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{{Infobox 学者|name=滝川 政次郎|image=Masajiro Takigawa.jpg|caption=『日本歴史解禁』より(1950年)|othername=|birth_date={{生年月日|1897|5|26}}|birth_place={{JPN}} [[大阪府]][[大阪市]]|death_date={{死亡年月日と没年齢
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|生年月日=<!--{{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}}-->| name = 滝川 政次郎
|九州帝国大学]]<br>[[中央大学]]|degree=<!--学位-->|URL=|image_size=|yearsactive=}}'''滝川 政次郎'''(たきかわ まさじろう、旧字体:瀧川政次郞、1897年([[明治]]30年)5月26日 - 1992年([[平成]]4年)[[1月29日]])は、[[日本]]の[[日本の法学者一覧#法制史|法学者]]([[法制史]])。[[法律学]]の立場から法制史の体系化に尽力する。[[博士(法学)|法学博士]]([[中央大学]]・[[博士#博士学位の取得方法|論文博士]]・1933年)。[[國學院大學]][[名誉教授]]。[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]の出身。
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'''滝川 政次郎'''(たきかわ まさじろう、旧字体瀧川政次郞、[[1897年]]([[明治]]30年)[[5月26日]] - [[1992年]]([[平成]]4年)[[1月29日]])は、[[日本]]の[[日本の法学者一覧#法制史|法学者]]([[法制史]])。[[法律学]]の立場から法制史の体系化に尽力する。[[博士(法学)|法学博士]]([[中央大学]]・[[博士#博士学位の取得方法|論文博士]]・1933年)。[[國學院大學]][[名誉教授]]。[[大阪府]][[大阪市]][[西区_(大阪市)|西区]]出身。


== 人物 ==
== 人物 ==
1897年、[[大阪市]]西区に米穀商を営む瀧川与之吉・シナの二男として生まれる。母方の祖父が[[有職故実]]の研究家だった影響で制度史・法制史に関心を持つ。


=== 強い向学心で一高・東大へ ===
地元の大阪市立東江尋常小学校附属幼稚園、同小学校を卒業後、いったん奉公に出て、夜は私立関西商工学校の夜学に通った。しかし向学の念が強く、桃山中学(現・[[桃山学院中学校・高等学校|桃山学院高等学校]])に編入、[[1914年]]に卒業した。[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]]進学を希望していたが、実業家・[[芝川栄助]]([[日本毛織]]創業者)の勧めで[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]への進学を決意する。[[1919年]]、第一高等学校大学予科(独法)卒<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940283/59 『第一高等学校一覧 自大正9年至大正10年』第一高等学校、1921年、p.110]</ref>。[[1922年]]に[[東京大学#沿革|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]](独法)卒業<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940174/130 東京帝国大学要覧 従大正11年 至大正12年]|page=(3)|year=1923|publisher=東京帝国大学}}</ref>。
1897年、大阪市西区に米穀商を営む瀧川与之吉・シナの次男として生まれる。母方の祖父が[[有職故実]]の研究家だった影響で制度史・法制史に関心を持つ。


地元の大阪市立東江尋常小学校附属幼稚園、同小学校を卒業後、いったん奉公に出て、夜は私立関西商工学校の夜学に通った。しかし向学の念が強く、桃山中学(現・[[桃山学院中学校・高等学校|桃山学院高等学校]])に編入、1914年に卒業した。[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]]進学を希望していたが、実業家の[[芝川栄助]]([[日本毛織]]創業者)の勧めで[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]への進学を決意する。在学中には[[倉石武四郎]]等と一高史談会を興し、[[塩谷温#家族・親族|塩谷塾の通鑑輪読会]]に参加。また、中国北部、満洲、蒙古、朝鮮、[[沿海州]]、シベリアを旅行している{{Sfn|瀧川博士還暦記念論文集 1|1957|p=1、 瀧川博士年譜}}。
大学卒業後、[[南満州鉄道]]に4ヶ月勤務の後、希望する[[満鉄調査部|調査部]]に配属されない不満から退社、[[中央大学]]・[[法政大学]]・[[日本大学]]で[[講師 (教育)#高等教育|講師]]として法制史を講義。[[1925年]]、[[九州大学#沿革|九州帝国大学]][[九州大学#学部|法文学部]][[助教授]]<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/128 九州帝国大学一覧 : 附・第八臨時教員養成所一覧 大正14年]|publisher=九州帝国大学|year=1925|page=241}}</ref>([[美濃部達吉]]の推薦によるという。実際には2年間、内地留学で東京在住)、[[1927年]]に[[教授]]となる<ref name=kyoujyu>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447023/67 九州帝国大学一覧 昭和5年]|page=117|publisher=九州帝国大学|year=1930}}</ref>が、[[九大事件]]で休職を余儀なくされ、[[1929年]]に免官<ref name=kyoujyu/>の処分を受けた。だが、法制史に関する社会的関心が高まる中で[[慶應義塾大学]]・[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]などからの招聘が相次ぎ、法制史講座設置に尽力したほか、社会経済史学会の設立にも関わった。


1919年、第一高等学校大学予科(独法)卒<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940283/59 『第一高等学校一覧 自大正9年至大正10年』第一高等学校、1921年、p.110]</ref>。1922年に[[東京大学#沿革|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]](独法)卒業<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940174/130 東京帝国大学要覧 従大正11年 至大正12年]|year=1923|publisher=東京帝国大学|page=(3)}}</ref>。
[[1930年]]、[[中央大学]][[中央大学法学部|法学部]]教授に就任し、[[1933年]]には「律令の研究」により中央大学から[[法学博士]]の[[学位]]を授与される<ref>{{Cite Web|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500000486809|title=書誌事項(CiNii Dissertations)|publisher=国立情報学研究所|accessdate=2017-05-04}}</ref>が、この年に発表した[[大化の改新]]を巡る論文(「大化改新管見」)で教員団体や[[右翼]]から攻撃され、文部当局から発売禁止の処置を受けた結果、不敬罪は免れたものの、再び大学を追われることとなった<ref>[[荊木美行]]「瀧川政次郎博士と中国法制史」『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年、276-278頁。</ref>。{{See|Category:法学博士取得者}}


大学卒業後、[[南満洲鉄道]]に4カ月勤務の後、希望する[[満鉄調査部|調査部]]に配属されない不満から退社、[[中央大学]]・[[法政大学]]・[[日本大学]]で[[講師 (教育)#高等教育|講師]]として法制史を講義。1925年、[[九州大学#沿革|九州帝国大学]][[九州大学#学部|法文学部]][[助教授]]<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/128 九州帝国大学一覧 : 附・第八臨時教員養成所一覧 大正14年]|year=1925|publisher=九州帝国大学|page=241}}</ref>([[美濃部達吉]]の推薦によるという。実際には2年間、内地留学で東京在住)、[[1927年]]に[[教授]]となる<ref name="kyoujyu2">{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447023/67 九州帝国大学一覧 昭和5年]|year=1930|publisher=九州帝国大学|page=117}}</ref>が、[[九州帝国大学法文学部内訌事件]]<ref name=":02">{{Cite journal|和書|author=七戸克彦|authorlink=七戸克彦|date=2015-03-13|title=九州帝国大学法文学部内訌事件 : 東京帝国大学・京都帝国大学の内紛・辞職事例との比較|url=https://doi.org/10.15017/1498325|journal=法政研究|volume=81|issue=4|pages=141-224|publisher=九州大学法政学会|ref=harv|crid=1390572174708739072|doi=10.15017/1498325|hdl=2324/1498325}}</ref>で休職を余儀なくされ、1929年に免官<ref name=":02" /><ref name="kyoujyu2" />の処分を受けた。だが、[[法制史]]に関する社会的関心が高まる中で[[慶應義塾大学]]・[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]などからの招聘が相次ぎ、法制史講座設置に尽力したほか、[[社会経済史学会]]の設立にも関わった。
日本国内で教壇に立てなくなった瀧川は、中央大学学長[[原嘉道]]、法学部長[[林頼三郎]]らの推挙をうけ、翌[[1934年]]より[[満州国]]司法部法学校において教授兼司法部参事官の職を得て司法官の養成、また満州帝国の刑法などの制定に参与したほか、吉林高等法院にて審判官などを歴任する<ref>荊木美行「瀧川政次郎博士と中国法制史」『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年、278-280頁。</ref>。この間、日本の[[律令法]]に深く関わりのある[[中国法制史]]にも関心を広げ、貴重な資料の蒐集に奔走したが、[[1937年]]2月、隣家からの類焼によって蔵書のすべてを失う不運に見舞われた<ref>荊木美行「瀧川政次郎博士と中国法制史」『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年、279、280頁。</ref>。同年7月、[[支那事変]]([[日中戦争]])を契機に法学校を休職し、満州帝国総務庁嘱託・満鉄調査部嘱託の身分で[[北京]]へ移住して再び法制史料の蒐集に尽力する一方、[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]の依嘱をうけて新民学院の設立に関わり、同学院講師となって2年間臨時政府の幹部職員養成に従事した<ref name=ibara282>荊木美行「瀧川政次郎博士と中国法制史」『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年、280、282頁。</ref>。その後、休職期間の満了に合わせて満州国へ戻り、[[1940年]]からは[[建国大学]]教授<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454725/42 満洲国国務院総務庁人事処編『満洲国官吏録 康徳7年4月1日現在』1940年、p.39]</ref>に就任、翌年には満州帝国の国立中央図書館筹備処長を兼任して中国法制史の研究と資料蒐集に没頭した<ref name=ibara282/>。


1930年、[[中央大学]][[中央大学法学部|法学部]]教授に就任し、1933年には中央大学から[[法学博士]]の[[学位]]を授与される<ref>{{cite thesis|和書|author=滝川政次郎|title=律令の研究|publisher=中央大学|series=法学博士 報告番号不明|year=1933|naid=500000486809|url=https://id.ndl.go.jp/bib/000010618384}}</ref>が、この年に発表した[[大化の改新]]を巡る論文「大化改新管見」<ref>{{Cite book|和書 |title=大化改新管見 |year=1934 |publisher=経済往来}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=大化改新に就て |year=1934 |publisher=東洋経済出版部 |pages=1-25 |series=経済倶楽部講演 第62輯 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1052515/1/4}}</ref><ref>{{Cite journal|author=瀧川政次郎|editor=荊木美行|date=1974-03-30|title=【附録】大化改新管見|url=https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/records/45|journal=Legal History Review|volume=1973|issue=23|pages=23 – 35|doi=10.5955/jalha.1973.248|issn=0441-2508}}</ref>で教員団体や[[右翼]]から攻撃され、文部当局から発売禁止の処置を受けた結果、[[不敬罪]]は免れたものの、再び大学を追われることとなった{{sfn|荊木美行|2014|p=276-278}}。
[[1945年]]、[[新京]]で終戦を迎え、同年12月に[[赤軍|ソ連軍]]の捕虜となった<ref>荊木美行「瀧川政次郎博士と中国法制史」(『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年)280頁。</ref>。翌年10月、日本に帰国できたが、多大な費用を投じて蒐集した7万冊の蔵書は[[国民革命軍|中国国民党軍]]と[[赤軍|ソ連軍]]に接収され、一冊も持ち帰ることができなかった<ref>荊木美行「瀧川政次郎博士と中国法制史」『金石文と古代史料の研究』燃焼社、2014年、281頁。</ref>。帰国後は、[[極東国際軍事裁判]]の弁護人([[嶋田繁太郎]]担当)となって裁判の問題点を追及した。


日本国内で教壇に立てなくなった瀧川は、中央大学学長[[原嘉道]]・法学部長[[林頼三郎]]らの推挙をうけ、1934年より[[満洲国]]司法部法学校において教授兼司法部参事官の職を得て[[司法官]]の養成、また満洲国の刑法などの制定に参与したほか、[[吉林高等法院]]にて[[審判官]]などを歴任する{{sfn|荊木美行|2014|p=278-280}}。この間、日本の[[律令法]]に深く関わりのある[[中国法制史]]にも関心を広げ、貴重な資料の蒐集に奔走したが、1937年2月、隣家からの類焼によって蔵書のすべてを失う不運に見舞われた{{sfn|荊木美行|2014|p=279,280}}。同年7月、[[日中戦争]]勃発を契機に法学校を休職し、満洲国総務庁嘱託・[[満鉄調査部]]嘱託の身分で[[北平市|北京]]へ移住して再び法制史料の蒐集に尽力する一方、[[中華民国臨時政府 (1937年-1940年)|中華民国臨時政府]]の依嘱をうけて[[新民学院]]の設立に関わり、同学院講師となって2年間臨時政府の幹部職員養成に従事した<ref name="ibara2822">{{harvnb|荊木美行|2014|p=280,282}}</ref>。その後、休職期間の満了に合わせて満洲国へ戻り、1940年からは[[建国大学]]教授<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454725/42 満洲国国務院総務庁人事処編『満洲国官吏録 康徳7年4月1日現在』1940年、p.39]</ref>に就任、翌年には満洲国の国立中央図書館籌備処長を兼任<ref>{{Cite|和書|editor=満蒙資料協会|title=満華職員録〔康徳9年・民国31年版〕|publisher=満蒙資料協会|date=1941-12-12|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|1451327/44}}|page=33}}</ref>して中国法制史の研究と資料蒐集に没頭した<ref name="ibara2822" />。
弁護士生活([[加藤隆久]]と共同開業)の後、[[1947年]]に[[鵜澤總明|鵜沢総明]]の依頼で[[大東文化大学|大東文化学院]]の大学昇格に尽力したことが縁で[[明治大学]]講師となり、その明治大学で[[野間繁]]に要請され、[[1949年]]から[[國學院大學]]政経学部(のち法学部)教授に就任、[[1968年]]の定年まで務める(1968年客員教授、[[1972年]]名誉教授)。[[1952年]]7月、自身の再婚にあたり、それまで関係を続けてきた一未亡人が「女心を踏みにじられた」と自殺未遂の末、慰謝料請求調停を求める。瀧川は「独身の私が月5000円で契約した"通勤の娼婦"と手を切ったまで」と反論した<ref>『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.416</ref>。


1945年、[[新京特別市|新京]]で終戦を迎え、同年12月に[[赤軍|ソ連軍]]の捕虜となった{{sfn|荊木美行|2014|p=280}}。翌年10月、日本に帰国できたが、多大な費用を投じて蒐集した7万冊の蔵書は[[国民革命軍|中国国民党軍]]とソ連軍に接収され、一冊も持ち帰ることができなかった<ref>{{Cite book|和書 |title=中国法制史研究 |year=1979 |publisher= |page=再刊序 |author=瀧川}}</ref>{{sfn|荊木美行|2014|p=281}}。帰国後は、[[極東国際軍事裁判]]の弁護人([[嶋田繁太郎]]担当)となって裁判の問題点を追及した。
[[1953年]]からは[[近畿大学]]兼任教授。教壇生活の一方で、地方史研究所を設立して国家や学会主流の史観に捉われない[[地方史]]の必要性を訴えた<ref>地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「後方羊蹄」=[[余市郡|余市]]説など</ref>。また、[[後南朝]]や[[遊女]]の歴史など、戦前であれば[[タブー]]であった研究にも積極的に取り組んだ。その研究意欲は晩年まで衰えず、90歳を過ぎても論文を発表し続けた。

弁護士生活([[加藤隆久]]と共同開業)の後、1947年に[[鵜澤總明|鵜沢総明]]の依頼で[[大東文化大学|大東文化学院]]の大学昇格に尽力したことが縁で[[明治大学]]講師となり、その明治大学で[[野間繁]]に要請され、1949年から[[國學院大學]]政経学部(のち法学部)教授に就任、1968年の定年まで務める(1968年客員教授、[[1972年]]名誉教授)。

=== 地方史研究所の設立 ===
1952年、[[島田正郎]]、[[安藤更生]]、[[駒井和愛]]と相図って[[地方史研究所]]を設立し、理事長に就任している{{Sfn|瀧川博士還暦記念論文集 1|1957|p=1、 瀧川博士年譜}}。

=== 私生活 ===
1952年7月、自身の再婚にあたり、それまで関係を続けてきた一未亡人が「女心を踏みにじられた」と自殺未遂の末、慰謝料請求調停を求める。瀧川は「独身の私が月5000円で契約した"通勤の娼婦"と手を切ったまで」と反論した<ref>『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.416</ref>。

1953年からは[[近畿大学]]兼任教授。教壇生活の一方で、地方史研究所を設立して国家や学会主流の史観に捉われない[[地方史]]の必要性を訴えた<ref>地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992371/1/28 後方羊蹄]」=[./余市郡 余市]説など</ref>{{sfn|瀧川|1953|p=32-39}}。また、[[後南朝]]や[[遊女]]の歴史など、戦前であれば[[タブー]]であった研究にも積極的に取り組んだ。その研究意欲は晩年まで衰えず、90歳を過ぎても論文を発表し続けた。


94歳で死去、墓は東京[[世田谷区]]の[[松陰神社]]内にある。
94歳で死去、墓は東京[[世田谷区]]の[[松陰神社]]内にある。


==エピソード==
== エピソード ==
[[川西政明]]によれば、[[高橋和巳]]の長編小説『[[悲の器]]』の主人公正木典膳のモデルとされる<ref>川西政明『評伝高橋和巳』より</ref>。
[[川西政明]]によれば、[[高橋和巳]]の長編小説『[[悲の器]]』の主人公正木典膳のモデルとされる<ref>川西政明『評伝高橋和巳』より</ref>。

== 家族・親族 ==

* 長男:[[瀧川叡一]](1923年9月7日 - 2009年10月27日、裁判官:[[東京高裁]]統括部判事ほか)


==家族・親族==
== 著作 ==
*長男:[[瀧川叡一]](1923年9月7日 - 2009年10月27日、裁判官:[[東京高裁]]統括部判事ほか)


==著書==
=== 著書 ===
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*『法制史上より観たる日本農民の生活. 律令時代』(同人社書店、1926-27年/改題『律令時代の農民生活』名著普及会、1988年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1281180/1/1 法制史上より観たる日本農民の生活. 律令時代 上]』(同人社書店、1926年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1443909/1/1 法制史上より観たる日本農民の生活. 律令時代 下]』(同人社書店、1927年)
*『日本法制史』([[有斐閣]]、1928年/[[講談社学術文庫]](上下)、1985年)
*『日本社会史』(刀江書院、1929年)
**改題[https://dl.ndl.go.jp/pid/1267431 律令時代の農民生活]』([[刀江書院]]1944年)
*『日本奴隷経済史』(刀江書院、1930年/名著普及会、1985年)
**改題[https://dl.ndl.go.jp/pid/2972804 律令時代の農民生活]』(刀江書院、1952年)
*『律令の研究』(刀江書院、1931年/名著普及会、1988年)
**改題[https://dl.ndl.go.jp/pid/12238774/1/3 律令時代農民生活]』(刀江書院、1969年)
*『歴史と社会組織』(共立社1931年)
**改題律令時代の農民生活』([[名著普及会]]1988年)
*『法』(巌松堂1932年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1269392 料古文書類纂]』([[有斐閣]]1927年)
*『法史瑣談』(時潮社1934年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1269341 日本]』(有斐閣1928年)
*『日本社会経済論考』(日光書院1939年)
**『日本法制史』([[講談社学術文庫]](上・下、嵐義人解説)1985年)
*『満支説史話』(日光書院、1939年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1176553/1/3 日本社会]』(刀江書院、1929年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1280340 日本奴隷経済史]』(刀江書院、1930年)
*『支那法制史研究』(有斐閣、1940年/改題『中国法制史研究』巌南堂書店、1979年)
*『法律から見た支那国民性』(大同1941年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1459629 日本奴隷経済史]』(清水1947年)
*『日本法制研究』(有斐閣1941年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1078926/1/4 日本奴隷経済]』(乾元社1948年)
*『零篇』(五星書林1943年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2995891/1/3 日本奴隷経済]』(洋々社1956年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/11932287/1/3 日本奴隷経済史]』(新版、刀江書院、1972年)
*『遼律之研究』島田正郎と共著(大阪屋号書店、1944年)
*『法曹話の泉』(穂高書房1947年)
**『増補 日本奴隷経済史』(名著普及会1985年)
*『日本法制史特色』(野村1948年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1269856 律令研究]』(刀江1931年)
*『売笑制度の研究』(穂高1948年)
** 律令の研究』(増補版、刀江1966年)
*『中古政治と法制』(研進社1949年)
** 律令研究』(名究著普及会1988年)
*『日本歴史解禁』([[創元]]1950年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1171779/1/3 歴史と社会組織]』(共立社、1931年)
*『法史話』(創元社1951年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1269398 史話]』(巌松堂1932年)
*『裁判』(乾元社、1951年/燃焼社、1997年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1443920 法瑣談]』(時潮社、1934年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1278516/1/3 日本社会経済史論考]』(日光書院、1939年)
*『東京裁判を裁く』(東和社(全2巻)、1952-53年/創拓社(改版 全2巻)、1978年/慧文社(全1巻)、2006年)
*『人物新日本史 第1 上代編』([[明治書院]]1953年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12210240/1/3 日本社会経済論考 増補新版]』(名著普及会1983年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1258001/1/3 満支史説史話]』(日光書院、1939年)
*『日本人の歴史』([[新潮社]]、1955年/改題『東洋史上より見た日本人の歴史』赤坂書院、1983年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1441057 支那法制史研究]』(有斐閣、1940年)
*『別嬪と美人』(住吉書店、1956年)
**改題『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11931225/1/3 中国法制史研究]』(巌南堂書店、1979年)
*『池塘春草』([[青蛙房]]、1958年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1045360/1/2 法律から見た支那国民性]』(大同書院、1941年)
*『日本行刑史』(青蛙房、1961年、新版1972年、2016年)
*『倩笑至味』(青蛙房1963年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1269827 日本法制史研究]』(有斐閣1941年)
*『非理権天--法諺の研究』(青蛙房<青蛙選書>1964年新版2015年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11932049/1/3 日本制史研究]』(復刻版名著普及会1982年)
*『遊女の歴史』([[至文堂]]<日本歴史新>1965年、新版1978年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1281280 法零篇]』(五星1943年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11932361/1/2 日本法律史話]』([[ダイヤモンド社]]、1943年)
*『遊行女婦・遊女・傀儡女』(至文堂<日本歴史新書>、1965年、改題『江口・神崎の遊里』同、1977年)
*『法論叢全4冊([[角川書店]]、1967年/名著普及会、1986年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/11932361 日本話]』([[講談社]]学術文庫(解説嵐義人)、1986年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1045361/1/3 遼律之研究]』島田正郎と共著(大阪屋号書店、1944年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2997840/1/3 法曹話の泉]』(穂高書房、1947年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1267417 日本法制史の特色]』(野村書店、1948年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2387364 売笑制度の研究]』(穂高書房、1948年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1275952/1/3 中古の政治と法制]』(研進社、1949年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2972351/1/3 日本歴史解禁]』([[創元社]]、1950年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2998723/1/3 法史閑話]』(創元社、1951年)
*『裁判史話』(乾元社、1951年)
**『裁判史話』(燃焼社、1997年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/3007737/1/3 東京裁判を裁く 上巻]』(東和社、1952年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/3007738 東京裁判を裁く 下巻]』(東和社、1953年)
**『東京裁判を裁く』(改版 全2巻、創拓社、1978年)
**『東京裁判を裁く』(新訂 全1巻、慧文社、2006年)
*『人物新日本史 第1 上代編』([[明治書院]]、1953年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2972735 日本人の歴史]』([[新潮社]]、1955年)
**改訂版『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12206594/1/3 東洋史上より見た日本人の歴史]』(赤坂書院、1983年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2934921 別嬪と美人]』(住吉書店、1956年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2934989/1/3 池塘春草]』([[青蛙房]]、1958年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2998856/1/3 日本行刑史]』(青蛙房、1961年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2998899/1/3 日本行刑史]』(増補版、青蛙房、1964年)
**『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12013162/1/3 日本行刑史]』(第3版、青蛙房、1972年)
**新版『日本行刑史』(青蛙房、2016年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2934962/1/3 倩笑至味]』(青蛙房、1963年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2995963/1/3 非理法権天 法諺の研究]』(青蛙房<青蛙選書>、1964年)
**『非理法権天 法諺の研究』(新版、青蛙房、2015年)
*『遊女の歴史』([[至文堂]]<日本歴史新書>、1965年、改訂版1978年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/9545059/1/3 遊行女婦・遊女・傀儡女]』(至文堂<日本歴史新書>、1965年)
**改題『江口・神崎の遊里』(至文堂<日本歴史新書>、1977年)
*『法制史論叢』全4冊([[角川書店]]、1967年/名著普及会、1986年)
**(1)律令格式の研究
**(1)律令格式の研究
**(2)京制並に都城制の研究
**(2)京制並に都城制の研究
**(3)律令賤民制の研究
**(3)律令賤民制の研究
**(4)律令制及び令外の官の研究
**(4)律令制及び令外の官の研究
*『吉原の四季』(青蛙房<青蛙選書>、1971年、新版2014年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12278977/1/3 吉原の四季 清元「北州千歳寿」考証]』(青蛙房<青蛙選書>、1971年)
*『万葉律令考』([[東京堂出版]]1974年)
**新版吉原の四季 清元「北州千歳寿」』(青蛙房2014年)
*『元号證(考証)』(永田書房、1974年、新版1988年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11931508/1/3 万葉律令]』([[東京堂出版]]、1974年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12206745 元号考證]』(永田書房、1974年、新版1988年)
*『長谷川平蔵』([[朝日新聞社]]、1975年、新版・朝日選書、1982年/[[中公文庫]]、1994年)
*『[[長谷川宣以|長谷川平蔵]] その生涯と人足寄場』([[朝日新聞社]]、1975年/[[朝日選書]]、1982年)
*『公事師・公事宿の研究』(赤坂書院、1984年)
*『日本法律史話 ([[講談社学術文庫]]、1986) 
**『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場[[中公文庫]]、1994
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11932074/1/3 公事師・公事宿の研究]』(赤坂書院、1984年)
*『律令と大嘗祭 御代始め諸儀式』([[国書刊行会]]、1988年)
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11932074/1/3 律令と大嘗祭 御代始め諸儀式]』([[国書刊行会]]、1988年)
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=== 共著・編・共編 ===
==記念論集==
* [[三浦周行]]と共編『[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1051673 定本令集解釈義]』(内外書籍、1931年/国書刊行会、1982年、{{国立国会図書館デジタルコレクション|11933336/3|format=NDLJP}})
*『瀧川博士還暦記念論文集』 瀧川博士還暦記念論文集刊行委員会(中沢印刷、1957年)
*『[[後南朝]]史論集 吉野皇子五百年忌記念』後南朝史編纂会編(新樹社、1956年/[[原書房]]、1981年7月)、編者代表、新版で回想まえがき
*『律令制の諸問題』 瀧川博士米寿記念会([[汲古書院]]、1984年)
* {{Cite book|和書 |title=支那ニ於ケル法典編纂ノ沿革 |year=1977 |publisher=汲古書院 |editor=瀧川政次郎 解題、律令研究会 |author=[[浅井虎夫]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11931171/1/3 |doi=10.11501/11931171}}
*『神道史論叢』 瀧川政次郎先生米寿記念論文集刊行会([[国書刊行会]]、1984年)
** {{Cite book|和書 |title=中国ニ於ケル法典編纂ノ沿革 |edition=影印版第2版 |date= |publisher=汲古書院 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027498532 |author=浅井虎夫 |year=2016 |editor=瀧川政次郎 解題、律令研究会 |isbn=9784762965746}}
*{{Cite book|和書 |title=佐藤誠実博士 律令格式論集 |year=1992 |publisher=律令研究会 / 汲古書院 |editor=瀧川政次郎 |url=https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/13097740 |doi=10.11501/13097740 |author=[[佐藤誠実]]}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 1 |year=1978 |publisher=[[東京堂出版]] |editor=律令研究会 |volume=首巻 |isbn=449030210X}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 2 |year=1975 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=律本文篇 上巻 |doi=10.11501/11931438}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 3 |year=1975 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=律本文篇 下巻 |doi=10.11501/11934494}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 4 |year=1976 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=律本文篇 別冊 複製版 |doi=10.11501/11931204}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 5 |year=1979 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=唐律疏議譯註篇 1 |doi= |isbn=4-490-30212-6}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 6 |year=1984 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=唐律疏議譯註篇 2 |doi=10.11501/11931094}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 7 |year=1987 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=唐律疏議譯註篇 3 |doi=10.11501/11931141}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 8 |year=1996 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=唐律疏議譯註篇 4 |doi=10.11501/11931104}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令 9 |year=1991 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=令義解譯註篇 1 |doi=10.11501/11931176}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令10 |year=1989 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=令義解譯註篇 2 |doi=10.11501/11931265}}
*{{Cite book|和書 |title=譯註日本律令11 |year=1989 |publisher=東京堂出版 |editor=律令研究会 |volume=令義解譯註篇 別冊 |doi=10.11501/11934061}}

=== 論文・雑誌記事・講演 ===
* {{Cite book|和書 |title=大化改新管見<ref>{{Cite journal|author=瀧川政次郎|editor=荊木美行|date=1974-03-30|title=【附録】大化改新管見|url=https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/records/45|journal=Legal History Review|volume=1973|issue=23|pages=23 – 35|doi=10.5955/jalha.1973.248|issn=0441-2508}}</ref> |year=1934 |publisher=経済往来}}
* {{Cite book|和書 |title=大化改新に就て |year=1934 |publisher=東洋経済出版部 |pages=1-25 |series=経済倶楽部講演 第62輯 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1052515/1/4}}
* {{Cite book|和書 |title=佐藤誠實の律令学 |publisher=国学院大学法学会 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2689482/1/4 |series=国学院大学法学 第5巻 第3号 |doi= |year=1968 |isbn=}}

=== 記念論集 ===
* {{Cite book|和書 |title=瀧川博士還暦記念論文集(1)東洋史篇 |year=1957 |publisher=中沢印刷 |editor=瀧川博士還暦記念論文集刊行委員会 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2970195 |doi=10.11501/2970195}}
* {{Cite book|和書 |title=瀧川博士還暦記念論文集(2)日本史篇 |year=1957 |publisher=中沢印刷 |editor=瀧川博士還暦記念論文集刊行委員会 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2970196/1/3 |doi=10.11501/2970196}}
* {{Cite book|和書 |title=律令制の諸問題 瀧川政次郎博士米寿記念論集 |year=1984 |publisher=[[汲古書院]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11932375/1/3 |doi=10.11501/11932375 |editor=瀧川博士米寿記念会}}
* {{Cite book|和書 |title=神道史論叢 瀧川政次郎先生米寿記念論文集 |year=1984 |publisher=[[国書刊行会]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12264236/1/3 |doi=10.11501/12264236 |editor=瀧川政次郎先生米寿記念論文集刊行会}}



== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{colbegin|2}}
{{Reflist}}
{{Reflist}}

{{colend}}
==参考文献==
* {{Cite journal|和書|author=[[荊木美行]]|date=2014-03|url=https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/records/45|title=瀧川政次郎博士と中国法制史|journal=皇學館大学紀要|ISSN=1883-6984|publisher=皇學館大学文学部|volume=52|pages=1-35|CRID=1050001339180154624|ref=harv}}
* {{Cite book|和書 |title=余市 |year=1953 |publisher=[[余市町]] |pages=32 - 39 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2992371/1/28 |chapter=斉明朝における東北経略 後方羊蹄 |editor=地方史研究所 |author=瀧川政次郎 |doi=10.11501/2992371}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[稲八金天神社]]
* [[稲八金天神社]]


== 外部リンク ==
{{Normdaten}}
* {{Cite web |title=「実事求是」を実践した法制史家 瀧川政次郎 |url=https://www.kokugakuin.ac.jp/article/272688 |website=國學院大學 |access-date=2024-02-15 |language=ja}}
{{DEFAULTSORT:たきかわ まさしろう}}

[[Category:日本の法学者]]
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[[Category:法制史学者]]
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[[Category:日本の法制史家]]
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[[Category:20世紀日本の歴史家]]
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[[Category:日本の弁護士]]
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[[Category:建国大学の教員]]
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[[Category:南満洲鉄道の人物]]
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[[Category:捕虜となった人物]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:桃山学院中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:桃山学院中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]]
[[Category:大阪市出身の人物]]
[[Category:大阪市出身の人物]]
[[Category:捕虜となった人物]]
[[Category:1897年生]]
[[Category:1897年生]]
[[Category:1992年没]]
[[Category:1992年没]]
[[Category:律令学]]
[[Category:法制史]]

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滝川 政次郎
『日本歴史解禁』より(1950年)
人物情報
生誕 (1897-05-26) 1897年5月26日
日本の旗 日本 大阪府大阪市
死没 (1992-01-29) 1992年1月29日(94歳没)
出身校 東京帝国大学
子供 滝川叡一
学問
研究分野 法学(法制史)
研究機関

國學院大學
[[九州大学#沿革

|九州帝国大学]]
中央大学
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滝川 政次郎(たきかわ まさじろう、旧字体:瀧川政次郞、1897年(明治30年)5月26日 - 1992年(平成4年)1月29日)は、日本法学者法制史)。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。法学博士中央大学論文博士・1933年)。國學院大學名誉教授大阪府大阪市西区の出身。

人物

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強い向学心で一高・東大へ

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1897年、大阪市西区に米穀商を営む瀧川与之吉・シナの次男として生まれる。母方の祖父が有職故実の研究家だった影響で制度史・法制史に関心を持つ。

地元の大阪市立東江尋常小学校附属幼稚園、同小学校を卒業後、いったん奉公に出て、夜は私立関西商工学校の夜学に通った。しかし向学の念が強く、桃山中学(現・桃山学院高等学校)に編入、1914年に卒業した。神戸高等商業学校進学を希望していたが、実業家の芝川栄助日本毛織創業者)の勧めで第一高等学校への進学を決意する。在学中には倉石武四郎等と一高史談会を興し、塩谷塾の通鑑輪読会に参加。また、中国北部、満洲、蒙古、朝鮮、沿海州、シベリアを旅行している[1]

1919年、第一高等学校大学予科(独法)卒[2]。1922年に東京帝国大学法学部(独法)卒業[3]

大学卒業後、南満洲鉄道に4カ月勤務の後、希望する調査部に配属されない不満から退社、中央大学法政大学日本大学講師として法制史を講義。1925年、九州帝国大学法文学部助教授[4]美濃部達吉の推薦によるという。実際には2年間、内地留学で東京在住)、1927年教授となる[5]が、九州帝国大学法文学部内訌事件[6]で休職を余儀なくされ、1929年に免官[6][5]の処分を受けた。だが、法制史に関する社会的関心が高まる中で慶應義塾大学東京商科大学などからの招聘が相次ぎ、法制史講座設置に尽力したほか、社会経済史学会の設立にも関わった。

1930年、中央大学法学部教授に就任し、1933年には中央大学から法学博士学位を授与される[7]が、この年に発表した大化の改新を巡る論文「大化改新管見」[8][9][10]で教員団体や右翼から攻撃され、文部当局から発売禁止の処置を受けた結果、不敬罪は免れたものの、再び大学を追われることとなった[11]

日本国内で教壇に立てなくなった瀧川は、中央大学学長原嘉道・法学部長林頼三郎らの推挙をうけ、1934年より満洲国司法部法学校において教授兼司法部参事官の職を得て司法官の養成、また満洲国の刑法などの制定に参与したほか、吉林高等法院にて審判官などを歴任する[12]。この間、日本の律令法に深く関わりのある中国法制史にも関心を広げ、貴重な資料の蒐集に奔走したが、1937年2月、隣家からの類焼によって蔵書のすべてを失う不運に見舞われた[13]。同年7月、日中戦争勃発を契機に法学校を休職し、満洲国総務庁嘱託・満鉄調査部嘱託の身分で北京へ移住して再び法制史料の蒐集に尽力する一方、中華民国臨時政府の依嘱をうけて新民学院の設立に関わり、同学院講師となって2年間臨時政府の幹部職員養成に従事した[14]。その後、休職期間の満了に合わせて満洲国へ戻り、1940年からは建国大学教授[15]に就任、翌年には満洲国の国立中央図書館籌備処長を兼任[16]して中国法制史の研究と資料蒐集に没頭した[14]

1945年、新京で終戦を迎え、同年12月にソ連軍の捕虜となった[17]。翌年10月、日本に帰国できたが、多大な費用を投じて蒐集した7万冊の蔵書は中国国民党軍とソ連軍に接収され、一冊も持ち帰ることができなかった[18][19]。帰国後は、極東国際軍事裁判の弁護人(嶋田繁太郎担当)となって裁判の問題点を追及した。

弁護士生活(加藤隆久と共同開業)の後、1947年に鵜沢総明の依頼で大東文化学院の大学昇格に尽力したことが縁で明治大学講師となり、その明治大学で野間繁に要請され、1949年から國學院大學政経学部(のち法学部)教授に就任、1968年の定年まで務める(1968年客員教授、1972年名誉教授)。

地方史研究所の設立

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1952年、島田正郎安藤更生駒井和愛と相図って地方史研究所を設立し、理事長に就任している[1]

私生活

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1952年7月、自身の再婚にあたり、それまで関係を続けてきた一未亡人が「女心を踏みにじられた」と自殺未遂の末、慰謝料請求調停を求める。瀧川は「独身の私が月5000円で契約した"通勤の娼婦"と手を切ったまで」と反論した[20]

1953年からは近畿大学兼任教授。教壇生活の一方で、地方史研究所を設立して国家や学会主流の史観に捉われない地方史の必要性を訴えた[21][22]。また、後南朝遊女の歴史など、戦前であればタブーであった研究にも積極的に取り組んだ。その研究意欲は晩年まで衰えず、90歳を過ぎても論文を発表し続けた。

94歳で死去、墓は東京世田谷区松陰神社内にある。

エピソード

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川西政明によれば、高橋和巳の長編小説『悲の器』の主人公の正木典膳のモデルとされる[23]

家族・親族

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著作

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著書

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共著・編・共編

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  • 三浦周行と共編『定本令集解釈義』(内外書籍、1931年/国書刊行会、1982年、NDLJP:11933336/3
  • 後南朝史論集 吉野皇子五百年忌記念』後南朝史編纂会編(新樹社、1956年/原書房、1981年7月)、編者代表、新版で回想まえがき
  • 浅井虎夫 著、瀧川政次郎 解題、律令研究会 編『支那ニ於ケル法典編纂ノ沿革』汲古書院、1977年。doi:10.11501/11931171https://dl.ndl.go.jp/pid/11931171/1/3 
    • 浅井虎夫 著、瀧川政次郎 解題、律令研究会 編『中国ニ於ケル法典編纂ノ沿革』(影印版第2版)汲古書院、2016年。ISBN 9784762965746https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027498532 
  • 佐藤誠実 著、瀧川政次郎 編『佐藤誠実博士 律令格式論集』律令研究会 / 汲古書院、1992年。doi:10.11501/13097740https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/13097740 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 1』 首巻、東京堂出版、1978年。ISBN 449030210X 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 2』 律本文篇 上巻、東京堂出版、1975年。doi:10.11501/11931438 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 3』 律本文篇 下巻、東京堂出版、1975年。doi:10.11501/11934494 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 4』 律本文篇 別冊 複製版、東京堂出版、1976年。doi:10.11501/11931204 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 5』 唐律疏議譯註篇 1、東京堂出版、1979年。ISBN 4-490-30212-6 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 6』 唐律疏議譯註篇 2、東京堂出版、1984年。doi:10.11501/11931094 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 7』 唐律疏議譯註篇 3、東京堂出版、1987年。doi:10.11501/11931141 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 8』 唐律疏議譯註篇 4、東京堂出版、1996年。doi:10.11501/11931104 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令 9』 令義解譯註篇 1、東京堂出版、1991年。doi:10.11501/11931176 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令10』 令義解譯註篇 2、東京堂出版、1989年。doi:10.11501/11931265 
  • 律令研究会 編『譯註日本律令11』 令義解譯註篇 別冊、東京堂出版、1989年。doi:10.11501/11934061 

論文・雑誌記事・講演

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記念論集

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脚注

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  1. ^ a b 瀧川博士還暦記念論文集 1 1957, p. 1、 瀧川博士年譜.
  2. ^ 『第一高等学校一覧 自大正9年至大正10年』第一高等学校、1921年、p.110
  3. ^ 東京帝国大学要覧 従大正11年 至大正12年』東京帝国大学、1923年、(3)頁。 
  4. ^ 九州帝国大学一覧 : 附・第八臨時教員養成所一覧 大正14年』九州帝国大学、1925年、241頁。 
  5. ^ a b 九州帝国大学一覧 昭和5年』九州帝国大学、1930年、117頁。 
  6. ^ a b 七戸克彦九州帝国大学法文学部内訌事件 : 東京帝国大学・京都帝国大学の内紛・辞職事例との比較」『法政研究』第81巻第4号、九州大学法政学会、2015年3月13日、141-224頁、CRID 1390572174708739072doi:10.15017/1498325hdl:2324/1498325 
  7. ^ 滝川政次郎『律令の研究』中央大学〈法学博士 報告番号不明〉、1933年。 NAID 500000486809https://id.ndl.go.jp/bib/000010618384 
  8. ^ 『大化改新管見』経済往来、1934年。 
  9. ^ 大化改新に就て』東洋経済出版部〈経済倶楽部講演 第62輯〉、1934年、1-25頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1052515/1/4 
  10. ^ 瀧川政次郎 (1974-03-30). 荊木美行. ed. “【附録】大化改新管見”. Legal History Review 1973 (23): 23 – 35. doi:10.5955/jalha.1973.248. ISSN 0441-2508. https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/records/45. 
  11. ^ 荊木美行 2014, p. 276-278.
  12. ^ 荊木美行 2014, p. 278-280.
  13. ^ 荊木美行 2014, p. 279,280.
  14. ^ a b 荊木美行 2014, p. 280,282
  15. ^ 満洲国国務院総務庁人事処編『満洲国官吏録 康徳7年4月1日現在』1940年、p.39
  16. ^ 満蒙資料協会 編『満華職員録〔康徳9年・民国31年版〕』満蒙資料協会、1941年12月12日、33頁。NDLJP:1451327/44 
  17. ^ 荊木美行 2014, p. 280.
  18. ^ 瀧川『中国法制史研究』1979年、再刊序頁。 
  19. ^ 荊木美行 2014, p. 281.
  20. ^ 『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.416
  21. ^ 地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「後方羊蹄」=[./余市郡 余市]説など
  22. ^ 瀧川 1953, p. 32-39.
  23. ^ 川西政明『評伝高橋和巳』より
  24. ^ 瀧川政次郎 (1974-03-30). 荊木美行. ed. “【附録】大化改新管見”. Legal History Review 1973 (23): 23 – 35. doi:10.5955/jalha.1973.248. ISSN 0441-2508. https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/records/45. 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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