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'''小山 富士夫'''(こやま ふじお、[[1900年]][[3月24日]] - [[1975年]][[10月7日]])は、[[日本]]の[[陶磁器]]研究者・[[陶芸家]]で、中国陶磁器研究の大家。
'''小山 富士夫'''(こやま ふじお、[[1900年]][[3月24日]] - [[1975年]][[10月7日]])は、[[日本]]の[[陶磁器]]研究者・[[陶芸家]]中国陶磁器研究の大家。


== 歴 ==
[[岡山県]][[浅口郡]]玉島町(現・[[倉敷市]][[玉島地域|玉島]])出身。小山が土を弄(いじ)りだしたのは25歳からで、きっかけは2年前に近衛歩兵第3連隊に1年志願で入隊したとき、同期生の中に陶器好きの岡部長世(岸和田藩主の子孫で国立近代美術館館長・岡部長景〈ながかげ〉子爵の弟)がおり、彼の影響を強く受けたことからである。主に[[鎌倉市]]を拠点にして執筆。[[陶磁器]]研究では、中国[[北宋]]時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、[[岐阜県]][[土岐市]]泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家としても茶器を始め多様な作品を造った。
[[1900年]]([[明治]]33年)3月24日、[[岡山県]][[玉島市]]に生まれ、東京府立第一中学(現・[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]])から[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]](現・[[一橋大学]])に入学したが、[[1923年]]([[大正]]12年)、中途退学、25歳の時に近衛歩兵隊の同期である岡部(小林)長世([[岸和田藩]]主の子孫で国立近代館長・[[岡部長景]]・[[子爵]]の弟)がおり、その影響で古陶磁研究へすすみ、[[1930年]]頃、留学中の[[郭沫若]]と親交を結び、1935年代に中国諸地方の古窯址を踏査、中でも1941年(昭和16年)定窯古窯址を発見した意義は大きかった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=小山冨士夫 :: 東文研アーカイブデータベース|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9777.html|website=www.tobunken.go.jp|accessdate=2020-10-29}}</ref>。[[1943年]](昭和18年)12月、『支那青磁史稿』を発表して高い評価を受ける<ref name=":0" />。戦後は、[[東京国立博物館]]調査員、[[文化財保護委員会]]調査官として陶磁工芸の調査と文化財指定、各種陶磁全集の編集・評論に活躍し、[[1954年]](昭和29年)の『東洋古陶磁』全6巻(美術出版社)は世界数ヶ国語に訳出されたほか、1960年(昭和35年)3月には第10回文部大臣賞芸術選奨を受けた<ref name=":0" />。しかし同年秋、[[永仁の壺事件]]が起こり、翌年に文化財保護委員会事務局を辞任した<ref name=":0" />。毎年、[[神奈川県立近代美術館]]における陶磁器展の企画をはじめ、多くの陶磁器展に参画し、[[根津美術館]]嘱託、神奈川県文化財専門委員、[[出光美術館]]顧問、[[日本工芸会]]副理事長などを歴任した<ref name=":0" />。[[1973年]](昭和48年)[[岐阜県]][[土岐市]]に築窯して作陶生活に入るも、[[1975年]](昭和50年)10月7日、心筋障害のため、自宅にて死去、享年75歳<ref name=":0" />。墓所は[[多磨霊園]](5-1-1-5)。

== 歴 ==
*[[1919年]] [[東京府立第一中学校]](現・[[東京都立日比谷高等学校]])卒業
*[[1923年]] 東京商科大学(現・[[一橋大学]])中退。
*[[1930年]] 東洋陶磁研究所所員となる。
*[[1941年]] 東京帝室博物館(現・[[東京国立博物館]])勤務。
**中国[[河北省]]で「幻の窯」といわれた[[宋 (王朝)|宋]]代の定窯白磁の窯跡を発見。
**[[日本六古窯]]など、忘れさられかけていた各地の古陶磁窯を再評価。
**[[文化財保護委員会]]調査官([[文部省]]技官)としても活躍。
*[[1961年]] [[重要文化財]]に推した「[[永仁の壺事件|永仁の壺]]」が贋作だったことが判明。責任を取って調査官辞任。
*[[1966年]] [[出光美術館]]開館にあたり陶片資料室を設け、各地の窯跡で発掘された陶片を系統的に展示。
*日本陶磁学会や日本工芸会の設立に尽力。
*[[1973年]] 東洋陶磁学会設立、委員長就任。
*[[1975年]] 自宅で心筋障害のため没。享年76。


== 主な著書 ==
== 主な著書 ==
*[[薩摩焼]]の研究 田沢金吾共著 東洋陶磁研究所、1941年復刻版:[[国書刊行会]] 1987年
*[[薩摩焼]]の研究 田沢金吾共著 東洋陶磁研究所、1941年復刻版:[[国書刊行会]] 1987年
*支那青磁史稿(文中堂、1943年)
*支那青磁史稿(文中堂、1943年)
*宋磁(聚楽社、1943年)
*宋磁(聚楽社、1943年)
*やきものの旅 中国・台湾(芸艸堂、1971年、再版1980年)
*日本美術大系6 陶芸(講談社、1960年)、編著
*中国名陶日本経済社、1960年)、編著・大著
*骨董[[]]1977年)- 遺著・大著
*小山富士夫著作集([[朝日新聞社]](上中下)、1977-79年)
*:上巻:中国の陶磁、中巻:日本の陶磁、下巻:朝鮮の陶磁ほか
*徳利と酒盃・漁陶紀行 小山富士夫随筆集([[講談社文芸文庫]]、2006年)
;編著
*日本美術大系 6 陶芸([[講談社]]、1960年)
*中国名陶([[日本経済社]]、1960年)、大著
*東洋古陶磁([[美術出版社]]、1961年)、大著
*東洋古陶磁([[美術出版社]]、1961年)、大著
*日本名陶百選(日本経済新聞社、1962年)、編著・大著
*日本名陶百選(日本経済新聞社、1962年)、大著
*日本の陶磁([[中央公論美術出版]] 1962年、改訂版1969年) 
*日本の陶磁([[中央公論美術出版]] 1962年、改訂版1969年、1985年) 
*日本陶磁の伝統([[淡交社]]、1967年)、大著
*日本陶磁の伝統([[淡交社]]、1967年)、大著
*日本陶磁総覧 (淡交社、1969年)、編著
*日本陶磁総覧 (淡交社、1969年)
*やきもの旅 中国・台湾、芸艸 1971年再版1980年)
*日本美術76 三彩至文堂、19729月号、小著
*「図説茶道大系5 茶の美術と工芸」野間清六共編、角川書店、1974年
*日本の美術76 三彩(至文堂、1972年9月号)、編著
*「陶磁大系38 天目」(平凡社)、同シリーズは全48冊
*「陶磁大系38 天目」(平凡社)、同シリーズは全48冊
*「陶磁大系36 [[青磁]]」([[平凡社]])
*「陶磁大系36 [[青磁]]」([[平凡社]])。他にも多くの企画に関わった
*「図説茶道大系5 茶の美術と工芸」野間清六共編、角川書店、1974年。他にもいくつかの編著に関わった
*骨董([[新社]]、1977年)、遺著・大著
*小山富士夫著作集(上中下)([[朝日新聞社]]、1977-79年)
**上巻 中国の陶磁
**中巻 日本の陶磁
**下巻 朝鮮の陶磁ほか
*徳利と酒盃・漁陶紀行 小山富士夫随筆集([[講談社文芸文庫]]、2006年)


=== 作家論・作品図録 ===
=== 作家論・作品図録 ===
*「小山富士夫の世界」里文出版、1981年※47名による追悼文集
*「小山富士夫の世界」里文出版、1981年 - ※47名による追悼文集
*「目の眼 特集 生誕100年小山冨士夫の人と作陶2001年1月号、里文出版
*浅野博行笑って答えず 評伝・小山冨士夫」里文出版、2021年
*「目の眼 特集 生誕100年 小山冨士夫の人と作陶」2001年1月号、里文出版
*「図録 小山冨士夫陶芸展」高島屋、[[日本経済新聞社]]ほか、1983年
*「図録 陶の詩人 小山冨士夫の眼と技」[[日新聞]]ほか、2003
*「図録 小山冨士夫陶芸展高島屋、[[日本経済新聞]]ほか、1983
*「図録 特別展小山冨士夫 陶に生きる岡山県立美術館2001
*「図録 陶の詩人 小山冨士夫の眼と技[[朝日新聞]]社ほか2003
*「図録 特別展小山冨士夫 陶に生きる」[[岡山県立美術館]]、2001年
*「炎芸術 特集 やきもの賛歌 陶芸家小山富士夫」(季刊85号) 阿部出版、2006年2月
*「炎芸術 特集 やきもの賛歌 陶芸家小山富士夫」(季刊85号) 阿部出版、2006年2月

== 脚注 ==
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== 関連人物 ==
== 関連人物 ==
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*[[白崎秀雄]]
*[[白崎秀雄]]
*[[三輪休和]]
*[[三輪休和]]
*[[三上次男]]
*[[斎藤十一]] -「[[芸術新潮|藝術新潮]]」を創刊
*[[岡部長世]]
*[[岡部長世]]
*西岡小十


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[[Category:20世紀のセラミック工芸家]]
[[Category:日本のセラミック工芸家]]
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[[Category:東京国立博物館の人物]]
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[[Category:1975年没]]
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2024年6月26日 (水) 23:49時点における最新版

小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本陶磁器研究者・陶芸家。中国陶磁器研究の大家。

来歴[編集]

1900年明治33年)3月24日、岡山県玉島市に生まれ、東京府立第一中学(現・日比谷高校)から東京商科大学(現・一橋大学)に入学したが、1923年大正12年)、中途退学、25歳の時に近衛歩兵隊の同期である岡部(小林)長世(岸和田藩主の子孫で国立近代館長・岡部長景子爵の弟)がおり、その影響で古陶磁研究へすすみ、1930年頃、留学中の郭沫若と親交を結び、1935年代に中国諸地方の古窯址を踏査、中でも1941年(昭和16年)定窯古窯址を発見した意義は大きかった[1]1943年(昭和18年)12月、『支那青磁史稿』を発表して高い評価を受ける[1]。戦後は、東京国立博物館調査員、文化財保護委員会調査官として陶磁工芸の調査と文化財指定、各種陶磁全集の編集・評論に活躍し、1954年(昭和29年)の『東洋古陶磁』全6巻(美術出版社)は世界数ヶ国語に訳出されたほか、1960年(昭和35年)3月には第10回文部大臣賞芸術選奨を受けた[1]。しかし同年秋、永仁の壺事件が起こり、翌年に文化財保護委員会事務局を辞任した[1]。毎年、神奈川県立近代美術館における陶磁器展の企画をはじめ、多くの陶磁器展に参画し、根津美術館嘱託、神奈川県文化財専門委員、出光美術館顧問、日本工芸会副理事長などを歴任した[1]1973年(昭和48年)岐阜県土岐市に築窯して作陶生活に入るも、1975年(昭和50年)10月7日、心筋障害のため、自宅にて死去、享年75歳[1]。墓所は多磨霊園(5-1-1-5)。

主な著書[編集]

  • 薩摩焼の研究 田沢金吾共著 東洋陶磁研究所、1941年(復刻版:国書刊行会 1987年)
  • 支那青磁史稿(文中堂、1943年)
  • 宋磁(聚楽社、1943年)
  • やきものの旅 中国・台湾(芸艸堂、1971年、再版1980年)
  • 骨董百話(新潮社、1977年)- 遺著・大著
  • 小山富士夫著作集(朝日新聞社(上中下)、1977-79年)
    上巻:中国の陶磁、中巻:日本の陶磁、下巻:朝鮮の陶磁ほか
  • 徳利と酒盃・漁陶紀行 小山富士夫随筆集(講談社文芸文庫、2006年)
編著
  • 日本美術大系 6 陶芸(講談社、1960年)
  • 中国名陶百選(日本経済新聞社、1960年)、大著
  • 東洋古陶磁(美術出版社、1961年)、大著
  • 日本名陶百選(日本経済新聞社、1962年)、大著
  • 日本の陶磁(中央公論美術出版 1962年、改訂版1969年、1985年) 
  • 日本陶磁の伝統(淡交社、1967年)、大著
  • 日本陶磁総覧 (淡交社、1969年)
  • 日本の美術76 三彩(至文堂、1972年9月号)、小著
  • 「図説茶道大系5 茶の美術と工芸」野間清六共編、角川書店、1974年
  • 「陶磁大系38 天目」(平凡社)、同シリーズは全48冊
  • 「陶磁大系36 青磁」(平凡社)。他にも多くの企画に関わった

作家論・作品図録[編集]

  • 「小山富士夫の世界」里文出版、1981年 - ※47名による追悼文集
  • 浅野博行「笑って答えず 評伝・小山冨士夫」里文出版、2021年
  • 「目の眼 特集 生誕100年 小山冨士夫の人と作陶」2001年1月号、里文出版
  • 「図録 小山冨士夫陶芸展」高島屋、日本経済新聞社ほか、1983年
  • 「図録 陶の詩人 小山冨士夫の眼と技」朝日新聞社ほか、2003年
  • 「図録 特別展小山冨士夫 陶に生きる」岡山県立美術館、2001年
  • 「炎芸術 特集 やきもの賛歌 陶芸家小山富士夫」(季刊85号) 阿部出版、2006年2月

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 小山冨士夫 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2020年10月29日閲覧。

関連人物[編集]