[マーキーズ|ザ・マーキーズ]] <small>(サテライト→スタックス)</small>
*[[ウィリアム・ベル (歌手)|ウィリアム・ベル]]
*[[ウィリアム・ベル (歌手)|ウィリアム・ベル]]
*[[ジ・アスターズ]]
*[[ブッカー・T&ザ・MG's]]
*[[ブッカー・T&ザ・MG's]]
*[[エディ・フロイド]]
*[[エディ・フロイド]]<ref group="注">1966年に「ノック・オン・ウッド」がヒット。</ref>
*[[オーティス・レディング]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[オーティス・レディング]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[マッド・ラッズ|ザ・マッド・ラッズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[マッド・ラッズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[オリー&ザ・ナイチンゲイル]]
*[[オリー&ナイチンゲイル]]
*[[ウィルソン・ピケット]] <small>(アトランティックと契約、スタックで録音)</small>
*[[サム&デイヴ]] <small>(アトランティックと契約、スタックス預かり)</small>
*[[ジュディ・クレイ]]
*[[ドン・コヴェイ]] <small>(アトランティックと契約、スタックで録音)</small>
*[[ルビー・ジョンソン]]
*[[サム&デイヴ]] <small>(アトランティックと契約、スタック預かり)</small>
*The Charmels
*[[ザ・グッディーズ]] <small>(ヒップ)</small>
*[[メイブル・ジョン]]
*[[メイブル・ジョン]]
*[[アルバート・キング]]
*[[アルバート・キング]]
*[[ジョニー・テイラー]]
*ジョニー・テイラー
*[[バーケイズ|ザ・バーケイズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[バーケイズ|ザ・バーケイズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[アイザック・ヘイズ]] <small>(エンタープライズ)</small>
*[[アイザック・ヘイズ]] <small>(エンタープライズ)</small>
*C.L.ブラスト
*[[ボビー・マーシャン|ボビー・マーチャン]]
*サー・マック・ライス
*チャーメルズ
*[[ガス・キャノン]]
*[[ジョニー・デイ]]
*[[ジョニー・デイ]]
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*[[ジュディ・クレイ]]
*[[アーサー・コンレイ]] <small>(フェイム/アトコと契約、スタックスで録音)</small>
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===独立===
=== 独立レーベル時代 ===
(1968年–1975年)
(1968–1975)
*ジョニー・テイラー
*[[ソウル・チルドレン|ザ・ソウル・チルドレン]]
*[[ソウル・チルドレン]]
*[[ドラマティックス]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[ステイプル・シンガーズ]]
*[[ミスター・ビッグ・スタッフ|ジーン・ナイト]]
*[[フレデリック・ナイト (歌手)|フレデリック・ナイト]]
*[[アルバート・キング]]
*[[ルーファス・トーマス]]
*[[カーラ・トーマス]]
*[[アイザック・ヘイズ]]
*[[メル・アンド・ティム]]<ref group="注">1972年に「スターティング・オール・オーバー・アゲイン」がヒットした。</ref>
*[[リトル・サニー]]
*[[リトル・ミルトン]]
*[[リトル・ミルトン]]
*[[バーケイズ]]
*ウィリアム・ベル
*[[エディ・フロイド]]
*[[カルヴィン・スコット]]
*[[エモーションズ|ジ・エモーションズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[エモーションズ|ジ・エモーションズ]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[デイヴィッド・ポーター]]
*[[デイヴィッド・ポーター]]
*[[リチャード・プライアー]] <small>(パーティー)</small>
*[[リチャード・プライアー]] <small>(パーティー)</small>
*[[ルーサー・イングラム]]<small>(KOKO)</small>
*[[ステイプル・シスターズ|ザ・ステイプル・シスターズ]]
*[[ロス・シンガーズ|ザ・ロス・シンガーズ]]
*ロス・シンガーズ
*[[ランス・アレン・グループ|ザ・ランス・アレン・グループ]]
*[[ランス・アレン・グループ|ザ・ランス・アレン・グループ]]
*[[キム・ウェストン]]
*[[キム・ウェストン]]
*[[ドラマィックス|ザ・ドラマィックス]] <small>(ヴォルト)</small>
*[[テンプリーズ|ザ・テンプリーズ]]<small>(ウイ・プロデュース)</small>
*[[シャーリー・ブラウン]] <small>(トゥルース)</small>
*[[テンプリーズ|ザ・テンプリーズ]]
*[[ジェシー・ジャクソン]] <small>(リスペクト)</small>
*[[ジーン・ナイト]]
*[[ジェッシージャクソン]] <small>(リスペクト)</small>
*モムズマブレイ<small>(パーティー)</small>
*[[メルド・ティム]]
*[[ジミージョー]]
*[[モムズ・マブレイ]] <small>(パーティー)</small>
*[[ルーサー・イングラム]]
*[[フレデリック・ナイト (歌手)|フレデリック・ナイト]]
*[[シルレイ・ブラウン]]
*[[レナ・ザヴァローニ]]
*[[アイネス・フォックス]]
*[[アイネス・フォックス]]
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===コンコード===
=== コンコード時代 ===
(2006-現在)
(2006-現在)
*[[リオン・ウェア]]
*[[リオン・ウェア]]
*[[エンダンビ]]
*[[エンダンビ]]
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*[[エディ・フロイド]]
*[[エディ・フロイド]]
*[[ティーナ・マリー]]
*[[ティーナ・マリー]]
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|}


==注釈==
== 関連項目 ==
*[[アトランティック・レコード]]
<references/>
*[[ゴールドワックス・レコード]]
*[[ハイ・レコード]]
*[[フェイム・スタジオ]]
*[[ソウル・ミュージック]]
*[[ファンク]]
*[[ブルース]]
*[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]
*[[ディープ・ソウル]]
*[[モータウン]]
*[[ドゥーワップ]]


==参考文献==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}

== 引用書籍 ==
*{{cite book | author=ロブ・ボウマン | title=Soulsville U.S.A: The Story of Stax Records
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==外部リンク==
== 外部リンク ==
* [http://www.stax-records.com/ 公式サイト] {{en icon}}
<!-- * [http://www.stax-records.com/ 公式サイト] {{en icon}}
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* [http://www.stax50.com/ スタックス50周年記念公式サイト] {{en icon}} -->
* [http://www2.concordmusicgroup.com/labels/Stax/ 公式サイト] {{en icon}} [[コンコード・レコード]]内
* [http://www.history-of-rock.com/stax_records.htm スタックスの歴史] {{en icon}}
* [http://www.history-of-rock.com/stax_records.htm スタックスの歴史] {{en icon}}
* [http://www.staxstudio.com/ スタックス博物館] {{en icon}}
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* [http://staxrecords.free.fr/index.htm 非公式ファン・サイト] {{en icon}}
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* [http://www.pbs.org/pov/pov2004/wattstax/index.html P.O.V.ワッツタックス・サイト] {{en icon}}
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2024年6月5日 (水) 12:09時点における最新版

スタックス・レコード
Stax Records
親会社コンコード
設立1957年 (67年前) (1957)
設立者ジム・スチュワートエステル・アクストン
販売元
ジャンル
本社所在地テネシー州メンフィス
公式サイトwww.staxrecords.com
メンフィスのスタックス博物館。1989年に取り壊されたスタックス・スタジオを再現して同じ場所に建設された。

スタックス・レコードStax Records)は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィスに拠点を置いていたレコード・レーベルである。1957年に設立され、1975年末に倒産した。その後、2006年末、レーベルの権利を保有するコンコード・レコードにより復活。社名は当時のレーベル・オーナーであるジム・スチュワート(Jim Stewart)とエステル・アクストン(Estelle Axton)の姓をあわせたもの。

サザン・ソウルメンフィス・ソウル英語版といった音楽スタイルの発展に大きな役割を果たし、またソウルR&Bだけでなくブルースゴスペル[注 1]ファンクなどもリリースした。演奏の多くは、白人・黒人混合バンドのブッカー・T&ザ・MG'sが主に担当した。

歴史[編集]

1957年、ジム・スチュワートによってスタックス・レコードの前身となるサテライト・レコードが設立される[1]。設立当初は、メンフィス北部のガレージに事務所を構えていた。翌1958年、彼の姉、エステル・アクストンが共同オーナーとなる。事務所は、キャピトル劇場の跡地だったメンフィス市内のイースト・マクレモア・アベニュー926番地に移り、この場所が定位置となった。最初期には、同レーベルはカントリー・ミュージックをリリースしていたが、ジムはレイ・チャールズの「ワッド・アイ・セイ」を聴き、リズム・アンド・ブルースに目覚めて路線変更している[2]

アトランティック配給時代[編集]

サテライト・レコードがレコーディングしたアーティストで、初めて成功を収めたのはルーファス・トーマスカーラ・トーマスの親子だった。彼らの成功がアトランティック・レコードの目に留まり、スチュワートはアトランティックが優先的にサテライト音源をリリースできるよう、配給契約を締結した。サテライトと初期に契約したバンドには、マーキーズ(元ロイヤル・スペーズ)も挙げられる。マーキーズの1961年のシングル"ラスト・ナイト/Last Night"は、当初サテライトから全米に配給された[3]。アトランティックが配給したサテライト音源は、アトランティック・レーベル、もしくはアトコから全米に向けてリリースされた。"Last Night"はヒットチャートを駆け上り、ポップで3位、ソウルで2位、年間チャートでも34位の大ヒットとなった。チャートを上昇しているころ、スチュワートとアクストンは、カリフォルニア州にサテライト・レコードというレーベルが別に存在していることを知り、レーベル名をスタックスと変更した。間もなく、ピアニストブッカー・T・ジョーンズがレーベルに合流し、彼はブッカー・T&ザ・MG'sの名前で、マーキーズのメンバーとプレイするようになった[4]1962年、スタックスはリズム・アンド・ブルース音楽のためのレーベル、ヴォルト(Volt)を傘下に設立する。スタックスからリリースされたのはオーティス・レディングと、アトランティックがスタックスに紹介したサム&デイヴだった。

アトランティックのオーナーのひとりだったジェリー・ウェクスラーはスタックス・サウンドに魅せられていた。 ウェクスラーはアトランティックのプロデューサー/エンジニアであったトム・ダウドをスタックスへ派遣し、ダウドは設備を近代化し、スタジオのレコーディング機材をモノラルからステレオにした。1965年までに、スタックスはアトランティックと正式な全米を対象とした配給契約を締結した。この契約には、アトランティックがスタックスから受け取ったマスターの所有権を有する旨の条項が含まれていたが、後まで見過ごされていた。

ウェクスラーは、アトランティックのアーティストをレコーディングさせるため、頻繁にメンフィスのスタックス・スタジオへ連れて行った。ブッカー・T&ザ・MG'sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーエディ・フロイド[注 2]、オーティス・レディング[注 3]ウィルソン・ピケット[注 4]とそれぞれ共作を行い、ヒットに結び付けた[5]。ピケットのヒットはスタックスの手によるものであったが、名義としてはアトランティックからのリリースだった。一方、アトランティックのデュオ、サム&デイヴについては、スタックスにリースされ、スタックスから世に送り出された[6]

当時、多くのラジオ局は「特定のレーベルへの肩入れを疑われるのを嫌い」、同じレーベルからリリースされた新曲を同時に1、2曲以上は放送しない規則を掲げていた。この対策として、他のレーベルと同様、スタックスも複数の傘下レーベルを設立していた。最も有名なのがヴォルトであるが、他にもエンタープライズ、チャリス、ヒップ、サフィスなどのレーベルがあった。

所属アーティストのツアーを頻繁に企画したモータウンとは異なり、スタックスはレーベル主催のコンサートを通じてアーティストのプロモーションを行うことはあまり多くなかった。レーベル初となるこのような形式のコンサートは、メンフィスではなくロサンゼルス1965年の夏に行われた。コンサートは成功を収めたが、終了後にワッツ暴動が起き、スタックスのアーティストの一部が暴動に巻き込まれてしまった。スタックスはまた、メンフィスにおいて何年かに渡りクリスマス・コンサートも主催した。スタックスのパッケージ・ショーは、1967年イギリスフランスでも実施された。米国ソウル・ミュージックは当時西欧で人気を誇っており、このツアーは大きな成功を収めた。スタックスは、ヒットとなったオーティス・レディングの「Otis Live In Europe」を始め、このツアーからいくつかのライヴ・アルバムを発表した。

アトランティックとの契約解消[編集]

1967年、アトランティック・レコードがワーナー・ブラザース=セヴン・アーツに買収され、スタックス/アトランティック間の契約に定められていた配給契約の見直しが浮上する。この時点で、スチュワートはアトランティック配給のスタックス音源のオリジナル・マスターの権利がアトランティックに移ってしまっていることを初めて知ったとされている(彼は、このことが明記されていた契約条項について気がついていなかった)。

ワーナーの新しい経営陣は、アトランティックが保有するスタックス音源の権利について、全く妥協の余地を見せることがなく、その結果同年3月、スチュワートはレーベルをガルフ・アンド・ウェスタン社へ売却することとなった。エステル・アクストンは、売却後レーベルを去った。彼女がスタックスを去る前に最後の仕事として、ウェクスラーに対し、スタックスがアトランティックとの関係を終了させることを伝えた。スタックスは、そのカタログの中の最も有望な部分を持たずしてその後の運営をすることを余儀なくされた(後年、ファンタジー・レコード傘下に入ったスタックスは、それらのヒットの別テイクをリリースしたりもした)。同年5月に配給契約が終了したのち、一時期アトランティックは関係終了後のスタックス/ヴォルト音源を別デザイン、別ロゴを使用してリリースした。その後スタックス音源についてアトランティック・レーベルで、ヴォルト音源についてはアトコ・レーベルで再発した。関係終了後のスタックス/ヴォルト関連のリリースは、販売店の混乱を避けるため、カタログ番号の系統も変更された。

独立系時代のスタックス/1968-1975年[編集]

スタックスは、サム&デイヴ(アトランティックと契約しており、スタックスで預かっていた)とオーティス・レディング(アトランティックとの関係終了直前に他界した)という人気アーティストを失った。サム&デイヴのヒット曲を制作したプロデューサーソングライターアイザック・ヘイズがアルバム"Hot Buttered Soul"をヒットさせた。また、スタックスは、ジョニー・テイラー、ドラマティックス、ステイプル・シンガーズ、ソウル・チルドレン、ジーン・ナイト、フレデリック・ナイト、バーケイズらによるR&B・ヒットもリリースした。68年のジョニー・テイラーによる「フーズ・メイキン・ラブ」はレーベルに勢いを与える重要なヒット曲となった。レーベル最古参のアーティスト、ルーファス・トーマスも人気を取り戻し、いくつかのヒットを生んだ。しかしながら、スタックスのレコードの売上は、ガルフ・アンド・ウェスタンの貧弱な経営の下で全体的には下降傾向を辿った。1970年、スチュワートとスタックスの販売ディレクターのアル・ベルが共同で、レーベルを買い戻した。スタックスは、その後コロムビア・レコードとの交渉が始まるまでの短い間、独立した経営を行った。スチュワートはレーベルが消えていくのを見過ごすことはできず、私財を投げ打って、レーベルの運営を継続させたと語っている。

1971年アイザック・ヘイズが映画『黒いジャガー』のサウンドトラックを制作。アルバム、主題歌(「黒いジャガーのテーマ」)ともに全米1位を記録した。レコーディングにはバーケイズのメンバーが参加した。

共同経営者として、ベルはスタックスを単に主要なレコード会社に育てることに留まらず、アフリカ系アメリカ人コミュニティーの主たるプレイヤーに育てることを模索しはじめた。彼はより多くのアーティストと契約を締結し、アーティストの多くがマスルショールズなどスタックス・スタジオ以外のスタジオでレコーディングするようになった。またプロデューサーも外部の人材が関わるようになっていき、スタックス固有のサウンドの時代は終わることになった(ベルが契約する機会があったにもかかわらず、なぜか契約しなかったアーティストの中には、アル・グリーンがいる)。ベルはコメディのレーベルとして、傘下にパーティー(Partee)を設立し、コメディアン、リチャード・プライアー[注 5]などのアルバムをリリース。またビッグ・スターと契約し、白人のポップ・マーケットへの参入も図った。ベルは、様々な黒人運動に関わるようになった。彼はジェシー・ジャクソン師の親友であり、彼のレインボー・プッシュ連合を財政的に支援していた。

1972年8月20日、アル・ベルとスタックスのアーティストたちは、「ワッツタックス」と銘打ったコンサートを開催し、ロサンジェルスのアフリカ系アメリカン人を中心に10万人以上を集客した。「ブラック・ウッドストック」としても知られるこのイベントは、ジェシー・ジャクソン師が司会を務め、メル・スチュワートの監督により映画も撮影された。スタックスのアーティストが出演したほか、当時は無名に近かったリチャード・プライアーのお笑いもフィーチャーされた。

倒産[編集]

スタックスは、コロンビア/CBSとの配給契約を締結した。同社社長のクライヴ・デイヴィスはCBSが本格的にアフリカ系アメリカ人の市場に参入し、モータウンと競争するための手段としてスタックスを有望視していたが、契約締結後間もなく、彼は会社からその座を追われてしまう。デイヴィス不在のCBSは、急速にスタックスへの興味を失っていき、スタックスの利益は急激に減少していった。CBSの販売網は、スタックスの販売を下支えしていた黒人コミュニティーの個人経営のレコード店を無視、またCBSのアーティストの売上が減少することを恐れて、スタックスの販売促進を充分に行わなかった。シカゴデトロイトなどの大都市でスタックスの新譜が入手できないというレポートがスタックスに上がってくるにつれ、CBSとの契約が大きな誤りであったことが明確になり、このままでは会社が存続できないという状況に追い込まれていった。しかしながら、このような状況下においてもCBSは、契約を終了してスタックスを解放することを拒否した。それは、スタックスが他のレコード会社とより実りある契約を締結し、CBSの競合となることを恐れたためである。

スタックス最後のR&Bヒットは、1974年シャーリー・ブラウンの"ウーマン・トゥ・ウーマン/Woman to Woman"だった。このヒットによりスタックスの終焉は延びることとなったが、1976年、スタックスはついに倒産した。

アル・ベルは、銀行から融資を受けることによって倒産を食い止めようとし、またジム・スチュワートはメンフィスの邸宅を抵当に入れて短期の運転資金を得ようと試みた。しかしながら銀行は、ローンを抵当流れ処分にしてしまい、スチュワートは自宅と財産の多くを失うこととなってしまった。

復活[編集]

ファンタジー・レコードがアトランティックが権利を持たないスタックス音源を買い取り、スタックスのカタログを再発し続けた。一方1968年5月以前のアトランティック時代のスタックス音源については、現在もアトランティックが権利を有しており、その多くは傘下のライノ・レコードから再発されている。一部はコレクタブルズ・レコードへライセンスされている。ファンタジーはアトランティック時代の音源を含む形で「ザ・スタックス・ストーリー」と題したボックス・セットをリリースした。これは、アトランティックとの合意に基づいてリリースに漕ぎ着けたものである。現在スタックスは、その他ファンタジー・レーベル・グループとともに、コンコード・ミュージック・グループ傘下にある。

2003年、スタックス・スタジオ跡地に再建されたスタックス・アメリカン・ソウル・ミュージック博物館(Stax Museum of American Soul Music)が開館した。BBC放送のラジオ局1xtraでアンジー・ストーンがロニー・ヘレルのインタビューに答える形で、コンコードがスタックスの再スタートを準備しており、彼女が2007年のリリースに向けアルバムをレコーディング中であることを明らかにした。

ローリング・ストーン誌2006年9月23日号は、メンフィス出身のジャスティン・ティンバーレイクがレーベルを復活しマット・モリスと契約を締結することを模索していると伝えた。

2006年12月18日、ファンタジー・レコードを抱えるコンコード・ミュージック・グループはスタックス・レーベルを復活させることを表明した。2007年3月13日、スタックス・レコードの歴史上のベスト50曲を収録した2枚組CDStax 50: A 50th Anniversary Celebrationがリリースされ、正式な復活となった[7]

コンコードが配給するスタックスの初の新録アルバムは、2007年3月27日リリースのアース・ウィンド・アンド・ファイアーのトリビュート・アルバムInterpretations: Celebrating The Music Of Earth, Wind & Fireである[8]

イギリスでは、キース・ストラチャン脚本、監督のミュージカル「Sweet Soul Music」が2007年2月よりイギリス全土のツアーを開始した。これはスタックス設立50周年を記念したもので、主なスタックス・アーティストへのトリビュートとなっている。[9]

復活したレーベルは、新規にアイザック・ヘイズアンジー・ストーンらとアーティスト契約を締結したが[10]、ヘイズは2008年8月10日に亡くなり、レコーディングは実現していない。

以降もレイラ・ハサウェイソウライヴ等が新たに契約し、新作を発表。モータウンマーヴィン・ゲイ等に楽曲を提供していた、ノーザン・ソウルの雄リオン・ウェアも移籍してきた。スタックスの全盛期を支えたエディ・フロイドスティーヴ・クロッパーもこのレーベルへと戻ってきた。

所属したミュージシャン[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ランス・アレン・グループなどゴスペル・グループのレコードも発表した。
  2. ^ 「ノック・オン・ウッド」が1966年にヒット。
  3. ^ 「ドック・オブ・ザ・ベイ」が死後の1968年にヒット。
  4. ^ 「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」がヒットしている。
  5. ^ プライアーのレコードは黒人サークル内でかなりのヒットとなった。
  6. ^ 1966年に「ノック・オン・ウッド」がヒット。
  7. ^ 1972年に「スターティング・オール・オーバー・アゲイン」がヒットした。

出典[編集]

  1. ^ Get ready for some golden soul in 2007
  2. ^ 「魂のゆくえ」p.96、ピーターバラカン、新潮社
  3. ^ http://www.allmusic.com/artist/the-mar-keys-mn0000059655
  4. ^ Hughes, Charles L. (March 23, 2015). Country Soul: Making Music and Making Race in the American South. UNC Press Books. ISBN 9781469622446 
  5. ^ Steve Cropper's research into Wilson Pickett sparked initial hit”. Something Else (2015年2月3日). 2021年12月8日閲覧閲覧。
  6. ^ The Soul of Stax Records”. waxpoetics.com. Wax Poetics Magazine. 2015年12月23日閲覧。
  7. ^ Stax 50th Anniversary Celebration
  8. ^ Interpretations: Celebrating The Music Of Earth, Wind & Fire
  9. ^ A new UK show for 2007 celebrates 50 years of soul, featuring Otis, Aretha, Sam Cooke and more!
  10. ^ Concord Music Reactivates Stax Records

引用書籍[編集]

  • ロブ・ボウマン (1997). Soulsville U.S.A: The Story of Stax Records. Prentice-Hall. ISBN 0-8256-7284-8 

外部リンク[編集]