コンテンツにスキップ

「張繡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m 曖昧さ回避ページ文選へのリンクを解消、リンク先を文選 (書物)に変更(DisamAssist使用)
 
(29人の利用者による、間の43版が非表示)
1行目: 1行目:
{{三国志の人物
{{三国志の人物
|名前 = 張
|名前 = 張
|画像 = Zhang_Xiu_Qing_portrait.jpg
|画像 = Zhang_Xiu_Qing_portrait.jpg
|サイズ =
|サイズ =
|説明 = [[清]]代の書物に描かれた張
|説明 = [[清]]代の書物に描かれた張
|王朝 = [[後漢]]
|王朝 = [[後漢]]
|称号・役職 = 破羌将軍
|称号・役職 = 破羌将軍
|出生 = 不詳
|出生 = [[2世紀]]頃?
|出身地 = 武威郡祖厲県<br/>(現:[[甘粛省]][[武威]][[靖遠]])
|出身地 = [[涼州]][[武威]]祖厲
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]11年([[207年]])
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]11年([[207年]])
|死没地 =
|死没地 =
|ピン音 = Zhāng Xiù
|ピン音 = Zhāng Xiù
|字 = 不詳
|字 =
|諡号 = 定侯
|諡号 = 定侯
|廟号 =
|廟号 =
18行目: 18行目:
|特記事項 =
|特記事項 =
}}
}}

'''張 '''(ちょう しゅう、? – [[建安 (漢)|建安]]11年([[207年]]))は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。父は[[張済 (後漢の武将)|張済]]。子は張泉・女子一人。[[涼州]][[武威郡]]祖厲県(現[[甘粛省]][[武威市]][[靖遠県]])の人。
{{中華圏の事物
|タイトル= 張 繡
|画像種別=
|画像=
|画像の説明=
|簡体字= 张绣
|繁体字= 張繡
|ピン音= Zhāng Xiù
|注音符号=
|ラテン字=
|広東語=
|上海語=
|台湾語=
|カタカナ=
|英文=Chang Hsiu<br>Zhang Xiu
}}

'''張 '''(ちょう しゅうは、[[中国]][[後漢]]末期の武将。父は[[張済 (後漢の武将)|張済]]<ref>東晋・[[袁宏]]『[[後漢紀]]』巻29 孝献皇帝紀 建安2年:「春正月,曹操征張繡,繡降。其季父済妻,国色也,操以為妾。」</ref>。子は張泉・女子一人。[[涼州]][[武威郡]]祖厲県(現在の[[甘粛省]][[武威市]][[靖遠県]])の人。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある


==生涯==
==生涯==
若い頃は[[県長]]劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、[[韓遂]]・[[辺章]]らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時[[董卓]]の配下であった父に従った。
若い頃は[[県長]]劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、[[韓遂]]・[[辺章]]らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時[[董卓]]の配下であったの[[張済 (後漢の武将)|張済]]に従った。[[李傕]][[郭汜]]政権下で建忠将軍・宣威侯となっている<ref>[[陳琳]]「州郡に檄する文」(梁・昭明太子蕭統『[[文選 (書物)|文選]]』巻44・檄 「袁紹の為に豫州に檄す」)内にも記事・注釈がある。</ref>


建安元年([[196年]])、父が[[南陽郡]]の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死した、その軍勢を張が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった[[賈ク|賈&#x8A61;]]は、張に対し「将軍(張)は軍才に優れておられるが、[[曹操]]には及ばない」と語ったと言われる。張は賈&#x8A61;の進言に従い、賈&#x8A61;を派遣して[[劉表]]と同盟を結んだ。張は[[南陽市 (河南省)|宛]]に駐屯し、劉表軍と合流した。
[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])、父が[[南陽郡]]の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった[[賈]]は、張に対し「将軍(張)は軍才に優れておられるが、[[曹操]]には及ばない」と語ったと言われる。張は賈の進言に従い、賈を派遣して[[劉表]]と同盟を結んだ。張は[[南陽市 (河南省)|宛]]に駐屯し、劉表軍と合流した。


建安2年([[197年]])春、曹操が南陽郡に侵攻し&#x6DEF;水に陣営を置くと、張は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き父の妻であった未亡人・雛氏を側妾にした、張は恨みを抱くになった。曹操は張が恨んでいる事を知ると、密かに張を殺害する計画を立てた。しかし張はこの計画に気くと、賈&#x8A61;の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張は、[[曹昂]]・[[曹安民]]・[[典韋]]などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張は[[騎兵]]を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が[[許昌]]に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張に味方する事なった。
建安2年([[197年]])春、曹操が南陽郡に侵攻し水に陣営を置くと、張は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡きの張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張は恨みを抱くようになった。曹操は張が恨んでいる事を知ると、密かに張を殺害する計画を立てた。しかし張はこの計画に気くと、賈の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張は、[[曹昂]]・[[曹安民]]・[[典韋]]などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張は[[騎兵]]を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が[[許昌]]に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張に味方する事なった。


その後も、張・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年([[198年]])に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張は勝利した。曹操は張に退路を絶たれたので、撤退すらならなくなったが、[[伏兵]]を用いて張軍を大いに破った。曹操軍の[[荀攸]]によれば、張軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。
その後も、張・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年([[198年]])に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張は勝利した。曹操は張に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、[[伏兵]]を用いて張軍を大いに破った。曹操軍の[[荀攸]]によれば、張軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。


建安4年([[199年]])11月、当初張は[[袁紹]]からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈&#x8A61;から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し[[列侯]]に封じられた。帰順後、張の娘は[[曹均]]の妻として迎えられている。建安5年([[200年]])、[[官渡の戦い]]で武功を挙げ破[[]]将軍に昇進した。また曹操に従い[[袁譚]]を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。しかし建安12年(207年)、柳城の[[烏桓]]征伐中に陣中で病死した。定[[侯]]と[[諡|諡号]]を贈られた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書張繍伝が注に引く『魏略』によると、張繍は曹昂の異母弟である[[曹丕]]の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕から「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と言われた為、これに不安を感じ自殺したのだと言われている
建安4年([[199年]])11月、当初張は[[袁紹]]からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し揚武将軍となり[[列侯]]に封じられた。帰順後、張の娘は[[曹均]]の妻として迎えられている。建安5年([[200年]])、[[官渡の戦い]]で武功を挙げ破羌将軍に昇進した。また曹操に従い[[袁譚]]を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。


子が後を継いだが、建安24年([[219年]])に[[魏諷]]と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。
建安12年([[207年]])、柳城の[[烏桓]]征伐中に陣中で病死した。定侯と[[諡|諡号]]を贈られた。『三国志』魏志張繡伝が注に引く『[[魏略]]』によると、張繡は曹昂の異母弟である[[曹丕]]の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕から「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と言われたために、これに不安を感じ自殺したのだと言われている。の張泉が後を継いだが、建安24年([[219年]])に[[魏諷]]と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。


== 物語中の張 ==
== 物語中の張 ==
小説『[[三国志演義]]』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。
小説『[[三国志演義]]』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている


== 配下部将 ==
== 配下部将 ==
=== 史実 ===
=== 史実 ===
*[[賈ク|賈&#x8A61;]]
* [[賈]]
*[[胡車児]]
* [[胡車児]]


=== 演義のみ ===
=== 演義のみ ===
*'''雷叙''':『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するためにに従い出陣。活躍は特にない。
* [[張先 (三国志演義)|張先]]:『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外に従い出陣。曹操軍の[[許褚]]と[[一騎討ち]]するが、わずか3合で斬って捨てられて
*'''張先''':『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外に従い出陣。曹操軍の[[許チョ|許&#x891A;]]と[[一騎討ち]]するが、わずか3合で斬って捨てられて
* [[雷叙]]:『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するためにに従い出陣。活躍は特にない。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}



{{三国志立伝人物}}
{{DEFAULTSORT:ちよう しゆう}}
{{DEFAULTSORT:ちよう しゆう}}
[[Category:漢の人物]]
[[Category:霊帝期の人物]]
[[Category:董卓軍の人物]]
[[Category:李傕・郭汜軍の人物]]
[[Category:張繍軍の人物|*]]
[[Category:曹操軍の人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:2世紀中国の軍人]]
[[Category:3世紀中国の軍人]]
[[Category:207年没]]
[[Category:207年没]]

2024年6月18日 (火) 00:24時点における最新版

張繡
清代の書物に描かれた張繡
代の書物に描かれた張繡
後漢
破羌将軍
出生 2世紀頃?
涼州武威郡祖厲県
死去 建安11年(207年
拼音 Zhāng Xiù
諡号 定侯
主君 劉雋→董卓張済→独立勢力→曹操
→独立勢力→曹操
テンプレートを表示
張 繡
各種表記
繁体字 張繡
簡体字 张绣
拼音 Zhāng Xiù
英文 Chang Hsiu
Zhang Xiu
テンプレートを表示

張 繡(ちょう しゅう)は、中国後漢末期の武将。季父は張済[1]。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。『三国志』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある。

生涯[編集]

若い頃は県長劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、韓遂辺章らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張繡は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時董卓の配下であった季父の張済に従った。李傕郭汜政権下で建忠将軍・宣威侯となっている[2]

建安元年(196年)、季父が南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張繡が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった賈詡は、張繡に対し「将軍(張繡)は軍才に優れておられるが、曹操には及ばない」と語ったと言われる。張繡は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して劉表と同盟を結んだ。張繡はに駐屯し、劉表軍と合流した。

建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き季父の張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張繡は恨みを抱くようになった。曹操は張繡が恨んでいる事を知ると、密かに張繡を殺害する計画を立てた。しかし張繡はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張繡は、曹昂曹安民典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張繡は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が許昌に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繡に味方する事になった。

その後も、張繡・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年(198年)に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張繡は勝利した。曹操は張繡に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、伏兵を用いて張繡軍を大いに破った。曹操軍の荀攸によれば、張繡軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。

建安4年(199年)11月、当初張繡は袁紹からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し揚武将軍となり列侯に封じられた。帰順後、張繡の娘は曹均の妻として迎えられている。建安5年(200年)、官渡の戦いで武功を挙げ破羌将軍に昇進した。また曹操に従い袁譚を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。

建安12年(207年)、柳城の烏桓征伐中に陣中で病死した。定侯と諡号を贈られた。『三国志』魏志張繡伝が注に引く『魏略』によると、張繡は曹昂の異母弟である曹丕の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕から「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と言われたために、これに不安を感じ自殺したのだと言われている。子の張泉が後を継いだが、建安24年(219年)に魏諷と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。

物語中の張繡[編集]

小説『三国志演義』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている。

配下部将[編集]

史実[編集]

演義のみ[編集]

  • 張先:『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外へ張繡に従い出陣。曹操軍の許褚一騎討ちするが、わずか3合で斬って捨てられている。
  • 雷叙:『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するために張繡に従い出陣。活躍は特にない。

脚注[編集]

  1. ^ 東晋・袁宏後漢紀』巻29 孝献皇帝紀 建安2年:「春正月,曹操征張繡,繡降。其季父済妻,国色也,操以為妾。」
  2. ^ 陳琳「州郡に檄する文」(梁・昭明太子蕭統『文選』巻44・檄 「袁紹の為に豫州に檄す」)内にも記事・注釈がある。