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[[ファイル:The_statue_of_the_late_Mr._Soichiro_Asano_-_panoramio.jpg|代替文=帽子をかぶり、右手に杖、左手に丸めた書類を持った浅野総一郎の銅像|サムネイル|浅野財閥総帥 浅野総一郎の銅像]]
'''日米船鉄交換契約'''(にちべいせんてつこうかんけいやく)は、第一次世界大戦中に、米国の鉄輸出禁止政策によって、苦境に陥った日本の造船会社が、米国政府と結んだ契約。米国製の鉄と日本製の船の交換を定めた。
'''浅野回漕店'''(あさのかいそうてん)は[[浅野総一郎]]が1887年(明治20年)に設立した海運会社で、国内航路で[[日本郵船]]に対抗したが、十年後に、海外航路の[[東洋汽船]]設立資金調達のために、全ての船を売却して廃業した。


== 共同運輸会社 ==
[[郵便汽船三菱運輸会社]]が、日本の海運業界を独占して高い運賃をとっていた。当時石炭商だった浅野総一郎は、その運賃に我慢できなかったので、[[共同運輸会社]]設立発起人総代42人の一人になった。そして共同運輸は郵便汽船三菱と熾烈な値下げ競争を繰り広げたが、両社とも経営が苦しくなったので、1885年(明治18年)合併して日本郵船になった。独占会社になった日本郵船は運賃を高くした<ref name="saito">齋藤憲、1998年『稼ぐに追いつく貧乏なし』東洋経済新報社、50-54頁 ISBN 4-492-06106-1</ref>。


== 浅野回漕店 ==
== 第一次世界大戦により鉄の輸入が困難になる ==
高い運賃は産業を破壊しかねないと考えていた浅野総一郎は、運賃の安い海運会社を自分で経営しようと決心して、[[渋沢栄一]]に出資と協力を求めた。そして1886年(明治19年)か翌年に資本金20万円で匿名組合浅野回漕店を設立したが、渋沢栄一は共同経営者となった。最初にドイツ人所有の古船ベロナ号(1136総トン)を四万円で買って日の出丸と改名した。その後、金沢丸(1235総トン)鶴丸(408総トン)万国丸(2336総トン)竜丸(106総トン)を購入して合計五隻の古船で、安い運賃で営業した<ref name="saito"></ref><ref name="eiga">松浦章・笹川慶子、2016年『東洋汽船と映画』関西大学出版部、24-35頁 ISBN 978-4-87354-641-4</ref>。横浜や品川から[[女川町]]石浜を経て函館や小樽へ、あるいは横浜や品川から大阪・神戸・兵庫へ、ときには富山県の[[伏木]]へも航行した。積荷が集まった時に航海するという不定期な輸送形態で運営した<ref name="eiga"></ref>。
[[第一次世界大戦]]以前は、日本は、主にドイツ・スウェーデン・ベルギー・オーストリアから鉄を輸入していたが、開戦直後に取引が無くなった。そこで主に英国から輸入するようになったが、英国自体が鉄不足になったので、1916年4月に鉄の輸出を禁止した。それで米国から鉄を輸入していたのだが、米国は参戦すると1917年8月に鉄の輸出を禁止した。当時日本は造船用鉄材の九割を米国から輸入していたので、日本の造船業に対する悪影響は計り知れなかった<ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref name="hashimoto">橋本梅太郎君伝記編纂会</ref><ref name="toyo">中野</ref><ref>寺谷、25-29頁。</ref>。この輸出禁止令は既契約のものにも適用され、8月10日までに製鉄所から積み出されたものは良いが、それ以後は禁止するというものだった。日本の造船・海運・輸入関連の企業は合計40万トン以上の既契約を有していたので驚き慌てた。[[浅野造船所]]では同年12月に鉄の輸入が途絶えてしまった<ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref name="hashimoto">橋本梅太郎君伝記編纂会</ref><ref>寺谷、43-44頁。</ref>。
ある時[[永山武四郎]]北海道長官が、[[屯田兵]]二千名余りを[[堺]]から[[小樽]]まで安く輸送するように日本郵船に依頼したが断られた。それを浅野回漕店が輸送した。また、浅野総一郎の故郷である富山県の米を日本郵船の半額以下で輸送した。すると、日本郵船は、浅野回漕店よりも運賃を安くして競争を挑んできた。そこで浅野総一郎は、[[緒明菊三郎]]・[[広海仁三郎]]・[[浜中初三郎]]・[[岸本五兵衛]]・[[岡崎藤吉]]などと、1894年(明治27年)に[[日本海運業同盟会]]を結成して対抗した<ref name="eiga"></ref>。その競争の最中に[[日清戦争]]が始まったので、浅野回漕店はすべての船を御用船として政府に提供した<ref name="eiga"></ref>。
== 鉄輸出解禁交渉 ==
まず、関西で[[鈴木商店]]の[[金子直吉]]が主導して米鉄輸出解禁期成同盟会を結成した。参加企業は、[[岩井商店]]・[[岩城商会]]・[[原田造船所]]・[[橋本商店]]・[[日本郵船]]・[[日本汽船]]・[[東洋汽船]]・[[大阪鉄鋼所]]・[[小野造船鉄鋼所]]・[[大倉組]]・[[大阪商船]]・[[勝田商会]]・[[川崎造船所]]・[[米井商会]]・[[高田商会]]・[[辰馬汽船]]・[[津田勝五郎商店]]・[[内田商事]]・[[上西商会]]・[[山下汽船]]・[[山本藤助商店]]・[[松田船舶部造船所]]・[[増田合名]]・[[藤永田造船所]]・[[互光商会]]・浅野造船所・[[岸本汽船]]・[[岸本商店]]・[[湯浅商店]]・[[三井物産]]・[[三菱合資]]・[[松昌洋行]]・[[芝川商店]]・[[広海商事]]・鈴木商店だった。次に、関東で[[浅野財閥]]総帥[[浅野総一郎]]が主導して米国鉄材輸出解禁期成同盟会を結成した。参加企業は、[[石川島造船所]]・[[浦賀船渠]]・[[横浜船渠]]・浅野造船所・[[横浜鉄鋼所]]・三井物産・大倉組・高田商会・米井商会・松昌洋行・内田商事・川崎造船所・三菱合資・鈴木商店・山下汽船・[[久原鉱業]]・[[宇都宮回漕店]]・[[増田商店]]・[[茂木合名]]・[[横須賀鉄鋼所]]・東洋汽船・大阪商船・湯浅商店・大阪鉄鋼所だった<ref>日米船鉄交換同盟会、7-17頁。</ref>。そして日本政府と米国大使館に働きかけた。さらに各社の米国駐在員は、米国政府当局者に働きかけたり、複数の新聞に寄稿して米国世論に訴えたりした。そのような状況で日本政府は米国政府に対し解禁交渉を進めたのだが、1917年11月に交渉を打ち切ってしまった。その後、日本の民間企業各社は、最初はバラバラに米国政府と交渉したが、上手く行かなかったので、合同してまとめた提案で、浅野財閥の[[浅野良三]]と鈴木商店の[[長崎英造]]が交渉したが駄目だった。その時、鈴木商店の金子直吉が[[ローランド・モリス]]大使と会見して、川崎造船所の[[松方幸次郎]]がロンドンから金子に宛てた強硬な内容の英文電報を見せた。(この電報は金子と松方が交渉の道具として作ったと言われている<ref>鈴木商店記念館</ref>。)するとモリス大使と米国政府が軟化して交渉がまとまった。<ref>日米船鉄交換同盟会、7-21頁、35-53頁、76-109頁</ref><ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref name="hashimoto">橋本梅太郎君</ref><ref nane="toyo">中野</ref>。
== 日米船鉄交換契約 ==
=== 第一次日米船鉄交換契約 ===
第一次日米船鉄交換契約が1918年3月に成立し、4月23日から25日に調印された。日本企業の完成済みや建造中の現有船と、米国が凍結した契約済み鉄材を、重量比一対一で交換する。日本は12隻100800重量トン、或いは15隻127800重量トンを9月末までに提供し(後者は後述する追加分の三隻を含めた数字)、同等の鉄を得る。鉄の価格は既契約のままで、船の価格は重量トンあたり265ドルから225ドルで、引き渡しが早いほど高額になる。以上のような内容だった。調印したのは川崎造船所(四隻に後で三隻追加)・鈴木商店の[[帝国汽船]](三隻)・日本汽船大阪鉄鋼所連合(三隻)・浅野造船所(一隻)・浦賀船渠(一隻)だった<ref>日米船鉄交換同盟会、109-123頁。</ref><ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref>寺本、46頁。</ref>。この契約によって、同年6月に鉄が到着し始めたので、1917年8月から停滞していた浅野造船所は、1918年秋からは再び繁忙を極めた<ref name="zosen">浅野造船所</ref>。また、交換された船は直ちに大西洋に回航されて大戦に参加した<ref name="hashimoto">橋本梅太郎君伝記編纂会</ref>。
=== 第二次日米船鉄交換契約 ===
第一次契約の調印と同時に、モリス大使と金子直吉・浅野良三が第二次契約の交渉を始めた。六千トン以上の船を建造中か建造した業者としか契約しないという方針を米国は堅持した。第二次日米船鉄交換契約は1918年5月中旬に調印された。まず第一次日米船鉄交換契約の追加分3隻27000トンを履行する事を確認した。また、新たに米国から買った鉄で日本企業が建造した船を提供する、船と鉄を重量比二対一で交換するというもの。30隻246300重量トンを提供して、半分の鉄を得た。鉄の価格は、一英トンあたり、鋼板は72.8ドル、鋼型は67.2ドル、鋼棒64.9ドル。また、当時日本国内では供給困難で法外な価格だったので、鉄製の艤装品も輸入された。船舶の価格は重量トンあたり175ドルだった。米国が堅持した方針のせいで、参加できたのは大手造船所である、川崎造船所・三菱造船所・石川島造船所・内田造船所・新田汽船・浅野造船所・藤永田造船所・大阪鉄鋼所・三井物産造船部・浦賀船渠・横浜船渠・[[旭造船所]](後に受注を浦賀船渠に譲渡<ref>日米船鉄交換同盟会、178頁。</ref>)・鈴木商店の播磨造船所(帝国汽船の造船部)だけだった。1918年秋から第二次契約の鉄が少しづつ輸入されたが、米国の労働争議のため引き渡しの時期が遅れたので、建造した船舶の引き渡しも遅れた<ref>日米船鉄交換同盟会、123-145頁</ref><ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref>寺本、46頁。</ref>。1918年11月に世界大戦が終わると、船舶が不必要になったので、契約期限に遅れたのを口実にして、米国は交換船の引取を拒否した。そこで浅野財閥の[[橋本梅太郎]]が、米国からの鉄の引き渡しが遅れたせいで、船の引き渡しが遅れたと主張して、米国当局者を説得し、船を引き受けさせた<ref name="hashimoto">橋本梅太郎君伝記編纂会</ref>。1920年9月23日に最後の船[[イースタンソード]]が引き渡された<ref>日米船鉄交換同盟会、214頁。</ref>。
=== 第三次船鉄交換契約の交渉 ===
第二次交換交渉に加われなかった造船所のために、米国製の鉄と日本製の中型・小型の船を交換する交渉を米国政府に打診してみたが、休戦になったので中止した<ref>日米船鉄交換同盟会、154-155頁。</ref>。
== 第一次世界大戦後の日本経済への影響 ==
=== 日本の海運業に悪影響 ===
休戦後に船舶過剰になって、太平洋貨物運賃は既に低落していたのだが、この船鉄交換船30隻の影響で、急転直下の勢いで運賃が低落して、日本の海運会社の経営が圧迫された<ref name="toyo">中野</ref>。
=== 製鉄会社の設立と経営難 ===
鉄鋼材を輸入に頼っていると、造船業が立ち行かない事を痛感したので、日本の造船会社はこぞって、製鉄会社や製鉄部門を設立した。三菱造船所は[[長崎製鋼所]]設立のために、川崎造船所は葺合工場設立のために、浅野造船所は浅野製鉄所設立のために、それぞれ必要な機械をメーカーに注文した。ところが、当時製鉄所の開業ブームになったので、他社の注文と競合して納期が遅くなった。ようやく製鉄所が稼働し始めた頃には、第一次世界大戦が休戦になって、鉄鋼市価が暴落し始めた。結局、新設した製鉄所や製鉄部門は利益を得ることができずに、造船会社のお荷物になった<ref name="zosen">浅野造船所</ref><ref>寺谷、46-52頁。</ref>。
== 交換船一覧 ==
=== 第一次交換船 ===
川崎造船所 第20大福丸、第21大福丸、東福丸、盛福丸、イーストウィンド、イーストケープ、イースターリング (これらは全て[[第一大福丸型貨物船]]である。)
帝国汽船 第七興福丸、第六霧島丸、第八興福丸
日本汽船 明玄丸、イーストボート、イースターンライト
浅野造船所 イーストインディアン
浦賀船渠 第三吉田丸<ref>日米船鉄交換同盟会、122頁。</ref>
=== 第二次交換船 ===
川崎造船所 イースターンムーン、同オーシャン、同プラネット、同ドーン、同クラウド (これらは全て第一大福丸型貨物船である。)
浦賀船渠 イースターンブリーズ、同ゲール、同テンペスト、同ソード
大阪鉄鋼所 イースターンナイト、同マリナー、同アドミラル、同セイラー
横浜船渠 イースターンガイド、同クラッグ、同コースト
浅野造船所 イースターンマーチャント、同トレーダー
石川島造船所 イースターンベル、同メイド
帝国汽船 イースターンパイロット、同ソルジャー
三菱造船所 イースターンビクター、同クラウン
内田造船所 イースターングレード、同グレン
三井物産 イースターンインポーター、同エクスポーター
新田汽船 イースターンテンプル
藤永田造船所 イースターンリーダー<ref>日米船鉄交換同盟会、218-219頁。</ref>
== 脚注 ==
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== 東洋汽船設立のために廃業 ==
== 参考文献 ==
日本政府が[[航海奨励法]]を制定して海外航路に助成金を出すという事を知った浅野総一郎は、海外航路の海運会社を設立しようと考えた。浅野回漕店の中古船は外洋航海に不向きなので、全部の船を土佐汽船に20万円で売却して、東洋汽船の設立資金にした<ref name="saito"></ref><ref name="eiga"></ref>。
*日米船鉄交換同盟会(1920年)[https://dl.ndl.go.jp/pid/957045/1/2 『日米船鉄交換同盟史』](国立国会図書館デジタル)

*浅野造船所(1935年)[https://dl.ndl.go.jp/pid/1106094/1/2 『我社の生立』]35-43頁。(国立国会図書館デジタル)
== 浅野回漕部 ==
*橋本梅太郎君伝記編纂会(1939年)『橋本梅太郎』浅野物産、143-156頁。
後に1900年ごろに、浅野総一郎は渋沢栄一の出資を仰いで浅野回漕部を設立したが、これは実質的に浅野回漕店を再興したものである<ref name="saito"></ref>。
*中野秀雄(1964年)『東洋汽船六十四年の歩み』158-162頁、168頁。

*寺谷武明(1969年)[https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/4/3/4_3_25/_article/-char/ja 「第一次世界大戦下における日本造船業の鉄鋼材確保策」]『経営史学』4巻3号、25-53頁。
== 脚注 ==
*辰巳会、鈴木商店記念館、鈴木商店の歴史[http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat2/cat2/ 船鉄交換条約]、2023年10月3日閲覧。
<references />

2024年6月23日 (日) 12:53時点における最新版

帽子をかぶり、右手に杖、左手に丸めた書類を持った浅野総一郎の銅像
浅野財閥総帥 浅野総一郎の銅像

浅野回漕店(あさのかいそうてん)は浅野総一郎が1887年(明治20年)に設立した海運会社で、国内航路で日本郵船に対抗したが、十年後に、海外航路の東洋汽船設立資金調達のために、全ての船を売却して廃業した。

共同運輸会社

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郵便汽船三菱運輸会社が、日本の海運業界を独占して高い運賃をとっていた。当時石炭商だった浅野総一郎は、その運賃に我慢できなかったので、共同運輸会社設立発起人総代42人の一人になった。そして共同運輸は郵便汽船三菱と熾烈な値下げ競争を繰り広げたが、両社とも経営が苦しくなったので、1885年(明治18年)合併して日本郵船になった。独占会社になった日本郵船は運賃を高くした[1]

浅野回漕店

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高い運賃は産業を破壊しかねないと考えていた浅野総一郎は、運賃の安い海運会社を自分で経営しようと決心して、渋沢栄一に出資と協力を求めた。そして1886年(明治19年)か翌年に資本金20万円で匿名組合浅野回漕店を設立したが、渋沢栄一は共同経営者となった。最初にドイツ人所有の古船ベロナ号(1136総トン)を四万円で買って日の出丸と改名した。その後、金沢丸(1235総トン)鶴丸(408総トン)万国丸(2336総トン)竜丸(106総トン)を購入して合計五隻の古船で、安い運賃で営業した[1][2]。横浜や品川から女川町石浜を経て函館や小樽へ、あるいは横浜や品川から大阪・神戸・兵庫へ、ときには富山県の伏木へも航行した。積荷が集まった時に航海するという不定期な輸送形態で運営した[2]。 ある時永山武四郎北海道長官が、屯田兵二千名余りをから小樽まで安く輸送するように日本郵船に依頼したが断られた。それを浅野回漕店が輸送した。また、浅野総一郎の故郷である富山県の米を日本郵船の半額以下で輸送した。すると、日本郵船は、浅野回漕店よりも運賃を安くして競争を挑んできた。そこで浅野総一郎は、緒明菊三郎広海仁三郎浜中初三郎岸本五兵衛岡崎藤吉などと、1894年(明治27年)に日本海運業同盟会を結成して対抗した[2]。その競争の最中に日清戦争が始まったので、浅野回漕店はすべての船を御用船として政府に提供した[2]

東洋汽船設立のために廃業

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日本政府が航海奨励法を制定して海外航路に助成金を出すという事を知った浅野総一郎は、海外航路の海運会社を設立しようと考えた。浅野回漕店の中古船は外洋航海に不向きなので、全部の船を土佐汽船に20万円で売却して、東洋汽船の設立資金にした[1][2]

浅野回漕部

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後に1900年ごろに、浅野総一郎は渋沢栄一の出資を仰いで浅野回漕部を設立したが、これは実質的に浅野回漕店を再興したものである[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 齋藤憲、1998年『稼ぐに追いつく貧乏なし』東洋経済新報社、50-54頁 ISBN 4-492-06106-1
  2. ^ a b c d e 松浦章・笹川慶子、2016年『東洋汽船と映画』関西大学出版部、24-35頁 ISBN 978-4-87354-641-4