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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[イリノイ州]]生まれ。20歳のころ[[バッファロー]]狩りで生計を立て[[ガンマン]]として有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年には[[カンザス州]][[ウィチタ]]の保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州の[[フォード郡 (カンザス州)|フォード郡]][[ドッジシティ]]で新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官[[チャールズ・バセット]]の下で保安官助手に任命された。
[[イリノイ州]]生まれ。20歳のころ[[スイギュウ|バッファロー]]狩りで生計を立て[[ガンマン]]として有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年には[[カンザス州]][[ウィチタ]]の保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州の[[フォード郡 (カンザス州)|フォード郡]][[ドッジシティ]]で新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官{{仮リンク|チャールズ・バセット|en|Charlie Bassett|label=チャーリー・バセット}}の下で保安官助手に任命された。


1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、[[アリゾナ州]]の[[トゥームストーン]]に移り住み農業のかたわら[[ギャンブル|賭博]]場の[[胴元]]、売春宿の経営者になった。3か月後、兄の[[ヴァージル・アープ]]がトゥームストーンの保安官に就任した。
1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、[[アリゾナ州]]の[[トゥームストーン]]に移り住み農業のかたわら[[賭博]]場の[[胴元]]、売春宿の経営者になった。3か月後、兄の{{仮リンク|バージル・アープ|en|Virgil Earp}}がトゥームストーンの保安官に就任した。


1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとする'''カウボーイズ'''と呼ばれる土着の牧童達と、「[[OK牧場の決闘]]」と呼ばれる事件を起こす。(詳細について、下記を参照のこと)
1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとする'''{{仮リンク|カウボーイズ (コチセ郡)|en|The Cowboys (Cochise County)|label=カウボーイズ}}'''と呼ばれる土着の[[カウボーイ|牧童]]達と、「[[OK牧場の決闘]]」と呼ばれる事件を起こす詳細は後述)。


晩年[[ロサンゼルス]]に定住し[[西部開拓時代]]の伝説的な生き証人となり、親交を持った映画監督の[[ジョン・フォード]]の[[西部劇]]製作に影響を与えた。
晩年[[ロサンゼルス]]に定住し[[西部開拓時代]]の伝説的な生き証人となり、親交を持った映画監督の[[ジョン・フォード]]の[[西部劇]]製作に影響を与えた。


1929年1月13日、ロサンゼルスにて[[膀胱炎]]で死去。80歳。
1929年1月13日、ロサンゼルスにて[[膀胱炎]]で死去。80歳


ワイアット・アープは、映画などでバントライン・スペシャルと呼ばれる[[拳銃]]作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、[[コルト・シングル・アクション・アーミー]]の銃身が非常に長い特注モデル使っている場合ある。しかしこれは伝説で、本当に使っていたかどうかは定かではない。
映画などでバントライン・スペシャルと呼ばれる[[拳銃]]<ref group="注">作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、[[コルト・シングル・アクション・アーミー]]の銃身が非常に長い特注モデル。</ref> 愛用していること多い。しかしこれは伝説で、実際に使っていたかどうかは定かではない。


==OK牧場の決闘==
== OK牧場の決闘 ==
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1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとする'''カウボーイズ'''と呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。
1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとする'''カウボーイズ'''と呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。


10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、[[モーガン・アープ|モーガン]]、友人の[[ドク・ホリデイ]]と共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名中3名を射殺した。世に言う[[OK牧場の決闘]]である。
10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、{{仮リンク|モーガン・アープ|en|Morgan Earp|label=モーガン}}、友人の[[ドク・ホリデイ]]と共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名中3名を射殺した。世に言う“'''OK牧場の決闘'''”である。


決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られた[[フランク・スティルウェル]]を[[ツーソン]]駅構内で殺害したと言われている。この事件によってカウボーイズ派の郡保安官[[ジョン・ビアン]]により逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。一方ワイアットも連邦保安官助手の資格を得ており、保安官同士が互いを付け狙いうという異常事態となった。
決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られた{{仮リンク|フランク・スティルウェル|en|Frank Stilwell}}を[[ツーソン (アリゾナ州)|ツーソン]]駅構内で殺害したと言われている。この事件によってカウボーイズ派の郡保安官{{仮リンク|ジョン・ビアン|en|Johnny Behan}}により逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。一方ワイアットも[[連邦保安官]](執行官)の資格を得ており、連邦政府と自治体の保安官が互いを付け狙いうという異常事態となった。


結果として、カウボーイズのリーダー格の[[カーリー・ビル]]、[[リンゴ・キッド]]が殺害されアープ組が殺害したと見なされているが事実は不明、ワイアット、ドク・ホリデイは[[コロラド]]に逃走して一連の事件は終息する。
結果として、カウボーイズのリーダー格の[[カーリー・ビル]]、[[ジョニー・リンゴ]]が殺害され<ref group="注">アープ組が殺害したと見なされているが事実は不明。</ref>、ワイアット、ドク・ホリデイは[[コロラド州|コロラド]]に逃走して一連の事件は終息する。


== ワイアット・アープを主人公とした作品 ==
== ワイアット・アープを主人公とした作品 ==
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* [[荒野の決闘]]([[ジョン・フォード]]監督、[[1946年]]、演:[[ヘンリー・フォンダ]])
* [[荒野の決闘]]([[ジョン・フォード]]監督、[[1946年]]、演:[[ヘンリー・フォンダ]])
* [[OK牧場の決斗]]([[ジョン・スタージェス]]監督、[[1957年]]、演:[[バート・ランカスター]])
* [[OK牧場の決斗]]([[ジョン・スタージェス]]監督、[[1957年]]、演:[[バート・ランカスター]])
* [[シャイアン (映画)|シャイアン]]([[ジョン・フォード]]監督、1964年、演:[[ジェームズ・スチュアート]])
* [[シャイアン (映画)|シャイアン]](ジョン・フォード監督、1964年、演:[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュアート]])
* [[ワイアット・アープ (1964年の映画)|ワイアット・アープ]]([[トゥリオ・デミケリ]]監督、1964年、演:[[ガイ・マディソン]])
* [[ワイアット・アープ (1964年の映画)|ワイアット・アープ]]([[トゥリオ・デミケリ]]監督、1964年、演:[[ガイ・マディソン]])
* [[墓石と決闘]]([[ジョン・スタージェス]]監督、1967年、演:[[ジェームズ・ガーナー]])
* [[墓石と決闘]](ジョン・スタージェス監督、1967年、演:[[ジェームズ・ガーナー]])
* [[ドク・ホリディ (映画)|ドク・ホリディ]]([[フランク・ペリー]]監督、1971年、演:[[ハリス・ユーリン]])
* [[ドク・ホリディ (映画)|ドク・ホリディ]]([[フランク・ペリー]]監督、1971年、演:[[ハリス・ユーリン]])
* [[キャデラック・カウボーイ]] ([[ブレイク・エドワーズ]]監督、1988年、演:ジェームズ・ガーナー)
* [[キャデラック・カウボーイ]][[ブレイク・エドワーズ]]監督、1988年、演:ジェームズ・ガーナー
* [[トゥームストーン (映画)|トゥームストーン]]([[ジョージ・P・コスマトス]]監督、1993年、演:[[カート・ラッセル]])
* [[トゥームストーン (映画)|トゥームストーン]]([[ジョージ・P・コスマトス]]監督、1993年、演:[[カート・ラッセル]])
* [[ワイアット・アープ (1994年の映画)|ワイアット・アープ]]([[ローレンス・カスダン]]監督、1994年、演:[[ケヴィン・コスナー]])
* [[ワイアット・アープ (1994年の映画)|ワイアット・アープ]]([[ローレンス・カスダン]]監督、1994年、演:[[ケヴィン・コスナー]])


=== TV映画 ===
=== テレビ映画 ===
* [[保安官ワイアット・アープ]]([[ウィリアム・A・グレアム]]監督、1994年、演:[[ヒュー・オブライエン]])
* [[保安官ワイアット・アープ]]([[ウィリアム・A・グレアム]]監督、1955年、演:[[ヒュー・オブライエン]])

=== 小説 ===
* [[ガンマンの伝説]]([[ロバート・B・パーカー]]著、2001年、[[菊池光]]訳、[[早川書房]]出版)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ダーティハリー症候群]] - 若手警官が自らの力を見せつけるようと過剰な暴力に走る傾向の俗称(正式な病名ではない)。映画「[[ダーティハリー]]」公開以前は「ワイアット・アープ症候群」の名が一般的だった。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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2024年6月13日 (木) 02:34時点における版

Wyatt Earp

ワイアット・アープ
生誕 1848年3月19日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州
死没 (1929-01-13) 1929年1月13日(80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業 保安官
配偶者 ウリラ・サザーランド
子供 無し
署名
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ワイアット・ベリー・スタップ・アープ英語: Wyatt Berry Stapp Earp, 1848年3月19日 - 1929年1月13日)は、アメリカ西部開拓時代保安官

生涯

イリノイ州生まれ。20歳のころバッファロー狩りで生計を立てガンマンとして有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年にはカンザス州ウィチタの保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州のフォード郡ドッジシティで新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官チャーリー・バセット英語版の下で保安官助手に任命された。

1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、アリゾナ州トゥームストーンに移り住み、農業のかたわら賭博場の胴元、売春宿の経営者になった。3か月後、兄のバージル・アープ英語版がトゥームストーンの保安官に就任した。

1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとするカウボーイズ英語版と呼ばれる土着の牧童達と、「OK牧場の決闘」と呼ばれる事件を起こす(詳細は後述)。

晩年はロサンゼルスに定住して西部開拓時代の伝説的な生き証人となり、親交を持った映画監督のジョン・フォード西部劇製作に影響を与えた。

1929年1月13日、ロサンゼルスにて膀胱炎で死去。80歳没。

映画などではバントライン・スペシャルと呼ばれる拳銃[注 1] を愛用していることが多い。しかしこれは伝説で、実際に使っていたかどうかは定かではない。

OK牧場の決闘

1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。

10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、モーガン英語版、友人のドク・ホリデイと共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名中3名を射殺した。世に言う“OK牧場の決闘”である。

決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られたフランク・スティルウェル英語版ツーソン駅構内で殺害したと言われている。この事件によってカウボーイズ派の郡保安官ジョン・ビアン英語版により逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。一方ワイアットも連邦保安官(執行官)の資格を得ており、連邦政府と自治体の保安官が互いを付け狙い合うという異常事態となった。

結果として、カウボーイズのリーダー格のカーリー・ビルジョニー・リンゴが殺害され[注 2]、ワイアット、ドク・ホリデイはコロラドに逃走して一連の事件は終息する。

ワイアット・アープを主人公とした作品

映画

テレビ映画

小説

関連項目

  • ダーティハリー症候群 - 若手警官が自らの力を見せつけるようと過剰な暴力に走る傾向の俗称(正式な病名ではない)。映画「ダーティハリー」公開以前は「ワイアット・アープ症候群」の名が一般的だった。

脚注

注釈

  1. ^ 作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、コルト・シングル・アクション・アーミーの銃身が非常に長い特注モデル。
  2. ^ アープ組が殺害したと見なされているが事実は不明。