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{{other people||その他の「なかむらたけし」|Wikipedia:索引 なかむ#なかむらた}}
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|選手名 = 中村 武志
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* [[花園中学校・高等学校|花園高等学校]]
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* 横浜ベイスターズ (2006 - 2008)
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'''中村 武志'''(なかむら たけし、[[1967年]][[3月17日]] - )は、[[京都府]][[京都市]][[右京区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]][[野球解説者]]・[[野球評論家]][[び餅屋さん]]。
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'''中村 武志'''(なかむら たけし、[[1967年]][[3月17日]] - )は、[[京都府]][[京都市]][[右京区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]][[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。現役時代は主に[[中日ドラゴンズ]](在籍期間:{{by|1985年}} - {{by|2001年}})でプレーし、1980年代末期か2000年代初期に正[[捕手]]として活躍、{{by|1988年}}・{{by|1999年}}にはそれぞれ中日の[[セントラル・リーグ]]優勝に貢献した


[[愛称]]は「'''たけし'''」{{Efn2|中日時代に当時の[[星野仙一]]監督が「たけし」と呼んでいたことから馴染みのある解説者や応援などで使用されることが多い。}}。
[[愛称]]は「'''たけし'''」{{Efn2|中日時代に当時の星野監督が「たけし」と呼んでいたことから馴染みのある解説者や応援などで使用されることが多い。}}。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
元[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]で、韓国名は'''姜 武志'''<ref>{{Cite news|和書 |title=韓国野球の礎になった在日球児たち…「海峡を越えた野球少年」公開に寄せて |newspaper=[[民団新聞]] |date=2016-08-15 |author=大島裕史 |url=https://www.mindan.org/old/front/newsDetailf396.html |access-date=2023-02-12 |publisher=[[在日本大韓民国民団]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20210911142910/https://www.mindan.org/old/front/newsDetailf396.html |archive-date=2021年9月11日}}</ref>。中日時代の1988年8月24日付で日本に[[帰化]]している{{Efn2|1988年8月24日付の『官報』より<ref name="官報"/>。同紙に記載されている中村の住所([[名古屋市]][[西区 (名古屋市)|西区]][[堀越 (名古屋市)|堀越]]2丁目6番18号)<ref name="官報"/>は、かつて中日球団の合宿所「昇竜館」が所在していた場所である<ref>『[[東京新聞]]』1999年3月3日朝刊特集1面18頁「99年プロ野球選手名鑑 セ6球団の新陣容 中日ドラゴンズ 横浜ベイスターズ [[読売ジャイアンツ]]」([[中日新聞東京本社]])</ref>。同所の合宿所は1988年3月に完成し<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ベースボール]]|title='88プロ野球ウォッチング完璧ガイド 球場ガイド 練習場ガイド 合宿所ガイド > 中日ドラゴンズ|volume=43|page=79|date=1988-04-11|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/7909511/1/40|issue=15|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|doi=10.11501/7909511|id={{NDLJP|7909511/1/40}}}} - 通巻:第1694号(1988年4月11日号)。</ref>、同年から使用されていたが<ref>{{Cite news|title=唯一許される「コンビニが気晴らし」外出禁止1カ月 中日入寮生のいま「うずうずしている」|newspaper=[[中日スポーツ]]|date=2020-04-19|url=https://www.chunichi.co.jp/article/47703|access-date=2022-09-18|publisher=[[中日新聞社]]|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20220918153625/https://www.chunichi.co.jp/article/47703|archive-date=2022年9月18日}}</ref>、2003年オフに[[中日ドラゴンズ (ファーム)|中日の二軍]]本拠地となっていた[[ナゴヤ球場]](名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]][[露橋]])の敷地内へ移転した<ref>『[[中日新聞]]』2003年12月8日夕刊特集3面3頁「ドラゴンズ屋内練習場と合宿所 新生 職住接近 野球人図」(中日新聞社 写真と文・星野大輔)</ref>。}}<ref name="官報">『[[官報]]』本紙 第18452号 昭和63年8月24日 1-2頁「法務省告示第六六九号 左記の者の申請に係る日本国に帰化の件は、これを許可する。昭和六十三年八月二十四日 [[法務大臣]] [[林田悠紀夫]](以下略、続)住所 名古屋市西区堀越2丁目6番18号 姜武志(中村武志)昭和42年3月17日生」</ref>。

=== プロ入り前 ===
=== プロ入り前 ===
[[花園中学校・高等学校|花園高校]]での3年間は新聞配達をしながら過ごし、そのの給からバットやミットを購入した<ref name="weeklybaseball20190617">{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190617-10 |title=中村武志 星野監督の下で戦力外の候補から司令塔へと飛躍/プロ野球1980年代の名選手 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2019-06-17 |accessdate=2022-04-14}}</ref>。1984年の[[:ko:봉황대기 전국고교야구대회|鳳凰大旗全国高等学校野球大会]]において、在日韓国人チームの正捕手として出場準優勝を果たした<ref>{{Cite web |url=http://bb-nippon.com/column/1058-asia/7844-20130727no02asia |title=韓国の高校野球事情 【韓国野球が熱い理由】 (1/3) |publisher=ベースボールドットコム |date=2013-07-27 |accessdate=2022-04-14}}</ref>。[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1984年のドラフト]]で[[中日ドラゴンズ]]から[[竹田光訓]]の外れ1位として入団。正捕手・[[中尾孝義]]の肩に不安があったことで、遠投120メートルとも言われた強肩を買われての指名であった{{R|weeklybaseball20190617}}。
[[花園中学校・高等学校|花園高校]]での3年間は新聞配達をしながら過ごし、そのの給からバットやミットを購入した<ref name="weeklybaseball20190617">{{Cite web|和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190617-10 |title=中村武志 星野監督の下で戦力外の候補から司令塔へと飛躍/プロ野球1980年代の名選手 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2019-06-17 |accessdate=2022-04-14}}</ref>。1984年の[[:ko:봉황대기 전국고교야구대회|鳳凰大旗全国高等学校野球大会]]において、在日韓国人チームの正捕手として出場準優勝を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=http://bb-nippon.com/column/1058-asia/7844-20130727no02asia |title=韓国の高校野球事情 【韓国野球が熱い理由】 (1/3) |publisher=ベースボールドットコム |date=2013-07-27 |accessdate=2022-04-14}}</ref>。[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1984年のドラフト]]で、[[竹田光訓]]([[明治大学硬式野球部|明治大学]])の交渉権獲得{{Efn2|中日・大洋・巨人の3球団が競合し、大洋が交渉権を獲得した<ref>{{Cite news|和書|title=【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった|newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|date=2008-11-17|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0711/kiji/K20081117Z00002530.html|publisher=スポーツニッポン新聞社|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20210218134218/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0711/kiji/K20081117Z00002530.html|archive-date=2021年2月18日}}</ref>。}}に失敗した[[中日ドラゴンズ]]から外れ1位として指名を受け、入団。正捕手・[[中尾孝義]]の肩に不安があったことで、遠投120メートルとも言われた強肩を買われての指名であった{{R|weeklybaseball20190617}}。


=== 中日時代 ===
=== 中日時代 ===
{{by|1985年}}、プロ入りするも、高校時代にバイト代で買ったミットはすでにボロボロで見かねたコーチに新品のミットを2つ買ってもらった{{R|weeklybaseball20190617}}。
{{by|1985年}}当時、高校時代にバイト代で購入したミットがかなり劣化していたため、見かねたコーチが中村に新品のミットを2つ買い与えた{{R|weeklybaseball20190617}}。


{{by|1986年}}オフにフロントの整理対象選手に挙げられていた{{Efn2|中日の監督に就任したばかりの星野は「自由契約にするかどうかは、秋のキャンプを見てから判断させてくれ」と説得したことを晩年明かしている。}}。
{{by|1986年}}オフにフロントの整理対象選手に挙げられていた{{Efn2|中日の監督に就任したばかりの星野は「自由契約にするかどうかは、秋のキャンプを見てから判断させてくれ」と説得したことを晩年明かしている。}}。


{{by|1987年}}初出場を果たした[[星野仙一]]監督は猛練習を課し、時には殴りまくってコーチが「これ以上やったら死にます!」と止めに入ったこともあったという{{R|weeklybaseball20190617}}。これがに「なんかあったら、星野監督に殴られてやるから大丈夫!」という[[投手]]への殺し文句となり、決して言い訳せず、常に責任をかぶる男気投手陣から信頼されの強肩は[[遊撃手]]の[[宇野勝]]が「あんな送球、見たことない。手が腫れる」と言ったほどであった{{R|weeklybaseball20190617}}。
{{by|1987年}}初出場を果たす。同年、中日の[[プロ野球監督|監督]]に就任した[[星野仙一]]は中村に猛練習を課し、時には過度に殴りつけ、「これ以上やったら死にます!」とコーチが止めに入こともあったという{{R|weeklybaseball20190617}}。これがのちに「なんかあったら、オレが監督に殴られてやるから大丈夫!」という[[投手]]への殺し文句となる。決して言い訳せず、常に責任を負う男気投手陣から信頼を得た。また中村の強肩は「あんな送球、見たことない。手が腫れる」と[[遊撃手]]の[[宇野勝]]が評価するほどであった{{R|weeklybaseball20190617}}。


{{by|1988年}}に正捕手として前年に盗塁阻止率.396でリーグトップの中尾を怪我が多すぎることを理由に[[外野手]]コンバート{{Efn2|星野は現役時に中尾ともバッテリーを組んでいたが、その経緯から中尾の選手としての寿命と不節制を熟知していた根拠もあった。ただし、中尾が外野手にコンバートしたのはケガが多すぎることが直接の理由ではなく、コーチとの確執がきっかけで「こんな状況では捕手をやれない」と中尾自身が星野に直談判したことからであった。}}したため、[[大宮龍男]]・[[大石友好]]らのサポートを受けながらではあったが{{R|weeklybaseball20190617}}、6月からレギュラーに定着。[[広島東洋カープ|広島]]の機動力を封じるなどしてリーグトップとなる盗塁阻止率.448を記録し、6年ぶりのリーグ優勝に貢献{{R|weeklybaseball20190617}}。日本一はならなかったが、優勝旅行では星野から「一緒に写真を撮ろう」と言われ。すると星野はカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と言った{{R|weeklybaseball20190617}}。この年以降、10年以上正捕手として活躍した
{{by|1988年}}前年に盗塁阻止率.396でリーグトップの中尾を怪我の頻発を理由に[[外野手]]コンバートする{{Efn2|星野は現役時に中尾ともバッテリーを組んでいたが、その経緯から中尾の選手としての寿命と不節制を熟知していた根拠もあった。ただし、中尾が外野手にコンバートしたのはケガが多すぎることが直接の理由ではなく、コーチとの確執がきっかけで「こんな状況では捕手をやれない」と中尾自身が星野に直談判したことからであった。}}。これにより、[[大宮龍男]]・[[大石友好]]らのサポートを受けながらではあったが{{R|weeklybaseball20190617}}、中村は6月ごろから正捕手としてレギュラーに定着。[[広島東洋カープ|広島]]の機動力を封じるなどしてリーグトップとなる盗塁阻止率.448を記録し、6年ぶりのリーグ優勝に貢献{{R|weeklybaseball20190617}}。日本一は逸したが、優勝旅行にて「一緒に写真を撮ろう」と中村に声を掛けた星野は、その場に居合わせたカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と絶賛した{{R|weeklybaseball20190617}}。この年以降、10年以上にわたり正捕手として活躍する


{{by|1991年}}7月19日の巨人、この日は足を痛めスタメンから外れていたが、8回裏中日が7点差を猛追し4点差満塁のチャンスで代打出場し、[[木田優夫]]から満塁本塁打を放ち同点に追いつく<ref name="weeklybaseball20210225">{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20210225-87 |title=1試合で同点満塁ホームランとサヨナラ弾を打った選手 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2021-02-25 |accessdate=2022-01-22}}</ref>。試合は延長戦となり、10回裏に巨人の抑え[[水野雄仁]]から再び本塁打を打ちサヨナラ勝ちを1試合で同点満塁本塁打とサヨナラ本塁打を決める快挙を成し遂げチームを勝利に導いた{{R|weeklybaseball20210225}}。
{{by|1991年}}7月19日の対[[読売ジャイアンツ]]([[ナゴヤ球場]])で足を痛めた影響からスタメン外れていた8回裏中日が7点差を猛追し4点差満塁のチャンスで代打出場し、[[木田優夫]]から同点となる満塁本塁打を放った<ref name="weeklybaseball20210225">{{Cite web|和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20210225-87 |title=1試合で同点満塁ホームランとサヨナラ弾を打った選手 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2021-02-25 |accessdate=2022-01-22}}</ref>。試合は延長戦となり、10回裏に巨人の抑え[[水野雄仁]]から再び本塁打を打ちサヨナラ勝ちをた。1試合で同点満塁ならびにサヨナラ本塁打を放つ快挙を成し遂げチームを勝利に導いた{{R|weeklybaseball20210225}}。


{{by|1997年}}は打撃守備に不振で、スタメンを[[矢野燿大|矢野輝弘]]に譲る機会が増た。オフ[[阪神タイガース]]がトレードによる獲得を打診したが、結果矢野が移籍することなった。
中日の本拠地が、ナゴヤ球場から[[ナゴヤドーム]]へと移転した{{by|1997年}}は打撃守備ともに不振に陥る。特に盗塁阻止率は自身唯一となる1割台で、[[矢野燿大|矢野輝弘]]にスタメンを譲る機会が増た。同年オフ[[阪神タイガース]]がトレードによる中村の獲得を打診したが、結果的に矢野が移籍することなった。


{{by|1999年}}、4月6日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦では6回一死満塁の打席で[[川村丈夫]]から<ref>「先制2ラン ダメ押し満塁弾 中村 援護の連発」『[[読売新聞]]』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)4月7日付朝刊、27面(スポーツ面)。</ref>、6月12日の対横浜ベイスターズ戦では2回一死満塁の打席で[[福盛和男]]からそれぞれ満塁本塁打<ref>「中村、逆転満塁アーチ 中日首位死守」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)6月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>を放ち、5月25日の対阪神タイガース戦では1-1同点の9回一死満塁の打席で[[福原忍]]からサヨナラ安打<ref>「中日首位死守 中村サヨナラ打 ヒーローになって来い 監督が一言、ベテラン燃えた」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)5月26日付朝刊、22面(スポーツ面)。</ref>、8月29日の対横浜ベイスターズ戦では1点を追う9回二死二三塁の打席で[[島田直也]]から逆転サヨナラ2点適時打<ref>「竜 逆転サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)8月30日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>の2度サヨナラ安打を放つなど、11年ぶりのリーグ優勝に貢献。
{{by|1999年}}、4月6日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦では6回一死満塁の打席で[[川村丈夫]]から<ref>「先制2ラン ダメ押し満塁弾 中村 援護の連発」『[[読売新聞]]』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)4月7日付朝刊、27面(スポーツ面)。</ref>、6月12日の対横浜戦では2回一死満塁の打席で[[福盛和男]]からそれぞれ満塁本塁打<ref>「中村、逆転満塁アーチ 中日首位死守」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)6月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>を放った。同年5月25日の対阪神タイガース戦では1-1同点の9回一死満塁の打席で[[福原忍]]からサヨナラ安打<ref>「中日首位死守 中村サヨナラ打 ヒーローになって来い 監督が一言、ベテラン燃えた」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)5月26日付朝刊、22面(スポーツ面)。</ref>、8月29日の対横浜戦では1点を追う9回二死二三塁の打席で[[島田直也]]から逆転サヨナラ2点適時打<ref>「竜 逆転サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)8月30日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>の2度サヨナラ安打を放つなど、11年ぶりのリーグ優勝に貢献。


{{by|2001年}}、安打数自己最高を記録したが盗塁阻止率.218と守備面で苦戦しこのオフに[[山田久志]]が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名。さらに横浜ベイスターズの正捕手・[[谷繁元信]]を[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で獲得したことから、中村は出場機会を求めて[[トレード]]を志願し、金銭トレードで横浜ベイスターズに移籍<ref>{{Cite web |url=http://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20011228000192 |title=中村捕手が横浜へ移籍/谷繁の中日入団で |publisher=四国新聞社 |date=2001-12-28 |accessdate=2020-07-23}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20091231025118/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09december/KFullNormal20091201165.html 【12月28日】2001年(平13) 年内に自由の身にしてくれ!中村武志、怒りの退団]</ref><ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2019/04/11/___split_60/index_3.php 山田久志が語る谷繁元信獲得秘話。「名古屋って、難しいところだよ」]</ref>。中村は中日残留するか悩んだが、同僚の[[立浪和義]]から「まだ野球が出来るなら出来るところに行ったほうがいい」と言われ、横浜移籍を決意した<ref>{{YouTube|dGV4Kbk5fbU|【立浪和義の一言で決めた】さらば中日、これが中村武志さんのドラゴンズ愛の真骨頂です。20年前の手紙と共に最終話!激熱次回予告も!!!}}</ref>。
{{by|2001年}}、安打数自己最高を記録したが盗塁阻止率.218と守備面で精彩欠く。同年オフに[[山田久志]]が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名。さらに横浜の正捕手・[[谷繁元信]]を[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で獲得したことから、中村は出場機会を求めて[[トレード]]を志願し、金銭トレードで横浜移籍<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20011228000192 |title=中村捕手が横浜へ移籍/谷繁の中日入団で |publisher=四国新聞社 |date=2001-12-28 |accessdate=2020-07-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【12月28日】2001年(平13) 年内に自由の身にしてくれ!中村武志、怒りの退団(野球) ― 日めくりプロ野球09年12月 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09december/KFullNormal20091201165.html |website=スポニチ Sponichi Annex 野球 |date=2009-12-28 |access-date=2023-04-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20091231025118/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09december/KFullNormal20091201165.html |archive-date=2009-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=山田久志が語る谷繁元信獲得秘話。「名古屋って、難しいところだよ」|プロ野球 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2019/04/11/___split_60/ |website=集英社のスポーツ総合雑誌 [[Sportiva|スポルティーバ]] 公式サイト web Sportiva |access-date=2023-04-19 |language=ja |publisher=[[集英社]]}}</ref>。中村は中日残留悩んだが、同僚の[[立浪和義]]から「まだ野球が出来るなら出来るところに行ったほうがいい」とアドバイスを受け、横浜への移籍を決意した<ref>{{YouTube|dGV4Kbk5fbU|【立浪和義の一言で決めた】さらば中日、これが中村武志さんのドラゴンズ愛の真骨頂です。20年前の手紙と共に最終話!激熱次回予告も!!!}}</ref>。


=== 横浜時代 ===
=== 横浜時代 ===
{{by|2002年}}は開幕から[[相川亮二]]との併用を前提とし、中村本人の肩の調子が思わしくなかったため球団は急遽[[光山英和]]を獲得したが、相川が怪我で長期離脱している間に当時2年目の[[吉見祐治]]とバッテリー、[[石川雅規]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])との新人王争いをサポート。新人王こそ逃したものの、吉見はこの年11勝を記録した。チーム防御率4.09に低迷し、チームも開幕から低迷し、8年ぶりの最下位に終わった。
{{by|2002年}}は開幕から[[相川亮二]]との併用を前提とし、中村の肩の調子が思わしくなかったため球団は急遽[[光山英和]]を獲得相川が怪我で長期離脱している間に当時2年目の[[吉見祐治]]とバッテリーを組み、[[石川雅規]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]])との[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]争いをサポート。新人王こそ逃したものの、吉見はこの年11勝を記録。一方でチーム防御率4.09に低迷し、[[2002年の横浜ベイスターズ|チーム自体]]も開幕から不調が続き8年ぶりのリーグ最下位に終わった。


{{by|2003年}}[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から[[中嶋聡]]が加入。右肩痛がありキャンプから出遅れ、開幕スタメンこそは逃しものの、5月23日の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦([[横浜スタジアム|横浜]])では[[ゲーリー・ラス]]、[[河本育之]]、[[岡島秀樹]]から1試合3本塁打(自身初)を放つなど<ref>{{Wayback |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/05/24/06.html |title=横浜36歳中村 自身初の1試合3本 |website=スポニチアネックス |date=20031006210218}}</ref>、打率.268・11本塁打という成績を収めた。しかし、チーム防御率は4.80と最下位になり、守備の衰えは隠しきれなくなった。
{{by|2003年}}[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から[[中嶋聡]]が加入。右肩痛のため[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]から出遅れ、開幕スタメンは中嶋に譲るととなっ5月23日の巨人戦([[横浜スタジアム]])では[[ゲーリー・ラス]]、[[河本育之]]、[[岡島秀樹]]から1試合3本塁打(自身初)を放つなど<ref>{{Wayback |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/05/24/06.html |title=横浜36歳中村 自身初の1試合3本 |website=スポニチアネックス |date=20031006210218}}</ref>、打率.268・11本塁打という成績を収めた。しかし、チーム防御率は4.80と最下位になり、守備の衰えは隠しきれなくなった。


{{by|2004年}}シーズン前(3月)に愛車の[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]を盗まれる被害に遭、車は戻っものの野球道具一式(ミット・バット・スパイクなど)はらなかった<ref>{{Cite news |title=横浜・中村がベンツ盗まれる |newspaper=Sponichi Annex |date=2004-03-04 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/03/04/05.html |publisher=スポーツニッポン新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040308174729/http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/03/04/05.html |archivedate=2004年3月8日}}</ref>。シーズン前は相川を中心に併用されていたが、相川[[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|アテネ五輪日本代表]]として戦線離脱した際は正捕手となる。しかし、チームは失速、さらに自身が故障した間に[[鶴岡一成]]が台頭したことにより、最終的には47試合の出場にまった。11月25日[[無償トレード]]で新規参入[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]移籍。
{{by|2004年}}シーズン前(3月)に愛車の[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]を盗まれる被害に遭う。その後、車発見され野球道具一式(ミット・バット・スパイクなど)はみつからなかった<ref>{{Cite news |title=横浜・中村がベンツ盗まれる |newspaper=Sponichi Annex |date=2004-03-04 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/03/04/05.html |publisher=スポーツニッポン新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040308174729/http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/03/04/05.html |archivedate=2004年3月8日}}</ref>。シーズン前は相川を中心に併用されていたが、相川[[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|アテネ五輪日本代表]]選出による離脱に伴い正捕手となる。だが、チームは失速、自身が故障した間に台頭した[[鶴岡一成]]の存在もあり、最終的には47試合の出場にとどまった。11月25日[[無償トレード]]で新規参入した[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]移籍。


=== 楽天時代 ===
=== 楽天時代 ===
{{by|2005年}}[[藤井彰人]]に次ぐ2番手捕手として64試合に出場し、7月31日の西武戦([[西武ドーム|インボイス]])は[[有銘兼久]]とのバッテリーで楽天球団創立初の完封・完投勝利を果たした。オフに[[戦力外通告]]を受け、その後現役引退を表明した。
{{by|2005年}}[[藤井彰人]]に次ぐ2番手捕手として64試合に出場7月31日の西武戦([[西武ドーム|インボイスドーム]])[[有銘兼久]]とのバッテリーで楽天球団創立初の完封・完投勝利を果たした。同年シーズンオフに[[戦力外通告]]を受け、その後現役引退を表明した。


通算2000試合出場まであと45試合を残しての引退であったが、21年間の現役は同期入団の中では最長であった
通算2000試合出場まであと45試合を残しての引退であった21年間の現役は同期入団の中では最長であ


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
{{by|2006年}}、横浜二軍「[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]」バッテリーコーチに就任。{{by|2008年}}には一軍バッテリーコーチに昇格し、正捕手である相川の怪我の影響もあり、シーレックス時代の教え子である若手の[[斉藤俊雄]]・[[武山真吾]]に一軍の経験を積ませ指導したが、成績低迷により、退団。
{{by|2006年}}、横浜二軍「[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]」バッテリーコーチに就任。{{by|2008年}}には一軍バッテリーコーチに昇格正捕手である相川の怪我の影響もあり、シーレックス時代の教え子である若手の[[斉藤俊雄]]・[[武山真吾]]に一軍の経験を積ませ指導したが、成績低迷の責任を取る形で退団。


{{by|2009年}}には古巣・中日の二軍捕手コーチに就任し、谷繁とはコーチと選手と立場の違いるが、トレード劇から8年越しで同チーム所属なった。{{by|2010年}}からは一軍バッテリーコーチとなり、2年連続リーグ優勝に貢献する。{{by|2012年}}退団。
{{by|2009年}}古巣・中日の二軍捕手コーチに就任谷繁とはコーチと選手という立場の違いれど、トレード劇から8年越しで同チーム所属なった。{{by|2010年}}からは一軍バッテリーコーチとなり、2年連続リーグ優勝に貢献する。{{by|2012年}}退団。


{{by|2013年}}には[[千葉ロッテマリーンズ]]一軍バッテリーコーチに就任<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/10341.html 中村武志氏 一軍バッテリーコーチ就任のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月31日</ref>し、[[江村直也]]・[[田村龍弘]]・[[吉田裕太]]ら若手捕手の育成に尽力した。
{{by|2013年}}[[千葉ロッテマリーンズ]]一軍バッテリーコーチに就任<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/10341.html 中村武志氏 一軍バッテリーコーチ就任のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月31日</ref>[[江村直也]]・[[田村龍弘]]・[[吉田裕太]]ら若手捕手の育成に尽力した。


{{by|2014年}}10月5日に球団から翌年の契約を結ばない発表され<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/14333.html コーチとの来季契約について] ロッテ球団公式サイト 201410月5日配信</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/02/kiji/K20141002009030380.html ロッテ 中村1軍バッテリーコーチ退団へ 伊東監督は来季続投]</ref>11月[[KBOリーグ|韓国プロ野球]]・[[起亜タイガース]]一軍バッテリーコーチに就任。{{by|2017年}}8年ぶりのレギュラーシーズン優勝と[[韓国シリーズ]]制覇に貢献。{{by|2018年}}より二軍バッテリーコーチに配置転換され退団。
{{by|2014年}}10月5日翌年の契約を結ばないと球団から発表<ref>{{Cite web|和書|title=コーチとの来季契約について |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/14333.html |website=千葉ロッテマリーンズ |access-date=2023-04-19 |language=ja |date=2014-10-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロッテ 中村1軍バッテリーコーチ退団へ 伊東監督は来季続投 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/02/kiji/K20141002009030380.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-04-19 |language=ja |date=2014-10-02}}</ref>。同年11月[[KBOリーグ|韓国プロ野球]]・[[起亜タイガース]]一軍バッテリーコーチに就任。{{by|2017年}}8年ぶりのレギュラーシーズン優勝と[[韓国シリーズ]]制覇に貢献。{{by|2018年}}より二軍バッテリーコーチに配置転換されたのち退団。


{{by|2019年}}から古巣・中日に一軍バッテリーコーチとして復帰することが発表された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/11/24/kiji/20181123s00001173578000c.html 中日復帰の中村武志コーチ 韓国での苦難と栄光 恩師星野さんの墓前でV報告を]</ref>。{{by|2020年}}には[[木下拓哉]]正捕手にして<ref>[https://locipo.jp/article/4423d058-2dab-47af-a6ee-8df91941601a 大野雄大そして覚醒した竜戦士たち~ドラゴンズ2020総括コラム(前編)][[CBCテレビ]]202011月14日{{リンク切れ|date=2021年9}}</ref>8年ぶりのAクラス(3位)に貢献。
{{by|2019年}}から古巣・中日に一軍バッテリーコーチとして復帰することが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=中日復帰の中村武志コーチ 韓国での苦難と栄光 恩師星野さんの墓前でV報告を |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/11/24/kiji/20181123s00001173578000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-04-19 |language=ja |date=2018-11-24}}</ref>。{{by|2020年}}には[[木下拓哉]]が成長し、長らく課題だった正捕手不在が解消された<ref>[[週刊ベースボール]]2021度プロ野球保存版カラー12球団選手写真名鑑号 2021年223日増刊、107頁</ref>8年ぶりのAクラス(3位)に貢献する


{{by|2021年}}2月21日、胃の手術のためチームから離脱することを球団が発表し、療養を経3月18日に現場復帰を果たした<ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/03/18/kiji/20210318s00001173309000c.html |title=中日 中村武志コーチが復帰 |website=スポニチ |date=2021-03-18 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。に[[胃癌]]であったことを明かしている<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=CrTPtUFKWxs |title=最終話 中村武志はやっぱり同期で一番凄かった |website=YouTube デーブ大久保チャンネル |date=2021-11-03 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。シーズンを終え10月29日同年限りで退団することが発表された<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/356419 【中日】パウエル打撃コーチ、中村武志バッテリーコーチらの退団発表] - 中日スポーツ</ref>。
{{by|2021年}}2月21日、胃の手術のためチームから離脱することを球団が発表療養を経3月18日に現場復帰を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/03/18/kiji/20210318s00001173309000c.html |title=中日 中村武志コーチが復帰 |website=スポニチ |date=2021-03-18 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。のちに[[胃癌]]であったことを明かしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=CrTPtUFKWxs |title=最終話 中村武志はやっぱり同期で一番凄かった |website=YouTube デーブ大久保チャンネル |date=2021-11-03 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。シーズンを終え10月29日同年限りで退団が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=【中日】パウエル打撃コーチ、中村武志バッテリーコーチらの退団発表:中日スポーツ・東京中日スポーツ |url=https://www.chunichi.co.jp/article/356419 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-04-19 |language=ja |date=2021-10-29}}</ref>。


{{by|2022年}}からは[[中京テレビ放送|中京テレビ]]・[[J SPORTS]]・[[DAZN]]の野球解説者、[[スポーツニッポン]]の野球評論家として活動する<ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/01/14/kiji/20220114s00001173025000c.html |title=今の捕手は甘い!もっと内角攻めを…伊東勤氏&中村武志氏のレジェンドコンビが辛口キャッチャー論披露 |website=スポニチ |date=2021-01-14 |accessdate=2022-01-14}}</ref>。3月23日には自身のYouTubeチャンネル『[https://www.youtube.com/channel/UCSy9SYO7EnTL-xfltI-u4QQ/ 中村武志の39ちゃんねる]』を開設した。
{{by|2022年}}からは[[中京テレビ放送|中京テレビ]]・[[J SPORTS]]・[[DAZN]]の野球解説者、[[スポーツニッポン]]の野球評論家として活動する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/01/14/kiji/20220114s00001173025000c.html |title=今の捕手は甘い!もっと内角攻めを…伊東勤氏&中村武志氏のレジェンドコンビが辛口キャッチャー論披露 |website=スポニチ |date=2021-01-14 |accessdate=2022-01-14}}</ref>。3月23日には自身のYouTubeチャンネル『[https://www.youtube.com/channel/UCSy9SYO7EnTL-xfltI-u4QQ/ 中村武志の39ちゃんねる]』を開設した。


{{by|2023年}}12月20日、起亜タイガースのバッテリーコーチに就任し、5年振りに同チームに復帰した<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.yahoo.co.jp/articles/7928debcb57d2ffc1ef46a2c410f724cf2dd56e9 |title= 本紙評論家・中村武志氏が来季、韓国・起亜タイガースコーチ就任 |website=Yahoo!ニュース |date=2023-12-20 |accessdate=2023-12-21}}</ref>。
== 選手としての特徴 ==
捕手としてシーズン規定試合数に出場のうえ盗塁阻止率5割以上を記録した捕手は中村と[[大矢明彦]]、[[田淵幸一]]、[[有田修三]]、[[福島知春]]、[[福嶋久晃]]、[[梨田昌孝]]、[[古田敦也]]、[[谷繁元信]]、[[城島健司]]の10人しかいない。そのうち2度以上記録したのは中村、大矢、田淵、古田と4人だけである。

1998年の守備率.999と2003年の守備率.998は中日、横浜の両球団の球団記録であったが中日は{{by|2009年}}に谷繁が、横浜は{{by|2011年}}に[[細山田武史]]が1.000で更新した。

打撃は打率3割はないが、{{by|1991年}}には20本塁打など、通算で137本塁打。1988年と1999年の[[日本シリーズ]]で通算26打数7安打1本塁打。


== 人物 ==
== 人物 ==
* 若手時代の応援歌は『[[コンバット!]]』のオープニングテーマで、主力なったの応援歌は楽天移籍後にも使用された。横浜移籍後は[[若菜嘉晴]]の応援歌を引き継いだ{{Efn2|後に中村を慕う[[武山真吾]]が自ら希望して引き継ぎ、武山はその後西武を経て中日に移籍し2018年からは自身がかつて着けていた39番を着用。}}。
* 若手時代の応援歌は『[[コンバット!]]』のオープニングテーマ主力なった以降の応援歌は楽天移籍後にも使用された。横浜移籍後は[[若菜嘉晴]]の応援歌を引き継いだ{{Efn2|後に中村を慕う[[武山真吾]]が自ら希望して引き継ぎ、その後西武を経て中日に移籍し2018年からは自身がかつて着けていた39番を着用。}}。
* 真面目で温厚な性格制球が乱れがちな[[野口茂樹]]や[[吉見祐治]]などが投げる時は、ど真ん中にミットを構えたり、際どくストライクゾーンから外れても「うんうん」と頷くなど、現役時代を通じて投手に対し配慮していた。特に野口はヒーローインタビューで常に「中村さんのミットめがけて投げました」「中村さんのおかげです」とコメントしている。横浜楽天の投手陣もヒーローインタビューでバッテリーを組んだ中村の名を頻繁に挙げるなど、所属した全球団で投手から慕われている。特に[[山本昌]]とは非常に深く通じ合っており、山本が中村からの返球を受けてサインを覗くときには、すでに予想した球種で握りやすい向きボールをセットしていた。技術的には変化球で追い込んでストレートで勝負するタイプであった<ref>ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41</ref>。また投手陣からの信頼も厚く、中村が餞別としてビデオメッセージを贈ったポーカーフェイスで知られ[[今中慎二]]が涙を流す一面も見られた。

* 誰からも愛されるキャラクターである。[[大久保博元|デーブ大久保]]や[[中根仁]](中村と同学年)からは、同学年のプロ野球選手の中で一番ぶっ飛んでいてネタの宝庫だと言われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=mHgNPpgv4xI |title=第一話 【近鉄・中根仁登場】一番ぶっ飛んでる同級生は中村武志です |publisher=YouTube デーブ大久保チャンネル |date=2021-12-10 |accessdate=2021-12-21}}</ref>。
* 真面目で温厚な性格であり、制球が乱れがちな[[野口茂樹]]や[[吉見祐治]]などが投げる時は、ど真ん中にミットを構えたり、際どくストライクゾーンから外れても「うんうん」と頷くなど、投手に対する配慮は現役時代を通じてあった。特に野口はヒーローインタビューでたびたび「中村さんのミットめがけて投げました」「中村さんのおかげです」とコメントし横浜楽天の投手陣もヒーローインタビューなどでバッテリーを組んだ中村の名を挙げることが多々あるなど、所属した全球団でヒーローインタビューにおいて投手から名前を挙げられている。中でも[[山本昌]]とは非常に深く通じ合っており、山本が中村からの返球を受けてサインを覗くときには、すでに予想した球種で握りやすい向きボールをセットしていた。技術的には変化球で追い込んでストレートで勝負するタイプであった<ref>ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41</ref>。また投手陣からの信頼も厚く、餞別ビデオを贈った際にはポーカーフェイスで知られ[[今中慎二]]が泣き出す一面も見られた。
* 中日から移籍後もシーズンオフは[[CBCラジオ]]「[[久野誠のドラゴンズワールド]]」毎年ゲスト出演していた。

* 星野が亡くなる2ヶ月前(2017年11月)、体調を労わり一助を担おうとしたが「お前の世話には死んでもならん」と拒否されたという。先述のように、星野とは「(あくまでも表面的な態度は)厳しい師匠」「そんな師匠でも心から慕っていた弟子」という関係を最後まで貫いた<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2018/01/07/0010876132.shtml|title=「怒られたけど、使ってくれた」 山本、中村、立浪、今中「4兄弟」が星野氏悼む|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2018-01-07|accessdate=2022-11-17}}</ref>。
* 誰からも愛されるキャラクターで、同学年の[[大久保博元|デーブ大久保]]や[[中根仁]]からは自分たちの学年のプロ野球選手の中で一番ぶっ飛んでいてネタの宝庫だと言われている<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=mHgNPpgv4xI |title=第一話 【近鉄・中根仁登場】一番ぶっ飛んでる同級生は中村武志です |publisher=YouTube デーブ大久保チャンネル |date=2021-12-10 |accessdate=2021-12-21}}</ref>。

* 中日から移籍後もシーズンオフは[[CBCラジオ]]「[[久野誠のドラゴンズワールド]]」毎年ゲスト出演していた。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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* '''39'''(1985年 - 2005年)
* '''39'''(1985年 - 2005年)
* '''86'''(2006年 - 2008年)
* '''86'''(2006年 - 2008年)
* '''83'''(2009年 - 2011年)
* '''83'''(2009年 - 2011年、2024年 -
* '''80'''(2012年、2019年 - 2021年)
* '''80'''(2012年、2019年 - 2021年)
* '''82'''(2013年 - 2018年)
* '''82'''(2013年 - 2018年)
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* {{YouTube|UCSy9SYO7EnTL-xfltI-u4QQ|中村武志の39ちゃんねる【公式】}}
* {{YouTube|UCSy9SYO7EnTL-xfltI-u4QQ|中村武志の39ちゃんねる【公式】}}


{{起亜タイガース}}
{{セントラル・リーグ 最優秀バッテリー賞}}
{{セントラル・リーグ 最優秀バッテリー賞}}
{{中日ドラゴンズ1984年ドラフト指名選手}}
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2024年6月18日 (火) 11:01時点における版

中村 武志
起亜タイガース バッテリーコーチ #83
中日時代の中村武志(右)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市右京区
生年月日 (1967-03-17) 1967年3月17日(57歳)
身長
体重
179 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1984年 ドラフト1位
初出場 1987年4月14日
最終出場 2005年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
中村 武志
人物
国籍 日本の旗 日本
職業 野球評論家
YouTube
チャンネル
活動期間 2022年3月21日 -
ジャンル 野球
総再生回数 14万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年9月17日時点。
テンプレートを表示

中村 武志(なかむら たけし、1967年3月17日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者評論家。現役時代は主に中日ドラゴンズ(在籍期間:1985年 - 2001年)でプレーし、1980年代末期から2000年代初期に正捕手として活躍、1988年1999年にはそれぞれ中日のセントラル・リーグ優勝に貢献した。

愛称は「たけし[注 1]

経歴

在日韓国人で、韓国名は姜 武志[1]。中日時代の1988年8月24日付で日本に帰化している[注 2][2]

プロ入り前

花園高校での3年間は新聞配達をしながら過ごし、その際の給与からバットやミットを購入した[7]。1984年の鳳凰大旗全国高等学校野球大会において、在日韓国人チームの正捕手として出場し準優勝を果たした[8]1984年のドラフトで、竹田光訓明治大学)の交渉権獲得[注 3]に失敗した中日ドラゴンズから外れ1位として指名を受け、入団。正捕手・中尾孝義の肩に不安があったことで、遠投120メートルとも言われた強肩を買われての指名であった[7]

中日時代

1985年当時、高校時代にバイト代で購入したミットがかなり劣化していたため、見かねたコーチが中村に新品のミットを2つ買い与えた[7]

1986年オフにフロントの整理対象選手に挙げられていた[注 4]

1987年、初出場を果たす。同年、中日の監督に就任した星野仙一は中村に猛練習を課し、時には過度に殴りつけ、「これ以上やったら死にます!」とコーチが止めに入ることもあったという[7]。これがのちに「なんかあったら、オレが監督に殴られてやるから大丈夫!」という投手への殺し文句となる。決して言い訳せず、常に責任を負う男気は投手陣から信頼を得た。また、中村の強肩は「あんな送球、見たことない。手が腫れる」と遊撃手宇野勝が評価するほどであった[7]

1988年、前年に盗塁阻止率.396でリーグトップの中尾を、怪我の頻発を理由に外野手へコンバートする[注 5]。これにより、大宮龍男大石友好らのサポートを受けながらではあったが[7]、中村は6月ごろから正捕手としてレギュラーに定着。広島の機動力を封じるなどしてリーグトップとなる盗塁阻止率.448を記録し、6年ぶりのリーグ優勝に貢献[7]。日本一は逸したが、優勝旅行にて「一緒に写真を撮ろう」と中村に声を掛けた星野は、その場に居合わせたカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と絶賛した[7]。この年以降、10年以上にわたり正捕手として活躍する。

1991年7月19日の対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)では、足を痛めた影響からスタメンを外れていた。8回裏、中日が7点差を猛追し4点差満塁のチャンスで代打出場し、木田優夫から同点となる満塁本塁打を放った[10]。試合は延長戦となり、10回裏に巨人の抑え水野雄仁から再び本塁打を打ちサヨナラ勝ちを収めた。1試合で同点満塁ならびにサヨナラ本塁打を放つ快挙を成し遂げチームを勝利に導いた[10]

中日の本拠地が、ナゴヤ球場からナゴヤドームへと移転した1997年は、打撃・守備ともに不振に陥る。特に盗塁阻止率は自身唯一となる1割台で、矢野輝弘にスタメンを譲る機会が増した。同年オフ、阪神タイガースがトレードによる中村の獲得を打診したが、結果的に矢野が移籍することとなった。

1999年、4月6日の対横浜ベイスターズ戦では、6回一死満塁の打席で川村丈夫から[11]、6月12日の対横浜戦では2回一死満塁の打席で福盛和男からそれぞれ満塁本塁打[12]を放った。同年5月25日の対阪神タイガース戦では1-1で同点の9回一死満塁の打席で福原忍からサヨナラ安打[13]、8月29日の対横浜戦では1点を追う9回二死二・三塁の打席で島田直也から逆転サヨナラ2点適時打[14]の2度サヨナラ安打を放つなど、11年ぶりのリーグ優勝に貢献。

2001年、安打数は自己最高を記録したが盗塁阻止率.218と守備面で精彩を欠く。同年オフに山田久志が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名。さらに横浜の正捕手・谷繁元信FAで獲得したことから、中村は出場機会を求めてトレードを志願し、金銭トレードで横浜へ移籍[15][16][17]。中村は中日残留を悩んだが、同僚の立浪和義から「まだ野球が出来るなら出来るところに行ったほうがいい」とアドバイスを受け、横浜への移籍を決意した[18]

横浜時代

2002年は開幕から相川亮二との併用を前提とし、中村の肩の調子が思わしくなかったため球団は急遽光山英和を獲得。相川が怪我で長期離脱している間に当時2年目の吉見祐治とバッテリーを組み、石川雅規ヤクルトスワローズ)との新人王争いをサポート。新人王こそ逃したものの、吉見はこの年11勝を記録。一方でチーム防御率は4.09に低迷し、チーム自体も開幕から不調が続き8年ぶりのリーグ最下位に終わった。

2003年西武ライオンズから中嶋聡が加入。右肩痛のためキャンプから出遅れ、開幕スタメンは中嶋に譲ることとなった。5月23日の対巨人戦(横浜スタジアム)ではゲーリー・ラス河本育之岡島秀樹から1試合3本塁打(自身初)を放つなど[19]、打率.268・11本塁打という成績を収めた。しかし、チーム防御率は4.80と最下位になり、守備の衰えは隠しきれなくなった。

2004年、シーズン前(3月)に愛車のベンツを盗まれる被害に遭う。その後、車体は発見されたが野球道具一式(ミット・バット・スパイクなど)はみつからなかった[20]。シーズン前半は相川を中心に併用されていたが、相川のアテネ五輪日本代表選出による離脱に伴い正捕手となる。だが、チームは失速し、自身が故障した間に台頭した鶴岡一成の存在もあり、最終的には47試合の出場にとどまった。11月25日、無償トレードで新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

楽天時代

2005年藤井彰人に次ぐ2番手捕手として64試合に出場。7月31日の西武戦(インボイスドーム)では、有銘兼久とのバッテリーで楽天球団創立初の完封・完投勝利を果たした。同年シーズンオフに戦力外通告を受け、その後現役引退を表明した。

通算2000試合出場まであと45試合を残しての引退であった。21年間の現役は同期入団の中では最長である。

引退後

2006年、横浜二軍「湘南シーレックス」バッテリーコーチに就任。2008年には一軍バッテリーコーチに昇格。正捕手である相川の怪我の影響もあり、シーレックス時代の教え子である若手の斉藤俊雄武山真吾に一軍の経験を積ませ指導したが、成績低迷の責任を取る形で退団。

2009年、古巣・中日の二軍捕手コーチに就任。谷繁とはコーチと選手という立場の違いはあれど、トレード劇から8年越しで同チーム所属となった。2010年からは一軍バッテリーコーチとなり、2年連続リーグ優勝に貢献する。2012年退団。

2013年千葉ロッテマリーンズ一軍バッテリーコーチに就任[21]江村直也田村龍弘吉田裕太ら若手捕手の育成に尽力した。

2014年10月5日、翌年の契約を結ばないと球団から発表[22][23]。同年11月、韓国プロ野球起亜タイガース一軍バッテリーコーチに就任。2017年、8年ぶりのレギュラーシーズン優勝と韓国シリーズ制覇に貢献。2018年より二軍バッテリーコーチに配置転換されたのち退団。

2019年から古巣・中日に一軍バッテリーコーチとして復帰することが発表された[24]2020年には木下拓哉が成長し、長らく課題だった正捕手不在が解消された[25]。8年ぶりのAクラス(3位)に貢献する。

2021年2月21日、胃の手術のためチームから離脱することを球団が発表。療養を経た3月18日に現場復帰を果たした[26]。のちに胃癌であったことを明かしている[27]。シーズンを終えた10月29日、同年限りでの退団が発表された[28]

2022年からは中京テレビJ SPORTSDAZNの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家として活動する[29]。3月23日には自身のYouTubeチャンネル『中村武志の39ちゃんねる』を開設した。

2023年12月20日、起亜タイガースのバッテリーコーチに就任し、5年振りに同チームに復帰した[30]

人物

  • 若手時代の応援歌は『コンバット!』のオープニングテーマ。主力となった以降の応援歌は楽天移籍後にも使用された。横浜移籍後は若菜嘉晴の応援歌を引き継いだ[注 6]
  • 真面目で温厚な性格。制球が乱れがちな野口茂樹吉見祐治などが投げる時は、ど真ん中にミットを構えたり、際どくストライクゾーンから外れても「うんうん」と頷くなど、現役時代を通じて投手に対し配慮していた。特に野口は、ヒーローインタビューで常に「中村さんのミットめがけて投げました」「中村さんのおかげです」とコメントしている。横浜・楽天の投手陣らもヒーローインタビューではバッテリーを組んだ中村の名を頻繁に挙げるなど、所属した全球団で投手から慕われている。特に山本昌とは非常に深く通じ合っており、山本が中村からの返球を受けてサインを覗くときには、すでに予想した球種で握りやすい向きにボールをセットしていた。技術的には変化球で追い込んでストレートで勝負するタイプであった[31]。また投手陣からの信頼も厚く、中村が餞別としてビデオメッセージを贈った、ポーカーフェイスで知られる今中慎二が涙を流す一面も見られた。
  • 誰からも愛されるキャラクターである。デーブ大久保中根仁(中村と同学年)からは、同学年のプロ野球選手の中で一番ぶっ飛んでいてネタの宝庫だと言われている[32]
  • 中日から移籍後も、シーズンオフにはCBCラジオ久野誠のドラゴンズワールド」へ毎年ゲスト出演していた。
  • 星野が亡くなる2ヶ月前(2017年11月)、体調を労わり一助を担おうとしたが「お前の世話には死んでもならん」と拒否されたという。先述のように、星野とは「(あくまでも表面的な態度は)厳しい師匠」「そんな師匠でも心から慕っていた弟子」という関係を最後まで貫いた[33]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 中日 43 119 113 12 24 3 0 3 36 11 2 0 1 0 3 0 2 19 5 .212 .246 .319 .565
1988 98 306 267 30 63 18 0 5 96 21 2 0 8 1 29 7 1 63 2 .236 .312 .360 .672
1989 125 420 352 23 95 12 0 7 128 41 2 2 9 2 55 19 2 94 7 .270 .370 .364 .734
1990 97 282 256 22 64 9 0 7 94 21 1 1 6 1 18 6 1 43 4 .250 .301 .367 .668
1991 104 370 333 42 90 13 0 20 163 62 5 4 9 4 24 1 0 74 5 .270 .316 .489 .805
1992 113 391 351 25 86 16 4 6 128 31 1 1 3 1 34 5 2 57 7 .245 .314 .365 .679
1993 127 461 404 38 88 11 0 18 153 46 0 0 8 1 48 8 0 116 8 .218 .300 .379 .679
1994 125 456 398 37 102 16 0 9 145 50 1 0 8 0 46 8 4 48 14 .256 .339 .364 .703
1995 94 335 301 26 77 10 0 8 111 32 2 3 2 0 31 1 1 57 11 .256 .327 .369 .696
1996 115 422 376 45 102 11 1 12 151 37 2 0 2 2 40 9 2 51 17 .271 .343 .402 .745
1997 102 314 280 27 65 15 0 8 104 36 0 0 2 3 26 5 3 42 11 .232 .301 .371 .672
1998 128 468 407 27 96 18 4 5 137 42 2 0 7 2 49 12 3 65 10 .236 .321 .337 .658
1999 127 439 395 31 79 12 0 6 109 42 3 1 13 3 28 6 0 65 9 .200 .275 .276 .551
2000 126 417 356 26 87 10 0 4 109 34 2 2 16 1 43 9 1 68 12 .244 .302 .306 .608
2001 134 455 412 29 109 16 0 2 131 27 1 0 10 1 31 5 1 59 17 .265 .317 .318 .635
2002 横浜 107 302 283 22 57 8 0 5 80 19 0 0 1 2 15 4 1 72 5 .201 .243 .283 .526
2003 79 230 209 23 56 8 0 11 97 37 3 0 8 1 12 5 0 35 6 .268 .306 .464 .770
2004 47 111 101 6 20 4 0 1 27 8 0 0 5 0 5 2 0 19 5 .198 .236 .267 .503
2005 楽天 64 121 111 8 20 4 0 0 24 7 0 0 3 0 7 0 0 25 3 .180 .229 .216 .445
通算:19年 1955 6419 5705 499 1380 214 9 137 2023 604 29 14 121 25 544 112 24 1072 158 .242 .309 .355 .664
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績



捕手






















1987 中日 42 190 13 1 2 1 .995 17 13 4 .235
1988 98 513 54 8 12 5 .986 58 32 26 .448
1989 121 624 76 4 12 8 .994 64 31 33 .516
1990 95 440 56 3 6 5 .994 53 34 19 .358
1991 101 596 62 3 10 6 .995 75 53 22 .295
1992 112 635 55 3 7 6 .997 68 47 21 .309
1993 127 884 82 3 16 9 .997 52 27 25 .481
1994 125 803 55 3 15 6 .997 51 36 15 .294
1995 94 573 56 3 8 4 .995 54 26 28 .519
1996 114 784 72 8 11 7 .991 82 50 32 .390
1997 96 560 45 5 11 11 .992 77 62 15 .195
1998 128 868 74 1 10 3 .999 81 43 38 .407
1999 127 769 73 3 11 7 .996 78 50 28 .359
2000 125 810 73 3 13 4 .997 104 69 35 .337
2001 134 964 77 5 12 5 .995 101 79 22 .218
2002 横浜 107 643 52 5 11 5 .993 82 61 21 .256
2003 79 438 38 1 7 1 .998 56 42 14 .250
2004 43 246 18 2 6 1 .992 30 21 9 .300
2005 楽天 64 233 20 0 3 2 1.000 41 31 10 .244
通算 1932 11573 1051 64 183 96 .995 1224 807 417 .341
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
  • 初出場:1987年4月14日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に石井昭男の代走として出場
  • 初先発出場:1987年5月29日、対広島東洋カープ7回戦(ナゴヤ球場)、8番・捕手として先発出場
  • 初三振:1987年5月30日、対広島東洋カープ8回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に北別府学から
  • 初安打:同上、7回裏に北別府学から二塁打
  • 初本塁打・初打点:1987年5月31日、対広島東洋カープ9回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に白武佳久から
  • 初盗塁:1987年7月7日、対阪神タイガース13回戦(石川県立野球場)、8回裏に二盗(投手:浜田知明、捕手:木戸克彦
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 39(1985年 - 2005年)
  • 86(2006年 - 2008年)
  • 83(2009年 - 2011年、2024年 - )
  • 80(2012年、2019年 - 2021年)
  • 82(2013年 - 2018年)

脚注

注釈

  1. ^ 中日時代に当時の星野監督が「たけし」と呼んでいたことから馴染みのある解説者や応援などで使用されることが多い。
  2. ^ 1988年8月24日付の『官報』より[2]。同紙に記載されている中村の住所(名古屋市西区堀越2丁目6番18号)[2]は、かつて中日球団の合宿所「昇竜館」が所在していた場所である[3]。同所の合宿所は1988年3月に完成し[4]、同年から使用されていたが[5]、2003年オフに中日の二軍本拠地となっていたナゴヤ球場(名古屋市中区露橋)の敷地内へ移転した[6]
  3. ^ 中日・大洋・巨人の3球団が競合し、大洋が交渉権を獲得した[9]
  4. ^ 中日の監督に就任したばかりの星野は「自由契約にするかどうかは、秋のキャンプを見てから判断させてくれ」と説得したことを晩年明かしている。
  5. ^ 星野は現役時に中尾ともバッテリーを組んでいたが、その経緯から中尾の選手としての寿命と不節制を熟知していた根拠もあった。ただし、中尾が外野手にコンバートしたのはケガが多すぎることが直接の理由ではなく、コーチとの確執がきっかけで「こんな状況では捕手をやれない」と中尾自身が星野に直談判したことからであった。
  6. ^ 後に中村を慕う武山真吾が自ら希望して引き継ぎ、その後西武を経て中日に移籍し、2018年からは自身がかつて着けていた39番を着用。

出典

  1. ^ 大島裕史「韓国野球の礎になった在日球児たち…「海峡を越えた野球少年」公開に寄せて」『民団新聞在日本大韓民国民団、2016年8月15日。オリジナルの2021年9月11日時点におけるアーカイブ。2023年2月12日閲覧。
  2. ^ a b c 官報』本紙 第18452号 昭和63年8月24日 1-2頁「法務省告示第六六九号 左記の者の申請に係る日本国に帰化の件は、これを許可する。昭和六十三年八月二十四日 法務大臣 林田悠紀夫(以下略、続)住所 名古屋市西区堀越2丁目6番18号 姜武志(中村武志)昭和42年3月17日生」
  3. ^ 東京新聞』1999年3月3日朝刊特集1面18頁「99年プロ野球選手名鑑 セ6球団の新陣容 中日ドラゴンズ 横浜ベイスターズ 読売ジャイアンツ」(中日新聞東京本社
  4. ^ '88プロ野球ウォッチング完璧ガイド 球場ガイド 練習場ガイド 合宿所ガイド > 中日ドラゴンズ」『週刊ベースボール』第43巻第15号、ベースボール・マガジン社、1988年4月11日、79頁、doi:10.11501/7909511NDLJP:7909511/1/40  - 通巻:第1694号(1988年4月11日号)。
  5. ^ 唯一許される「コンビニが気晴らし」外出禁止1カ月 中日入寮生のいま「うずうずしている」」『中日スポーツ中日新聞社、2020年4月19日。オリジナルの2022年9月18日時点におけるアーカイブ。2022年9月18日閲覧。
  6. ^ 中日新聞』2003年12月8日夕刊特集3面3頁「ドラゴンズ屋内練習場と合宿所 新生 職住接近 野球人図」(中日新聞社 写真と文・星野大輔)
  7. ^ a b c d e f g h 中村武志 星野監督の下で戦力外の候補から司令塔へと飛躍/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2019年6月17日). 2022年4月14日閲覧。
  8. ^ 韓国の高校野球事情 【韓国野球が熱い理由】 (1/3)”. ベースボールドットコム (2013年7月27日). 2022年4月14日閲覧。
  9. ^ 【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2008年11月17日。オリジナルの2021年2月18日時点におけるアーカイブ。
  10. ^ a b 1試合で同点満塁ホームランとサヨナラ弾を打った選手”. 週刊ベースボールONLINE (2021年2月25日). 2022年1月22日閲覧。
  11. ^ 「先制2ラン ダメ押し満塁弾 中村 援護の連発」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)4月7日付朝刊、27面(スポーツ面)。
  12. ^ 「中村、逆転満塁アーチ 中日首位死守」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)6月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  13. ^ 「中日首位死守 中村サヨナラ打 ヒーローになって来い 監督が一言、ベテラン燃えた」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)5月26日付朝刊、22面(スポーツ面)。
  14. ^ 「竜 逆転サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)8月30日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  15. ^ 中村捕手が横浜へ移籍/谷繁の中日入団で”. 四国新聞社 (2001年12月28日). 2020年7月23日閲覧。
  16. ^ 【12月28日】2001年(平13) 年内に自由の身にしてくれ!中村武志、怒りの退団(野球) ― 日めくりプロ野球09年12月”. スポニチ Sponichi Annex 野球 (2009年12月28日). 2009年12月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月19日閲覧。
  17. ^ 山田久志が語る谷繁元信獲得秘話。「名古屋って、難しいところだよ」|プロ野球”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 集英社. 2023年4月19日閲覧。
  18. ^ 【立浪和義の一言で決めた】さらば中日、これが中村武志さんのドラゴンズ愛の真骨頂です。20年前の手紙と共に最終話!激熱次回予告も!!! - YouTube
  19. ^ 横浜36歳中村 自身初の1試合3本 - ウェイバックマシン(2003年10月6日アーカイブ分)
  20. ^ 横浜・中村がベンツ盗まれる」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2004年3月4日。オリジナルの2004年3月8日時点におけるアーカイブ。
  21. ^ 中村武志氏 一軍バッテリーコーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月31日
  22. ^ コーチとの来季契約について”. 千葉ロッテマリーンズ (2014年10月5日). 2023年4月19日閲覧。
  23. ^ ロッテ 中村1軍バッテリーコーチ退団へ 伊東監督は来季続投”. スポニチ Sponichi Annex (2014年10月2日). 2023年4月19日閲覧。
  24. ^ 中日復帰の中村武志コーチ 韓国での苦難と栄光 恩師星野さんの墓前でV報告を”. スポニチ Sponichi Annex (2018年11月24日). 2023年4月19日閲覧。
  25. ^ 週刊ベースボール2021年度プロ野球保存版カラー12球団選手写真名鑑号 2021年2月23日増刊、107頁
  26. ^ 中日 中村武志コーチが復帰”. スポニチ (2021年3月18日). 2021年11月3日閲覧。
  27. ^ 最終話 中村武志はやっぱり同期で一番凄かった”. YouTube デーブ大久保チャンネル (2021年11月3日). 2021年11月3日閲覧。
  28. ^ 【中日】パウエル打撃コーチ、中村武志バッテリーコーチらの退団発表:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (2021年10月29日). 2023年4月19日閲覧。
  29. ^ 今の捕手は甘い!もっと内角攻めを…伊東勤氏&中村武志氏のレジェンドコンビが辛口キャッチャー論披露”. スポニチ (2021年1月14日). 2022年1月14日閲覧。
  30. ^ 本紙評論家・中村武志氏が来季、韓国・起亜タイガースコーチ就任”. Yahoo!ニュース (2023年12月20日). 2023年12月21日閲覧。
  31. ^ ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41
  32. ^ 第一話 【近鉄・中根仁登場】一番ぶっ飛んでる同級生は中村武志です”. YouTube デーブ大久保チャンネル (2021年12月10日). 2021年12月21日閲覧。
  33. ^ “「怒られたけど、使ってくれた」 山本、中村、立浪、今中「4兄弟」が星野氏悼む”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2018年1月7日). https://www.daily.co.jp/baseball/2018/01/07/0010876132.shtml 2022年11月17日閲覧。 

関連項目

外部リンク