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「カール・グスタフ・フォン・ローゼン」の版間の差分

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カール・グスタフ・フォン・ローゼンと、ヘルマン・ゲーリングとの縁戚関係について加筆。
 
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{{Infobox 人物
[[ファイル:Bengt Nordenskiöld o Carl Gustaf von Rosen.JPG|thumb|right|カール・グスタフ・フォン・ローゼン]]
|氏名=カール・グスタフ・フォン・ローゼン<br>Carl Gustaf von Rosen

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'''カール・グスタフ・エリクソン・フォン・ローゼン'''(Carl Gustaf Ericsson von Rosen、1909年8月19日-1977年7月13日)[[スウェーデン]]の[[貴族]]で[[パイロット (航空)|飛行家]]。爵位は[[伯爵]]。[[探検家]]、飛行家の[[エリック・フォン・ローゼン]]([[:en:Eric von Rosen]])の息子であり、[[ヘルマン・ゲーリング]]の妻[[カリン・ゲーリング|カリン]]の甥である
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|画像説明=カール・グスタフ・フォン・ローゼン(右)
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'''カール・グスタフ・エリクソン・フォン・ローゼン'''(Carl Gustaf Ericsson von Rosen、[[1909年]][[8月19日]] - [[1977]][[7月13日]]は、[[スウェーデン]]の[[貴族]]で[[パイロット (航空)|飛行家]]。爵位は[[伯爵]]。[[探検家]]、飛行家の[[エリック・フォン・ローゼン]]([[:en:Eric von Rosen]])[[マリー・フォン・ローゼン|マリー・フォン・フォック]]([[:en:Mary von Rosen]]:[[ヘルマン・ゲーリング]]の最初の妻[[カリン・ゲーリング|カリン]]の姉)との間に産まれた


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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ローゼンは、スウェーデン、[[セーデルマンランド地方]]の[[ヘルゲスタ]](Helgesta)に産まれた。
ローゼンは、スウェーデン、[[セーデルマンランド地方]]の[[ヘルゲスタ]](Helgesta)に産まれた。


彼は幼いころから機械に興味を持ち、特に航空機に魅せられた。これには、[[フィンランド空軍]]設立に足跡を残した父、[[第一次世界大戦]]の[[エース]]で、後に[[ドイツ空軍]]のトップとなった叔母の夫、[[ヘルマン・ゲーリング]]の影響もあっただろうと思われる。ローゼンはまず、[[整備士]]としてその航空歴をスタートさせ、後に各地をめぐる空中サーカス団のパイロットに転じた。ここで彼は、後々彼を大いに助ける、アクロバティック飛行のスキルを身につけた。
彼は幼いころから機械に興味を持ち、特に航空機に魅せられた。これには、[[フィンランド空軍]]設立に足跡を残した父、[[第一次世界大戦]]の[[エース・パイロット|エース]]で、後に[[ドイツ空軍]]のトップとなった叔母の夫、[[ヘルマン・ゲーリング]]の影響もあっただろうと思われる。ローゼンはまず、[[整備士]]としてその航空歴をスタートさせ、後に各地をめぐる空中サーカス団のパイロットに転じた。ここで彼は、後々彼を大いに助ける、アクロバティック飛行のスキルを身につけた。


=== 戦間期から第二次世界大戦 ===
=== 戦間期から第二次世界大戦 ===
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[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]政権下の[[イタリア王国]]が[[エチオピア帝国]]に進攻すると([[第二次エチオピア戦争]])、ローゼンは[[赤十字]]による救援物資空輸活動に加わった<ref>この活動中に[[マルセル・ジュノー]]と出会っている(ジュノーの回想録にローゼンと出会ったことが記されている)</ref>。ローゼンは[[イタリア空軍]]による幾度かの攻撃と、厳しい地理環境下を生き残った。
[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]政権下の[[イタリア王国]]が[[エチオピア帝国]]に進攻すると([[第二次エチオピア戦争]])、ローゼンは[[赤十字]]による救援物資空輸活動に加わった<ref>この活動中に[[マルセル・ジュノー]]と出会っている(ジュノーの回想録にローゼンと出会ったことが記されている)</ref>。ローゼンは[[イタリア空軍]]による幾度かの攻撃と、厳しい地理環境下を生き残った。


エチオピアでの戦争から帰還すると、彼は世界で最初の民間航空会社である[[KLMオランダ航空|KLM航空]]で働くために[[オランダ]]に赴き、やがてKLMの一流のパイロットとなった。ローゼンは[[オランダ人]]の妻と結婚したが、彼らの幸せな生活は[[第二次世界大戦]]の勃発によって終わりを迎える。[[ソビエト連邦]]が[[フィンランド]]進攻を企て、[[冬戦争]]が始まると、ローゼンはKLMの職を投げ出し、フィンランドを支援するため義勇兵を志願する。彼は[[ダグラス DC-2|DC-2]]旅客機を購入して爆撃機に改造。さらに、この「爆撃機」を護衛するために[[コールホーフェン]]社が倉庫に死蔵していた[[コールホーフェンFK52|FK52]]戦闘機を2機購入した。FK52はフィンランド空軍に編入されて活躍し、DC-2改造爆撃機(ハンシン・ユッカ号と名付けられた)は、ローゼンの操縦の下、単独でソ連軍飛行場への爆撃飛行を行った後、輸送機となった。1年後、ドイツがオランダを攻撃すると、彼は今度はイギリスに赴き、[[イギリス空軍]]に志願したが、ヘルマン・ゲーリングとの縁戚関係にあることからこれは却下されてしまった。このためローゼンはKLMにもどって、当時危険な空路となっていた[[ロンドン]]-[[リスボン]]間の飛行に従事した。オランダ人であった彼の妻は、対独抵抗活動に加わって殺されてしまった。
エチオピアでの戦争から帰還すると、彼は世界で最初の民間航空会社である[[KLMオランダ航空|KLM航空]]で働くために[[オランダ]]に赴き、やがてKLMの一流のパイロットとなった。ローゼンは[[オランダ人]]の妻と結婚したが、彼らの幸せな生活は[[第二次世界大戦]]の勃発によって終わりを迎える。[[ソビエト連邦]]が[[フィンランド]]進攻を企て、[[冬戦争]]が始まると、ローゼンはKLMの職を投げ出し、フィンランドを支援するため義勇兵を志願する。彼は[[ダグラス DC-2|DC-2]]旅客機を購入して爆撃機に改造。さらに、この「爆撃機」を護衛するために[[コールホーフェン]]社が倉庫に死蔵していた[[コールホーフェンFK52|FK52]]戦闘機を2機購入した。FK52はフィンランド空軍に編入されて活躍し、DC-2改造爆撃機(ハンシン・ユッカ号と名付けられた)は、ローゼンの操縦の下、単独でソ連軍飛行場への爆撃飛行を行った後、輸送機となった。1年後、ドイツがオランダを攻撃すると、彼は今度はイギリスに赴き、[[イギリス空軍]]に志願したが、ヘルマン・ゲーリングとの縁戚関係にあることからこれは却下されてしまった。このためローゼンはKLMにもどって、当時危険な空路となっていた[[ロンドン]]-[[リスボン]]間の飛行に従事した。


=== 第二次世界大戦後 ===
=== 第二次世界大戦後 ===


戦後、ローゼンは[[エチオピア空軍]]の教官として数年を過ごし、その後[[国際連合事務総長|国連事務総長]]、[[ダグ・ハマーショルド]]のパイロットとなった。なお、ハマーショルドが[[コンゴ動乱]]の調停中に航空機事故で死亡したのは、ローゼンが病気療養のため地上に降りていた際の出来事だった。
戦後、ローゼンは[[エチオピア空軍]]の教官として数年を過ごし、その後[[国際連合事務総長|国連事務総長]]、[[ダグ・ハマーショルド]]のパイロットとなった。なお、ハマーショルドが[[コンゴ動乱]]の調停中に[[1961年国連チャーター機墜落事故|航空機事故]](撃墜説あり)で死亡したのは、ローゼンが病気療養のため地上に降りていた際の出来事だった。


ローゼンとアフリカの関わりは、コンゴ動乱で終わったわけではなかった。7年後、ローゼンは[[ナイジェリア]]からの独立を宣言した[[ビアフラ共和国]]を救援する援助団のため、飛行活動を行い国際的な名声を得た([[ビアフラ戦争]])。この際に、ビアフラに困窮を強い、空軍によって救援飛行にたびたび妨害をくわえてきたナイジェリア政府に対して腹を据えかねたローゼンは、[[フランス]]の[[フランス対外治安総局|情報当局]]と協同し、反撃にでることにした。ローゼンは5機のスウェーデン製の単発軽飛行機[[マルメ MFI-9]]を入手した。彼はこの飛行機が、戦時には攻撃機としても使えるように設計されていることを知っており、ローゼンはこの飛行機を迷彩色に塗装し、ロケット弾ポッドを取り付けて、仲間の一団とともに、“Babies of Biafra”と呼ばれる航空隊を結成した。そして、ビアフラの民間人を攻撃するナイジェリア空軍機の基地を攻撃することとした。1966年5月22日から数日にわたって、ローゼン率いる5機の飛行隊は、[[ポートハーコート]]、[[エヌグ]]ほかのナイジェリア空軍飛行場を攻撃、不意をつかれたナイジェリア軍は、数機の[[MiG-17 (航空機)|MiG-17戦闘機]]や6機しかない[[Il-28 (航空機)|Il-28爆撃機]]のうち3機など、貴重なジェット機戦力を地上で破壊された<ref name=GB-2004>Gary Brecher. [http://old.exile.ru/2004-October-15/war_nerd.html Biafra: Killer Cessnas and Crazy Swedes] 15 October 2004.</ref>。
ローゼンとアフリカの関わりは、コンゴ動乱で終わったわけではなかった。7年後、ローゼンは[[ナイジェリア]]からの独立を宣言した[[ビアフラ共和国]]を救援する援助団のため、飛行活動を行い国際的な名声を得た([[ビアフラ戦争]])。この際に、ビアフラに困窮を強い、空軍によって救援飛行にたびたび妨害をくわえてきたナイジェリア政府に対して腹を据えかねたローゼンは、[[フランス]]の[[フランス対外治安総局|情報当局]]と協同し、反撃にでることにした。ローゼンは5機のスウェーデン製の単発軽飛行機[[マルメ MFI-9]]を入手した。彼はこの飛行機が、戦時には攻撃機としても使えるように設計されていることを知っており、ローゼンはこの飛行機を迷彩色に塗装し、ロケット弾ポッドを取り付けて、仲間の一団とともに、“Babies of Biafra”と呼ばれる航空隊を結成した。そして、ビアフラの民間人を攻撃するナイジェリア空軍機の基地を攻撃することとした。1966年5月22日から数日にわたって、ローゼン率いる5機の飛行隊は、[[ポートハーコート]]、[[エヌグ]]ほかのナイジェリア空軍飛行場を攻撃、不意をつかれたナイジェリア軍は、数機の[[MiG-17 (航空機)|MiG-17戦闘機]]や6機しかない[[Il-28 (航空機)|Il-28爆撃機]]のうち3機など、貴重なジェット機戦力を地上で破壊された<ref name=GB-2004>Gary Brecher. [http://old.exile.ru/2004-October-15/war_nerd.html Biafra: Killer Cessnas and Crazy Swedes] 15 October 2004.</ref>。


ローゼン伯爵最後の地はやはりアフリカであった。1977年、[[オガデン戦争]]に先だって発生していたエチオピアと[[ソマリア]]の紛争でのことである。再び難民の救援飛行を行っていたローゼンは、1977年7月13日、[[ゴーデ]]([[:en:Gode|en]])郊外がソマリア人[[ゲリラ]]の襲撃を受けた際、地上にて殺害された。
ローゼン伯爵最後の地はやはりアフリカであった。1977年、[[オガデン戦争]]に先だって発生していたエチオピアと[[ソマリア]]の紛争でのことである。再び難民の救援飛行を行っていたローゼンは、1977年7月13日、[[ゴーデ]][[:en:Gode|en]]郊外がソマリア人[[ゲリラ]]の襲撃を受けた際、地上にて殺害された。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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カール・グスタフ・フォン・ローゼン
Carl Gustaf von Rosen
カール・グスタフ・フォン・ローゼン(右)
生誕 (1909-08-19) 1909年8月19日
 スウェーデンセーデルマンランドヘルゲスタ
死没 (1977-07-13) 1977年7月13日(67歳没)
エチオピアの旗 社会主義エチオピアゴーデ
国籍  スウェーデン
職業 飛行家
エリック・フォン・ローゼン
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カール・グスタフ・エリクソン・フォン・ローゼン(Carl Gustaf Ericsson von Rosen、1909年8月19日 - 1977年7月13日)は、スウェーデン貴族飛行家。爵位は伯爵探検家、飛行家のエリック・フォン・ローゼンen:Eric von Rosen)と、マリー・フォン・フォックen:Mary von Rosenヘルマン・ゲーリングの最初の妻カリンの姉)との間に産まれた。

生涯

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若年期

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ローゼンは、スウェーデン、セーデルマンランド地方ヘルゲスタ(Helgesta)に産まれた。

彼は幼いころから機械に興味を持ち、特に航空機に魅せられた。これには、フィンランド空軍設立に足跡を残した父、第一次世界大戦エースで、後にドイツ空軍のトップとなった叔母の夫、ヘルマン・ゲーリングの影響もあっただろうと思われる。ローゼンはまず、整備士としてその航空歴をスタートさせ、後に各地をめぐる空中サーカス団のパイロットに転じた。ここで彼は、後々彼を大いに助ける、アクロバティック飛行のスキルを身につけた。

戦間期から第二次世界大戦

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ダグラスDC-2

ムッソリーニ政権下のイタリア王国エチオピア帝国に進攻すると(第二次エチオピア戦争)、ローゼンは赤十字による救援物資空輸活動に加わった[1]。ローゼンはイタリア空軍による幾度かの攻撃と、厳しい地理環境下を生き残った。

エチオピアでの戦争から帰還すると、彼は世界で最初の民間航空会社であるKLM航空で働くためにオランダに赴き、やがてKLMの一流のパイロットとなった。ローゼンはオランダ人の妻と結婚したが、彼らの幸せな生活は第二次世界大戦の勃発によって終わりを迎える。ソビエト連邦フィンランド進攻を企て、冬戦争が始まると、ローゼンはKLMの職を投げ出し、フィンランドを支援するため義勇兵を志願する。彼はDC-2旅客機を購入して爆撃機に改造。さらに、この「爆撃機」を護衛するためにコールホーフェン社が倉庫に死蔵していたFK52戦闘機を2機購入した。FK52はフィンランド空軍に編入されて活躍し、DC-2改造爆撃機(ハンシン・ユッカ号と名付けられた)は、ローゼンの操縦の下、単独でソ連軍飛行場への爆撃飛行を行った後、輸送機となった。1年後、ドイツがオランダを攻撃すると、彼は今度はイギリスに赴き、イギリス空軍に志願したが、ヘルマン・ゲーリングとの縁戚関係にあることからこれは却下されてしまった。このためローゼンはKLMにもどって、当時危険な空路となっていたロンドンリスボン間の飛行に従事した。

第二次世界大戦後

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戦後、ローゼンはエチオピア空軍の教官として数年を過ごし、その後国連事務総長ダグ・ハマーショルドのパイロットとなった。なお、ハマーショルドがコンゴ動乱の調停中に航空機事故(撃墜説あり)で死亡したのは、ローゼンが病気療養のため地上に降りていた際の出来事だった。

ローゼンとアフリカの関わりは、コンゴ動乱で終わったわけではなかった。7年後、ローゼンはナイジェリアからの独立を宣言したビアフラ共和国を救援する援助団のため、飛行活動を行い国際的な名声を得た(ビアフラ戦争)。この際に、ビアフラに困窮を強い、空軍によって救援飛行にたびたび妨害をくわえてきたナイジェリア政府に対して腹を据えかねたローゼンは、フランス情報当局と協同し、反撃にでることにした。ローゼンは5機のスウェーデン製の単発軽飛行機マルメ MFI-9を入手した。彼はこの飛行機が、戦時には攻撃機としても使えるように設計されていることを知っており、ローゼンはこの飛行機を迷彩色に塗装し、ロケット弾ポッドを取り付けて、仲間の一団とともに、“Babies of Biafra”と呼ばれる航空隊を結成した。そして、ビアフラの民間人を攻撃するナイジェリア空軍機の基地を攻撃することとした。1966年5月22日から数日にわたって、ローゼン率いる5機の飛行隊は、ポートハーコートエヌグほかのナイジェリア空軍飛行場を攻撃、不意をつかれたナイジェリア軍は、数機のMiG-17戦闘機や6機しかないIl-28爆撃機のうち3機など、貴重なジェット機戦力を地上で破壊された[2]

ローゼン伯爵最後の地はやはりアフリカであった。1977年、オガデン戦争に先だって発生していたエチオピアとソマリアの紛争でのことである。再び難民の救援飛行を行っていたローゼンは、1977年7月13日、ゴーデen)郊外がソマリア人ゲリラの襲撃を受けた際、地上にて殺害された。

関連項目

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  1. ^ この活動中にマルセル・ジュノーと出会っている(ジュノーの回想録にローゼンと出会ったことが記されている)
  2. ^ Gary Brecher. Biafra: Killer Cessnas and Crazy Swedes 15 October 2004.

参考文献

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