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[[画像:Kyosai Sakakibara Kenkichi.jpg|right|thumb|200px|[[河鍋暁斎]]画『暁斎楽画 第二号 榊原健吉<!--この画での表記は「健吉」です-->山中遊行之図』。[[妖怪]]たちの脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。]]
'''榊原 鍵吉'''(さかきばら けんきち、[[文政]]13年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1830年]][[12月19日]]) - [[明治]]27年([[1894年]])[[9月11日]])は、[[江戸幕府]][[幕臣]]であり[[幕末]]から[[明治]]にかけての[[剣術]]家。[[遊撃隊 (幕府軍)|遊撃隊]]頭取。[[諱]]は友善(ともよし)。


{{基礎情報 武士
[[男谷信友]]から[[直心影流剣術|直心影流]]男谷派剣術を継承した。[[明治維新]]後に[[撃剣興行]]を主宰して剣術家を救済したことや、明治20年([[1887年]])の[[天覧試合|天覧]][[試し斬り|兜割]]などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。
| 氏名 =榊原鍵吉
| 画像 =Sakakibara Kenkichi 2.jpg
| 画像サイズ =270px
| 画像説明 =
| 時代 =[[江戸時代]][[幕末|末期]] - [[明治|明治時代]]
| 生誕 =[[文政]]13年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1830年]][[12月19日]])
| 死没 =[[明治]]27年([[1894年]])[[9月11日]]
| 改名 =
| 別名 =友善(諱)、健吉
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =義光院杖山倭翁居士
| 霊名 =
| 墓所 =西応寺([[東京都]][[新宿区]][[須賀町 (新宿区)|須賀町]])
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| 幕府 =[[江戸幕府]]
| 主君 =[[徳川家茂]]
| 藩 =
| 氏族 =
| 父母 =
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
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'''榊原 鍵吉'''(さかきばら けんきち、[[文政]]13年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1830年]][[12月19日]]) - [[明治]]27年([[1894年]])[[9月11日]])は、[[江戸幕府]][[幕臣]][[剣術]]家。[[諱]]は'''友善'''(ともよし)。

[[幕末期]]に[[男谷信友]]から[[直心影流剣術|直心影流]]男谷派剣術を継承し、[[講武所]]剣術師範役、[[遊撃隊 (幕府軍)|遊撃隊]]頭取を務める。[[明治維新]]後は[[撃剣興行]]を主宰して困窮した[[士族]]を救済したことや、[[天覧兜割り]]の成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。[[稽古]]で長さ六[[尺]](180cm)、重さ三[[貫]](11kg)の振り棒を2000回も振ったといわれ、[[腕]]周りは55cmあったという。弟子に[[山田次郎吉]]や[[大東流合気柔術]]の実質的な創始者である[[武田惣角]]らがいる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[画像:Kyosai Sakakibara Kenkichi.jpg|right|thumb|200px|[[河鍋暁斎]]画『暁斎楽画 第二号 榊原健吉<!--この画での表記は「健吉」です-->山中遊行之図』。[[妖怪]]たちの脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。]]
文政13年(1830年)、[[江戸]][[麻布]]の広尾生まれ。父は[[御家人]]・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。
=== 生い立ち ===
[[江戸]][[麻布]]の[[広尾 (渋谷区)|広尾]]に生まれる。[[花房氏]]の血を引く[[榊原職直]]の系統<ref>『姓氏』([[樋口清之]]・[[丹羽基二]]、[[秋田書店]]、[[1970年]])より。</ref>である[[御家人]]・榊原益太郎友直の子。5人兄弟の長男であった。


=== 直心影流免許皆伝へ ===
=== 直心影流修行 ===
[[天保]]13年([[1842年]])、13歳のときに直心影流剣術・[[男谷信友]]の[[道場]]に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は[[下谷]]根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、[[玄武館]]・[[士学館]]・[[練兵館]]など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。
[[天保]]13年([[1842年]])、13歳のときに直心影流剣術・[[男谷信友]]の[[道場]]に入門する。<ref>{{Cite book|和書|title=日本剣豪100人伝|date=2008年4月8日|publisher=株式会社学習研究社|page=218|language=日本語}}</ref>当時、男谷道場は広尾から近い[[狸穴]]にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は[[下谷]][[根岸 (台東区)|根岸]]に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、[[玄武館]]・[[士学館]]・[[練兵館]]など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。


鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても[[切紙]]や[[目録]]など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。[[嘉永]]2年([[1849年]])、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に[[免許皆伝]]を与えた。
鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても[[切紙]]や[[目録]]など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。[[嘉永]]2年([[1849年]])、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に[[免許皆伝]]を与えた。<ref name="#1">{{Cite book|和書|title=日本剣豪100人伝|date=2008年4月8日|publisher=株式会社学習研究社|page=218}}</ref>


=== 講武所時代 ===
=== 講武所時代 ===
[[安政]]3年([[1856年]])3月、男谷の推薦によって[[講武所]]の[[剣術]]教授方となる。後に師範役に進。
[[安政]]3年([[1856年]])3月、27歳のときに男谷の推薦によって[[講武所]]の[[剣術]]教授方となる。<ref name="#1"/>後に師範役に進


安政7年([[1860年]])2月、講武所が[[神田小川町]]に移転した際、2月3日の開場式に[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]、[[大老]][[井伊直弼]]ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は[[槍術]]の[[高橋泥舟]](謙三郎)と試合した。すでに高橋は[[井戸金平]]と対戦して、相手の得意技である[[技|足絡]]で勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。
安政7年([[1860年]])2月、講武所が[[築地]]から[[神田小川町]]に移転した際、2月3日の開場式に[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]、[[大老]][[井伊直弼]]ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は[[槍術]]の[[高橋泥舟]](謙三郎)と試合する。すでに高橋は[[井戸金平]]と対戦して、相手の得意技である足がらみで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。<ref name="#1"/>


[[文久]]3年([[1863年]])、将軍上洛に、随行する。[[二条城]]内で新規お召し抱えの[[天野将曹]]([[天野将監|将監]]とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また、[[京都]]の[[四条河原町|四条河原]]で[[土佐藩]][[浪]]3人を斬ったともいう。
[[文久]]3年([[1863年]])、将軍上洛に供をて上京。[[二条城]]内で新規お召し抱えの[[天野将曹]](将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きをわせ天野をひっくり返したという。また、[[京都]]の[[四条河原町|四条河原]]で[[土佐藩]][[浪]]3人を斬ったともいう。


[[慶応]]2年([[1866年]])7月、家茂が[[大坂城]]で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して[[下谷]]車坂に道場を開いた
[[慶応]]2年([[1866年]])7月、家茂が[[大坂城]]で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して[[下谷]]車坂に道場を開


=== 維新前後 ===
=== 維新前後 ===
慶応4年([[1868年]])、[[上野戦争]]のとき、鍵吉は[[彰義隊]]には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の[[北白川宮能久親王]])の[[護衛]]を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の[[湯屋]]・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って[[三河島]]まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。
慶応4年([[1868年]])、[[上野戦争]]のとき、鍵吉は[[彰義隊]]には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の[[北白川宮能久親王]])の[[護衛]]を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の[[湯屋]]・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って[[三河島]]まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。


明治維新後、[[徳川家達]]に従って[[駿府]]に移るが、明治3年([[1870年]])に再び[[東京]]に戻る。明治政府から[[刑部省]]大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉は、自身は[[幕臣]]であるとの思いからこれを受けず、代わりに弟の[[大沢鉄三郎]]を推挙した。
維新後、[[徳川家達]]に従って[[駿府]]に移るが、明治3年([[1870年]])に再び[[東京]]に戻る。明治政府から[[刑部省]]大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉はこれを受けず、弟の大沢鉄三郎を代わりに推挙した。


=== 興行 ===
=== 最後の ===
明治5年([[1872年]])、[[士分]]以上[[帯刀]]が禁じられたこと道場経営が立ちゆかなくなり、警察の術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年([[1873年]])に「[[撃剣興行|撃剣会]]」を組織、[[浅草]]見附外の左衛門河岸で[[見世物小屋|見世物興行]]する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所に上り、地方にも及んだ。
[[散髪脱刀令]]などの[[文明開化]]の影響道場立ちゆかなくなり、武芸者は困窮する。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年([[1873年]])に「撃剣会」を組織、[[浅草]]見附外の左衛門河岸で[[見世物小屋|見世物興行]]する。これが[[撃剣興行]]の始まりで、[[東京]]で37カ所、地方にも及んだ。剣の道を汚す行為という批判もあったが、現在では剣術の命脈を保ったと評価されている


明治9年([[1876年]])、[[廃刀令]]が出ると、[[日本刀|刀]]の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、[[帯]]に掛けるための[[鉤]]が付いた[[木刀]](政府に遠慮して[[杖]](つえ)と称していた)と、[[脇差]]代わりの「頑固扇」と称する木製の[[扇]]を考案し、身に着けた。また、死ぬまで[[髷]]を解かなかった。
=== 「最後の剣客」として ===
明治9年([[1876年]])、[[廃刀令]]が出ると、[[日本刀|刀]]の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、[[帯]]に掛けるための[[鉤]]が付いた[[木刀]](政府に遠慮して[[杖]](つえ)と称していた)と、[[脇差]]代わりの「頑固扇」と称する木製の[[扇]]を考案し、身に着けた。


明治11年([[1878年]])、[[明治天皇]]が[[上野]]に[[行幸]]し、[[天覧試合]]が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。
明治11年([[1878年]])、[[明治天皇]]が[[上野]]に[[行幸]]し、[[天覧試合]]が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。
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明治12年([[1879年]])、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]に[[警視庁武術世話掛|撃剣世話掛]]が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。
明治12年([[1879年]])、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]に[[警視庁武術世話掛|撃剣世話掛]]が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。


明治20年([[1887年]])[[11月11日]]、明治天皇が[[伏見宮貞愛親王|伏見宮]]邸を訪れた際、[[試し斬り|兜割]]試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の[[逸見宗助]]と、同じく[[上田馬之助]]、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「[[同田貫]]」を用いて明珍作の[[兜]]を斬り割った(切口3[[寸]]5[[分 (数)|分]]、深さ5分)。この同田貫は当日に刀剣商から渡されたものでそれまで鍵吉はさまざまな刀で試したが失敗していたという。
明治20年([[1887年]])11月11日、明治天皇が[[伏見宮貞愛親王|伏見宮]]邸を訪れた際、[[天覧兜割]]試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の[[逸見宗助]]と、同じく[[上田馬之助]]、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「[[同田貫]]」を用いて明珍作の[[兜]]を斬り割った(切口3[[寸]]5[[分 (数)|分]]、深さ5分)。このとき吉は白装束で試合に挑んでおり、失敗したら切腹をする覚悟であったという。<ref>{{Cite book|和書|title=日本剣豪100人伝|date=2004年4月8日|publisher=株式会社学習研究社|page=219}}</ref>


=== 晩年 ===
明治27年([[1894年]])[[元旦]]、[[山田次朗吉]]に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。[[9月11日]]、[[脚気]]衝心により死去。[[享年]]65。[[四谷]]西応寺に葬られた。[[法名]]は義光院杖山倭翁居士。
[[File:SakakibaraKenkichi20120909.jpg|thumb|榊原鍵吉の墓(西応寺)]]
[[講談|講釈席]]や[[居酒屋]]を経営したがうまくいかず、晩年まで車坂道場で後進を指導し度々講武を、著名人が招れた[[園遊会]]などで行った。車坂の道場には、後に[[大日本武徳会]]剣道の重鎮となる[[内藤高治]]や、[[イギリス|英国]][[領事館]]書記の[[トーマス・マクラチ]](Thomas McClatchie)、[[フェンシング]]の名手でもあった[[ハインリヒ・フォン・シーボルト]]、[[ドイツ人]]の[[東京大学|東京帝国大学]]講師[[エルヴィン・フォン・ベルツ|ベルツ]]、[[陸軍戸山学校]][[西洋剣術]]教師の[[フランス人]]ウイラレー及びキールら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。


明治27年([[1894年]])元旦、弟子の[[山田次朗吉]]に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9月11日、[[脚気]]衝心により死去。[[享年]]65。[[四谷]][[西応寺 (新宿区)|西応寺]]に葬られた。[[法名]]は義光院杖山倭翁居士。平成15年([[2003年]])、[[全日本剣道連盟]]の[[剣道殿堂]]に顕彰された
== 逸話 ==

* 撃剣興行で剣術を見世物にしたことや、客寄せのための派手な動作が後の[[剣道]]に悪影響を与えたとして批判される一方、撃剣興行によって剣術の命脈を保った功績が認められており、平成15年([[2003年]])に鍵吉は[[全日本剣道連盟]]の[[剣道殿堂]]に選ばれている。
== 脚注 ==
* 稽古で長さ六[[尺]]、重さ三[[貫]]の振り棒を2000回も振ったといわれ、[[腕]]周りは55cmあったという。
{{脚注ヘルプ}}
* 晩年まで[[講談|講釈席]]や[[居酒屋]]を経営したが上手くいかず、車坂道場で後進を指導し、著名人が招かれた[[園遊会]]などで度々[[演武]]を行った。
{{Reflist}}
* 鍵吉は死ぬまで[[]]をかず、道場も閉じなかった。車坂の道場には、[[イギリス|英国]][[領事館]][[書記]]の[[トーマス・マクラチ]]、[[フェンシング]]の名手でもあった[[ハインリヒ・シーボルト]]、[[ドイツ人]]の[[東京大学|東京帝国大学]]講師[[エルヴィン・フォン・ベルツ|ベルツ]]、[[フランス人]]ウイラレー及びキール(共に[[陸軍戸山学校]][[西洋剣術]]教師ら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[子母寛]]『遺臣伝』([[中公文庫]] [[2006年]]
*[[子母寛]]『遺臣伝』(新版・[[中公文庫]]2006年)
*『日本剣豪100選』([[綿谷雪]]著、[[秋田書店]])
*[[綿谷雪]]『日本剣豪100選』([[秋田書店]])、新版刊
*『寛政譜以降旗本家百科事典』([[小川恭一]]編 [[東洋書林]] [[1997年]]
*[[小川恭一]]編『寛政譜以降旗本家百科事典』([[東洋書林]]1997年)
*歴史群像研究部編『日本剣豪100人伝』([[学習研究社]]、2008年)

== 関連文献 ==
*『書と禅』[[大森曹玄]] 1975年 新装版第二版 春秋社 p.65

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榊原鍵吉
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 文政13年11月5日1830年12月19日
死没 明治27年(1894年9月11日
別名 友善(諱)、健吉
戒名 義光院杖山倭翁居士
墓所 西応寺(東京都新宿区須賀町
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂
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榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、文政13年11月5日1830年12月19日) - 明治27年(1894年9月11日)は、江戸幕府幕臣剣術家。友善(ともよし)。

幕末期男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務める。明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。稽古で長さ六(180cm)、重さ三(11kg)の振り棒を2000回も振ったといわれ、周りは55cmあったという。弟子に山田次郎吉大東流合気柔術の実質的な創始者である武田惣角らがいる。

生涯

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河鍋暁斎画『暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』。妖怪たちの脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。

生い立ち

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江戸麻布広尾に生まれる。花房氏の血を引く榊原職直の系統[1]である御家人・榊原益太郎友直の子。5人兄弟の長男であった。

直心影流修行

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天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友道場に入門する。[2]当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館士学館練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。

鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。[3]

講武所時代

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安政3年(1856年)3月、27歳のときに男谷の推薦によって講武所剣術教授方となる。[3]後に師範役に進む。

安政7年(1860年)2月、講武所が築地から神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍徳川家茂大老井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術高橋泥舟(謙三郎)と試合する。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足がらみで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。[3]

文久3年(1863年)、将軍上洛に供をして上京。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きをくわせて天野をひっくり返したという。また、京都四条河原土佐藩浪士3人を斬ったともいう。

慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開く。

維新前後

[編集]

慶応4年(1868年)、上野戦争のとき、鍵吉は彰義隊には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の湯屋・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。

維新後、徳川家達に従って駿府に移るが、明治3年(1870年)に再び東京に戻る。明治政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉はこれを受けずに、弟の大沢鉄三郎を代わりに推挙した。

最後の剣客

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散髪脱刀令などの文明開化の影響で町道場は立ちゆかなくなり、武芸者は困窮する。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所、地方にも及んだ。剣の道を汚す行為という批判もあったが、現在では剣術の命脈を保ったと評価されている。

明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、に掛けるためのが付いた木刀(政府に遠慮して(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製のを考案し、身に着けた。また、死ぬまでを解かなかった。

明治11年(1878年)、明治天皇上野行幸し、天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。

明治12年(1879年)、警視庁撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。

明治20年(1887年)11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、天覧兜割り試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作のを斬り割った(切口35、深さ5分)。このとき、健吉は白装束で試合に挑んでおり、失敗したら切腹をする覚悟であったという。[4]

晩年

[編集]
榊原鍵吉の墓(西応寺)

講釈席居酒屋を経営したがうまくいかず、晩年まで車坂道場で後進を指導し度々講武を、著名人が招かれた園遊会などで行った。車坂の道場には、後に大日本武徳会剣道の重鎮となる内藤高治や、英国領事館書記のトーマス・マクラチ(Thomas McClatchie)、フェンシングの名手でもあったハインリヒ・フォン・シーボルトドイツ人東京帝国大学講師ベルツ陸軍戸山学校西洋剣術教師のフランス人ウイラレー及びキールら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。

明治27年(1894年)元旦、弟子の山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9月11日、脚気衝心により死去。享年65。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。平成15年(2003年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰された。

脚注

[編集]
  1. ^ 『姓氏』(樋口清之丹羽基二秋田書店1970年)より。
  2. ^ 『日本剣豪100人伝』株式会社学習研究社、2008年4月8日、218頁。 
  3. ^ a b c 『日本剣豪100人伝』株式会社学習研究社、2008年4月8日、218頁。 
  4. ^ 『日本剣豪100人伝』株式会社学習研究社、2004年4月8日、219頁。 

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • 『書と禅』大森曹玄 1975年 新装版第二版 春秋社 p.65