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'''山部 太'''(やまべ ふとし、[[1971年]][[1月4日]] - )は、[[愛媛県]][[八幡浜市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]、左投左打)・[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
'''山部 太'''(やまべ ふとし、[[1971年]][[1月4日]] - )は、[[愛媛県]][[八幡浜市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]、左投左打)・[[プロ野球コーチ|コーチ]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[愛媛県立八幡浜工業高等学校]]では、[[1988年]]の[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|夏の甲子園県予選]]で準決勝に進出、同年[[第60回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]優勝校である[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高]]を破る。決勝では[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商]]に大敗し甲子園出場を逸するが、好投手として注目を集めた。
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プロ野球11球団からドラフト指名挨拶があるも、腰に不安があり[[NTT四国硬式野球部|NTT四国]]に進む。同期の[[西山一宇]]と左右の二本柱となり、[[1990年]]から4年連続で[[都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場。[[1993年]]には第11回[[IBAFインターコンチネンタルカップ|インターコンチネンタルカップ]]日本代表、第17回[[アジア野球選手権大会]]日本代表に選出される。
プロ野球11球団からドラフト指名挨拶があるも、腰に不安があり[[NTT四国硬式野球部|NTT四国]]に進む。同期の[[西山一宇]]と左右の二本柱となり、{{by|1990年}}から4年連続で[[都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場。{{by|1993年}}には第11回[[IBAFインターコンチネンタルカップ|インターコンチネンタルカップ]]日本代表、第17回[[アジア野球選手権大会]]日本代表に選出される。


{{by|1993年}}のドラフト1位([[逆指名制度]])でヤクルトに入団。
[[1993年]]のドラフト1位([[逆指名制度]])でヤクルトに入団。[[1994年]][[4月26日]]、[[イースタン・リーグ]]の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成したが、この試合では西武先発の[[竹下潤]]も1失点ながら無安打完投しており、[[2016]]シーズン終了時点で日本プロ野球では一軍・二軍通じて唯一の「'''両チーム無安打試合'''」となっている。この年の中盤から一軍昇格し、先発ローテーションにも入ったがプロの洗礼を浴び1勝止まりだった。


=== 現役時代 ===
[[1995]]は開幕1軍からローテーションに定着、前半戦で11勝2敗の好成績で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に選出された。後半戦は中継ぎもこなしてチームトップ16勝を挙げ、チームのリーグ優勝・日本一に大く貢献した。
{{by|1994年}}4月26日、[[イースタン・リーグ]]の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成したが、この試合では西武先発の[[竹下潤]]も1失点ながら無安打完投しており、2022年シーズン終了時点で日本プロ野球では一軍・二軍通じて唯一の「'''両チーム無安打試合'''」となっている。この年の中盤から一軍昇格し、先発ローテーションにも入ったが1勝止まりだった。


[[1996]]も前半戦からローテーションを守り好成績で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に2年連続で選出された。しかし、後半戦は故障で登板でなかった。
{{by|1995}}は開幕一軍からローテーションに定着、前半戦で11勝2敗の好成績で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に選出された。後半戦は中継ぎもこなしてチームトップ16勝を挙げ、チームのリーグ優勝・日本一に大く貢献した。


{{by|1996}}も前半戦からローテーションを守り好成績で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に2年連続で選出された。しかし、後半戦は故障で登板でなかった。
[[1997年]]も肩の故障は完治せず14試合の登板初の未勝利で終わった。翌年も肩の影響が残り低迷、[[1998年]]のオフにはリハビリの為に[[川崎憲次郎]]、[[伊藤彰 (野球)|伊藤彰]]らと共に渡米し治療に専念した。


{{by|1997年}}も肩の故障は完治せず14試合の登板初の未勝利で終わった。翌年も肩の影響が残り低迷。
[[1999年]]は肩も完治し本来の球威が戻り、先発で13試合に登板し6勝7敗と復調の兆しが見えてきた。[[2001年]]には入団以来付けていた背番号19から30に変更。この頃からスリークオーターから繰り出す、スローカーブと緩急を付けた投球を持ち味とする軟投派にモデルチェンジ。


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[[2003年]][[2004年]]は主に中継ぎして登板、34試合で防御率1点台と安定した結果を出した。だが[[2005年]]は再び故障が続いた。


{{by|1999年}}は前半はショートリリーフやロングリリーフで投げ谷間の先発を務め、後半戦からは先発ローテーションにも入る復調ぶりだったが一発病で崩れることも多く6勝7敗に終わる。翌年は不振や故障でわずか9試合1勝に終わる。
[[2006年]]は一軍登板のないまま戦力外通告を受け、現役引退とコーチ就任を表明。[[10月15日]]の[[読売ジャイアンツ]]戦が引退試合となり、[[堀田一郎]]を三振に打ち取って(堀田はこの打席が現役最後の打席となった)有終の美を飾った。


{{by|2001年}}には入団以来付けていた背番号19から30に変更。この頃からスリークオーターから繰り出す、スローカーブと緩急を付けた投球を持ち味とする軟投派にモデルチェンジ。
[[2007年]]はヤクルトの二軍投手兼コンディショニングコーチを勤め、[[2008年]]から[[2010年]]までは二軍投手コーチを担当し、[[村中恭兵]]、[[増渕竜義]]、[[佐藤由規]]、[[赤川克紀]]ら若手投手陣を育成。


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[[2011年]]から[[2013年]]まではフロント入りし編成部課長に就任。編成部次長の[[角富士夫]]と球団内部の改革に取り組んだ。


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{{by|2006年}}は一軍登板のないまま戦力外通告を受け、現役引退とコーチ就任を表明。10月15日の[[読売ジャイアンツ]]戦が引退試合となり、[[堀田一郎]]を三振に打ち取って(堀田はこの打席が現役最後の打席となった)有終の美を飾った。

=== 現役引退後 ===
{{by|2007年}}はヤクルトの二軍投手兼コンディショニングコーチを勤めた。

{{by|2008年}}から{{by|2010年}}までは二軍投手コーチを担当し、[[村中恭兵]]、[[増渕竜義]]、[[佐藤由規]]、[[赤川克紀]]ら若手投手陣を育成。

{{by|2011年}}から{{by|2013年}}まではフロント入りし編成部課長に就任。編成部次長の[[角富士夫]]と球団内部の改革に取り組んだ。

{{by|2014年}}から{{by|2015年}}は再び二軍投手コーチを務め<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=16594 |title=2014年コーチングスタッフについて |publisher=東京ヤクルトスワローズ |date=2013-10-23 |accessdate=2013-12-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131210214006/http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=16594 |archivedate=2013-12-10}}</ref>、新入団選手の[[岩橋慶侍]]や[[2009年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2009年のドラフト]]1位・[[中澤雅人]]を中継ぎ投手として再生、[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]出身の[[徳山武陽]]など一軍に送り込んだ。

{{by|2016年}}から3年ぶりにフロント入りし球団職員を務める。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回 (1995年6月)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回(1995年6月)
* [[JA全農Go・Go賞]]:1回 (最多奪三振賞:1996年5月)
* [[JA全農Go・Go賞]]:1回(最多奪三振賞:1996年5月)


=== 記録 ===
=== 記録 ===
; 初記録
* 初登板:1994年6月7日、対[[読売ジャイアンツ]]10回戦([[明治神宮野球場]])、6回表に4番手として救援登板、3回無失点
* 初登板:1994年6月7日、対[[読売ジャイアンツ]]10回戦([[明治神宮野球場]])、6回表に4番手として救援登板、3回無失点
* 初奪三振:同上、6回表に[[川相昌弘]]から
* 初奪三振:同上、6回表に[[川相昌弘]]から
* 初先発:1994年6月14日、対[[中日ドラゴンズ]]10回戦([[石川県立野球場]])、6回2/3を3失点(自責点1)で敗戦投手
* 初先発:1994年6月14日、対[[中日ドラゴンズ]]10回戦([[石川県立野球場]])、6回2/3を3失点(自責点1)で敗戦投手
* 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1994年7月6日、対中日ドラゴンズ10回戦([[ナゴヤ球場]])
* 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1994年7月6日、対中日ドラゴンズ10回戦([[ナゴヤ球場]])
* 初セーブ:1997年4月11日、対中日ドラゴンズ1回戦([[ナゴヤドーム]])、13回裏2死に7番手で救援登板・完了、1/3回無失点
* 初セーブ:1997年4月11日、対中日ドラゴンズ1回戦([[ナゴヤドーム]])、13回裏死に7番手で救援登板・完了、1/3回無失点
* 初ホールド:2005年8月17日、対[[広島東洋カープ]]15回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、7回裏2死に3番手で救援登板、1/3回無失点
* 初ホールド:2005年8月17日、対[[広島東洋カープ]]15回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、7回裏死に3番手で救援登板、1/3回無失点
; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1995年、1996年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回(1995年、1996年)


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''19''' (1994年 - 2000年)
* '''19'''(1994年 - 2000年)
* '''30''' (2001年 - 2006年)
* '''30'''(2001年 - 2006年)
* '''99''' (2007年 - 2010年)
* '''99'''(2007年 - 2010年)
* '''79''' (2014年 - 2015年)
* '''79'''(2014年 - 2015年)


==脚注==
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== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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2024年6月16日 (日) 14:27時点における最新版

山部 太
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県八幡浜市
生年月日 (1971-01-04) 1971年1月4日(53歳)
身長
体重
181 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1993年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1994年6月7日
最終出場 2006年10月15日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2007 - 2010, 2014 - 2015)

山部 太(やまべ ふとし、1971年1月4日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手投手、左投左打)・コーチ

経歴

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プロ入り前

[編集]

愛媛県立八幡浜工業高等学校では、1988年夏の甲子園県予選で準決勝に進出、同年春の選抜優勝校である宇和島東高を破る。決勝では松山商に大敗し甲子園出場を逸するが、好投手として注目を集めた。

プロ野球11球団からドラフト指名挨拶があるも、腰に不安がありNTT四国に進む。同期の西山一宇と左右の二本柱となり、1990年から4年連続で都市対抗に出場。1993年には第11回インターコンチネンタルカップ日本代表、第17回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。

1993年のドラフト1位(逆指名制度)でヤクルトに入団。

現役時代

[編集]

1994年4月26日、イースタン・リーグの対西武ライオンズ戦でノーヒットノーランを達成したが、この試合では西武先発の竹下潤も1失点ながら無安打完投しており、2022年シーズン終了時点で日本プロ野球では一軍・二軍通じて唯一の「両チーム無安打試合」となっている。この年の中盤から一軍昇格し、先発ローテーションにも入ったが1勝止まりだった。

1995年は開幕一軍からローテーションに定着、前半戦で11勝2敗の好成績でオールスターゲームに選出された。後半戦は中継ぎもこなしてチームトップの16勝を挙げ、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。

1996年も前半戦からローテーションを守り好成績で、オールスターゲームに2年連続で選出された。しかし、後半戦は肩の故障で登板できなかった。

1997年も肩の故障は完治せず14試合の登板初の未勝利で終わった。翌年も肩の影響が残り低迷。

1998年のオフにはリハビリの為に川崎憲次郎伊藤彰らと共に渡米し治療に専念した。

1999年は前半はショートリリーフやロングリリーフで投げ谷間の先発を務め、後半戦からは先発ローテーションにも入る復調ぶりだったが一発病で崩れることも多く6勝7敗に終わる。翌年は不振や故障でわずか9試合1勝に終わる。

2001年には入団以来付けていた背番号19から30に変更。この頃からスリークオーターから繰り出す、スローカーブと緩急を付けた投球を持ち味とする軟投派にモデルチェンジ。

2003年、リリーフ専任となり、34試合で防御率1点台と安定した結果を出した。

2004年は不振で打ち込まれる。

2005年はワンポイントリリーフとして一定数の登板するが結果は残せなかった。

2006年は一軍登板のないまま戦力外通告を受け、現役引退とコーチ就任を表明。10月15日の読売ジャイアンツ戦が引退試合となり、堀田一郎を三振に打ち取って(堀田はこの打席が現役最後の打席となった)有終の美を飾った。

現役引退後

[編集]

2007年はヤクルトの二軍投手兼コンディショニングコーチを勤めた。

2008年から2010年までは二軍投手コーチを担当し、村中恭兵増渕竜義佐藤由規赤川克紀ら若手投手陣を育成。

2011年から2013年まではフロント入りし編成部課長に就任。編成部次長の角富士夫と球団内部の改革に取り組んだ。

2014年から2015年は再び二軍投手コーチを務め[1]、新入団選手の岩橋慶侍2009年のドラフト1位・中澤雅人を中継ぎ投手として再生、育成選手出身の徳山武陽など一軍に送り込んだ。

2016年から3年ぶりにフロント入りし球団職員を務める。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1994 ヤクルト 16 11 1 1 0 1 6 0 -- .143 291 67.0 51 5 43 1 1 64 5 0 33 30 4.03 1.40
1995 31 25 4 2 0 16 7 0 -- .696 680 160.0 121 12 89 0 1 144 6 0 72 68 3.83 1.31
1996 20 20 2 1 0 7 4 0 -- .636 527 123.2 111 23 56 3 1 98 4 0 62 55 4.00 1.35
1997 14 5 0 0 0 0 2 2 -- .000 106 25.2 18 1 13 0 0 24 0 0 11 10 3.51 1.21
1998 29 8 0 0 0 3 8 0 -- .273 284 63.0 62 7 36 2 2 62 11 0 33 32 4.57 1.56
1999 28 13 0 0 0 6 7 0 -- .462 425 90.1 95 16 57 2 2 89 5 0 63 52 5.18 1.68
2000 9 6 0 0 0 1 3 0 -- .250 134 30.1 34 6 10 0 1 25 2 0 23 23 6.82 1.45
2001 12 10 0 0 0 4 2 0 -- .667 219 52.2 45 4 23 1 1 36 2 0 22 22 3.76 1.29
2002 10 9 0 0 0 5 3 0 -- .625 178 40.2 51 9 9 0 3 29 0 0 29 25 5.53 1.48
2003 34 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 180 43.0 34 3 16 3 2 36 3 0 12 5 1.05 1.16
2004 25 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 123 23.0 36 6 14 1 4 22 1 0 26 25 9.78 2.17
2005 40 0 0 0 0 0 2 0 5 .000 102 21.0 25 1 12 0 2 21 1 0 15 15 6.43 1.76
2006 1 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:13年 269 107 7 4 0 45 45 2 6 .500 3250 740.2 683 93 378 13 20 651 40 0 401 362 4.40 1.43

表彰

[編集]

記録

[編集]
初記録
その他の記録

背番号

[編集]
  • 19(1994年 - 2000年)
  • 30(2001年 - 2006年)
  • 99(2007年 - 2010年)
  • 79(2014年 - 2015年)

脚注

[編集]
  1. ^ 2014年コーチングスタッフについて”. 東京ヤクルトスワローズ (2013年10月23日). 2013年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月11日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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