「ジャック・シラク」の版間の差分
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{{大統領 |
{{大統領 |
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| 人名 |
| 人名 = ジャック・シラク |
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| 各国語表記 = {{lang|fr|Jacques René Chirac}} |
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| 画像 = Jacques_Chirac_(1997)_(cropped).jpg |
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| caption = 1997年7月16日 |
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| 国名 = |
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| 国名 = {{flagicon|FRA}} [[フランス|フランス共和国]] |
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| 職名 = |
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| 職名 = 第22代[[フランスの大統領|大統領]] |
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| 就任日 = |
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| 首相 = [[アラン・ジュペ]]<br/>[[リオネル・ジョスパン]]<br/>[[ジャン=ピエール・ラファラン]]<br/>[[ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン]] |
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| 退任日 = |
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| 元首職 = |
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| 退任日 = [[2007年]][[5月16日]] |
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| 元首 |
| 元首 = |
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| 国名2 = {{FRA}} |
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| 職名2 = [[File:Armoiries république française.svg|20px]] 第22代[[フランスの大統領|大統領]] |
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| 国名2 = {{flagicon|AND}} [[アンドラ|アンドラ公国]] |
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| 就任日2 = [[1995年]][[5月17日]] |
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| 職名2 = [[アンドラ君主一覧|共同大公]] |
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| 退任日2 = [[2007年]][[5月16日]] |
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| 元首職2 = 首相 |
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| 退任日2 = [[2007年]][[5月16日]] |
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| 元首2 = [[アラン・ジュペ]]<br/>[[リオネル・ジョスパン]]<br/>[[ジャン=ピエール・ラファラン]]<br/>[[ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン]] |
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| 国名3 = {{AND}} |
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| 副大統領職2 = 共同大公 |
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| 職名3 = [[アンドラ君主一覧|共同大公]] |
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| 就任日3 = [[1995年]][[5月17日]] |
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| 職名3 = 第6・10代[[フランスの首相|首相]] |
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| 退任日3 = [[2007年]][[5月16日]] |
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| 副大統領3 = ジュアン・マルティ・アラニス<br>[[ジュアン・エンリク・ビベス・イ・シシリア]] |
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| 退任日3 = [[1988年]][[5月10日]] |
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| 副大統領職3 |
| 副大統領職3 = 共同大公 |
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| 国名4 = {{FRA}} |
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| 副大統領3 = [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]<br/>[[フランソワ・ミッテラン]] |
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| 職名4 = 第6・10代[[フランスの首相#フランス第五共和政|首相]] |
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| 国名4 = |
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| 就任日4 = [[1974年]][[5月27日]] – [[1976年]][[8月26日]]<br/>[[1986年]][[3月20日]] |
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| 代数4 = |
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| 退任日4 = [[1988年]][[5月10日]] |
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| 職名4 = |
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| 副大統領職4 = 大統領 |
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| 副大統領4 = [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]<br/>[[フランソワ・ミッテラン]] |
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| 副大統領職4 = |
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| 国名5 = |
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| 職名5 = |
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| 就任日5 = |
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| 副大統領職5 = |
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| 副大統領5 = |
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| 国名6 = |
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| 職名6 = |
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| 就任日6 = |
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| 元首職6 = |
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| 国名7 = |
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| 職名7 = |
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| 就任日7 = |
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| 元首職7 = |
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| 元首7 = |
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| 国名8 = {{Flagicon|FRA}} [[フランス第五共和政|フランス]] |
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| 職名8 = 第6代[[内務省_(フランス)#第五共和政|内務大臣]] |
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| 就任日8 = [[1974年]][[2月27日]] |
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| 退任日8 = [[1974年]][[5月27日]] |
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| 内閣8 = 第3次[[ピエール・メスメル]]内閣 |
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| 元首職8 = 大統領 |
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| 元首8 = [[ジョルジュ・ポンピドゥー]]<br/>[[アラン・ポエール]](臨時大統領) |
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| 国名9 = |
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| 職名9 = |
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| 就任日9 = |
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| 退任日9 = |
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| 元首職9 = |
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| 元首9 = |
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| 国名10 = |
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| 就任日10 = |
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| 元首職10 = |
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| 国名11 = |
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| 就任日11 = |
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| 元首職11 = |
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| 元首11 = |
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| 国名12 = |
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| 職名12 = |
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| 就任日12 = |
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| 元首職12 = |
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| 元首12 = |
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| 国名13 = |
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| 就任日13 = |
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| 退任日13 = |
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| 元首職13 = |
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| 元首13 = |
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| 国名14 = |
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| 職名14 = |
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| 就任日14 = |
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| 元首職14 = |
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| 元首14 = |
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1932|11|29|no}} |
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1932|11|29|no}} |
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| 生地 = [[ファイル:Flag_of_France_(1794–1815,_1830–1958).svg|border|25px]] [[フランス]] [[5区 (パリ)|パリ5区]] |
| 生地 = [[ファイル:Flag_of_France_(1794–1815,_1830–1958).svg|border|25px]] [[フランス]] [[5区 (パリ)|パリ5区]] |
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| 死亡日 |
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1932|11|29|2019|9|26}} |
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| 没地 = |
| 没地 = |
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| 出身校 = [[パリ政治学院]] |
| 出身校 = [[パリ政治学院]] |
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| 政党 = 共和国民主連合 |
| 政党 = 共和国民主連合(UDR)<BR>[[共和国連合]](RPR)<br/>[[国民運動連合]](UMP) |
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| 配偶者 = ベルナドット・シラク |
| 配偶者 = ベルナドット・シラク |
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| 子女 = 2人 |
| 子女 = 2人 |
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| サイン = Jacques Chirac Signature.svg |
| サイン = Jacques Chirac Signature.svg |
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'''ジャック・ルネ・シラク'''(フランス語:{{lang|fr|'''Jacques René Chirac'''}}、{{Audio|Fr-Jacques_Chirac.ogg|Jacques René Chirac}}、{{IPA-fr|ʒak ʁəne ʃiʁak|}}、[[1932年]][[11月29日]] - [[2019年]][[9月26日]]<ref>https://www.rtl.fr/actu/politique/jacques-chirac-est-decede-a-l-age-de-86-ans-7784068773</ref>)は、[[フランス]]の政治家。[[国 |
'''ジャック・ルネ・シラク'''(フランス語:{{lang|fr|'''Jacques René Chirac'''}}、{{Audio|Fr-Jacques_Chirac.ogg|Jacques René Chirac}}、{{IPA-fr|ʒak ʁəne ʃiʁak|}}、[[1932年]][[11月29日]] - [[2019年]][[9月26日]]<ref>https://www.rtl.fr/actu/politique/jacques-chirac-est-decede-a-l-age-de-86-ans-7784068773</ref>)は、[[フランス]]の政治家。[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]政権及び第1次[[コアビタシオン]]での[[フランソワ・ミッテラン]]政権で第6・10代[[フランスの首相#フランス第五共和政|フランス首相]]、第22代[[共和国大統領_(フランス)|フランス大統領]]及び[[アンドラ君主一覧|アンドラ共同大公]]を歴任した。 |
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== 来歴 == |
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[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]政権及び第1次[[コアビタシオン]]での[[フランソワ・ミッテラン]]政権で第6・10代[[フランスの首相|フランス首相]]、第22代[[フランスの大統領|フランス大統領]]及び[[アンドラ|アンドラ公国]]共同大公を歴任した。 |
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== 経歴 == |
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=== 大統領になるまで === |
=== 大統領になるまで === |
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1932年11月29日に[[パリ]]の[[5区 (パリ)|5区]]内にある医院で誕生した。父親は[[銀行員]]で、後に飛行機会社の[[役員 (会社)|役員]]になった。そして中学校から高校時代にかけて4校に在籍した。[[ヴェルサイユ]]の[[リセ]]・[[:fr:Lycée Hoche|オッシュ]]に1年、それから[[8区 (パリ)|パリ8区]]の私立[[:fr:Cours Hattemer|アトメール校]]、[[17区 (パリ)|パリ17区]]の[[:fr:Lycée Carnot (Paris)|リセ・カルノ]]、パリ5区の[[リセ・ルイ=ル=グラン]]などを経て[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]を取得し、[[1954年]]に[[パリ政治学院]]を[[卒業]]。在学中に[[ハーバード大学]]サマースクールに[[留学]]経験がある。[[1950年代]]は[[フランス共産党]]員であり<ref name=d>''[[:en:France 3|France 3]]'', 12 November 1993</ref>、[[ストックホルム・アピール]]に[[署名]]するなどしていた<ref name=e>{{cite web |url=http://www.humanite.fr/1995-05-08_Articles_-Jacques-Chirac-sabre-au-clair |title=Jacques Chirac, sabre au clair |accessdate=2011年12月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080608185416/http://www.humanite.fr/1995-05-08_Articles_-Jacques-Chirac-sabre-au-clair |archivedate=2008年6月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}. ''L'Humanité'' 8 May 1995 (in French)</ref>。[[1956年]]に[[フランス軍|軍隊]]に召集され、[[士官|将校]]として[[アルジェリア戦争]]に[[従軍]]、負傷した。[[1959年]]、[[フランス国立行政学院]]を卒業後[[国家公務員]]となり、[[1962年]]まで会計検査官を務めた。のち、[[シャルル・ド・ゴール]]のもとで首相を務める[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]の官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得るなど、急速に出世した。この頃から、旺盛な行動力により「[[ブルドーザー]]」の異名を得る。ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに、のちに首相となる[[エドアール・バラデュール]]がおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。 |
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1932年11月29日に[[パリ]]の[[5区 (パリ)|5区]]内にある医院で誕生した。父親は銀行員で、のちに飛行機会社の役員になった。 |
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中学校から高校時代にかけて4校に在籍した。[[ヴェルサイユ]]の[[リセ]]・[[:fr:Lycée Hoche|オッシュ]]に1年、それから[[8区 (パリ)|パリ8区]]の私立[[:fr:Cours Hattemer|アトメール校]]、[[17区 (パリ)|パリ17区]]の[[:fr:Lycée Carnot (Paris)|リセ・カルノ]]、パリ5区の[[リセ・ルイ=ル=グラン]]などを経て[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]を取得し、[[1954年]]に[[パリ政治学院]]を卒業。在学中に[[ハーバード大学]]サマースクールに留学経験がある。1950年代は[[フランス共産党]]員であり<ref name=d>''[[:en:France 3|France 3]]'', 12 November 1993</ref>、[[ストックホルム・アピール]]に署名するなどしていた<ref name=e>{{cite web |url=http://www.humanite.fr/1995-05-08_Articles_-Jacques-Chirac-sabre-au-clair |title=Jacques Chirac, sabre au clair |accessdate=2011年12月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080608185416/http://www.humanite.fr/1995-05-08_Articles_-Jacques-Chirac-sabre-au-clair |archivedate=2008年6月8日 |deadurldate=2017年9月 }}. ''L'Humanité'' 8 May 1995 (in French)</ref>。[[1956年]]に[[フランス軍|軍隊]]に召集され、将校として[[アルジェリア戦争]]に従軍、負傷した。[[1959年]]、[[フランス国立行政学院]]を卒業後国家公務員となり、[[1962年]]まで会計検査官を務めた。のち、[[シャルル・ド・ゴール]]のもとで首相を務める[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]の官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得るなど、急速に出世した。この頃から、旺盛な行動力により「ブルドーザー」の異名を得る。ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに、のちに首相となる[[エドアール・バラデュール]]がおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。 |
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[[1967年]]にポンピドゥーの勧めで[[国民議会 (フランス)|国民議会]]議員選挙に出馬して当選して社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任し、ポンピドゥーのもとで[[1972年]]に農相、[[1974年]]に[[内務省 (フランス)|内務大臣]]と、重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]の下で[[1974年]]5月から[[1976年]]まで首相を経験した。1976年にドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、[[共和国連合]]を創設し、総裁となる。<!-- [[1977年]]から[[1986年]]、 -->[[1986年]]に再び首相に返り咲く。[[1977年]]から[[1995年]]まで長く |
[[1967年]]にポンピドゥーの勧めで[[国民議会 (フランス)|国民議会]]議員選挙に出馬して当選して社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任し、ポンピドゥーのもとで[[1972年]]に農相、[[1974年]]に[[内務省 (フランス)|内務大臣]]と、重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]の下で[[1974年]]5月から[[1976年]]まで首相を経験した。1976年にドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、[[共和国連合]]を創設し、総裁となる。<!-- [[1977年]]から[[1986年]]、 -->[[1986年]]に再び首相に返り咲く。[[1977年]]から[[1995年]]まで長く{{仮リンク|パリ市長|en|Mayor of Paris|fr|Maire de Paris}}を務めた。この間、[[1981年]]と[[1988年]]に大統領選挙に出馬したが、いずれも社会党の[[フランソワ・ミッテラン]]に敗れている。 |
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=== 大統領就任 === |
=== 大統領就任 === |
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[[1995年]]5月の大統領選挙で社会党の[[リオネル・ジョスパン]]を下して大統領府である[[エリゼ宮殿]]の主となった。 |
[[1995年]]5月の大統領選挙で社会党の[[リオネル・ジョスパン]]を下して大統領府である[[エリゼ宮殿]]の主となった。 |
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当選直後に[[包括的核実験禁止条約]]の締結を控えて核兵力の確認と誇示のため、[[南太平洋]]の[[ムルロア環礁]]で数度の[[核実験]]を強行し、「駆け込み実験」だと世界的な非難を浴びた。 |
当選直後に[[包括的核実験禁止条約]]の締結を控えて[[核兵器|核兵力]]の確認と誇示のため、[[南太平洋]]の[[ムルロア環礁]]で数度の[[核実験]]を強行し、「駆け込み実験」だと世界的な非難を浴びた。 |
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これにより、同年の[[イグノーベル賞|イグノーベル平和賞]]を受賞した。同時に地下核実験を行った[[中華人民共和国]]と両国の関係強化に努めた(後述のようにシラクは[[ド・ゴール]]を敬愛しており、ド・ゴールは冷戦下の西側で最も早く中国と国交を樹立するなど[[親中]]の姿勢で知られる)。 |
これにより、同年の[[イグノーベル賞|イグノーベル平和賞]]を受賞した。同時に地下核実験を行った[[中華人民共和国]]と両国の関係強化に努めた(後述のようにシラクは[[ド・ゴール]]を敬愛しており、ド・ゴールは[[冷戦]]下の[[西側諸国|西側]]で最も早く中国と[[国交]]を樹立するなど[[親中]]の姿勢で知られる)。 |
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==== 再選 ==== |
==== 再選 ==== |
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[[2002年]]の[[2002年フランス大統領選挙|大統領選挙]]で、ジョスパンや極右の[[ジャン=マリー・ル・ペン]]を破って再選された。[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ]]の報復攻撃として[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガン侵攻]]に賛同したが、[[2003年]]の[[イラク戦争]]に[[ドイツ]]の[[ゲアハルト・シュレーダー]]、[[ロシア]]の[[ウラジ |
[[2002年]]の[[2002年フランス大統領選挙|大統領選挙]]で、ジョスパンや[[極右]]の[[ジャン=マリー・ル・ペン]]を破って再選された。[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ]]の報復攻撃として[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガン侵攻]]に賛同したが、[[2003年]]の[[イラク戦争]]に[[ドイツ]]の[[ゲアハルト・シュレーダー]]、[[ロシア]]の[[ウラジーミル・プーチン]]、中国の[[胡錦涛]]とともに反対した。自らが命名した[[航空母艦|空母]][[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]を[[アメリカ軍|米軍]]とともに[[ペルシア湾|ペルシャ湾]]に派遣して[[空襲|空爆]]参加に準備したが、反戦世論の高まりとともに反対に転じて早くから反対を表明していたドイツと共調した。シュレーダーが首相に就任して以降に独仏両国は急速に接近して[[欧州連合]]の中核国として威厳を示し、頻繁に両国を往来して独仏の政治統合を内外に誇示し、[[東ヨーロッパ|東欧]]各国のEU加盟実現と[[欧州憲法]]の発効を急いだ。 |
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==== 欧州統合の失敗 ==== |
==== 欧州統合の失敗 ==== |
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急速な[[欧州統合]]政策は東欧からの労働力流入と外国人の増加による社会文化の変質から国民の不安を招き、[[2005年]]の国民投票で欧州憲法が拒否された。シュレーダーも直後の総選挙でわずかに敗北して首相を退任し、両首脳が進めた欧州統合政策は行き詰まった。[[2012年]][[夏季オリンピック]]のパリ招致を目指して積極的にロビー活動したが7月に[[イギリス]]の[[ロンドン]]に敗れ、10月に各主要都市で[[黒人]]や[[アラブ系]]の若者を中心に[[2005年パリ郊外暴動事件|パリ郊外暴動事件]]で[[戒厳令]]を発した。 |
急速な[[欧州統合]]政策は東欧からの労働力流入と外国人の増加による社会文化の変質から国民の不安を招き、[[2005年]]の国民投票で欧州憲法が拒否された。シュレーダーも直後の総選挙でわずかに敗北して首相を退任し、両首脳が進めた欧州統合政策は行き詰まった。[[2012年]][[夏季オリンピック]]のパリ招致を目指して積極的に[[ロビー活動]]したが7月に[[イギリス]]の[[ロンドン]]に敗れ、10月に各主要都市で[[黒人]]や[[アラブ系]]の若者を中心に[[2005年パリ郊外暴動事件|パリ郊外暴動事件]]で[[戒厳令]]を発した。 |
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これは長年の[[移民]][[同化政策]]の綻びによる。2006年3月に若者向け雇用促進策「[[初期雇用契約]] (CPE)」を核とする機会均等法を制定すると反対する市民らが国内で暴動を多発し、各企業や公共機関で[[ストライキ]]も多発した。4月にCPEの事実上の撤回を余儀なくされ、世論調査で支持率29[[パーセント]] (%) と第五共和制下の大統領として最低を記録した<ref>LE JOURNAL DU DIMANCHE紙</ref>。 |
これは長年の[[移民]][[同化政策]]の綻びによる。2006年3月に若者向け雇用促進策「[[初期雇用契約]] (CPE)」を核とする機会均等法を制定すると反対する市民らが国内で暴動を多発し、各企業や公共機関で[[ストライキ]]も多発した。4月にCPEの事実上の撤回を余儀なくされ、世論調査で支持率29[[パーセント]] (%) と第五共和制下の大統領として最低を記録した<ref>LE JOURNAL DU DIMANCHE紙</ref>。 |
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=== 大統領退任後 === |
=== 大統領退任後 === |
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大統領退任後の[[2009年]]3月に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の大統領[[バラク・オバマ]]から書簡を送られて任期中の助言や協力を求められた、とフランス紙『フィガロ』電子版が2009年3月20日に報じている<ref>{{cite news |
大統領退任後の[[2009年]]3月に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の大統領[[バラク・オバマ]]から書簡を送られて任期中の助言や協力を求められた、とフランス紙『フィガロ』電子版が2009年3月20日に報じている<ref>{{cite news |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/america/090321/amr0903210914001-n1.htm |
| url = https://web.archive.org/web/20090325041338/http://sankei.jp.msn.com/world/america/090321/amr0903210914001-n1.htm |
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| title = シラク前仏大統領に協力要請 |
| title = シラク前仏大統領に協力要請 オバマ大統領、書簡で |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
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| date = 2009-03-21 |
| date = 2009-03-21 |
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2009年4月16日に、フランス週刊誌『パリ・マッチ』が掲載したフランスの政治家の人気調査で、好感度が現職のサルコジは41%だったが74%で1位<ref>{{cite news |
2009年4月16日に、フランス週刊誌『パリ・マッチ』が掲載したフランスの政治家の人気調査で、好感度が現職のサルコジは41%だったが74%で1位<ref>{{cite news |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090417/erp0904170112000-n1.htm |
| url = https://web.archive.org/web/20090420001234/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090417/erp0904170112000-n1.htm |
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| title = 仏でシラク前大統領の人気復活 |
| title = 仏でシラク前大統領の人気復活 |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
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| date = 2009-04-17 |
| date = 2009-04-17 |
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| accessdate = 2010-03-11 |
| accessdate = 2010-03-11 |
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}}{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>であった。 |
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|archivedate= 2009-04-20 |
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|deadlinkdate= 2020-12 |
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}}</ref>であった。 |
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[[2011年]]9月4日にフランスの各メディアは、[[認知症]]の一つ[[アルツハイマー病]]を患っていると一斉に報じた<ref>{{cite news |
[[2011年]]9月4日にフランスの各メディアは、[[認知症]]の一つ[[アルツハイマー病]]を患っていると一斉に報じた<ref>{{cite news |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/110905/erp11090508270003-n1.htm |
| url = https://web.archive.org/web/20110905161259/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110905/erp11090508270003-n1.htm |
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| title = シラク前仏大統領、認知症患う「もはや会話続けられず」 |
| title = シラク前仏大統領、認知症患う「もはや会話続けられず」 |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
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フランスの週刊紙『[[カナール・アンシェネ]]』は、シラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧[[東京相和銀行]]に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言した。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。 |
フランスの週刊紙『[[カナール・アンシェネ]]』は、シラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧[[東京相和銀行]]に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言した。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。 |
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2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党である共和国連合の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。[[2009年]]10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された<ref>「[http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009103001000996.html シラク前仏大統領を起訴 パリ市長時代の「職員架空雇用」]」 共同通信社、2009年10月30日。2009年10月31日閲覧。</ref><ref>「[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091031/erp0910310030000-n1.htm シラク前大統領起訴 パリ市長時代の架空雇用事件で]」 産経新聞、2009年10月31日。2009年10月31日閲覧。</ref>。第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。2011年12月15日、パリの軽罪裁判所により執行猶予付きの禁錮2年の有罪判決が出された<ref>[ |
2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党である共和国連合の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。[[2009年]]10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された<ref>「[https://web.archive.org/web/20091103075513/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009103001000996.html シラク前仏大統領を起訴 パリ市長時代の「職員架空雇用」]」 共同通信社、2009年10月30日。2009年10月31日閲覧。</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20091102123021/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091031/erp0910310030000-n1.htm シラク前大統領起訴 パリ市長時代の架空雇用事件で]」 産経新聞、2009年10月31日。2009年10月31日閲覧。</ref>。第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。2011年12月15日、パリの軽罪裁判所により執行猶予付きの禁錮2年の有罪判決が出された<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE7BF00920111216/ シラク前仏大統領に有罪判決、パリ市長時代の公金横領で] ロイター、2011年12月16日閲覧</ref>。 |
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==== 財団 ==== |
==== 財団 ==== |
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[[2009年]]11月6日に「シラク財団」は持続的発展と文化対話に功績のあった人物に贈られる「紛争予防賞」の第1回授与式をパリ市内で行った。授与式で、[[1995年]]に[[ナイジェリア]]で「宗教間の調停センター (IMC)」を設立した[[イスラム教]]のムハンマド・アシャファ師と[[キリスト教]]のジェームズ・ウエ牧師に賞金20万ユーロが贈られた<ref>{{cite news |
[[2009年]]11月6日に「シラク財団」は持続的発展と文化対話に功績のあった人物に贈られる「紛争予防賞」の第1回授与式をパリ市内で行った。授与式で、[[1995年]]に[[ナイジェリア]]で「宗教間の調停センター (IMC)」を設立した[[イスラム教]]のムハンマド・アシャファ師と[[キリスト教]]のジェームズ・ウエ牧師に賞金20万ユーロが贈られた<ref>{{cite news |
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| author = パリ 山口昌子 |
| author = パリ 山口昌子 |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091106/erp0911061848004-n1.htm |
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| title = 宗教間調停に尽力、2氏に「紛争予防賞」 シラク財団が第一回授賞式 |
| title = 宗教間調停に尽力、2氏に「紛争予防賞」 シラク財団が第一回授賞式 |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞) |
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}}</ref>。 |
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== 業績・評価 == |
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シラクは[[シャルル・ド・ゴール]]と[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]に関連が深い。シラクも[[ド・ゴール主義]]者のひとりとしてフランスの国益、フランスの栄光が行動の指針となっていた。 |
シラクは[[シャルル・ド・ゴール]]と[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]に関連が深い。シラクも[[ド・ゴール主義]]者のひとりとしてフランスの国益、フランスの栄光が行動の指針となっていた。 |
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フランスと[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の間に国交が無いが、シラクは「テロ国家とは国交など結ばない」と述べていた<ref>{{cite news |
フランスと[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の間に国交が無いが、シラクは「テロ国家とは国交など結ばない」と述べていた<ref>{{cite news |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/091024/scr0910241648002-n2.htm |
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| title = 【記者ブログ】北朝鮮サッカー選手、キムチ持参でフランス遠征 山口昌子 (2/2ページ) |
| title = 【記者ブログ】北朝鮮サッカー選手、キムチ持参でフランス遠征 山口昌子 (2/2ページ) |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞) |
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[[2005年]]3月26日の来日は、公私合わせて45回目になるが、真っ先に[[大阪]]で開かれている大相撲春場所を訪れ、27日に[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]を見た後、28日に[[上皇明仁|天皇]]、首相と会見した。2005年3月場所で相撲観戦を終えて会場を後にする際、観客が総立ちになって「シラク」コールを浴びせた。それだけシラクが好角家として相撲ファンに認知されていたということである<ref name="Chirachuho">[https://www.jiji.com/jc/article?k=20190930039179a&g=afp 相撲をこよなく愛した日仏友好の懸け橋、ジャック・シラク元大統領] JIJI.COM 2019/09/30-09:29(2019年10月8日閲覧)</ref>。 |
[[2005年]]3月26日の来日は、公私合わせて45回目になるが、真っ先に[[大阪]]で開かれている大相撲春場所を訪れ、27日に[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]を見た後、28日に[[上皇明仁|天皇]]、首相と会見した。2005年3月場所で相撲観戦を終えて会場を後にする際、観客が総立ちになって「シラク」コールを浴びせた。それだけシラクが好角家として相撲ファンに認知されていたということである<ref name="Chirachuho">[https://www.jiji.com/jc/article?k=20190930039179a&g=afp 相撲をこよなく愛した日仏友好の懸け橋、ジャック・シラク元大統領] JIJI.COM 2019/09/30-09:29(2019年10月8日閲覧)</ref>。 |
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自身が死去した際、[[日本相撲協会]]の[[北勝海信芳|八角理事長]]は「突然の訃報に接して、思いがけないこと故、驚いております。生前は相撲を大変愛好され、何度も相撲観戦に足をお運びいただきました。ご生前のご厚情に深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ<ref>[https://www.sankei.com/sports/news/190926/spo1909260036-n1.html 八角理事長が哀悼の意 相撲ファンのシラク氏に] 産経ニュース 2019.9.26 22:03(2019年9月27日閲覧)</ref>。年月が経過しても好角家として各界から認知され続けていた |
自身が死去した際、[[日本相撲協会]]の[[北勝海信芳|八角理事長]]は「突然の訃報に接して、思いがけないこと故、驚いております。生前は相撲を大変愛好され、何度も相撲観戦に足をお運びいただきました。ご生前のご厚情に深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ<ref>[https://www.sankei.com/sports/news/190926/spo1909260036-n1.html 八角理事長が哀悼の意 相撲ファンのシラク氏に] 産経ニュース 2019.9.26 22:03(2019年9月27日閲覧)</ref>。年月が経過しても好角家として各界から認知され続けていた。 |
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外交政策的にも日本を重視した姿勢が見られた。[[2003年]]11月29日に[[イラク]]で日本人外交官2人が殺害された事件で、翌30日に「大変な悲しみを覚える」「困難な事態に日本と連帯して取り組んでいきたい」とする書簡を首相の[[小泉純一郎]]に出した。[[2005年]][[4月25日]]に発生した[[JR福知山線脱線事故]]で、26日に「事故を知り、深い悲しみを感じている。遺族に対して私から、仏国民からお悔やみを申し上げる」と小泉に弔意を表明した。[[2006年]]9月6日に[[悠仁親王]]が誕生した際に、英国女王[[エリザベス2世]]と並んでいち早く[[上皇明仁|上皇]] |
外交政策的にも日本を重視した姿勢が見られた。[[2003年]]11月29日に[[イラク]]で日本人外交官2人が殺害された事件で、翌30日に「大変な悲しみを覚える」「困難な事態に日本と連帯して取り組んでいきたい」とする書簡を首相の[[小泉純一郎]]に出した。[[2005年]][[4月25日]]に発生した[[JR福知山線脱線事故]]で、26日に「事故を知り、深い悲しみを感じている。遺族に対して私から、仏国民からお悔やみを申し上げる」と小泉に弔意を表明した。[[2006年]]9月6日に[[悠仁親王]]が誕生した際に、英国女王[[エリザベス2世]]と並んでいち早く[[上皇明仁|上皇]](当時は天皇)に祝賀のメッセージを送った。[[2007年]]1月12日の[[安倍晋三]]との会談で、シラクは「日本のいない[[国際連合安全保障理事会|安保理]]は馬鹿げている」と述べ、日本の[[常任理事国]]入りへの支持と協力を約束した。 |
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[[2008年]]10月14日に元首相[[森喜朗]]と会談し、[[2016年]]の東京五輪招致について「日本を支持したい。日本しかないと考えている」と述べた。ラグビーワールドカップの日本招致についても支援する意向を示した<ref>{{ |
[[2008年]]10月14日に元首相[[森喜朗]]と会談し、[[2016年]]の東京五輪招致について「日本を支持したい。日本しかないと考えている」と述べた。ラグビーワールドカップの日本招致についても支援する意向を示した<ref>{{Cite web|和書 |
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| url = http://www.mori-yoshiro.com/History/Domestics/20081014.html |
| url = http://www.mori-yoshiro.com/History/Domestics/20081014.html |
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| title = 森 喜朗 公式ウェブサイト:活動履歴:国内での活動(日仏関係強化で一致/シラク前大統領と会談) |
| title = 森 喜朗 公式ウェブサイト:活動履歴:国内での活動(日仏関係強化で一致/シラク前大統領と会談) |
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自身の「回想録」の第1巻で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べている。人生に関する多くの教訓を相撲から学んだことを明かしている<ref name="Chirachuho"/>。そして、日本を含むアジア文化との出合いは高校時代に通ったパリのギメ美術館だったことに触れ、「日本に行くたびに、ギメ美術館で仏像を鑑賞していた(青年期の)ころの感情に戻る」と述べた。相撲については「戦いの前に、2人の力士が相互ににらみ合う視線以上に強いまなざしを知らない」と仕切りの奥深さを語った<ref>{{cite news |
自身の「回想録」の第1巻で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べている。人生に関する多くの教訓を相撲から学んだことを明かしている<ref name="Chirachuho"/>。そして、日本を含むアジア文化との出合いは高校時代に通ったパリのギメ美術館だったことに触れ、「日本に行くたびに、ギメ美術館で仏像を鑑賞していた(青年期の)ころの感情に戻る」と述べた。相撲については「戦いの前に、2人の力士が相互ににらみ合う視線以上に強いまなざしを知らない」と仕切りの奥深さを語った<ref>{{cite news |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091107/erp0911071824003-n1.htm |
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| title = 人生の教訓、相撲に学んだ シラク前仏大統領が回想録 |
| title = 人生の教訓、相撲に学んだ シラク前仏大統領が回想録 |
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| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
| newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信) |
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シラク時代に[[日仏関係]]は上記のようなシラク個人の親日姿勢に加え、当選直後の核実験以降は特に大きな懸案も無かったため緊張を孕むことは無かった。しかし[[中国]]の経済発展が進行する中で、シラク自身が団長となって経済界の要人を引き連れた対中訪問団を組織するなど日本から中国へと軸足を移してきた感も見られた。また、シラクの後継に就任したサルコジは相撲に対する辛辣な見方で知られており、今後の日仏関係は仕切り直しが必要と予想される。 |
シラク時代に[[日仏関係]]は上記のようなシラク個人の親日姿勢に加え、当選直後の核実験以降は特に大きな懸案も無かったため緊張を孕むことは無かった。しかし[[中国]]の経済発展が進行する中で、シラク自身が団長となって経済界の要人を引き連れた対中訪問団を組織するなど日本から中国へと軸足を移してきた感も見られた。また、シラクの後継に就任したサルコジは相撲に対する辛辣な見方で知られており、今後の日仏関係は仕切り直しが必要と予想される。 |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[ド・ゴール主義]](ゴーリスム) |
* [[ド・ゴール主義]](ゴーリスム) |
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* [[コアビタシオン]] |
* [[コアビタシオン]] |
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*[[立川志らく]] - 師匠の[[立川談志]]がジャック・シラクにちなんで付けた高座名<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/09/26/kiji/20190926s00041000306000c.html|website=www.sponichi.co.jp|accessdate=2021-05-04|title=立川志らく、仏シラク元大統領悼む 談志師匠の名付け秘話「フランスに行けば有名人だぞ」}}</ref>。 |
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== 出典 == |
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== 外部リンク == |
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{{先代次代|{{Flagicon|FRA}} [[フランスの首相|フランス首相]]|第6代:1974年5月27日 – 1976年8月26日<br/>第10代:1986年3月20日 – 1988年5月10日|[[ピエール・メスメル]]<br />[[ローラン・ファビウス]]|[[レイモン・バール]]<br />[[ミシェル・ロカール]]}} |
{{先代次代|{{Flagicon|FRA}} [[フランスの首相|フランス首相]]|第6代:1974年5月27日 – 1976年8月26日<br/>第10代:1986年3月20日 – 1988年5月10日|[[ピエール・メスメル]]<br />[[ローラン・ファビウス]]|[[レイモン・バール]]<br />[[ミシェル・ロカール]]}} |
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{{先代次代|{{Flagicon|FRA}} [[フランスの大統領|フランス大統領]]|第22代:1995年5月17日 – 2007年5月16日|[[フランソワ・ミッテラン]]|[[ニコラ・サルコジ]]}} |
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{{先代次代|{{Flagicon|FRA}} {{仮リンク|パリ市長|en|Mayor of Paris|fr|Maire de Paris}}|1977年3月25日 - 1995年5月16日|新設|[[ジャン・チベリ]]}} |
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{{先代次代|{{Flagicon|FRA}} [[内務省_(フランス)#第五共和政|フランス内務大臣]]|第6代:1974年2月27日 – 1974年5月27日|レーモン・マルスラン|ミシェル・ポニャトフスキ}} |
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{{フランス第五共和政の首相}} |
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{{フランスの大統領}} |
{{フランスの大統領}} |
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[[Category:ジャック・シラク|*]] |
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[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] |
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[[Category:芸術文化勲章受章者]] |
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[[Category:イグノーベル賞受賞者]] |
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[[Category:フランスの保守思想家]] |
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[[Category:1932年生]] |
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[[Category:2019年没]] |
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2024年6月13日 (木) 12:23時点における最新版
ジャック・シラク Jacques René Chirac | |
![]() 1997年7月16日
| |
任期 | 1995年5月17日 – 2007年5月16日 |
---|---|
首相 | アラン・ジュペ リオネル・ジョスパン ジャン=ピエール・ラファラン ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン |
任期 | 1995年5月17日 – 2007年5月16日 |
共同大公 | ジュアン・マルティ・アラニス ジュアン・エンリク・ビベス・イ・シシリア |
任期 | 1974年5月27日 – 1976年8月26日 1986年3月20日 – 1988年5月10日 |
大統領 | ヴァレリー・ジスカール・デスタン フランソワ・ミッテラン |
任期 | 1974年2月27日 – 1974年5月27日 |
大統領 | ジョルジュ・ポンピドゥー アラン・ポエール(臨時大統領) |
内閣 | 第3次ピエール・メスメル内閣 |
出生 | 1932年11月29日![]() |
死去 | 2019年9月26日(86歳没) |
政党 | 共和国民主連合(UDR) 共和国連合(RPR) 国民運動連合(UMP) |
出身校 | パリ政治学院 |
配偶者 | ベルナドット・シラク |
子女 | 2人 |
署名 | ![]() |
ジャック・ルネ・シラク(フランス語:Jacques René Chirac、 Jacques René Chirac 、[ʒak ʁəne ʃiʁak]、1932年11月29日 - 2019年9月26日[1])は、フランスの政治家。ヴァレリー・ジスカール・デスタン政権及び第1次コアビタシオンでのフランソワ・ミッテラン政権で第6・10代フランス首相、第22代フランス大統領及びアンドラ共同大公を歴任した。
来歴[編集]
大統領になるまで[編集]
1932年11月29日にパリの5区内にある医院で誕生した。父親は銀行員で、後に飛行機会社の役員になった。そして中学校から高校時代にかけて4校に在籍した。ヴェルサイユのリセ・オッシュに1年、それからパリ8区の私立アトメール校、パリ17区のリセ・カルノ、パリ5区のリセ・ルイ=ル=グランなどを経てバカロレアを取得し、1954年にパリ政治学院を卒業。在学中にハーバード大学サマースクールに留学経験がある。1950年代はフランス共産党員であり[2]、ストックホルム・アピールに署名するなどしていた[3]。1956年に軍隊に召集され、将校としてアルジェリア戦争に従軍、負傷した。1959年、フランス国立行政学院を卒業後国家公務員となり、1962年まで会計検査官を務めた。のち、シャルル・ド・ゴールのもとで首相を務めるジョルジュ・ポンピドゥーの官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得るなど、急速に出世した。この頃から、旺盛な行動力により「ブルドーザー」の異名を得る。ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに、のちに首相となるエドアール・バラデュールがおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。
1967年にポンピドゥーの勧めで国民議会議員選挙に出馬して当選して社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任し、ポンピドゥーのもとで1972年に農相、1974年に内務大臣と、重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、ヴァレリー・ジスカール・デスタンの下で1974年5月から1976年まで首相を経験した。1976年にドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、共和国連合を創設し、総裁となる。1986年に再び首相に返り咲く。1977年から1995年まで長くパリ市長を務めた。この間、1981年と1988年に大統領選挙に出馬したが、いずれも社会党のフランソワ・ミッテランに敗れている。
大統領就任[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Chirac_with_bush.jpg/200px-Chirac_with_bush.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Chirac_Bush_Blair_Berlusconi.jpg/200px-Chirac_Bush_Blair_Berlusconi.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Vladimir_Putin_with_Jacques_Chirac-1.jpg/200px-Vladimir_Putin_with_Jacques_Chirac-1.jpg)
核実験の強行[編集]
1995年5月の大統領選挙で社会党のリオネル・ジョスパンを下して大統領府であるエリゼ宮殿の主となった。
当選直後に包括的核実験禁止条約の締結を控えて核兵力の確認と誇示のため、南太平洋のムルロア環礁で数度の核実験を強行し、「駆け込み実験」だと世界的な非難を浴びた。
これにより、同年のイグノーベル平和賞を受賞した。同時に地下核実験を行った中華人民共和国と両国の関係強化に努めた(後述のようにシラクはド・ゴールを敬愛しており、ド・ゴールは冷戦下の西側で最も早く中国と国交を樹立するなど親中の姿勢で知られる)。
再選[編集]
2002年の大統領選挙で、ジョスパンや極右のジャン=マリー・ル・ペンを破って再選された。2001年のアメリカ同時多発テロの報復攻撃としてアフガン侵攻に賛同したが、2003年のイラク戦争にドイツのゲアハルト・シュレーダー、ロシアのウラジーミル・プーチン、中国の胡錦涛とともに反対した。自らが命名した空母シャルル・ド・ゴールを米軍とともにペルシャ湾に派遣して空爆参加に準備したが、反戦世論の高まりとともに反対に転じて早くから反対を表明していたドイツと共調した。シュレーダーが首相に就任して以降に独仏両国は急速に接近して欧州連合の中核国として威厳を示し、頻繁に両国を往来して独仏の政治統合を内外に誇示し、東欧各国のEU加盟実現と欧州憲法の発効を急いだ。
欧州統合の失敗[編集]
急速な欧州統合政策は東欧からの労働力流入と外国人の増加による社会文化の変質から国民の不安を招き、2005年の国民投票で欧州憲法が拒否された。シュレーダーも直後の総選挙でわずかに敗北して首相を退任し、両首脳が進めた欧州統合政策は行き詰まった。2012年夏季オリンピックのパリ招致を目指して積極的にロビー活動したが7月にイギリスのロンドンに敗れ、10月に各主要都市で黒人やアラブ系の若者を中心にパリ郊外暴動事件で戒厳令を発した。
これは長年の移民同化政策の綻びによる。2006年3月に若者向け雇用促進策「初期雇用契約 (CPE)」を核とする機会均等法を制定すると反対する市民らが国内で暴動を多発し、各企業や公共機関でストライキも多発した。4月にCPEの事実上の撤回を余儀なくされ、世論調査で支持率29パーセント (%) と第五共和制下の大統領として最低を記録した[4]。
引退[編集]
欧州憲法の国民投票失敗以後は急速に求心力が低下し、当初意欲を見せていた2007年大統領選の三選は困難とする見方が広まっていった。保守派の重要候補であるニコラ・サルコジとの関係は1995年の大統領選挙以来冷え込んでいるため自ら出馬するかどうかが焦点となっていたが、2007年2月に「(今までとは)別の形で国に貢献したい」とメディアに語り引退を表明し、3月にサルコジを支持すると発言した。
2007年5月16日、大統領を退任した。
大統領退任後[編集]
大統領退任後の2009年3月に、アメリカの大統領バラク・オバマから書簡を送られて任期中の助言や協力を求められた、とフランス紙『フィガロ』電子版が2009年3月20日に報じている[5]。
2009年4月16日に、フランス週刊誌『パリ・マッチ』が掲載したフランスの政治家の人気調査で、好感度が現職のサルコジは41%だったが74%で1位[6]であった。
2011年9月4日にフランスの各メディアは、認知症の一つアルツハイマー病を患っていると一斉に報じた[7]。
公の場にほとんど姿を見せていなかったが、2019年9月26日に死去した[8]。
疑惑[編集]
フランスの週刊紙『カナール・アンシェネ』は、シラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧東京相和銀行に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言した。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。
2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党である共和国連合の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。2009年10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された[9][10]。第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。2011年12月15日、パリの軽罪裁判所により執行猶予付きの禁錮2年の有罪判決が出された[11]。
財団[編集]
大統領退任後は持続可能な開発と文化間・文明間対話のため、優先助成分野に「良質な医薬品へのアクセス」、「水へのアクセス」、「森林破壊・砂漠化対策」、「絶滅が危惧される言語・文化の保護」を掲げる「シラク財団」を創立して理事長を務める。
2009年11月6日に「シラク財団」は持続的発展と文化対話に功績のあった人物に贈られる「紛争予防賞」の第1回授与式をパリ市内で行った。授与式で、1995年にナイジェリアで「宗教間の調停センター (IMC)」を設立したイスラム教のムハンマド・アシャファ師とキリスト教のジェームズ・ウエ牧師に賞金20万ユーロが贈られた[12]。
業績・評価[編集]
シラクはシャルル・ド・ゴールとジョルジュ・ポンピドゥーに関連が深い。シラクもド・ゴール主義者のひとりとしてフランスの国益、フランスの栄光が行動の指針となっていた。
政治の師であるポンピドゥーはシラクの旺盛な行動力を「自宅からエリゼ宮までトンネルを掘って欲しいと言えば、翌日まで完成させて出口で待っているだろう」と表現している。その一方で「目標に向かってしゃにむに走る男だが、成熟が課題」と評した。ポンビドゥーから「ブルドーザー」というように評された。
シラク評は、社会党大統領として政敵であり、コアビタシオンで大統領と首相として政権を共にせざるを得なかったフランソワ・ミッテランも興味深い考察をいくつか残した。孤高の皮肉屋であったミッテランはシラクを「自分が何故回っているのかも知らずに回り続けるコマのような人間」「何というエネルギー、何という行動力、何という快活さ、惜しむらくは、冷静な判断力に欠ける」と行動力に比して内省的な思考の不足を述べた。一方でミッテランはシラクの力量を正当に評価してもいる。1988年大統領選挙に惨敗し失意の中にあったシラクをミッテランは「戻ってくるだろう」と、その行動力を発揮して権力の中枢に復権することを予言した。
官僚出身のエリートだが飾らない庶民派として知られ、仔牛の頭やビールを好み大衆との近さを売りにしていた。同じ保守派だが複雑な関係にあった貴族に連なるヴァレリー・ジスカール・デスタンが、気取り屋ぶりを揶揄されていたことと対照的である。
大統領時代の功績としてあげられるのは、イラク戦争に反対したことである。アメリカ主導によってイラク戦争が行われようとした際、側近で外務大臣のドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンらを通じて開戦に反対した。シラクおよびフランスの意図はアメリカの一極支配、単独行動主義への警戒・反発や高まる反戦世論への反応という側面が強かったが、結果としてイラク戦争後の混乱や大量破壊兵器が存在しなかったことにより、フランスの良識を広く知らしめることになったという評価がある一方、その後しばらく米仏関係は冷え込み、フランスの影響力を削ぐことになったという批判もある。イラクの独裁者サダム・フセインとは1970年代から個人的に親しくしており[13]、「ジャック・イラク」[14]、イランから「イラクのシャー」、イスラエルはフランスの協力で建設された原子炉から「オ・シラク」と呼ばれた[15]。
シラクはもともと親米的な人物として知られており、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は対米協力を強力に推し進めた。イラク戦争でも、実際の開戦までの過程で、米軍と共にペルシャ湾に艦船を派遣して空爆に備えたり(上述)、「二段階攻撃論」を主張するなど、当初から開戦反対を唱えたドイツとは異なり、米国と共同歩調を模索したが直前に開戦反対して米国では「裏切られた」とする反応が少なくなく、米仏関係は極度に悪化した。アメリカとの関係改善が大きな政治課題として残されたが、任期中は本格的な改善に至らず、対米関係修復を志向するサルコジの台頭を招いた。
国内問題は、1995年7月16日大統領就任直後に第二次世界大戦中、フランス警察が行ったユダヤ人迫害事件であるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件に対して、追悼式典に出席した上で、初めてフランス国家の犯した誤りと認めた。自ら総裁を務める共和国連合を中心とする右派にも波紋を拡げる演説であったが、国民の多数がシラクの演説を支持した。
最大の政治的失点は2005年欧州憲法条約の国民投票における否決である。フランスの欧州憲法採択の手法としては国民投票と議会における批准という二つの選択肢があったが、シラクはリスクの高い国民投票に賭け、失敗した。このシラクの失敗はシラクの政治的威信の低下とともに欧州統合の失速、欧州統合におけるフランスの威信低下をも招いたという点で致命的であった。
若者を中心とする失業、移民の増加による多文化社会とそれに伴う社会的亀裂も、シラクは修復することができなかった。シラク個人の責任ではないが、治安の悪化は移民排撃を主張するジャン=マリー・ル・ペンによる国民戦線や、寛容よりは治安維持を重視するサルコジの台頭を招き、フランス社会は重大な岐路に立っていると言えよう。
フランスと北朝鮮の間に国交が無いが、シラクは「テロ国家とは国交など結ばない」と述べていた[16]。
家族[編集]
妻のベルナデット・ショルドン・ド・クルセルとの間に2人の娘があり、そのひとりクロード・シラクは長年、大統領の広報担当アシスタントを務めている。インドシナ系難民の養女がいる。
親日家[編集]
ジャック・シラクは親日家(知日派)として知られており、日本文化に対する造詣も深い。幼少期にパリの東洋美術館、ギメ美術館を観覧し東洋美術に関心を持ったのが日本への関心の始まりである。学生時代に『万葉集』を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。温泉も好きで、来日時は、しばしば入浴する。日本古美術の膨大なコレクションを所蔵する。来日時、首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめた。以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれる。さらに、愛犬の名前に「スモウ」とつけるほどの大相撲の大ファンでもあったが、「スモウ」は繰り返しシラクに噛み付いたため後に手放さざるを得なくなったと伝わる[17]。駐日大使館の重要な任務の一つは、エリゼ宮に大相撲の結果を場所中毎日報告することだったとさえいわれる[17]。1999年1月、首相の小渕恵三(当時)が訪仏した際、貴乃花が明治神宮に奉納した綱と軍配を贈ると、大喜びしたというエピソードもある。一番の贔屓の力士は琴錦で、琴錦と同郷の小渕首相と琴錦の話題を楽しんだ。エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させた。
2005年3月26日の来日は、公私合わせて45回目になるが、真っ先に大阪で開かれている大相撲春場所を訪れ、27日に愛知万博を見た後、28日に天皇、首相と会見した。2005年3月場所で相撲観戦を終えて会場を後にする際、観客が総立ちになって「シラク」コールを浴びせた。それだけシラクが好角家として相撲ファンに認知されていたということである[17]。
自身が死去した際、日本相撲協会の八角理事長は「突然の訃報に接して、思いがけないこと故、驚いております。生前は相撲を大変愛好され、何度も相撲観戦に足をお運びいただきました。ご生前のご厚情に深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ[18]。年月が経過しても好角家として各界から認知され続けていた。
外交政策的にも日本を重視した姿勢が見られた。2003年11月29日にイラクで日本人外交官2人が殺害された事件で、翌30日に「大変な悲しみを覚える」「困難な事態に日本と連帯して取り組んでいきたい」とする書簡を首相の小泉純一郎に出した。2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故で、26日に「事故を知り、深い悲しみを感じている。遺族に対して私から、仏国民からお悔やみを申し上げる」と小泉に弔意を表明した。2006年9月6日に悠仁親王が誕生した際に、英国女王エリザベス2世と並んでいち早く上皇(当時は天皇)に祝賀のメッセージを送った。2007年1月12日の安倍晋三との会談で、シラクは「日本のいない安保理は馬鹿げている」と述べ、日本の常任理事国入りへの支持と協力を約束した。
2008年10月14日に元首相森喜朗と会談し、2016年の東京五輪招致について「日本を支持したい。日本しかないと考えている」と述べた。ラグビーワールドカップの日本招致についても支援する意向を示した[19]。
自身の「回想録」の第1巻で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べている。人生に関する多くの教訓を相撲から学んだことを明かしている[17]。そして、日本を含むアジア文化との出合いは高校時代に通ったパリのギメ美術館だったことに触れ、「日本に行くたびに、ギメ美術館で仏像を鑑賞していた(青年期の)ころの感情に戻る」と述べた。相撲については「戦いの前に、2人の力士が相互ににらみ合う視線以上に強いまなざしを知らない」と仕切りの奥深さを語った[20]。
日本テレビ系番組『第9回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1985年)で、当時パリ市長だったシラクの招請によりパリが決勝地となった(番組内で自身もVTR出演をした)。1986年に行われた大相撲のパリ公演は市長として自ら主催し、1995年にフランス大統領として自ら主催者になった。
関連項目[編集]
出典[編集]
- ^ https://www.rtl.fr/actu/politique/jacques-chirac-est-decede-a-l-age-de-86-ans-7784068773
- ^ France 3, 12 November 1993
- ^ “Jacques Chirac, sabre au clair”. 2008年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月17日閲覧。. L'Humanité 8 May 1995 (in French)
- ^ LE JOURNAL DU DIMANCHE紙
- ^ “シラク前仏大統領に協力要請 オバマ大統領、書簡で”. MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信). (2009年3月21日) 2010年3月11日閲覧。
- ^ “仏でシラク前大統領の人気復活”. MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信). (2009年4月17日). オリジナルの2009年4月20日時点におけるアーカイブ。 2010年3月11日閲覧。
- ^ “シラク前仏大統領、認知症患う「もはや会話続けられず」”. MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信). (2011年9月5日) 2011年9月5日閲覧。
- ^ “ジャック・シラク元仏大統領が死去、86歳”. フランス通信社. (2019年9月26日) 2019年11月28日閲覧。
- ^ 「シラク前仏大統領を起訴 パリ市長時代の「職員架空雇用」」 共同通信社、2009年10月30日。2009年10月31日閲覧。
- ^ 「シラク前大統領起訴 パリ市長時代の架空雇用事件で」 産経新聞、2009年10月31日。2009年10月31日閲覧。
- ^ シラク前仏大統領に有罪判決、パリ市長時代の公金横領で ロイター、2011年12月16日閲覧
- ^ パリ 山口昌子 (2009年11月6日). “宗教間調停に尽力、2氏に「紛争予防賞」 シラク財団が第一回授賞式”. MSN産経ニュース(産経新聞) 2010年3月11日閲覧。
- ^ "The Chirac Doctrine". The Middle East Quarterly. Fall 2005.
- ^ 櫻井よしこ『 ポスト・フセイン政権での主導権争いに動く各国 その冷徹な外交に学ぶとき』週刊ダイヤモンド 2003年4月19日
- ^ Shawcross, William, "Allies: The U.S., Britain, and Europe in the Aftermath of the Iraq War.", 2009
- ^ “【記者ブログ】北朝鮮サッカー選手、キムチ持参でフランス遠征 山口昌子 (2/2ページ)”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2009年10月24日) 2010年3月11日閲覧。
- ^ a b c d 相撲をこよなく愛した日仏友好の懸け橋、ジャック・シラク元大統領 JIJI.COM 2019/09/30-09:29(2019年10月8日閲覧)
- ^ 八角理事長が哀悼の意 相撲ファンのシラク氏に 産経ニュース 2019.9.26 22:03(2019年9月27日閲覧)
- ^ “森 喜朗 公式ウェブサイト:活動履歴:国内での活動(日仏関係強化で一致/シラク前大統領と会談)” (2008年10月14日). 2010年3月19日閲覧。
- ^ “人生の教訓、相撲に学んだ シラク前仏大統領が回想録”. MSN産経ニュース(産経新聞)(共同通信). (2009年11月7日) 2010年3月11日閲覧。
- ^ “立川志らく、仏シラク元大統領悼む 談志師匠の名付け秘話「フランスに行けば有名人だぞ」”. www.sponichi.co.jp. 2021年5月4日閲覧。
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